カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 暑いですね。

    暑い、暑い、暑いですね〜。
    ブログの初日に、今週は猛暑、酷暑が続くそうとか、天気予報を見ながら書いていたら本当にそのとおりになってますね。
    それでも、日の入りは7月の中頃と比べて随分と遅くなってきています。
    私は朝の4時前には起きていますが、7月の中頃はもう日が出ていて、車を運転するのにもヘッドライトを点ける必要がないぐらい明るかったですが、今はもう真っ暗です。
    日の落ちるのも、早くなってきていて暑いなかにも時の流れを感じます。
    明日はもう暦の上では立秋です。
    でも、まだまだ日中の日差しは強いですね。
    7月は瞬発的な暑さを感じましたが、8月の暑さというのは何だかこもる様な感じの暑さで、蒸し蒸しとして自然と汗も噴き出してくる感じですね。

    私事になりますが、以前は太っていた時期があり、体重も90キロ以上ありましたが、操体に出会い、学び始めてから年々体重が減っていき、今年はついに60キロを割り込んでしまいました。
    そして、年々この時期になって感じることは、汗の質が変わってきているということです。
    10年ぐらい前は、汗もジト〜としてベタベタまとわりつく感じで、風呂に入った時などナイロン製のザラザラしたタオルに石鹸をつけてゴシゴシ、ガシガシ擦らないと気が済まなかったのですが、今はそこまでしなくとも十分にサッパリするし、以前はあんなことをして随分とからだを苛めてしまっていたなぁと反省もしています。
    からだを包み込んでくれている、ありがたい存在を苛めてはダメですよね。

    今日は人間が人間に対して原子爆弾という核兵器を使用してしまった日でもあります。
    1945年のこの日に、広島で原爆が投下され、地上約600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、爆心地周辺の地表面の温度は3000〜4000度にも達し、その強烈な熱線と放射線で、あたり一面は焼け野原となり、川は水を求めた人達の亡骸で埋め尽くされ、また原爆で出来たきのこ雲からは放射能を含んだ「黒い雨」が降り、その日のうちに5万人、その年のうちに14万人が亡くなり、今も放射能を浴びた後遺症で苦しんでいる人が大勢います。
    改めて、暑い、暑いと言いながらも、呼吸することが出来、水を飲むことが出来、地表に立っていられる環境に、生かされて生きていることに感謝しなければならないですよね。
    今年の平和式典には、国連事務総長や、はじめてアメリカの代表者が出席しました。
    時は一定のリズムを刻みながら経過していきますが、未来の地球の為にも、風化させてはいけない事実もあり、2度と犯してはいけない過ちとして胸に刻む必要のある事実もある。

    友松誠

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催

    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体フォーラム in マドリード」開催

  • 昨日の記事から。

    昨日の記事のなかで、NHKラジオ放送人生読本「人間の設計」のなかの一文をお借りして掲載しておりましたが、お借りする上で、改めて3日間全部の収録したものを読み返してみたのですが、「楽」という言葉は一言も出てきていませんでした。
    この放送の収録が行われる時には、操体法という名称はなく、ラジオ放送に出る手前、なにか名称がなければ不都合と言うことで、操体法という名前が出来たと聞いたことがありますが、操体法という名前を使って、はじめて一般公開した話の中に、「楽」という言葉がでてこないで、「気持ちよさ」「気持ちいい」という言葉がしつこいぐらいにでてくるということは、操体法は「楽」か「ツライ」かではなく、気持ちよさなんだと、その方向性と真髄を示しているように感じられます。
    操体法の創始者である橋本敬三先生は、操体法として世に出すとき、「楽」とは決別して世に送り出したのだと思います。
    このラジオ放送の収録が行われたのが昭和56年(1981年)ですから、翌年(1982年)には、「きもちのよさをききわければいいんだ、きもちのよさで治るんだからな。」と断言するかのごとく話されていたといいます。
    気持ちよさを何にききわけるかというと、太極の意志が貫通し、見返りを求めることなく粛々とその理念を全うしている、からだであり、理屈や知識で判断し、損得勘定という合理性に向いたアタマではないと思います。
    「損」か「得」かと「楽」か「ツライ」かは、何だか似ているような気がします。同じではないですが、これらのききわけに「太極(神様)」の理念の存在があるのかということです。私はこれらのききわけは、自分を中心としたアタマの思考による判断の産物のように思えます。
    これに対して、「快」「気持ちよさ」はアタマの枠を超えた、親の親(神様)の「ちゃんとみんなに愉楽しんでもらってね、それで一生気持ちよく生きてくれればいい」という宇宙規模の親心であり、宇宙規模の親心の内にはそれを満たすための自然法則(理屈を超えた決まりごと)があり、その自然法則に順応する為に「快」か「不快」かという原始感覚が人間には備わっており、「気持ちのいい」ことをすれば良いということが成り立ってきます。
    しかし、人間は社会が発展、複雑化する中でアタマの知識もどんどん発達し、原始感覚という勘、直感が鈍ってきてしまいました。
    だから、「気持ちよさ」を太極の意志が貫通している「からだ」に感(勘)じ、「からだ」の要求感覚を満たしているのかという、「気持ちよさ」の質をききわけ、ききわけた「気持ちよさ」に従い、味わうということが、とことん理に適っていることであり、とことんありがたくできていることなのだと、理解していただけると思います。
    東京操体フォーラムの理事長である三浦寛先生が、弟子入りした頃は、操体法という名称はなく、「名称なんかどうでもいい、真理が大切なんだ」と名称がないことを橋本先生は意に介してなかったといいます。
    それでも操体法として世に出す時、真理を伝える意味もこめて、「気持ちよさ」としつこいぐらいに繰り返していたのだと思います。
    三浦先生は、「きもちのよさをききわければいいんだ、きもちのよさで治るんだからな。」と橋本先生から断言するかのごとく話していただいたことから、「操体操体にあらず快にある、操体臨床の真の意は、快適感覚そのものの内にある」ということを学ばれたといいます。
    ですから、操体は日々、年々発展、進化をしております。

    東京操体フォーラムはその公開の場でもありますが、今年は関西では初の京都、大徳寺で行われたり、スペインのマドリードで行われたり、秋は定番となりつつある千駄ヶ谷の津田ホールで行われます。
    「ちゃんとみんなに愉楽しんでもらってね、それで一生気持ちよく生きてくれればいい」という親心と一体となり、地方、民族を問わず、みんなに愉楽しんでいただけるよう、みんなに気持ちよく生きていただけるようにと願いながら、自然法則の応用貢献に励んだ成果を、出し惜しみなく公開しておりますので、興味がある方は是非、参加してみてください。

    友松誠

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催

    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体フォーラム in マドリード」開催

  •  「のる」か「そるか」

    昨日の話の中で、「のる」とか「そる」とか書いていましたが、橋本先生は操体を学ぶ人達によく「のる」か「そるか」という言葉の表現を用いていたという。
    辞書を引いてみると、成否は天にまかせ、思い切って物事を行うこと。とか、いちかばちかという意味だと出ているが、辞書の意味とはちょっと違うような気がする。
    成否は天にまかせてというのではなく、成否はもう天によって決まっており、天によって決められていることに「のる」ということではないかと思います。

    人生読本「人間の設計」というNHKラジオ放送、一日目の最後に橋本先生は「気持ちのいいことすればいいってこと。これは極楽にいることでしょう。そういうふうにできてるってことが救いなんだもの。それを意識的に感ずれば感謝ができるですよ。それをみんなが気がつかずにいるだけの話でね。そんなに有難くできてるなってことが判ればいいだけのことです。だけども建て前として、いろんなことやると、間違ったことやれば、やっただけのことはどうしても返ってくるから、法則違反をすればそれだけの罰があるでしょう。だけど、天地自然はね、罰をあててるとは思っていないのよ、ちゃんとみんなに楽しんでもらってね、それで一生気持ちよく生きてくれればいいと思っているのは親心、だから神様が親ですよね、その気持ちがわかればいいと思うんだ。」と言っています。
    こういうことに「のる」ということではないでしょうか。
    例えば、重力というのがありますが、これはどうして重力が起きるのかとか、どうして重力があるのかという次元の問題ではなく、これはもともと自然界にある法則であり、宇宙の決まりごとであり、その決まりごとを誰が創ったかといったら、親の親である神様であり、親の親である神様は「ちゃんとみんなで愉楽しんでもらってね、それで一生気持ちよく生きてくれればいい」という親心から創ったものであり、重力の場で生きる人間にも、身体運動の法則としての決まりごととして、ここでも「ちゃんとみんなで愉楽しんでもらってね、それで一生気持ちよく生きてくれればいい」という親心が貫通しており、だから親心に素直になり、その決まりごとに適うように、「嘘か本当かやってみる」そしてそれが適っていれば、神様も喜び、気持ちがいいし、そのように神も人も気持ちよさでヒビキ合っている、そういうふうに有難くできているということに「のる」ということではないでしょうか。
    だけども建て前(イノチの本音と違うアタマの部分)で、親の親の存在を無視し、オレがオレがと「そる」ことをしてしまえば、法則違反をした分だけ罰、報いがあるということなのでしょう。
    親の親の存在を無視し、建て前の部分だけを満足させようとすると「楽」ということにつながるのかもしれません。
    楽というのは、親心とは別のところで、人間の建て前がつくりだしたものですから、法則違反も含んでいます。
    だから楽というのを前面に出したオレがオレがと「そる」建て前の主張というのは、それを主張する人にも罰があるんでしょうが、その主張に同調した人にも迷惑をかけてしまうということにもなるのではないでしょうか。
    極楽の中にいるのに自ら地獄のふたを拡げることをしてしまっているのかもしれませんね。
    橋本先生は、「のる」か「そるか」の意味を尋ねられると「天国か地獄かということだよ」と話されていたといいます。
    よくよく突き詰めていけば真に気持ちよさが天国で、楽は地獄ということなのでしょうね。
    操体法に於ける、操法として、とおすか、とおさないかの選択も、親心が貫通しているからだが要求し選択してくる気持ちのよさをききわけて、その気持ちの良さに従うということが大切というのも、こういうことも含んでのことだと思います。

    罰という言葉が出てきていますが、よくよくこの橋本先生の語られたものを起こした文章を読んでいると、罰というのも人間がつくりだした現象界における報いの想念であり、親の親である神様にはそういう言葉すらないのかもしれません。ただただ「ちゃんとみんなで愉楽しんでもらってね、それで一生気持ちよく生きてくれればいい」という救いの親心だけしかないのだと思えます。
    親心(宇宙現象創性の中心理念)に適うようにと、やってみて、それが親心に適っていれば、親の親も自分も気持ちがいいのだと思います。
    そしてそのような決まりごとに、「のる」ということ。
    いつもノリノリでいきましょう。

    友松誠

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催

    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体フォーラム in マドリード」開催

  • 吸いながら動かない。

    昨日、草むしりについて書きましたが、草むしりをする時、手は小指側、足は親指側を利かすということに加えて呼吸(呼気)に合わせて草を抜くようにすると、また一段と能率的になり、作業がはかどるようになります。
    橋本先生も身体運動の法則を説いた著書のなかで、呼吸との関連として「急速、強力な運動は、呼気か、息を止めてしなければならない。吸う時には運動神経が働かない。試合で隙を突かれるのはこのときであり、ギックリ腰もウッカリ吸うときにやられる。」と書いておられるように、息を吸いながら作業をしていると、能率うんぬんより先に、からだを壊してしまいます。
    また、こうも書いております。「すべての随意筋によるところの運動は呼気の時間に完了すべきもので、吸気においては重心と中心とを集結して動作できがたいものなのである。息を吸いながら力のこもった動作ができるかどうか、ためしてみればすぐわかるであろう。」
    気乗りはしなかったのですが、草むしりでためしてみました。
    草を抜く時に、からだをかがめた状態から、息を思い切り吸い込みながらやってみたところ、てきめんにバランスは崩れ、背中にピキッという嫌な音がしたかと思ったら、なんだか息が痞える感じとなり、左の胸が痛くなり、触ってみると胸の筋肉がしぼんで、のぺ〜とした感じとなってしまっていて、左手を前に出したり、上に挙げるような動作で肋骨に強い痛みが走るようになってしまいました。
    そして、腰背部に空気の溜りが出来た感じで、前かがみになると左の背中にグリュグリュとお腹がなるような変な音がして、これも不快です。
    腰が痛い、背中が痛いという経験はありますが、こういう事ははじめてで、ビックリするやら、痛いやら、不安感やらで本当に困ってしまいました。
    しかし、こういう時こそ操体を学んでいる者としては、新たな学びのチャンスでもあります。
    困っている自分の心の中では、逆に児玉清がコブシを握りながら「アタックチャ〜〜ンス」
    と言って出てきています。
    ここはアタックチャンスに「のって」、自力自動による自力自療を成すしかありません。
    けっしてここで「そって」はいけません。
    もとより、立っているのも、腰掛けているのもツライ状態だったので、横になって休んでみます。
    何気なく、気になっている左の胸が下になるような横向きとなりましたが、念の為、他のポジションも試してみますと、仰向けになっても、うつ伏せになっても、右を下にした横向きになっても呼吸が苦しく、どこかしらに痛みも感じ、最初の左を下にした横向きが一番落ち着く感じでした。
    この状態から、からだはどうしたいのかという要求が感じとれるようにと、安静にしていると、左手を肩口へ引き込むような動きの要求が感じられたので、左手の小指側を意識して、ゆっくりと床と接触している前腕がこすれる程度の小さな動きで引き込んでみました。
    はじめに首の付け根から肩にかけて、水が流れていくような清涼感を感じ、気持ち良さとしてききわけられ、味わっていると呼吸も気持ち良くなってきて、呼吸の気持ち良さも味わっていると意識が遠のいて30分ぐらい熟睡してしまっていました。
    目が覚めると、仰向けになっており、呼吸の苦しさもなくなっており、最初に確認していた腋の下の胸筋をのけた奥の肋間筋部の圧痛も和らいでいました。 
    かがんだ時の左腰背部のグリュグリュ音は依然ありましたが、息苦しくて何もする気にならないといった状態からは脱していました。
    このまま、無理をしなければ大丈夫だろうと楽観視していましたが、翌日は臨床以外の仕事が忙しく、ここで無理をしてしまい、また痛みがぶり返してしまいました。
    火元の種火はまだ鎮火しておらず、ここぞとばかりに燃え広がろうとしているようです。
    どうもこじらせてしまった様で、前日のように快を聞き分け、味わおうと試みても、なかなか味わってみたい要求感覚を満たすとまではいかず、この日は丸一日息苦しくて、喋るのもままならず、ただただ左の胸の痛みに耐えているという感じでした。
    そして、翌日は勉強会の日だったのですが、この日も朝から調子が悪く、前日の胸の痛みを引きずっているという感じでしたが、実技の実習で介助を与えられての動きをとおすことが出来、自力自動ではちょっと困難な、介助があるからここまで動けるといった感じの、全身がより良く連動しての快のききわけが出来、からだの要求感覚を満たす気持ち良さを味わうことが出来ました。
    勉強会が終わる頃には、息苦しさも和らぎ、左手を動かしても気にならないほどになっており、そしてこの日の晩は特に良く寝た。10時間は寝ただろうか。眠くてしょうがなかった。寝ているあいだも、からだは本来の姿を取り戻そうと働いてくれていたようで、非常に寝相が悪く、起きた時は布団から2メートルぐらい離れたところにある座椅子を枕にして畳の上に寝ていた。
    寝相の悪さもさることながら、自分の体調の良さにも驚いた。
    「気持ちよさで治る」。これを身をもって体感するということが出来、自分が仕事としてやっていることのすばらしさを改めて認識しました。
    操体は自力自療ですが、これはからだの感覚を聞き分け、聞き分けた快に従うということで成立しています。ですから、その聞き分けまでの過程が自分ひとりでは困難な時は、他の人に介助してもらったほうが良いと思います。 
    その介助も、誰でも出来ることになっており、これは理想論ではなく本当に実際に誰でも出来ることなのですが、頭の思考でもって誰でも出来ることを出来なくしている部分というのはあると思います。
    治療法に関する知識が多い人ほど、「こんなことで」と否定的に思ってしまい、出来なくしているのかもしれません
    まず、やってみる、否定想念をすてて「のってみる」ということが肝要かと思います。
    「気持ち良さで治る」を信念として実践している人の介助は、触れられるだけでも実際に気持ち良く、技術、テニックに縛られている次元を超えてしまうのです。
    勿論、相手の動きをより良くサポートするということに関しては日々、研鑽を重ね、精進しております。
    東京操体フォーラムのメンバーは皆「気持ち良さで治る」を信念として実践しておりますので、気持ち良さの聞き分けまでが、上手くいかないという人は、「気持ち良さで治る」を信念として実践している人に介助してもらって、からだ本来の気持ちよさをききわけ、味わってみることをお勧めします。
    また、8月28日(土)、29日(日)は京都の大徳寺にて東京操体フォーラムが開催されます。
    メインセミナーは三浦理事長による「動診における介助法〜動きをいかにサポートするか」です。
    操体法には何々に効く操体法というのは存在しませんが、「気持ち良さで治る」のです。
    気持ち良さをききわけ、味わうといったなかで、操者がどのように介助して、
    「気持ち良さで治る」ということが成り立っているのか、興味がある方は是非参加してみてください。

    友松誠

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催

    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体フォーラム in マドリード」開催

  • 草むしり。

    この時期に欠かせないのが、草むしりです。
    私は、除草剤とか使うのは、なんだか化学兵器を使うような感じがして、あまり好きではなく、それと夏の時期に除草剤で茶色くなった草というのは、どうも見ていて良い気分にはなれない。
    雑草と呼ばれる草にだってイノチは宿っており、この世に生を受けた喜びを表現したいはずだ。
    空気と水と光が溢れる地球の大地に芽生えることが出来たことを、宇宙現象創性の創造主にも見てもらって喜んでもらいたいと、葉っぱをみずみずしく、青々と輝かせ、空気と水と土壌と光の恵でこんなに嬉しいのだと、益々その葉っぱを大きくさせ、また風土により種類により、カタチや色にも個性を発揮させ、人間の目には見えない創造主と喜びを共有しようとしているのかもしれない。
    そう思うと、時期を迎え繁栄している他の草花を横目に、人間の意にそぐわないからと茶色くなったその姿を朽ち果てるまで、晒しておくというのは、なんだか不憫に思う。
    だからせめてもと思い一本一本手で抜いて、土に還しているのですが、これも結構大変です。
    みんな個性があって、横に大きく広がるように根を張るものやら、棘のあるもの、葉っぱが異様に柔らかく抜く前に切れてしまうもの、万年筆と万年筆立ての様な構造で万年筆の様な葉っぱはスポンと抜けるのだけれど、万年筆立ての様な茎と根が残ってしまうもの、みんな個性的で、色々あって一筋縄ではいかないが、共通しているのはただ力任せにやってもダメだという事。
    やはり、手は小指側を、足は親趾側を利かせて、やってみる事。
    草をむしる時は、親指と人差し指ではさむようにして、むしる時もありますが、この場合、草をはさんでいるのは親指側でも、引き抜くのに利かせるのは小指側、尺骨側を利かせるようにした方が良いと思います。
    こうすることで、からだの要である腰を中心とした動きになり、指先にも余分な力みが入らなくなり、草が途中で切れてしまうことなく、スポッと抜けます。
    これは実際にやってみて、きれいにむしれ、能率的でもあり、自分自身の疲労も少ないことからこう書いているのですが、そういう自然な動きが自分のからだの無意識にもすり込まれているというなら問題ないですが、そうでなければ気持ちを、みんな生かされて生きているという風に切り替える必要があると思います。
    「このクソ暑いのにかったるい」とか「こんなところにまた生えてきやがって」という自分を中心にした気持ちで向き合うと、頭では手は小指側、足は親指側を利かすと解っていても、どうもこういう気持ちの方が勝ってしまうようで、不自然な体勢から、こういう気持ちを表すような不自然な動作をしてしまっているというケースが多いように思います。
    そうなると、自分のからだに負担を強いるのは勿論のこと、変な力みが入るため表面の葉っぱだけしかむしれなくなるし、草だって「何でこんな奴にイノチを摘まれなければならないんだ」と尚も抵抗したりするのかもしれません。
    そんな姿、やり取りを見て、宇宙現象創性の創造主であり、自分に似せて我が子として人間を創造した創造主はどう思うのだろうか。
    創造主は自らが創った宇宙現象とその法則の中で、我が子である人間が調和して喜んでいる姿を見たいと思っている筈です。
    これは、草にもイノチがあるから、そのまま草ボーボーにして、その中で共生して調和しろというのではなく、人間は自然に手を加え、手入れをして創造する能力があるのだから
    その調和を我欲だけで成そうとせずに、親である創造主の理念に照らし合わせて、その中で人間である自分も自然界の一員であり、生かされて生きているという自覚と礼節をもって、調和を成し遂げれば、親である自分は嬉しいのだと創造主が言っているように感じます。
    親である創造主と子である人間もつながっていますから、親が喜べば、喜ばせた子も嬉しい。
    そこにあるのは気持ち良さですよね。
    自分への自戒も含めて書いていますが、気持ちって大切ですよね。

    友松誠

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体フォーラム in マドリード」開催

  • おはようございます。

    早いものでもう約4ヶ月が過ぎ、ブログの担当がまわってきました。
    この4ヶ月にいっぺんというのは、その時々の季節が感じられていいですね。
    その移りゆく季節の中で操体と向き合い、文章にしていく。
    ありきたり、平々凡々に思える日常のなかにも、なにかがある。
    ありきたりというのは、そこに生きる自分がそう思うから、そう思えるだけで、本来はありきたりの日常なんてものはなく、そこに自分が生かされているという観点に立てばありきたりなんてものはなくなってくる。
    そして、生かされて生きている自分からみれば、すべては感謝であり、喜びと感動が存在している。
    喜びといっても、ハッピ、ハッピーのウッキウキのウッハッハというものでなくとも、静かな喜びがあっていいと思う。
    静かに心の芯が振動し、それがジワ〜と布に水が浸透するように、すべての細胞に心地よい速度でゆきわたり、全身が喜びと感動で浸され、満たされていく、そして最後は、ありがたいと自然と両手を合わせてしまうような、そんな静かな喜びがあっていい。
    普段、生かされて生きている中で、何かしら感じたり、気がついたことというのはあるのですが、知らぬ間に忘れ去られていることも非常に多く、4ヶ月にいっぺんぐらいは、こうして文章に残しておくというのも、いいものですね。
    今週は猛暑、酷暑が続くそうですが、一週間のお付き合い、よろしくお願いします。

    今日から8月ですが、この時期は一番水の消費が多いということで、今日は水の日になっており、今週は水の週間にもなっているそうです。
    水っていうのは、ありがたいものであり、また不思議なものでもありますが、先月は水の災害が多く、映像をとおして、恐ろしさも感じました。
    おいしく水が飲めるというのは、ありきたりではなく本来はありがたいことですよね。
    水は人間が生まれる前から存在し、姿かたちを変えながら、永遠に旅を続ける旅人のようでもあります。
    その旅人が人間と調和するかたちで現れたなら、美しい言葉と感謝の念を向けなければならない。なぜなら、そのようなかたちになるまでに、長い時間をかけて旅をして来たという事もあるが、人間のからだの半分以上が水で成り立っているからだ。
    その旅人を否定したならば、自分の半分以上を否定することにもなりかねない。
    感じたまま素直に「ありがとう」という言葉をかければいいのでしょうね。
    しかし、美しくない言葉や想念、あるいはまるっきり無関心の無視をすると、旅人の内なる存在(H2O分子の内にあって本質的働きをする存在)は大きなダメージを受けるといいます。

    猛暑、酷暑がつづき、水を口にする機会が多くなりますが、美しい言葉をかけ、感謝の念を向けてから、その旅人をあたたかく迎え入れてはどうでしょうか。
    また、自分のもとから旅立っていく水に対しても、「ありがとうございました」と旅立たせてあげる。
    きっとなにかが変わるはずです。

    友松誠

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体フォーラム in マドリード」開催

  • 自己効力感。

    バンクーバーオリンピックも3月1日で閉会しましたが、女子のフィギアスケートが
    終わった翌日の新聞を見ていると、自己効力感という言葉が自分の中に入ってきました。
    金メダルを獲得したキムヨナ選手と銀メダルの浅田真央選手の滑走順に注目し、滑走順も
    問題にしないキムヨナ選手の精神面の強さを、東北大の北村勝朗教授(スポーツ心理学)
    は心理学で使われる「自己効力感」という言葉で説明していました。
    自己効力感は、物事を成功できるかの見通しと、成功させたときに得られる利点を読み取る
    力を指し、成功体験の蓄積や境遇が近い人が目標達成するのを見ることなどで高まるという。
    「当初、キムヨナ選手は浅田選手を追いかける立場だった。追いつけ追い越せで成功体験を
    蓄積したことで、自己効力感が高まり、力を最大限発揮できるようになったのだろう」
    と分析している。 とありました。

    東京操体フォーラムのメンバーは、お互いに自己効力感を高めあっている集まりです。
    また「みんなで仲よく、ドンドンあばれろ。だけど威張ったら最後、バチ当たる。
    まあ、あとは若い人たちで思ったことやってみでくれや。天然自然の法則だけは、
    何したって変わんネェんだがら」
    という創始者、橋本敬三先生の言葉の意味も
    よく理解している集団でもあります。
    そんな集団が、4月25日に青山コンフォートにて、分科会を催すことになりました。

    このようにポスターが貼ってあったり、チラシが置いてありましたら
    是非チェックしてみてください。

    くわしい内容はこちらのhttp://www.tokyo-sotai.com/i/のサイトに
    プログラムが載っていますので、クリックしてご確認ください。

    一週間どうもありがとうございました。
    来週は中谷さんの担当になります。
    来週もどうぞ宜しくお願い致します。

    友松 誠。

  •  つながっている。

    先月の末に、南米チリの沖合いを震源とするマグニチュード8.8の大地震
    起こりました。
    チリでは死者700人以上で、建物の倒壊、道路には亀裂が入り、住民の話によれば
    「まるでこの世の終わりのよう」という悲惨な状態で、それから数日経った後も、
    被災者やそれにつけこんだ人による略奪行為の拡大や放火など治安の悪化が
    伝えられていました。
    日本からみたら、地球の反対側で起こった事象のようですが、日本とて無関係ではなく
    地震による津波の影響で、死傷者が出たとのニュースはなかったものの沿岸の養殖施設
    などは壊滅的被害を受けたそうです。
    チリや日本、その他の地域で被害を受けた人達は本当にお気の毒ですが、地球は全部
    つながっているんだなと感じさせられました。

    今回の地震震源の断層は400〜600キロメートルにわたり7〜8メートルの
    ズレが生じ、その地震波は地球を5週ぐらいしたといいます。
    ずいぶんな衝撃ですね。
    仕事柄、からだのことと結びつけてしまうのですが、ひとつの部位に異常があれば、
    その反対側にも何かしらあるものですもんね。
    でも、反対側から何かしら問いかける、働きかけることで、その部位の異常が解消される
    ことがあります。
    今朝コンビニに寄ったら、レジのとなりにチリ地震被災者に対しての募金箱があったので、
    小額ですが、募金させていただきました。
    反対側の日本からチリに、気持ちを送ることで、何かの働きかけになり少しは回復の手助けに
    なるのではないかということを願って。
    距離は遠いが、遠い分、その過程において調和を密にしながら、その要求に適うべく働きかけが
    成されることを願って。

    みんなつながっている。
    地球の裏と表、その地球に生きる人間同士。
    つながっている。
    響き合ってるはずだ。

    友松 誠。

  • 凸凹、ざらざら→ツルツル→写った。

    普段、生活していてアスファルトを見ない日はないですよね。

    道路はほとんどこれで舗装されており、よく見る光景なのですが
    写真の道路は色が違って見えます。
    新しいアスファルトと古いアスファルトなのだから違って当然ですが。
    新しいアスファルトの方は平坦性があり黒く見えますが、古いアスファルト
    方は、表面が凸凹していたり、削られて砂利の部分が出てきていたりして
    白っぽくなっています。
    これは昼間なら良く解りますが、夜だと見た目にはわからなくなってしまう。
    光があるから見た目の違いがすぐにわかります。
    太陽の光が反射したものを見ているわけですが、古い方は反射要因がいろいろ
    複雑になっているのかもしれない。
    だから、凸凹、ザラザラが見ただけでわかる。

    舗装用のアスファルトの様に、色々な成分が混じったものではなく
    単一の成分から出来ている何色のガラスやプラスチックでも、表面をザラザラに
    削ると白っぽくなります。
    透明なガラスも固いもので引っ掻くと、引っ掻いたところが白く見えます。
    光の反射で目に写るものが変わる。
    反対にザラザラではなく、ツルツルに磨きこめば、透明なガラスのあちら側が見えて
    いたものが、今度は鏡のように透明なガラスのこちら側が見えるようになります。
    これも光の反射で目に映るものが変わる。
    そして、こちら側の自分が映って見えます。
    しかし、これは本当に自分なのでしょうか。
    鏡は可視光線を反射させる物体であり、鏡像は前後(奥行き)が逆転しており
    鏡の語源は影見であるといわれております。
    ということは、鏡に映っている自分は自分の影でしかないのかもしれない。
    現に暗闇で鏡に向かっても、目では見えなくなってしまう。
    しかし、暗闇の中で存在している自分というのは感覚出来ている。
    明るいところでも、自分の顔、背部以外の手、足などは目で見えるが、顔、背部を
    目で見ようと思えば、鏡を使うことになる。
    明るいところで目に見える手、足も光源が違えば、色が違ってくる。
    そしてなにより、自分自身は常に一定ではなく常に流動的な存在だ。
    そうなると、目を中心とする視覚では本来の自分はわからなくなってくるのでは
    と思います。

    「神は自分の像の如く人間を創造りたまえり」とあります。
    神人合一の立場の人間である自分の像とはどんな像なのだろうか。
    鏡は鑑とも書き、鑑と書いた場合は、人間としての模範、規範を意味し、手本と
    じっくり照らし合わせることを鑑みるという。
    人間としての規範、模範とは神の理念である自然法則の中にあると思います。
    自分自身と自然法則をじっくり照らし合わせることで本来の自分がみえてくるのかもしれません。
    その為には自然法則を学んでいかなければなりません。
    その鑑は三軒茶屋におられます。
    同じ時代に生かされていることに感謝です。

    友松 誠。

  •  祭りに出ました。

    3月13日(土)と3月14日(日)は地元の笹森稲荷神社で春季例大祭
    行われました。
    毎年思うのですが、それまで雪が降ったり、寒い日が続いていても、なぜか
    祭りの日になると良い天気になり、風もやさしく暖かくなっている。
    不思議です。
    まるで冬が最後の踏ん張りで寒気を運んできて、最後の踏ん張りが終わって
    冬が満足して全軍を引き上げていったような、そんな穏やかな好天に恵まれ
    やさしい風にのって沈丁花の花の、さわやかですがすがしい香りも漂ってきて、
    なんとも心地が良い。

    笹森稲荷神社は今から1200年近く前に勧請され、衣食住、生活の神様として
    崇敬されております。
    13日(土)に神社から御神体をのせた御神輿とともに、太鼓や旗や弓を持った
    氏子世話人の人達の行列や稚児行列や太鼓や鐘、笛で祭囃子を奏でる小学生を乗せた
    山車とそれを引く人達の行列が町内を練り歩き、おたま屋で御神体に一泊していただき
    14日(日)の午前中には、また行列を作って神社まで御神体をお見送りし、お納めして
    終了となります。







    私は町内会で作った樽神輿を担ぐ係りの一員で、朝から町内を樽神輿を担いで練り歩き、
    写真のように最後は行列と合流して盛り上げるといった具合でしたが、天気が良くて
    本当に良かった。
    なにかを大勢でやろうと思ったら雰囲気って大切ですもんね。
    天気が良くて、沈丁花のさわやかな香りと、お囃子が聞こえてくれば、ウキウキして
    みんな童心にかえった様になってきます。
    普段、あまり付き合いのない人でも、「いや〜 天気が良くなって良かったいね〜」と
    言うだけで和んできます。
    それと掛け声、ただ黙々と担いでいても面白くないし、なんだか労働をしている感じに
    なってきてしまいますが、最初は小さな声でも良いから「わっしょい わっしょい」と
    声を出していくことにより、その掛け声は人から人に繋がり、呼吸も合うようになり、
    それが響き合い、エネルギーも増幅されるようになってくる。
    この感覚も気持ち良いですよね。
    翌日は勉強会が控えていることもあり、セーブしながら愉楽しもうと思っていましたが、
    一日中大いに愉楽しませていただきました。
    ありがとうございました。

    友松 誠。