カテゴリー: 寺本 雅一(てらもと まさかず)

  • 湖畔にて

    おはようございます。

    瀧澤さん7日間の空間をありがとうございました。

    添えられている写真もとても素敵でしたね。

     

    本日より一週間寺本が担当致します。

    宜しくお願い致します。

     

    今年の夏、とある用事で長野県は信濃大町にある木崎湖を訪れました。

    その湖畔にあるキャンプ場に泊まり、日が昇ってきてしばらくしてから湖畔に座りながらこんなことを感じました。

     

    湖に突き出た桟橋のようなところがあり、そこにたたずんでいると眼前に湖面が拡がりひろびろとした気分になれる、そんなところです。

     

    まだ朝の早い時間だったので、車の走る音もほとんどなく、ささやかな声で空間に響いている虫の鳴く声、遠くの方で鳥が囀っている声、そして水面を撫でているような風の音に身をゆだねていました。

     

    あとは近くに留めてあるボートの船底と湖面がゆらゆらと奏でるチャポチャポ、コポコポとした呑気なリズムがなんともきもちよくきこえてきました。

     

    目の前には湖の水面が静かに揺れていて、その流れが湖全体を覆うように拡がっていて、そして大きなながれ、水のうごきとして存在しているようなものを感じました。

    水面のうごきを眺めているだけでも、なんとも言えず清らかな静寂を味わっているような気分になりました。

     

    そのながれとうごきが段々、湖だけのものではなくて、眼の前に存在している空間丸ごとのリズムのように感じられてきました。

     

    その空間まるごとのなかに自分も存在している。

    たしかなながれのなかに、自分のからだも息づいている。

    そんな風に感じられました。

     

    私たちが学ぼうとしているからだに宿る生命力、そしてその力学というのは、この大きなながれのことなのではないかと感じるのでした。

     

     

    2025年秋季東京操体フォーラムは11月24日(月)勤労感謝の日振替にルーテル市ヶ谷センターで開催致します。

    今季テーマは「解禁・新重心理論」です。

    いよいよ世に紐解かれる新重心理論とは。

    予約受付中です。どうぞおたのしみに。

  • ゆっくりやってみる7

    (昨日の続き)

     

    実践することで感じられることはあります。

     

    息(呼吸)というとても身近で、根源的な生命の営み。

    そこにも、ゆっくりということばはたしかに重なっているように感じられます。

     

    ゆっくりという言葉をもう一度感じ直してみよう。

    まず自分の中にやってみようと生まれた取り組みは、自然を少し近い距離で、じっくりと観察してみようとすることでした。

     

    ちょうど自然に触れる機会が増えてきたこともあり、いきものの姿を観察しようとすると、自ずとゆっくりとなることに実感を持つようになっていたからです。

    自分でゆっくりしようとしなくても、無意識にそのようになるから不思議です。

     

    小さな草花が気になったら、ちょっとしゃがんでみて、普段と違う距離感、眼差しで。

    見えていなかったものにすーっと吸い込まれていくように。

    物理的な距離も、目にみえない意識も、対象に近づいていく。

    そんな時の、いきものの姿をずっと見ていられる感じがする面白さ。

     

    そういう時、息(呼吸)は、いつもよりも解放されているような感じがします。

    まるで、その空間に存在しているいきもののひとつとして、そこに居られているような。そんな安心できる呼吸が感じられることもあります。

     

    ただただ観察しながら、自然に触れている。

    空間のなかで息(呼吸)が解放されている。

    からだのリズムに自分のリズムも重なっているように感じられる。

     

    そういう間のときは、そんなに長い時間が必要ではないような気もします。

    そういう間を持とうと、何かが立ち止まっただけでも変化です。

     

    「ゆっくり」ということばは、忘れてしまっていたからだに宿る根源的なことに触れる入り口になると感じています。

    そして、生命に本来備わっている自然なリズムや感触を味わう経験は深く自分自身の健康にもつながることです。

     

    ゆっくりやってみる。

    その時、どんなことが感じられるでしょうか。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日から友松実行委員の担当回です。

    どうぞ、おたのしみに。

     

  • ゆっくりやってみる6

    (昨日の続き)

     

    実践するなかで感じられることはあります。

     

    ちょっと無理をすることが続き、からだの調子をくずす。

    強制的にゆっくり休まざるを得ない時間を過ごしながら、からだの状況に意識を重ね、しばらく時間をかけながら調子を取り戻していく。そういう間のときというのは、実はとてもありがたいからだからの問いかけの時間なのかもしれません。

     

    そんなことを懲りずに繰り返していると、少しずつですが反省する機会も積もり積もって、だんだんと無理な無茶をする前に自分を顧みる視点も生まれてきます。

     

    うっかり根詰めすぎて作業しそうになっているときに、

    「あ、ちょっと早すぎるかな。もうちょっとゆっくり取り組んだ方がよさそうだな」

    そんな風に感じられると、一息つこうかなと思えて、目の前のことに向き合うそのリズムも少し見直してみようかと思えてきます。

     

    リズムを変えて、ゆっくり目の前に取り組んでみようとすると、意外とそれまで取り掛かっていた時よりも充実感を感じながら向き合えている気がするものです。

    ふと、さっきまでは息切れしそうな感じで急いで取り組んでいたのかなと。まるで他人事のように客観的にそれまでのことを感じていたりすることもあるから不思議です。

     

    その延長で、ゆっくり取り組み始めると自分自身の呼吸が変化しているのに気が付くこともあります。浅かった呼吸が、深くなる。そんな変化を感じることもあり、最近では呼吸がしやすくなるなぁと感じることもあります。

     

    からだにとっても自分にとっても呼吸がしやすい。

    呼吸を介してからだと自分のリズムが重なっていることが感じられる。

    シンプルな感触ではありますが、とても健康な状況だと感じます。

     

    「ゆっくり」という問いかけは、目にみえない息(呼吸)という営みも通して、からだとわたしをつないでくれようとしてもいるのです。

  • ゆっくりやってみる5

    (昨日の続き)

     

    実践するなかで感じられることはあります。

     

    ゆっくりということばをきっかけにして、からだのリズムに意識が向き始める。

    自分のリズムが先行して、からだのリズムのことなんか感じられていなかったことに気付く。

     

    そういう意識の変化が起こり始めると、この自分とからだのリズムのずれというのは、実はからだにとって大きな負担となっているんじゃなかろうかということに気持ちが向いてきます。

     

    そういえば、仕事などで根詰めた日々を長く続けていると、急に体調を崩して、休みをとることになる、そんなこともあります。強制終了の状態です。

     

    これも先のズレのことに照らし合わせて思い返してみると、からだのリズムよりもだいぶ早いリズムで日々を過ごしていたことが続いた結果、臨界点をこえる前に、からだの方でもなにがしか間に合わなくなるのを防ぐために、自分の動きにストップをかけてくれていたのかもしれない。

    そんな風にも感じられてきます。

     

    結果的にゆっくりにならざるを得ない状況をからだの方から表現してくれている。

    そんなからだからのメッセージとして、ありがたい現象として捉えることもできるのではないかと思います。

     

    みなさんも体調が悪いときというのは、いつも以上にからだからの情報をキャッチしている状態ではないでしょうか。調子が悪いというのは決して、マイナスな現象だけではないのかもしれません。

     

    自分とからだの調子が合うために必要な間のときなのです。

     

    (続く)

     

    数日床に伏して

  • ゆっくりやってみる4

    (昨日の続き)

     

    実践するなかで感じられることはあります。

     

    意識的にゆっくり動いてみることを実践するなかで、ある時に「からだの動き」と出会う。

     

    あぁ、ゆっくり、ゆっくりという問いかけを通じて、普段は「私の動き」としか感じられていなかった身体活動の世界から、「からだの動き」の存在に気が付くきっかけにもなっていたんだ。

     

    普段、自分がからだを使って何かをしようとしていたのは、自分の動きで、でも本来はからだにはからだの動きというものがあったんだ。

     

    そのことを知らずにからだを使ってきたんだ。

     

    なんか、チグハグ感を感じていたのはこういう事だったのかもしれない。

     

    からだの動きと出会い、色々なことを感じなおす中で、ではこの「ゆっくり」という言葉に宿っているものはなんなのだろうと思うようになりました。

    表現の速度を遅くすることだけじゃなくて、もっとからだ本来のリズムみたいなものと呼応するようなことに繋がっているんじゃないか。

     

    いままで自分自身に対して問いかけていた「ゆっくり」という言葉が、いつしかからだの方に意識を向けるきっかけへと変化していく。ことばを介して、だんだん自分というものが薄まっていき、からだの方に光があたる。

     

    「ゆっくり」ということばに親しむことで、自分のリズムの存在やからだのリズムの存在に気が付く。

    それが重なっていないことは、本来のからだの要求にもかなっていないことなのではないかと、自然と感じられるようになる。

     

    いままであまりにも重なりすぎていた自分自身との程よい距離感が生まれ始め、からだの方に意識を向ける機会が少しずつ増えてくる。ゆっくりということばを背景にそんな変化も感じられるようになってきたのでした。

    (続く)

  • ゆっくりやってみる3

    (昨日の続き)

     

    実践するなかで感じられることはあります。

    私も最初は自分の動きの速さに指摘を受けながら、意図的にゆっくりゆっくりと動こうとすることから始まっていました。

     

    実際の操法の様子や、操者が被験者に介助・補助を与える様子などを操体を知らない人が見ると、武術の型のように感じる人も多いです。

    敢えてゆっくりと動くことは普段そういったことを意識しないで動いている人にとっては、それこそ武術の型を実践しているような新鮮な経験として感じられるかもしれません。そんな風にからだを介した動きと出会い、親しみ始めるのも結構たのしいものです。

     

    意識的にゆっくり動くことを実践していると、その外に操体で学んでいるからだのいろいろなことと、繋がっていることに気が付くこともあります。

    その繋がりを実践しながら実感できるのがまた面白い部分でもあります。

     

    実践を続ける中である時、この意図的にゆっくり動くという意識が変化することがありました。

    学んでいることが反応しあって、からだの動きというのは意図的にゆっくり表現しなくても、自ずとゆっくりになるんだ、ということを感じたことがきっかけでした。

     

    ゆっくりというキーワードを通して、またからだの知らなかった一面を教えてもらった気がした瞬間でした。(続く)

  • ゆっくりやってみる2

    (昨日の続き)

     

    操体を学ぶ中でひしひしと感じていた重要なキーワード。

    何で「ゆっくり」という問いかけをこんなに大切にしてきたのか。

     

    実践するなかで少しずつ感じられることもあります。

    ゆっくりという姿勢はいろいろなこと、例えばからだの要求にかなうことなどに重なっています。そして、からだが感じている感覚をききわけることにも重なっています。感じることにも関わっているからです。

     

    講習の場でよく指導していただくことですが、早く動いていてはなかなかからだを介して感覚をききわけることはできません。感じることをおいてけぼりにしているような感じでしょうか。

     

    以前は、がむしゃらにその場の勢いでからだを使っている感じがあり、それもひとつの大きな要因で結果的に慢性的な片頭痛や肩の痛み、からだのだるさなど日々の中で感じていたのではないかと思います。

     

    ゆっくり動くというシンプルな問いかけですが、実践することでそれまでなんとなく疑問に感じていた「からだをどう使えばいいのか」という靄のような疑問に光が差してくるような気がしたものです。

     

    普段、自分本位でからだを使っていて、からだというものがよくわからなくなっていた時期がありました。

    当時は自分がからだを使うんだという意識が強くて、実はからだのことなど見えていなかった、ほとんど感じられていなかったのではないかと思います。

     

    そんなところから、ゆっくりを実践することで、私が次第に薄まってゆき、からだという向き合いたかった存在が現れてくるような感じがしました。

     

    それと共に、忘れていた感じるというプロセスにも意識が向くようになってきた。

    そんな変化も感じられるようになってきました。(続)

  • ゆっくりやってみる

    こんにちは。

    すーっと風が吹いてきて、その涼しさや香りを味わっているような。

    そんなことばが届いた7日間。

    瀧澤さんありがとうございました。

     

    ブログ執筆のバトンタッチをして本日から1週間、寺本が担当します。宜しくお願い致します。

     

    操体を通して、からだや自然なるものと向き合うことを続けていると、度々新鮮な出会いのように言葉を感じ直すようなことがあります。

     

    その中で「ゆっくり」というテーマ、キーワードも私にとっては何度となく出会い、改めて感じることを繰り返してきた言葉です。また最近大事だなぁと感じ直しているところでもあります。

    今回はこの「ゆっくり」をテーマにしてみたいと思います。

     

    私が操体を学ぶようになって、「ゆっくり」という言葉を意識するようになったのは、講習の実技指導の場からだったと記憶しています。

     

    般若身経を実践する

    動診のなかでからだの動きを表現する

    操者が被験者に介助・補助を与える

     

    あらゆる実技の場面で、せかせかと動いてしまう度に、何度となく「もっとゆっくり!」という厳しい指摘を受けてきました。

     

    ひとつひとつの細やかな介助・補助のポイントを学びながら、それと共に、実践学習を通すなかで、非常に基本的なこととして大事にされてきた印象があります。

    からだと向き合ううえで、ただならぬ大切なことだと感じながら少しずつ身にしみこませてきた「ゆっくり」。

     

    それが臨床の場に限らないのだと感じるようになり、実践を通して日常生活のあらゆる場面にも少しずつ浸透していくものだと思うようになり、また「ゆっくり」に対する印象が変化していったのです。(続)

  • ちょっと立ち止まりたいときに7

    ことばは光のようなもの

    ことばは風のようなもの

    ことばは雨のようなもの

     

    忙しい日々を送っていると、やるべきことに追いかけられてそのことに向き合うことで精いっぱいとなることもある。

     

    「今日も一日疲れたなあ」とからだを休めようと床につく。

    目を閉じてからだを休める。

    そのまま、眠りにつくこともあれば、疲れているはずなのに何か眠りたくないような、きもちになることもある。

     

    そういうときは一旦起きて、ちょっと仕切りなおしてみることにしている。

    テーブルの上を片付けてみたり、床を掃いてみたり、カバンのなかを入れ替えてみたり。

    そういうことをしているうちに、何かことばを感じるようなこともある。

    時間にしたらそれほど長くない仕切り直しのときを過ごしながら、感じられたことばを忘れないようにメモしたりする。

     

    その日一日を目まぐるしく過ごした中で、すっかり忘れていた感謝を感じることもある。そういうことがあると、急にそれまでの疲れが変容し、とてもせまっ苦しいところで何かをしようと一生懸命だったようなきもちがしてくる。

    光がさして、風が抜けていくような、そんなくうかんの変化を感じるように。

     

    どんなに忙しくても、時間が無くても。

    そして、忙しいからこそ、ちょっと立ち止まりたい。

     

    あの「メッセージ」が問いかけてくる

     

    『己自身の光で変わりゆく自然をみる』

     

    「操体法 ~生かされし救いの生命観~」(「メッセージ」より)

     

    からだの要求と自分自身の要求が重なっているときのなかで、

    感じられた「ことば」を抱く。

    そのことばは己自身の光なのではないかと感じています。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    バトンを渡して明日からは友松実行委員のブログがスタートします。

    どうぞ、おたのしみに!

  • ちょっと立ち止まりたいときに6

    ことばは光のようなもの

    ことばは風のようなもの

    ことばは雨のようなもの

     

    何かをやろうとしても、なにかスッと前にすすめない

    そういうことが日々の生活のなかにあるのですが、

    前だったらがむしゃらに、

    何でもいいから手に取ってみたり、とりあえずやってみたりというように、

    あぁでもない、こうでもないと色々試しながら

    向き合っていたように思います。

     

    うまく行くときもあれば、なんとなくうまく行ってないようなときもある。

    やってはいるんだけれども、充足していないようなきもちを感じることもある。

    そういう不思議な実感を持って、ことにあたっているときもあります。

     

    ここのところは、そういうきもちを感じたときに、

    いま「重心」はどこにあるだろうか、と感じるようにしています。

     

    「重心」はどこにあるだろうか

     

    問いかけてみると、「あ、なんとなくだけど、この辺にありそうだな」というのが感じられてきます。

    いま、このあたりに重心があるのか、というのが朧気にでも感じられてくると

    意外とそれだけでも腑に落ちるものがあるものです。

     

    重心の不正を感じ、納得する。

    そこから次の道筋が感じられてくる。

    素直に立ち止まってもいられる。

     

    その立ち止まりの繰り返しのなかで、

    少しずつですが着実な何かを学んでいると感じています。