カテゴリー: 瀧澤 一寛(たきさわ かずひろ)

  • メッセージを生かしていく⑥

     

    「息」の変化も、原始感覚でキャッチできる「圧」の変化。

     

    とおるところにとおる。

     

    ながれるところにながれる。

     

    つながるところにつながる。

     

    かさなるところにかさなる。

     

    みちるところにみちる。

     

    原始感覚ですから、ニュアンス的なことは、体感してキャッチしていくんです。

     

    それがよりよく生きること(快)につながっていると、積み重ねてきた実感は教えてくれます。

     

    それは、「うごき」にも言えることで、何度も、丁寧に、確かな感触になっていくように継続していく。

     

    「生命」の観点から、立つべきところに軸が立つようになってくれば、「こころ」の迷いや縛りにも変化が感じられるようになってくる。

     

    そんな中、最近想うこと。

     

    それは、わたしたちが「思考」と呼んでいるはたらきも、よりよく生きる生かし方があるんじゃないかということです。

     

    ときに、「思考」にとらわれたり、縛られたりするのは、「思考」だけのはたらきになってしまうからであって、それは全身体性に適っていないから。

     

    大切なのは「ながれ」や「比率」であって、「からだ」のそれぞれのはたらきが全身体性に調和していけば、「思考」は別の形で昇華され、より「いのち」に対しての理解が深まっていくように感じています。

     

    つまりは、思考を介さず、素直に「からだからのメッセージ」を受け取ること。

     

    そして、メッセージによって体感したことをもとに、その背景にあることに想いを馳せ、問い続け、応え続けられるように考えること。

     

    ここに「想念」の素があるようにおもうんです。

  • メッセージを生かしていく⑤

     

    朝、目が覚めるとき、「呼吸」のとおり具合を確認する。

     

    いつからか、自然と習慣になってきたことです。

     

    吸気が鼻腔をとおって入ってくる。

     

    背中側や体側がふくらんでくる。

     

    「からだ」の「くうかん」に満ちてくる。

     

    「息」の変化も原始感覚でキャッチする。

     

    「息がしやすい」と感じていると、「からだ」も「こころ」も「うごき」も「いしき」も軽い。

     

    それは「快」につながる「息」からのメッセージ。

     

    そんなふうに感じられるときもあれば、鼻が詰まっていたり、胸やお腹の方に意識がいったり、そもそも呼吸自体が浅いときもあって、いつも同じように感じられるとは限りません。

     

    「息がしやすい」ときもあれば、「息がしにくい」ときもあります。

     

    「軽い」と感じるときもあれば、「重い」と感じるときもあります。

     

    けれども、そういったときもあるからこそ、「息」の変化をとおして、「からだ」や「こころ」を安定した状態に導き、健康維持増進に生かしていくことができる。

     

    確かな感触になってきています。

  • メッセージを生かしていく④

     

     

    「不快」につながるような「感覚」。

     

    例えば、「痛み」なんかもそうですね。

     

    なんでこんな「痛み」にとらわれなければいけないんだろう。

     

    「痛み」なんか早くなくなってくれればいいのに。

     

    以前はよく運動中にケガをして痛めることが多かったのですが、こんなふうにどこか「たにんごと」のように感じていた「自分」がいました。

     

    臨床に携わるようになり、患者さんの「痛み」とは向き合っていても、いざ「自分」のこととなると、その「痛み」の背景にあることにはあまり意識が向いていなかったというのが正直なところです。

     

    「痛み」さえとれればいい、それは当時の臨床観にも通じていました。

     

    それが「操体」を学ぶようになると、不思議なもので、どこか「たにんごと」だった「痛み」が、「じぶんごと」として感じられるようになってきたんです。

     

    「自分」の観点でしか物事を捉えられていなかったときは「たにんごと」だったのに、「からだ」の観点で捉えられるようになってくると「じぶんごと」になってくる。

     

    「からだごと」があっての「じぶんごと」、それは、自分勝手の「自分ごと」とはまるで違うこと。

     

    「痛み」という「感覚」に限らず、「からだ」から「じぶん」というメッセージの「ながれ」を素直に受け取れるようになっていけば、想念の在り方もおのずと変化してくる。

     

    そのメッセージの背景にあることに意識が向いてくれば、「からだ」、そして、「じぶん」を生かしてくれている法則性に気づいて、「こころ」も安定してくるのではないかと感じています。

     

  • メッセージを生かしていく③

     

    「操体」で大事にしている「からだからのメッセージ」。

     

    それは、「感覚」という、わたしたちがよりよく生きていくために必要なメッセージです。

     

    それをある種の「情報」と捉えることもできますが、「メッセージ」として受け取るのでなければ、単に「感覚」を対象化して眺めたリ、あるいは、「思考」で意味づけをして処理してしまう。

     

    特に「不快」につながるような「感覚」は、そのような傾向が多いように思えます。

     

    ただ、臨床の場で体感するのは、そういった「感覚」の捉え方が変化していくということです。

     

    はじめは「不快」な「感覚」をネガティブに捉え、「不快」という枠に閉じ込めたり、もっとひどくなるんじゃないかと妄想苦につながっていたのが、「からだ」の観点になると受け入れられるようになってくる。

     

    「からだ」の観点から受け入れられるようになってくると、意識の振り子が「不快」から「快」に転じていくプロセスも起こってくる。

     

    そういった変化に立ち会うとき、「感覚」を「メッセージ」として受け取るようになってきているんだなと、「からだ」にも「こころ」にも響いてくるんです。

  • メッセージを生かしていく②

     

    「じぶんごと」、「からだごと」、「くうかんごと」が重なってくると、「メッセージ」として届いてくるものに気づきやすくなる。

     

    感覚的な表現になってしまうようなことも、実際に体感すると、妙に腑に落ちてくるんです。

     

    例えば、臨床の場において、患者さんから抱えている症状が発症する機序やどう対応していったらいいのか、訊かれることってありますよね。

     

    操体臨床においても、操体の観点からお伝えすることがありますが、言葉だけだとなかなか点と点が線でつながらず、理解に及ばないこともあります。

     

    そんなときは、「言葉で伝えること」を「からだに伝えること」に切り替える。

     

    操体臨床は、「思考」で理解しようとする意識をとばして、「からだ」に直接伝えていきます。

     

    臨床後、ふと、昔の記憶を思い出して語ってくださったり、部屋に飾ってある師の色紙に目がいって読んでくださったりすることがあります。

     

    それがきっかけで、はじめはつながらなかった点と点が線でつながっていくことがあるんです。

     

    点と点をつないでくれたのは、「思考」による「言葉」の理解ではなく、「からだ」に伝わった接触感覚による振動意識、つまりは「からだからのメッセージ」。

     

    「からだからのメッセージ」によって「想念」は変化し、新たに「ことば」も生まれてくるし、周囲に向く意識も変わってくる。

     

    それは新たな「メッセージ」に気づくことにもつながります。

     

    このような場を体感していると、「メッセージ」をとおして、「じぶんごと」、「からだごと」、「くうかんごと」が重なってくるプロセスが「操体」にはあるんだなあ、と確かに感じられるのです。

  • メッセージを生かしていく①

     

    岡村さん、一週間のメッセージありがとうございます。

     

    心の振動により、テーマ「フリー」を引き継ぐ瀧澤です。

    今日から一週間よろしくお願い致します。

     

     

    からだが「くうかん」であればこそ、その「くうかん」に響くように、伝わっていく「ことば」はある。

     

    最近は、そういった「ことば」を含めて、届いてくる情報を受け取るときに、情報とメッセージの違いにふれる機会が増えてきました。

     

    感覚的な表現になりますが、「メッセージ」とは、伝わってくる「ながれ」によって直にふれている「感覚」を味わわせてくれるもの。

     

    それは、単に知識として情報を得るということとは全く別次元のできごとです。

     

    わたしたちは、ことあるごとにメッセージに触れているし、振れている、そうおもえる確かな感触があります。

     

    その確かな感触は、接触感覚による振動意識であればこそ、生まれてくるものであり、故に共振し、共感し、感動することも、感謝することもできる。

     

    そんなふうに想うのも、「操体」を継続して学んでいると、「じぶんごと」、「からだごと」、「くうかんごと」として物事と向き合い、その背後にある成り立ちにさえ意識が向くようになってくるからです。

     

    「じぶんごと」、「からだごと」、「くうかんごと」が重なってくると、「メッセージ」として届いてくるものに気づきやすくなる。

     

    その継続は、届いたメッセージを生かしていくことにもつながっていきます。

  • フリー(free)⑦

     

     

    「からだ」そのものへの理解を深めながら、自分たちを生かしてくれていることにもふれられる操体の学びがあります。

     

    臨床や生活といったそれぞれの場で区切られることのない健康学を体感していると、「からだ」を主語とした感覚意識の世界は、「生命」としての自分とは何だろう、という問いを与えてくれるように感じています。

     

    「自分が」ではなく、「からだ主語」の感覚意識でふれていく「快」の感触は、法則性を、生かされているということを自覚させてくれます。

     

    それは、「これまで」の学びも大事にしながら、そこにとどまることなく、「これから」の眼差しをいただいているというきもちにもさせてくれるんです。

     

     

    「からだ」の中心と重心の捉え方が変わる。

     

     

    新たに感じられる感覚に気づいていくこと、それは、新鮮に感じられることも、「からだ」の記憶につながっていると感じられることもある。

     

    エネルギーやながれといった現象を生みだしてくれている「素」へとつながる想いは、感謝と同質になり、感覚優位の表現を体現していくことと、健康維持増進を体現していくことが重なっていく。

     

    それは、「からだ」にとっても、「こころ」にとっても、「息がしやすい」軽さへと、つながっていくメッセージでもあるのではないでしょうか。

     

     

    一週間お付き合いいただきましてありがとうございました。

     

    明日からは寺本さんにバトンが渡ります。

     

    どうぞ、お愉しみに。

     

  • フリー(free)⑥

     

    植物、特に樹を見ていると、自然体律位と重なってきます。

     

    むしろ、自然体律位によって樹と重なるのを感じるといった方がしっくりくる。

     

    その場にとどまる植物にとっての「その場」とはなんなのかというように、目には見えないつながりをも感じとっているとき、「その場」という環境の捉え方も、「からだ」で共振することを教えてくれます。

     

    環境からのエネルギーのながれを、非対称性の「人」として受け取り、それが循環して巡るとき、「からだ」主体になっていく確かな感触があります。

     

     

    「からだ」は、左右対称の構造(つくり)があり、それが動いている。

     

    長いこと、それにとらわれていたような気がします。

     

    先にそのような形があって、決められた動きがあって、それを頭の中でイメージし、再現する。

     

    こういった学習によって発揮されるパフォーマンスと、「からだ」が主語になり、「からだ」がききわけていることを素直に受け取ることで表現されてくることの違い。

     

    どちらをとるかといった選択的なことではなく、「からだ」そのものの理解を深めながら、自分たちを生かしてくれていることにもふれられる操体の学びの中で、その違いを感じています。

     

  • フリー(free)⑤

     

    先日、ある新聞の記事が目に留まりました。

     

    白神山地のシンボルになっている推定樹齢400年のブナが枯死したというものです。

     

    数年前の台風の影響で、「マザーツリー」と呼ばれるその樹は、幹が折れ、衰えが進行し、今春の芽吹きが確認できなかったために、樹木医に枯死と判断されたそうです。

     

    記事には、台風以前の葉が生い茂っていたころの写真と、現在の枯死と判断された写真が並んで載っていました。

     

    その写真を見たとき、この樹が枯死しているとは思えませんでした。

     

     

    まだ生き続けている。

     

    この樹はまだ何か表現し続けている。

     

     

    そんなふうに感じたんです。

     

     

    その姿は、昨日ふれた自然体律位と重なっていました。

     

  • フリー(free)④

     

    不調を感じているときは、「からだ」と「自分」がずれている。

     

    「からだ」がおかしいわけではないんだなって思うようになったのも操体に出会ってからです。

     

     

    どうして「からだ」と「自分」はずれていくのか、体感して気づくのは意識の使い方にありました。

     

    思考意識になっているときって、本当に「からだ」がおいてけぼりになっている。

     

    「自分の思考」が主語になっていると、「からだ」にとって必要なことは何なのか分からなくなってくる。

     

     

    操体を学び始めてから、「からだにききわける」ということを知り、「からだ」にはからだの意志があり、「からだ」は「快」を要求しているということを、臨床や生活の中で「からだ」の変化をもって体感してきました。

     

    「からだ」に意識を向け、「からだ」にききわけ、「快」を共有していくと、「からだ」と自分のずれは少なくなり、不調は解消され、健康維持増進に向かっていく。

     

    そこには思考意識ではふれられなかった意識感覚の世界がありました。

     

     

    そして今、重心の適正化において、感覚意識の世界にふれています。

     

    「からだ」がききわけていることを素直に感じて委ねていくこと。

     

    それは、スイッチが切り替わるように「からだ」が主語になっていくのですが、それを可能にしてくれるのが自然体律位という立ち方です。

     

    自然体律位と、それに通ずる自分たちを生かしてくれているものの生かし方によって、「からだ」と「自分」のずれが一つの線に重なってくると、「からだからのメッセージ」を受け取りやすくなる。

     

    感覚優位で表現されるいのちの営みへとつながっていきます。