カテゴリー: 寺本 雅一(てらもと まさかず)

  • ちょっと立ち止まりたいときに5

    ことばは光のようなもの

    ことばは風のようなもの

    ことばは雨のようなもの

     

    昨日のブログの続きになりますが、自然の奏でる音の世界に重なるような人間の「声」のことを想う時、

    あぁそういえば自分は「ホーメイ」という歌唱法に惹かれてきたなということをもう一度感じ直しました。

     

    ホーメイはロシア連邦のトゥバ共和国という自然豊かな場所で、今もなお歌い継がれている伝統的な歌唱法です。実に豊かな倍音を響かせる音の世界であり、またその特徴のひとつに、小川のせせらぎなど自然を模倣した表現が根底にあることが挙げられます。

     

    その歌を聴いていると、何故かとても懐かしい感じがしてきて、光に包まれているような、また風が頬をかすめていくような、そしてとても透明になっていくような、そんな音の可能性を感じます。何かをからだで受け取っているようなきもちになります。

     

    ホーメイジ(ホーメイを歌う歌手のこと)それぞれが紡ぐ独自の音世界、その表現の幅広さと奥行の深さに人間の声ってこんなにも可能性があるんだ、という気持ちになります。

    それと同時に、人間の声が解放されているのを感じます。

     

    自然の流れがあり、その流れのなかで呼吸が自ずと通り、空間に解放されている人間の声の世界。

    自然の奏でる音の世界に重なるような人間の「声」って何だろう。

    そういう問いを抱くなかで、ホーメイがまた味わい深いものに感じられてきます。

     

    今年の夏はちょうど、なかなか来日する機会のない素晴らしいホーメイグループ「HUUN-HUUR-TU(フンフルトゥ)」が日本を訪問する予定がありますので、もしご興味あれば是非、直接彼らの音の世界を感じてみてください。

    以下に東京公演のリンクを貼っておきます。

    haremame.com

  • ちょっと立ち止まりたいときに4

    ことばは光のようなもの

    ことばは風のようなもの

    ことばは雨のようなもの

     

    このところ、朝4時くらいには何かの鳥の鳴き声がきこえてきます。

    すると、あぁもう夜が明けてくるんだなぁと感じます。

     

    雨が降ったり、風が吹いてきたり、木の葉が揺れていたり、

    そういった身の回りの自然が起こす現象のひとつとしてこの鳥の鳴き声も感じられます。

    例えば、風が吹いてきたのを感じている、そのときに受け取っている感じと近しいものや同質のもの、とでもいいましょうか。また、鳴き声が自然と重なっている感じや調和している感じともいえるでしょうか。

     

    その素直なひびきをからだで受け取っていると

    人間の使っている「声」のことをよく想います。

    ふいに窓の外からきこえてくる野鳥の声と同じように、

    人間ももう少し自然と重なるような素直な声が出せるのではないだろうかと。

  • ちょっと立ち止まりたいときに3

    ことばは光のようなもの

    ことばは風のようなもの

    ことばは雨のようなもの

     

    昨日の続きです。

    今はニホンヤモリを育てていないので、虫ハンティングをすることはなくなったのですが、最近また同じように散策する機会を得ることができました。

     

    近くの小学校の授業の一環で蚕(カイコ)を育てるカリキュラムがあり、蚕が食べる桑の葉が家にあったり、近くにみつけた方はご協力いただきたい、という声をききました。ご存知の方も多いと思いますが、蚕は幼虫のうちは四六時中モリモリ桑の葉を食べるので、学校に植わっている桑の樹からお裾分けしてもらえる葉の量では追い付かないのです。

     

    そういう経緯もあり、普段移動する時には桑の葉採集の視点で街を歩くようになりました。注意してみていると桑の特徴的な葉っぱが目に付くようになります。街路樹の植え込みの中からピョンと伸びていたり、川沿いの植生のなかで旺盛に伸びていたりして、恐らく敢えて植えた桑ではなく、桑の実をついばんだ鳥がフンを落とし、種を運んで発芽した「野良桑」的なものが結構あるものだなということが感じられてきます。

     

    また、桑の葉を採集して蚕の幼虫に与えると、おいしそうにモリモリ食べるのがなんとも愛おしく感じられてきます。

     

    不思議なんですが、こういうときを過ごしていると、なんとなく日常の流れから程よく脱線できているような気持ちになります。

    お金を使って欲しいものを買ったり、誰かが用意してくれたものを選んで受け取るような営みとはちょっと違う。自分自身で情報を感じとり、その感じたことを色々な方法で具現化してみる。些細な動きでも何かがうごく。

     

    これも時間にしてはほんの数分の意識の変化でしかないのですが、自分自身にとってはちょっと立ち止まる機会となるひとつのように感じています。

  • ちょっと立ち止まりたいときに2

    ことばは光のようなもの

    ことばは風のようなもの

    ことばは雨のようなもの

     

    以前、このブログにも書いたことがあるかもしれませんが、

    その昔、ニホンヤモリを育てている時期がありました。

    我が家に迷い込んだ小さい生き物を興味本位で育て始める中で、

    色々なことを考えるきっかけをもらった気がします。

     

    ヤモリは生餌しか基本的には口にしないので、

    カゴの中で育てようとする場合、爬虫類専門店に行って御飯用に育てられたコオロギの小さいのを手に入れるか、自分で何らかの虫を捕まえてくるかといった感じになります。

     

    最初は私も近所の専門店に行き、生餌を手に入れてはコオロギも育てるという生活をしていたこともありましたが、どうも食いつきがいまいちだったので、結局近所を散歩しながらクモを捕まえたり、蛾の小さいのを捕まえたりする毎日を送っていました。

     

    やってみると興味深いのですが、そういう視点で散歩をしていると、普段見ているところ以外の部分に目が行くので、なかなかたのしいのです。私は都会生活が長いですが、緑のそれほど多くない住宅街の中で、ヤモリのご飯を見つけるというのは、なかなか容易ではなく、都会のハンティングの面白さを味わっていました。

     

    近くにコンビニはいくつもあり、欲しいものは結構なんでも手に入りますが、ヤモリのご飯はさすがに売っていません。でも、夜になるとコンビニにはその光に誘われて外のガラスに蛾が止まっていたりするのです。そういう獲物を捕まえにコンビニに行ったりもよくしていました。コンビニとの新しい関係が生まれたのです。

     

    こんなことでも、生活のなかの視点がガラリと変わり、単調な生活に面白みが感じられてくる。今思えば、この「ハンティング」を通して、いつどういったところに生き物がやってくるかなど感じる機会が生まれ、ほんとにわずかなことではありますが、自然の流れのようなものに触れていたのだと感じます。

     

    他人が用意してくれたものじゃないものに自分自身で取り組んでいく。

    まずやってみて、自分自身で感じ、何かを成していく。

    そのことの繰り返しでまた考えなければいけない事が生まれてくる。

    自然とこころが動き、ことばを感じられるようになる。

     

    忙しい生活の中で、数分でもそういうリズムの変わるときを過ごすことができていたというのは、自分自身にとっても必要な栄養だったのではないかと感じられてくるのです。(つづく)

  • ちょっと立ち止まりたいときに

    おはようございます。

     

    ことばは光のようなもの

    ことばは風のようなもの

    ことばは雨のようなもの

     

    そんなことばによって

    誰かに読まれるのことない

    わたしとからだとの間で

    感謝のひびきを通じて交わされている手紙

     

    瀧澤さん、一週間ありがとうございました。

    本日から寺本が担当します。テーマは引き続きフリーです。

    宜しくお願い致します。

     

    昨日までの瀧澤さんのブログを拝見していて、「あぁ瀧澤さんが日々からだに向けて抱いている手紙のようなものを覗かせてくれているんだなぁ」と感じました。

     

    ふと、日々の行き来の途中で立ち寄る巨樹の前で過ごすひとときのことが思い出されました。

    高層ビルの根元に聳えているスダジイの保護樹木なのですが、

    この大きな木に無性に会いに行きたくなるのです。

     

    ビルの基礎の少し高いところに位置しているので、触れられるような距離にないのですが、何をするでもなく、その大樹の前に立っていると、とても落ち着きます。

    その木の下はちょうどいい日陰になっていて、気持ちの良い風がそよいでいるのが感じられたりするようなところです。

     

    地に根を張って、寡黙に立っているその樹木の前で、わたしも立っている。

    立ち止まることは意外にエネルギーを傾けないとできないのかなと、

    でも静かなときのなかで、そこにいてもいいように感じられてくる。

    整理のできていなかった何かが少し落ち着いてくる。

    ことばが感じられてくる。

     

    時間にすればほんの1分程度なのですけれどもね。

    流れる時間のなかにいて、ちょっと立ち止まりたいときに、この樹に会いにいっているような気がしています。

  • しずかなことば7

    毎日を生きていると、意図せずともたくさんの情報が溢れ出してくる。

    その情報に興味を抱いて、その流れにのって行けばあっという間に一日は過ぎていく。

    目にみえない選択の瞬間が各々の生き方のなかに、生活のなかに無数に存在している。

     

    現代は独りになれる空間を自分自身に提供することが意外に骨の折れることなのではないかと感じる。自分自身を振り返っても圧倒的に独り在る時間というのが少なくなっているように思う。

     

    自然に触れてみたり、道端の草花に親しんでみたり、そこに生きている小さい生き物を眺めてみたり、立ち止まってみたり。独りになれる空間はどんなものだろうか、自分に身近でできることのなかで色々と試しているのだと思う。

     

    本当は特別なことをする必要はないのではないかと感じる。

    色々と自分なりにやってみながら、しずかなことばを味わう感覚を思い出す。

    ほんな僅かな、些細なこと。

    時間にしてみれば本当に短いちょっとした間だったとしても、

    そういう時間に触れていられることが自分自身にとっての贅沢な営みなのではないかと感じる。

     

    こういった時間を自分なりに生活のなかに工夫していくことも、操体の臨床の延長にある、自分自身にしかできない素朴なセルフケア。

    流れ、リズム、空間、呼吸、ことばに触れることにつながることではないかと感じている。

     

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    バトンを渡して明日から友松実行委員のブログがスタートします。

    友松さんよろしくお願い致します。

     

  • しずかなことば6

    (つづき)

     

    先の春季フォーラムを経て感じていること。

    もしかしたら私たちは普段目にみえない流れの入り混じるなかで生活しているのではないか。

     

    巧に編み込まれた便利な生活にながれている多方向からの強い流れ。

    からだがききわけている自然に貫通しているたしかなながれ。

     

    趣の全く異なる流れのなか、日々生きているとやはり生活を彩る奔流のことに意識はひっぱられやすい。そういったことにも気が付かないほどに時間は過ぎていく。

     

    ある種の目にみえない激しい生活の中にいて、立ち止まることの意味を考えている。

    次から次へと流れの入り混じる濁流のなかで立ち止まり、また別の目にみえないからだがききわけているながれに触れるほんのわずかな間。

     

    立ち止まるとはどういうことだろうか。

    「自然体律位」と呼ばれている立ち方の基本のなかに

    もっと咀嚼していきたいものが含まれているような気がしている。

  • しずかなことば5

    4月29日昭和の日は今年の春季東京操体フォーラムが開催されました。

    おかげさまで朝10時の開始から気が付いたら夜の8時となっていました。

    ご来場いただいたみなさまありがとうございました。

     

    今回、午前中は2コマの枠をいただいてタスクの面々で実技の時間をもつことができました。

     

    操体の臨床って、操法って何なのだろう。

    素朴な問いが生まれたときに、改めて、操法を支えているその背景にあるもの、このいのちをいかし支えていただいている何かをもう一度各々のからだを介して味わうこと。そういうことを通して、今まで学んできたことを自分自身の中でもう一度咀嚼するきっかけとなるのではないか。

     

    フォーラムに向けて三浦実行委員長、瀧澤副実行委員長とことばを交わす機会をいただくなかで少しずつ堆積して重なってきたことばをもとに、今回はまずやってみて、感じてみて、ことばにしてみるという実技の空間を大事にしてきました。

     

    私自身その空間にいて、参加者のからだから感じるうごきのながれ、空間の変化、そしてそういったものをしずかにききわけていただいたあとの本人から語られる素直なことば。そのひとつひとつに何とも言えない感銘を受けました。

     

    大切にしたいものが自然と重なっていく。

    それが「ゆっくり」の空間。

     

    みなさんのとの実技の空間を通して、みせていただいたように感じています。

  • しずかなことば4

    (つづき)

     

    身近な言葉をもたない生き物。

    例えば親しみを感じる植物などに触れているときのしずかな間。

    そういう間の時を味わうことが、日々目にみえない流れに流されがちな生活のリズムなかで自分にとって大切なものだと感じるようになった。

     

    この感じが何かに似ていると思っていたが、こういった空間はからだに触れているときの感覚にとても似ているような気がする。

     

    普段自分が使っている言語ではない何かで、言葉をもたない生き物のことを感じる。

    植物もからだも言葉ではない何かがひびいている。

     

    そのひびきのことを生活の中ではすっかり忘れがちになっていると思う。

    昨日まで目の前で光りを帯びていたものが、今目の前ではその光を失っているかのような、

    そんな不思議な忘れ方。

     

    すぐそばにあるのに忘れていることを思い出す。

     

    そのしずかなうごき、しずかな間が本当にかけがえのないものではないかと感じられてくる。

  • しずかなことば3

    昨年くらいからか、今までよりも植物に対して親しみを感じるようになった。

     

    植物全般の名前に詳しくなるとか、そういう感じではないのだが、たまたま道端に自生している名前もしらない植物が目に付いたときなどには少し近づいたり、時にはなんて名前なのかなと調べたりして、関係が生まれるようなことに時間を使うようになった。

     

    そういうことをしていると、馴染みの植物みたいなものが自分のなかに芽生えてくることもある。

     

    昨年のちょうどいまくらいの時分のこと。

    仕事などで結構疲れてしまってトホホだった時に、よく散歩をしていた。そこで雨露に濡れて光っている小さい白い花をつけたある植物が目にはいってきた。小さなランのような花をたくさんつけるその植物は、見ようによってはその花がかわいらしい目のついた顔のようにも見えてくる。調べて見たらツタバウンランという植物だった。

     

    なんだかその愛嬌のある姿を眺めていると落ち着くので、そういう出会いをしてからは時たまそのツタバウンランの自生する場所を訪れるようにしていた。この頃、言葉をもたない小さな生き物の姿にだいぶ癒されたように感じる。

     

    季節が変わり、花も枯れてしまってからはその場所に足を運ぶこともなくなっていた。4月のある時期に、ふと思い立ったので久しぶりにその場所を訪れてみた。すると、昨年と大体同じ場所にツタバウンランの葉っぱが茂っていた。

     

    あぁ今年もその場所にいるんだなと思い、また数日後に訪れると花が咲いてあの小さな白い顔をのぞかせていた。しずかな風に揺れて振動し、からだをふるわせていた。

    その姿に触れて、なんだか1年ぶりに会えたような気がしてなんとも言えない気持ちになった。なにかしずかに語りかけてきてくれているような、そんなきもちにもなった。

     

    自分を振り返ってみて、植物と接しているときのしずかな間と、普段人間と言葉を介して接している時の感じがまるで違うなぁと思う。

    植物に触れている時は、本当に必要なしずかな間を味わっているのではないかと感じる。