カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 言葉について〜 手入れ・・・2。

    おはようございます。
    雨もあがり、爽やかな風が吹いてきました。

    昨日のつづきです。

    心は中枢神経を介してからだとつながっています。
    「怒は肝を傷り、悲は肺を傷り、驚は腎を傷り、憂は脾胃を傷り、喜は心を傷る」と昔から言われているように、からだは心のうちの感情に相応して、特定部位を圧迫するような姿位をとるようになります。
    当然、特定部位を傷らない為にも、時間・空間のかかわりの中で、からだは無意識に再び姿位を変えます。そして、その情報も意識にのぼり、心につうじており、感情とは違うところに関心が向くということも起こっていると思います。それによって、気分転換もはかられているのではないでしょうか。
    しかし、心がからだにとってマイナスの感情に縛られて、意識を覆い尽くしていれば、せっかくのからだの働きも無駄となってしまい、心とからだの不調和から、からだの不調を招いてしまいます。
    重要なのは、からだの無意識や自分を生かしめているイノチにつうじている意識を、意識するということだと思います。
    茂木健一郎氏は「準備電位と言葉」の文章の中で、端的に言えば「僕らの意識は、脳内現象の事後の合理化にすぎない」可能性が明らかにされたのです。 と書いていますが、見方を変えれば意識ほど心の構成要素の中で、無意識というものを、ピュアに捉えているものはない、ということになってくるのではないでしょうか。
    そのような意識を意識して、意識で無意識の領域を感じる。そして、無意識を想えば、からだは常に自分を肯定して守ってくれている、絶対的な存在であるということが解ってきます。正に、心とからだは2にして1、1にして2なのです。
    有り難いと感じるし、嬉しくもなります。そこに無意識の領域への手入れの鍵があり、そう感じたならば、言葉にすることです。その時フッと浮かぶ言葉は、人それぞれでしょうが、総じて心を清く、正しく、明るく前向きな方向に向ける言葉となる筈です。
    そうでなければ生きてはいられないし、人間には生かされて生きているという大前提があるからです。そして浮かんだ言葉を口から出すことで、心とからだは善い言葉で調和しながら、その方向に向き、自分や自分のまわりをそのようにしていくのです。
    まどろっこしい書き方となってしまいましたが、これらの事柄が解ったならば、もう一歩進めて、先取りしてしまえば良いのだと思います。この世に生まれてからの事は、人それぞれでしょうが、元々人間の設計にミスはなく、元々救いが成立しているイノチだという事を、まずはしっかり自覚する。つまり、確乎とした自分という存在の根拠を意識する事だと思います。つきつめていけば、これほど確乎とした絶対的なものはないのです。
    そして、自分だけでなく、イノチとからだと自分が一番よろこぶ言葉を持ち、口にするという事。それが手入れとなり、ちょっとした会話もその方向性の示される発話となり、運命もその方向に向かっていくのだと思います。

    橋本敬三先生著の「生体の歪みを正す」には、日常生活の手入れと題した文章があります。
    この中で精神面については、〜 楽しいこと、嬉しいこと、有り難いことを数え立てて、そのことを口に出し、くりかえすことにより、心はそっちに向いてくる。人は心身ともに完全設計されているという大前提を確信すれば、自信が湧き、安心していられる。このことを絶えず考え、くりかえし言葉に出して、自己暗示を深めることである。人生の運命は口から出す言葉で舵を執られるのである。〜 とあります。

    友松 誠。

    三浦寛 操体人生46年の集大成 ”Live ONLY-ONE 46th Anniversary“は2012年7月16日(海の日)に開催致します。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定

  • 言葉について〜 手入れ・・・1。

    おはようございます。

    出した言葉の方向に必ず心が向く、という原則がある。
    そして、心とからだは中枢神経を介してつながっている。

    言葉を慎重に統制できる人を賢者と言い、口に戸締りのできない者を痴人(しれもの)という。
    これを頭だけで、上手くコントロールしようと思っても、無理があるようです。

    脳科学者の茂木健一郎氏は、俳人黛まどかさんとの共著「言葉で世界を変えよう 万葉集から現代俳句へ」の中で、「準備電位」と呼ばれる脳神経活動を元に、「考える前に脳が動く」ことを準備電位が示しているならば、発話という行為にも実は同じようなプロセスが当てはまるのではないか。実際脳科学の分野では、このような推測のもとに、発話における「言葉の準備」は意識以前に始まるのだと考えられています。根本的に言葉の生成に関わっているのは、いわば「無意識の領域」だということです。と書いています。

    「準備電位」については、実行委員ブログでも佐助さんが3月29日に、身体運動の面から紹介しているので、詳しくはそちらを参照していただくとして、人間は自分では自らの意思で行動しているつもりでも、意識以前に「無意識の領域」が脳を動かしているということです。つまり、イノチを宿すからだが、行動や言葉の生成の源泉になっているという事だと思います。

    茂木健一郎氏の文章を、途切れ途切れにして申し訳ないですが、「準備電位と言葉」「無意識との勝負」と題した文章の最後には、だからこそ、身体が鍵となる。無意識の宿り場は、あくまでも身体だからです。その人がどのような経験を素地とした身体性すなわち無意識の場を持っているかが、言葉の生成において非常に重要になってくるわけです。と書いています。

    その人がどのような経験を素地とした身体性すなわち無意識の場を持っているかが、言葉の生成において非常に重要ということは、日々の手入れが殊更に重要となってきます。なぜなら嫌な事、不快な事が経験の素地の大半を占めていれば、無意識に口を吐いて出る言葉も嫌な事、不快な事を表す言葉となってしまうからです。
    そして、出した言葉の方向に心が向いてしまうという原則があり、自分や自分のまわりをそのようにしてしまうからです。それが無意識の領域に刷り込まれ、年がら年中嫌な事、不快な事を表す言葉ばかりが口を吐いて出てくるようになったら、そういう運命となってしまっても仕方がないのです。もし、みんながみんなそうなってしまったら、この世は生き地獄と化してしまいます。
    だから、日々の手入れが重要となってきます。早め早めに、手入れをして嫌な事、不快な事を引きずらないようリセットしておく必要があります。
    では、どのように手入れをすれば良いか。それは明日とさせていただきます。

    友松 誠。

    三浦寛 操体人生46年の集大成 ”Live ONLY-ONE 46th Anniversary“は2012年7月16日(海の日)に開催致します。

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  •  言葉について〜 「言葉の力」の文章より。

    おはようございます。

    人は言葉によって己の周囲に現象をつくりだすといいます。
    善く思い、善き言葉を叙べれば、善き事が成り、悪しく考え、悪しき言葉を語るなら、物事は悪しくなるといいます。
    だから、想つまり、精神活動の営み、心の営みというのが大変重要になってきます。
    この、心の営みというのは、自分をとりまく様々な環境(人為、社会、自然)と息、食、動の調和の上に成り立っている。
    そして、「環境」と自己最小限必須責任条件である「息、食、動、想」は、目には見えないが鎖の輪のように密接にかかわっており、同時相関相補連動性となっています。
    言葉一つにも、発する人間まるごと全体の世界が表現されている、と言っても過言ではないと思います。
    勿論、理念のない口先だけの言葉に力はないが、心とからだ、絶対的に自在するイノチとともに本当に善いと思い、口にした言葉ならば、すぐに事が成らなくとも、目に見えない鎖の輪は善き想いの方向に、密に調和していき、必ずや時節到来を迎えるのではないでしょうか。

    今日は詩人であり、評論家であり、元日本ペンクラブ会長の大岡信氏の文章を紹介します。

     言葉の力        大岡 信

     人はよく美しい言葉、正しい言葉について語る。しかし、私たちが用いる言葉のどれをとってみても、単独にそれだけで美しいと決まっている言葉、正しいと決まっている言葉はない。ある人があるとき発した言葉がどんなに美しかったとしても、別の人がそれを用いたとき同じように美しいとは限らない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものだはなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである。

     京都の嵯峨に住む染織家志村ふくみさんの仕事場で話していたおり、志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれた。そのピンクは淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、はなやかで、しかも深く落ち着いている色だった。その美しさは目と心を吸い込むように感じられた。

    「この色は何から取り出したんですか」
    「桜からです」

    と志村さんは答えた。素人の気安さで、私はすぐに桜の花びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思った。実際はこれは桜の皮から取り出した色なのだった。あの黒っぽいごつごつした桜の皮からこの美しいピンクの色が取れるのだという。志村さんは続いてこう教えてくれた。この桜色は一年中どの季節でもとれるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると、こんな上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。

     私はその話を聞いて、体が一瞬ゆらぐような不思議な感じにおそわれた。春先、間もなく花となって咲き出でようとしている桜の木が、花びらだけでなく、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裡にゆらめいたからである。花びらのピンクは幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの先端だけ姿を出したものにすぎなかった。

     考えてみればこれはまさにそのとおりで、木全体の一刻も休むことのない活動の精髄が、春という時節に桜の花びらという一つの現象になるにすぎないのだった。しかしわれわれの限られた視野の中では、桜の花びらに現れ出たピンクしか見えない。たまたま志村さんのような人がそれを樹木全身の色として見せてくれると、はっと驚く。

     このように見てくれば、これは言葉の世界での出来事と同じことではないかという気がする。言葉の一語一語は桜の花びら一枚一枚だといっていい。一見したところぜんぜん別の色をしているが、しかし、本当は全身でその花びらの色を生み出している大きな幹、それを、その一語一語の花びらが背後に背負っているのである。そういうことを念頭におきながら、言葉というものを考える必要があるのではなかろうか。そういう態度をもって言葉の中で生きていこうとするとき、一語一語のささやかな言葉の、ささやかさそのものの大きな意味が実感されてくるのではなかろうか。美しい言葉、正しい言葉というものも、そのときはじめて私たちの身近なものになるだろう。
                   
          ― 中学校『国語2』、光村図書出版 ― より

    友松 誠。

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  •  言葉について 〜俳句より。

     こんにちは。

    やわらかな若葉が輝き、その息吹が風にのり、薫ってくる季節となりました。
    この風の匂いには、あらゆる生命に分け隔てなく「生きていていいんだよ」と、優しくささやいているような、そんな雰囲気を感じます。気持ちの良い季節ですね。

    私の仕事場のまわりは、何日か前まで菜の花が真っ盛りでした。

    菜の花や月は東に日は西に
              与謝蕪村

    味わい深いですね。五、七、五という型の中で、自分の全身全霊の世界を、言葉でもって最大限に表現する。型は制約とはならず、型があるからこそ、言葉の表現が生きてくる。
    この句を読んで、マイナスイメージを持つ人は、そうそう居ないのではないでしょうか。春の光や、これから始まる生命の息吹。読む人によっては、月と日から広大なスケール感を、またそこから、陰・陽に見立て、万物の創生に想いを馳せる人も居ると思います。単に目で見たものごとの感想を伝えるという次元など超越し、目に見えるものを目に見えるようにしている、目に見えないものごとさえも、宿していると感じます。
    そして、読む人の感性に訴えかけて、その人の中で世界を創造させ、一つの作品として完成させていく。つまり、作者が自己を主張して作品とするのではなく、読む人によって作品となる。
    読む人は同じ時代の、同じ感性をもった人ばかりではない。無駄な言葉をつけるほど、より限定させてしまい、言葉の可能性を狭めてしまう。よりシンプルに、そして、太古から未来に受け継がれる、人間のリズムと同調するように五、七、五の型に納めていく。それが、時代を超え、生活スタイルの異なった人達の中にも響き、その人にとっての最高の作品となるよう、増幅しながら完成していく。
    だから、時代を経ても色あせず、言葉が生きたまま、人から人へ宿るようにして、受け継がれているのだと思います。
     操体とも何かつうじるものがあるのではないでしょうか。

    今回のブログは、言葉について感じた事や、半月前に行われた春季東京操体フォーラムで感じた事などを書いていこうと思います。
    拙い文章表現ですが、一週間どうぞ宜しくお願い致します。

    友松 誠。

    三浦寛 操体人生46年の集大成 [http://www.sotai-miura.com/?p=484:title=“Live
    ONLY-ONE 46th Anniversary”]は
    2012年7月16日(海の日)に開催致します。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定

  • 自分にとって操体とは。・・・まずは、やってみること。

    おはようございます。
    立春をすぎて、かれこれ一週間経ちますが、昼の日差しは幾分暖かくなっても、朝はまだまだ冷えますね。
    朝、雑巾がけをした後は、思わずストーブのところに行き、背中を丸め、ハエが手を擦る足を擦る状態になってしまいます。そして、手を擦り擦りしている自分のからだの状態を、感覚をとおして、知らず知らずに、ききわけている自分がいます。
    「うん?今日は随分と肩甲骨と背中が、かみ合っている感じがするなぁ」
    「う〜ん、いいじゃないか」
    「擦り擦りする手をもう少し、小指側側を利かせてみようか」
    「おっ、そうするともっと母趾球に重心がかかっている感じがききわけられる」
    「うん、いいんでないかい」
    こんな感じで、毎日からだと向き合っています。そして、この後は、般若身経を行うことになる。

    朝は良い。朝は有り難い気持ちで、からだと向き合える。何故なら、夜寝ている間に、からだが色々と調整してくれているからだ。その、からだの無意識による、有り難い働きを実感するには朝が良い。
     このところパソコンに向かって作業することが多かったせいか、昨晩あたりは目が充血し、首のつけねが痛かったが、今朝には目の充血も、首の痛みもなくなっていた。寝ている間に、からだが賢命に全体を調和させながら、ストレスを生じさせている箇所を、修復してくれたお陰だ。有り難いと感じる。自分だけで生きている訳ではないのだ。からだの無意識の有り難い働きにも生かされて、そして生きている。 その、からだの無意識をより活性化させるのは「快」なのだ。つまり「気持ちよさ」。
    橋本敬三先生はNHKラジオ放送に出演した時『「想う」ってのは、気持ちのいいことを想えばいい。厭なことは想いたくないですよ。だから一番気持ちのいいことを考えればいいんで、一番気持ちのいいことは、やっぱり有り難いって思ったときじゃないですか』と仰っている。
    夜寝る前に、その日一日、自分に付き合ってくれた、からだに対して感謝の念が湧いたなら、素直に「有り難う御座いました」と感謝の言葉をとおしてあげれば良いと思う。そうすれば、からだも気持ちが良いのだ。気持ちの良い言葉で、心とからだが調和してくれば、からだはより活性化して、調和へと向かう。否定してはいけない。翌朝、思うような効果が感じられなくとも肯定して、満足すること。想いが我欲を多分に含んでいれば、どんなにからだが尽くしてくれていても、決して満足は得られない。からだが生かしてくれている、ということは紛れもない事実だ。結果よりもまずは、やってみること。
     操体とは、まずは「やってみること」。そして、からだで体感すること、からだから学ぶこと、だと思う。これは、自分の健康管理、自己生成という面だけではなく、臨床にもつうじることだ。何故、操体は臨床効果が高いかといえば、被験者自身がやってみて、「快」を味わうことにより、からだから学んでいるからだ。単にかたちが整う、刺激でバランスがとれる、のとは訳が違うのだ。まずは「やってみる」。自然法則を識り、それに合わせて「やってみること」。

    今回は「自分にとって操体とは」というテーマで、書かせていただきました。
    一週間のお付き合い、有り難う御座いました。

    来週は中谷さんの担当となります。
    来週もどうぞ宜しくお願い致します。

    友松 誠。

  • 自分にとって操体とは。〜個性(個の神性)を尊重し、調和を創造していくこと。・・・4

    おはようございます。

    操体といえば橋本哲学、その「神人合一」の救いの生命観、未病医学を基とした捉え方なくしては、成り立たないと感じます。操体の臨床的な部分である操体法も、やはり橋本哲学なしには成立しません。初期の操体法は、動かしてみて「楽」か「ツライ」かの運動感覚差を確認する、二極対比の分析法でした。しかし、1982年、「気持ちよさをききわければ良いのだ、気持ちよさで治るのだからな」という橋本敬三先生の言葉により、「快」へのシフトチェンジが行われました。この頃の橋本先生は盛んに「気持ちよさ」という言葉を口にされていたと聞きます。
     このシフトチェンジする前の頃に想いをはせると、橋本先生はそれまで臨床では「楽」か「ツライ」かの二極対比の分析法を行ってはいたが、常に「これで良いのか、これで良いのか」と自問自答しながら、自然法則の究明に励んでいたのだと思います。
    この自然法則の究明という事は並みのことではない。橋本先生自身も、昭和54年頃の講演の中で「からだがネ、8つきりしか動かないなんて、そんなことに気づいたのは、よっぽど年とってからですよ、若い時は、わからなかった。ともかく、ゴチャ、ゴチャ、動いていればいい、と思っていた。ところが、考えてみれば8つきりしかない。その動きに、やはり大事なルールがあるんですよ。大事なルール、約束事がね」と話されているように、からだの動きの自然法則の究明だけでも、並みの事ではない。ある一定の研究分野からの見解だけで納得できれば苦労はしないと思うが、「健康体としてのあるべき人間の姿」からの動き、となると途方もないことなのだ。並みの人間だったら、確実に途中で放り出していたと思う。しかし、橋本先生は何年も何年も追求し、更新に更新を重ねながら、からだの動きのルール、約束事に気づいた。その精進の基となったのが「神人合一」の生命観だと思える。求学備忘録の最後の方に「人が正しきにおれば容姿はおのずから端正となり、骨格は整い、筋肉も拘緊するところなく、内臓もその地位に安んじ、機能は互いに相調和して、健康である。」とあるが、「神人合一」の生命観から健康体とはこの様なことを指すのだ、と悟られたのだと感じる。そして、この様な健康体には、からだの使い方・動かし方のルール、つまり重心安定、重心移動の自然法則が自在すると気づかれた。その自然法則に合わせて、からだを動かせば8つしかないということになってくる。
    橋本先生は確かに臨床では、正体術を基に、二極対比の「楽」か「ツライ」かの分析法を行っていた。しかし、同時に、文献でも明らかなように、重心安定、重心移動、連動の法則を説いている。つまり、動かして診るという臨床を重ねる中で、これらの自然法則が自在することをつきとめた。そしてまた、その自然法則を基に動かして診るという、自然法則の更なる究明の中で、観えてきたものがあった。それは、人間を人間の像たらしめているものが何であるかということだった。それがあるから、歪体から健康体へ逆転する自然良能作用がいかんなく発揮される。それに気づいた後も「これでいいのか、これでいいのか」と更に検証を重ね、「間違いのないもの」との確信に至った。それが1982年だったのだ。その確信による言葉が「きもちよさをききわければいいんだ、きもちのよさでなおるのだからな」だったのだと感じる。そして、そこまでの自然法則の究明と精進の原動力となっていたのが、人間一人一人には「神性相続権」が宿るという、救いの生命観と「生命現象創生の中心理念」だったのではないかと思う。
    しかし、この時すでに橋本先生は85歳、手の震えも発症されていたと聞く。70代の頃の様に、その臨床をとおして自分が更に更新してきたことを、みせられる状態ではなかったのではないかと思える。時が間に合わなかったのか、それとも自分のもとで、臨床だけでなく自分の人生哲学を元からしっかり学んだ人達にしか伝わらない運命だったのか。
    今から10年ほど前の平成11年に「哲学する操体 快からのメッセージ」という本が出版されました。その中に、故・橋本敬三先生の教えという項目がありますので、紹介します。
     今から30年も前のこと。私は学生時代、操体法の創始者である故・橋本敬三先生より「生命現象創生の中心理念」、つまり「宇宙生命論」を学ばせていただきました。
     それは、ワラ判紙に波状の輪を描き、「この世界は有機(化合物)より成りて・・・・・ウンヌン」、さらに「この現象の元なるエネルギーは二つの異質なるものの存在より成る。つまりは陰と陽の二極である。・・・・・ウンヌン」、そして「この二極の元なる起源は陰、陽未分の一なるものの存在、つまり太極である・・・・・」というような内容で、当時18か19歳の私には暗記程度にとどめるだけで、深く洞察するといった余裕はありませんでしたが、たびたび説明を受けることで、何か重要なことなのだろうということだけは心に止めていたのです。
     また、それと同じくして、師は科学最高の指導原理とよばれる弁証法や古代文字(ホツマ伝え、相似像)、日本神話、キリスト教の教え(特に救いと報い)などについても学ばせてくださったのでした。
    ―あれから31年。当時学ばせていただいたことが、年とともに輝き出してきたのです。それは“深く洞察して思考していく”という輝きであり、私や人間を知るうえで、あるいはイノチに宿る英知について少しでも学ぶうえで、とても大切だと思えてきたのです。
                       〜三浦寛先生著「哲学する操体 快からのメッセージより。 

    操体法を橋本哲学ぬきで、単に臨床効果が高い、技術、テクニックとして捉えてしまうと本当にもったいないと思います。

    友松 誠。

  • 自分にとって操体とは。〜個性(個の神性)を尊重し、調和を創造していくこと。・・・3

    おはようございます。

    操体法の初期は橋本敬三先生が正体術からヒントを得て、治療法として行われていました。しかし、橋本先生は症状疾患に対する方法論として、操体法を体系づけてきたわけではありません。橋本先生の著書には必ず、人体を四つんばいの獣物動物の図で示し、「人間―この動く建物」と題した診断と治療の原理が載っています。これを見た方なら症状疾患に対する方法論ではないことがお解かりいただけると思います。
    症状疾患は、元々の正体が健康傾斜の歪体化のプロセスを経て、バランスを崩すうちに、現れてきた現象だ。

    そのプロセスは以下のようになる。
    環境の苛烈や自己最小限の責任生活必須条件である「息、食、動、想」の自然法則への背反がストレッサーとなり、心とからだにとってのストレスとなる。そのストレスの度合いによって、健康傾斜の歪体化が起こり、からだは運動系の構造と動きに歪みを生じさせて対処せざるを得なくなってくる。うまく対処できて、間にあっていれば良いのだが、からだの歪みそのものが生体にとってストレスとなり、感覚的バランスを崩してくると問題だ。
             からだの歪みにより感覚的バランスを崩すと
                 ↓      
              感覚異常の発生(A)
                 ↓
              機能異常の発生(A‘)+(B)
                 ↓
              器質異常破壊の発生(A“)+(B‘)+(C)             
         となってくる。

    つまり、症状疾患という病名診断が下されるまでには、プロセスの積み重ねがあるということ。
    現代医学では、感覚異常、機能異常の段階でも症状疾患名をつける人はいるが、統一見解はなく器質異常破壊の段階になってハッキリした診断名と治療方針が決定されていると思われる。そして、このプロセス、特にからだの歪みが原因となっていることは認めていない。からだの歪みというと、他の手技療法家でも運動系の静力学的な構造の歪みには着目しているだろうが、動きという動力学的な面は見過ごされているのではないだろうか。しかし、正体の健康傾斜の歪体化のプロセスは、生体がストレスによって、運動系の構造と動きに歪みを生じさせ、感覚的なバランスを崩すことから始まる。そして、そこから不定愁訴・微症状という感覚異常 → 内部機関の機能的バランスが崩れ、精密検査を必要とする段階の機能異常+(感覚異常の継続) → 病理学的変化つまり内臓の器質的なバランスを崩す、器質異常・破壊+(感覚異常、機能異常の継続) と進行してしまうのだ。
     このプロセスは有り難いことに可逆性となっている。可逆性であるから健康回復のプロセスは、 運動系の構造と動きの歪みを整調復原することにより、第一に感覚異常が消失し、次に機能の働きが正常化され、最終消失として 器質異常変化や破壊も、その程度にもよるが再生、回復の可能性が出てくるのだ。
     この正体の歪体化と健康傾斜の可逆的プロセスの原理は、人間すべてに当てはまると思う。ただ、戦争で銃弾を受けたり、交通事故などで、いきなり器質異常・破壊に向かい、すぐに応急処置をしなければならない様な場合は通用しないかもしれない。しかし、その時点ではお手上げでも、リハビリの分野では大いに貢献できると思うし、社会の理解が今以上に深まれば、もっと早い段階から、運動系の構造と動きの歪みに着目し、バランスを回復させ、健康回復のプロセスをスムーズにしていくことが可能だと思える。実際に橋本敬三先生は、そのような観点から臨床に望まれていたと感じるし、高弟の三浦寛先生は一般的にはお手上げと思われる範囲を狭めるべく、動けない人でも「快」によって調和が成され、バランスを回復させる様、「皮膚へのアプローチ」を体系づけておられる。
     運動系の歪みへの着目は、様々な可能性を秘めている。しかし、運動系の構造だけ診てなんとかしても、時間・空間のかかわりのうち、再度歪んだ状態に戻る頻度は高くなる。また他力暴力的矯正にはリスクが必ず伴うということ。人体は構造があって、まぎれもなく動いているわけであるから、その運動系の構造を動かして診るということは必然であり、理に適ったことなのだ。しかし、もっと重要なのは運動系の自然法則を理解し、感覚をききわけさせるということ。動かして診るにしても、単に動けば良いというものではないし、「痛い」「ツライ」と警報が出ている動きを、そのまま継続させれば壊してしまう。
      人間一人一人は、皆違うし、生活してきた過程も違う。からだの歪みや、それに伴う健康傾斜の歪体度も違う。この症状だから、こうするといったパターンを、とおすやり方では、限られた範囲でしか貢献できないのではないだろうか。このような時代だからこそ、一人一人の神性を尊重し、歪体からの可逆的な健康回復のプロセスがスムーズに進むよう、一人一人に合った臨床が求められるのではないだろうか。運動系の自然法則に則り、動かして診て、本人にしかわからない感覚をききわけてもらい、その「快適感覚」に従うという臨床が、ますます必要とされてくると思う。

    友松 誠。

  • 自分にとって操体とは。〜個性(個の神性)を尊重し、調和を創造していくこと。・・・2

    おはようございます。
    操体といえば、橋本哲学、その「神人合一」の救いの生命観なくしては語れません。
    操体の臨床的部分である、操体法の初期は橋本敬三先生が正体術からヒントを得て、治療法として行われていました。しかし、はたから見れば治療法でも、橋本先生自身は症状疾患に対する治療医学としてではなく、未病医学、つまり健康人が病気にならない為にはどうしたらよいのかという事が根幹にあったと感じられます。

        神その像の如くに人を創造りたまえり
     人は神の像なのである。神の像なる人間がなぜ病気をしたり死んだりせねばならないのか。これは医学の範囲外ではあるが、重要な関係がある。
     人が神性を自己に発見し、よくよくこれを思い、全く神人合一した状態においては、病も死も問題の外に置かれる。そして、その神性が発揮されればされるほど人は健康である。神に病や死がないと同様に、その像である人にも、その通りであるべきはずである。神と人とが同じ像であるとの信念から離れるほど完全な像から遠ざかってくるのは当然のことである。これを迷いというのであろう。迷いが深まるほど、人の生活は神性顕現から遠ざかる故に、健康を害する因子を積み蓄えることになる。像も歪んで来たらざるを得ないわけである。
     正しい衛生栄養療法が成り立ち、精神療法が発現するのも、みなこの帰一の法則にしたがってのことと思われる。
     さて理屈はぬきにしても、人が正しきにおれば容姿はおのずから端正となり、骨格は整い、筋肉も拘緊するところなく、内臓もその地位に安んじ、機能は互いに相調和して、健康である。
                       
      〜生体に歪みを正す 橋本敬三 論想集〜
                                  力学的医学の構想 ―求学備忘録―より抜粋。 

     

     求学備忘録と題して、一番初めにこの文章をあてているあたりに、このことを努々忘れてはならない、と諭されている、と感じます。
     もともと人間一人一人は、絶対なる救いのイノチの元に、この世に生まれてきており、自在する個々の神性は絶対的である。だから元々は健康であり、健康に人生を全う出来るように生まれてきている。しかし、この世(有限界)は相対的であり、他と影響し合いながら共存共栄していかなければ、その存在を保てない世界となっている。その為、影響し合う中で、他と比較対照する価値観も芽生えてきてしまう。しかし、健康とは比較対照するものなのだろうか。例えば、先天的な難病と診断され、余命いくばくもないと知りながらも、生き生きと十分に自分の生を愉しみながら満足して生きている人もいる。逆に、どんなに肉体と環境に恵まれていても、不平不満を口にしながら、この世を去っていく人もいる。どちらが幸福な人生なのだろうか。健康や幸福というものは比較対照して判断するものではなく、自身で創造していくべきものなのではないだろうか。もともとは観世音ではなく観自在なのだ。自分は胎児として母親の腹の中に居た記憶は消失しているが、比較対照することなく純粋に意志と意識により、産まれる環境を選択し、祝福されたイノチとして、快の方向性を感じながら調和を重ねて、この肉体を形成してきた個性真理体だと思う。だから、「オギャー」と産声をあげ、産まれた後も、そのプロセスを尊重していかなければならない。そのプロセスとは積極的に快をききわけ、快に従うという生き方だ。積極的に快に従うには、「息、食、動、想」の生き方の自然法則に従順でなければならない。これは自分だけでなく、誰にも当てはまることだと思う。誰もが個性真理体として尊敬すべき存在だ。この世には、肉体をとおしての歩み方の努力に対する、相対的評価がついてまわるが、その価値観だけに捉われず、自身の神性を信じること。橋本先生の言葉を借りれば「病気なんかねぇ」なのだ。病気は程度の差こそあれ、皆、バランスの崩れだ。だから、バランスを崩さないように、生き方を、自在してある自然法則に合わせ、本来の自由(自分らしさ)を取り戻していければ良いのではないか。そして、お互いが尊重し合い、調和の元に共存共栄を目指していけばいいのだと思う。そして、満足して天寿を全うし、一番きもちのいいところ、つまり祖神の里に帰っていけば良いのだと思う。

    友松 誠。

  • 自分にとって操体とは。〜個性(個の神性)を尊重し、調和を創造していくこと。・・・1

    おはようございます.
    昨日は志村ふくみさんのエッセイを紹介させていただきました。
    私は、一つ一つのまたは一人一人の個の神性を重んじ、ごちゃ混ぜにしては、いけないということを強く感じました。そして、相関相補連動する自然の法則性に逆らうことなく、調和をつくり出していく。
    操体臨床においての診断法にも、つうじるものがあると思います。

    からだの動き(関節の動き)を基本的に分類すると8つになります。
    手関節の場合を例にとると、背屈、掌屈、外旋、内旋、橈屈、尺屈、牽引、圧迫。
    足関節の場合を例にとると、背屈、底屈、外反、内反、外転、内転、牽引、圧迫。
    というように8つとなります。そして局所が動けば中枢神経を介して全身形態が合目的に連動して動きます。これは元来、本能として備わっている機能であり、手関節→からだの中心腰・骨盤→全身という動きの流れとなります。この動きの流れで表現される全身形態の動きも、基本的に8つとなり、この8つの動きというのは極限安定、オクタントとなります。つまり元々は全体が調和して協調的に動くという機能が備わっています。
     それを生かすには一定のルールと約束事が自在するのです。一定のルール、約束事、つまり自然法則を知り、応用して行く必要があるのです。元々、生かされてよりよく生きる為の機能も、その使い方、動かし方の法則に合わせなければ、機能を十分に発揮できないばかりか、健康傾斜の歪体化を招き、時間、空間のかかわりあいに於いて、エントロピー増大に向かい、破壊、破滅を招くことになってしまうのです。ですから、まずはからだの使い方、動かし方の自然法則を知り、一つひとつの動きの自然な連動性の中で、感覚をききわけることが必要になってきます。100点満点の健康度の人間などは、まず居ないと思います。生活の中で誰でも大なり小なり、からだに歪みを生じさせています。その歪体度によっては自然法則に則り、からだを動かしているつもりでも、痛みや不快感が伴うことがあります。そのような時はすぐに中止すること(思い込みは禁物であり、あくまで感覚のききわけを優先すること)。逆に快適感覚がききわけられたならば、十分に味わうこと。
     極限安定の8つの動き、一つひとつは、元々からだ全体が調和する動きです。そして、からだも元々、快により調和が成された神聖な協同体です。ですから、ゴチャ混ぜにすることなく、一つひとつの動きに対して、自然法則を基に快をききわけ、味わえば、からだは調和に向かうのです。そして、その快の質によっては、一つの動きでも全体の調和が成される。その上でバランスも整い、歪みも整復され、不快感を生じた動きもスムーズにとおせるようになってくるのです。これは動きが単にスムーズになるだけに留まらず、症状疾患の改善にもつながるのです。

     ちょっと話は逸れますが、昨日なにげなくテレビを見ていたら、歌舞伎役者の坂東玉三郎さんが「型破り」と「型無し」は違うという話をされていました。自然法則に則り、からだを動かし、気持ちよさをききわけ、その気持ちよさに委ねていると、からだの無意識が発動して、調和に向かう「型破り」な動きとなります。しかし、自然法則の理解とそこまでの手順を省略して「気持ちよく動いてください」と言っても、言われた方は意味不明であり、これでは「形無し」となってしまいます。また、自然法則に則り、からだを動かしていても「気持ちよさを探して動いてください」という言葉を掛けてしまうと、からだを動かして感覚をききわけるという意識よりも、自我の方が上回ってしまい、かえって、からだの要求を無視した不調和を生じさせる動きとなり、これも「形無し」となってしまいます。

     一つひとつの動きを個々単独に独立させて快適感覚の有無をききわけさせる。これを一極微といいます。一極微の問いかけは、手関節から、あるいは足関節という末端から問いかけることにより、右手、左手、右足、左足、各8つとして32通りとなり、他に両手、両足を使う、首を使うというようにすれば更に問いかけ方は増えます。さらに立位、腰掛位、正座位、仰臥位、横臥位、伏臥位、といったポジションの違いでも連動性は違ってきますから、それだけ快に対する問いかけ方も幅広くなります。そして、より連動性を引き出し、よりよく快のききわけを成す為の介助、言葉かけ、意識、イメージの持たせ方、呼吸のとおし方、などを含めていくと、快適感覚に対する問いかけは、操者の調和への創造力により、無限にひろがることになります。しかし、ただ単に快適感覚への問いかけ方を多く覚えれば良いというものではなく、その一つひとつの中身、本質への問いかけが重要です。
     操体法の、法は方法論ではなく、イノチの創造主である太極のおしえ、です。だから、一つひとつのことを、おしえどおりに行っているのか、常に観られているような気がします。
     一極微についてもう一つ説明を加えると、「一極微とは、一にして二、二にして一の太極的な調和を意味する言葉として創り出された。一極微の分析においては、快適感覚のききわけがなされれば、即、操法に入れる」 (三浦寛先生著、操体臨床への道しるべより)

    友松 誠。

  • 「自分にとって操体とは」というテーマを意識して。

    おはようございます。
    今週は比較的に暖かく感じますね。
    今日は午後から、多くの地域で雨が降るそうです。
    私の住む地域は乾燥した日が多かったので、久しぶりの湿り気は歓迎なのですが、先週大雪に見舞われた地域の方々は、雪崩などに十分注意していただきたいと思います。

    「自分にとって操体とは」
    このテーマを聞いて、何を書こうか自分の中で自問自答を繰り返し、日々意識する中で、偶然なのか必然なのか、一冊の本にめぐり合いました。
    染織家でエッセイストの志村ふくみさんの「語りかける花」という本なのですが、染織家と操体臨床家との職種の違いこそあれ、共感共鳴するものが多くあり、大いに学ばせていただきました。
    その中の「織色」というエッセイが、まるで自分の描く操体観のような感じがしたので、今日はそのエッセイを紹介したいと思います。

      織色

     経糸に青を、緯糸に赤を入れて織ると、青と赤がかさなり、青でも
    なく、赤でもなく、やや紫に近い色があらわれる。それを織色と呼ん
    でいる。さらに七彩を七倍に、たてよこ織り成せば無限の織色が生ま
    れる。すこしはなれたところからみると、視覚混合の働きによって真
    珠母色の輝きを得る。色と色は決して混ぜ合せることなく、一つの純
    粋な色として重ね合さるのである。
     かりに経を空間、緯を時間とすれば、我々の日常もまた歓び、哀し
    みの織色である。記憶や夢に、もし色があるとすればそれもまた織色
    であろう。自然現象の中ではさらに神秘な織色があらわれる。晴れた
    日の海が緑翠色に輝くのも、群青色の海と、太陽の光の織り成す色
    である。京都の街をかこむ山々もまた、春の霞にはじまり、夏の驟雨、
    秋の霧、冬の時雨など、緑の遠山にうす青く、水蒸気がかかり、或日
    は灰色のヴェールが、或日はうす紫の靉靆した靄がかかり、遠近の山
    なみは暈繝ぼかしの玄妙な織色を呈する。それはまさにしっとりと潤
    いを含んだ日本的織色の世界である。幸か不幸か私はこの織色の世界
    から宿命的にのがれることができない。それならば私は、色が混り合
    うことを拒み、互いに補色し合い助け合おうとしている色の法則性に
    従順でなければならない。
     人もまた、他者との、かかわり合いにおいて他と混同することなく、
    互いに調和をつくり出してゆくことをそれは示唆しているのかもしれ
    ない。

    今日はここまで、とさせていただきます。

    友松 誠。