カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 今日は6月6日。

    今日は6月6日。
    慣わしとして「芸事の稽古始は、6歳の6月6日にすると上達する」といわれています。
    そんなことから、今日は「楽器の日」「邦楽の日」「いけばなの日」となっているそうです。
    「楽器の日」というと、今年の春季東京操体フォーラムは「操体と発声」というテーマで
    「身体表現」という側面からボディは声を出す楽器である、という側面から操体をひもといていきました。
        ・ボディの歪みは声にも影響する。
        ・ボディは音を奏でる楽器である。
    内容については、いつも手技療法やこのサイトの中にもレポートが掲載されると思うので、そちらの方を楽しみにしていてください。
    今回は東京操体フォーラムの相談役であり超歌唱家でヒカシュウのリーダーでもある巻上公一氏を迎えて行われましたが、巻上さんは1989年から一年間、三浦先生から操体を学ばれた私たちの先輩でもあるのですが、その何年か前に声が出なくなってしまったことがあったそうです。
    自身の体験から、喉についての話として、歌もからだを動かしながら歌ったほうが良いという事から、喉と膝の裏の関係(膝をゆるめていないと喉がしまって来てしまうそうです)や喉と目の動きの関係についてもわかりやすく話していただきました。
    また、その後の懇親会でも、質問事項に対して、音階についての説明や音程がズレるということに対してどうしたら良いかという事や、自然倍音がからだに良いので倍音の出るホーメイの音とか口琴のような古い楽器の音が響き合うようにすれば良いということを話して下さいました。
    どうもありがとうございました。
    巻上さんのホームページを開いてDAIARYを見ると一番上にぼくは歌う時、いつも未完成の気分の中にいる。頂上はそこにある。だけど頂上という定点は移動する。だからいつも登っているのだ。(巻上公一とあります。さすがに私たちの先輩という感じで、深いです。

    秋の東京操体フォーラムは11月22日(日)、23日(月)の2日間の予定となっております。

    今日6月6日は楽器の日という事で、先日行われた東京操体フォーラムについて少しだけ書かせていただきましたが、楽器の日の元になっているのは、「芸事の稽古始は、6歳の6月6日にすると上達する」という慣わしからきているということでして、芸事に共通することと言ったら、からだの使い方、動かし方です。
    からだの使い方、動かし方にも法則が存在します。
    橋本敬三先生は「お経のように、からだの使い方、動かし方にも法則があるんだ」と言っておられたそうです。
    この身体運動の法則を解説した「般若身経」には、健康の基を正し、自然体(健康体)としての、あるべき姿を問いかけ、それが成り立つ理と約束ごとが示されています。
    橋本敬三先生も著書の中で「武芸であろうと、茶の湯、お華、あるいは座禅であろうと、皆この丹田に重心が安定しないことにはものにならない。力の出入が丹田に収約されることが理想である。あらゆる修行というものはこのバランス安定に尽きるといってよい。このためには、あらゆる動作は、手は小指に、足は母趾に、力が入るようにもってゆかなければならない。」と書いておられます。
    今日を、あらゆるものの根本になっているものを学び始める日に、または更に深く探求してみる日にしてみるのも良いのではと思います。

    一週間お付き合いいただき、ありがとうございました。
    来週は中谷さんです。
    前回はメンコの秘蔵コレクションを見せてくれましたね。
    スーパーヨーヨーも・・・やったわやった(熱中時代の水谷豊ふうに)
    来週もどうぞよろしくおねがいします。

    友松 誠。

  • 6月5日。

    橋本敬三先生の著書のなかの文章を少し抜粋します。
    親は子を生んで育て、子は親に産まれて育てられる。自然は人を生み、人は自然に育てられる。親心もわからずに屁理屈言ってもはじまらない。親心、それは自然法則以外の何者でもない。自然環境のなかで生命体がそれに適応することが生命の使命なのだ。生命エネルギーの収支のバランスをいかに調節させてゆくか。調和させてゆく営み方があるはずだ。その営みは複雑に見えても、必須の項目をしぼってゆけば呼吸・飲食・身体運動・精神活動になる。これ以下には詰められない。そしてそれには、それぞれに自然法則があり、しかも同時相関相補性になっている。精神活動が法則に背反すれば環境破壊もする。

    今日6月5日は環境の日
    近年は地球温暖化防止ということがクローズアップされ、日本では温室効果ガスの排出を1990年に比べて6パーセント削減しようという活動が色々と進められています。
    人類が繁栄した結果、地球の大気中にCO2などの温室効果ガスが増えて熱がこもり、地球の平均気温は最近の100年間で0.74度上がり、人間に例えると平熱36.5度の人が37.2度となり微熱を出している状態で、これからもその温度は上昇してしまうと考えられています。
    地球の気温が上がってくると、氷で覆われている部分は溶け出し、海水面は上昇し海に覆われてしまう地域がでてきたり、温暖化が原因とみられる様々な異常気象が起こってくるようです。
    日本の場合は勢力の強い台風が勢力を弱める事なく、幾つもやってくる状況になり、他の国や地域では逆に干ばつや熱波が発生したり、乾燥による森林の破壊も起こってくるようです。
    直接的は災害も怖いですが、異常気象による作物の不作からの食糧不足、森林が破壊されれば益々大気のバランスは崩れ、呼吸にも影響してきてしまいます。
    このような問題を誰が作ったかといったら人間です。
    人間の何が作り出したかというば、欲望とありがたみを忘れてしまった精神活動がそうしてしまったのかもしれません。
    自分達のイノチは母体である地球があってのイノチであり、生かされているイノチであり、母体の親心とは自然法則であり、その親心である自然法則に委ね従うことが、地球にやさしい、環境にやさしいということに繋がってくるのでは思います。
    世界的に自然環境のことを論ずれば、様々な難題が立ちはだかってきます。それらをクリアするための世界基準の法律ができたとしても、時の移ろいとともに反故にされかねません。
    やはり地球の表面で生かされている一人一人が、自然法則に委ね従い、地球にやさしい、環境にやさしいということに繋がってくれば、現象は変わってくるのではないでしょうか。
    これは自然環境のみならず、人為的環境、社会的環境にもあてはまると思います。
    6月5日もあと少し、残すところ何十分ぐらいとなってしまいましたが、そんなことを思いました。

    友松 誠。

  • 今日から歯の衛生週間。

    今日から歯の衛生週間がはじまります。
    はじめは6月4日、6(ム)4(シ)ということで虫歯予防デーとなっていたみたいですが今は6月4日からの
    一週間を歯の衛生週間としているようです。
    日本歯科医師会のホームページを見ると、歯の衛生に関する正しい知識を国民に対して普及啓発するとともに歯科疾患の予防に関する適切な習慣の定着を図り、併せてその早期発見及び早期治療等を徹底することにより歯の寿命を延ばし、もって国民の健康の保持増進に寄与することを目的としているそうです。
    そして今年のスローガンは「かみしめる 生きる喜び 歯とともに」で、小さな子供からお年寄りまで家族全員で歯を磨いているポスターになっています。
    このスローガンなんだか良いと思います。
    「かみしめる」という言葉の意味は、①力をいれてかむ。②よくかんで味わう。③物事の味わい、深い意味まで十分に感じ取る。 ということですが漢字にせず、ひらがなにしたことで、なんだかここに上げた全ての意味を含むようでまた良いです。

    虫歯予防で歯磨きを奨励するのも良いですが、この良く噛むということも大切だと思います。
    良く噛んで食べていると、唾液の分泌が促進されてきます。
    虫歯になるメカニズムは簡単に言うと、口の中の細菌が糖を材料にして歯垢を作り、その作られた歯垢のなかに棲む細菌がまた入ってきた糖を分解して酸を作り、その歯垢内のphを低下させます。→歯の表面を覆うエナメル質はリン酸カルシウムからできていてこれはphが5.5以下になると溶け出すようで、だから歯垢のついているところが酸に溶かされて(脱灰)、その部分が虫歯になるようです。
    しかし、唾液を分泌すれば唾液の成分(重炭酸塩など)で歯垢の酸は中和されphも上昇し、歯から溶け出して歯垢の中にあったリン酸カルシウムは歯の表面に再び沈着し、歯の修復(再石灰化)が成されます。そして更に唾液もリン酸カルシウムを含んでいますから、これらも歯の表面に沈着して修復に加わるようです。
    唾液の中には、でんぷんを(酸をつくる)糖に変えてしまうアミラーゼもあり、ここだけで見ればphも下がって虫歯になりやすいと思われてしまうかもしれませんが、同時にそれを中和させphを上昇させ、修復させる成分や殺菌作用もあるわけですから、良く噛んで唾液を出し、甘く、おいしくなった感じを十分に味わえば良いのだと思います。
    よく虫歯になってしまう人もいれば、まったく虫歯にならない人もいるというのも、この良く噛んで唾液を出して咀嚼しているかどうかというところに秘密があるのではと思います。
    噛むためには、顎がなければ噛めない。
    顎がなければ、呼吸や言葉を話すこともできない。
    かまない子は精神状態が不安定とも言われます。
    幼児期に良く噛まないと下顎の発育が不十分となり、噛み合せも悪くなりますし
    毎食、毎食のことですから、不自然な動かし方は、からだ全体の歪みにも通じてきてしまいます。
    小児では、ゆっくり良く噛んで咀嚼することによって脳の発育の活性化や口や顎の正常な
    発育が促されるようです。
    ですから、乳歯の生えそろう3歳ぐらいから、食を通しての躾、食による人間形成が重要になってきます。
    この「食を通しての躾」ということに関しては2006年の春季操体フォーラムでも理事長の講演の中に出てきました。この東京操体フォーラムのサイトの中にアーカイブスというページがあり、その時の内容をまとめたレポートが載っていますので見てみてください。また2006年の秋季操体フォーラムでは「食文化と食快」という福田副実行委員長の発表の中でも歯の種類と本数の話が入っていますので、こちらもレポートが載っていますので見てみてください。
    今年の歯の衛生週間のスローガンが「かみしめる 生きる喜び 歯とともに」ということから、良く噛むということについて少し書かせてもらいましたが、この良く噛むということの効能はまだまだたくさんあって書ききれないぐらいです。
    そして何よりも、食べなければ自分の生命が保っていけない。
    だから他の生き物のイノチをいただいている訳ですから、謹みをもって良くかみしめながら、ありがたくいただくということが大切だと思います。
    それを継続することによって何かが変わってくると思います。

    友松 誠。

  • 動画を載せてみました。

    動画の載せ方を覚えたので、今日は動画を載せてみます。

    矢沢永吉布袋寅泰のセッションです。

    10年以上前の曲なのですが、2年ぐらい前にNHKの番組でやってたものです。
    曲名は「もうひとりの俺」。
    詩の内容は、受け止め方によってそれぞれ違ってくると思います。
    誰でも過去を思い出して悔いることがあるかもしれませんが、「自分を俺は悔やまないけれど〜」とまた一日一日積み上げていきましょう。
    それと、もうひとりの自分に会いに行く光の道というのはどんな道なのだろうかという興味も湧いてきます。
    この動画は演奏後の楽屋での布袋寅泰のコメントも入っています。
    音の調子で聞き取りにくい部分もありますが、その中で「こうあるべきものをそのまんまそのかたちでやるというよりは、どっかそこで壊していくもの、そのスピリットがロックンロールだしそれがやっぱ矢沢永吉のスピリットだと思うんですよね、wellcomeだし」と言っていますが、この部分はロックンロールや矢沢永吉でなくとも色々なことに当てはまるのではないでしょうか。
    まったく同じものを見たり聞いたりするのだったら、テープレコーダーやビデオに任せておけばいいですもんね。
    しかし、人間がやる以上その場面、状況で最高のものを提供しようとすれば、量的に同じものでも質的にはより良いものになってきます。
    より良いもの、その時の最高を求めれば、それまで積み上げてきたものも壊す必要性も出てくるし、更にもっと掘り下げる必要性も出てきます。
    掘り下げて、積み上げて、壊す、また掘り下げて、積み上げて、壊す。
    なんだか土を耕す時と似てるような気がします。

    この曲は元々バラードだと思いましたが・・・
    まあ なんにしても見た人がスカッとした気分になって前向きになることを祈ります。

    矢沢永吉さんは1949年9月14日生まれですから団塊の世代です。
    いや〜しかし、団塊の世代の人達というのはパワーがあります。
    単に自分だけパワフルとかエネルギッシュなだけでなく、みんなも元気にしたり、勇気づけてくれる力があるようです。
    三軒茶屋に行くといつもそう感じます。
    いつもありがとうございます。

    友松 誠。

  • 腹の調子が・・・

    なんだか、腹が痛む。
    理由は解っている。
    何日か前に自分の臍はどんな感じだろうかと思って、覗き込むと臍のゴマが気になったのでそのまま手でとっていたら、臍のまわりがシクシクし出してきてしまった。
    子供の時にも臍のゴマをとっていて腹が痛くなったことがあったが、その時と同じ様な気がする。
    臍の掃除をする時は、横着せずオイルを含ませた脱脂綿をつけて臍のゴマをふやけさせてから、綿棒かなにかでやさしくとってあげるのが良いようで、くれぐれも爪で引っ掻いたりしないように注意しましょう。

    しかし、とった臍のゴマを見ていると、なんだかそのまま捨てるのが惜しくなってきてしまうから不思議だ。
    なぜだろう?そのままサッサと捨ててしまえばいいものを指先でクリクリしてみたり、少し潰して中を確認したり、匂いを嗅いでみたりなんかしている。その匂いは決して良い匂いとは言えないが、でもしばし嗅いでしまう。
    本当に不快はものだったら、すぐに捨ててしまうだろうが、臭いと思いつつもなんだか無下には捨てられない気分になってくる。
    なぜなんだろう? 
    みなさんはこんな経験ないですか?
    いや けっこうあると思います。
    臭いと思いながらも、自分の身から出てきたものには、けっこう愛着が湧くのではと思います。
    アタマでは汚いとか、こんなことをしている姿を誰かに見られたらどうしようとか思ってしまうかもしれませんが、自分の中の何処かで、この新陳代謝の産物に対して「ありがとう」とか「ごくろうさま」「おつかれさま」といった感じのものがあるのではないでしょうか。
    臍のゴマも垢の一種だそうです。
    垢というと不潔なイメージの方が先行してしまいがちですが、垢も垢になる前は一般的に知れ渡っている働き以外にも色々な面で立派にお勤めを果たして、垢となっているわけですから、もちろん後生大事に貯めこむのも良くないですが、汚いものを排除するという感覚ではなく、「今まで ありがとう」という気持ちで別れの時を迎えるのが良いと思います。
    別れ惜しくて、舐めたり食べたりしてしまうのは行き過ぎですので、キチンと区切りはつけましょう。
    今日は、風呂に入ったらあまり肌をゴシゴシ洗わず、お勤めを果たされたヒト(角層)だけ洗い落とすような気持ちでやさしく洗い、サッパリしたらサッパリした気持ち良さも味わいつつ、洗い落とされたヒト(角層)には「ありがとう」と言って別れたい。
    腹のシクシク感を感じながら、そんなことを思った昼下がりでした。

    友松 誠。

    あっ 食事前だった人、ごめんなさい。

  • 今日は6月1日。

    今日は良い天気ですね。
    今日は6月1日、衣替えの日です。
    確かそうだったよな〜と、どこかでもらった高島暦を見ると確かにそうなっている。
    しかし6月1日というのは行事や記念日が多い日で、衣替えの他には鮎釣りの解禁日
    気象記念日電波の日、写真の日、滋賀多賀大社御田植祭とある。
    他にも何かあるかな〜とwebでも調べてみると、他にはガムの日、麦茶の日、景観の日
    ネジの日、真珠の日、サモア独立記念日、マリリンモンローが生まれた日、徳川家康が亡くなった日と色々出てきた。
    私がこの中で、気になったのはネジの日でした。
    こういうのって何かが始まった日とか語呂合わせが多いのですが、語呂合わせからではないらしいし、始まった日の特定なんか出来ないだろうから、なんで6月1日がネジの日なのかと不思議に思い、ちょっと調べてみると、なんでも昭和24年6月1日のJIS法の制定に合わせて、業界におけるネジ製品の社会的責任と義務についての認識を深めると共に一般社会に対しても広く基礎部品としての貢献度をPRすることを目的に東京鋲螺協同組合が提唱し、ねじ商工連盟が制定したものとのことでした。

    考えてみれば、このネジというのは大小それぞれ、あまりにも身近にありすぎて、ありがたみが解らないというか、感じられないものの一つだと思います。
    しかしネジ一本の緩みから、大災害に発展していってしまうということはすぐに想像できます。
    例えば電車にしてもネジ一本の緩みから、大事故→大災害とならぬよう検車区では整備の人が一つ一つ ネジ(ボルト)をハンマーのようなもので叩いて音の違いを聞き分けて緩んでいないか常に点検しているそうです。
    基礎部品としての貢献度という観点から考えてみれば、様々な物の中でパーツとパーツをつなぐ、あるいは固定するジョイントするといったストレスの加わる中での重要な役目を負っており、ネジで固定された状態を矢状面、前額面の断面図でその様子を見れば螺旋の鋸が楔を打ち込むようにして食い込んでいてちょっとやそっとでは取れそうにないのが解ります。そして緩めればそのパーツとパーツに動きがつけられ分解も可能ということで様々な物に使われているのではと思います。
    しかしこの様な強固で便利な仕組みもネジとネジ穴がかみ合わなければ何にも成りません。
    だから、しっかりとした取り決めの元に規格化する必要があり、JIS法の制定に合わせてより正確に、より安全で信頼のおけるものを作っていこうと同じ日を「ネジの日」としたのではなかろうかと思います。
    今ノートパソコンでこれを書いていますが、ノートパソコンの裏側を見てみるといくつかネジ止めがされています。
    内部のコンピューターを保護、保持する為にプラスチック製の型枠(ボディ)で囲んでグラグラしないように、あるいは歪まないように、何箇所か要所要所をネジ止めしているのだと思いますが、このうちの一箇所でもネジがはずれていれば、その時は使っていて別段差し支えなくても、時が経つに伴い使っているうち型枠(ボディ)が歪んできて、隙間が出来たりしてパソコンとしては気持ちが悪くなっているだろうし、隙間からはホコリやこれからの季節だったら湿気が入ってきて、内部のパーツにも影響し機能的な異常も出てくるだろうし、放っておけば壊れて動かなくなってしまうかもしれない。

    しかしネジは締め込めば良いというものではありません。
    強く締めすぎればパーツ自体に亀裂が生じてしまったり、しめた時は良くてもちょっとした衝撃でメネジの螺旋の杭の一部(ネジ山)が壊れて逆に緩んだり使い物にならなくなってしまうこともあります。
    何ごとも、いいかげんでは困りますが、良い加減が大切です。
    よく頭のネジが緩んでいると言いますが、締めすぎるのも良くないと思います。
    私の場合、もうちょっとだけ締めたほうが良いのかもしれませんが・・・。

    衣替えについてなにか書こうと思っていましたが、なんだか全然違う話になってしまいました。

    友松 誠。

  • 5月最後の日曜日

    おはようございます。
    また一週間よろしくおねがいします。

    今日は5月最後の日曜日ということで東京競馬場ではダービーが行われます。
    私は、田舎に引っ込んでから競馬は全然やっていませんが、東京都内やその近郊に住んでいた20代の頃は良く競馬場に行ったり、場外馬券場に行って競馬をやっており、なかでもダービーは好きだったレースで、競走馬にとっては生涯でたった一度の晴れ舞台であり、その中の頂点を決める祭典である為、いやがうえにも盛り上がった雰囲気になり、これが5月のさわやかな風、包み込むような空と眩しい光、みどりあざやかな芝、広々とした東京競馬場のターフと見事なハーモニーを奏でます。
    (今日はあまり良い天気にはならないようですが)
    奏でるといえばファンファーレも陸上自衛隊が出走馬の数と同人数の音楽隊を組み、なんだか重厚な感じで頂点を目指すとか、極めるといった感じが伝わってきて気分も高まってきます。
    中山競馬場の桜満開の中での桜花賞の第4コーナー、京都競馬場の晩秋の斜陽の中での菊花賞の最後の坂も良いですが、やはり東京競馬場の大けやきの木を過ぎてからの緑に映える広々としたターフの最後の長い直線というのが競走馬のたった一度の晴れ舞台に花を添えるというか、華を引き立てる感じでなんとも良い感じです。
    あの頃のナリタブライアンは強かった、第4コーナーを周って最後の直線に向くとあの独特な低い体勢から芝を蹴る蹄が本来の大きさよりもひとまわりもふたまわりも大きく見え、あの速さ、強さはなんだか一頭だけ別次元にいるようにも見え、楽しそうにも見えました。
    競馬をやらなくなって10年以上経ち今年もやりませんが、ダービーみたいな大きなレースはテレビのニュースなどを通じて入ってくるので、あの雰囲気の記憶を楽しみたいと思います。
    やはり馬券(勝馬投票券)の当たりはずれも楽しみの一つだったかもしれませんが、あの雰囲気が好きだったのだと思います。

    馬券の買い方も自分の場合は他の人とはちょっと変わっていました。
    普通は馬の血統や実績、調教の様子などから勝ち馬を当てるというやり方や、その馬のファンだからという理由で馬券を買う人が多いと思いますが、自分の場合はあてずっぽうというかデータに頼らないやり方でした。
    例えば、スポーツ新聞の日付の欄に友引とあったら、出馬表をパッと見てメジロパーマーとメジロマックイーンの馬連を買うとか、1枠1番の白い枠にホワイトストーンが入っていたら単勝を買うとか、セキテイリュオーが5枠5番(子、丑、寅、卯、辰と一番から数える)に入っているから買う、騎手の場と田が同じ枠に入っているから的中するのではと買う、前走が12着の馬が12番に入っているので今度は1着になるかもと買ってみるといった具合でほとんど出鱈目。そして2点も3点も買わない。
    それでもたまに当たってしまうから不思議で、少なくともここに上げたものは当ったことを覚えているものです。
    しかし出鱈目な中にも欲が出てくるもので、パッと見て直感でピンときて買うというのは難しく、ほとんどが当たった時のことに味をしめて同じ様なケースはないかな〜といった目で見て、頭の中でこじつけて、当てるのに執着して、何点も買ってしまうからダメなようで、相当数のハズレもありました。
    ホワイトストーンは1枠の白い帽子でなくとも勝つし、2枠2番の騎手が黒い帽子をかぶったブラックホークもこない時はこないし、場と田で的中しない時もあり場と舘でも的中しない時は的中しないですもんね。
    パターンにあてはめて見ても、そこに当たりがあるとは限らない。
    歌の文句じゃないけれど「歌舞伎座は歌舞伎町には〜ない〜」といったところでしょうか。
    パッと見て、パッと買って、パッと帰ってくる。このやり方の良さは後腐れがないこと。
    レースが終わった後、あそこでああなってればな〜とか、あんなに買わなきゃ良かったと
    グチグチ後悔するのは精神的にも、からだにも良くありませんし、まわりの人にも迷惑となってしまいます。
    当たったら楽しさが拡がる。はずれても楽しめたで一区切りスパッと切って引きずらない。
    楽しみ方も色々で、なにも馬券を買わなくても入場料を払って、芝生の上でボ〜としながら花より団子ならぬ馬よりビールと洒落込むのもいいし、あくまでも自分の楽しめる範囲内で楽しめれば良いのではと思います。

    テレビで勝利ジョッキーインタビューを見るのも好きでした。
    自分が乗っていたから勝ったんだという感じの言い方をするジョッキーは見たことがありません。
    皆、口々に「馬が良くやってくれました」「馬が良く走ってくれました」と言う。
    主役は馬であり自分達は最高のパフォーマンスが出来るようお手伝いしているだけなんだという補佐役の誇りみたいなものを感じる。
    レポーターから「3コーナーで内にささったりしていましたが良くたてなおしましたね〜」
    と振られても「馬があそこで良く踏ん張ってくれました」と言う。
    決して自分の技術、テクニックで上手く馬を誘導したんだといった事は言わない。
    言わないが、日々の騎乗法の研鑽、精進に怠りはない。
    何ごとにも当てはまるのではと思います。

    そして今日は東京操体フォーラムの相談役、平直行さんのチャリティーイベントが行われます。
    時間や場所などの詳細は、平さんのブログの最終日に載っていますので御確認の上、是非出かけてみてください。 

    友松 誠。

  • 写真を載せてみました。

    なんだか空ばっかりの写真になってしまいましたが、真ん中の大きな煙突がある建物が世界遺産登録申請中の旧官営富岡製糸場で上の山の方を見てもらうと、^―.こんな感じで三角の山から水平に溶岩台地が伸び極端な絶壁(約200m)になっている山が荒船山
    荒船山の横を国道246号、別名上州姫街道が走っており、そのまま西へ進むと内山峠で内山トンネルを抜けると信州長野に入り、そこからは秋になると道の両側にコスモスの咲き乱れるコスモス街道となります。
    長野といえば横森さんの出身地なので、この道の先のどこかで繋がっているのだと思います。

    コスモスといえば、去年の秋の東京操体フォーラムで会場に彩を沿えていました
    なかでも後ろのテーブルの上にぽつんと置いてあった、小さな黄色いコスモスに私は心を動かされました。あの可憐な感じがなんともいえなかった。
    食事をした後、理事長と「この可憐な感じが何か良いですね」「そうだな」と見入っていた僅かな時間がとても贅沢な時間に感じられました。

    東京操体フォーラムは手作りの良さが生きている大会だと思います。
    去年の秋に会場のまわりに大きな般若身経に基づいて動いた場合の骨格図がありましたがあれも佐伯さんが手作りしたもので、良く見ると書いたものではなく貼り絵で細かなところから丹念に仕上げられています。
    参加者への配布物の中には般若身経のイラストが入っていましたが、これも福田さんの手作りによるもので、最新の利き手の反対側の足を半歩前に出した状態でのものを、細部にまでこだわり参加者の人達に役立ててほしいとイラストにしたものです。
    また去年の秋は、質疑応答として参加者の方々の質問をボックスに入れていただきましたが、これも西田さんの手作りによる温もりあふれる、木製の質問ボックスでした。
    また、発表者のスライドなども手作りですし、操体の大前提である自然法則の応用、貢献をより良く知っていただこうとすれば、既存のものをちょっと拝借してという訳にはいかず、手間ひまかけたメイド イン 東京操体フォーラムになってきます。
    創始者、橋本敬三先生は「動く」ことに、ちゃんとした法則があることに気づき、体系づけられてこられた日々をふりかえり、先生は、「わかるまでに、長い間、苦労した」と述べている。なぜ、苦労したのか、と言う問いかけに、「先人の人達は、わかっていたにはちがいないんだけど、その事、書き残していないんだな、なんぼ苦労して、勉強したって、そういう事、気づかないから、わからないんだ、みんなが苦労するのはネ、その動きのこと、書いてないからだ」と話されていたそうです。
    操体法〜生かされし救いの生命観〜の身体運動の法則(般若身経を読む)より抜粋
    このメイド イン 東京操体フォーラムから、また新たな気づきや学びの展開が始まります。

    春のフォーラムは4月26日に開催されますので、どうぞ宜しくお願いいたします。

    一週間どうもありがとうございました。
    火曜日ごろから何年かぶりのカゼをひいてしまいました。
    摂生して回復してくるプロセスを感じ、味わうのもなかなかおつなもので、感謝です。
    空気が乾燥し、気温の低い日が続いていますので、お気をつけ下さい。
    来週は中谷さんです。
    来週も宜しくお願いいたします。

    友松誠

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  • 昨日の続きです。

    昨日は、それからしばらくしてゲイラカイトなる外国製の凧が出てきたというところまでで、終わりとしましたが

    このゲイラカイトが出てきた時というのは、当時の私たちにとっては黒船来航みたいな感じでした。
    それまでは、四角い凧や奴凧など竹の骨組みに紙というのが一般的で定番でしたがこれは三角形をしたビニール製で、それとなんといっても上から見られているようなあのギョロッとした目のデザイン、それまでの常識を覆すような、まさに黒船来航だった。
    それまでは、凧揚げというと正月の風物詩的な情緒があり、比較的晴れて穏やかな日が多い正月に、その風景と一体になって楽しむ感じの、何かほんわかしたムードがあったのですが、これは凧というよりもそのままカイトと呼んだ方が良いような、何か今までと違う雰囲気がありました。

    テレビのCMで見た時は、あんなもんは凧じゃねぇやいと思っていたのですが近所の大人が揚げているところをみて、ビックリしてしまった。
    畳めてあるゲイラカイトを拡げて裏に横棒を通し、凧糸を正面の正中に沿って付いているこれまた三角形をしたピラピラしたビニールのところに結びつけ、ただ凧糸を緩めていくだけでグングン真上へ揚がっていってしまう。
    今までは、誰かに凧を持っていてもらったり、どこかに立てかけておいたりしてからダッシュで走って揚げていたが、これは何もせずとも真上へグングン揚がっていく。
    風が止んできて、傾いてフラッとしてもクィクィッと引っ張れば、下のビラビラした部分をバタつかせて、またグングンと上昇していく。
    あんなものと思っていたのに実物を目の当たりにしたら、急に欲しくなってしまいました。

    近所の駄菓子屋では売ってなかったので、街のおもちゃ屋まで自転車を飛ばして買いに行きましたが、値段もこれまた高かった。
    伊藤博文の千円札を1枚持っていったら、100円玉が1枚か2枚ぐらいしか戻ってこなかった記憶がある。近所の駄菓子屋の凧の倍か3倍ぐらいの値段だったと思います。
    高っけぇな〜と思いながらも正月明けだったので、お年玉で買ってしまいました。

    家に帰って、どんなツクリをしているのだろうかと、袋から取り出して見てみると、本当にシンプルな構造で、三角形の2辺と正中にプラスチックの骨組みがあるだけ。
    今まで、四苦八苦して竹の骨組みを作っていたのに、こんなもんで?という感じだった。

    早速、小学校の校庭に行って揚げてみた。
    凧糸を結びつけると、もう飛んでいきそうな勢いだ。
    そのまま凧糸を緩めて引き出していくと、グングン上へ揚がっていく。
    引き付けも強烈で、右手の人差し指と親指の間に凧糸を挟むようなかたちで引き出していったのですが、人差し指の内側が摩擦で擦り切れてしまうような感じだった。
    それと、この当時の付属の凧糸は、円柱形の棒の上半分に凧糸が巻き付けてあり、急激に揚がっていく時、巻き付け部分を持っていると指を痛めやすかった。
    なんにしても、初めて揚げて80M付いていた凧糸があっという間になくなったしまった。
    それにしても良く揚がる、そして簡単に揚げることができる。

    しかし、何かが足りない。
    これはカイト遊びなのだと区別してしまえば、それで良いのかもしれないが。
    今まで、いろいろ工夫しながら手作りした凧が揚がった時の喜びや、揚げているときも風の状態によって糸目を束ねる位置を調整したりとか、うまく揚がらなかった時は尻尾を余分につけたり、位置や長さを調整したりして自然の状況と調和し、より良く揚がる様に工夫していく面白さや楽しさを味わったことがあれば、なんの工夫なしでも高く揚がってしまうことに対して、なにか物足りなさみたいなものを感じてしまう。
    誰でも簡単にすぐに高く揚がるということは、慣れてくるといい加減にやっていても高く揚がるということにも繋がってきて、次第に夢中になれなくなってきてしまう。
    自分の場合、スゴイな〜と飛びついたのも早かったが、飽きるのも早かったように思う。
    プラモデルでも部品から一つ一つ組み立てていくから面白いし、完成品にも愛着が湧くのだけど、いきなり完成品を買ってもらっても、面白くないですよね。

    やはり、そこまでいくプロセスも重要で試行錯誤しながらワクワクしたりドキドキしたりの中に新たな発見、気づきや学び、面白さ、楽しさがあり、それが一つのことを達成した後でも他の事柄でも十分に活かされてくるのだと思います。

    創始者、橋本敬三先生は「操体はおもしろいぞ、一生たのしめるからな」と話しておられたそうです。

    それと、去年の秋の東京操体フォーラムでの質疑応答についての実行委員による回答が昨日から掲載されておりますのでクリックしてみてください。

    友松誠

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  • 凧揚げの思い出。

    最近、凧揚げをしている光景を見なくなったなぁと感じる。
    自分の子供の頃は、正月過ぎのこの頃はよく凧揚げをして遊んでいたと思う。

    近所の駄菓子屋に行けば凧が売っていたが、自分でも作っていた記憶がある。
    庭の隅っこに落ちている竹を小刀で割っていき、骨組み用に一本一本細長い竹ひごを作って、それを重ねたり縛ったりして骨組みを作り、骨組みに障子紙を張ってという感じで見よう見まねで作っていたが、これがなかなか上手くいかない。
    小学校低学年の自分としてはバランスとか全然考えずに、売っている凧と同じ様なのを作って、それが頑丈だったらもっと高く上がるのではと考えてしまっていたので、頑張って作ったのに、自分で作った凧はなかなか思い通りに揚がってくれなかった。
    こういう手作りの遊び道具や工作を作らせたら、もの凄く上手い人もいて、手際も良く
    自分なら何日もかかって完成させるものを、みるみるうちに仕上げてしまう人もいた。
    これが本当によく揚がる。

    いつだったか、小学校3年生ぐらいの冬休みの日に通学路を歩いていると、田んぼの畦に腰掛けて凧揚げをしている3人組がいた。
    真ん中が学年が3つ上の人で、右隣が同級生、左隣が1つ下の子。
    同級生に「なにやってんだぃ?」と聞くと「凧揚げてんだぃ」とこちらに一瞬だけ顔を向け、後は空だけをじっと見つめている。
    近寄って見て見ると、同級生と1つ下の子も凧を持ってきているが、田んぼの畦に置いてある凧には糸がついておらず、3つ上の人が揚げている凧だけが遥か遠くに小さく見える。
    四角い形で字も絵も書いてない手作りのシンプルな凧で、真ん中に一本だけ尻尾がある。

    3つ上の人は笑いながらやっているが見ている同級生と1つ下の子は真剣そのもので
    どんぐり眼になって凧が横に傾こうものなら「ぅあ〜 ぁあ〜 落っちゃう 落っちゃう」
    態勢を立て直すと「おぉ〜〜 危ねぇ危ねぇ」と一喜一憂しながら、はしゃいでいる。
    そのうち2人の凧糸を足しても足りないぐらいに遠くまで揚がっていき、3つ上の人が
    ポケットから小銭を出し「凧糸かってきてくれるかぃ」と同級生に言うと、同級生は役に立てることが嬉しいのか「ハイッ」と学校では、したことがないような綺麗な返事をして
    タッタッタッタ〜と一目散に凄いスピードで駄菓子屋まで駈けていってしまった。
    (いつもは豆腐一丁おつかいに行くのもぶーたれるくせに)
    この当時、駄菓子屋で売っていた凧糸は一束だいたい30mぐらいだったと思うが、3つつなげているわけだから80メートル以上はもう揚がっている。
    そのうち私の同級生が凧糸を買って帰ってきて、その分もつなげると100メートル以上になってきた。
    凧はどんどん小さくなっていき、その分ちびっ子達の歓声は大きくなり自然とギャラリーも一人また一人と3つ上の人の同級生や私の同級生、もっと下の子達も加わって10人ぐらいのちびっ子集団が出来てきた。
    その集団が凧が傾いたりする度「ぅあ〜 おぉ〜」と大騒ぎ。
    そうこうしていると、また凧糸がたりなくなってきた。
    「また凧糸買ってきますか〜?」と私の同級生。
    「そうだな〜今度は2つ買ってきてもらうかな。・・・記録に挑戦してみるべぇかな〜」
    「おお〜〜」歓声とも雄たけびともとれる声があがる。みんなワクワクだ。
    そして買ってきた一つ目の凧糸をむすび、束を少しずつゆるめていくと、さらに凧は遠く小さくなっていき、目を凝らしていないとすぐ見失ってしまう程で,途中から見ている人には、指差して教えても確認できないぐらいになってきた。
    凧糸もこのくらいの長さになってくると、大きく放物線を描くようになってきて、まるで空から大きなすべり台が降りてきているようだ。
    揚げている人も糸の感触をたよりに真剣そのものだ。
    まわりのギャラリーも口数を少なめにして食い入るようにして空を見つめている。
    しかし、それからしばらくして、揚げている人が突然「アッ!」と声をあげた。
    「なに?」「なに?」「どうした?」「どうした?」「切れっちゃったんかぃ〜?」
    [あ〜〜ぁ 飛ばされっちゃったよう。]
    目を凝らして見てみても、もうどこにも見当たらない。
    「あ〜〜〜ぁ」みんなしてへナヘナヘナ〜。みんなの緊張の糸も切れてしまった。
    「でも凄かったよな〜」「俺ぁ あんなん始めて見たよ〜」「いや〜 良く揚がってたな〜」
    ギャラリーも思い思いの感想を口にして、一人また一人とバラけて帰っていってしまった。

    結局、最初の4人が残り、揚げてた3つ上の人が余った凧糸と最後の凧糸を手繰って二人に返し、棒切れに今までの凧糸を手繰って巻きつけている。
    凧を揚げていた時は夢中でどんどん長くしていたが、凧が飛んでいってしまい、残った糸を手繰って巻きつける作業というのはなんだか地味で寂しく、つわものどもが夢のあとという感じさえあった。
    陽も傾きかけて一段と冷え込んできていたが、自分達も木の枝に引っかかっている糸を落としたりして手繰って巻きつけるのを手伝った。
    巻きつけ終わった糸は随分と大きな糸だまになっていた。
    (私が思っていた以上の長さで揚がっていたのかもしれない。)
    「こんなデッカイ糸だまができちゃったでぇ・・・・・綿あめ!」
    「?・・・・・・?」
    みんなで顔を見合わせてから「ワッハッハッハッハ〜」
    「俺ぁ ギャートルズ(はじめ人間)に出てくるデッケェ肉に見えたな〜」
    「ワッハッハッハッハ〜」
    「俺ぁ〜」と近くにあった棒を刀にみたて、その棒を糸だまで軽くたたきながら
    「ポン、ポン、ポン、おぬしもワルよの〜。ちょっとデカすぎるか〜? ちょっと重てぇ」
    「ワッハッハッハッハ〜」
    「じゃあ これを使って何か、やってみるんな〜」
    「じゃあ から揚げ」
    「ワッハッハッハ そんなんダメさ〜 さっきギャートルズの肉が出てたんべ〜?」
    「じゃあ・・・・・ ♪あのこ〜どこにいるのやら〜♪」
    (糸だまをマイクにみたてて五木ひろしの真似、相当照れている)
    「ワッハッハッハッハッハ〜」
    「じゃあ・・・・・ まあ”〜そのお〜〜」(田中角栄の真似)
    「ワッハッハッハッ だからマイクにするのは、さっきやってたろ〜?」
    「ワッハッハッハッハッハ〜」
    なんでも楽しくなってきてしまう。
    気持ちが沈んできても、ちょっとしたことで楽しい方向へ舵をきって向かう。
    それが自然に出来ていたあの頃、遊びの中からそれを学んでいたのかもしれない。

    自分としては、この日揚げていた凧の作り方を教えてもらおうと思っていたのに
    すっかり忘れてしまっていた。
    結局その後はその人も中学に上がって一緒に遊ぶこともなくなり、あの凧の作り方は
    わからず仕舞いになってしまった。

    それからしばらくして、ゲイラカイトなる外国製の凧が出てきた。
    あの三角形をした、目玉の絵が書いてあるやつだ。

    なんだか長い文章になってきてしまったので
    ここから先は明日に回そうと思います。

    友松誠

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