カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • いただいた色紙より。

    おはようございます。
    今日は2月5日、2と5の語呂合わせで、いつもニコニコと笑顔になっていようという日です。
    何の企みもなく、素直で真っ直ぐな笑顔。
    朝から、そんな笑顔がつくれたら、今日一日が最高の一日になるのではないでしょうか。

    今回のブログのテーマは「自分にとって操体とは」です。
    このテーマを聞いて自分の中で真っ先に浮かんだのは次の言葉です。

       操体とは、この命の永遠の記憶を呼び起こすことです」

    これは私が始めて参加した秋のフォーラムでいただいた色紙です。
    もう、かれこれ10年近く前となりますが、常にこの言葉を意識していたと思います。

    真理はシンプルなもののようですが、真理を真理として立たすことが出来なければ意味がない。
    自然法則は絶対だが、知らなければ意味がない。知っていてもやってみなければ意味がなく、やってみて感覚することが大切となる。アタマで考えて理解しようというのではなく、自然界の一部である、からだで体感すること。
    自然法則と真理は自在してあるが、時間と空間のかかわりあいの中で、そこに存在する人間が真理として立たせている。その人間が「今、ここに」の中で、感じることで真理を真理として立たせている。
    その立たせ方は無限にあるはずで、その感じ方も無限にあっていい。もともと観自在。
    しかし、アタマで考えて、理屈づけようとすると、自在性は失われ、自ら限界をつくってしまうことになる。思考するのも大切なことだが、まずは体感する。
    生命は「快」に従う。これも絶対的だ。イノチの起源を辿れば、愛と調和という太極の意志にいきつく。その意志に共振したエネルギーが、「快」により、つぎつぎと調和し、かたちづくられ、この世界を形成している。人間もその一部であり、人間のからだには快によって調和してきた記憶が宿る。
    もともと観自在であり、生かしてくれているこの環境の中で、よりよく生きる為の引き出しは、細胞一つ一つに元々備わっている。だから、「気持ちよさ」をからだにききわけ、その気持ちの良い感覚を十分に味わえば、調和が成される。そして、「快」によって調和が成されれば、自我によって歪体化させてしまった健康度も可逆的に整復復原が可能となってくる。真理はシンプルなもののようです。
    時間、空間により、人それぞれ快のききわけは違って当たり前。ききわけさせ方も無限にあるはず。しかし、そこには一定の法則が自在する。自然法則の応用、貢献をどれだけできるかということになってくる。これでいいということはない。日々、体感しながら学び続けていくことで、何かが観えてくる、と感じます。

    操体とは、この命の永遠の記憶を呼び起こすことです」
    この色紙の言葉を今日も意識し、「有り難う御座います」の言葉と共に呼吸をとおす。

    一週間どうぞ宜しくお願いいたします。

    友松 誠。

  • 最終日。

    おはようございます。
    昨日とはうってかわって随分暖かいですね。
    今日で今回のブログ担当は最終日となりました。当初、11月の初め頃に担当になると、順番を確認していた頃は、ちょうど紅葉の写真を載せるのにいい時期だと思い、バイクのキャブレターの掃除とプラグも交換して、出かける用意をしていたのですが、つい最近まで暖かい日が続いていたこともあり、うっかり忘れてしまっていました。それ程こちらの地方は暖かく、紅葉の季節という感じの空気ではありませんでした。現に私の仕事場の裏庭では桜の花が一輪だけ、昨日の冷たい雨にも負けず、まだ咲いています。

    紅葉の写真を載せる予定が、まさか桜の花を載せることになろうとは思いませんでした。

    「人〜生ぃ 楽ありゃ苦もあるさ〜」子供の時からよく聞く、おなじみのフレーズですが、現象界の横のひろがりのことだけで考えれば、ほんとにそうだと思います。しかし、実相の真理がタテに貫かれたうえでこの世は成り立っており、私達は元々救われており、生かされて生きています。不平不満の気持ちが頭をもたげてきたら、実相を想えばいいのだと思います。
     実相は「快」であり、生かされて生きていく道程には「不快」のサインも生じるが、サインはサインであり苦痛そのものではない。有り難く受け取り「快」の方向へ調和していけばいい。「快」によって調和は成され、その調和は尽十方であり、道は無碍自在です。「苦」に縛られて「快」を見失うなかれ。「楽」に溺れて「快」を見失うなかれ。実相は誰のからだにも宿っており、自然法則が貫かれています。だから「からだに気持ちよさをききわければいい」元々は有り難く出来ているようです。
     横のひろがりの中では、色々な「楽」がつく言語があります。「快楽」に溺れる、「享楽」にふけるなど、そのままいくと身心の不調和、自分と様々な環境との不調和を招くものを意味する言語。逆に「楽しい」「楽園」など、人間が理想意識をもってより良く生きていく為の、(横のひろがりの中での)共通認識としての言語もあります。
     理想像をもって生きるということは、大変重要なことです。しかし、その理想像もタテの真理と調和しなければ、時間・空間の環境の中で脆くも崩れ去ってしまう。真理は自然法則の内にある。自然法則を学び、応用して付加価値をつけていくことで「楽しい」「楽しむ」も生きてくる。それが全ての人の共通認識となれば、この世も「楽園」となるのではないでしょうか。
     だから「楽」と「楽しい」も識別が必要なのではないかと思います。私も含めて「楽しい」を活字にする時、「愉楽しい」とする人は多いと思います。「愉楽しい」とは自然法則の学びを深め、応用し付加価値をつけ人々に貢献し、四方八方「快」によって調和し、その感動のヒビキが「愉楽しい」となるのではないかと思います。

    一週間お付き合いいただき、ありがとうございました。

    来週は「愉楽堂」の屋号にて操体の指導、臨床を行っている中谷さんの担当になります。
    エンターテイナーの登場です。きっと愉楽しいですよ。

    友松 誠。

  • ごちゃ混ぜにしない。

    おはようございます。
    朝から雨ですね。
    今日はなんだか1がやたらと多い日です。2011年11月11日。漢字で書くと十一月十一日。十一をプラスとマイナスに見立てて電池の日になっているそうです。

    電流は(+)から(−)に流れると定義されてきたが、電子は(−)から(+)に移動するという。目に見える世界と目に見えない本質の世界では、しばしば逆のことが起こっているのかもしれない。
    ものごとには、色々な流れがあり、どこからどう流れているのか、その本質を知ろうとしなければならないことがある。

    「救い」の世界から「報い」の世界へ。
    救いを知らずして、報いの世界の価値観のみで、救いの世界を構築しようとしても、時間・空間の環境の中で次第に金銭欲や権力欲とむすびついたものが台頭してきてしまう。

    「快」から「全て」へ。
    快は無意識から生じ、全てのバランス現象の調和へと向かう。一つの快がいつまでも続くというのはおかしい。麻薬や覚醒剤による快はおかしいという事は誰でも知っている。自然界のバランス現象を無視して、一つの快に安住し、いつまでも貪ろうとすると「楽」とごちゃ混ぜになり「快楽」に溺れるということにもなってくる。快楽に溺れると、まず自然界の一員であるからだに変調をきたす。そして心を蝕んでいき、心とからだの不調和、からだそのものの不調和、自分と様々な環境との不調和を招いてしまう。程度の差こそあれ、性行為にも嗜好品にも言えることで、食の「享楽」にもつうじる。バランス現象を無視した「快」は有り得ない。それは「楽」と「快」のごちゃ混ぜなのだと思います。
    「快適」という言葉も「快」に「適う」と書き、本来は快に適うことですが、氾濫する情報の中には快適という言葉を使って、商品を売り込もうと欲に訴えかけてくるものも多い。このあたりにも「楽」と「快」をごちゃ混ぜにしてしまう要因があるのだと思います。快は無意識のからだの領域から生じ、それが心にヒビキ、「快適感覚」として感じられますから、からだが満足すれば、それは快の記憶として残るでしょうが、それ以上の要求は無いはずなのです。「快適」とは、快に適うことですから、からだが満足すればその「快適感覚」も消失するものです。「快適」という言葉を使っていても、快の記憶と心の欲の部分に訴え、商品を売り込むのは、本来は「楽」に訴えているのだと思います。
     「快」からの流れには自然法則に順応した源流があり、それは全てのバランス現象の調和に向かっていると思います。その本質を学び、より良く人生を満喫するには、「楽」と「快」を識別する必要があると思います。
    しかし、頭で難しく考えて、杓子定規になる必要はないと思います。元々は救われており、からだはきちんと識別しているのですから。
    「間に合っていればいい」「間に合っていればいいという、心の豊かさが必要だ」「間に合うように出来ているのだ」と橋本敬三先生はよく言われていたと聞きます。

    友松 誠。

  • メッセージがあるか、ないか。・・・その2。

    おはようございます。
    昨日は、からだの感覚をききわけ、からだから学ぶということを、具体的にどうしたら良いかというところまでで終わりました。

     操体には、橋本敬三先生が世界一短いお経である「般若心経」になぞらえて、「般若身経」と命名した、からだの使い方、動かし方のすべてに適う基本原則があります。
     この「般若身経」も、ただ見よう見真似で行うだけでは本来の意味は無いのです。からだの使い方、動かし方には自然法則がありますから、その法則に則り、からだを使い、重心を移動して、からだ全体を連動させて動かさなければなりません。(注:からだの使い方、動かし方の法則については、なるべく最新のものを参考にして下さい。)自分の心の意識レベルの基準で、「この方が動きやすいから」と、法則を軽んじて行っても、「快」にはつながらないのです。誰しも様々な環境とかかわって生きており、生活そのものにストレスは生じます。そして、その精神的、肉体的ストレスから、からだに歪みを生じさせています。
    これは潜在的な無意識の領域であるからだが、内臓や中枢神経など自らを保護、保持する為や全身を支持する為に、自らを歪ませて対処してくれている、という面が多いのです。しかし、からだの歪みも間に合っている内は良いが、間に合わなくなってくると症状疾患の原因となってしまいます。間に合わない状態にしない為に、動きも本来の動きを封じ、窮屈な動きとならざるを得なくなってしまいます。そして本来の自由なからだではなくなってきてしまう。だから、表在的な意識は自分の動きとして「この方が動きやすいから」と感じてしまいますが、本来のからだの動きとは違うのです。現に「この方が動きやすいから」という動かし方で、その動きをそのまま続けると不快感が生じたり、動きが逆行するという現象が起こってくるのです。確かに自分の動きでも、ある範囲内ならいつもの使い勝手の良さから「楽」に動かせると思うかもしれませんが、度量の大きいからだの支えがあってこその「楽」なのです。
     ですから「般若身経」を行うときは、自分がからだを支配しているといった心の意識の持ち方ではなく、自然の一部である、からだによって自分が支えられているといった心の意識レベルでからだと向かい合う。そして自然法則に則り、ゆっくりとからだを動かし感覚をききわけるということが大切です。感覚をききわける中で、からだからのメッセージを感じとってほしいのです。注意事項としては「痛い」「ツライ」などの不快感覚が生じたらすぐに中止すること。「不快」という感覚も、なぜ不快感が生じてしまうのか日常生活を振り返る意味では大切ですが、振り返るということは思考するということですから、自然法則を理解し、自然法則に照らし合わせてどうなのかという思考が必要です。自然法則に則した動きをとおしていて、「気持ちよさ」がききわけられたなら、気持ちよさに委ね、十分に味わうことです。その味わいの中で心の意識レベルを超えた何かを感じ取ってほしいのです。それは人によってそれぞれ違いますが、共通しているのは、前向きにより良く生かされて生きていく為のものだということのようです。
     「般若身経」は基本的には立位で行う為、はじめから気持ちよさに委ねて十分に味わうというのは難しい面があります。バランスよく立つという事だけでも奥が深いのです。まずは、からだの使い方、動かし方の自然法則をしみ込ませるようにして、からだと調和していくことが先決です。その調和が高まれば、立ち方も自然とバランスよくなって来ますし、立ち方のバランスがよくなれば、快の味わいも変わってくる。そしてまた新たなバランスへとより良く更新されていく。そうした快に従った調和の循環の中で、心の意識レベルを超えた何かを感じとり、また新たな調和へと進んでいくのが正しい道筋と思います。

    友松 誠。

  • メッセージがあるか、ないか。・・・その1。

    おはようございます。
    今朝はぐっと冷え込みました。昼間は半袖でも平気な程、暖かいものですから、油断していて風邪などひかぬよう注意したいものです。それと、からだが冷えている状態で勢い良くガバッと起きる習慣のある人も、この時期は特に気をつけたほうが良いと思います。
    呼吸と調和を感じながら、慌てずにゆっくりと自分に優しく朝のスタートをきっていったほうが、からだの負担が少なく、何か嬉しいことが起こりそうな予感もしてきます。

    「快」は元々であり「ききわける」とか「感じる」ものですから、そこには何らかのメッセージが含まれています。それは日頃の生活の中での反省すべき点であったり、それに対するアドバイスであったりします。また、如何なる時でも自分を生かしてくれているものが、存在しているというエールであったりします。「楽」にそれがあるかといったら、「楽」は心の意識レベル、つまり個人の(欲や自我を含む)表在的な意識レベルの価値観ですから、「楽」にはありません。これも「楽」と「快」の違うところです。
     表在的な意識レベルは潜在的な無意識に支えられて、意思決定をしていますが、それを忘れて、表在的な意識レベルが無意識の領域を支配していると考えてしまうと無理があり、不調和を生んでしまいます。無意識の領域とはからだの領域のことであり、からだの領域を構成する細胞一つ一つには太極の意志を引き継ぐ生命があります。だから、からだを自分の道具のように思っていると、おかしなことになってくるのです。 
     30年以上前に漫才ブームというのがありましたが、その前のビートたけしさん達もまだまだ売り出し中の頃、今は亡きセントルイスという漫才コンビが居りました。もちネタの中に人間を(物質としての)元素の価値で計算すると1万円にもならないというのがあり、当時私も上手い事を題材にして笑いをとるものだと感心していました。しかし、元素である原子の原子核は意志と意識をもっている、という観点に立てば発想はまるで変わってきます。原子核が意志と意識を持っているから細胞の核にある遺伝子にも30億という数の化学文字が書き込まれ、生命に関するすべての情報となっている。その情報により人間がかたち作られ、表在的な意識が関与していなくても、無意識のうちに生命活動が営まれている。そのような観点に立てば、人間は無意識のからだの働きの営みに生かされているという土台があって、表在的な意識をもった人間として自然環境、人為的、社会的環境に調和しながら生かされて、生きていると言えるのではないでしょうか。
     今までの時代は、様々な環境に対応する為、表在的な意識は外ばかり向いていても、ある程度は間に合った。しかし、個人主義が進行し、これだけ物が豊かになり情報も溢れ、欲に訴えかけてくると、何が本来の自分にとって良いものなのか分らなくなってきてしまいます。
    これからは自分の内にある、真理に目を向ける時代なのではないかと感じます。
     それは目を向けても見えるものではなく、「感覚」し「ききわける」ものであり、表在的な意識を素直に、潜在的な無意識に向けるということであり、からだの感覚をききわけ、からだから学ぶことであります。
    具体的にどうしたら良いのかという事は、明日にさせていただきたいと思います。

    友松 誠、

  • 快は元々。・・・その2。

    おはようございます。
    昨日は原子核が意志と意識を持ち、快によって調和が成されるというバランス現象の上にすべてのものが成り立っているということを自分なりに書かせていただきました。
    今日はその続きです。

    快は元々であり、より良くなろうとする意識には太極の意志の道を踏み外さない為の、不快というサインも生じるが、不快に従ってしまえば個性の意志も崩れてしまう。意志を保ち個性を尊重しながら、快の方向性をききわけ、そこに調和することで新たな道が開ける。その様な過程を経ながら、時間・空間の環境の中で機が熟してくれば、不快という警告はなくなり、快によって新たに調和が成されてくる。そうやって、それぞれの原子は分子となり、分子は細胞になるという様に調和を密に高めながら質の転換が図られていくのだと思います。だから、いきなり出来ないことを「頑張って」やってやろうとするのではなく、「欲張らず」「縛らず」「威張らず」に意志を継続し、出来る事からコツコツと、というのが正しい道筋だ、という事を原子や原子核は教えてくれているのだと思います。
    このような原子、原子核の意志と意識が意識感覚として引き継がれ、人間の意識となり、心を形成していきます。しかし、心はこの様なタテ軸から成り立つだけでなく、心(自我)の意識は横軸の人為的、社会的環境からも情報を取り込み、より良く生活を営もうとします。これがタテ軸と調和できていれば良いのですが、心はうつろいやすく、タテ軸にはない「頑張る」「欲張る」「縛る」「威張る」などの思考を生み出しやすい。「楽」というのも、この心(自我)の意識レベルにある。だから、「楽」は格別の精神の崇高さを備えた人ならばタテ軸の快と交叉するものもあるかもしれないが、不快と手を組み、太極から引き継がれている意志に逆らい、からだを構成している細胞や原子核を悲しませてしまうものが多く、その人の心の持ち方、心の意識レベルで多種多様となってしまう。だから、「快」は元々であり「ききわける」とか「感じる」ものだが、「楽」は心の持ち方次第で変化する価値観の一つと言えるのではないでしょうか。
    「楽」と「快」では元々が違うという事を書かせていただきましたが、書いていて心の営みの重要性というのを改めて感じさせられています。いかに心の調和をはかっていくか、ということについて今回、原子から色々と考えていて、ひとつ気になったことがあります。それは(重水素などは別として)水素原子の原子核だけが、なぜ陽子一つのみで、中性子とは結びつかず単独で存在するのかということです。陽子は意志の波動を起源としていて、中性子は意識の波動を起源としている、という考え方から勝手に想像すると、水素原子に意識は無く、太極から受け継いだ愛の遺志をピュアに具現化しているものとなってきます。生命あるものにとって水は必須であり、細胞一つ一つが水を必要としています。これも太極の愛であり、道を踏み外さぬよう鑑となり、この世を破壊に導く者と化さぬよう見守らせているのではないでしょうか。だから水の結晶は呼いた言葉を映し出す鏡のような反応をするのかもしれません。水が澱むような言葉が心に浮かんでも、そのまま口に出さずに水が悦ぶような言葉に転換して意思の疎通がはかれるようにするというのも、心の調和ひいては様々な環境への調和に結びつくのではないでしょうか。これからの時代はそういった心の持ち方が問われてくると感じます。
    原子核を無理やり分裂させる兵器を作り、戦争をするような時代は、「陽」の時代とともに終わったのです。そのエネルギーの利用の仕方も大きく問われてきている。世界人口が70億人に達し、ますます増えている今、エネルギー問題も、今のままでは深刻になると思います。しかし人類は不可能と思われる事を次々と可能にしていった。一昔前のプロペラ飛行機の時代は理論的に物体が音速を超えるのは無理だとされていた。それでも発想の質の転換をもって音速を超えるジェット機が発明された。光明もある。光より速い粒子も発見されているという。今まで科学の発展に貢献し、物質社会を豊かにしていった、(最高の頭脳と呼ばれた)人間による法則が覆されようとしている。時代は確実に変化してきている。今こそ太極の意志(愛とその法則)を感じ、そこから新たなる調和について学ぶ時なのではないでしょうか。

    友松 誠、

  • 快は元々。・・・その1。

    おはようございます。
    秋の操体フォーラムも昨日無事に終了しました。
    ご来場の皆様方、ありがとうございました。

    さて今日も、「楽」は人間の心(自我)をとおしたもので、「快」は、元からあるものとして考えていきたいと思います。では「快」の根元とはどのようなものなのでしょうか。
    昨日のフォーラムでも少し話がありましたが、2ヶ月ほど前の、残暑厳しい中での京都のフォーラムの時に、理事長である三浦寛先生は、「陽子と中性子で成る原子核は意識と意志を持っている。人間のからだも目に見えない原子核によって、一つの有機体として現象をおこしているが、有機体としての人間が意識と意志を持つ以前に自分を成り立たせている原子核が意識と意志を持っているということなのだ。」そして「原子核の意識や意志は孤独ではなく、調和やバランスという方向性をもっている。」と仰っていました。
    私達のからだは約60兆個の細胞から成り立っています。細胞は分子の結びつきからできており、分子は原子と原子が結びついてできています。そして原子は原子核と、その回りに引き付けられた電子よりできている。さらに、原子核は幾つかの陽子と中性子が結び付いたものです。もっと突き詰めればバリオン、そしてクォークといった素粒子の世界になり、素粒子はエネルギーから、そのエネルギーは波動から生まれ、波動は運動から、その運動は陰と陽があるから生まれる。そして陰と陽を設定したのは無極無限のおおいなる「イノチ」である太極である。その太極の意志が、この世のありとあらゆるものの起源となっている。だから、太極の意志はこの世のありとあらゆるものに普遍的に貫通している。あらゆるものが太極の意志(愛とその法則)を引き継ぎ、調和しながら結びつき、結ぶついた集団はまた新たな調和に向かっていく。
    あらゆるものの起源という事までさかのぼってしまいましたが、あらゆるものの性質を決定付けている起源といったら原子であり、原子核なのではないでしょうか。原子核の陽子は(+)の電荷を帯びており、そのままではお互いに結びつくことができない。そこで電荷を帯びない中性子が間を取り持って結合し、電子(−)を纏いそれぞれの物質の性質を現わすようになる。すばらしい調和です。勝手な想像をすると、陽子には太極の意志を引き継ぎながら、その意志を「こう具現化したい」という個性的な愛の意志があり、そういう波動で結ばれてできているのが陽子なのではないでしょうか。しかし水素は別として単独ではそれが不可能だ。だから同じ意志を持つもの同志が中性子を介して結びつき、具現化しようとする。中性子はその具現化の意志に賛同する意識の波動で結ばれてできており、調和の力を発揮する。この陽子と中性子の調和は何によって可能になるのかといったら快の方向性によってであり、起源にさかのぼったところから双方が愛とその法則を引き継いでいるから、快によって調和が成される。つまりこの現象界に存在すること自体が快なのであり、元々が快から生じているのだと思います。そしてその愛の意志と調和の意識を持ち、自律しながら四方八方に次々と調和しながら次々と枠を超え、目に見える像を表している。
    よりよく調和が成される為には不快も必要になってくる。不快とは太極の愛の道を踏み外さない為の警告信号であり、その時間・空間の環境ではまだ調和できないというサインだ。その時点ではその方向性へは従わず、快の方向へと進み、調和を高めていけば良い。警告が無くなれば、質の転換が図られる時であり、その方向性とも快によって調和がなされてくる。そのようなバランス現象の上に、この世の全てのものは具現化しているのだと思います。

    これだけでは「楽」と「快」の違いになっておりませんが、長文になってしまったので一旦ここで区切って、続きは明日とさせていただきます。

    つづく。

    友松 誠、

  • 楽園。

    おはようございます。
    今日は東京操体フォーラムの日ですね。
    東京、千駄ヶ谷にて9時半から開催されます。
    これから、そちらに向かいますが、ブログもしっかりやっておかなくてはなりません。
    まだ夜も明けていませんが、苦手なパソコンの前ですったもんだしています。
    まだ午前4時前、それでも明かりの点る家がところどころある。遠距離通勤や遠くの現場に向かうお父さんが居る家だろうか。あっ今日は日曜日だから何処かに出かける用意をしているのかな。なんだか台所でお母さんが朝食と弁当を作っている光景が眼に浮かぶ。2階に点る明かりは受験勉強かな。
    まわりが真っ暗で空気がひんやりしている分、窓の明かりにほのぼのとした暖かさを感じる。

    今回のブログのテーマは「楽と快の違い」です。
     一言でこの違いを言ってしまえば、「楽」は人間の心(自我)をとおしたもので、「快」は心(自我)には関係なく、元からあるものだと言えるのではないでしょうか。
     「楽園」という言葉がありますが、楽園についてのイメージは人それぞれだと思います。
     南の島をイメージする人もいれば、エデンの園みたいなところをイメージする人もいる。他にも色々あると思いますが、みんな自分がイメージできる理想が元になっていると思います。だから自己中心的な人とそうでない人の楽園のイメージは違うし、また色々と見識が広がればイメージは違ったものになる。
     イメージは心から映し出されていると思いますが、その心は情報や見聞というヨコから入ってくるものの影響を多分に受けてしまう。だから楽園に対するイメージは人それぞれ違うし、人間の楽園と犬や猫の楽園も違う。そして野生動物や植物、はたまた目に見えないような微生物からみた楽園も違うと思います。
     微生物といえば、2ヶ月ほど前の京都のフォーラムの時、理事長である三浦寛先生は、トイレ掃除をする時、素手で便器を洗うと仰ってました。そして、掃除しながら感動して涙が溢れてくるとも言われていました。人が見て不快に感じるところを自らの手で綺麗に、気持ちよくするというのは、臨床にもつうじ、自分の生き方に感動する。という他にも、からだの中で働いてくれていた微生物をバイキンとして殺菌するのではなく、自らの手で感謝を込め供養してやるという心持ちで掃除をすることで、微生物が悦び感動を与えてくれている、という面もあると思います。
     人間も他の動物も植物も微生物も全てが幸福になれる楽園を創るとしたら、どの様なものなのでしょうか。それは案外この世であり、この地球なのかもしれません。
     この世を創った大いなる存在は、全ての生命に幸福にそれぞれの天寿を全うしてもらいたくて、140億年程前に陰と陽を設定し、愛とその法則、すなわち快に従う事によって調和が成され、万物がより良く更新されながら創造されていく様、この宇宙の元の元の決まりごとを自らの意志として反映させている。
     だから「楽」と「快」では根元からして違うのだ。と私は理解しています。
    この様な考え方を元に、「楽」と「快」の違いについて書いていこうと思います。

    一週間どうぞ宜しくお願いします。
    そろそろフォーラム会場(楽園)のある千駄ヶ谷に向かわなければ。

    友松 誠、

    ■2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 社会進歩曲線をみてみる。

    おはようございます。
    今週は私の住む地域では最後まで曇り空がつづいてしまいました。これだけ曇り空がつづくと、暑くともサンサンと輝く太陽が恋しくなります。そして、湿った空気を呼きだし、さわやかな空気を吸い込みたくなってきます。
     空気といえば、去年の東京操体フォーラムin京都では、奈良操体の会の北村翰男先生の講義では、ペットボトルのお茶を半分ほど減らし、「お茶は減ったが増えたものがある、それは何かわかりますか」と参加者に質問しながら、目には見えないけれど大切なものが増えた、それは空気である。という解りやすい例えから、目に見えないものを意識することの大切さや、目には見えないが自分たちを生かしてくれている存在の有り難さを、教えて下さいました。大変勉強になりました。今年はどんなお話を聞かせていただけるのか、今から愉しみにしております。

    『生体の歪みを正す〜橋本敬三論想集』の340ページから342ページには「人間悲願の達成へ」と題した20の項目にわたる理念や提言が記載されています。これは1977年に「日本医事新報」に発表されたものですが、その中には1971年に月刊プレジデントに所載されていた「社会進歩曲線」という、立石電気(現オムロン)・未来接近法グループによる未来予測グラフも挿入されております。
    *グラフや20項目の理念や提言をここでは載せることは出来ませんが、本を読んでいただければ幸いです。
    このグラフは1974年を境に、それまでの[物中心・個人中心]から[物と心・個人と集団の調和]の世界観に変わっていくことが予測されています。これはよくよく考えてみると、とんでもないことだと思います。この曲線の始まりはBC12000年より前であり、そこからゆっくり上昇していき、何百年かの頂点を向かえ、1974年を境に下降に転じています。一方、社会構造はというと、同じ1974年に電子制御技術が成され、それまでの自動化社会から情報化社会に移行していき、2005年に生体制御技術が成され自律社会の到来を予測しています。ですから社会構造は1974年を過ぎても、科学技術の発展は続き、物はどんどん魅力あるものへと変化していき、それまでは個人で魅力ある物を追いかけていれば幸福になれるといったかたちだったのが、今度は物と心とを個人で調和させつつ、集団との調和を計るようにしなければならない、といったかたちになってきました。そんなのは当たり前だと思えるかもしれませんが、思っていてもなかなかうまくいかず、ストレスに押しつぶされそうになっている人も多いのも事実です。昨今の暗いニュースを見るにつけ、社会全体が(歪)ひずんできているようにも思えます。そうなると真っ先に悲鳴を上げてくるのがからだであり、半健康人は増加の一途をたどり、現代医学の常識では対処できないような病んだ状態に陥る人も少なくありません。
    橋本先生が「人間悲願の達成へ」を発表する1970年代の半ば頃は、そんな時代の転換期であり、それまでの医療のあり方や施術のやり方では、これからの時代では通用しなくなってくると感じ、予測グラフ通りに2005年には生体制御技術が普及していなければ大変なことになると憂い、「人間悲願の達成へ」と題した理念と提言を発表したのだと思います。
    尚、橋本先生が当時見た社会進歩曲線と、現在オムロンがHP上で公開している社会進歩曲線には違いがあり、HPの方は情報化社会と自律社会の間に最適化社会という社会構造が追加されております。ですから以前の社会進歩曲線では、現在はもう自律社会に入っていることになっていますが、最適化社会が追加されたことで、自律社会の到来はもう少し先になっています。しかし、予測グラフは修正すればそれで良いけれども、このストレス社会により、心とからだを病む人の増加は待ってはくれません。「人間悲願の達成へ」の理念、提言に沿った生体制御法つまり自然法則に則った生き方の普及が急務になっております。
    「人間悲願の達成へ」と題した20項目の理念や提言の中には、「楽」という言葉は一切使用されておりません。生体のバランス制御に必要なのは「快」なのです。「快」すなわち「気持ちよさ」こそが、生体にとって最小エネルギーで最大の効果をもたらすように働きかけてくれるもので、からだが自らの力で治す、あるいは癒す条件を満たすための大変重要な原動力となっております。
    今月の28日(日)は京都・大徳寺にて、自然法則の応用、貢献をすべく東京操体フォーラムin京都が開催されます。今回は「気持ちよさがイマイチよくわからない」という参加者に対し、気持ちよさを体験していただく時間も設けておりますので、どうぞ宜しくお願い致します。

    生体の歪みを正す オンデマンド版―橋本敬三論想集

    生体の歪みを正す オンデマンド版―橋本敬三論想集

    一週間どうも有り難う御座いました。
    来週は中谷さんの担当になります。
    来週もどうぞ宜しくお願い致します。

    友松 誠。

    [http://www.tokyo-sotai.com/?p=281:title=東京操体フォーラムin
    京都2011]は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

    [http://www.tokyo-sotai.com/?p=314:title=Sotai Forum
    inMadrid]は、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • リズム。

    おはようございます。
    今月はなんだかずっと曇り空で、8月にしては気温が低いと感じられる日が、つづいていますが、先月の平均気温は、上旬は北日本で、中旬には東日本でそれぞれ過去50年間で最も高くなり、記録的な暑さだったようです。
    先月は毎夜毎夜の熱帯夜で寝不足だったという人も多いと思います。ビールを飲んで寝ても、飲んだ分だけ体温が上昇し、かえって眠りを妨げるような気がする時もありました。
    一般的には体温が上がれば活動的になり、下がれば眠気を感じてきます。
    サーカディアンリズムの体温の変動を考えれば、平均的には午後8時頃から体温が下がり始め、翌朝の5時頃までずっと下降し続けるようですから、夜遅く暑苦しくて眠れない時にアルコールを飲むのは、体温のリズムという面からも眠りを妨げる要因になっているのかもしれません。また、月曜日の読売新聞(ヨミドクター)にも、
    よく眠れるようにと、寝る前にビールを一杯。そんな人は多いのでは。でも、よい睡眠を得るのに、寝酒は有効なのか。確かにアルコールは寝付きを良くする効果がある。脳の神経の緊張をほぐす作用があるためだ。しかし、その効き目が切れるのは早い。寝酒は睡眠の質を落とすなどマイナス面の方が大きいことがわかっている。人は睡眠時、脳は比較的活発に活動して眠りの浅い「レム睡眠」と、脳は休んで眠りの深い「ノンレム睡眠」を約90分周期で繰り返す。しかし、飲酒はそのリズムを狂わせる。

    と書いてあり、睡眠の周期のリズムからも、寝る前に一杯というのはあまり良くないようです。そしてアルコール代謝にもリズムがあり、午後10時から午前8時の間は肝臓と胃のアルコール分解速度は緩やかで、血中アルコール濃度も次第に増していくという。だから短時間で良い気分になるには適しているが、からだに負担をかけての良い気分となってしまいます。これからまた暑くなってきますから、なるべく夜遅くには飲まない方が良いのかもしれません。しかし、あまりそれに拘っていると社会生活もうまくいかなくなってしまいます。
     サーカディアンリズムは24時間ピッタリではなく、人によってそれぞれです。なぜなのか詳しい結論は出ていないそうですが、もともとアソビがあるから体内の各リズムはバランスを保てており、その上で毎日リセットしてリフレッシュしているのだと思います。体内の各リズム以外でも、車のハンドルだって、関節の可動域だって、皮膚だって、アソビがあるからギクシャクせずに、うまく全体とのバランスが取れています。だから、あまり杓子定規に考えるのも、かえってストレスを生じさせてしまうと思います。
    間に合っていれば良いという心の豊かさを持ち、心とからだ全体のバランスの気持ちよさを感じることも、大切と思います。

    リズムとか周期のことを考えていると、ちょうど一年前に初めて京都、大徳寺東京操体フォーラムが開催された時のことが思い返されました。今年も8月末の日曜日に開催されます。悠久の歴史を育む大徳寺塔頭玉林院にて、「辛いほうから楽なほうに動きを操る方法」から第2分析、第3分析、そのまた先へと進化し続ける操体法に触れるという、時空の間を味わうのも、おつなものと思います。
    今回は特別に「気持ちよさ」をまだ未経験という人に実技体験指導の時間も設けております。

    友松 誠。

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    京都2011]は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

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    inMadrid]は、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。