カテゴリー: 寺本 雅一(てらもと まさかず)

  • いただいて、おかえしする7

    数日間に渡り、グリーンインフラなど生活環境を新たに見つめなおす取り組みについて、興味関心のあることを取り上げてきたが、この大きな循環に想いを馳せて、じぶんごととして何か再検討していけることはないか考えることが、ほとんどそのまま自身のからだの環境のこととして重なってくるように感じている。

     

    自然に本来備わっている多様な機能、多面性を再評価し、その潜在力を信頼して人間の営みを再構築する。

     

    これは「からだ」という自然環境から学び、からだに本来備わっている様々な可能性を第一に信じて、操者にできることを模索している操体の基本姿勢と重なっているように感じる。

     

    グリーンインフラでは「雨庭(あめにわ)」という雨水の浸透しやすい装置を都市の景観や家屋の庭にデザインする提案などもされている。私もDIYでぜひやってみたいと画策している取り組みで、これは京都の寺院仏閣の伝統的な石庭様式で実践されていたことの延長にあるものとのこと。

     

    古の智慧は自然の循環を踏まえて設計されているものだと改めて感服する。

    この智慧を見直し、再構築する面白さがグリーンインフラの分野にはある。

     

    智慧を見直すと言えば、操体の創始者、橋本敬三先生も温故知新の人であったと聞く。

    当時の西洋的医学のアプローチの限界から、民間療法などの智慧に目を向け、実際に実践者との交流を通して学びながら、からだに備わる自然に目を向け、そこから自然法則の応用貢献の萌芽を感じ取っていたのではないかと思う。

     

    自然を師として物事を考え始めると、その場だけの解決では済まない事を痛感させられる。

    プロセスの辿った先に向かう方向性が、大きな循環の流れにしっかり重なっているか、それとも、滞留の道筋へつながっているのか。

     

    ヒトのからだも、そのからだを取り巻く環境も、受け取ったものが素直に流れていけないことが発端で悩みの種となっている場面が目に付くようになっているのではないかと思う。

     

    いただいたものを、どんな風に自然におかえししていけるかは、その人自身の経験値によって営まれるアクティビティで、それは結構な「じぶんごと」で手間はかかるかもしれないけれど、面白い。

     

    いいか、悪いかやってみることは、「自然」と直接の関わりをもつこと。

    いつものペースで「パッ、パッ」とはできないかもしれないけれど、色々試しながらの「ゆっくり」を味わえること。

     

    私は今回グリーンインフラから色々なきっかけをいただきましたが、みなさんもお近くで、何がしか興味関心のアンテナがひっかかるものがあれば、流れを見直すきっかけとして、アクセスしてみてはいかがでしょうか。

     

    それでは、一週間のおつきあいありがとうございました。

    明日から友松実行委員のフリーがはじまります。

    おたのしみに。

  • いただいて、おかえしする6

    (昨日のつづき)

    グリーンインフラなるものを知り、興味を抱き始めたことと同時に、

    気が付いたら私の日常のなかで、サバイバルの映像を眺めている時間が生まれていた。

    ディスカバリーチャンネルの大人気番組、エド・スタッフォードの映像だ。彼の大自然のなかでのチャーミングな立ち振る舞いがクセになり、日々たのしませてもらっている。

     

    様々な国の過酷な自然環境のなかで、ほぼ身ひとつで数日間をあの手この手でなんとかしのいでいく。生命維持に不可欠な飲み水や火の確保、寝床や食料の調達など基本的にすべて囲まれている環境からいただいて生活をする。

     

    そのクセになる一因のひとつは、このサバイバルエンターテインメントに必要な立ち振る舞いがブリコラージュの姿勢と重なるように感じるからだと思っている。身近にあるもので、創意工夫をして対応していくそのスタンスだ。

     

    お金さえあれば、必要なものは自分でどうにか拵えなくても、他所からすぐに手に入る。そういう生活ではなかなか身につかない原始的なヒトの智慧である。私自身もそういった姿勢は元々培われていないところに、輪をかけて錆びついているのを痛感する。

     

    グリーンインフラに話を戻し、市町村や自治体、国を挙げての大規模な取り組みにはもちろん期待していくしかないが、同時に重要なのは個人レベルでできることを各人が模索することではないかと感じている。

     

    模索するなかで行われるのは、自然を観察して気付き、古の智慧を見直し、小さなところから身の丈の実践をたのしむブリコラージュの蓄積だと思う。やってみて考えるの繰り返しで、自分自身の生活が少しずつ変化を遂げていく。

     

    操体の目線で眺めてみると、グリーンインフラには「環」境から自分自身の生活を見つめなおす、格好の機会となるのではないかと感じている。

  • いただいて、おかえしする5

    (昨日のつづき)

     

    自然の巡りの生命活動のなかで、人間がその流れに寄り添うようにどのような生活を創造していけるのか。

     

    都市部に雨が降った際に、人間がつくった下水道に集約していく雨水の量を見直し、代わりに雨水が地中に浸透していく流れを模索する。

    グリーンインフラの流域治水の説明のなかで、その考え方をいくつか教えていただいた。

     

    ひとつには水田や農地、緑地や屋敷林など植物が根を張っている土壌環境の持っている浸透能力を再認識することだ。アスファルトや家屋の屋根に降り注ぐ雨水の浸透能力は0mm/hだが、これが植物が根を張っている環境では浸透能が生まれてくる。

    人間に踏み固められた裸地やグラウンドでは7mm/h程度の能力になるが、農地や落葉樹林の生育する土地では200mm/h以上にもなるというデータを見せてくれた。

    植物が地中にデザインしている環境能力がいかに優れているかを教えてくれる。

     

    このことを踏まえて、雨水の自然循環という視点でも上記の緑地などの価値を見直していくことができる。

     

    同時に、大変興味深く、またひとごとではないように感じたことがある。

    それは、こういった緑地などの自然環境が与えている多面的な効果だ。

    温室効果改善へのプラスの影響や、人間以外の生き物にとっての居場所、生態系の再構築、また人によって好みは分かれるかもしれないが、植物がもっている癒しの効果の可能性もある。

     

    これは自然の持っている多面性のほんの一部でしかない。

    人間の観察力と創造力、好奇心や言語能力などあらゆる智慧を自然の有している豊かな多面性を再評価することに全力で傾けていくことが求められていることを痛感した。

  • いただいて、おかえしする4

    グリーンインフラで提案していることのひとつに、降り注ぐ雨水を下水道に流す以外の方法を取り入れていくというのがある。

     

    例えば、都市部に降り注いだ雨のうち、道路や舗装された歩道のコンクリートに着水した水はそのまま地中にしみこむルートを辿らず、路面の排水溝などを入り口として、地下の水の管に吸い込まれていく。

    人間が掘って埋め込んだ地下のパイプ網に集約されていく。この人工の下水道への雨水の流入を何かしらの方法で減らしていくことはできないかという眼差しだ。なぜなら、この人工の管のキャパを越える水の流入が起こることで都市河川の氾濫や道路の冠水などが起こる可能性があるからだ。

     

    これは言われてみれば当たり前のことだけれど、今回学習するまで、こういった水の流れに意識を及ばせることがあまりなかったことに気が付いた。思っている以上に、人間の生活は人間の手によって、管理されているのだ。

     

    土埃が舞う地面が露出していた時代は、その地表に雨が降れば、地面から直接地中に雨水が浸透していく流れが存在していた。

    着々と都市化をすすめてきた現在は、地表をコンクリートなどで覆ってきた結果、車も走りやすく、ヒトも歩きやすくなったが、代わりに、地中に浸み込んでいかなくなった雨水の行方を人間が管理する必要性も生まれてきた。天から地に素直に水の流れが循環していたところに、人が介入して、その流れが変わってきたのだ。

     

    自然の元々もっている循環の道筋の途中に、人間の営みがその流れを変えるような関りを与えている。ある面においては素直な流れを遮っているようにも感じられる。

     

    人間の智慧で生活を豊かに、便利に、合理的にしていこうという試行錯誤が行われてきたが、なかなか自然に本来備わっている流れや循環の可能性には届かない印象がある。

     

    なぜなら自然には多面性が宿っているからだ。この多面性を観察し、理解し、評価し、そこから何か営みのなかに応用貢献していけることがないか模索するのが面白いのではないだろうか。

    グリーンインフラの眼差しは、そういうことを再確認し、再評価し、実践することにつながっているから、これからのヒトの創造的な営みとして大いに可能性を感じ、いいなぁとしみじみ思うのだ。

     

    そしてこういったことを通して感じることは、そのまま、からだのことにも重なってくるように感じられる。

     

    雨が降ったあと、道路でうねうねして土に還れないミミズをみつけてつまんではそんなことを考えている。

  • いただいて、おかえしする3

    自然環境の元々もっている循環能力と、人間の生活との接点について考えるいい機会として、最近地元で企画されていたグリーンインフラ(グリーンインフラストラクチャ―)なるものの講習会に参加して来ました。

     

    これも、最近かかわりを持つようになった小学校の畑活動の延長で知ったことだ。

    私が参加したのは地元杉並区の講習で、区としても今後この取り組みに力を入れていけないかという姿勢、熱意を感じる内容で非常に興味深かった。

     

    グリーンインフラの捉え方は奥が深い。

    こういった名称で捉えるようになったのは、まだまだ最近のことだと思うけれど、その内容が包含していることは、結局、人間が創造してきた営みのカタチを自然環境をもう一度深く観察して、その循環系に寄り添った方法を模索して、また新しい都市化のヴィジョンを再創造することに文明の叡智を応用できないか、というようなものだと感じた。

     

    その一例として「流域治水」への取り組みが挙げられていた。

    私自身も神田川の近くで生まれ育ったので、川の氾濫、洪水については昔から身近なトピックだった。最近も秋田・山形の方では大雨による大変な被害に悩まされている地域があり心配だが、都市化した生活環境に降り注ぐ雨がどのようなルートを辿っていくかということを考えるのは非常に新鮮だった。

     

    神田川は私が幼い頃はよく氾濫していて、強めの雨が降ったら地域の人と土嚢を運ぶのが常だった。記憶に残っていないけれど、昔は洪水で1階が冠水して2階の窓から救助隊のボートで非難したこともあったという。

     

    それが平成に入っていつからか、洪水で土嚢を運ぶということがめっきりなくなった。

    それは大雨の時に地下に水を流すトンネル(神田川・環状七号線地下調節池)が昭和から平成に移り変わる頃から掘られ始め、それが完成し、運用されるようになったことが、大きな一因だと思う。

     

    昔はマンホールから水が逆流している風景に遭遇することもしばしばだったが、そういう光景もほとんど目に入らなくなったように感じる。

     

    下水に流入する雨水を、川に流さずに一旦地下の貯水施設にプールする。

    そういう取り組みは今までもすすめられてきたことではあるが、今回知ったグリーンインフラという捉え方はまた別の切り口から雨水を見つめるものだった。

     

    (つづく)

  • いただいて、おかえしする2

    日常の生活はあらゆるところで電気の恩恵に支えられています。

    たまに、「もし急に電気が使えなくなったら、自分はなにかできることがあるだろうか」といったことを考えることがあるのですが、まぁ思い浮かびませんでした。。

     

    そんな時に、所さんの「世田谷ベース」のなかで、ソーラークッカーなるものが紹介されているのを拝見しました。太陽光を利用することで、電気がなくても温めや調理ができるというものです。番組では、プリンプリンの田中さんがおいしそうなパンケーキとおいもをふかしていました(学生時代に毎週楽しみにしていたボキャブラ天国を思い出しました笑)。

     

    これは試してみたい!と思い、早速紹介されていたクッカーを購入。

    「昭和理化学器械株式会社」さんのクッカーです。足利工業大学の中條先生と開発された、段ボールの片面に反射する加工がされていて、比較的軽くて折りたためるタイプのものです。

     

    www.ecoenergystyle.com

     

    ソーラークッカーは空模様に大きく左右されます。

    私が思い立ってクッカーを手に入れたのが梅雨の最中だったこともあり、なかなか晴れ間がやってこないなぁと思い、もう我慢できず曇り空のなかで試してみました。

     

    第一弾はとうもろこしを蒸かしてみたのですが、梅雨時期の昼前、曇り空でも、屋外に設置していると、クッカーの中に置いている黒い飯盒があったかくなってきて、それだけでもだいぶ感動しました。

     

    そして、少しでも空模様に晴れ間がみえると、あったかいじゃなくて、熱くなってきて、太陽光をうまく集まる様に設計されているクッカーの能力に感激しました。

     

    なにより、曇っているところに太陽の光が姿を現し始めると、もううれしくなってしまって、「あぁ、ありがたいなぁ」としみじみ感じるのがまたいいのです。

     

    しかし残念ながら、その日はまた曇ったりで、結局2時間くらい設置していましたが、とうもろこしは全体的に熱くなっていて、蒸されていたものの、もう一押し太陽下におければよかったかなという結果でした。

     

    ソーラークッカーという道具はそのエネルギーの源が太陽から届く光なので、太陽が燦燦としてくると、とても嬉しいきもちになります。

     

    夏の暑さが厳しい時期になりましたが、「うわー今日も暑そうだなぁ」という気持ちとともに、「でも、今日はクッカーが最高に威力を発揮しそうだなぁ」なんていうもう一つの気持ちが私のなかに芽生えてきました。

     

    電気がなくても、太陽があればあたたかいものを口にすることができることがわかって、何か自分の中で、ひとつ腑に落ちるものがありました。

    古代人が太陽を神として信仰するきもちも、なんだか少しだけ想いを馳せることができる気がします。

     

    ソーラークッカーのような自然に対しての、人間の智慧や工夫の応用の仕方は素晴らしい。

    もっと様々な分野でこの智慧を展開して、自然との接点が増える人間社会に結びついたらいいなと思っています。

  • いただいて、おかえしする

    瀧澤さん、一週間のメッセージありがとうございました。

     

    心の振動をいただいて、引き続きブログのテーマ「フリー」を引き継いで寺本が担当します。

    本日から一週間よろしくお願い致します。

     

    わたしたちは「自然」から色々なものをいただきながら生きている。

    そんなことを改めて感じる今日この頃です。

     

    ここ数ヶ月ほんのわずかな時間ではありますが、小学校の畑の管理を通して、土に触れる機会を持てるようになり、「実際に触れてみる、やってみる」という経験を味わっています。

     

    作物を育てるようになり自分自身に変化を感じたのは、天候について気にかけることが以前よりずっと増えたことです。以前は、『台風が発生しそうです』、というニュースが聞こえてきても、「あぁ進路次第では何日か後は雨が大変そうだなぁ」くらいしか考えていませんでした。

     

    でもトウモロコシを育てはじめると、実が育ち始めたトウモロコシが何日か後にやってくるかもしれない暴風雨によって倒れないように、「もう一段高いところで支柱に止めておこうか」などと仲間と備えについて相談するようになりました。

     

    自然を直に相手にする機会をもつことで、自然のリズムやそのながれをキャッチしながら、人間にできることを考えて、手をうごかすようになる。

    あぁ、普段はスーパーや八百屋さんで野菜を買うお金を払ってこういった自然と向き合う作業を農家さんに代わりにやってもらっているんだなぁと。

     

    そして、いろいろなものを自然から与えてもらっていて、享受しているけれど、そのいただいたものを、ではまた今度自然にどれだけ「おかえし」できているだろうか、なんてことをまた考えるようになりました。

     

    家庭の生ごみのことが以前から問題となっていて、生ごみは絞ったり、乾かしたりしてから燃えるゴミに出すようにしよう、なんてよくあるけれど、野菜の残渣を燃えるゴミとみなしている時点で、自分のなかで自然におかえしするということからは途方もない距離がまた開いていっている気がしてしまう。

     

    そんな悶々とした想いを抱えながら、試しにコンポストまがいなものをつくってまた次の作物を育てる土に還していけないか、なんて枝豆の殻に米糠をふりふりしながら悪あがきをしてみる。

     

    作物栽培とその消費活動に限らず、自然の持っている自然な循環のなかに、人間が都市化した生活を引きずってその循環のながれを止めずに重なっていくには、結構な勉強と工夫と細やかな変化を要することを感じる。

     

    基本的には人間の生活は自然の持っている循環能力から離れたところで、人間のコントロールのもとに営もうとしているように思えてきて、一部ではそれが結構うまくいかなくなってきていて見直しを余儀なくされているように思うのです。

     

    もう少し自然を観察して、観察して、観察して、、、

    いただいたものを、自然におかえししていくようなこと、何かできないかなぁと散歩しながら考えています。

    自然のなかの都会に生活しながら、自然に一巡していく感じを、少しずつ自分なりの関わりとして模索できないかなぁと。

  • ふれる習慣7

    先日お伝えした畑仕事の延長で、ビオトープの育成にも関わらせてもらっている。

    近所の小学校の一角に水を貯められる角型のバットのなかで、ヤゴなどの繁殖の場をつくっている。

     

    ほっておくとこの環境にはアオミドロがわっさりと増えていく。

    増えすぎるとバランスがよろしくないので、手を突っ込んで増えすぎたアオミドロを整理したりする。

     

    最初このアオミドロが繁るなかにどんな生き物がいるのかわからないビオトープに手を突っ込むのに、正直勇気を要したのだが、えいやっと手を入れてみると、これがなかなか結構楽しくなってくる。

     

    古くなったオオカナダモを取り除いたり、そのオオカナダモに絡みつくアオミドロをよけたり、元気なヤゴに触れたり、どこからともなくやってきた小さいメダカをながめたりと、黙々と作業しているだけだが、これが普段使っていないなにかを使っているような不思議な感覚時間を味わえる。

     

    素手で何かをする作業というのは、たのしく熱中できる営みにつながっているように感じる。そういえば、先日のブログでも、スポンジを使わずに素手で洗面台や台所など掃除することにハマっている件をご報告したが、そのハマる要因を改めて考えてみると、黙々と熱中できることや、やっていて実感を持ちながらたのしく取り組めることがあるなと思う。

     

    なんとなく、手先だけで作業している感じじゃなくて、からだ全部で営んでいるような感覚を味わえている気がする。

     

    先のビオトープの手入れを黙々としていると、気が付くとシオカラトンボがすぐ近くを飛んでいたり、羽化するための支柱に留まっていたりする。そんなときに、これもなんとなくではあるが、都会の中にいて、自然に溶け込んでいるような気持ちになる。

     

    便利なものが増えていくと、気を付けないと「触れる(ふれる)」機会がどんどん自分の周囲から失われていく気がする。自然環境から人間の作り出した人為環境へさまざまな営みが移行していく。

     

    そんななかで、現在の自分のたのしみは触れる機会をどんなことでもいいから自分の周囲に発掘していくことだ。適当にやろうとすると、なんでも面倒だったり、つまらなかったりするけれど、大抵のことは、「触れる(ふれる)」という感覚意識で取り組むことで、面白さがそこに加わってくる。それがとても不思議な現象だと思う。

     

    そんな試行錯誤を続けながら、自身の周囲における自然環境と人為環境の程よいバランスを探っていければと考えている。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日か友松さんの「Free(フリー)」が始まります。

    どうぞ、おたのしみに。

     

     

  • ふれる習慣6

    日常生活のなかで植物や野鳥に親しみを感じるようになって、そういった生きものと少し積極的に触れ合う機会をもつようになると、何気ない外界からの情報の入り方にも変化を感じるようになった。

     

    一番はっきりと感じたのは、町を歩いているとき、もしくは自転車で走っている時の感じの変化だった。

     

    私は少なくとも週に一回、三軒茶屋に自転車で通っている。

    移動する時間帯によって、その道中に出会う情報は様々だ。

     

    早朝7時頃の移動では車も人も往来は少なく、風が吹いているのを感じ、朝日の気持ちのよさを味わいながら快適にスイスイ移動できる。

     

    これが、当たり前のことながら、昼頃の移動だとそうはいかない。

    車も人も格段に増え、気が付くとそういった対象に意識を向けながら目的地に向かってただただ移動しているのに気が付く。意識が人の往来などに引っ張られているのを感じる。

     

    その意識の向け具合のようなものが植物探索や野鳥の声に興味を抱くようになり、少し変化したように思う。

    目も耳も意識の範囲が拡がって、人や車の存在にも及びつつ、もう少し空間的な捉え方に変わった気がする。

     

    例えば、道中に名前のわかる植物が増えていくと、毎週通る道なので、「馴染みの存在」みたくなる。なんだか、ことばを持たない生き物の友人と目を合わせ挨拶しながら移動している感じになる。

     

    遠くから鳥の鳴き声が聞こえてきたら、それだけで感覚意識の範囲が変化するように感じる。何かスイッチが入るような感じがある。

     

    その時の空間的な視野は、人や車に注意をしながら移動するときの集中した感じとは異なって、もう少し空間的なゆるみをもちながら情報を受け取っている感じがある。

     

    こんな風に振り返ってみると、今までは色々なものに気を付けながら移動していたようでいて、障害物をよけるような感覚で、或る種、局所的な意識の向け方をしていたのかもしれないと感じる。

    窮屈な意識の使い方をしながら、雑踏の空間に臨んでいたのを感じる。

     

    感覚意識にスイッチが入って、情報を受け取る感じに少しゆるみが生まれると、人混みの中にいても、もっと他の情報も感じられて、受け取り方にも隙間が生まれているのを感じる。

     

    空間から受け取っている情報が変化する。

    これも探索を通しての興味深い変化としてたのしんでみている。

  • ふれる習慣5

    植物探索に続いて、連鎖するように興味を抱いたのは都会にいる野鳥の存在だった。

    先日紹介した雑草図鑑の姉妹本で野鳥を扱ったものもあり、

    これがたまたま我が家にあった。

     

     

    (このペースでいくと”山渓”のこのシリーズはすべて買い揃えてしまいそうである)

     

    最近、鳥好きの方と続けて知り合いになったこともあり、なんとなく野鳥のことは気になっていたが、せいぜいドバト、カラス、スズメ、ウグイスだかメジロだか、それと電線に留まっているでかいインコ(ワカケホンセイインコ)くらいしか頭になく、なかなか縁遠い存在のままだった。

     

    そんな中、鳥好きの方と一緒に畑作業をしていて、とても興味深い体験をした。

    その方が急にピタッと手を止めて彼方を眺め始めたのだ。

    どうしたんだろうと思うと、どうやらどこかで野鳥が鳴いているのがきこえて、その声を頼りに探していたのだった。その人は鳴き声で何種類かの野鳥のききわけができる方だった。

     

    なるほど、鳴き声か。

    そういえば日中の時間帯に、鳥の鳴き声から鳥の種類を判別するとか、そういったことをやってみることなんか思いつきもしなかったなと思った。バードウォッチングならぬ、バードヒアリング?とでも言えばいいのか。

     

    それからというもの、自宅にいる時も、散歩している時も、自転車で移動している時も鳥の鳴き声に耳を傾ける時間をもってみるようになった。そうすると、なんの鳥がさえずっているかは勿論わからないけれど、結構たくさんの種類の声が聴こえてくることに驚いた。

     

    何とも言えず、鳥の鳴き声が音を介して触れてくるような感覚を味わうようになった。

    しかし、あんなに小さなからだで、あんなに遠くからよくもまぁしっかりと声が響いてくるものだ。

     

    もうひとつ自分自身面白い変化があった。

    鳥の声に耳を傾けることをするようになって、朝、設定しためざましアラームの鳴る前に鳥の鳴き声が聞こえてきてハッと目が覚めるているのでは、と感じる機会が増えた。確認することはできないが、そういうとき目が覚めてまず意識が向いているのが外で鳴いている鳥の声なので、多分その響きがきっかけになっているのではないかと想像する。

     

    日常生活で耳の使いどころを少し変えてみているからだろうか。

    この調子で鶏の「コケコッコー」ではないが、アラームなしに、近所の野鳥に起こしてもらえるようになったらとても理想的だなぁと思う。