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  • ④感性、センス、タントラの考察

    つづき

     

     我々は人生における関係から生じた退屈さをとにかく紛らわそうとしている。 テレビの前で何時間にもわたって坐りこんでいる。 何と愚かなことか! あるいは雑誌を読み、あるいはラジオを聞き、あるいは新聞を読み、あるいは退屈している人々が集まるクラブに行く。 この現実を理解しようと試みてはどうだろう・・・・・・

     

     タントラは言う。「蜜蜂でいよう ― 自由であろう!」 女性を愛しても、その彼女と一緒にいるな。 タントラはそうは言わない ― 。 彼女とともにいよう! ところが我々は考える。 「もう私は四〇歳になる。 仕事を抜け出すことなどどうしてできよう? それに、経済的にはとてもうまくいっているのに・・・・・・」

     

     だが我々は霊的に、精神的に死につつある! 我々はゆっくりと自殺しつつある。  そうならば、それはそれで全く何の問題もない。 もし我々が自分自身を破壊するのを望み、預金残高を守りたければ、それはそれで何の問題もない。 だが、仕事が満足すべきものでないと感じたときには、そこから抜け出すことができる! これがタントラレボリューションだ。

     

     あることがもう魅力的でなくなったと自分の感性で気づいたとき、それが魅力的な質、魅きつける質を失い、もう磁力的でないと気づいたとき、そのときにはしがみつかず、「申し訳ないけど」と言わなければならない。 そして過ぎ去ったこと、過ぎ去ったその人、その仕事、あるいはそれが何であれ、それを通して起こったことのすべてに感謝して別れることができる。 ただし、未来に対しては開いたままでいること ― これがタントラでいう蜜蜂であることの意味である。

     

     さらにタントラは言う。 「すべての花それぞれが蜜に満ちていると知っているのは蜜蜂だけだ」 だが、タントラは反対の極へ行けといっているのではない ― 。 現に反対の極へ行くことのできる人たちがいる。 それに人間は非常に愚かだ・・・・・・

     

     さて、一方の極は誤りでもう一方の極・・・・・・それも誤りだとわかる! 初めの極は抑圧的だった。 我々は何年にもわたって同じ女性、同じ男性と、生涯にわたって同じ相手と寝なければならない ― 。 まったく何のセンスも感じられない! なぜ自分はそうし続けるのか。 その何故かを知らずに。

     

     社会、国家、聖職者、そして政治家らが我々の中心である家族の安定性に社会全体が依存しているのだとタントラは言う。 この狂った社会は狂った家族に依存している。 狂った家族がひとつの構成単位、一個のブロックであり、それによってこの社会という刑務所全体が作られているのだと。

    つづく

  • ③感性、センス、タントラの考察

    つづき

     

     我々はいつでも自分は自由だと思っているようだが、決して自由ではない! 我々はある一定の範囲内で動きまわることができる。 が、自由ではない。 家族についてもそれは同じである。 もし、家族という刑務所の境界を越えはじめたら、そのとき、自分が閉じ込められているのだということを初めて知ることになる。 

     

     もし夫が妻以外の女性と楽しそうにしていたら、妻は夫の敵になる。 もし妻が誰か夫以外の男性と親しく話をしていたら、夫は妻に腹を立てる。 夫は妻を殺してしまいたい。 つい先日、「とても愛しているよ・・・・・・お前のためなら死んでもいい」と言ったばかりなのに。 ほんの少し境界を越えるだけ! それだけで自分が囚人だということを知らされてしまう。

     

     境界を超えることがまったく無ければ、すべては何の問題もないという至福に満ちた無知の中で生きることができる。 多くの花が咲き乱れているところへ行って、すべての花の香りを味わうことのできる能力を自分は持っている。 しかし、その能力に執着したことによって、その所有が感性を破壊してしまった。

     

    たったひとつの花からだけ蜜を集めている蜜蜂のことを考えられるだろうか? その蜂蜜はそれほど豊かにはならない。 豊かさというのは多様性の感性の中から生まれてくる。 我々の人生はとても退屈であり、豊かではない。 我々は、退屈するためにありとあらゆることをやっているというのに、その退屈はどこか別のところから起きているのだと思っている。

     

     今、ひとりの夫がもう愛してはいない妻と暮らしている。 ところが我々の民法はこう言う。 「ひとたび婚姻契約したら、その契約を遂行しなければ契約不履行になる。」 それはルール違反だ! それから倫理道徳も言う、「約束の人になれ!」と。 

     

     ひとたび何かの関係性にかかわったなら、我々はその責務を果たさねばならない。  今、妻が退屈しているとしても、別に驚くことはない。 愛は消えてしまった! それは毎日の昼食にマクドのハンバーガーを食べるように強制されているようなものだ。 いつまでそれを楽しんでいられるのか? 

     

     最初の日は楽しんだはずだ。 そう、二日目、そして三日目も・・・・・・だが、それから先は神経に障ってくる。 いつまでも、いつまでも・・・・・・そうなったら我々はその味に飽きてしまって退屈してくる。 そして、人間は退屈なために自分の頭を紛らわすありとあらゆる方法を考え出す。

    つづく

  • ②感性、センス、タントラの考察

    つづき

     

     花の蜜を集める蜜蜂については、二~三のことを理解しなければならない。 ひとつめは、蜜蜂はどの花にも決して執着しないということ。 それは最も深遠な秘密である。 蜜蜂はどの花にもこだわらない。 そして中心となる家族を持たない・・・・・・。 妻も夫も子どももいない。 いかなる花であろうと、その花の招くところへ自分のセンスに導かれて、ただ移動してゆくだけ。 そのような自由をいつも持っている。 

     

     人間は家族につきっきりになってしまった。 タントラは家族に強く反対する・・・・・・。  タントラの洞察は格別に卓越している。 愛が完全に破壊され、人生の楽しみが完全に毒されているのは、家族のせいだとタントラは言う。 人間は互いにしがみついている。 人間は互いに所有しようとしている・・・・・・。 つまるところ所有が楽しみになってしまった。 人間は感性を失い、大きな変化が起こったのである。

     

     ひとりの男性が女性と一緒にいるが、それは彼女を楽しむためではない。 彼は彼女を楽しんではいない。 また、ひとりの女性が男性といっしょにいるが、それは彼を楽しむためではない。 彼女は少しも楽しんではいない・・・・・・。 彼氏も彼女も互いに所有するために一緒にいる。 政治的な考えが入り込み、野心が入り込み、経済的な思惑が入り込んできた・・・・・・。 そこに愛という感性はもはやない。

     

     愛というのは所有を知らない。 ひとりの女性や男性と長い間いっしょに生きることはできないとは言うのではない ― それどころか何生にもわたっていっしょに生きることすらできる・・・・・・。 だが家族は存在しない。 「家族」という言葉でタントラは「合法的な所有」を意味している。 「家族」という言葉で「要求」を意味している。 夫は妻に要求することができる。 妻も夫に「あなたには私を愛する義務がある!」と言うこともできる。 

     

     だれひとりとして人を愛するよう強いられてはいない。 夫は妻に自分を愛するよう強制することができる。 誰かに愛を強制することができるとき、愛はまさに消える・・・・・・。 そこには「要求」だけがある。 そのときには、妻は義務を果たしている。  しかし、義務は愛になり得ない! 愛は花の蜜であり、義務は精製された白砂糖だ。 そして遅かれ早かれ糖尿病で苦しむことになる。 それは毒、純粋な毒である。

     

     まるで麻薬のような白砂糖。 確かに同じような甘い味がする。 少しは蜜に似ている。 だが花の蜜ではない。 家族は所有欲が非常に強い。 家族は人間に反し、社会に反し、宇宙の兄弟愛に反している。 家族の境界は刑務所と同じだ。 我々はそれに慣れてしまったので、そのことを感じないようになってしまった。 

    つづく

  • ①感性、センス、タントラの考察

     テーマは「感性、センス」。 このテーマは、タントラ的に語ってみたい。

     

     ほんの少し郊外に出ると、まわりには数知れない花が咲き乱れている。 そのような自然の中にある全存在は花に満ちあふれている。 そこでは鳥たちも歌っており、花から蜜が降りそそいでいる! そして蜜蜂はその花の蜜を集め、一方で糞コロガシはそれを集め損なっている。 我々人間は蜜蜂なのか、それとも糞転がしなのか? 糞コロガシだったなら、果たして蜜を集める蜜蜂になれるのだろうか? 

     

     タントラは言う、確かになれると! 蜜蜂になるのは、あらゆる人にとっての可能性であると。 人はみんな蜜蜂へと成長してゆくことができるのだと。 型にはまらない、生き生きとした自然な人生、瞬間から瞬間へと生きる人生、それが蜜蜂になるための出発点であり、それがそのタントラ密教の教えである。 しかし、それには自身の感性を磨かなければならない。

     

     もし、感性豊かに過去を引きずらずに生きることができたら、そのとき、人は蜜蜂になる。 そのときには、まわり中に蜜がある。 そのことを糞コロガシに説明するのは難しい。 糞コロガシはそれについて全く何も知らないでいる。 

     

     糞コロガシは、花が咲き、蜜蜂が蜜を集めている木の根元の地べたを這いつくばって生きている。 だが糞コロガシは、その次元、花が咲き、蜜蜂がその蜜を集めているその次元に行ったこともなく、ただの一瞬ですら垣間見たこともない。 

     

     このタントラ・ストーリーは「糞コロガシ」という言葉で過去をもとに生きる人間のことを意味している。 過去に閉じ込められ、思い出に閉じ込められている人間のことを意味している。 過去をもとに生きるとき、我々は、ただ、見かけの上だけで生きている。  真に生きているわけではない。 

     

    過去をもとに生きるとき、我々は機械のように生きているのだとタントラは言う。 決して人間らしく生きることはないのだと。 神秘思想家であるゲオルギー・イワノヴィッチ・グルジェフ(1866~1949)が彼のワークで「人間機械」と表現しているのはこのことだ。

     

     過去をもとに生きるとき、それは繰り返しの連続である。 それも変化のない繰り返しばかり・・・・・・。 我々は喜びを、生きること、存在することの喜びを見逃してしまう。 それが蜜の何たるかである。 生の喜び、ただ、今ここに在ることの楽しさ、単に在ることの可能な状態にいることの楽しさ、その喜びが花の蜜なのである。

     

     もし我々が花の蜜をどうやって集めればよいかを知れば、どうすれば喜びに満ちるかを知っていれば、蜜蜂になることができる。 もし知らなければ我々は糞コロガシのままで一生を過ごすことになるのだ。 

     

     この空、この太陽、我々を取り巻くこの人たち・・・・・・。 みんなが尽きることのない蜜の源泉を持ち、楽しさと愛とともに流れている。 それをどうやって集めるか、それをどうやって味わうか、それを知れば、あらゆるところにそれはある。 蜜はあらゆるところにある。 それらはすべて自分の限りないセンスに委ねられている。

     

    つづく

  • 体得即誕生

    感性とは煎じ詰めていえば、天命軸を感じる生き方なのである。

     天に命じられるがごとき、使命感を自覚する生き方なのだろう。

     
    あの福沢諭吉も、「独立自尊」を掲げていたという。
     
    それは、何とかしてほしいといった自立心の欠けた発想意識でなく、
    自律的な自律の必要を提唱していたのである。
     
    また夏目漱石も、倫理の修養を積まないものにとっての”個人主義”は、
    あってはならないんですよ、と語っていたそうである。
     
    これも、倫理をもって自ら律することになるといっているのだが、
    ホントの自分を受けとって活かすならば、そう難しい事にはならない。
     
     
    未来も今も過去も、全てを包括している宇宙の意志にも通じていて、 
    地球生命体の、ホントの意識を感じる「からだ」のメッセージはある。
     
     
    それは、教えてもらってパッとできるような、即席のメニューではない。
    確かに”記憶の樽”がごとき即席メニューなら、即席の自己にはなれる。
     
    ただ、即席メニュー尽くしの即席の自己で甘んじていられるのだろうか?
     
     
    即席では、まず「からだ」は許してくれない。
    「からだ」と通じ、ホントの自律とはなにか、問いかけ、成るべく修行する。
     
    自律し、伸びる軸は雑草のように、どのような環境においても花を咲かせる。
     
    踏みつけられる環境に堪え、水のない環境に堪え、どんなに小さかろうと、
    得意とする力を「重力」を通じている軸を感じ取り、持っているのである。
     
    だからこそ、見た目の伸びは遅くとも、横に伸び、見えない地中で根を張り、
    得意なやり方で伸びていき最後には花を咲かせ、種を残す。
     
    そのプロセスは様々。
    みんな、虫に食われたり、病気になったり、途中で折れたりするのだ。
     
    橋本敬三師は、あの可憐な青い花を咲かせる露草が好きだったという。
     
    雑草とは、大きな花を咲かせることに一番の価値を持たない。
     
    また倫理を持ち、天命軸を動的自律に至る指導者とは、相手を選ばない。
    まさに、天の命ずる生き方を実践するプロなのであろう。
     
    それは、連綿と紡いだイノチの意志に添うことでもある。
     急がずとも、値を縦横無尽に生やせばいいのだ。
    ホントのことは、コツコツ学んでいれば教えてくれる。
     
     種を植えすぐに芽が出ずとも、指導者であれば、悦びは飽きない。 
     ホントを理解する、その努力を継続できるのが、プロだ。
     
    故に「浄福」に極まり、生れてくる前の身分まで理解するのだろう・・・。
     
     
    さて、徒然なる一週間のお付き合い、ありがとうございました。
     
    明日からは、日下実行委員の登場です、お愉しみにッ!
     

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  • 養生の指標

    限りなき意識において、人生の続く限り、養生を提唱したい。
     
    健康を他人に左右してもらう時代は、もう終わってしまうようだ。
     
     
    世界保健機構による「健康の定義」によれば、
     
    「健康とは、完全な肉体的、精神的および社会的福祉”の状態”にあり、
     
     単に疾病、または病弱の存在しないことではない」・・・とある。
     
     
    この文中は、『の状態」とまとめてあることに注目してほしいのだが、
    これは、日本医学でいうならまさに”養生”の指標となってくる。
     
    「感性」は、とどまることを知らない瞬間の積み重ねにおいて、
    健康の”動的状態”でありつづけなさい、といっているのである。
     
    まさに、現在における「操体」で示しうる、未病医学であって、
    健康増進医学の推奨で、生き方の自己責任分担といっていいだろう。
     

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  • ひととなり

    修行すればするほどバランスよくなってくる。
     
    軸をどのように受け取るのか、それも修行のプロセスになる。
     
    そこから上下連動、左右連動、上下対角の連動も体感する。
     
     
     
    名人・達人は一代限りというという時代もあったかもしれないが、 
     
    深化した軸に学び、連動をよく習得しうる現在の修行においては、
     
    その常識さえも非常識となり、当てはまらなくなってしまう。
     
     
    つくづく、良い時代に生まれたものだと感じる。
     
    これからの「操体」は、いきむこともなく、りきむこともなくなる。
     
    よどみなく真理を継承できる時代に、あなた自身は修行しているのだ。
     
    師と弟子の継承においても、深化という感性も必然だということだろう。

     

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  • オウンリスク

    非日常を意識していればこそ、感性磨きになるようだ。
     
    現象としての生命、その語りかけに響くものを受け、
    味わうことで「からだ」との接し方は始まっていく。
     
     
    なので、今置かれている生命環境を招いたのも意識である。
     
    多くは、病や別離、負債をきっかけにする場合もあるだろう。
     
    ただ、+エントロピーを伴うしがらみごとに関与せずとも、
    様々な味わいを否定しない価値基準を持つことができたらいい。
     
    生きるというすべては、”オウンリスク”・・・なのである。
     
    そのことを知り、わきまえ、生きるということは、
    それ自体で「感性」を磨くことになっているのだから。
    誰かに文句を言うこともできない。
     
    すべてを自分で判断し、自分の責任によって成り立っている。
     
     価値のある瞬間、とどまることのない生命現象において、
    「からだ」は常に「非日常からの日常」の「今」となる。
     
    だから恐れない。
    非日常も感じ、日常の「からだ」に感謝できるようになっている。

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  • ホントの自分に変える

    かんじるものは、かんじるもの。

    感性を磨こうとするには、まず「からだ」を知ってもらいたい。
     
    漠然と「からだ」といっても、色々とらえかたはあるだろうが、
    息ある「からだ」は、日常の欲望や生活習慣では、縛られない。
     
    然り、わかってしまえば、わかる。
    色々な捉えかたも、その意識により生じているだけなんだ・・・と。
     
    命の循環、営みと共に、動的均衡する恒常性も感じつつ、
    共に、無理しない、肯定する、素直に受けとる循環を意識で学ぶ。
     
    朴訥、実直、素直でいられる覚悟に、ますます感性も輝く。
     
     
    認めたいから見ているだけじゃなくて、
    認めたくないこともとりあえず受けとる。
     
    そうなると「からだ」から、自分を観てくれていたんだ・・・と、
    「からだ」からホントの自分を認識することもある。
     
    意識による接しかたで、「ホントの自分」との出会いは始まる。
     
    変わらないために、変わりつづけるホントの自分を受け入れる。
    それは、「からだ」を通した変化の伝播、組織の改革の根幹。
     
    そう、自分自身と共に、呼吸は常に相関し、生きている。
     改革の主人公、自ら進んで変わる強い覚悟をイノチに学ぶ。
     
    イノチある自分自身は、今も、生まれる前の存在なのだから、
    呼吸し理解できることに無理は生じることもなく、必然なのだ。

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  • わきまえる

     『さびしい時はさびしがるがいい。

      運命がお前を育てているのだよ』
           (劇作家、倉田百三氏の「出家とその弟子」より)
     
    大正~昭和に活躍されていた劇作家の一文。
     
    人生には、どんな瞬間であっても価値があると励ましてくれる。
     
    意識により、言葉に自分自身の人生を重ね合わせることで、
    何気ない日常に価値を持たせるのも、感性との相関性だろう。
     
    その価値には、秀逸な意味を感じる。
     
    人から見て凡庸に見える人生であったとしても、
    本当かどうかは他人にはわからない。
     
    それを決めているのは”意識”であって、それを受け取り、
    明白か混濁か・・・意識するかしないかなのだから。
     
    意識は、日常の自分の意識と異なっている明確な意識もあって、
    三次元を超えた、日常にはない意識も感じ取ることはできる。
     
     
    そこを認識すると、普遍的な価値を伴なうことも認識できるし、
    自然の営みの有難味を味わって、愛おしさや感謝の心も識るだろう。
     
    『そうなっているんだ!」と合点を打つ。
     
    ・・・となれば、自然法則も自覚もするし、それを応用しうる。
     
    そのことを知り、わきまえることは「感性」だろう。
     

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