カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 文字の上の ・・ 。

    先日は、梅を見に行った時のことを書きましたが、見に行ったその夜、
    操体法〜生かされし救いの生命観〜の本をなにげなく開いてみると
    東京操体フォーラムの理事長でもある三浦先生が、2004年10月に
    VisionSに書いた、「改めて問いかけてみる」というページが開かれました。
    この中で先生は、ここ数年来、「操体法の中の根っこの部分とは?」と、基礎、基本と
    思われる原点をいくつか洗い出し、改めて一つ一つ自分自身に問いかけており、そして
    「この操体法の場合も、操法に目がいって、それを成している根幹がなんであるかは、
    意外と理解していない、のではないでしょうか」
    とした上で、この当時、改めて洗い出し、
    問いかけているものの中に般若身経があると書いております。
    何度も読んでいる182ページから183ページにかけての文章なのですが、この夜は
    眼中という文字の上に ・・ がついているのが、どうも気になってしまいました。
    眼中という言葉も、眼中に無いという言葉の方が多く使われており、最近はアウトオブ
    眼中という言葉もあるぐらいで、うっかりしていると安易な思考で眼中に無いを反対に
    したような意味あいでとらえてしまいます。
    私の場合、安易な思考でとらえてしまっている言葉が多いので辞書で調べてみますと
         眼中 = 目の中。見える範囲→転じて、意識や関心の及ぶ範囲。
     眼中にない = 気にかけない。なんとも思わない。
    と出ています。
    この「改めて問いかけてみる」の中の眼中の前後の文章を抜き出してみると
    「個々の持論の眼中で解釈しようとする者がいる。それはすでに身経ではなくなってしまう」
    とあります。
    私の場合、以前に何度かこの般若身経に関して、健康体操という捉えかたはしてないにせよ、
    自分の知り得たほんの僅かな人体に関する特徴の知識を基とした意識関与により、取り組んで
    いたことがありました。
    しかし、操体は、自然法則の応用貢献の場である太極という無極無限の宇宙生命現象の
    中心理念に基づいて、その生かされし救いの生命観に学ぶ場であり、創始者である
    橋本先生の生涯は一貫してこの自然法則の応用貢献を貫かれた学問であったことであり、
    その根底にあったものは「神と私は一体であります」という神人合一の生命観にあったわけで、
    そこから自然体としてのあるべき姿を身体運動の法則として説いているわけであり、
    「お経のように、からだの使い方、動かし方にも法則があるんだ」と言っているわけですから、
    目で見える範囲、視覚で捉えられる範囲、個人の意識や関心の及ぶ範囲、
    また、人間が人間を止めた状態で詳しく観察した範囲、人間の動きがすべて観察できたとしても
    その人間が自然なのかという問題の範囲、などで解釈できるものではないということが、
    最近になってやっと解りかけてきた気がします。

    もう一度書きますが、橋本先生の根底にあったものは神人合一の生命観であり、そこから
    自然体としてのあるべき姿を身体運動の法則として説いている。

    自分が何回かやってみた、こうすればもっと良いのではという取り組みは、全部が全部
    価値のないものとは思っていませんが、橋本先生が60歳のときに「平均集約運動法」として
    一旦はまとめたものを、その後何度も加筆、修正し、「般若身経」として命名しなおし、
    95歳で生涯を閉じるまで学び続けたことに比べればなんとも薄っぺらく、
    事実自分ではその時は良いと思っても、月日を重ねていくうちに間違っている、あるいは、
    こんなことはほんの一時の一部分であり、橋本先生が成さんとした事には程遠いと最近良く感じます。
    「お経のように」と橋本先生はおっしゃったそうですが、お経、経典とは釈尊の説いた教えを
    記録したものであり、もし釈尊が生きていたらこのように言われたであろうという信念から
    書かれたものだと思われます。
    「橋本先生だったらどうしただろうか?」という問いかけです。
    だから般若身経に取り組むにあたっては、己のひらめきも大切だし、重要だと思いますが
    そのひらめきを、橋本先生の神人合一の生命観と常に照らし合わし、学んでいくという姿勢が
    大事なのではと、この眼中の上の ・・ から感じました。

    友松 誠。

  • 靴の日。

    3月15日の今日は靴の日だという。
    いつもいつも気になっているわけでもないですが、たま〜に靴を買うときなど
    なんで革が化けると書いて靴となるのだろうかと疑問に思ってしまう。
    ちなみにカバンは鞄と書き、こちらは何となく想像がつきますが・・・。

    靴の中の革という字は、革新や革命などの、「あらたまる」という意味の革でもあります。
    化の方は、イ=人の立ち姿 + ヒ=体をかがめた姿、又は死体 ということで
    人の状態が変わることを意味しているようです。
    「あらたまって人の状態が変わる」(あくまで自分の勝手な思いつき)
    靴というのは一般的には、皮革製の西洋から入ってきたブーツや短靴を指していると
    思いますが、幕末から明治にかけての時代に、この西洋式の靴が入ってくるまでは、
    日本人の履物というのは、鼻緒のついた草履、下駄、草鞋などだったと思います。 
    鼻緒のついた草履や下駄を履いていた人たちが、西洋式の靴を履きだして、人の状態が
    それほどまでに変わってしまった、あるいは西洋に追いつけ追い越せで、人の状態も
    変わらなければと靴を含む身なりから変えていったようにも思えます。
    しかしこれは、あくまで近代に限ったことであり、それまで日本には鼻緒のついた
    履物しかなかったかといったら、そうでもなく、平安時代から行われているとされる
    流鏑馬を見ていても、現代の靴に通じるようなものを履いていますし、神社に行けば
    神主さんが昔からの装束に、木製のこれも現代の靴と似たようなものを履いていますし、
    豪雪地方では昔から藁で作ったブーツのようなものを履いています。
    だから、日本にも昔から靴はあったのだけれど、それは特別な行事や地域に限られていき
    一般的に生活する人は鼻緒のついた履物を履いていたというか、そうほうが日本の風土に
    あっていたから鼻緒のついた履物が履かれていたのではないだろうかと思います。
    日本はきもの博物館をはじめその他の資料を見てみると、日本のクツは、古代、中国大陸や
    朝鮮半島から伝来したものであり、(せき)や履(り)・鞋(かい)・靴(か)などと、
    形態や素材によって細かく表記が定められていた。しかし、それらは日本に定着するとともに、
    日本風に変化しつつ形態と用途を定めてきてもいる。こうした「クツ」に「沓」の語が
    あてられることが多く、総称として和沓としている。とある。
    (単に沓としている場合や、伝来される以前からあったという説もある)
    そして、沓は「踏」の略字といえ、平安時代の辞書である「倭名類儒聚抄」によれば
    「履・・・中略・・・音李和名久豆用 踏字音沓」とあり、履がりと読まれ、和名では
    クツとなり字は踏を用い、その音が沓であったとわかる。とあります。
    靴 =革 + 化 の疑問からはじまって 履 → 踏 → 沓 まで辿り着きましたが、
    革 + 化 の疑問は残ったままとなってしまいました。
    中国大陸でも北方騎馬民族の影響を受けて 靴(か)という文字が生じたようですが
    なぜこの字が出来たのかについては調べてもわかりませんでした。

    それはさておき、履 → 踏 → 沓 の流れがなんとも面白い。
    想像してみると、なんだか、履物を履いてぬかるみを歩いていて踏み込んだら履物が
    脱げてしまった→踏み込んで足が離れて→沓(沓)が残ったというイメージになってしまいました。
    (あくまで自分の勝手な想像です)
    考えてみたら、当たり前かもしれませんが、踏み込むのは足ですよね。
    手で同じ様なことをやっても、4足で歩いている動物は別として、人間の場合は普通、
    押し込むですよね。
    だから、踏むという字は足がついているんでしょうね。
    足は踏むことも押すことも出来るんですよね。
    ちなみに辞書で意味を調べると
      踏む = 足で体重をかけて上から押さえる。足であるものの上にのる。
      押す = 動かそうとして上や横から力を加える。
    と出ています。
    非常に簡単なことなのですが、簡単すぎて普段は意識しないと思います。
    でも、からだの動きを考えれば、こんな簡単なことで大きく違ってくることも考えられます。
    そして、動きを指示(お願い)する立場からすると、一般的にそんなのどうでも良いと
    意識関与をないがしろにしていることこそ、重要なのではないかと思います。

    友松 誠。

  • 梅。

    そろそろ桜前線の便りが、聞こえてきそうなこの頃ですが
    私の住んでいる地域では梅が見ごろを迎えています。

    私の場合、梅は花や香りを楽しむのも良いですが、梅の木の枝ぶりや幹ぶり?を見るのも好きです。

    桜の場合は、花の方に圧倒されるというか、大きさも「桜斬る馬鹿、梅斬らぬ馬鹿」という言葉があるように、
    剪定に注意を要する桜の方が大きい場合が多く、花の付き方も桜は花柄が長く、花芽も房状についているので、春の陽気に誘われて沢山咲きみだれるといった感じですが、梅の方は花柄がなく枝にくっつくように咲くので、寒空の下、凍えないようにしっかり枝にくっつきながら、春が近いことを告げているようにも見えます。
    だから余計に幹や枝のうねるような、あるいはジグザグした造形美に、力強さや質実剛健さといったものを感じるのかもしれません。

    こうして梅林の中に立っていると、視界に入る地上の幹や枝の質実剛健さが、視界に入らない地中の根っこの逞しさも現しているようで、地中の養分をグングン吸収し、枝を伸ばし百花にさきがけて花を咲かせ、その呼吸の響きがまだ冷たさの残るシャープな感じの空気と共鳴するような、そんなエネルギーを放っているようにも感じます。
    梅は非常に生命力が強いようで、幹が枯れて中がスカスカのがらんどうになっても、樹皮がしっかりしていれば、花を咲かせ実を実らすことが出来るそうです。
    それも、やはり根があってこそだと思います。
    幹を包んでいる樹皮も凄いが、根を包んでいる根皮も相応の働きをしているのではと思います。
    視界に入らない地中の世界でも、根と地中の環境とは様々なかたちで、情報や物質、エネルギーの交換による調和が成されていると思いますが、その境界で最前線にたって働いているのが根皮かもしれません。
    木はそこに留まって生きているように見え、特に梅はそこで風雪に耐えるといったイメージもありますが、案外、地中の世界では、微生物や他の木の根や物質、エネルギーと交流を持ち、結構社交的に愉楽しくやっているのかもしれません。(梅の場合は比較的浅く根を張るので、先ほど梅林の中に立ってと書きましたが、くれぐれも飛んだり跳ねたりしないようにしましょう)
    樹皮とか根皮とか区切らないで生命体を包んでいる器ということで考えると、この器は凄い器だと思います。
    何百年も生きられるのは、この器が自然界の理念に忠実だから、あるいは器の感じたことに対して否定がなく、素直だからなのかもしれません。
    脳を持たない樹木と接すると、なにかを教えられる感じがします。

    友松 誠。

  • 妙義山 2。

    昨日の続きです。
    中之嶽の駐車場にバイクを停め、中之嶽神社に行ってきました。
    この神社、4年ぐらい前に、日本一大きな大黒様の像が出来ました。
    高さ20メートル、重さ8.5トン、そしてこの大黒様は右手に剣をもっている。
    福を招き、厄を祓う大黒様だという。

    大黒様の前をとおり、小さな橋を渡っていくと正面に進むと大国神社。
    妙義神社のような豪華さはありませんが、屋根のつくりを見ても解るように
    いにしえから真面目に粛々と伝統を引き継いでいる様が伝わってきます。

    小さな橋を渡って右に行くと中之嶽神社につづく階段があります。
    けっこう急で段差もまちまちで、慎重に登っていきます。

    30代の頃、この階段を登りきると脚はガクガク、息もゼェゼェだったのですが
    40代の今は、それほど疲れを感じなくなりました。
    気持ちだって少年のように感動しやすい。
    操体に感謝。

    階段を登りきると、中之嶽神社の拝殿があります。

    もう少し全体像を写したかったのですが、手前が崖になっていて、これ以上は無理でした。
    この神社は後ろにそびえる轟岩を御神体としている為、本殿はなく、拝殿のみとなっています。
    御神体である轟岩がそうさせているのか、とにかく静かな、静寂な時が流れている場所です。

    神社でお参りをして、駐車場まで降りてくると、空がもう夕焼け空に変わっていました。

    遠くに見えるのが荒船山
    荒船山に関しては、3順目のブログ担当の時に少し紹介しましたが、今度は妙義山から見た写真です。
    一ヶ月前、クレヨンしんちゃんの作者である臼井儀人さんが、崖の上から写真撮影をしていて、誤って転落して亡くなられてしまうという、不幸な事故が起きてしまいました。
    謹んでご冥福をお祈りいたします。


    今回、写真撮影に同行してくれているCB君です。満11歳になります。
    遠くで先ほどの大黒様が写っていますが、あんな感じで立っています。
    手前が2階建ての建物ですから、だいたいその倍ぐらいの高さです。

    帰る途中、日が暮れるなか、麓で一枚撮りました。

    なんだか鬼でも出てきそうな雰囲気です。
    悪い子は、いねぇがぁ〜。

    とっぷり日も暮れてしまいました。

    日が暮れると急に冷え込んできましたが、無事、家にたどり着きました。

    今日はおつかれさまでした。 乾杯。 気分が良いのでちょっと贅沢にプレミアムモルツ
    11歳のCB君には後でハイオク満タン。

    金曜日、土曜日と写真ばかりの内容となってしまいました。当初は3枚か4枚ぐらいのつもりでしたが、写真を撮るのもけっこう難しく、位置取りとか色々工夫しているうちに、なんだか面白くなってきて、60〜70枚撮ってしまっていました。
    40枚ぐらいはボツになってしまいましたが、そのほとんどが逆光によるものと逆に光のあたらない状態によるものでした。
    光と闇に逆らわず、仲良く調和できる位置にいかないと、うまく写らない。
    調和でき、うまく写った時は、喜びも大きかった為、写真を多用させていただきました。
    光と闇。 お蔭様で気持ちよく写させていただきました(素人写真ですが)。

    一週間、どうもありがとうございました。
    おかげさまで無事に最終日を迎えることができました。
    秋も日一日と深まるなか、約一ヵ月後の11月22日(日)、11月23日(月)には
    秋季東京操体フォーラムが開催されます。
    この頃には会場である、千駄ヶ谷津田ホールの銀杏も十分に色づき、秋のやさしい光を浴びて、黄金色に輝いていると思います。
    もちろん、会場内もやさしい光と空気に満ちていて、参加していただいた人たちの顔も輝いていると思います。
    夜の懇親会も楽しみです。

    それではこのへんで、中谷さんにバトンを渡したいと思います。
    来週もどうぞよろしくお願いします。

    友松誠

  • 妙義山 1。

    先日、上毛三山の一つであり、日本三大奇勝の一つである妙義山に行ってきました。
    妙義山とは、いくつもの山の峰々の総称で、今回は表妙義と称される金鶏山金剛山、白雲山をバイクで周ってみました。妙義山道路を松井田方面から下仁田方面へ、白雲山の麓から金剛山の一番高いところまでというルートです。


    左から金鶏山、真ん中のギザギザして見えるのが金剛山、右が白雲山。

    麓から少し行くと妙義神社があります。
    道の駅の駐車場にバイクを停めて、坂道と階段を上っていくと総門があります。入り口の両側で仁王様が邪気の入るのを防いでいます。私は入れてくださいね。


    青銅の大鳥居まで、またまた階段を上がる。


    そこからまた、古い階段を上がり妙義神社の社殿に入るわけですが、写真を見てもわかる様に入り口の門が工事用の看板でふさがれています。
    これは去年の台風による被害によるもので、現在はこれより先に入ることができません。
    細やかな彫刻の黒漆塗り権現作りの国重要文化財を紹介できないのは残念ですが、現在は大鳥居からすぐ入ったところにある旧本社の波巳曽社でお参りすることができます。こちらも県重要文化財です。

    波巳曽社。


    大鳥居から総門をみたところ。

    最近は大河ドラマのロケがよく行われているようで、「義経」の時の鞍馬寺、今年の「天地人」の雲洞庵のシーンは妙義神社で撮影されたのだという。古い階段など見覚えがあるような気がする。

    また少し行くと妙義ふるさと美術館があります。

    コスモスが咲いていました。 後ろに見えるのは白雲山です。

    ワインディングの途中で写真を撮ってみました。

    11月の半ばぐらいになれば、紅葉で真っ赤になり、また違った風景が楽しめると思います。
    も=「もみじに映える妙義山」と群馬県民なら誰でも知っている上毛カルタにあるように,その美しさは格別です。


    道端から白雲山を振り返って写す。


    道端から金剛山を写す。

    さくらの里まで上ってきました。
    ここはソメイヨシノや八重桜が5000本ぐらい植わっており、4月中旬からゴールデンウィークあたりが見頃です。

    車やバイクで来れる一番高いところにある中之嶽の駐車場まで上ってきました。
    金剛山のゴツゴツした感じと岩肌が間近に感じられます。左の方に小さく赤い鳥居が写っているのが中之嶽神社の鳥居で、その上の金色の像は大黒様です。


    アップで見てみると、チラホラ紅葉していて少しずつ秋が深まってきているのがわかります。


    もっと上に目をやれば、雲がゆったりと流れています。
    ふと、止まっているものなんてなにもないんだな〜と感じます。
    固定観念に縛られてはいけない。みんな流動的なんだ。
    現に地球を包んでいる生命の源だって、こうして動いている。


    駐車場から見た金鶏山

    う〜ん空気が美味い。  フリ〜ダム。   気持ち良い。
    中之嶽神社にもお参りし、写真も撮ってきたのですが
    長くなってきたので、続きは明日にしたいと思います。

    友松誠

  • コスモス。

    昨日のテレビのニュースでは、隣の県の埼玉県の鴻巣市では、今がコスモスの見ごろを迎えているとのことでしたが、私が住んでいる地域では9月末から10月はじめに見ごろを迎えるところが多いです。
    これも10月のはじめにに撮った写真なのですが、車で20分ぐらい行ったところに、希望の丘という小高い丘があり、秋の桜コスモスが、たくさん咲いていました。
     

    コスモスの原産地はメキシコの高原地帯で、18世紀の末にスペイン、マドリード
    植物園に送られた際にコスモスと名付けられたそうです。
    また、コスモスはギリシャ語で秩序、飾り、美しいを意味する「kosmos」
    「cosmos」に由来し、星が並んで輝く宇宙や秩序ある調和のとれた宇宙を指す
    「cosmos」同様に、整然と並んで咲く花をコスモスと呼んだといわれています。
     
    自分的には雰囲気でなにか可憐な感じを受け、そのなにか優しい気持ちにさせてくれるような感じが好きで、その感じを味わうだけだったのですが、あらためて花そのものをまじまじと良く見てみると、名前をつけた人がそう感じたのもわかるような気がしてきます。
    花びらは8枚で十字をかさねた様に上と下、右横と左横、右斜め上と左斜め下、左斜め上と右斜め下、と規則正しく並んでいます。

    メキシコからスペインにコスモスを送る際、当時は船で運んでいて、方位を知る羅針盤や、天体の位置測定から現在位置の緯度を測定する八分儀が必需品だったでしょうから、船に乗る人にとって天体を観測し、親しむことは必然的なことであり、そんな中でコスモスの花を見て、羅針盤のように整然と花が咲いているとか、八分儀のように円の中で花びらが8等分されている様から、必然的に関わっている、星が並んで輝く宇宙を想像したのかな? とか思いました。
    また上下の花びらの輪郭をなぞっていくと数字の8になります。
    右横と左横の花びらの輪郭をなぞっていくと無限大の記号∞になります。
    極限安定率である8と無限大の記号∞の記号が十字にかさなったらどういう意味になるのだろうか?
    更にもう一つ8と∞が重なったものがかさなり、この2つの十字が一つの丸い花になっていると考えれば、なにか秩序ある調和のとれた宇宙とつながってくるかな? とも思いました。
    色々想像してみると面白いです。

    まぁ なにはともあれ、このポワ〜ンとした感じがなんとも良い。
    なにか生活のなかでの諸々がスッポリ抜け落ちて、素のままでいる自分に気がつく。
    ありがたい。

    友松誠

  • あかりの日。

    今日10月21日は、あかりの日。
    ウィキペディアを見ると、1879年の10月21日に、トーマス・エジソンが京都産の竹の繊維を炭化させたフィラメントを用いて白熱電球を完成させたことにちなんで、日本電気協会・日本電球工業会など4団体が1981年に制定。あかりのありがたみを認識する日。となっている。
    これを読むと、文章に誤りはないが、私みたいな単純な人間はエジソン白熱電球を発明したと思ってしまう。
    確か自分が小学校の時は、エジソンが発明したと習った記憶もある。
    しかし、白熱電球を発明したのはイングランドの物理学者であり科学者であったジョセフ・スワンという人だという。
    スワンは1848年頃には既に白熱電球の実験に取り組んでおり、1860年までには発光に成功し、イギリスにおいて特許が認められ、その後技術的な面や素材面で改良を重ね、1878年12月には白熱、発光の寿命を40時間に延ばし特許もイギリスで認可されていたという。
    エジソンも1878年には本格的に白熱電球の研究に取り組んでおり、最初に作った白熱電球は45時間の寿命であったが、1879年10月21日に京都産の竹の繊維を炭化させたフィラメントを用いて完成させた白熱電球は1000時間以上も白熱、発光したといいます。
    これは日数に直すと40日以上ということになり、単に先に発明し特許を取ったという面ではなく、人々の実用に適したという面でみれば、エジソン白熱電球を発明したと広まっても仕方のないことかもしれません。
    また、エジソンは寿命の長い電球を完成させただけでなく、これを広く家庭にまで普及させる為の電気事業システムも考案しました。
    電球のあかりを灯すには、その家庭に電気がなければなりませんから、発電所を作り、送電線を引き、各家庭の電気工事をする必要があり、そのシステムに必要な発電機やら絶縁物やら、細々としたところではソケットやスイッチ類までの新たな発明や、電気関係以外でも水力発電所のダムのセメントまでも発明したそうです。

    なんだか、「あかり」について何か書こうと思っていたのに、またなぜか脱線し、エジソンについて色々と調べてしまっていました。
    なぜなら文献によっては発明の年代が違っていて、あかりの日の由来とくいちがってきてしまう内容であったりするため、上記の白熱電球に関する事柄は自分なりに色々調べて、あかりの日の由来に基づき簡単に整理したものですので、本によっては年代が違っていると思いますので、ご了承ください。

    しかし、こういうことを色々と調べるのも結構面白く、勉強になるものです。
    エジソンの場合、子供向けの伝記として書かれたものと大人向けのビジネス書的に書かれたものでも、もちろん内容が違ってきますし、エジソンが言っていた言葉を訳し解説を入れたものも面白かったです。

    でも興味をもったのは最初に読んだウィキペディアにあったもので、そこではオカルト研究という項目の編集文の中でこんな文章がありました。
    エジソンは、人間の魂もエネルギーであり宇宙のエネルギーの一部であると考えていた。エネルギーは不変なので、魂というエネルギーは人間の死後も存在し、このエネルギーの蓄積こそが記憶なのだと考えていた。エジソンの言によれば、自分の頭で発明をしたのではなく、自分自身は自然界のメッセージの受信機で、「宇宙という大きな存在からメッセージを受け取ってそれを記録することで発明としていた」に過ぎないのだという(自分的にはオカルト研究という項目にはしてほしくないのですが)
    また「天才は1%のひらめきと99%のあせ」の真意という編集文の中では、この言葉は当時エジソンを取材した若い記者が、努力の美徳を強調するニュアンスに勝手に書き換えて発表してしまったもので、実際は「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄である」との発言だったと後年になって語っていて、自身を自然界のメッセージを受け取る受信機に例えるほどひらめきを重視していたというエピソードの後に、

    最高級のひらめきは突然やってきては一瞬のうちに消え去ってしまうものが多い。よいアイデアほど、自分の深層意識のより深いところからやってくるものであり、それが深ければ深いほど、表層意識では意識できないので、いとも簡単に忘れてしまうという。エジソンは、ペンと紙を常時携帯し、思い浮かんだ瞬間には面倒くさがらずに書き留めていた。ちなみにアインシュタインもメモ魔として有名であった。とありました。

    そして、操体法の創始者である橋本敬三先生は、心の調和―「救い」と「報い」−と題した文章の中で、
    自分は「救い」と「報い」の区別がはっきりわかったので、「救い」の信念に安住し得たのであるが、「報い」の現象の変化性については後年大いに谷口哲学の心の法則の説明によって啓発された。 実相は久遠にして不変の大生命、人類は神の子、というのを縦の真理とするなら、三界は唯心の所現といって、有限現象界においては、人の心の持ちようによって、万象が発展変化するという横の真理があり、人は縦と横の真理の交叉点に位しているのだという。 人類の表在意識において、或ることを心に描き、強くそのことを思い、然り、かくの如く成るべし、と発言すれば、萬象はそのように具現するという精神界の自然法則があるのだという。 思念宣言の質と量との強度によって発現の速度に差があるが、とにかく事態はそのように形成されている。 そのメカニズムは、表在意識は心の極く表面に現れている氷山の一角にすぎないのだが、心の大部分は外からはわからない大きな体(たい)をなして、無数の記憶と経験を包蔵している。 これを潜在意識という。 これが表在意識の活動(心の振動)によって共鳴を起こしてくる。 この振動は初めは弱くとも、次第に表在意識より大きく強く動く。 この潜在意識は単独自己のみならず全人類をふくむ宇宙意識と根底において連なっているのだそうで、潜在意識の振動は宇宙意識の振動(活動)を呼び起こす。 これが自己以外に人や物の活動を発起合成してきて、初めに思い立った個人の周辺に物事をそのように具現化してくるのであるという。 現象の発現というのは、このような機序によって行われるものだそうである。ずいぶんと思い当ることがある。 と書いています。
    これも全体の文章の中ほどの一部を抜粋しておりますので、是非「生体の歪みを正す」という本をお手に取り、文章全体に目を通すことをお勧めします。
    また、橋本先生の書いたこの 心の調和―「救い」と「報い」―の全体の文章を読んでいただくことで、読んだ人にとって、違う意味での、あかりの日になるのではと思います。

    友松誠

  • 稲の実り.

    実るほど頭を垂れる稲穂かな。

    雨にも負けず、風にも負けず、台風18号にも負けませんでした。

    米は八、十、八、手間かかるとされていて、春先に種もみから苗作り、それから夏前に田植え、夏のあいだは小まめな水管理と雑草取り、秋に収穫を向かえ稲刈り、脱穀と数ヶ月間、手間ひまかけて米となり、それを水と一緒に炊いてご飯となります。
    春先から数ヶ月間の、手間ひまがかかり秋の収穫を迎えますが、その間の天候によって収穫高は左右され、天変地異が起これば田んぼそのものがダメになってしまう事もあります。
    10月8日に台風18号が上陸し、私の住んでいる群馬県でも真夜中過ぎから、明け方まで突風と豪雨で安心して寝てられない状態でしたが、稲の方は大丈夫だったようです。
    もっとも、稲妻という言葉もあるぐらいですから、雨や風には強いみたいで、雷の落ちた田んぼの稲は良く育つと言われているそうです。
    稲穂を実らせるまでが稲の一生だとすれば(栽培上は一年生植物)、天と地の縦軸の恵を受け、稲としての天命を全うすることの出来たものを、人間が鎌で横からスパッと切って往生させ、その恵をいただく。
    秋もこの時期になると、各地で収穫を祝う祭りが行われますが、先人達は自然を崇拝し、そこに神の存在を見出し、自然の中で生かされているということを感じ、感謝し、自らの中にも神性を感じ、また感謝するということをしていたのではと思います。
    そして、それぞれの個々の感謝の念がつながり、波及していき、新しい文化を生んでいったのかもしれません。
    また、米などの穀物は保存が利き、この人間の手で一から育てる保存食が出来るということは、不安定な狩猟、採取中心の生活から開放され、時間的にも建物を建てたり、新たに道具を開発、工夫していくことが出来てきて、それが文明に発展していったのではないかと思います。
    しかし、この文明は持てる者と持たざる者、階級制など負の面も生んでしまいました。
    そして動物としてのカン、いつなんどき、どんなものを食べれば良いかという食の自然本能を鈍らせてしまった面もあるかと思います。
    私達はこの文明の発展の恩恵の中で生まれ、生活していますが、この文明の始まる前の先人達がどのような生活を営み、稲作の伝来をどのように受け入れたのか、このあたりのところを学ぶ必要があるのかもしれません。
    1192つくろう鎌倉幕府と暗記したりするだけが歴史の勉強ではないはずです。
    保存食の知恵や技術もあったでしょうが、自然からの恵の恩恵だけを中心にしていた時代の生活習慣と、そこから自らの手で食物を育てて食べることが出来るようになった時の、その人たちの想念(自然へのいたわり、畏敬、他)を知るということは、物質文明の中にあって、本来の自分がどこに位置しているのかということが解る手がかりとなり、感謝の念の中で生きていくことができるかもしれません。
    欲張って、上をみればキリがない、下をみてもキリがない、横に逸れていたら早めに気づいて修正して、また進めばいい、ただただ快の方向へ。
    ありがたいという気持ちは快に通じる。
    ご飯を食べる時も、八十八手間かけて作った人への感謝の気持ちの他に、なにかまた違ったありがたさを感じることができるかもしれません。
    すべてに感謝、感謝。
    実るほど頭を垂れる稲穂かな。
    また一つ快の予感。

    友松誠

  • 彼岸花=曼珠紗華。

    一ヶ月前のことで恐縮ですが、今年も私の仕事場の周りには彼岸花が咲き誇っていました。
    田んぼのあぜ道、線路沿いの土手、お彼岸の頃には決まって、知らず知らずのうちに咲き誇っています。
    いつも、気がつけばもう咲き誇っているという感じなので、今年はどの様に咲いていくのか観察してみようと思いました。
    写真はその時の様子です。

    9月14日、茎が伸びて蕾になっているのを発見しました。右下の方にもニョキッと一本出てきています。


    9月18日、開花しました。右下の方のも随分丈が伸びました。


    9月22日、田んぼの畦の様子。

    今年は割りと涼しかった為か、フライング気味に何本か早くから咲きはじめた仲間もいたようですが、お彼岸の中日にはいつもどうり、みんなで咲き誇っていました。

    彼岸花というと、死人花とか幽霊花とか地獄花とか、関西では持って帰ると家が火事になるとか言われていたりするそうで、不吉な花と思われる反面、別名、曼珠紗華とも呼ばれていて、これは天上の花という意味で、おめでたい事が起こる兆しに天から赤い花がふってくるとも言われているそうです。
    またこの花の球根には毒があり、これを食べると彼岸に行ってしまう(死んでしまう)と言われる反面、この毒は水に晒せば無毒化する為、食糧難の時には救飢植物として食用にされていたり、石蒜という生薬として利用しているところもあるという。
    しかし、そのまま食べると激しい下痢や嘔吐、ひどい場合には中枢神経の麻痺から死に至る場合もあるというのに、よくこれを工夫して食べようとしたものだと感心してしまう。
    すりつぶして、数日間良く水に晒して、水の底に沈殿した白いデンプンを乾燥させると、片栗粉や馬鈴薯澱粉コーンスターチのようなものが出来、それを水で溶いて練り込んで平べったい饅頭のようにして形作り、タレをつけながら焼いて食べたという(良い子は絶対に真似してはいけません)。
    こんな芸当は他の動物には出来ないことであり、事実ネズミやモグラはこの球根がある田んぼのあぜ道や墓場には近づけないのだという。
    他の食べ物でもそうですが、人間の場合、彼岸に行った先人の知恵と勇気によって食が支えてられている面が多分にあると思います。
    先人に感謝です。

    友松誠

  •  友達になっちゃう。

    ブロブロブログーも5巡目となりました。
    おはようございます。友松です。
    一週間よろしくお願いします。

    先日、プリンターのインクが切れたので家電量販店に買いにいったところ、たまたま、小学校の時の同級生に会いました。
    頭の毛も随分と白髪が混じり、目じりの辺りも深いシワが刻まれているが全体の雰囲気でパッと解った。
    なんだか急いでいるようなので、挨拶程度の会話しか出来なかったが家に帰ってから、ふと小さい時の記憶がよみがえってきた。
    この同級生は、M ちゃんと呼ばれていて、保育園の頃から一緒だったのですが、内気でおとなしく、何かあるとすぐに泣いてしまうような男の子だった。
    しかし、小学校の2年生ぐらいから何かちょっと変わった感じとなり、今まではこちらから話しかけなければ、ずっと黙っているという感じだったのですが、物静かな口調ながらも自分から話しかけてくれるようになりました。
    いつだったかその理由みたいなのを話してもらったことがあった。

    学校帰りの帰り道に、

    「俺さぁ もうお化けが怖くなくなったんだぁ」
    「へぇ〜」
    「なんでかわかる?」
    「わかんねぇ」
    「それはさぁ 怖ぇと思うと怖ぇからさぁ 友達になっちゃおうと思ったんだぁ」
    「ふぅ〜ん」
    「だってさ〜 友達になっちゃえば怖くねぇじゃん 友達になっちゃえば喋ったりしてさぁ 今みたいに楽しいと思うんだ〜」
    「うん」
    「お化けだって怖がられたくって、怖がられてるんじゃねぇかもしれねぇしさぁ〜」
    「うん」
    「本当は良い奴かもしれねぇど〜」
    「うん」
    「だからさぁ 俺ぁ もう怖ぇもんがなくなったんさ〜」
    「うん」
    「みんなさぁ 友達になっちゃえば良いんだよなぁ そうすりゃあさぁ みんな楽しいんだよな〜」
    「うん そぅだな〜」
    「そうさぁ〜」
    この考え方は、ある意味最強の考え方なのかもしれない。
    事実、Mちゃんは保育園の頃から随分と明るく向上的になった。
    学校帰りの帰り道、彼の話が面白かったものだから、ランドセルの中の筆箱をカタカタ鳴らしながら、自然と二人して遠回りに遠回りをかさねて家に帰ったことが思い出された。

    操体法の創始者である橋本敬三先生の著書の中の一文を取り上げさせていただくと
    現象以前の理念の人間には、大生命そのものというタテの真理と、現象界は唯心の所現というヨコの真理とがある由である。人間はその交叉点にある。潜在意識というものには、あらゆる人間関係の現象を具体化してゆく力がある由である。暗黒面を心に印象づけておれば、わが身の周囲には自ずからそのような事態が展開してくる。光明面を思念して潜在意識に印象づけておれば、自然と周囲は光明化されてくる。恐るるものが現れ、泣面に蜂、笑う門には福、というようなことは、この精神界の一つを言い表したものであろう
    「生体の歪みを正す」という著書の中の健康に関する四つの場という項目の文章の一部を抜粋しました。
    この一文にも前があり、後があるので、よろしかったらお手にとって文章全体を読んでいただければと思います。

    再びMちゃんを引き合いに出すと、夜寝る時に「お化けが出たらどうしよう」と怖がりながら床に就くのと、「お化けが出てきたら友達になっちゃおう」という意識で床に就くのとでは潜在意識に随分と差が出てくると思います。
    また、以前三軒茶屋に勉強に行ったとき、創始者の意志を継ぐ御師匠は、夜寝る前に笑顔をつくってから寝るようにしなさいと仰っていました。

    友松誠