カテゴリー: 寺本 雅一(てらもと まさかず)

  • 重さと軽さ3

    臨床を終えて、被験者本人の口からふと、きこえてくる言葉。

    「あ、足が軽くなりました」

    「からだが軽くなった」

     

    気になっていた自身の症状より先に、何かからだから感じられる変化としての「軽さ」。

    軽さを感じることができて、からだが重かったことを認識する。

    そういうこともあるかと思います。

     

    この「(からだが)軽くなった」という言葉は操体の臨床に携わる方だったら何度となく立ち会ってきたものだと思います。

    今までは、「あぁそういった変化をききわけられたんだな」というような捉え方をしていましたが、この言葉が生まれてくる背景にあるからだの変化は、『操体法の目的』にダイレクトに通ずることではないかと思うようになりました。

     

    重心の不正に変化が起こったこと。

    そういった変化の兆しが本人の発する言葉の根っこから伝わってくるように思うのです。

     

    2024年秋季東京操体フォーラムは11月23日(土)勤労感謝の日、、ルーテル市ヶ谷センターで開催致します。

    www.tokyo-sotai.com

  • 重さと軽さ2

    どんな時にからだから重さ、軽さを感じられるだろうか。

    わたしの場合、もっとも意識にのぼる機会の多いのは「飲食(食)」活動を通して感じられる重さ、軽さです。

     

    至極あたりまえのことですが、食べ過ぎたり、飲みすぎたりすると

    食べている時は気にならないのですが、食べ終わってしばらくするとからだから重さを感じることがよくあります。

    場合によっては、食後に強い眠気に襲われることもあります。

     

    前回のブログでも書きましたが、一日の食事の回数を朝と昼や朝と夜の2回にしているときなど、この重さは違った感じで感じられます。

     

    印象的なのは、夜食事を口にしなかった翌日の朝の感じです。

    前日の夜食べていなくても、朝は意外とおなかに食べ物がまだある感じがして、それが、少し重さとして感じられます。

     

    食べ過ぎて感じる重さはもう少し大雑把なからだの重さですが、食事の量が少ない時の方が、内臓の働きの様子などが鮮明に感じられるようです。そんな時は普段内臓のかなりの働きを飲食活動の消化吸収などに使っているのを感じます。

     

    からだが必要としている分量以上に口にすれば、内臓やからだ全体にバランスを保つためにそれ相応の負担をかける。それが巡って重さとして、本人に自覚される。

     

    どのくらいの食の分量や食べ方が自分自身のからだにとって適正なのかに関しては、この重さのフィードバックを頼りにからだの要求をキャッチすることもできるのではないかと思います。からだに重さをつくり、重心の不正につながるような生活習慣を、こういったことからも少しずつ見直すこともできると思うのです。

     

    2024年秋季東京操体フォーラムは11月23日(土)勤労感謝の日、、ルーテル市ヶ谷センターで開催致します。

     

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  • 重さと軽さ

    瀧澤さん、一週間の投稿ありがとうございました。

    やってみてわかったことは何にもまさる情報だと感じました。

     

    本日からバトンを受け取って、しばし寺本がブログを担当致します。

    テーマは「フリー」となっています。

    よろしくお願い致します。

     

    からだから感じる重さと軽さ。

    日常のなかでも受け取ることの多い感覚のひとつだと思いますが、

    このシンプルな実感をとても大切なものと感じています。

     

    からだからのメッセージでもあり、

    重心の不正をダイレクトに感じられるものでもある。

     

    からだから感じられる重さが軽さに変ったようなときは、

    からだのうごきのながれが変化した瞬間。

     

    操体で大切にしている「息食動想」という自己責任の領域、そしてそれを包み相互に作用している「環境」にもこの重さ、軽さの変化が貫通していると思います。

     

    どんな時に重さを感じ、どんな時に軽さを感じられているのか。

    そういうことをひとつの基準にして、自分自身の生活を見渡してみる。

     

    変えてみようと思いついた所があれば手入れをして、

    少しずつ生活を創っていく。

    これが面白いし、その人自身の健康維持増進に直結しているのではないかと思うのです。

    2024年秋季東京操体フォーラムは11月23日(土)勤労感謝の日、、ルーテル市ヶ谷センターで開催致します。

     

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    2024年秋季東京操体フォーラム | Tokyo Sotai Forum

  • マイペースにマイスペース7

    先日、「うんこと死体の復権」という映画と出会い、東中野のポレポレという映画館の回数券を衝動買いしたのち、先の関野吉晴氏の活動を追った作品を観たり、いくつか上映作品を観てきました。

     

    映画を観るということ自体久しぶりだったのですが、どの作品も今の私の見聞きしたいことばがそこに映る人の姿を通して、響いてくるようでした。

    ポレポレで上映していたなかで、そのなかでも、民族文化映像研究所の作品「越後奥三面 山に生かされた日々」という記録映画をみていて、なんとも言えない気持ちになったのでした。

     

    新潟県と山形県の県境に聳える朝日連峰の山峡の集落「三面(みおもて)」の暮らしぶりを記録した映像です。

    minneiken.wixsite.com

     

    山(ヤマ)での生活。

    山猟、採取

    自然のなかで、自然のリズムや流れのなかで生活する人間の姿。

    山(ヤマ)に息づく神(カミ)を感じ、祈りを捧げながらおくる日々。

     

    人間の生活リズムよりも、自然の生み出すながれがまずあって、営みのリズムが自ずと決まっているような生活。

    ことばにすると昔の生活ってそうだよねというくらいのものに感じてしまいそうですが、映像をとおしてみているとその事実が、静かに強烈に感じられてきます。

     

    私は観ていて、こういった自然と見事にかみあった生活が実現するまでにいったいどれだけの年月、観察、経験、工夫、失敗と成功などが世代をまたいで積み重なってきたのだろうとその営みの奥行の深さにただただ射抜かれていたのでした。

     

    三面集落の村民のからだの延長上に、三面の自然環境「山(ヤマ)」という存在が有り、きっと自分と自然との地続きな関係性を感じながらああいう生活を送っていたのではないかと想像します。その姿が、なんとも言えず響いてくるのです。

     

    この記録作品には続きがあり、第二部では三面集落がダム建設で沈んだ後の、別の集落へ移住した村民の生活を記録した映像もあるそうです。私がみた作品は水の底に沈む前の貴重な村民の生活の姿でした。

     

    昨日、自分のペースだと感じているものは、実は自分の周囲を取り巻いている環境の影響を受けて創られているのではないかとブログに記録しました。自分という捉え方から離れたもっと大きな流れによって生み出されるペースとスペース。そのなかで連綿と培かわれてきたマイペースとマイスペース。

     

    この三面集落に当時生活していた村民にとって、山(ヤマ)から離れて生活をするというのは、一体どんなものだったのだろうかと。

    自身のからだの大切な部分を根っこから失うくらいの感覚ではなかったかと感じられるのです。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日から友松実行委員の投稿が始まります。

    どうぞ、ご期待ください!

  • マイペースにマイスペース6

    畑、コンポスト、お腹のなか

     

    土いじりや日々のコンポスト観察、またからだのなかの目にみえない腸内微生物のことに興味を向ける機会が増えて、大小様々な規模ではありますが、それが自分にとっては自然なるものに触れている、自然なるものを感じている、生き物と接触している機会になっていると思います。

     

    一日のなかで自然なるものに対して意識にのぼってくる機会が増えてくると、「マイペース」というものが、自分と自分をとりまく環境、そこに息づく生命体の相互作用によって生まれ、表現されているものなのではないかと感じてきます。

     

    この環境の範囲と、その環境に対しての接し方によって、

    マイペースなるものは創造されているのだと思います。

     

    私の場合、余裕があるときとないときで、その差が分かりやすく、

    余裕があるときは、環境の方に寧ろ意識が向いている割合が多いのを感じますが、

    余裕がない時というのは、自分自身の思考回転の方に意識の比重が大きく傾いているのを感じます。

    前者では様々な「くうかん」がほどよく拡がっているのに対し、後者ではこの「くうかん」がひしゃげてしまっているようなイメージが浮かびます。

     

    私はかなりマイペースなところがあるのを自覚していますが、といっても、余裕があるときとないときで変わる様に、その時々によって、ペースは変化しているのだなぁと思うのです。それにつれて呼吸も動きも「マイペース」な表現となるのです。

     

    動植物、土壌、天体、天候など自然なるものを観察していると自分のなかのモードが変わって、

    何かに触れて、何かを受け取っているような時間と空間になります。

    自分が何かをしている、という感覚から離れていられているように感じます。

     

    そしてその結果、自分をとりまく環境にフィードバックされて、

    くうかんも創造されていく。

     

    このことがヒトの健康と健康維持増進という循環に深く関わっていると感じます。

  • マイペースにマイスペース5

    (つづき)

    なんちゃってでもコンポストを通して土に接していると、

    この空間には目にみえないものも含めて実に豊かな生き物の集まりが存在していることを感じます。

     

    土というと無機的な物質のなかに昆虫その他の生物が潜んでいるイメージが強かったですが、もっともっとゆたかな生き物のくうかんであるように最近は感じています。

     

    人間の想像の及ばない目にみえないつながりによって生まれている場所。

    そういうくうかんに野菜の皮なんかを投入する際に、いつしか土にスコップをさす感じが自分のなかで変わってきたように感じています。

     

    以前は、ザクッザクッと土を掘るという感じでしたが、

    ここのところは、そっと接するような心持ちでスコップを使っています。

    きっとコンポストの土が生き物のように感じられてきたからではないかと想像します。

     

    そういえば、先の「うんこと死体の復権」でも土に接するシーンがありましたが、やはり何かスコップの様なものを使っていても、土に触れるように接していた姿が、印象的でした。その姿をみているだけで、その人の土および土のなかで呼吸している生きものたちに対する想いのようなものを感じました。

     

    生き物に接するようになると、ペースがゆっくりになり、触れるような接した方になるというのは、実はとても重要な変化なのではないかと感じています。

  • マイペースにマイスペース4

    (つづき)

    実際にやってみたときに、どんなことを感じ、どんな風に考え、次に繋がっていくのか。

    「実践」から生まれる「観察」の機会は、どんな些細なことでも、やってみると自分事としてじっくり向き合えるものだと思い出させてくれます。

     

    土の中の豊かな生物圏やお腹のなかの腸内フローラに興味をいだいて、自分なりに観察を始めたのは、先日とある映画のなかで「実践者」であり「観察者」である数人の諸先輩方の姿を、観ることができたことがきっかけでした。

     

    「グレートジャーニー」で馴染み深い関野吉晴さんが初監督を務めた、「うんこと死体の復権」という映画です。

     

    www.unkotoshitai.com

     

    私は思い返してみれば小さい頃に、不定期でテレビ放映する関野氏のグレートジャーニーをとても愉しみにしているこどもでした。なんだかよく分からないけど、世界を旅行しているんじゃなくて、旅している感じがとても好きだったんだと思います。大学で探検部に勢いで入ってしまったのも、もしかしたら、このこどもの頃の記憶が残っていたからかもしれません。

     

    ちなみに私は、この映画の内容があまりにもよかったので、東中野のポレポレの回数券を衝動買いして、その外上演中の気になった映画も観る、に至りました。ポレポレは響く作品を上映してくれる貴重な場。本当にありがたいなと感じた次第。

     

    興味のある方には、是非直にこの作品を味わってもらえたらと思います。

    私は不思議なんですが、観ていてお腹が反応している感じがしました(きっと腸内の生き物たちが悦んでいたのではないかと妄想しました)。

     

    自分自身の生活が自然に備わっている循環やながれのようなものから、どうも分断したところで行われているように感じ、そのことを自分なりにこれからどういう風に考えていこうか、と思っていたところにこの映画。

    いまききたいことばがひとりひとりの人間の生き様から溢れ出しているのを感じながらみせてもらったのでした。

    あぁ、人間も自然の循環のなかに居ていいんだと、

    でももっと勉強しなきゃいけないんだと感じました。

     

    監督の関野さんもそうですが、出演されている方々、みんな強烈なマイペースで自分のすることに取り組んでいるのです。

     

    人間はもっと自然から直に勉強することがあるんじゃないですか、と

    ひとりひとりに向けてみせてくれている作品だと感じます。

  • マイペースにマイスペース3

    (つづき)

    人間は何のために口からモノを食べているんだろう。

    最近そういうことを考えたりしています。

     

    私自身は食べることがとても大好きな人間なので、朝・昼・晩と三食食べることを常とし、一日のなかでお菓子もつまみながら日常生活を過ごしていたのですが、先にお伝えしたプランターで実施している「なんちゃってコンポスト」が私自身のおなかのなかのくうかんと重なるようなきもちになってから、なんとなく食べることに対して新鮮な疑問をもつようになりました。

     

    実は、最近自分が食べることで摂取している栄養と、自分自身の日常の活動量が見合っていないような感覚をからだから感じていたので、余計にそのようなことが気になったのかもしれません。あんまり動いていないのに、結構食べてるかもなぁと思っていたのです。

     

    「一日に3回もコンポストに有機物を投入しないよなぁ・・・」

    「しばらく間をおいて、分解がすすむまでほっておくよなぁ・・・」

     

    なんて、ことを考えていると、たしかに、お腹のあたりが重い感じが伝わってきて、わたしのからだのなかのくうかんにも、もう少し間(マ)を与えてもいいんじゃないかなと感じるようになりました。

     

    そこで、試しに夕方からはそれほど食べ物を摂らない生活を送ってみています。

    朝と昼はいままで通り食べて、夕方ごろからは特に要求がなければ口にしないという生活を過ごしてみると、私の場合は夜になっても結構お腹のあたりに「なにものか」の存在感が感じられます。

    不思議ですが、朝もそれほどお腹が空くという感じでもなく、食のリズムとながれが変わっているのかなぁと感じています。

     

    「あぁ美味しかった」と感じ、喉を通り過ぎてしまえば食の営みは終わっているような感じがしていましたが、そのあとの一番大変なところは、からだとからだのくうかんに居着いてくれている微生物たちにお任せしているんだよなぁと。

     

    そんなことを思っていると、マイペースにやたらと口から送り続けるのは、ちょっと申し訳ないなぁと。

    からだはどんなペースで、どんなものを口にしたいのかなぁと、改めて考えてみたくなるのです。

  • マイペースにマイスペース2

    (つづき)

    毎日のように手作りのプランターコンポストに野菜や果物ののこりかすを与える日々。

    コンポストという生き物の集合体にご飯をあげて育てているような気持ちになります。

     

    不思議なことですが、こういったことを繰り返していると、コンポストが自分のお腹のなかのスペースのことのように感じられてきます。直接自分の胃や腸のことを考えるよりも、せっせと有機物を分解している土壌微生物の営みを見ていることで、からだのなかにあるくうかん、内臓のことが意識に浮かび上がって来るような感覚です。

     

    「あぁ、お腹の中にも1000種類くらい微生物が住んでいて、増えたり減ったりしながら、自分が食べたものをいいように始末してくれているんだよなぁ」とふと思うのです。

     

    土壌微生物が織りなす環境と体内の腸内微生物の働きのことを自身の経験を基に一冊の書籍にまとめ上げた大作「土と内臓(デイビット・モントゴメリー、アン・ビクレー著)」があります。からだのことに興味のある方にとっては有名な一冊かと思います。私も事あるごとに目を通してはふむふむと読んでいて、最近もまた目を通しています。

     

    上記の著作が興味深いのは著者の実体験・観察と実験が積もり積もったものが言葉になっているからだと思います。

     

    こうして自分も、自分なりにではありますがいろいろ試して、観察のようなことをしていると、自分のことなんか忘れて、働き者の生き物たちの世界に夢中になるのです。

     

    これがまわりまわって、目にみえない内臓のなかに住んでいる微生物の様子のことに重なり、このくうかんのことが気にかかってくるのです。

     

    自分から離れて自分以外の生き物たちやそのくうかんのことが気になってくると、「お腹のあたりが重いなぁ」という変化もからだからのメッセージもしくは、からだの営みを支えている多種多様な生物たちからのメッセージのように思えてきます。

     

    自分が食べているという「食」の営みから、今日はお腹のなかの『コンポスト』に入れすぎちゃっているかもなぁ、と感じるような内臓環境主体の「食」の感じ方があっても面白いのではないかと思うのです。

  • マイペースにマイスペース

    おはようございます。

    瀧澤さん、一週間の間(マ)のひととき、たんまりといただきました。

    本日よりテーマを「フリー」を引き継いで寺本が担当致します。

    よろしくお願い致します。

     

    前回、ブログでご報告したなんちゃってコンポストですが、マイペースで続いています。プランターに土を入れて、そこに生活の中で生じる野菜などの残渣を投入して、たまに米糠なんかをふりかけて様子を見るという試みです。

     

    夏食べたスイカの皮や枝豆の殻、とうもろこしの芯など、気分次第で少し細かくしたりして土のなかにインして観察していると、だんだんと土のなかの生き物の様相が変化していくのを感じるのが面白いのです。

     

    小さな名前もわからない虫やクモや、なにがしかの菌類みたいなもの。

    いろいろな生き物が土の中に息づいていて、日々投入される有機物を分解しているのが伝わってきます。私には想像もできない幾重にも重なった生き物の働きがあることを感じます。

     

    とても興味深いのは、分解のペースがゆっくりだったり、こちらの想像を超える速さだったり、なんちゃってコンポストそのものが生きているように感じられることです。

    気候や天候の影響を受けながら、いい具合に調整しているのでしょう。

     

    時たま、「あ、いれすぎちゃったかな」と感じる日があり、分解が追いついていないのかなぁという日があっても、翌日見てみるともう土の表面がいい感じに整っている。「準備ok、どんとこい」みたいなコンポストからの声が聴こえてくるようです。

     

    実はこの習慣を始める前に「金子みみずちゃんの家」というとても気になるミミズを使ったコンポスト容器の導入を真剣に考えていました。家庭で出る生ごみが処理できて、分解してくれるミミズの代謝物が液肥にもなるという優れもので、たのしそうだなぁと思っていたのでした。

     

    www.kowas.co.jp

     

    ある日、なんちゃってコンポストの底の方にスコップをいれて掘り返してみると、ミミズが何匹かいるのを発見。最初から土の中にいたのかわかりませんが、図らずもミミズの家にはなっているのを目撃したのでした。

     

    こうして、自分たちの食べたものの残りを土に還し、その分解の様子を見つめているうちに、この多生物が複合的に絡みあうコンポストのなかの営みが、だんだんと自身のからだの中のくうかんで行われていることと重なっている様に感じられました。

     

    土に残渣を与え、分解してもらうように、

    自分も食べるという行為を通じて、お腹のなかに生きている微生物に日々分解してもらっている。

    そんなイメージが浮かんでくるのです。

    (つづく)