カテゴリー: 寺本 雅一(てらもと まさかず)

  • しずかなことば2

    (つづき)

     

    庭のスミレの葉を食べるツマグロヒョウモンの幼虫に気が付いて数日。

    いよいよ、我が家に自生するタチツボスミレの葉もなくなりつつあった。

     

    昨年は昨年でホシホウジャクの幼虫の面倒をみていた時期があり、蝶や蛾の生まれ持った食性の一途さ、その凄さは経験済みだった。

     

    昨年もまったく意図せず草にひっついて我が家にやってきたまだ名前のしれない幼虫の食性がわかるまで、つまりヘクソカズラの葉っぱを食べる幼虫だと気が付くまで、それっぽい葉っぱを与えても一向に食べない鋼の食性を目の当たりにしていたこともあり、今回も、もしもの時に備え、スミレの葉の散策を行っていた。

     

    スミレは探してみると意外と見当たらない。

    あまりにも見当たらないので、普段から自然観察が生活の一部になっている仲間に相談したりもした。

     

    さすがの観察眼で、自転車で数分の所に一株自生している目撃情報など教えてくれた。そこは寺院の墓地の外側で、「外側に自生しているということは、墓地の中にはたくさん生えているのでは」という見立てだった。そういう捉え方ができるというのも素敵だと思った。

    私の方でも、ようやくスミレが自生している場所を見つけたところで、試しに数枚摘んで持ち帰った。

     

    ツマグロヒョウモンの幼虫は今日も定位置にはいなくて、少し離れた鉢のノビルにじっとつかまっていた。

    このまま屋外で様子をみようかという気持ちと、でも幼虫が食べるものがもうないしなぁという気持ちが交錯し、最終的には余計なおせっかいが勝って、飼育カゴに移して飼うことにした。

     

    ところが、摘んできたスミレを与えても一向に食べる気配がない。

    気が付いたら虫かごの屋根にもぞもぞと移動してじっとしている。

     

    自分が摘んできたのはスミレじゃなかったのか、、、

    昨年の記憶が蘇る。またこの幼虫が食べられる草を見つけるまで、時間がかかりそうだなぁ、と例の墓地の周りに生えているスミレの様子を見に行こうかと思っていたところ、幼虫の口から糸のようなものが出ていて、虫かごの屋根にくっついているように見えた。

     

    調べて見ると、どうやら蛹化の前兆らしかった。

    たしかに、それから数日かけていままでの幼虫スーツを脱ぎすてて、蛹は段々と漆黒に染まり、その体表にはメタリックの格好いい柄を纏い始めた。

     

    私が余計なおせっかいをするまでもなく、その幼虫はスミレを程よく食べつくし、絶妙な蛹化のタイミングを迎えていたのかもしれない。

     

    人間の私が頭で考えていろいろ思案していたわけだが、自分のおかれた環境のことを、その幼虫の方がよっぽどからだ全部で感じて知っていたのではないかと改めて驚いている。

  • しずかなことば

    おはようございます。

    瀧澤さん1週間のメッセージありがとうございました。

    本日からの1週間、寺本が担当致します。

    テーマは引き続き「フリー」です。よろしくお願い致します。

     

    春になって、庭の鉢植えにイモムシが見られる様になった。

    黒とオレンジのいかつい模様で一見毒のありそうな毛に包まれているツマグロヒョウモンの幼虫であった。

     

    毎朝植物に水をあげているので、毎朝顔を合わせるようになった。

    この幼虫はスミレ科の植物を食べる。我が家にも少しだが勝手に鉢に生えてきたタチスボスミレがあり、この幼虫はそのわずかなスミレの葉を頼りにしている。その姿を気にかけていた。

     

    ある小雨の降る朝、いつもの鉢植えを除いてみると、例の幼虫が居なくなっていた。

    みれば鉢のなかにはもうスミレの茎くらいしか残っていない。鳥にでも食べられてしまったのか、もしくは食べるものがなくなってどうにかしてしまったのか。

     

    ひ弱な妄想をしているところに、黒とオレンジのもぞもぞが少し離れた鉢を移動している姿が目に入ってきた。見れば移動先の鉢にもスミレの葉っぱがわずかに生えている。

     

    一体、この幼虫は何をききわけて自分のいのちをつなぐ草へ向かって旅を続けていられるのだろう。不思議に思う。

     

    そして、黙々とひとつの何かに向って生きている姿に何とも言えない気持ちがしてくる。

     

    自分にとっての大事な何かが何なのか。手にしていたと思っていたものが、気が付いたら手からこぼれてしまっていたり、何か忘れてしまっているようなきもちになったりする私にとって、この友の姿は静かなことばとして問いかけてくる。

  • ちょっとのこと7

    道端にちょこんと咲いている草花、静かに枝を拡げて立っている樹木、日陰にひっそりと生きているコケ。そういった植物的なものに改めて意識が向くようになったのは、思えば昨年の春分の日のことがきっかけだったと思う。

     

    我が家の小さな庭にはどこかから飛んできた名前も分からない若木がいくつか生きている。名前は分からなくても、なんとなくかわいらしく感じられてくるから不思議だ。

     

    それらの木は冬の間にすべての葉を落とし、枝だけの姿になっていたが、朝の日課で冬の期間もときたま水をあげていた。

     

    それまで、冬は植物から感じられる変化はそれほどないものだと思っていた。冬芽をつけながらじっとして静かに春を待っているくらいなように感じていたので、微細な変化などあまり気にかけてもいなかった。

     

    そして春分の日の朝のこと。

    いつものように外に出で、今日は天気がよさそうだから水でもあげようかと感じていたら、あることに気がついた。冬芽をつけて枝だけだったいくつかの若木のところどころに緑色の若芽が芽吹いていた。

    それも、一つの個体だけではなく、庭に生きている植物のそれぞれが何かを申し合わせてでもいるかのように芽吹いているようにみえた。

    その光景に眠っていた生命感覚が揺さぶられるようなきもちになった。

    ことばをもたない生き物たちが、私たちの気が付かない、意識できない方法で自然環境と情報交換をして、生命力の発現の機を伺っているのではないか。そんな壮大な営みが感じられるようだった。

     

    冷静に考えて、正確には、自分にそのように感じられただけかもしれないとも思う。

    冬の間油断していて、もしかしたら数日前からそういった傾向があったのに気が付かなかっただけで、徐々に植物それぞれのリズムで芽吹いていたのかもしれない。

     

    ただ、ひとつ強く感じられたのは、自分が気が付かないだけのことが、本当にたくさんあるということだった。それも、植物園や大自然を訪れなくても、いま目の前にも転がっているんだという悦びだった。

     

    さてもうすぐ、春分の日。

    というわけで、今年は油断せずにじっくりと観察をしながらこの日が来るのを待っている。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日から友松実行委員のブログがスタートします。

     

    春のフォーラムも来月開催予定です。

    どうぞお愉しみに。

     

    www.tokyo-sotai.com

     

    今年は見逃さないようにしよう

     

  • ちょっとのこと6

    朝目が覚める。

    朧気な意識で生活が始まる。

     

    昨日とほとんど何も変わっていないような今日。

    でも昨日までの何かがリセットされているような気もする。

     

    昨日感じていたこと、昨日思っていたこと。

    それらのことが、憶えていることもあるけれど、どこかにいってしまったような気もしてくる。

    忘れてしまったことも忘れてしまったくらいに、変化が通り過ぎていく。

     

     

    カーペットの端がわずかに、折れているのが目に入る。

    まぁ、ちょっとのことだからあとで直せばいいかなと思う。

    こういったことは拾い上げていくとキリがないくらい生きているなかで無数に生まれている。

     

    そんな頭のなかの選択の繰り返しで生活が織り上げられていく。

    最近この「ちょっとのこと」がちょっとのことではないように感じられる。

    わずかなことと認識していた程度のものでも、塵のように度々頭のなかをよぎる。

    そして、このちょっとのことが生活の中に堆積していくような気がしてくる。

     

    あとでいいかなというような選択は次のあとでいいかなという選択に繋がっていくような感触がある。

    いま気が付いたことに、いま臨むのは最初ちょっとエネルギーを必要とするきもちが生まれる。私はそうだ。

    重い身体を動かして、ちょっとのことに対応しようとすることに、正直躊躇する自分がいる。

     

    コケの散策などで、しゃがむ機会が増えたからだろうか。

    ここのところ、ちょっとのことに向かっていく耐性みたいなものが少しついてきたのかもしれない。意外と、最初の気付きに対応できれば、その後もすらすらと気付きに応じていけるような感触が生まれてくる。

    不思議なものだ。

     

    朝目が覚めて、

    朧気な意識で生活が始まる。

     

    最初に気が付いたちょっとのことに臨む。

    そのことが自分自身の生活を支えている空間の健康学のようなものに繋がっているのではないかと感じられてくる。

     

    おはようございます

     

  • ちょっとのこと5

    以前から本ブログで地元小学校の学級園での活動について触れさせてもらっていたことがあるが、今回はその後日談について。

     

    昨年、種を蒔く適期が後ろにずれて、ゆっくりゆったり成長していて、年を越してしまったラディッシュ(二十日ダイコン)のことだ。

     

     

    4月以降の活動に向けて土づくりをすることになり、今までじわじわと育つ様子を見守っていたラディッシュを、いよいよ収穫しようかという話になった。

     

    うちの冬越えラディッシュは一般的な生でサラダに入れて美味しくいただける葉っぱとは違って、葉も厚く、ゴワゴワしているような雰囲気へと変化していた。

     

    年明けに時たま抜いて成長っぷりを確認してみると、ラディッシュらしい根が肥大する感じが見られず、葉だけが少しずつ大きくなっているような印象を受けた。そんな経過を目の当たりにしていたので、正直、実りとしてはそれほど大きな期待をしてはいなかった。

     

    先陣を切ったのは仲間のうちでもとくにその成長を見守り、愛情を注いでいたメンバー。試しに抜いてみようかと手ごろな大きさのものを抜いてみると、見届けていた面々に衝撃が走った。なんと、根っこがぷっくりとしてラディッシュらしく育っていたのだ。

    おまえ、いつの間にこんな大きくなってたんだ。。。

    本当に「いつの間に」という素直な驚きがあった。

     

    二十日ダイコンらしい若々しい根のプリッとした感じとは全く違う表情だが、4か月以上土の中で生きてきたものの姿。

    とても驚いたのはいくつかのラディッシュはぷっくり肥大した根っこの下に下へ下へと根を長く伸ばして生きていた個体がいたことだ。

    ことばがなくても、生きている姿から伝わるものがあるというのを、まさにこのことかと感じた。

     

    さて、そのお味である。

    早速、洗ってその日の昼食にみんなで齧ってみる。

    「あれ、ラディッシュってこんなに旨味があったっけ?」というくらいの濃い味ラディッシュ。

    やってみてわかることがあり、やってみないとわからないことに溢れていることをしみじみ感じる味わいだった。

     

    百二十日ダイコン

     

    blog.tokyo-sotai.com

  • ちょっとのこと4

    (つづき)

    コケ類や地衣類の散策を通して、樹木を眺める機会も増えてきた。

    かれらの一部は樹木の樹皮にその存在を見つけることができるけれど、とても小さいし、ぱっと見ではなかなか見つけられないので、近くでじっくりと観察することが自然と増える。改めて樹木にも親しみのようなものが湧いてくる。

     

    3月の、まだ寒さが残っていたある雨上がりの朝のこと。

    冷たい雨はやんでいたがまだ外気は冷えていて、それを皮膚が感じているような早朝の空気だった。

     

    ふと、道端の樹木が目に入った。なんの木かはわからないけれど、なんとなく、そのこんもりとした幹に触れてみたくなり、左手で触れてみた。

    その時、何とも言えないあたたかみのようなものをその樹木のからだから感じた。

    ちょっと意外な感覚だった。

     

    外の空気は冷えていて、風が吹けば猶の事寒い。そんな外気にさらされながら、樹木はそのからだにあたたかさを蓄えて生きている。

    わずかな太陽の光を蓄えていたのか、生命活動由来の熱のようなものが発生しているのか、それとも私の手の感触の錯覚だったのか。

     

    それにしても、その時に感じたあたたかみは、生き物に宿っている自然なやさしさというか、たまらなく穏やかな感じのものだった。

     

    ふと、数日前に近所の公園の木の上に座っていたおんなの子のことを思い出した。

    散策をしていたら、ちょっと目立たないところに生えている大木の上に気配を感じて、みてみると曲がりくねった太い枝のところに座っているおんなの子と目が合った。

     

    今時、木登りをするなんて珍しいなと思い、でもそれなりに高いところだったので、ふと思いなおして「ひとりで降りれる?」と声をかけてみたりした。

    その子がこくりと頷いた様子をみて、あぁこの子はこの場所が好きで、しょっちゅう登りに来てるんだろうなという感じがした。

     

    あの子のきもちがなんとなくわかるような気がする。

    なんとなく、自分にほんとうに必要な間をあじわいにきているのではないかと思う。

     

    木登りかぁ

     

  • ちょっとのこと3

    (つづき)

    そんなコケについていろいろ感じている話を、つい先日師匠の前で話す機会があった。

    すると師匠から「コケをかじってみたことはあるか?」という質問が返ってきた。

    たしかに年々、神農みが増してきた師匠ではあるが、また予想もしない問いかけがかえってきたことに驚いた。

    勿論かじってみたことなどなかった。

     

    ものは試し。ちょうど我が家には育てているコケがいる。

     

    コケの散策をしていると、公園のケヤキなど、樹皮が株元に剥がれ落ちているのによく遭遇する。試しにひっくり返してみてみると、樹皮の上でまだ生きているように見えるコケを見つけられることがある。そういったものを拾い上げては連れて帰り、霧吹きで朝晩水をあげたりして観察を愉しんでいた。

     

    「なんだかかわいいなぁ」と感じて眺めているこのコケをかじるというのは、なんとも不思議なきもちが最初はしたが、「ちょっとかじってみてもいい?」となんとなく問いかけてみると、そんなにいやそうでもない気がしたので緑のもふもふしたところを少しつまんでみた。

     

    指先にほんのわずかなコケの葉の連なりがとれたので、

    それを試しに口にしてみた。

    (勿論コケを食べようということを推奨したいわけではありませんのでご了承下さい)

     

    大きな口腔に対して、口にしたコケはほんのわずかなもの。

    その小さな組織を歯と歯で噛んでみると、小さく「しゃり、しゃり」という触感が感じられた。

    それは思っていたものとはだいぶ異なる独特なものだった。こんなにちょっとしか口に入れてないのに、微細でフレッシュな細胞のひとつひとつを歯がすりつぶしているような感覚とでも言えばいいだろうか。普段何かを口にしているときには、こんなに繊細な感覚を抱いていない事を感じたりもした。

     

    そして、その後に鼻の奥にさぁーっと抜けるような、なんとも言えない新鮮な青々とした香りが拡がった。あんなにわずかな細胞なのに、これほどに存在感が拡がるのかと驚いた。

    そしてこれらのすべてが、決して私にとって不快な感じがしない、寧ろ生命力をいただいているような、そんな印象だったのにも不思議を感じた。

     

    たしかにこのコケを顕微鏡でみてみると、微細でちょっとツンとした緑の構造体、緑のつぶつぶが連なっているのが見える。あぁこれがあぁいう感じに口の中では感じられるんだなということに納得した。

     

    ほんの一つまみの欠片でこれだけの存在感があるってことは、このもふもふにはとんでもない生命力が宿っているということか。

    かじってみて、コケとの関係にもまた新しいつながりが生まれたような気がする。

    ただ眺めて、愛でていただけでは、知らなかった世界である。

    ちょっとかじってみてもいい?

     

  • ちょっとのこと2

    (つづき)

    雨が降った翌朝に散歩などしていると、また普段と景色が違って見えてくるようだ。

    特にコケ目線で散策していると、空気が乾いている時にはカラッとしていて気が付かなかったコケたちの存在が目に入ってくる。青々というか緑々というか、なんだかきもちよさそうに見える。

     

    家屋と家屋の狭い隙間のにひっそりと。

    「あぁ、こんなところにもいたのね」という姿に目がいったりして、

    少し嬉しくなる。

     

    我が家の敷地にも、普段はカラッとしていて茶色く変色したように見えるコケたちが

    敷石の上に存在している。あるとき何気なく水を撒いてみたら、魔法のようにすぐさま緑色がさえわたる様子が気に入って、毎朝、このコケたちに水を撒くようになった。

     

    水を与えると、何とも言えない「しゅぅぅぅぅ、ぷつぷつぷつぷつぷつ・・・・・」といった小さい音がきこえてくる。

    乾いた石の上にしみこむ水の音か、または水とコケが触れあって生まれている音か。

    小さないきもののいきている姿、その呼吸がきこえてくるようだ。

     

    コケをみたり、探したり、触れていたりすると、なぜだかコケをみているはずなのに、

    わたしたちの皮膚の世界をみせてもらっているような気持ちになる。

    なんでだろう。

     

    しゅぅぅぅぅ、ぷつぷつぷつぷつ・・・・・

     

  • ちょっとのこと

    おはようございます。

    瀧澤さん、身近な息もの(いきもの)のお話を一週間ありがとうございました。

    あのぬか床の写真をみて、おなかが反応しています笑

     

    本日より一週間寺本が担当致します。

    よろしくお願い致します。

     

    昨年から、「自然」に常日頃触れている仲間と交流するようになって、

    私自身も自然を観察することに興味を抱き、そういうことに気が向くようになってきた。

     

    自然といっても都会のなかである。

    観察するといっても、特別なものはない。

    道端の草花や公園の見慣れた樹木、川辺でなにやらをついばんでいる水鳥。

    そんなありふれた日常の自然なるものに、もう一度出会いなおしているような感覚とでも言えるだろうか。それでも、だいぶ愉しめる。

     

    最近、仲間と散歩中に見つけて愉しんでいるのは「コケ」や「地衣類」のような微細ないきもの。

    毎日通っている道でも、「コケ類」や「地衣類」の目線でもう一度目に触れてみると別世界に見えてくる。

     

    その辺のコンクリートの溝に拡がっているオレンジ色の何かを、しゃがんでポータブル顕微鏡で覗いてみると、ちゃんとなにがしかのいきものだったりするから面白い。

    (そして、道行く人はその姿をみて怪しんでいるに違いない。。)

     

    なんとなく見ただけでは乾燥しているように見えるものが、じっくり見てみるとうまい具合に細胞のなかに潤いを蓄えているのが見えてくる。知らない世界がその辺に無数に転がっているような気がしてくる。

     

    ちゃんと観察しようとしたときのからだは全部で近づいていっている感じがする。

    服が汚れるとか、そういうことが気にならなくなる。

    それがこどもの頃の身体感覚を思い出すようなひたむきさだ。

    そして、自然の生み出す造形や生きている姿に触れて、自ずとこころや探求心や感覚的なもの、いろいろなものが働きだす。

     

    ちょっとのことでも、自分のなかに何か普段と違ったながれやうごきが生まれてい

    るのを感じられる。

     

    一体この樹皮のうえにどれだけのいきものがいきているのだろう

     

  • ふかふかの落ち葉の上で

    小学校の学級園で、今年の大きな作業として、落ち葉で腐葉土をつくろうという試みを行っている。燃えるゴミとして焼却されゆく、主事さんが集めてくれる落ち葉を何かに利用できないかな、というところから試してみようと実験していることだ。

     

    学校の敷地で回収される落ち葉の量は結構なものになる。
    これを腐葉土を熟成させている区画に投入しては、混ざっているゴミや、腐葉土に向いていないと言われているイチョウの葉っぱなどをひたすら取り除く作業を行っている。
    とても地味な作業だ。

     

    中休みに学級園に訪れるこどもたちにもこの作業を手伝ってもらっている。
    少し手伝ってはすぐに遊びに戻っていくこどもたちもいれば、中休みのチャイムが鳴るぎりぎりまで、このイチョウの葉を取り除くという地道な作業をやってくれているこどももいる。先日もそんな風に黙々と一緒になって作業をしていた。

     

    ふと、「何か話でもしながら作業しようかな」と思ったりした瞬間もあったが、
    いやいやこの言葉がない空間もなんかいいなぁと思いなおしたことがあった。

     

    言葉で空間をつないだり、空間をうめつくしたりしなくてもいい。

    ここにいていいし、ここにいることが感じがいい。

    言葉にならないことばを感じている。
    そんな空間。

     

    積み重なる落ち葉の上はふかふかだ。
    このふかふかの下にたくさんの生き物たちが息づいて、
    ゆっくりと腐葉土を熟成させていく。

     

    そのふかふかの上で作業していると、自分たちも目にみえない発酵の営みに包まれてその一部となっているような気持ちになる。なにか大地の、自然のおなかのなかにいるような気がしてくる。

    こんな臨床ができたらどんなにいいかと、しみじみと感じる。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。
    明日からは友松実行委員にバトンを渡します。どうぞおたのしみに。