カテゴリー: 瀧澤 一寛(たきさわ かずひろ)

  • からだはききわけている⑦

    今日で最終日となります。

     

    臨床や生活で実践しながら「からだ」と共に感じとっていることを、一日一日とブログに書いてきました。

     

    「自然法則」はあたまで理解していくものではなく、実際に試してみて、「そうなるようになっている」という実感の積み重ねによって、身近に感じられるようになってくるもの。

     

    ちょっとした変化に気づいていくこと。

     

    ちょっとずつでも継続していくこと。

     

    「からだ」からいただいていることです。

     

     

    わたしたちはうごくいきものです。

     

    うごく、ということは、常に変化し続けているということです。

     

    「からだのうごき」をとおして、正当なからだの使い方を身につけていくことは、常に変化している「からだ」や「空間」に気づいていくこと。

     

    意識もまた正当なからだの使い方にかなうよう育んでいくことができる。

     

    そのような意識は、目に見えないことにも親しみを感じさせてくれる。

     

     

    最後に最近感じている「言葉」について。

     

    加齢や抱えている疾患によっては、以前できていたことができなくなることもあります。

     

    「もう治らない」「なんでできないんだ」という周りからの言葉の縛り。

     

    「わたしにはできない」「できないのはダメだ」という自分の言葉の縛り。

     

    様々な事情があり、そのように思ってしまうきもちも理解できますが、いのちの可能性を縛ってほしくはないと思います。

     

    言葉もまた空間に伝わっていくものです。

     

    それをちゃんとからだはききわけています。

     

    臨床で、強ばっていたからだがすーっとゆるんでいくのを感じていると、このような縛りから解放させてくれるのが「からだのうごき」なんだとおもえてくる。

     

    ちょっとずつでも、いのちが悦ぶ方向にながれ、循環していくように、呼吸もうごきも、言葉も空間の中で生かしていく。

     

    その生かし方を操体では伝え続けているのです。

     

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

     

    明日からは寺本さんになります。

    どうぞ、お愉しみに。

     

     

     

    2024年春季東京操体フォーラム開催致します。

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  • からだはききわけている⑥

    からだがききわけている環境において、空間と想念は深くつながり、感謝はそこから生まれてくる。

     

    生かされている実感を積み重ねることで、このような意識になっていくのも、健康維持増進における想念の変化だと思います。

     

    生かされている実感は、何も特別な体験を必要とするわけではありません。

     

    普段当たり前のように行っていることの中で、「ちょっと」ずつでも「からだからのメッセージ」を感じとっていくことです。

     

    つい先日も、臨床後に「以前は体調が良いとか、悪いとかしか分からなかったけれど、最近は(趣味で)絵を描こうとしたときに、手に力が入って強ばっていることに気づくときもあって、そんなときは無理してやらなくなりました」というようなことを話してくださった方がいました。

     

    症状として感じられる手前で、ちょっとしたからだの変化に気づいていく。

     

    そういった気づきが、直ぐに生かされている実感につながらなくても、ちょっとずつ積み重なっていくことで、あるとき意識に芽生えることは充分に起こりえることです。

     

    からだからのメッセージと生かされている実感をつなぐ「ながれ」がある。

     

    その「ながれ」の中でからだが悦ぶ呼吸やうごきを感覚し、それによって現れるつくりに相応しい意識や言葉になっていく。

     

    点と点が線でつながり、生かされている実感へと辿り着く「ながれ」はあり、それらが重なる立ち方もある。

     

    臨床においても、生活においても、そういった「ながれ」をちょっとずつでも感じとっていけるような指導の在り方がこれからはより大事になってくると感じています。

     

     

    呼吸やうごきをとおして生かしてくれている法則性に気づいていくこと。

     

    法則性によって表現されていることを、からだにとっても、自分にとっても「快」だと感じられるようになっていくこと。

     

    それらを生みだしている空間に意識が向いて感謝の念が湧いてくること。

     

    こういったことが健康維持増進の姿なのではないかと、最近では感じるようになってきています。

     

     

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  • からだはききわけている⑤

    息、食、動、想の営みが、自分の要求を満たす営みとしてだけではなく、からだの要求を満たす営みでもあるように、からだに感覚をききわける。

     

    「食」の営み一つとっても、ほんとうにからだは食べることを要求しているのか、食べることがからだの悦ぶ「快」につながっているのか、その都度からだに確認してみる。

     

    お腹が空いたということも、毎回同じではなく、ちょっとずつ違っていて、からだと共に味わっていたい空腹感もある。

     

    「ちょっと」でずいぶん変わるんです。

     

    「ちょっと感じられる」とか、「ちょっと気づく」って、とても大切なことだと最近感じています。

     

    その「ちょっと」の範囲がちょっとずつ広がっていって、からだの内側の変化だけでなく、からだの外側の変化にまで意識が向くようになってくると、「からだがききわけている」ということも、すっと腑に落ちてくる。

     

    そうすると、「からだにききわける」というよりも、「からだがききわけている」ことに委ねている自分に気づくことが多くなってくる。

     

    このブログでも、「重なる」とか「いただく」とか、「うつわになる」という言葉で表現するようになったのは、「ちょっと」の範囲がちょっとずつ広がっていくことで、自分たちに向けて発信してくれている「からだ」や「空間」のメッセージに気づきやすくなってくるから、ということもあると思います。

     

     

    そういった変化と共に、環境の捉え方も変わってきました。

     

    これまでも、息、食、動、想の四つの営みと環境との関わりを学んできましたが、環境に関しては今一つ掴み切れておらず、漠然とした理解になっているところもありました。

     

    けれども、「からだがききわけている」ということに意識が向くようになってくると、よりシンプルに「からだがききわけている環境」と捉えられるのではないか、と思うようになってきました。

     

    からだがききわけている環境において、

     

    どのような立ち方になっていけばいいのか、

     

    どのような呼吸になっていけばいいのか、

     

    どのようなうごきになっていけばいいのか、

     

    どのようなつくりになっていけばいいのか、

     

    どのような感覚をうけとっていけばいいのか、

     

    どのような意識になっていけばいいのか、

     

    どのような言葉を発していけばいいのか。

     

    からだと共に感じとっていくことが、環境を理解することにつながり、それは、空間の変化を感じとっていくことでもあり、生かされているという実感を積み重ねていくことでもあると思います。

     

    空間と想念は深くつながり、感謝はそこから生まれてくる。

     

    やっぱり「ちょっと」って大事なんです。

     

     

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  • からだはききわけている④

    意識によって身につけていく学習は「おもての学習」。

     

    ちょっとした意識づけによって、無意識的なことに気づいていく学習は「うらの学習」。

     

    「うらの学習」では、無意識的にからだのしてくれていることや空間との関わりなども法則性として感じとっていける。

     

    昨日は「からだの学習」について、こんなふうに捉えることができるのではないか、ということを書きました。

     

    このように捉えてみると、これまでも「おもての学習」を行いながら、それと並行するように「うらの学習」も行われていたことに改めて気づきました。

     

    自分が意識してコントロールしている訳ではないのに、無意識的に表現している「からだ」に気づく瞬間はあったんです。

     

    ただ、重心の学習が「からだの学習」の中心になってくると、まるで「おもて」と「うら」がひっくり返るように隠れていたものが現れて、そういったことに気づく瞬間が飛躍的に増えてきたと感じています。

     

    それと同時に意識の使い方もこれまでとは違うものになってきました。

     

    今学んでいる正当なからだの使い方にかなうということにも、もちろん身につけていくプロセスはありますが、これまでコントロールすることに使っていた意識は、その仕事から解放され、最小限の意識づけで済むようになってきています。

     

    その分、無意識的にからだがしてくれていることや空間との関わりに意識は向きやすくなる。

     

    それは、からだの内側の変化だけではなく、外側の変化も素直に感じとっていくうえで必要なことだと思います。

     

    1日目と2日目のブログに書いたように、頭の向きによって起こってくる呼吸や感覚の変化を感じとることは特別なことではありません。

     

    なぜなら、はじめにからだが空間の変化をききわけてくれているからです。

     

    臨床においても、生活においても、呼吸や感覚、うごきなどをとおして、からだと共にその変化を感じとれるようなつくりになっていくことが健康維持増進の核になるのでは、と思っています。

     

     

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  • からだはききわけている③

    久慈にいるときは電車に乗る機会はほとんどありませんが、東京に来たときは電車に乗ります。

     

    いつだったか、始発の電車に乗ったとき、車内の座席はまだガラガラでしたが、一車両中ほとんどの方が七人掛けの席の端っこに座っていました。

     

    隣の人と接することを考えると、端っこに座りたくなる気持ちはなんとなくわかるのですが、そのうちの七、八割くらいの方が左端に座っており、本人が意識してその位置を選んでいるのか、あるいは無意識にその位置を選んでいるのかは分かりませんが印象に残る光景でした。

     

     

    話は変わりますが、重心の学習が「からだの学習」の中心になり、学習する意味も随分と変わってきているように感じています。

     

    これまでは、立ち方の学習にしても、うごきや呼吸の学習にしても、型のようなものを師から教わり、それを意識的に繰り返し学習することで無意識的にできるよう身につけてきました。

     

    また、息、食、動、想の営みも、自分の要求を満たす営みとしてだけではなく、からだの要求を満たす営みでもあるように、「からだにききわける」という感覚の学習も生活の中で行ってきました。

     

    最近感じるのはこういった身につけていく「からだの学習」は、意識による「おもての学習」なのではないかということです。

     

    それに対し、今自分たちが学んでいる「からだの学習」は意識づけによる「うらの学習」。

     

    「うらの学習」は立ち方にしても、うごきや呼吸にしても、ちょっとした意識づけによって無意識的にからだがしてくれていることや空間との関わりに気づいていく学習。

     

    その気づきによって、点と点は線でつながり、法則性として感じられるようになってくる。

     

    法則性はやり方として覚えるのではなく、からだにとっても、自分にとっても「快」だと感じられる確かな実感の中で気づいていくもの。

     

    そのような実感は意識をからだの内部にとどめるだけでなく、からだの外部にまで解放してくれる。

     

    もしかしたら、はじめに書いたようなことも本人の気づかないところでこういったことにつながっているのかもしれません。

     

     

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  • からだはききわけている②

    昨日の続きになりますが、空間の変化というと、なんだか特別なことように聞こえてしまうかもしれませんね。

     

    ただ、昨日書いたように、頭の向きによって「感じがいい」とからだにききわけられたり、それによって呼吸の変化に気づいたりすることも、空間の変化を感じとっているということにつながっていると思うんです。

     

    初めて臨床を受ける方も、頭の向きによって感じが変わるということは案外感じていただけることでもありますし、子供なんかも面白がって「こっちがいい」と応えてくれるものです。

     

    むしろ、子供の方が「そんなことあるわけないよ」という先入観がないので、素直に感じとってくれたりするのかもしれません。

     

    試しに、くすぐったがりで鼻が詰まっている子に、頭の向きをからだにききわけてもらい、「感じがいい」向きを確認する。

     

    「感じがいい」と感じられなかった方向に頭を向けてひかがみ(膝の裏スジ)にふれたときは、とてもくすぐったがるのに、「感じがいい」と感じられた方向に頭を向けてひかがみにふれると、くすぐったがらなくなる。

     

    ふれたときに伝わってくる力感も変わるので、「感じがいい」とききわけられている向きではからだも本人もゆるんで、こちらのアプローチを受け入れてくれるようになる、という感触があります。

     

    また、「感じがいい」向きでは「息がしやすくなる」とのことでしたので、呼吸のとおりも、力み(リキミ)とゆるみに関係していることがうかがえます。

     

    これは一つの例として挙げましたが、からだが空間の変化をききわけているということを、自分たちも呼吸や感覚の変化をとおして、気づいていくことができることを示していると思います。

     

    臨床も生活も空間でのできごとです。

     

    その空間との関わりにおいて、からだにとっても自分にとっても悦びとなるような生かし方がある。

     

    そのようなことを学んでいると、臨床も生活も生きた「からだの学習」の場であると、確かな感触が生まれてくるのです。

     

     

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  • からだはききわけている①

    岡村さん

    一週間のメッセージありがとうございました。

     

    バトンは茅ヶ崎から久慈へ。

     

    今週担当の瀧澤です。

    よろしくお願い致します。

     

    今回はテーマが無題ですので、学びの中でからだと共に感じとっていることを書いていきたいと思います。

     

    ここ数ヶ月、からだと向き合いながら、「感じがいい」とはどういうことだろう、ということを考えています。

     

    これまで「からだに感覚をききわける」ということを学習してきましたが、その感覚の中でも最近は「感じがいい」という感覚が気になっているのです。

     

    例えば、夜眠りにつく前に、頭の向きをからだにききわけてみる。

     

    自分の場合、ベッドの配置上、二方向でのききわけになりますが、実際にやってみると「感じがいい」と感じられる向きがあることをからだにききわけることができます。

     

    以前はそこまで意識できていなかったのですが、どうしてこのように「感じがいい」とからだにききわけることができるのか、体感して気づいたことの一つに呼吸の変化があります。

     

    「感じがいい」とききわけられる向きでは、呼吸がとおりやすくなり、とりわけ吸気は背中側まで入ってくるのが感じられます。

     

    対して、「感じがいい」とききわけられなかった向きでは、呼吸は浅く、吸気は胸の方までしか入ってこない感じになります。

     

    自分の意識で呼吸をコントロールしているわけではないのに、「感じがいい」とききわけられる向きでは、呼吸も「感じがいい」とききわけられる。

     

    このような呼吸の変化を体感していくと、自分の意識がはたらく以前に、からだの要求する呼吸を満たすために、からだはからだにとって「感じがいい」向きをききわけている、自分たちはそれをからだにききわけて感じとっていくことができる、という捉え方になっていきます。

     

    また、からだの向きが変化することで感覚や呼吸が変化するということは、空間とからだの関わり方が変化することで感覚や呼吸が変化すると言い換えることもできそうです。

     

    からだがききわけている空間の変化を、自分たちも感覚や呼吸をとおして、からだにききわけて感じとっていく。

     

    こういったことは健康維持増進にとって必要なことだと強く感じています。

     

     

    2024年春季東京操体フォーラム開催致します。

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  • からだからのメッセージ⑦

     

     

    (からだからのメッセージ)

     

     

    空間があって、からだがあって、

     

    自分がある。

     

    調和して、健康維持増進にかなっていく。

     

     

    上手くいっている、と感じているときも、

     

    そうでない、と感じているときも、

     

    ずっと、そこにあるもの。

     

     

    呼吸も、

     

    うごきも、

     

    感覚も、

     

    意識も、

     

    ことばも、

     

    そこから生まれてくるもの。

     

     

    届いていることに気づいたとき、

     

    感謝、はそこから生まれてくる。

     

     

    からだからのメッセージ。

     

     

    快。

     

     

    (縦軸と横軸)

     

     

    からだからのメッセージを素直にいただける。

     

     

    自分を生かしてくれているものに意識が向き、

     

    調和して、生きていける。

     

     

    からだ、にとって自然な状態に戻ること。

     

     

    からだの悦ぶことと、

     

    自分のしていることが、

     

    自然と重なってくること。

    生かされていることを実感し、

     

    感謝できること。

     

     

    その基準に、立つ。

     

    縦軸と横軸が、立つ。

     


    感謝意識が立ち上がってこその、

     

    健康維持増進。

     

     

    快。

     

     

     

    一週間ありがとうございました。

     

    メッセージは寺本さんに引き継がれます。

     

    よろしくお願い致します。

     

     

  • からだからのメッセージ⑥

     

     

    (からだの学習)

     

     

    感覚という、

     

    からだからのメッセージを受け取っていく。

     

    からだからのメッセージがあっての健康学。

     

     

    変わっていくのは、

     

    からだ、ではなく、

     

    からだの変化に気づけるようになった、

     

    自分の意識。

     

     

    自分の意識、のみで、

     

    からだをコントロールしていた景色から、

     

    からだ、を感じて、

     

    からだそのものを、意識できる景色へ。

     

     

    呼吸が変わったことに気づく、今。

     

    からだと自分の関係性が変わる、今。

     

     

    気づく瞬間は訪れる。

     

     

    継続していく。

     

     

    快。

     

     

  • からだからのメッセージ⑤

     

     

    (うつわ)

     

     

    からだは正直だから、

     

    ほんとうのことを教えてくれる。

     

     

    健康維持増進に必要なこと。

     

     

    『自然の器を用いてこれを満たす』

     

    『自らを愛という』

     

     

    うつわ、として、

     

    メッセージを受け取れるように、

     

    立つ。

     

     

    快。

     

     

    (迎え入れる)

     

     

    自分よがりでもない。

     

    からだ任せでもない。

     

     

    共に、健康維持増進にかなっていく。

     

    生かされている空間で。

     

     

    なんと有難く、こころ強いことか。

     

     

    絶対的な安心感がある。

     

     

    快。