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  • 私のズッコケ操体クロニクル その1

    今週からブログのテーマが「私のズッコケ操体クロニクル」に変わります。

    1週間お付き合いよろしくお願い致します。

    自分自身がからだの不調を訴えたことをきっかけに三浦先生のところに通うようになり約10年。

    今では感染したかのように毎日操体のことを考える生活をしています。

    何度かこのブログでもお伝えしていますが、操体と出会う前の私のからだは絶不調でした。肩、首は毎日痛くだるい。

    週に2,3回鍼や足裏マッサージに通わなくては生活できませんでした。

    すがる様な気持ちで母から紹介してもらった三浦先生のところに通うようになり、今ではからだが改善して毎日の痛みに悩むことがなくなりました。

    当時は非常にいやらしい根性でこれは誰にも真似できない技術だと思い、操体の門を叩いたのでした。

     

    2020年秋季東京操体フォーラムは11月23日(月)勤労感謝の日 オンライン(zoom)開催致します。テーマは「操体法クロニクルズ」他。
    登壇 三浦寛、半蔵、岡村郁生、瀧澤一寛、三浦寛幸、寺本雅一、畠山裕美他

  • 般若身経とは7

    前日まで、からだの設計にミスはないから抜粋し、からだの動かし方についてきさいしましたが、操体法ではからだの動き(前屈、後屈、側屈(左右)捻転(左右))には法則があると説いています。そのからだの動かし方、使い方の法則の総称として、橋本敬三医師は「般若身経」と名称をつけました。

     

    7日間ありがとうございました。

    明日からは瀧澤さんです。

     

  • 般若身経とは6

    般若身経の法則によるからだの動かし方

     

    からだの設計にミスはないより

    側屈

    自然体で立つ。上体を横に倒す。倒れるほうと逆の方に体重をかける。(倒れる方に体重はかけない)例えば、右側屈をする場合、腰を左側に押すようにしながら、右側に上体を倒していく。(左側屈の場合は腰を右側に押すようにする)

     

    捻転

    体を捻る。捻って顔の向く方の足に重心をかける(右捻転をする場合、右足に重心をかける)動きとともに反対の足のカカト(右捻の場合は、左足のカカト)が浮く。体を捻る方向の足の平が浮き上がらないように床にピタリをついておく(右捻転の場合右足は床にピタリをつけておく。足の平が浮くまで動くのは動き過ぎになる)

  • 般若身経とは5

    般若身経で説く法則では以下のような動きになります。

    からだの設計にミスはないより

    前屈

    自然体をとり、静かに上体を前に倒して屈する。頭も手もダラリと下げる。行くところまででよい。無理はしないこと。止まったところで一息つく、

    からだをおこす時は、まず顔を先におこしておいてから体をおこす。

     

    後屈

    軽く腰に手をあて後ろにそらす。止まったところで一息ついてやすむ。顔を上げてからおきると下腹に力が入る。

     

  • 般若身経とは4

    般若身経の説明の中に、自然体という言葉がでてきます。

    操体法の自然体とは、

    足を腰幅に開き、爪先とかかとを並行にし、腰と背骨を伸ばし直立し、正面の一点を見つめるという姿勢をさします。

  • 般若身経とは3

    橋本敬三医師の著書、からだの設計にミスはないの中から

    「運動の根本は、体の中心(腰)に重心を安定させてやることである。そのためには、上肢では手の小指側に、下肢では足のオヤユビ側に力をいれるように動くとよい。」

     

    この法則に従ったからだの動きを、実際にどう動くか、前屈、後屈、側屈、捻転と般若身経で説いています。

  • 般若身経とは2

    橋本敬三医師の著書、からだの設計にミスはないの中から

    からだの動かし方

    運動の根本は、体の中心(腰)に重心を安定させてやることである。そのためには、上肢では手の小指側に、下肢では足のオヤユビ側に力をいれるように動くとよい。

     

     

    「体の中心に重心を安定させる、手は小指側に、足はオヤユビ側に力をいれるように動く」ということが般若身経で示す動き方のポイントになります。

  • 般若心経の考察 ~ 般若身経解説⑥

     インドの習慣では、マントラ(明呪)は公開的なものではなく、グル(宗教上の師)が弟子と二人だけの席で、弟子に授けるものであって、弟子は自分に授けられたマントラは固く秘密にして、他人に漏らしてはならないことになっている。 これらの習慣を鑑みて、般若心経の明呪(マントラ、真言)においても同様に、当初はそういう性格のものであったのではないだろうか。 そのような疑いも当然起こってくる。

     

     科学文明至上主義を妄信しておられる方々は、呪文(マントラ)といえば、頭から馬鹿にされていると思うが、世の中には科学で解らないことは山ほどある。 日本にも 「ことだま」 という言葉があり、言葉には 「いのち」 があると言い伝えている。 インドでは声に出した言葉よりも、声の元にある声なき言葉に偉大な力があると信じられている。 試しに、毎日一定時間マントラを唱えるのを実行してみて欲しい。 数カ月も経つ頃には、何かが自分の心の中に起こることであろう。

     

     仏陀が言葉で説いたとされる八万四千の経典と同じように、仏教の 「心経」 では仏陀のエンライトメント(光明、悟り)と智慧の内容が経典を読誦し理解するという知解(ちげ)のみに依るものである。 しかし、操体の 「身経」 では、体解(たいげ)、つまりからだという全身の実践(身体運動)に転化して、生命そのもので解読する方便が編みだされた。 

     

     それはからだの使い方のルールである 「重心安定の法則」 とからだの動かし方のルールである 「重心移動の法則」、そして、からだの末端が動けば全身が動くという 「連動の法則」 のことである。 そのような動きが即ち、「体解」 というものであり、この動きこそがまさに 「仏の舞」 と言えるものなのだ。

  • 般若心経の考察 ~ 般若身経解説④

     初日よりこれまで述べてきた内容から、般若心経の解釈は日本の密教である真言密教の空海上人の解釈に近いと思えるであろう。 しかし、密教を大日法身の内証の境界をエリート層の菩薩たちのために説いた教えであると、そのような勿体ぶった解釈をする弘法大師さんにはとてもじゃないが賛成できない。 密教というのはもっとくだけたものであり、そんないかついものではないはずだ。

     

     仏伝文学上、密教の元はといえば、母性神信仰である。 人間の最も原始的な宗教は母性神崇拝であったと思われる。 母性神崇拝は我々人類の原始社会が母系社会であったのと関係があり、母たる女性がその中心であって、男性は社会的に影の薄い存在であったようだ。 また、天地万物を創造した神もまた女性でないと理屈に合わない。 インドの古典である 「リグ・ヴェーダ」 にもそのような女性神が見られるし、インダス文明の神像のなかにも、万物創造の母神の姿が見られる。

     

     女性神といえば、ふつうは優しく美しい姿を想像するものであるが、実はものすごく恐ろしい姿の神さまであって、母系社会の権力者たるお祖婆さまの威厳を表現したお姿をしておられる。 この女神は現代に至るまでインド社会に勢力を持っており、「女神カーリー」 と呼ばれている。 カーリーは真っ黒なからだで、いろんな武器を持ち、恐ろしい顔をして、しかも夫である 「シヴァ神」 を足で踏みつけた女神さまである。 

     

     般若波羅密多(ハンニャ・ハラミッタ)が女性の菩薩の名前であるとすれば、ここでは、この菩薩の心臓ということになる。 その般若波羅密多(ハンニャ・ハラミッタ)という菩薩の心臓とは一体何を意味するのであろうか? 「陀羅尼集経」 という経典には菩薩の 「大心真言(偉大なる心臓の呪文 mahā hṛdayamantra:マハー・フリダヤマントラ)」 のことであると書かれている。

     

     つまり、この経典の最後に提示された明呪(真言)の部分 掲帝。掲帝。波羅掲帝。波羅僧掲帝。菩提僧莎訶。ガテー! ガテー! パーラ・ガテー! パーラ・サンガテー! ボーディ! スヴァーハー!!というマントラこそが、この経典の主旨であり、この心経の説かれた目的であって、大衆に唱えてもらうことを念願としたものであろう。 だから鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)の訳、「魔訶般若波羅蜜大明呪経」 の中の大明呪とは、まさに 「心」 にあたるわけである。 それだから、そもそものねらいが、最後の呪文を提示することにあったものと言えるわけである。

     

     そのような大明呪である 「心」 を 「身」 に換えて唱えてみれば、操体の身体運動である般若身経はまさに 「仏性の舞」 と言えるものだ。 それを合理的に証得するため、医学的に身体生命の実験的手法、つまり自然法則に基づいた重心安定と重心移動、そして連動の法則というからだの動きから身体運動を可能ならしめたものが 「般若身経」 なのである。

  • 般若心経の考察 ~ 般若身経解説③

     

     般若波密多(ハンニャ・ハラミッタPrajñā‐pāramitā:プラジュナー・パーラミーター)は大乗仏教の菩薩(bōdhi‐sattva:ボーディ・サットヴァ)の修行に六種布施・戒・忍辱・精進・定・慧ある中で一番大事な 「慧」 の行法であり、ここでいう般若波密多(ハンニャ・ハラミッタPrajñā‐pāramitā:プラジュナー・パーラミーター)は智慧の極限ということになる。 しかし、般若(智慧)の内容が 「心経」 の書かれたそもそものねらいではない。 一般に般若心経の内容である 「空」 の理論を展開するのは本来、「金剛般若経」 あたりの役目であり、今さら般若心経がこんなちっぽけな 「空」 を説く必要はまったくないのである。

     

     般若(ハンニャprajñā:プラジュナー)は智慧という意味で、波羅蜜多(ハラミッタ)は六つの行法に共通して付けられており、 「極限」 を意味する。 そして極限的な智慧だけが仏陀を生みだすことができることから、般若波羅密多(ハンニャ・ハラミッタ)は女性の菩薩の名称となったものである。 また、別名をターラー(Tārā)菩薩とも呼ばれている。

     

     般若菩薩の信仰はインド教(ヒンズー教)の中の密教に刺激されて起こった仏教系の密教(Tantrism:タントリズム)であり、「金剛乗」 と呼ばれる宗教運動の中で支持されてきたものである。 この密教は女性神であるシャクティ(Śakti)信仰と真言(マントラ、明呪、またはダラニともいう)信仰に結びついている。 すなわち、般若心経は 「密教経典」 であり、顕教たる大般若経系統の経典でないことがわかる。

     

     操体の 「般若身経」 もからだの使い方、動かし方という身体運動の自然法則を説いた智慧の経典であり、仏教経典の 「般若心経」 と同じ密教である。 その般若身経から派生した操体臨床もまた密教であり、操者の意識の向け方が重要になってくる。 

     

     それは患者 「本人」 に意識を向けるのではなく、患者の 「からだ」 に意識を向けるようにする。 何故なら、本人に意識を向けてしまうと、限られた知識、経験、情報から発信してしまうことになり、からだの声を阻害することになる。 そうではなく、からだへ意識を向けることで素直に診ることができるのである。

     

     般若身経では言葉や知性で経典を解読するのではなく、身体生命そのものの智慧によって解読するメソッドである。 これは頭脳や知性の優劣は問われない。 仏典では言葉の方便としての経典が、操体では身体の方便としての実践法なる身体運動が智慧として存在しているのである。