カテゴリー: 寺本 雅一(てらもと まさかず)

  • ふれる習慣4

    (続き)

    雑草図鑑を片手に探索をはじめた最初の頃、先日のブログでも触れたとおり、なかなか図鑑に載っている植物を見つけることができなかった。

     

    普段の目線の高さで「この植物生えてないかなぁ」と探していてもなかなか見つからない。ようやく見つかりだしたのは、しゃがんで観察するようになってからだった。

     

    このしゃがむまでの道のりが、意外と自分にとっては重い腰をあげるといった感じで、そこがひとつの分岐点となっているのを感じた。本腰をいれていなかったのだ。

     

    普段生活をしていて、何かを観察するためにしゃがむなんて、ほとんどしていないことに気が付いた。と同時に、こどもの頃はしゃがんで観察していたよなぁと思い出した。

     

    このスタイルで観察しはじめると、立って漠然とながめていた時には見逃していた植物や、小さな花の存在が目に入ってきた。

    見ているようで、見えていないものがあることに驚いた。同時に、探索の面白さも断然増して、だんだん図鑑に載っている植物と出会えるようになってきた。これはとても不思議な変化だと感じた。

     

    見えている世界のスケール感や解像度のようなもの、

    それが、しゃがむことで大きく変化するのがとても面白い。

    しゃがむことで、「見る」から「見えてくる」に変化することもあるのかもしれない。

     

    なぜだか分からないけれども、このしゃがんでいる時の感覚意識と、

    場面は変わり、皮膚に触れて、からだからのメッセージを受け取っているときの感覚意識が重なるように感じる。

     

    これも植物と「触れ合う」ようになって、教えてもらった。

  • ふれる習慣3

    (続き)

     

    植物に親しみを感じ、自分なりに探索などしていると、前日のブログでも触れたような「目」の新鮮な感覚を味わう。

     

    新鮮さというのは、目で触れているような、とても穏やかな目の使い方を感じることだ。植物に近寄って観察していても普段感じるような目の疲れとは違い、寧ろ、目がリフレッシュするような感じがする。

     

    逆に、こういったことに目を使っていると、何も意識していないときは、目から結構刺激的な情報を受け取り続けていることに気が付く。パソコンしかり、スマホしかり、テレビしかり。

     

    パソコン作業で目が疲れた時などは、外に出て、馴染みの植物をとっても近い距離でながめることが、最近のブームで、私にとっては、最良の目薬のようなものとなっている。

     

    刺激的でない、触れるような、接触するような目の使い方。

    試行錯誤している最中だが、これもからだの使い方・動かし方の延長にあるものだと感じる。

  • ふれる習慣2

    家の周りに自生している植物を探索するようになって、

    最初の頃は、なかなか図鑑にのっている本が見つからなかった。

     

    「キュウリグサ」なんていう名前のついた植物は、たくさんの淡い青色のかわいい花が図鑑に載っているが、この花は実際は2mmくらいの大きさなので、サーっとながしてみていると全然気が付かない。

     

    本腰を入れて、しゃがんで食い入るようにその辺の草を観察すると、以外とすぐ見つかる。一度見つかると不思議なもので、次からはすぐ気が付くようになる。

     

    植物学者の牧野富太郎氏が「牧野富太郎植物記」のなかで

    「植物となかよしの友だちになるためには、まずその植物の名を知ることです。(途中省略)草の名を知ると、その草はもうわたしのなかよしの友だちになりました。わたしはなんどもこの友だちにあいにいって、花のしくみや、葉の形、実のすがたなどをこまかくしらべ、しっかりと頭におぼえこみました。

    それからというものは、いつどこで出会ってもこの草はわたしにほほえみかけてくれるようになったのです。」

    と語っているが、なんだかとてもわかるような気がする。

     

     

    一度しっかりと出会った植物は、次からは別の場所で遭遇しても、馴染みの友だちのようなきもちがわいてくる。気のせいかもしれないが、植物がこちらをみてくれているように感じることもある。牧野氏の『ほほえみかけてくれている』という表現がそこに重なる様におもう。

     

    先述のキュウリグサも出会うまでは全然気が付かない存在だったが、一度出会ってからは、少し歩けば目に入る感じで身近な存在へと変化した(実際、我が家の玄関を出て、車道の向こう側にいたのをみつけたときは「あ、こんな近くにいたの?」と驚いた)。

     

    普段いろいろな情報に触れているけれども、見ていないもの、見えていないものもたくさんあることを思い知らされる。

     

    「目」という感覚受容器を使って、日常生活で見ているものが、なんだかとても限られたものになっているような気もちがしてくる。

    そして、植物を眺めていると、刺激的な情報を見ているというよりも、目を通して触れているような感覚になるのが興味深い。

  • ふれる習慣1

    瀧澤さん

    一週間のメッセージありがとうございました。

    植物を前にしていると、生命の大切な秘密に触れているんじゃないか、というようなきもちになりますよね。

     

    本日からテーマ「free(フリー)」を引き継いで寺本が担当します。

    宜しくお願いします。

     

    今年は春先からひとつ続けていることがある。

    それは身近な生き物に目を向けるようになったことだ。

     

    ひとつは、植物。

    主に雑草と呼ばれている生きものに触れるようになった。

     

    前々から、自然に生えてきては、増えて、そして枯れていく植物たちのことが気にはなっていた。でも、ずっと触れ合う糸口のようなものが見つからなかった。

     

    「名前を知らない」ということが、その理由のひとつになっていると思い、一番手軽そうな図鑑を片手に名前を調べることから始めた。

     

     

    「花」を切り口に植物の検索をするのは、面白く、親しみやすい。

     

    家の周りに集団で生えているこの植物の黄色い花、これはなんて名前だろう、、、なんて花の色から図鑑を調べて、「あ、これだ!」と見つけるのも楽しい。

     

    また図鑑をパラパラと眺めながら、「載っている花はないかなぁ」、なんて家の周辺を逆に探索するのも、興味深い。図鑑に載っている植物に出会えると、宝物を見つけたような、まさに宝探しをしているようなきもちになる。

     

    そういった手探りな植物との触れ合いを通じて、「こども心」というものが蘇るような感触がある。これはとても大きな収穫だった。

     

    「そういえば、こどもの頃はこんな風に無心で遊んでいたよなぁ」と感じつつ、それが遠い記憶の再生ではなく、いま実際に自分自身で味わっている感覚だというのがいい。

     

    こども心のような素朴な感性は、眠っているだけでちゃんとからだのどこかに残っている。

    感性のスイッチが入るようなことはみなさんも日々の生活でたくさんあるだろうが、今回はそういうきっかけになるんじゃないかということをいくつか書いてみたいと思う。

  • 臨床と生活にいかす操体法 7

    今年度春季東京操体フォーラムのメインテーマは、今回のブログテーマにもなっている通り、「臨床と生活にいかす操体法」です。

     

    「いかす」または「いきる」ってどういうことだろうと考えていて

    思い浮かんだのは「点」と「点」だったひとつひとつの学んでいたことが、「線」によってつながる、そんなイメージです。

     

    こどもの頃に鉛筆でつないだことのある「点つなぎ」。

    順番につないでいくと、気が付いたら一つの像として浮かび上がってくる不思議さ、面白さがありました。

     

    以前、学習している時に気付けなかったことが、実技を通してからだで体験しているときに、急に「あぁ、このことだったのかも」と気付きのきっかけをもらえることなど、繰り返し繰り返しの経験の中で少しずつ味わえることがあると思います。

     

    臨床についてのあれこれとして学んでいたことが、日々の生活のなかでもふとした瞬間につながりをもって感じられることがあれば、それも点と点が線になってつながった瞬間といえると思います。

     

    点が線として感じられることとまた違った感覚で、学んでいることが「重なる・重なっている」のを感じることがあります。

     

    特に、操体はこの学んでいることが重なっていくことを感じられる、からだを介した学問だと思います。

     

    春季フォーラムでもこの点と点が線としてひとつのつながりを持って感じられることや、以前学習したことが、からだを介して感覚を通じて重なるような、そんなきっかけとなる空間となればと思っています。

     

    自分のなかで忘れていた「点」に

    灯って、宿って、繋がって、拡がって、重なって、

    またその先にいかせる学びの場になればと思います。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日から友松実行委員のブログがはじまります。

    どうぞ、おたのしみに。

     

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  • 臨床と生活にいかす操体法

    手でふれて確認する。

    足の裏でふれて確認する。

     

    ここ数日ブログで綴ってきた習慣のように、

    手や足の裏からの情報に意識が向くような生活を過ごしていると

    自ずと「感じる」機会をもつようになります。

     

    普段、何も考えず作業することもあれば、

    アタマを使って意識的に作業することもありますが、

    手や足の裏の感覚を介して作業をすると、

    感じながら作業をする機会がうまれます。

     

    昔ながらの手仕事の領域では、

    この「感じながら」の作業が豊富に含まれていたのではないかと思いますが、

    実際やっていると、そういう時は普段感じられない間(ま)がそこにうまれているような気がします。

     

    操体の臨床も「間(ま)」を大事にしていますが、

    生活のなかでも、ちょっとした日常習慣をきっかけに間を感じることはできます。

     

    その人なりの感じながらする作業がみつかれば、それも見方をかえれば「セルフケア」のような時間と空間になっていくかもしれないと感じています。

     

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  • 臨床と生活にいかす操体法 5

    昨日は「手」を使う「接触」の習慣について書きましたが、

    同様に「足」で接触することについても興味深く感じています。

     

    直立二足歩行の人間は立つ、歩く、座る、立ち上がるなど、生活の基本動作のなかで、足の裏を地面に着けて生活しています。

    そのなかで、「足の裏で触れている」という感覚意識をもつことは意外と多くはないのではないでしょうか。

     

    私は家の中では靴下を脱いで素足で生活しているのですが、素足でいると足の裏で触れている感覚が味わえてとても面白いです。

     

    例えば、台所の空間に入ると、床に落ちているチリやほこり、ゴミなど大小さまざまなものに触れているのを感じます。そんな風に足の裏から情報が入ると、パッと見綺麗に見えても、ほうきでさっさと掃いてみると、チリが結構集まります。

     

    これを一日に何度かすることがあるのですが、毎回同様の量が集まるのが本当に不思議です。

    ヒトが生活して動いているから、空間の様々なものもうごいているんだなと感じます。

     

    足の裏から感じる世界。

    これも、目でみてもなかなかキャッチできない、接触ならではの情報だと感じています。

     

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  • 臨床と生活にいかす操体法 4

    昨日「接触」についてのことを書きましたが、私自身も身の回りを見渡してみれば「接触」の機会を失っているように感じています。

     

    こどもの頃は、あそびのなかで何にも考えず色々なものに触れてみていました。

    全身でそういった経験を味わっていたように思います。

     

    そんな感覚世界に比べれば、あぁだいぶ触れることから離れているなぁと感じるのです。

    そんななか仲間のライフスタイルを参考に、生活のなかに取り入れるようにしているのは、道具を使わず、手を使って掃除をすることです。

     

    台所の流しや洗面台など、スポンジを使わずに手で触れながら掃除していると色々発見があります。

     

    目で見て「綺麗かな」と感じた場所でも、

    触れてみると、結構ざらついた感じが残っているのがわかったり、手で磨いていると僅かな汚れが頭で考えなくても伝わってくる感じがあることです。

    これは、頭を使わなくてもできるぞと思い、試しています。

     

    手で見て、磨き終わった後は、視覚よりも触覚が生き生きとしているのが感じられるようで、それがとても感じがいいのです。

     

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  • 臨床と生活にいかす操体法 3

    生命活動は「接触」を伴う現象に溢れているように感じます。

     

    対して、人間の営みは刺激的なものの割合が増えてきて、

    気が付いたら生活の多くを占めるようになってきたようにも思います。

     

    操体を学んでいると、度々この「接触」と「刺激」という捉え方について考えることに帰ってきます。

     

    からだに触れていると、「呼吸」という動きそのものが、非常にダイナミックなからだのうごきとして伝わってきます。

    普段意識していないだけで、からだの営みは様々な表現によって成り立っているのを感じ、目では捉えることのできないうごきの世界があることに驚きます。

     

    目にみえる動きや、目にはみえないうごき。

    そういった「動き(うごき)」をからだを介してを学んできたのが操体です。

     

    生命活動も日常生活も、こころとからだの動きが重なって成り立っています。

    この動きについて学習することは、そのまま臨床と生活にもいきてきます。

     

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  • 臨床と生活にいかす操体法 2

    操体を通して学ぶことは、臨床と生活、そのどちらにもいきてきます。

     

    自分自身も操体を学びながら気が付かないうちに、その恩恵を受け取ってきたことを、改めて感じています。

     

    臨床に必要なことを学んでいると、それが自然と自分自身にもかえってくる。

    また、自分自身のことを学んでいることが、臨床にも影響しているのを実感してくる。

     

    からだとこころを介して、学んでいることが循環していること、またそれを感じられることが、操体の面白いところです。

     

    生活と臨床の循環がつながり、

    それが空間を介しても伝わっていくように感じられます。

     

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