カテゴリー: 瀧澤 一寛(たきさわ かずひろ)

  • なぞなぞ⑤

     

    「いきもの」ってなんだろうね。

     

    答えを知るより、問うことの方がずっとゆたかだと想えるのも、「からだ」のお蔭なんです。

     

    いつも共に生かされ、共に生きている「からだ」は、どんなに大きなことも、どんなに小さなことも、ききわけてくれている。

     

    「どんなに大きなことも、どんなに小さなことも」というのは精確ではないかもしれない。

     

    「からだ」にとって、目に見える大きさは問題ではないと想えるから。

     

    大切なことは「自然」であるかどうか。

     

     

    一日一回でもいい。

     

    呼吸の感触を大事にしてみよう。

     

    何かにふれたときの感触を大事にしてみよう。

     

    「行為」そのものよりも、それが何と繋がっているのか、その感触をこそ大事にしてみよう。

     

     

  • なぞなぞ④

     

    「クジラより大きくて、メダカより小さいいきもの」

     

    目に見えるスケールで考えると、そんな「いきもの」はいないかもしれない。

     

    けれども、目に見えないことも大事にしていると、「いきもの」の見え方が変わってくることだってあるんです。

     

    「からだ」と共に生かされ、「からだ」と共に生きていると、それはまぎれもない実感としてやってきます。

     

    皮膚の外側に広がる空間と、皮膚の内側に広がる腔󠄂間を、「感覚」し、「意識」する。

     

    目に見えることだけだと「からだ」じゃない。

     

    目に見えない広がりを、丁寧にふれることで、「からだ」という存在に気づけるようになる。

     

    「いきもの」ってなんだろうね。

     

    そう問えることは、とてもゆたかなことだと想うんです。

     

     

  • なぞなぞ③

     

    「クジラより大きくて、メダカより小さい、海のいきものはな~んだ?」

     

    この「なぞなぞ」を子供たちに出してみると、面白がって「シラス!」とか「ミジンコ!」とか、「そんなのいないよ!(惜しい)」といった答えを返してくれました。

     

    最後は正解を教えて、「そういうことか」って笑い合ったんですけど、同時にこんなふうにも想ったんです。

     

    とんちクイズとしては「イルカ(そんなのいるか!)」が答えでもいいけれど、違う答えや別の捉え方があったっていい。

     

    目に見えることだけだと、その存在に気づけなかったりすることはあっても、目に見えないことを大事にすれば、その存在に気づけることだってある。

     

    たとえば、「からだ」のようにね。

     

     

  • なぞなぞ②

     

    昨日の「なぞなぞ」は、小学生の頃に読んだ本に載っていたものです。

     

    「クジラより大きくて、メダカより小さい、海のいきものってなんだろう?」

     

    当時は全く思いつかず、降参して答えのページを見てみると、そこには「イルカ」とありました。

     

    「どうしてイルカ?」とよく読んでみると、「そんなのいるか(イルカ)!」と書かれていて、「これはとんちクイズだったんだ」と分かるまでしばらく時間がかかったのを覚えています。

     

    みなさんの答えはいかがだったでしょうか。

     

     

  • なぞなぞ①

     

    岡村さん

    馥郁たる年またぎのメッセージありがとうございました。

     

    鼻腔のおくで味わった今週担当の瀧澤です。

    一週間よろしくお願い致します。

     

    さて、小学生の頃に出会った「なぞなぞ」を一つ。

     

    「クジラより大きくて、メダカより小さい、海のいきものはな~んだ?」

     

     

  • 身に付いていること、身に付けていくこと⑦

     

    (昨日の続き)

     

    今回は「身に付く」ということをテーマに書き進めていきました。なぜ、このテーマにしたのかというと、一つには「からだ」のことをまだまだ分かっていない、という実感があるからです。

     

    農作業の仕事に関わるようになり、初めての現場で初めての作業をしたとき、「前にもやったことがあるんですか?」と聞かれることがこれまでに何度かありました。どこの農園でも現場には色々な方が来られるそうですので、色んな方の作業具合を見て、経験者っぽいと思われたのかもしれません。

     

    ご縁をいただいているので一所懸命にやるという意識はありますが、前情報を持っているわけでも、作業に関して特別秀でているわけでもないことは自覚しています。それでも、そう思っていただけたのなら、それは、「からだ」と「からだの学習」のお蔭なのではと感じています。

     

    作業に集中するあまり、「からだ」に意識を向けづらいこともあります。それでも、周りがよく見えたり、すっと「からだ」が動き続けたりしていると、普段の「からだの学習」が生きていると感じられ、同時に、まだ味わったことのない感覚に出会えている悦びもあります。そんなとき、感謝と共に、もっと「からだ」のことを知りたい、学びたいという意欲が生まれてくるんです。

     

    師が示されている「重力と重心のバランス」を、自然科学の観点や人体の解剖生理の観点から理解していくことも大事だとおもいます。そして、実践をとおして、生身の感覚として意識できるようになっていくプロセスはなにより愉しいし、それが「真理」であると言いきれるように「からだ」と共に学び続けていきたい想いがあります。

     

    最後になりますが、作業の合間にやっていることについて。どなたも経験があるかとおもいますが、疲れてくると、呼吸が浅くなったり、口で呼吸しがちになります。そんなときに、鼻腔から充分に吸気が入る状態になっているかどうかを確認することです。

     

    鼻腔から充分に吸気が入る状態であればいいのですが、それが崩れてきたら、鼻腔から充分に吸気を取り入れるようにしています。吸気と共に表現される「からだのうごき」で見上げる空もいいものです。

     

    どちらの鼻腔から吸気を取り入れるかは、師のブログに書かれていますので、興味のある方は体感してみてください。

     

    「からだのうごき」や「吸気」の「ながれ」を意識することができてくれば、今いる「現場」は「空間」と「腔󠄂間」が調和する場として捉えていくことも可能になってくるのですから。

     

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございます。

    明日からは寺本さんの出番になります。どうぞお愉しみに!

     

     

    2024年秋季東京操体フォーラムは11月23日(土)勤労感謝の日、、ルーテル市ヶ谷センターで開催致します。

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  • 身に付いていること、身に付けていくこと⑥

     

    (昨日のつづき)

     

    夢中で作業しているときに「からだ」を意識的に使うのはなかなかに大変なことです。これまでにも、立ち作業のときは「拇趾球に体重をのせよう」とか、「膝の裏スジをゆるめよう」などと試みたことがあるのですが、作業の方に気をとられてしまい、思いの外継続できないと感じることがありました。

     

    これまで学習してきた「からだの使い方」を生かし切れていないと感じることもあったのですが、左側に意識が向くような流れの中では「からだの使い方」に意識を向けなくても、自然と拇趾球に体重がのっていたり、膝の裏スジがゆるんでいたりと、「からだ」が「うごき」を表現してくれていると感じることが多くあるんです。

     

    左側の意識になっていると、「ながれ」によって「からだのうごき」が表現されている感触があり、それによって、どこか一部に負担がかかるという感じも少なくなってきます。

     

    それと同時に周囲の状況が把握しやすく、一緒に作業している人のこともよく見えてきて、一連の作業がスムーズに進むためにはどう振る舞えばいいのかということにも、すっと意識が向くようになっているという実感もあります。

     

    左側の空間を生かしていくと、空間を認知する能力や作業効率が上がる実感があるため、いかに左側に意識が向きやすいような動線を確保するかということが作業をする上で自然と身に付いてきたようにおもいます。

     

    今学んでいる「重力と重心」の学習が作業の現場でも生きていると実感できると共に、「ながれ」を感じていると「現場」の意味はもっと広い意味で捉えることができてくると感じています。

     

     

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  • 身に付いていること、身に付けていくこと⑤

     

    (昨日のつづき)

     

    左側に意識が向くのか、右側に意識が向くのか。それによって作業の能率や「からだ」にかかる負荷が変わってしまうということを、こういった作業をとおして初めて実感したのは、また別のにんじん作業をしていたときの話です。

     

    この作業は、洗浄されてコンベアを流れてくるにんじんの頭の向きを揃えていく作業でした。コンベアを挟んで何人かで作業したのですが、このときは立ち位置に対して、流れの方向は右から左でした。

     

    右からどんどん流れてくるにんじんに対して、自分の右側で作業し続けるのは、時間が経つにつれかなりしんどかったのを覚えています。慣れてくると、作業自体はそれなりに速く対応できるようになっていったのですが、体幹が右側に捻れ、腰や右の体側が痛くなり、「はやく休憩にならないかな」と思いながらの作業でした。

     

    作業の動きには慣れましたが、「からだ」の「うごき」としてはとても違和感がありましたし、それは「痛み」という「からだからのメッセージ」としても受け取ることができました。これは速さの問題ではないと確信したのは、先日のにんじん収穫作業のときの話に戻ります。

     

    にんじんの収穫作業が早く終わり、残りの時間は倉庫内での箱積み作業になったのですが、自分の立ち位置からすると、箱は右から左に流れてくるので、右側に意識を向けながら箱を受け取っていきました。

     

    このとき、収穫作業とは打って変わって随分とペースはゆっくりになりましたが、ゆっくりであっても右側に意識が向くと違和感があり、速くても左側に意識が向いていた収穫作業のときの方が自然だったと感じられたんです。

     

    このような体験をとおして、「からだ」には「意識」が向きやすい方向とそうでない方向があり、それによって「感覚」や「うごき」など、発揮される能力が変わってしまうということを改めて実感することができました。

     

    無心になって動いているときは、「こうやって動こう」なんて考えて動いているわけではありません。無意識に動いているその「うごき」が、作業で身に付けた「慣れ」による「自分の動き」なのか、それとも、もともと「からだ」に身に付いている「からだのうごき」のか。

     

    作業自体の効率を考えるのはもちろんですが、「作業に慣れたから動けるようになる」というだけでなく、その効率を支えてくれている「からだのうごき」を基準にした作業工程の動線を考えていく必要もあるのではないかと感じています。

     

    「からだのうごき」が「無理」なく表現されるような流れを現場につくっていくことは、「からだのうごき」の「ながれ」を生かしていくことにもつながっているとおもうんです。

     

     

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  • 身に付いていること、身に付けていくこと④

     

    (昨日のつづき)

     

    お昼までに一人4箱くらいのペースで収穫しましょう、と手作業で進んでいく場合は、ある程度自分のペースで調整することもできるのですが、機械が入る流れ作業になると、ストップがかかるまでは、常に動き続けなければならないことも多いです。

     

    昨日書いたにんじんの収穫、荒選別の作業も常に動き続けなければならない状況でしたが、自然と左に意識が向くような作業の流れになっていると、疲れにくくなると同時に作業しているときの感覚も随分と変わるものだと感じました。

     

    流れてくるにんじんを荒選別するとき、規格の基準となるサンプルのにんじんも近くに置いてあるので、基本的にはそれで確認していくのですが、一度に沢山のにんじんが流れてくることもあるので、毎回確認している時間はなく、「これはどうしよう」なんて迷い始めてしまうと、それこそ、どんどん目の前をにんじんが通り過ぎてしまいます。

     

    それでも、流れてくるにんじんが自分に対して左側で捉えられる範囲にあるときは、ほとんど迷いが生じず、すっと手が「動いてくる」のが分かりました。なんというか、見えている景色がとてもクリアで、「からだ」一つで作業できている感触がありました。それによって、ちょっとした余裕が生まれるんです。

     

    もちろん全部は取り切れませんので、自分の左側にあったにんじんが正面を通り過ぎて、右側にいってしまうこともあるのですが、そうなると今までクリアに見えていた景色が変わってしまい、目と手がバラバラに動いている感じになったり、迷い出してしまったり、まったく余裕がなくなってしまうのを感じました。

     

    自分の前を通り過ぎて行ってしまったことに対する焦るきもちを差し引いても、左側で認識するのか、右側で認識するのかの違いは、気のせいなんかではなくはっきりとした違いとして感じられます。

     

    これは、今回の作業だけではなく、前回のブログにも書いた野菜(長芋)の洗浄、選別の作業でも感じたことです。作業場全体や作業工程なんかを、初めてにもかかわらず、滞りなく認識し、すっと「からだ」が動いていたのですが、立ち位置に対し、流れの方向は左から右、つまり、このときも左を意識しやすかったんです。

     

     

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  • 身に付いていること、身に付けていくこと③

     

    (昨日のつづき)

     

    先日、にんじんの収穫、荒選別の作業をしていたときに改めて気づいたことがあります。この作業はこれまで行ってきたミニトマトやピーマンの収穫作業とは違い、手ではなく収穫機に乗っての作業でした。

     

    手による収穫作業の場合もある程度のペースで手際よく進めていく必要がありましたが、収穫機に乗っての作業では、収穫機によって堀取り、茎葉切断されたにんじんが、長さ1メートル30㎝くらいのコンベアを流れて、設置した袋の中に入っていくのですが、これが初心者にはけっこうな速さだったのです。

     

    その速さの中で、にんじんについた泥を落とし、規格に合わないにんじんが袋に入らないように除け、切断しきれなかった葉も取り除いてくのは、かなり集中して手を動かし続なければならず、初めはその速度に慣れるので精一杯でした。

     

    このときは、運転されていた方とは別に、もう一人の初心者の方と二人で作業していたのですが、お互いに「けっこう速いですね」なんて言いながらも、無心で作業を進めていくうちに、段々と自然と目がいき、自然と手が出る状態になっていきました。そうして、若干の間ができはじめたときにあることに気づいたのです。

     

    それは、「からだ」がそれほどしんどくないということです。作業自体はかなり集中していないと、あっという間に目の前をにんじんが通り過ぎてしまうので、常に集中している必要がありますし、収穫機が走ると揺れが伝わってきて足場が不安定になることもあったのですが、それによって「からだ」のどこか一部が辛くなるということがなかったんです。さすがに作業終盤では疲れが出始めましたが、それまでは「休憩したい」と感じることもありませんでした。

     

    その理由に気づいたとき、やっぱり「法則」は貫通していると実感したんです。その理由とは、作業の流れと立ち位置です。収穫されたにんじんが設置された袋に流れていく方向は、立ち位置に対して、左から右。つまり、つねに左に意識を置きながらの作業だったんです。

     

     

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