誰でも、慣れ親しんだものを捨てるのには勇気が要る。
親しむ(染む)のは良い事なのだが、
慣れる(惰性)のは”居付き”の始まりである。
時折、見直しが必要であろう。
何を残し、何を捨てるか、そこが難しい。
煩悶するところである。
「不易流行」、芭蕉さんは風雅なことを言ったものだ。

一つの事を極めていくと、純粋化していく。
そうすると、見た目には簡単そうに見える。
複雑なものが整理されて、一点に凝集している。
それに接する者をして、「奥深い」と感じさせる。
しかし、一歩足を踏み入れると、気が遠くなるほど難しい。
が、そう感じ取れる人には、まだ希望がある。
多くの場合、拒否反応を示すか、スルーしてしまう。

本日で最終日となりましたが、「シンカ」について色々書かせて頂きましたが、これは「変わる」ということでもあり、そのヒントは様々な所にあるように思います。
特に最近では何気ない日常生活に目を向けるようにしています。
例えば、自転車に乗れなかった子供がある日いきなり乗れるようになる。なぜ乗れるようになったのか。それには私達が学んでいることに結びつく様々な要因があります。
このように日常の些細なことに目を向けていくと、出来ないことには「出来ない理由」があり、その「ちょっとしたこと」に目を向け、改善していくだけで人は変わり、進化していくのです。
特に子供の時に誰に教わることなく「自然に出来るようになる」ということには、無意識の学習があり、私達大人が学ぶべき非常に重要なヒントがあるように感じます。
こういったことは臨床でも活かせることであり、私達は常に周囲にあるヒントを拾っていくアンテナを張っていく必要があり、その進化の先に橋本敬三先生が言われていた「自然法則を応用貢献していく」ことに繋がっていくのだと思います。一週間ありがとうございました。
来週からは半蔵さんです、お愉しみに。
以前、三浦先生から「運命の法則」(天外伺朗著)という本を紹介して頂きました。著書の中で天外伺朗さんは様々な法則を説かれていますが、その中で「プロセスの法則」の重要性を説かれています。そこでは結果よりそこに行き着くまでのプロセスが大切だと書かれています。
「プロセスが悪いと、次へは繋がらない。これは個人の人生でも同じだ。結果よりもプロセスが大切なのだ」(P102より)
この言葉からも伝わってきますが、色々思考錯誤し、そこから生まれた結論、答えというのは意外とシンプルなもので「あ、こんなものか」と記憶にもそこまで残らなかったりします。
しかし、そこに至るまでのプロセスで気が付いたこと、悩まされたことというのは答えよりも記憶に残り、次の学びの糧になっているように感じます。
このようなプロセスの捉え方は物事を進化させていくことにおいて、とても大切なことでプロセスがない進化は真価に繋がっていきません。
現に私達の学びも重心の捉え方を根底から見直すことで臨床の通し方も進化の途中でありますが、そのプロセスの中で得たもの方が結果よりも大きな財産になっているように思います。
またプロセスの過程において過去の遺産に執着し過ぎないことも大切なことです。
特に私達のようにからだに学習させることを大切にしている学問は時に過去の遺産が邪魔になることが多いです。つまり過去と現在の比較が生じてしまうからです。
こういったことからも、結果や過去にこだわり、執着しないことが進化には必要なことだと思います。
4年に1度のオリンピックが開催され、各競技熱い戦いが広げられていますが、個人的には夏の甲子園も見逃さず見ています。その甲子園に関連した記事の中に現在ヤクルトスワローズで活躍している山田哲人選手の高校時代の記事がありました。
山田選手といえば、去年トリプルスリーを達成し、今シーズンも三冠王に最も近い選手として球界を代表する選手です。
その記事では高校時代の山田選手は意外にも、もったいない選手だったそうです。当時の高校の指導者の話では「才能はあるが、それを十分に活かしきれていなかった」と書かれています。それが甲子園をかけたPL学園との試合でミスをしたことがきっかけで熱心に練習に取り組むようになり、現在に至るまでの進化に繋がってきたそうです。
山田選手の過去の話を聞くと人は人生には大きく変えてしまう転機が必ずあるように思います。そこで体感した悔しさ、悦びといった感情を進化のきっかけにするのか、または見過ごしてしまうのかで自分の人生のベクトルは大きく左右されるように思います。
特に山田選手のように人が変わるきっかけには「悔しさ」という感情が多いように感じます。その感情は人を大きく進化させる原動力です。
私もこの学びを継続し、進化し続けることが出来ているのもそれがあったからです。その力は私だけでなく、人類の進化の歴史において外すことの出来ないエネルギーのように感じます。
近頃、週刊誌で医療、医者を批判する記事、もしくは病に苦しむ人達の声を特集した記事を目にします。特に「医者は儲けのために必要のない手術をする」「その薬は信用出来るのか」といった特集が組まれていることからも現代医療と患者の間に摩擦と矛盾が生じてしまっているように思います。
こういった記事を読む度に、医療の進歩が患者の苦しみの改善に繋がっているのかと疑問になります。それは私達臨床家にも当てはまることで決して他人事ではない深刻な問題でもあります。
もし本当に週刊誌で書かれているように医療の進歩が人々の幸せに繋がっていないのなら、その根本にある原因はどこにあるのでしょうか?
幾つか読んできた記事の中で最も印象に残ったのは週刊ポストの「日本人にあえて問う 死ぬ勇気」という特集の記事で掲載されていた曽野綾子さんの「日本人には死の義務教育が必要」と題したコラムです。
その記事では日本人は誰もがやがて訪れる「死」に対して否定的に捉えるのではなく、肯定して生きるべきだと書かれています。
私も曽根さんの意見に賛成で、医療批判が起こるのも、技術の進化が人々の幸せに結びついていないのも国全体の死生観の捉え方に問題があるように感じています。
この記事の前振りでも書かれていますが、延命治療をされている方が「穏やかな死」を望んでいる一方で簡単に逝かせてくれない現実がある。それは国全体が死に対し否定的な意識があるからではないでしょうか?
そういった現実からも今以上に私達は健康寿命に意識を向けていくことが大切だと思います。健康寿命を伸ばし生きることの悦びを得ていく為にも、医者任せにしない、自分の健康は自分で勝ち取っていくという意識がこれからの時代に必要なことだと思います。
それには操体で説いている「自己責任」を全うしていくことに目を向けること。そして医療の進歩、進化は人々の意識の改善、そして国全体の死に対する捉え方を変えていくことに繋がるようになっていくのだと思います。
先日、何年振りかに診させて頂いたクライアントの方に「触れ方が変わりましたね」と言われました。
意識的に触れ方を変えたわけではありませんが、そういった変化も臨床に対する捉え方、向き合い方が大きく変わったからだと思います。
以前の私は各分析法にしても、皮膚の事に関しても、学んできたことをどうにか臨床に生かそうとする思いが強かったことでからだと素直に向き合えていなかったように思います。
それが操体の進化と共に私の臨床に対する向き合い方も「治すことはからだに任せる」という姿勢に変化し、からだとの信頼関係が少しずつ築けるようになってきたように感じています。
そういった「からだとの信頼関係」を構築していくことで橋本先生が説かれていた「自力自療」の本当の意味が見えてきたように思います。
自力自療を成していくにはからだに触れることが全てではないということ。つまり治療という土台の上に「指導」がなければなりません。
患者自身が日々の生活の中でからだと向き合っていけるように指導していくことが臨床家に最も必要なことだと思うようになりました。臨床の中に指導が入ることで患者自身が自己責任と向き合い、日々自分のからだと真摯に向き合っていく、そういった意識に変えていくことが本来の臨床の在るべき姿ではないでしょうか?
現在の操体はそれが成せるものへと進化しています。
それは一人一人が自分で健康を勝ち取っていける健康医学の体系化であり、臨床の姿も本来在るべき形へと進化していっているのです。