カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 入門時を思い出してみる。

    おはようございます。
    私が初めて操体法臨床家コースの講習に参加したのは、もう8年以上となりますが、初めて三軒茶屋の講習所に行った時のことは、まだ鮮明に覚えています。
    当時、私は高速バスで、今ネット上で小さな話題となっているグンマー県から東京へ通っていました。
    今、ふっと思い出したのですが、関越道には北緯36度線の標識があります。確か鶴ヶ島インターを過ぎた辺りだったと思うのですが、バスに揺られていると毎回その標識が目に飛び込んできて、その度になぜこの標識が必要なのかと不思議だったのですが、今でも自分の中では謎の一つです。
     ちょっと横道に逸れましたが、電車と違って高速バスの場合は道路状況により、到着時刻が大幅に遅れてしまうこともあります。その日も講習初日だというのに、首都高入り口で事故があり、到着時刻が大幅に遅れることとなってしまいました。
     初日から遅刻で申し訳ないと随分と焦りながらビルに入っていきましたが、一室の鉄扉は開き放たれ、解放されており、中からお香の良い香りが漂ってきて、それまでの不安な気持ちが解き放たれ、迎えてもらえているという安心感に変わり、す〜と中に入っていけた様に感じました。
     内戸を開け「申し訳ないです。遅れました。」と告げると、三浦寛先生は「うむ」と小さく頷き、「聞いてなさい」と手で座るように合図しながら言ってくださいました。まわりを見回してみると、みんなキチンと正座し目を閉じていて、小さなラジカセから聞こえてくる声に耳を傾けているようでした。
     私も正座し目を閉じて耳を傾けていると、ラジカセの音量はそれ程大きくなく距離も随分と離れているにもかかわらず、ひとつひとつの言葉がはっきりと聞き分けられ、それでいて気負いが感じられない、無理に聞き耳を立てなくとも、からだのなかにす〜と入ってきて心地よくヒビイテいる、そんな感じの声が聞こえてきました。声の主は操体法の創始者、橋本敬三先生で当時85歳、昭和56年のNHKラジオ放送に出演した時のものでした。
    (放送を収録した内容は「生体の歪みを正す〜橋本敬三論想集」のP452〜P465に収められています)

     この入門時に聞いた橋本先生の声と、そのときの雰囲気というのは、度々思い返されます。とりわけ「頑張る」「欲張る」「威張る」「縛る」方向に偏り、何か気ばかり急いている時などに、ふっとこの時の情景が浮かんできます。そして放送の最後に仰っていた
    「気楽ですよ、そういうふうに極楽のなかにいるんだけども、自分で地獄の気持から逃げろと言ってるだけの話なんですよ。神様だか仏様だか知らんけれども、つまりこの宇宙をつくって、そこに生命をつくっておいて下さる方はね、ほんとうに極楽で愉しめよって言われているのにね、自分で突っ走ってアッチぶつかったり、コッチぶつかったりしてんだから、人間なんてそれだけのことなんだ」
    という言葉も浮かんできて、気持が落ち着き、安心でき、発想の転換がはかられるということがよくあります。

     この心地よい空間で感じた時の快は、強く記憶に刻まれ、自分で自分を痛めつけてしまっている状況の時などに、ふっと時空を超えて舞い降り、快の方向へと導いてくれるのだと思います。香りや匂いも快の記憶を呼び起こし現在の自分を悦ばしてくれますが、そこに言葉が加わることでより悦びが具象化し、未来につながる活力ともなり、生きる意欲にもつながってくるのではないかと思います。

     また、橋本先生は聞き上手でもあり、辛抱強く相手の話に耳を傾けていることが多かったと聞きます。人間を誰でも同じ神の子として、尊敬の念を持って接していたのだと思います。放送最後の「人間なんてそれだけのことなんだ」という言葉とは矛盾を感じるかもしれませんが、矛盾ではありません。「救い」という面と「報い」という面の両方を持っているのが、現世を生きる人間です。救われていることに意識を向けようともせず、報いの部分のみで不平不満ばかり言う人には、時には遠慮なく怒鳴りつけていたとも聞きます。

    友松 誠。

    [http://www.tokyo-sotai.com/?p=281:title=東京操体フォーラムin
    京都2011]は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

    [http://www.tokyo-sotai.com/?p=314:title=Sotai Forum
    inMadrid]は、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 太極から賜った三種の神器。

    おはようございます。
    今日も昨日の続きの様な内容となります。

    宇宙は、無極無限の太極の意志により誕生しました。
    無極無限ですから、姿はなく、見ようとしても見えるものではありません。
    しかし、その存在と意志を感じることは誰でも出来るのだと思います。

    「生体の歪みを正す橋本敬三論想集」の306から307ページには、
    日本の『古事記』には、元初に成りませる神の御名は<アメノミナカヌシノカミ>とあります。次に成りませる神の御名は<タカミムスビノカミ><カミムスビノカミ>。この3柱の神は、御身をかくし給いき=在るということはわかるのだが、お姿は見えないというのです。
     =中略=
     天の御中主の神(アメノミナカヌシノカミ)とは宇宙現象創生の中心理念であって、(+)(−)を設定して、そのムスビ=すなわち愛とその法則によって万象を具現したものだと、われわれの祖先はさとったのだと思います。キリスト教では、神は言葉でもって万物を創造したと申します。言葉というものは理念の発現であって、地球上の生物のうちで言葉で文化創造のできるのは人間だけでありますから、人間は神と同格の神の子だということができるわけでありましょう。陰陽波動から生命ある生物まで、どの世界にも神の理念が貫通しておりますから、私どものなかにはもちろん神(自然理念)が生きて働いておるわけであります。

    と書かれております。
     太極すなわち宇宙現象創生の中心理念は、宇宙の誕生からずっとあらゆるものにその理念を貫通させております。
     地球に生物と呼べるものが出現してきたのが、38億年ぐらい前と考えられていますが、約100億年もの間、理念が貫通した様々な物質がコツコツコツコツとその意志に適う様に働きつづけ、生命の誕生しうる環境が整った38億年前に、その中からやっと生物が誕生したのだと思います。
     生物と物質との違いは色々あるでしょうが、根本的には生物は環境に対して自ら適応する能力を持っているが、物質にはそれがないということです。この環境に対して自ら適応する能力とは何によって制御されているかというと、それは原始感覚なのだと思います。
     原始感覚とは、生物に与えられた、からだにとって「気持ちが良いか「悪い」かの識別を感じ分ける能力のことです。
     これも太極によって、最初から予定して組み込まれた必然的なもので、そうでなければ生物はすぐに滅んでいたと思います。そして生物は原始感覚を羅針盤にして、様々なかたちで進化してきたのだと思います。
     人間もその流れの中で、何百万年か前に誕生しましたが、人間は他の生物とは別に言葉も獲得しました。
     言葉と二足歩行により頭脳を発達させ、その進化に伴い文化、文明を築いてきました。しかし、近年は頭とその欲望を満たす物やシステムばかりが先行され、変化に富んだと言えば聞こえは良いが、出ては廃れ、出ては廃れの繰り返しで、なかなか真なるものが出てこなく、またそれが解りづらい時代になってしまったと感じます。 これも自分達の発する言葉が太極の意志から遠のき、中心である自然理念から離れてしまっているからなのだと思います。
     原始感覚についても同様で、今までどうやって築かれてきた環境なのかということを理解しようともせず、ただその上に胡坐をかき、自分のからだの感覚よりも欲望を満たすシステムからの情報の方を重宝している感もあります。
     このからだだって今は使わなさすぎて、本来の使い方、動かし方が忘れ去られ、自然良能作用が働いてくれても、それを活用できずに不健康な状態に傾斜してしまっている人も多いと思います。
     本来、原始感覚は生物が生物であるためにと太極から与えられた至高の能力であり、言葉は人間にしか使うことが出来ない神と同格のエネルギーを秘めたものであり、からだは太極の愛と法則によってかたちを現わした自然理念の貫通したもので、具体的行動を実現するものでもあります。
     この三つは太極の意志を具現化する三種の神器と言っても過言ではないと思います。
     ですから、からだを動かしてみて、からだにその感覚をききわけ、快適感覚を十分に味わい、そしてその感覚を言葉にも表してみるということは、崇高な行為であり、太極の存在と意志が感じられる時空の間でもあるのです。
     太極は無極無限であり、姿、かたちはありません。だから太極は自分の理念がどの様なかたちで具現化した姿となるのか、愉しみにしているのだと思います。それ故に60兆という細胞一つ一つに自分の理念をゆきわたらせて形づくらせ、原始感覚を与え、発し方によっては自分と同格のエネルギーともなる言葉を使うことを許されたのだと思います。

    友松 誠。

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  • 太極の意志を知る物質・・かも?

      昨日はビッグバンについて自分なりに想像してみたことを書きましたが、ビッグバン直後の火の玉宇宙では、水素とヘリウムしか生き残れず、時間とともに宇宙は膨張し、膨張にともなって温度が低下し、核反応は起こらなくなり、水素とヘリウムを主とする宇宙が出来上がったそうです。
     そこから水素とヘリウムを主とする第1世代の星が数億年後に誕生し、その星の一生の中で様々な元素(原子の種類)がつくられ、そして星の死によってつくられた元素が宇宙空間にまき散らされ、それが第2世代以降の星がつくられる元となるという様に、何世代も星の誕生と死が繰り返されています。そしてこの流れの中で太陽系も誕生し、地球も46億年前に誕生しました。
     地球には92種類の天然の元素が存在しています。そして人間のからだに含まれている主な元素は、酸素65%、炭素18%、水素10%、窒素3%、これらが主要元素となり96%を占め、残りの4パーセントはミネラルと呼ばれ約16種類の元素が占めています。
     重量比で多いのは酸素ですが、酸素原子は水素原子の16倍の重さがあるので、原子の個数で比較すれば最も多いのは水素ということになります。
    人間のからだの約65%は水分ですが、これも水素と酸素の原子が結びつき水の分子となり、水の分子どうしは水素結合で結びつき、液体の水となっています。もちろん水の分子どうしだけに限らず、様々はものと結びつきます。
    この水素結合というのは、生物にとって非常に重要なものとなっています。
    例えばタンパク質が螺旋構造をつくったり、DNAから情報を読みとるときにも使われており、人間がその形態を維持できるのもこれがあってこそです。そして液体としての水は体温を調節したり、水に溶けた成分を血液によってからだのあちこちに送るなど、数え切れないほどの働きをしています。
     それからもう一つあげれば、水は言葉にも反応しますし、からだの感覚にも反応しますし、からだの営みの快、不快現象にも反応してくるのです。
     水は気体にも、液体にも、固体にも変化しますし、他のものと比べて、数々の異常性があると言われています。生命はこの水の異常性で支えられており、この異常な性質はいずれも水分子の水素結合によると考えられています。
    この水の性質は、人間が他のものと比べると異常ということになるのでしょうが、水の方が一枚も2枚の上手で、人智を超えた存在なのではないかと思います。

    137億年前の、宇宙の誕生とともに誕生し、数多の星の生死をみてきた水素。
    宇宙は何にもない無の状態から、無極無限の太極の意志で誕生しましたが、この太極の意志を知っているのが水素なのかもしれません。だから、恐れ多くも人間の頭で合理的にその性質を決め付けようとすれば、様々な矛盾が生じて理解不能になってしまうのだと思います。
    しかし最もシンプルで大切な面では人間と同調しており、それが快、不快のききわけの反応なのだと思います。
    水は気持ちの良い言葉、美しい言葉の波動には美しい結晶を現わし、不快な言葉の波動では結晶も崩れたものとなり、無視されるとボロボロになってしまいます。

    何年か前に開催された東京操体フォーラムで「ありがとうございます」という言葉を掛けつづけた水で炊いたご飯と、「バカヤロウ」という言葉を掛けつづけた水で炊いたご飯、無視しつづけた水で炊いたご飯を、カップに入れてテーブルの上に並べて置いたことがありました。私も確認しましたが、「ありがとうございます」のご飯はかたちも良く嫌な臭いもしませんでしたが、「バカヤロウ」のご飯は嫌な感じがあり、無視し続けられた水で炊いたご飯は見た目も明らかに変で嫌な臭いを放っていました。
    水が無極無限の太極の意志を知り、気持ちの良い言葉と、不快な言葉に反応し、その波動を具現化しているならば、私達の発する言葉というのは、この宇宙を創造した太極と同じ位のエネルギーがあるのだと思います。ただ、その意志の波動というのは太極と同じ自然理念に順応していれば、永遠に引き継がれますが、順応してなければ、そのボロボロになって消滅するしかないのだと思います。

    蒸し暑い日が続きますが、美しい言葉の波動を学びながら、その美しい言葉を水に掛け、そして自らのからだを潤おし、イノチを活性化させるということも、大切な自己生成であり、これも時空を超えるということにつながるのではないでしょうか。

    友松 誠。

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  • ビッグバンを想像してみる。

     ちょっと前まで私はビッグバンのイメージというと、とてつもない大きな、それこそ太陽の何億倍、何兆倍、とにかく想像を絶する大きさの物体が突然大爆発したというようなイメージを漠然と抱いていました。だからどうしても時間と空間がそこから始まったというイメージが涌いてこなかったのだと思います。はじめから物体ありきで考えてしまうと、その物体の空間が存在してしまうし、その物体に伴う時間が発生してしまいます。だからビッグバンが宇宙の始まりと本などで見聞きしても、その前にも時間というのは流れていなければおかしいのではないかという考えとなってしまっていました。つまり無とか無極無限ということから始まるイメージが涌いてこなかったのです。
     先日、何気なく「いのちの起源への旅137億年」という本を読んでいると、その中に
     宇宙は137億年前に誕生したというのが現在の宇宙論の到達点です。時間も空間も、そのときに誕生したとされます。よく、宇宙が誕生する前はどうなっていたのかという質問が出されますが、時間自体が宇宙誕生とともに始まったのですから、それより前の時間というものは存在しません。
     宇宙がどのように始まったのかについては、さまざまな理論的研究がおこなわれています。しかし、1個の原子より小さかったような宇宙に適応できる物理法則は発見されていません。このような宇宙では、時間と空間に関する現在の概念も適応できなくなると考えられます。
    と書いてありました。
     私はこの中の「1個の原子より小さかったような宇宙」という文によって、今まで自分が漠然とイメージしていたビッグバンは超新星爆発と混合した間違ったイメージだったと気づかされました。この文からイメージしていくと137億年前に宇宙が誕生する前は、本当に何もなかったのだと思います。本当に何もない、時間も空間も本当にまるで何もない無極無限だったのだと思います。
     ビッグバンから1秒後に存在していた陽子と中性子から水素とヘリウムがつくられましたが、この陽子と中性子がつくられたのは10万分の1秒から1万分1秒のころに、クォークが結びついて出来始めるのだそうです。
    この本の中では、1兆分の1秒のころのことも書いてありました。
     宇宙誕生から1兆分の1秒のころまでは、物質とエネルギーの相互交換が絶えず続いていたと考えられています。このころ、宇宙にはまだ原子も原子核も存在していません。宇宙を満たしていたのは、クォークなど最も基本的とされる素粒子でした。これらの素粒子も、一方ではエネルギーから粒子と反粒子が対で生まれ、他方では粒子と反粒子が合体、エネルギーになって消えてしまう対消滅という反応がくりかえされていました。
     ここまでは、エネルギー波動の世界なのでしょうが、波動は陰陽二極の世界から起こります。陰陽二極の世界というのは、自分勝手な解釈をすると、もう物質は存在しない世界であり、ビックバンを起こした世界なのだと思います。つまり物質を最小まで突き詰めたものさえない状態からビッグバンが起こったのではないかということです。
     私達の世界には物質をとおしての(+)(−)の存在は沢山あり私達自身もそうなのですが、あちらの世界は物質のエネルギーがなくても陰陽二極ができたという世界なのだと思います。
     だからどんな機械を使っても目に見えないし、科学的に証明しようにも物質を使った時点で本末転倒となってしまう、そんな世界です。だから、これは物質的なエネルギーを超越したエネルギーの世界であり、本当にまったく何もないが、そのエネルギーはあり、そのエネルギーの意志が陰陽2つの面として表れ、そこからビッグバンが起こり、ほとんど瞬間的に物質が出来ていき、物質の生成される際には膨大なエネルギーが生じ、それが想像を絶するような空間に膨張していった、それがビッグバンなのではないかと思います。
     そして、そのエネルギーはどこから発生したのかというと、無極無限の太極からなのだと思います。
     「生体の歪みを正す橋本敬三論想集」の285ページには
    聖書に「元始に言あり、言は即ち神なりき、万物これによりて成り・・・・」とあるが、言が宣せられるということは、陰陽未分の一なるものの意志が陰陽二質を現わして、そこに運動が起こり、物象が形成せられることであろう。とあります。
     言すなわち言葉の持つエネルギーは、本来とてつもないものなのだと思います。もしかしたら、エネルギーという言葉さえ、あちらの世界からしてみたら、認識の次元が違っているのかもしれません。

    友松 誠。

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  • 時空について考えてみる。

    おはようございます。

     今日は7月最後の日だというのに記録的な豪雨の影響で、肌寒くさえ感じます。昨日の夜からの雨は私の住む地域でも凄まじく、おまけに早朝に地震もあったりとビックリして不安に駆られたりしましたが、私のところではもう雨も治まってくれています。一昨日あたりから大雨にみまわれている地域もあると聞きます。今朝の地震で被害が拡大しないことを祈るのみです。

    今回は「時間」「空間」「時空」「時空を超える」についてです。
     時計、暦、カレンダー、時間を表すものは色々ありますが、これらの進む速度とかリズムといったものは、地球が一回自転すれば一日、365回自転しながら太陽の周りを一回公転すれば一年といった周期から割り出しています。ですから、この宇宙空間に太陽系が存在していなければ、今の時間観はなくなってしまいます。太陽系が存在しても人間が存在していなければ、時間という観念はなくなり、太陽の周りを地球が自転しながらまわっているという事だけとなってしまう。よく光の進む時間で宇宙空間での距離を表したりするが、人間が時間という観念をもたなければ距離感もなくなってしまう。
     いろいろ考えていると、頭の中がオーバーヒート気味になってきましたが、時間とは存在なのではないかと思います。
     自分(人間)が存在するから時間があり、その時間の尺度は太陽系の存在から得ている。そして太陽系は宇宙空間に存在している。もし、宇宙空間がなかったら・・・それは存在も時間も何もない無なのだと思います。人間の存在があり、存在するだけでなく、生かされし環境があるから時間がある。太陽系が力学的に今のバランス状態でなかったら、時間の尺度は違ってきたでしょうし、生命自体が誕生していなかったかもしれません。
     宇宙空間に存在する太陽と地球のバランス、人間が存在しうる地球の環境、これらは宇宙の137億年の歴史の中のただの偶然などではなく必然であり、この宇宙の創造主が必然的に最初から予定して組み込んだものなのだと思います。
     人間を含む生物にも、有機物にも、無機物にも、素粒子にも、この宇宙を創造した創造主の理念が貫通し、それらが愛とその法則により結びついて体を成している。そして、様々な物質から成る星にも、太陽系にも理念によるバランス感覚が生じている。だから、自分たち人間の存在があり、そこに時間があるのだと思います。
     もう少し突き詰めて考えると、自分たち人間や、まわりのそれぞれの存在にも、時間がそれぞれあり、同一のものはない。個々の存在の過程やエントロピーはそれぞれだが、同じ理念が貫通している限り、集団でも一定の共通認識が生じている。それが地球の自転や地球が太陽の周りを公転する時間であり、時計や暦の時間となり、共通概念となっているのだと思います。
     しかし共通概念は時間ではなくて、時間の尺度であり、本当の時間というものは、自分自身や自分自身を生かしてくれている存在にある。そして、時空とはこの宇宙のことであり、時空を超えるとは宇宙を超えた無を認識することである。無を認識するとは、この宇宙の創造主である無極無限の太極の中心理念とその意志を感じることであり、生かされている意義やイノチを意識することでもあると思います。

     今日は第5日曜日、塾操体の日でもあります。そろそろ三軒茶屋に向かわなければ。

    一週間どうぞ宜しくお願い致します。

    友松 誠。

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  •  表は裏の支えあってこそ。

    おはようございます。

    早いもので春季東京操体フォーラム分科会の開催まで、あと一週間となりました。
    今回のテーマは「快適生活のススメ 今よりワンランク上の生活を目指す方法」です。
    会場である千駄ヶ谷、津田ホールの前のイチョウ並木も、いっせいに芽吹いている頃と思います。
    イチョウは木では珍しく、オスの木とメスの木とに完全に分かれているといいます。またイチョウの仲間は恐竜時代に繁栄し、恐竜とともに姿を消したものが多いなか、こうして太古から脈々と生を受け継いでいる姿を見られるというのは、有り難いことなのだと思います。

    今週は性、SEXをテーマに書かせていただきました。

    男がいる、女がいる。
    (+)がある、(−)がある。
    陰がある、陽がある。
    静がある、動がある。
    表がある、裏がある。
    人々に夢や希望、感動を与える、きらびやかな表の世界も、裏で支えてくれている人達のお陰で成り立っている。そして、それぞれの立場の人が喜びと感動を持って、公益性を循環させている。
    今回の分科会では、特別セミナーの講師として、(株)ドリーミュージック 取締役 エグゼクティブプロデューサーで元日本レコード協会副会長の新田和長氏をお招きします。
    Musicman−NETのRELAYインタビューを読ませていただきましたが、その半生は、黒の人を白にするようなやり方ではなく、本人の持っている力を思いっきり後押しするというやり方で、自分自身も喜びと感動を味わいつつ、音楽を作ること、スターを作ることに夢中になり、表舞台で活躍する数多くのスターを世に送り出したのだと感じました。その顔ぶれはそうそうたるものです。
    そして、現在もプロデューサーとして平原綾香さんなどを手がけ第一線でご活躍されております。
    詳しくは東京操体フォーラム分科会発表者プロフィールのMUSICMAN’S RELAYインタビューをクリックしてみて下さい。
    分科会では、どんなお話が出てくるのか、今から楽しみです。

    白衣観音、慈悲の御手(上毛かるた)。 横の姿のラインも良いですね。
    今週は群馬県高崎市白衣観音像にお付き合い頂きました。
    高さ41.8m、 重さ5,985t、 井上保三郎氏建立。
    像の原型は、鋳金工芸家森村酉三氏が制作し、完成した原型を池袋にあったアトリエから、日本橋井上工業東京支店まで自転車で運んだのが、当時井上工業に入社して間もない、田中角栄元首相であったという逸話も残っています。
    最後に、被災地の復興と、皆様の健康を心からお祈りいたします。

    一週間お付き合いいただき有り難う御座いました。

    来週は中谷さんの担当となります。
    来週もどうぞ宜しくお願い致します。

    友松 誠。

  • 男も女も・・人間は物ではない。(2)

    真のエクスタシーとはどんなものなのでしょうか。
    性行為による肉体的なものからくる、エクスタシーは男と女で違うでしょうが、精神的なものからくるエクスタシーは、人間として共通したものがあるのではないでしょうか。
    橋本敬三先生はNHKラジオ放送に出演した時に、『「想う」ってのは、気持ちのいいことを想えばいい。厭なことは想いたくないですよ。だから一番気持ちのいいことを考えればいいんで、一番気持ちのいいことは、やっぱり有り難いって思ったときじゃないですか。有り難いってことがわかんない人は、いつでも不平不満でいるから気持ちがわるいですよ。』と言っています。
    精神性を高め、真のエクスタシーを感じるには、肉体をお借りし「生かされて生きている」という事を自覚し、「有り難い」と思う心をどれだけ育てていけるかという自己生成、自己発展に関係してくるのではないでしょうか。

    動画です。

    この歌の歌詞はとても抽象的であり、和訳する人によっては随分と違ってきますが、私はこの和訳が好きです。特に2分40秒頃からはじまる、2番目の歌詞は「夢の王国」を「太極の意志」や「大生命の理」とし、「つらぬく光」を「救い」とすれば操体の臨床に重なる気がして、歌詞を見ながら歌のヒビキを感じていると、なぜか涙が溢れてきます。この涙は悲しくて溢れているのではありません。これは共感、共振による歓喜の涙であり、これもエクスタシーだと思います。しかし、その下地がなければ共感、共振もないでしょうし、感動も少ないと思います。操体の臨床の中で、共に快を味わい法悦にひたり、自然と両手を合わせたくなってしまう。そして「ありがとうございます」という言葉のヒビキと共に呼吸を両手の親指にとおしながら天にこうべを垂れる。そんな感動の下地があるからエクスタシーに通じるのだと思います。
    この下地づくりというのは自己生成であり、操体の臨床の場だけに限らず、他の仕事でも、また家庭を支える主婦(夫)業の中でも、生きて活動する中にエクスタシーの下地は存在しており、ほんの些細な出来事でも有り難いと感謝し、そしてそれを言葉にしていくこと。そういった小さな積み重ねが、感動できる自分を生成していくことなのだと思います。
    まずは与える、有り難いと感謝して自分自身に気持ちのよさがとおる言葉を与える。それが豊かな自己生成、そして自己発展につながるのではないでしょうか。そしてそれが「大生命の理」の中で生かされて、「自由」に生きていくということにつながると思います。

    「生命の暗号」(村上和雄氏著)という本によれば、人間は1キロあたり1兆として、60キロの人なら60兆という数の細胞から成り立っているという。その一つ一つの細胞の核には遺伝子があり、その中には30億の暗号文字で書かれた情報があるそうです。この遺伝子の良い情報をONにするのもOFFにするのも、また悪い情報をOFFにするのもONにするのも、自分自身の心の持ちようにあるようです。ですから元々「救い」が完成されているイノチであり、元々「自由」が与えられているのです。ですが「自由」には責任が伴います。「大生命の理」に順応すれば、「大安心」が得られるが、順応しなければ、消耗と消滅の不安から逃れることができない。こちらのほうは「報い」になってきます。
    「気持ちよさ」「感動」「感謝」「発する言葉」というのが、こういう面から考えても重要だと思います。

    頑張る必要はないのです。そのかわり、「気持ちよさ」「感動」「感謝」「ハッスル言葉」を通じ、行動に生命(イノチ)を吹き込むことの繰り返しだと思います。

    東京操体フォーラム理事長でもあります三浦寛先生から、フォーラムの時にいただいた色紙の「言葉」も「感動」の下地となり、「感謝」しながら、今「気持ちよく」書かせていただいております。これらの循環が大切ですが、何かを創りだすとか、自己生成の場面では、やはり最初に正しい「言」ありなのでしょうね。

    友松 誠。

  • 男も女も・・人間は物ではない。(1)

    おはようございます。
    東北地方からも、ようやく桜の便りが届くようになりました。
    桜の花を愛で、少しでも心を癒していただければと思います。

    橋本敬三先生は終戦後、ロシアで捕虜生活を送っていた時期があり、その時一番辛かったのが、唯物論をはじめとする当時の共産主義思想を強要されたことだったと聞きます。捕虜生活は肉体的にも過酷で辛かったと思いますが、それよりも人間の尊厳を踏みにじるような思想教育(はじめの共産主義思想とは違うスターリン主義)の徹底による、精神的苦痛のほうがはるかに辛かったのだと思います。
    唯物論では、物質が本来的で根源的な存在であるとしたうえで、心や精神も物質(脳髄)の所産と考えるそうですが、そうであるならば人間も物体であり、男は凸の特徴の物体、女は凹の特徴の物体となってしまいます。SEXも凸と凹が合体して新たな物体を産生し、その快感は脳髄の所産とするならば、なんとも味気ない。極端なたとえかも知れませんが、これでは人間の尊厳につながってこない。

    発展し続ける現代科学でも、この3次元空間に生かされて生きているかぎり、どうしても物理的には解明できないことというのはあると思います。いや、解明できないことの方が多いと感じます。特に身近で当たり前と思っていること程、実証が難しいと思います。例えば、宇宙の果てがどうなっているとか。時間はいつ始まっていつ終わるのかとか。物理的に証明できる人はこの世にはいないと思います。
    ミクロの内の内を探る分野でも、最小単位は素粒子と言われていましたが、その内にはクォークレプトンがある事が解りました。そしてその内も研究がされていますが、もし本当の最小単位が解ったとしても、それがどのように生じたのかといったら、物を見るという見識からでは、それは解らないと思います。
    現代科学の最高の指導原理といわれる 唯物弁証法でも、物質やその運動、質の転換の根源に(+)(−)があることまでは認めているが、そこから先、つまりなぜそうなのか、(+)(−)が何故あるのかとまでは至らない。物を根源的とするからそこから先には進めなくなってしまう。だから、この現象界の起源については、感ずいてはいるが頬被りするしかなくなってくるのだと思います。
     別にそれが悪いというのではありませんが、自分の目に見える物だけが真実とするような考え方ではなく、目に見えないものによって自分も生かされているという心の持ち方も必要だと思います。

    再度「生体の歪みを正す」の26ページより引用しますが
    異性が互いに接近し、語り合い、見つめ合い、触れ合っただけで充電する。
    これをいかに清潔に優雅に高尚に行なうかは、その人の知彗による。
    性の充電のないのは気枯れ(けがれ)となる。

    別に肉体的(物的)関係だけが性の充電ではないのだと思います。この文章を読むと、むしろ精神的なものを高めていくことが性の充電につながる感じがます。快楽には精神的なものが重要で、肉体的快楽ばかり求めていると消耗につながるのだと思います。
     心も精神も物質(脳髄)の所産と考えてしまえば、目には見えないけれども確実に自在している大いなる存在もわからないし、自分がどうしてこの世に存在しているのかということもわからなくなってしまう。自分を生かしてくれている空気や水、光、大地さえも、単に生まれた時からある物だから、あるのが当然と思ってしまうのではないだろうか。
    それでは肉体的快楽の尺度でしか、生きていけないということになってしまわないだろうか。それで真のエクスタシーを感じることが出来るようになってくるのだろうか。

    つづく。

    友松 誠。

  • 根源的なもの。(3) 〜精子考〜

     性行為によって膣の中に億という数の精子が射精される。
    しかし、この時点ではまだ精子に受精能力はなく、卵子の待つ卵管膨大部までの過酷なサバイバルの中で受精能獲得が成されていくそうです。そして、その中のたった1つが卵子と結ばれる。
    ここで気になるのは、精子がはじめから受精能力を持ち一目散に卵子に向かって競争するのではなく、競争の中で受精能力を獲得していくという点です。
    私は今まで、億という数の精子それぞれが受精能力を持ち、サバイバル競争をして勝ち残った一匹の勝者だけが卵子と結びつくと解釈していましたが、改めて考えてみると、それだと弱肉強食の競争原理を人間はこの世に産声を上げる前から、強いられているというふうにも感じるし、全知全能な神様がわざわざ振るいにかける様なことをするのだろうかとも思えてきました。
     受精能獲得や超活性化の過程はまだまだ未知の部分ばかりだそうで、神秘的ですらあるのですが、「自分は生まれぬ先から、聖別され祝福された神と同格の永遠の生命そのものである」という橋本先生の言葉をもとに考えていくと、自分勝手な思い込みですが、精子精子として発生する前から、聖別され祝福されているのではないかと思うのです。つまり、起源より脈々と受け継がれてきた親のからだの中から、新しい生命の元となりなさいと聖別され、祝福されて遺伝子という贈り物を賜り、精子の基となる精原細胞となったのだと思うのです。同じ尿道口から出て行くものでも、一方は何十兆という細胞の老廃物、不要物として排泄されるものと、新しい生命の元となって旅立って行くものとでは随分と違います。

    精子戦争〜性行動の謎を解く」などの著者であるロビン・ベイカーという生物学者は、精子にはそれぞれ役割分担があると提唱していますが、やはり遺伝子という至高の贈り物を賜って成長して精子となっている訳ですから、億という数の精子の集団は、ただ闇雲に競争を繰り返し、一番を決めているというのではないという気がします。
    遺伝子を携えた精原細胞は70日間かけて精子となり射精の瞬間を待ちますが、この間に生体内での環境、射精までの時間により、あるいは精子の気持ちにより遺伝子の働きがONになったり、OFFになったりと、様々な要因で精子自身の能力と意志が決まってきて、億という数の集団の中の役割分担が出来てくるではないでしょうか。
    そして膣の中に放出された大集団は、一握りの新たな生命への快を求める集団と、それを応援することに快を求める集団とになっていく。後者の集団は酸性な膣の環境の中で、また白血球や他の人間の精子との戦いの生じる子宮という環境の中で、前者の集団の為につくすことを喜びとし、そこに快を感じながら最後はエールを送って帰一していく。また前者は後者のその献身的な愛を受け止め、感動のなかで使命感を高ぶらせ、自らの遺伝子を活性化させる。こうして困難に出会うたび、集団の数は減少するが、新たな生への快を求める集団の中の精子は、自らを活性化させ次第に受精能獲得が成されていくのではないでしょうか。
    そして母体とも調和が成されていく。母体という環境は初めこそ精子にとっては過酷な環境で、多くの仲間も失いましたが、自分達がその環境に合わせていく能力の元となるものを、始めから持ち合わせていることに気づき、環境の中で生かされて生きるということも学んでいく。
    このあたりは地球に植物が発生し、酸素が増えていき、本来は有害である筈の酸素を営養源とする動物(人間)が出てきたこととも重なるような気がします。
    母体と調和が成され、母体からもエネルギーをもらい、更に受精能力が高められ、太極の意志を受け継いでいることを自覚し、自らの快の方向性へ進む精子達。
    その快の方向性と卵子の快の方向性が合致した一匹が、めでたく卵子と結ばれる歓喜を迎え、すべてのものに「有り難う御座いました」と感謝する。
    そして受精卵が出来るのではないでしょうか。
    勝手な思いつきですが、そんなことを想いました。

    この巻物の中に何が書かれているかはわかりませんが、人がより快適に、気持ちよく、生かされて生きていく為の情報が詰まっているような気がします。根源的な情報に問いかける時は、この様な指のかたちになるのかもしれません。

    友松 誠。

  • 根源的なもの。(2) 〜すけべ考〜

    「すけべ」と言う言葉があります。
      これは異性に対して異常な好奇心を示す人のことをいうそうですが、「すけべ」も浅い処ばかりで好奇心を働かせていると、「のぞき」とか「痴漢」といった人に迷惑をかけるような行動となりかねませんが、「性」のもっと深い根源的な成り立ちを追求しようとする好奇心は、昨日書いたように、どのようにして人間が創造され、生かされて生きている中で、どう生きなければならないのか、という悟りに通じてくると思います。
     昨日書いたことの中で「気持ちいいか悪いかがわかるから有り難い」「イノチある存在は、快を求め、快に従い、快の方向をむく」と書いていますが、誤解してほしくないのは、「気持ちよければなにをやっても良い」というようなこととはちょっと違うのです。人間には欲があります。その欲求には食欲や性欲、睡眠欲、排泄欲などの生理的はもの以外にも、好奇欲求、達成欲求、金銭欲、支配欲その他諸々の欲求を、様々な環境と係わる中で生じさせます。欲求が行動力を生み、その欲求が満たされれば快感が生じることも確かです。しかし、快感には質があり、その時は快と感じてもすぐに飽きてしまう快や後味の悪さから二度と味わいたくない快もあるし、味わうたびに質の高まる快もあります。ですから快の質をどう判断するか、どこがどういう基準のもとに快、不快を判断するかということが問題になってきます。もし欲望が自分の損得を基準に快、不快を判断しているとしたらどうでしょうか。これはゆくゆくは自分やまわりの環境(人為的、社会的、自然)を破滅に向かわせかねません。性欲であれば相手にも、支配欲の類であればイノチの母体である地球さえも破壊しかねないと思います。ではどこがどのような基準の基に判断した快に、従うのが人間やその母体である地球にも良いのかといったら、欲の生じる前から自分の内に自在してある「救い」の貫かれたイノチの要求感覚(原始感覚)の快に従うことです。このイノチの要求感覚には、自然法則(太極の意志)が貫通しており、ここを基準に快を求め、快に従い、快の方向を向くようにすれば、神仏(太極)と共に悦びを称え合うということにつながってくると思います。
     人間の「理性」や「品性」といったものは成長に伴い高めていくものですから、生きる時代やその環境によって歪められてしまう面もあると思います。ですがこの自然法則(太極の意志)というのは永久不滅ですから、迷いが生じたならばこの実相と向き合いその快の方向へ進んでいくようにすれば良いのではないでしょうか。
     「すけべ」も人間の本能あっての欲求ですから、生長に伴い「理性」や「品性」と供にその質を高めていかなくてはならないと思います。幼児期、少年期、青年期、中年期、高年期と肉体の状態に伴いそれぞれ違うと思いますが、欲の基準の枠の中に安住し、もっともっとと刺激の閾値を高めなければ興奮せず、快感も得られなくなり、人がどうだろうとその欲望を満たそうというのであれば、それは「すけべ」ではなくエッチ(H=Hentai )になってしまうのではと思います。ほとんどの人が「エッチ」の方が小さい時からよく使っている言葉な為か、言うのも聞くのもそれほど抵抗はなくとも、「変態」と言われれば、人間性を否定されたような気分になると思います。ですから「すけべ」というのは、小さい時は「あのコのパンツは何色なのだろうか」といったレベルで良いでしょうが、生長するにしたがい、お互いのからだの仕組みや機能、それに伴う感情の違いを理解し、供にいたわり、思いやる為にそれらを学ぶというもとに好奇心を働かせる。それが人間のからだの神秘さと、すべてのものに生かされて生きているという現実の最認知につながり、大いなる存在は「すべてのものが気持ちよく天寿を全うできるように」と愛とその法則により、その元々を創り、その意志は悠久の時間を経ても朽ちることなく、受け継がれるようにして今生きる自分たちにも貫通していることを自覚する。そして、その意志を少しでも理解し、すべてのイノチに貢献できるよう学ぶという念頭のもとに、好奇心を働かせるようになってくる。そしてそれが生きがいであり悦びとなってくる。それが本物の「すけべ」なのではないでしょうか。

    つづく。

    友松 誠。