カテゴリー: 瀧澤 一寛(たきさわ かずひろ)

  • フリー(Free)③

     

    操体を学ぶ以前は、臨床に携わっていても、いかに症状を改善できるか、ということばかりに意識が向いていたんです。

     

    その為には、テクニック(術)を身につけていくことが必須だと思っていました。

     

    自然治癒力という言葉も知ってはいましたけど、今一つピンときていなかった。

     

    それで、操体を学ぶようになって気づくんです、思考意識で臨床に関わっていたんだなって。

     

    思考意識で再現性の世界を求めていたんです。

     

    テクニック(術)があれば、それが可能だと思い続けていた。

     

     

    でも、「からだ」はもっと解放された存在で、表現の世界に生きているんです。

     

    「生きる限り快適に満足して充分に生きたし」という生きる姿勢を可能にするのは、感覚意識で「からだ」の表現に気づいていくこと。

     

    そうすると、臨床の関わり方も「からだ」が主語に変わってくるし、「からだ」がききわけていることに委ねるという点において、臨床と生活の垣根もなくなってくる。

     

     

    向かい合うべきは「からだ」と、その「からだ」がききわけていること。

     

    そういうことを今、操体をとおして学んでいます。

     

  • フリー(free)②

     

    昨日の続きですけど、「ことば」も「呼吸」もリズムだなって感じるんです。

     

    すっと入ってくることもあれば、ふっと抜けたりすることもある。

     

    受け取ってからの「間(ま)」もあって、こんなふうに伝わっていくんだなという確かな感触がある。

     

    その伝わり方は、刻む時間の長さとは関係ないし、コントロールされたものとも違う。

     

     

    感覚意識になっていると、上手い、下手って気にならなくなってくるんです。

     

    それよりも、からだがききわけているリズムになっているかどうか。

     

    「こうしなきゃ」っていう思考が外れると、感覚優位のリズムで表現されてくる。

     

     

    ゆっくり。

     

    じっくり。

     

    しっくり。

     

     

    空間を介して、「からだ」と「からだ」を行き来する。

     

     

    そのようなことを体感していると、いのちの可能性が広がってくると感じられるんです。

     

  • フリー(free)①

     

    岡村さん、一週間のメッセージ

    ありがとうございます。

     

    今日からテーマ「フリー(free)」を引き継ぐ瀧澤です。

    よろしくお願い致します。

     

     

    共振して連鎖する感覚意識の「ことば」って「からだ」に届くんです。

     

     

    思考や嗜好のフィルターなんか全然機能しなくなって、もっと深いところにすっと入ってくる。

     

    それでいて、思考や嗜好のもっと手前で、それこそ、「ふれる」瞬間に素で受け取っている。

     

    志向は「からだ」と共感して重なってくるから、「からだ」がききわけていることとして、素直に委ねられる。

     

     

    呼吸と一緒。

     

     

    「ことばが入ってくる」実感と、「息(そく)が入ってくる」実感は重なるんです。

     

    どちらも、「からだ」の内部と外部を循環しながら往来する。

     

    境目でふれているから、「圧」だって生じる。

     

    「感じられる」とか「響いてくる」とか「残っている」とか、メッセージの指向は「からだ」からだから。

     

     

    感覚意識になっていると、「ことば」も「呼吸」も元は同じとおもえてくる。

     

    自分たちを生かしてくれている素として伝わってくる。

     

  • 臨床と生活にいかす「操体法」⑦

     

    臨床の場ではいつも、その人の人生に関わらせていただいていると感じています。

     

    からだのご縁をいただいて、操者と被験者、それぞれの人生が交差しているその交差点で、からだがききわけている「快」を共有していく。

     

    実際にやってみてどんなふうに感じられるのか、続けてみてどんなふうに感じられるようになっていくのか。

     

    「自分」が基準では感じられないことも、「からだ」が基準になると感じられるようになってくることがある。

     

    それぞれの生活の場であっても、それは一緒です。

     

     

    初日に、だれだって呼吸はするし、ごはんも食べるし、からだを動かしたり、言葉(ジェスチャーも含めて)を発したりして生きているでしょう? と書きました。

     

    環境の捉え方をシンプルにして「からだ」を基準にしていけば、おのずと、これらの営みも「自分」の営みから「からだ」の営みになっていく。

     

    操体法をとおしてそのようなことを伝えられるのも、臨床の場で交差しているのはお互いの人生だけではないからです。

     

     

    操体臨床で交差しているもう一つの線、それは、「生命」の自覚につながる縦軸の線です。

     

    生活の場に戻っても、この縦軸の線とつながっていけば、そこは「からだがききわけている」空間となって、「自分」の意識と「からだ」の意識は重なっていけるようになる。

     

    「自分」と「からだ」の違いに気づくことからはじまり、「からだ」と「自分」のいい関係で続いていく健康維持増進が具現化していく。

     

     

    こういったことを日々、からだからのメッセージとしていただいていると、方法としての操体法ではなく、法則を感じとっていく操体法、と捉えるほうがしっくりくると感じられてくるのです。

     

     

    一週間お付き合いいただき、ありがとうございました。

     

    春のフォーラムでも、縦軸が交差する空間でお会いできますように。

     

     

    バトンは寺本さんに引き継がれますのでよろしくお願い致します。

     

    明日からもどうぞお愉しみに。

     

     

     

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  • 臨床と生活にいかす「操体法」⑥

     

    臨床空間と生活空間を分けずに、からだがききわけている健康空間として捉えてみること。

     

     

    法則性によって表現されている「からだ」の呼吸やうごきをとおして、その「リズム」や「間」を感じ、「からだ」と「快」を共有していくこと。

     

     

    「自分」の生活意識の中に、もともとあった「生命」としての意識が芽生えたら、立ち上がってくるまで育んでいくこと。

     

     

    「生かされている」という実感が生まれたら、発する「ことば」の変化を感じてみること。

     

     

    発する「ことば」の中に「感謝」の念を感じたら、何に対しての感謝なのか、想いを馳せてみること。

     

     

    空間や「からだ」に親しみを感じるようになったら、そこから届けられるメッセージを素直に受け取ってみること。

     

     

    ちょっとずつでも自分ごととして健康維持増進をつかんでいくこと。

     

     

    操体をとおして感じられることが未来につながるライフストーリーの中にいきてくる。

     

    そのきっかけになれたら幸いです。

     

     

     

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  • 臨床と生活にいかす「操体法」⑤

     

    操体臨床でみているものは、症状・疾患を生みだしている火元であり、さらにその火元を生みだしている火種です。

     

    その火種とは何を指し、そもそも、なぜ火種は生まれるのでしょうか。

     

     

    アプローチ以前に、その問いにつながる目線と意識をもつことは必要です。

     

     

    例えば、歩くときや靴を履くときに踏み出す足、荷物に手を伸ばすときの手、話しているときのジェスチャーなどといった何気ない動作。

     

    また、わたしたちが指導するにあたって大切にしている「立ち」の作法。

     

    こういったうごきの中で、ゆるむところはゆるんでいるのか、のびるところはのびているのか、浮くところは浮いているのか、接するところは接しているのか。

     

    つまり、「自分」のうごきになっているのか、「からだ」のうごきになっているのか、ということも火種につながってきます。

     

     

    臨床の変化としてみているのは、いかに「自分」から「からだ」へのスイッチが入り、「からだ」のうごきになっているかどうか。

     

    それは、正当なからだの使い方にかなっているかどうか、ということでもあります。

     

    こういった変化も「息がしやすい」という感覚と同様に、「からだがききわけている快」として、「自分」にとっても「快」であると感じられてくるものです。

     

     

    臨床空間においても、生活空間においても、基準は「からだがききわけている快」であること。

     

    それが基準となれば、臨床空間と生活空間を分ける必要はなくなり、からだがききわけている健康空間として捉えられるようになってくると感じています。

     

     

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  • 臨床と生活にいかす「操体法」④

     

    鼻腔をとおして、十分に息が吸え、呼吸が循環していくこと。

     

    「息がしやすい」という感覚は、空間とからだをつなぐ呼吸からのメッセージでもあり、「からだ」にとっても、「自分」にとっても「快」であると感じられてくるもの。

     

    臨床においては、操者自身がまずそのことを感じ取れているかどうかが重要です。

     

     

    前回のブログでは一つの例として、頭の向きによっては「感じがいい」とからだにききわけられる向きがあり、その向きは「息がしやすい」向きでもある、ということを書きました。

     

    これは、臨床の場でこれからやろうとしていることがほんとうにからだの要求にかなっていることなのか、という問いに応えていく一つの姿勢でもありますし、生活の場にもつながっていることでもあります。

     

     

    こういったことは、症状・疾患だけに意識を向けていてはみえてきません。

     

    操体臨床でみているものは、症状・疾患を生みだしている火元であり、さらにその火元を生みだしている火種です。

     

     

    火種に気づいていくこと。

     

    火種が解消されていくこと。

     

    なるべく火種をつくらないこと。

     

     

    臨床空間から生活空間に戻っても、「からだ」がやってほしいことと、「自分」のやっていることが重なっているかどうか。

     

    呼吸に意識を向けてみれば、「息がしやすい」ということも一つの目安となるのです。

     

     

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  • 臨床と生活にいかす「操体法」③

    呼吸はわたしたちが生きるうえで欠かすことのできない営みだけれど、同時に環境とからだをつないでくれているメッセージでもある。

     

    そんなふうに受け取ることができるのも、「自分」の呼吸ではなく、「からだ」の呼吸に気づけるようになるからです。

     

     

    今月末に開催される春季東京操体フォーラムでは発表の機会をいただいており、「アプローチの前にできること」というテーマで準備を進めています。

     

    どうしてこのようなテーマを設けたのかといいますと、一つには臨床において常に問い続けていることがあるからです。

     

    それは、臨床の場でこれからやろうとしていることがほんとうにからだの要求にかなっていることなのか? という問いです。

     

    操体法は、被験者(患者さん)のしてほしいことや、操者(施術者)のやりたいことで臨床が成り立っているわけではないんです。

     

    操体臨床を成り立たせてくれているのは、臨床空間という環境そのものと、からだの要求にかなうこと。

     

    そして、その基準において、「息がしやすい」という感覚が大切になってきます。

     

     

    操者自身が鼻腔をとおして、十分に息が吸え、呼吸が循環していくこと。

     

    それによって被験者自身も鼻腔をとおして、十分に息が吸え、呼吸が循環していくこと。

     

     

    臨床空間という環境の中、呼吸の変化を感じとっていくことに必要なことは、特別なアプローチやテクニックではありません。

     

    環境とからだをつないでくれているメッセージとして、呼吸そのものの「性」を「からだ」の呼吸として素直に受け取ることです。

     

     

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  • 臨床と生活にいかす「操体法」②

    臨床や生活の場で、わたしたちを生かしてくれている法則性を感じとっていくこと。

     

    その姿勢は健康維持増進そのものである、と強く感じています。

     

     

    昨日は師や同志たちと学ぶ機会があり、先ほど久慈に戻ってきました。

     

    帰りのバスの中で改めて思ったことは、操体法は感覚的なことを大切にしているけれど、その感覚とは「からだ」がききわけている感覚、ということです。

     

    「自分」の感覚ではなく、「からだ」がききわけている感覚を基準にしているから、臨床や生活の場はそれぞれ違っていても、そこで感じとっていることはちゃんとつながっているし、重なっていると共感できるんです。

     

     

    これは「環境」の捉え方にもつながってくることです。

     

     

    前回のブログで、「からだがききわけている環境」という捉え方になってくると、環境がよりシンプルに感じられるようになってくるのでは、ということを書きました。

     

    それは、「からだ」がききわけている感覚が基準になると、今まで分けて考えていたことが、分けて考えなくてもよくなってくるという実感によるものでした。

     

    「からだ」がほんとうに要求していることはなんだろう?

     

    この問いを持ち続けていれば、それぞれの場においても、向き合う環境はおのずと感じられてくるし、それは自分にとっても大切なこととして受け取れるようになってくる。

     

     

    その環境とからだをつないでくれているメッセージの一つに呼吸があるのですが、続きは明日にしようと思います。

     

     

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  • 臨床と生活にいかす「操体法」①

    岡村さん

    一週間のメッセージありがとうございました。

     

    今週担当の瀧澤です。

    引き続きテーマは「臨床と生活にいかす操体法」です。

    よろしくお願い致します。

     

     

    操体法の「法」は、方法の「法」ではなく、法則の「「法」。

     

    学びの中で何度となく耳にし、最近では強くこのことを感じるようになってきました。

     

    それもあって、春のフォーラムのテーマでもある「臨床と生活にいかす操体法」は、臨床と生活にいかす方法として操体法を身につけるというより、操体法をとおして法則を感じとっていくことが、臨床や生活をいかしてくれる、と捉えるほうがしっくりくると感じています。

     

     

    法則というと少し強い語感がありますが、操体法は特殊なことをしているわけではありません。

     

    初めて耳にしたり、体感していただく方の中には、特別なことのように感じられることもあるかもしれませんが、だれだって、呼吸はするし、ごはんも食べるし、からだを動かしたり、言葉(ジェスチャーも含めて)を発したりして生きているでしょう?

     

    そのだれもが当たり前のようにやっていることを掘り下げて、健康学として実践できると伝えているのが操体です。

     

    それも、橋本敬三医師から三浦寛理事長へとつながるながれがあって、操体という学問の中で操体法は進化してきています。

     

     

    呼吸一つとっても、随分と捉え方が変わってきました。

     

    健康にいかすということで、以前は鍛錬的な要素が強かったけれど、今は感覚的な呼吸として受け取れるようになってきている。

     

    「自分」の呼吸としてではなく、「からだ」の呼吸として感じとっていけば、健康維持増進につながるメッセージとして受け取ることもできるようになってくる。

     

     

    呼吸は大事。

     

    ずっと言われつづけていることだけれど、どんなふうに大事なのか。

     

    その中身を感じとっていくことが大事だとおもうんです。

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