カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 権力か愛か。・・・3― 1

    おはようございます。

    操体の臨床には、他の治療法にはない独特の診断法がある。それは動診であり、動かして診るということだ。動かして診るといっても、施術者が一方的に局所関節を動かして、可動域その他をチェックしようというのではない。相手(被験者)に動いていただき、その感覚をききわけていただくというものだ。

    ききわけた感覚が不快であれば、基本的にはすぐに中止する。ききわけた感覚が快であり、その快適感覚が味わってみたいという、からだの要求感覚を満たしていれば、操法としてとおす。

    感覚をききわける(診断する)のも被験者本人であり、ききわけた快適感覚を十分に味わうことでバランス制御をはかり、自然良能作用高めていく(治療)のも被験者本人であり、被験者本人のからだである。

    従って操体臨床の場では、診断するのも治療するのも被験者本人ということになってくる。だから一人で自力自動によって行う場合でも、操者の診たてにより、言葉による指示(お願い)誘導と介助補助を受けながら行う場合でも、自力自療となる。

    つまり、操体法では自力自療が大前提としてあり、それに導くのが操体臨床家であり、操者だ。操者の診たてや介助補助も重要だが、言葉による指示(お願い)誘導も大変重要となってくる。

    操者は診たてに基づき、最快適運動コースにのせ、最高の気持ちよさを味わえるよう、指示(お願い)誘導と介助補助を行うが、(お願い)といちいち書いているのには、それなりの意味がある。指示と命令を混同されては困るからなのだ。

    指示というのは指し示すことだ。被験者本人に自分の動きで勝手に動かれても、からだは反応せず、感覚のききわけは困難なのだ。だから操者は、自然法則に則りからだを使い、そして動かした場合、全身形態はどの様に連動するかということを把握した上で、要所要所で、全身がスムーズに連動するよう指示(お願い)する。そして被験者本人が、からだの感覚を素直にききわけられるように配慮しながら誘導している。

    指示の意味を辞書で調べると、指図(さしず)することという記載もあるが、指図といった意味合いで捉えてもらっては困る。指図というと命令のようなイメージとなってしまう。指示(お願い)としているのは、命令形として受けとめてほしくないという願いもあるのだ。

    なぜ、命令形だといけないのか。それは命令形には、強制や服従という権力的なものや「縛り」といったものがつきまとうからだ。

    例えば、リラックスするように頑張れと命令されても、リラックス出来るだろうか?出来ないと思う。命令には強制の他に縛るという性質がある。

    この場合、「リラックスするように頑張れ」と言われた側は、表面的には従うことはできても、そこから先はどうにもならない。心とからだを縛ってしまうからだ。心とからだが窮屈な状態ではリラックスできないのだ。からだの感覚をききわけるという行為、意識関与にも当てはまることなのだ。

    事を合理的に進めるのならば、命令形はスムーズだろう。しかし、本来の心と、からだは、人間の合理的考え方に向いているのではなく、自然の摂理に向いているのだ。

    本来の心(天に通じる意識)は誰でももっている。だから、先程の例のような場合、人間は命令ではなく、本来の心、まごころというべきもので相手に接しようとするのではないだろうか。

    命令形は捨て、まごころから自然に湧いてくる打算のない労わりの言葉をかけ、そっと肌にふれ、緊張をほぐしてやろうとするのではないだろうか。
    社会的、人為的環境に適応しようとする表面の心の底には、自然環境に適応し、その大自然を愛と調和によって創造した天に向くまごころが、しっかりとあるのだと思う。

     「至誠、天に通ず」という言葉がある。これは、まごころは神をも動かし、良い結果に至るという意味だが、操体臨床の場にそっくり当てはまると思う。
     
     そういう姿勢で相手の心とからだに向き合い、そういう至誠で指示(お願い)誘導の言葉を発する。至誠の誠は言が成ると書く。

  • 権力か愛か・・・2.

    おはようございます。
    今日も昨日と同じ、権力化か、愛かといったテーマで考えていきたいと思います。

    操体及び操体法と権力とは相いれないものだと感じる。特に操体法に関しては、からだにききわけるという事が重要な為、当然、権力にはつながってこない。

    からだを服従させる、からだに強制をする、といった事とは対極にあるのが操体法だ。自力自動で自力自療に導くようからだを動かす場合でも、臨床の場で相手に操体法を受けていただく場合でも、服従とか強制といったものがあってはならない。

    からだの不調を訴える人というのは、それまでからだに対して服従を強要し、無理を強制してきた経緯が必ずあると思われる。権力は長くは続かない。その対象となるからだが、いうことをきかない状態になってくれば、権力うんぬんの問題ではなくなってくる。

    否が応でも、からだに合わせなくてはならなくなってくる。それならば、身心の不調和に陥る前に、自分の考え方や生き方を変えて、健康を増進させ、どの分野であれ自分を高めていくほうが良いのではないだろうか。

    自分ひとりで生きているわけではないのだ。自分を生かしてくれているイノチがあり、生かされて生きているのだ。道元禅師の教えには「鳥の命は鳥にあらづ空にあり、魚の命は魚にあらづ水にある」とある。

    生命現象はバランス現象であり、生かしてくれているものの存在がなければ、その存在はない。からだもその中の一つであり、からだが生かしてくれている多くの存在とバランスをとって、調和へと向いているから自分が存在していると言えるのではないかと思う。

    からだとそれを生かしめる多くの存在には、無条件の愛と自然法則が自在する。無条件の愛と自然法則がムスビとして自在するからこそ、からだを含めた多くの存在は調和の元に成立しているのだと思う。

    だから、自力自動で自力自療に導くよう、からだを動かすにしても、今明らかになっている自然法則を意識して、からだを使い、動かし、からだにその感覚をききわけるようにしなければ意味がないのだ。

    からだは快、不快を元にした感覚で応えてくれる。快であれば、そのまま十分に味わい、不快であれば中止する事。実践して悪くなる危険はないし、やってみて快を味わう程、日々やり続け快の質が高まる程、良くなるのが操体法であり、そこに健康増進の秘訣がある。非常にシンプルだ。しかしシンプルゆえに奥は深い。

    介助者なしで行う場合は、自然法則の理解とそれなりの精神性も求められると思う。自然法則の理解なしに、自分の勝手都合な動きをからだにとおしても、感覚のききわけは困難だと思う。

    いつもの自分の勝手、自分の都合の動きというのは、からだがそれなりに折り合いをつけてくれており、それで気持いいかと問われても、からだからしてみればナンセンスだろう。

    自分にとっての楽な動きというのは、権力的なものが見え隠れする。愛でもって自分に対応してくれているからだと向き合うには、自然法則を意識し、それに基づいた動きをとおしてあげる必要がある。

    自然法則は愛と愛をむすぶ架け橋であり、実を結んだ証が快適感覚なのではないだろうか。そうやって調和は密になっていく。そして日々繰り返すことで、未病を実すことにつながっていくのだと思う。

    また、権力的な強制や服従といったものが、からだに対してあれば、動きも早くなってしまい、感覚のききわけも困難なものとなってしまう。早く良くなりたいという気持ちは解るが、その気持ちが我となり、その欲望を満たそうとすると、どうしても動きが早くなってしまう。 そんなつもりはないと思っていても強制してしまっているのだ。

    感覚のききわけを目的とせず、見よう見まねで早く動いているだけでは、単なる体操だ。快適感覚こそが、最小エネルギーで最大の効果をもたらすよう働きかけてくれるものであり、その質をききわけ、より質の高い快適感覚を味わうという目的意識がなければ本末転倒であり、操体法ではないのだ。

    うまい具合にからだと向き合うのは、時間的にも精神的にも難しいかもしれない。しかし、生かされて生きているという事は紛れもない事実であり、素直にそこに気持ちを落ち着かせ、無条件の愛に想いを馳せながら、からだと向き合ってみるのも、良いと思う。
    きっと何かが変わる筈だ。

    臨床に於いて、相手に操体法を受けていただく場合についても、書こうと思っていましたが、長くなってきたので明日とさせていただきます。

  • 権力か愛か。・・・1

    こんばんは。
    今週は友松が担当させていただきます。
    よろしくお願いします。
    今年最初のブログとなりますが、今年は何かいつもとは違う感じがします。
    世界が変わってきているのか。自分が変わってきているから、感じる世界が変わってきているのか。
    どちらも当てはまるのではないかと思います。

    先日、テレビを見ていて、トヨタ自動車の新型クラウンのコマーシャルが、何か気にかかりました。気にかかるといっても、別にイチャモンつけようというのではないですが、何か、時代の移り変わりみたいなものを感じました。

    確か、30年ぐらい前のコマーシャルは「いつかはクラウン」というキャッチフレーズだったと思います。当時、クラウンに乗る人というのは、ある程度大人で社会的地位もそれなりにある人というイメージがあり、ある種のステータスでした。いつかは、この最上級の車に乗りましょう。そんなメッセージが込められていたように思いました。

    あれから30年の月日が経ち、先日見たコマーシャルは「いつかはクラウン」というようなステータス性よりも、もっと大切なものに気づいた、という内容に感じられました。

    このコマーシャルは、北野武氏とジャンレノ氏が共演しているが、以下のような会話をしている。

    北野・・・「愛は勝つって歌あったじゃん」
    レノ・・・「あった」
    北野・・・「あれ歌う奴、馬鹿にしてたんだけどさ」
    レノ・・・「してた」
    北野・・・「愛は勝つよな・・・って最近」
    レノ・・・「前は権力大好きオジサンだったくせに」
    北野・・・ニヤッと笑みを浮かべる。

     権力とは他人を自分の意志に服従させる強制力を意味するが、その背景にはそれを裏付けるものが必要となってくる。政治権力でいえば、警察や軍隊の物理的強制力が背景にあるという具合だが、一般的には金銭的なものとか、肩書きとか、あってはならないことだが暴力による恐怖といったものが、権力を裏付けるものとなっている。

     だから、権力はそれを裏付けするものがなくなれば、衰退し、消滅する以外にないのではないだろうか。また、権力には服従の対象になる存在が必要となるが、それが無いなら権力も無きものと同じだ。権力は条件付のものであり、永遠にはつづくものではない。それは歴史が証明している事でもある。

     一方、愛はどうだろうか。愛は裏付けを必要とするのだろうか。愛の表現としては、裏付けがあったほうが解りやすいかも知れない。しかし、そこに意識が向きすぎると、打算や見返りといったものにもつうじてきてしまう。本質的な愛は裏付けを必要とはしていない。なぜなら、この生命をはじめ、この世のあらゆるものは無条件の愛から生じているからだ。

     この世のあらゆるものは、愛と調和によって生じ、愛と調和によって成り立っている。この世のあらゆるものの根源を辿っていけば、太極の意志や陰・陽といったものにつながってくるが、陰・陽があるということはその性質上、親和だけではなく、互いに反発し合う部分も当然生じてくる。
     この世に存在する為には、それらが調和しなければならないが、反発し合うエネルギーにも方向・角度を与え、調和和親に向かわせているのが、愛の力なのではないだろうか。愛はこの世が存在する限り、永遠と言えるのだと思う。

    権力か愛、どちらが勝るのか。

    愛は勝つよな」というセリフはもっともだと思う。しかし、それよりも、愛は勝ち負けという相対的な事柄を、超越しているのだと思う。愛がなければ、この世が存在しなくなるのだから。この世という相対的世界にも、それを超越した絶対的な自在があるという事なのだ、と感じる。
     
    操体」の学びをつうじて、このような考えとなりましたが、明日は同じ事柄でも「操体法」の学びをつうじての考えを書かせていただきたいと思います。

  • 最終日。

    おはようございます。
    今回のブログも今日が最終日となりました。初日が十一月十一日ということだったので、(+)(−)から感じたことから書きはじめ、気がつけば一週間となってしまいました。書いていて思ったのは、ものごとの流れは陰(−)かた陽(+)というふうに、流れていれば上手く行くのではないかという事でした。
     一日が活動の動と寝ている静から成り立っているとすれば、静でからだのバランスが整えられる御陰で、活動の動がある。静から動。これを逆に動から静と考えると、何だか凄く自分勝手なような気がしてくる。活動するだけして後は放っぽってしまうイメージが浮かんでくる。それはおかしいと誰でも思う筈であり、そんなことをしていたら、いつか身を滅ぼすという事も想像できると思う。やはり宇宙現象創生の中心理念、天の御中主(+)(−)のバランスの神様は普遍貫通しており、みんな誰でも神様を尊重し、神様に合わせなければ生きていけないことを知っているのだと思う。動から静ではない。静から動であり、静の時空がある御陰により活動できるのだ。静から動を、陰と陽の性質に照らし合わせれば、陰(−)から陽(+)となる。
     また陰陽は、陰は昇り陽は降るという性質もある。誰でも神様を畏敬し拝む時は天を意識すると思うが、これは想念が天へ向き、昇っているということではないだろうか。そう考えれば陰となる。苦しい時、困った時は天を仰げとよく言われるが、上を見上げれば気持ちも晴れ晴れと明るくなってくると思う。地べたにひれ伏して、より低い位置から拝む人達もいるが、より下から、上へと昇る畏敬の念を強めているのかもしれない。人間は根本的に天に唾を吐くような真似は出来ないようになっており、潜在的に天と調和したいのだと思う。だったらそれを素直に肯定すべきなのではないだろうか。例えば、一日の活動が終わり、寝る時になったら、天につうじている自分のからだに対して、「有り難う御座います」の言葉をかけてみるべきだ。その日一日がどんな一日であったとしても、からだが協力してくれていた事には変わりないのだから。そうすることで、静の時空はより良く調和する時空となると思う。ものごとは陰から始まる。
     人間社会に当てはめても、陰からなのだと思う。若き日の橋本敬三先生は、医師でありながらも、東洋医学や民間療法の素晴らしさに触れ、頭を下げて教えを受けたと聞く。そして療法家の人達も、その態度に感服して、喜んで自分で知りえたものを教えてくれたのだという。威張って、上から目線で教えてくれと言われたって、なかなかそうはいかないと思う。人間社会のものごとも陰から入ったほうが、スムーズだと思う。
    それから、明日の11月18日(日)の秋季東京操体フォーラムのテーマは「自力自動・自力自療」だが、自力自動・自力自療に一番大切なのは、からだにききわけるということだ。これも、自分がからだを見下すような態度では、ききわけるということにはつながらない。からだを尊重する意識で心を統合し、からだからの感覚に意識を向け、ききわけるのだ。そして、ききわけた快適感覚に従う。
    ものごとは陰から陽へと流れる、と心掛けたほうがうまくいく、と思う。
     

    一週間お付き合いいただき有り難う御座いました。
    明日の秋季東京操体フォーラムは、実りの秋に相応しいものとなることでしょう。

    来週は中谷さんの担当となります。
    来週もお付き合いの程、宜しくお願い致します。

    友松 誠。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催。

  • 自身の為にも挨拶。

    おはようございます。
    だんだんだんだん寒くなってきましたが、一日のはじまりは元気よくいきたいですよね。
    あんまり気負って肩に力が入ってしまうのも良くないですが、せっかく夜寝ている間にバランスの神様がからだを調整してくれ、新たな自分自身として目覚めているのですから、自身の為にも良い姿勢、良い声(波動)をイメージして、調和に向けて元気よく挨拶したいですよね。それが、まわりとの調和につながるのではないでしょうか。まずは自分と自身の調和からですね。
     細胞単位で考えても、一日一日生まれ変わって2,3年後には、からだ全部の細胞は別物となっているとよく聞きます。からだが一日一日生まれ変わっているのに、気持ちが昨日を引きずっていては、今日の自分自身の調和は不十分です。何かが始まるとき、または何かを始めるとき、終えるときには、挨拶・儀礼をキチンと行うのは、まわりとの調和のみならず、自分自身の心とからだの調和の為にも大切なことだと思います。
     橋本敬三先生も著書の中で、練習時に初めと終りに行なう儀礼は体の中心に力点(重心)を集中するのであって、かくしてこそ体の崩れを防ぐことができるのである。と書いています。

     今日は比叡山・千日回峰行を二度万行した酒井雄哉大阿闍梨の語った言葉を紹介します。

    人は毎日、新しい気持ちで出会える。         
                               酒井雄哉

    「一日が一生」という気構えで生きていくと、あんまりつまらないことにこだわらなくなるよ。今日の自分は今日の自分、明日の自分は明日の自分、と考えれば、今日よくないことがあってもひきずらなくてすむ。
     あんなことを言われた、もうあの人と会いたくない・・・、そんなふうにクヨクヨ思っていると、翌日はもっと会いたくなくなる。向こうにも伝わって、互いに溝ができてしまうんだ。今日はちょっとした嫌なことだったかもしれない。それを明日あさって・・・と持ち越すから、心の中でどんどんふくらんで手が付けられなくなってしまう。
     「今日のできごとは今日でおしまい」
    そう思って、明日は新しい感覚で進んでいけばいい。落ち込んだって、なるようにしかならないんだから、気持ちよくしていたほうがいいじゃない。
     けんかした相手や苦手な相手とすれちがう時には、堂々と出て行って「おはよう!」「こんにちは!」って言ってごらん。向こうがどんな顔しようと、向こうの勝手。こっちはニコニコしていればいいよ。
     そういうふうに何回も何回もやってるうちに、あっちもしょうがないから返事するようになっちゃうよ。たとえ昨日、いけすかないなあと思った人とだって、一日一生、と思っていればまた新しい関係が生まれてくるじゃない。
     今日のことは今日でおしまい。しこりを残さない。恨みを明日に引きずらない。それは国家同士であっても同じこと。一日一日、生まれ変わったつもりで、新しい気持ちで出会うことができれば、世界もきっと穏やかになるだろうね。

     朝日新書刊、一日一生〜 より

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催。

  • 無意識について・・・2。

    おはようございます。
     朝のお目覚めはいかがでしょうか。寒くなってくると、なかなか布団から出たくなくなってきますが、目覚まし時計が鳴ってから、あと10分あと5分あと1分、ガバッと起きる、大慌てというのは、あまり良くないですよね。車だってオートバイだって、いきなりガバッとアクセル全開にしたら走りません。しかし、人間の場合ある程度、間に合っている健康状態であれば、それができてしまうんですよね。そして、それが当たり前と思えてしまう。けれど、それって当たり前ではないんですね。法則があるんですものね。法則違反をすれば、からだは何らかのサインを出しますが、いつも大慌てで、それを無視していると、そのうち当たり前と思っていたことが、当たり前に出来なくなってきてしまいます。本当は有難い事なんですよね。操体を学んでいると、つくづくそう感じます。夜寝ている間にも、からだの無意識はバランスを整えてくれているんですものね。その働きに報いる為にも、法則に則った、からだの使い方、動かし方を朝起きる時から意識する、ということですよね。法則を意識して動こうとすれば、からだの感覚をききわけながらとなりますから、当然ゆっくりとなります。だから少し早めに目を覚ますこととなります。面倒くさいと思うかもしれませんが大丈夫です。からだの無意識の有難さを想い、何時に起きなきゃとしっかり意識すると、そのうち目覚まし時計の少し前の時間に、パッチリと目が覚めるようになってくると思います。昔から早起きは三文の得と言うではありませんか。その三文は毎日の複利により莫大な利子と元本になるかもしれませんよ。

     前ふりが長くなってしまいましたが、橋本敬三先生が「生体の歪みを正す」の310ページに書いている文章を抜粋します。
    私どもが眠ると、ほとんどすべての人は、さまざまな寝相を示します。それも時々刻々変化します。これは潜在意識が力学的に体の歪みを調整しているのです。ですから、寝相が悪いといって子供の寝相をなおしてやると、せっかくの自らなおそうとしている、それこそ天の御中主(+)(−)のバランスの神様の邪魔をして、疲れがとれないで、翌朝、子供の機嫌が悪いことがあります。大人でも同様であります。

    余程の動きの達人でない限り、活動中に様々な姿勢で動作し、或る一定の組織の疲労や骨格関節をはじめとするからだの歪みを生じさせている。

    * 疲労に関して橋本先生は、疲労というのは或る一定の組織に老廃体液が貯溜  して、異常(+あるいは−)な緊張感覚が起こるものと思う。と「生体の歪みを正す」の106ページに書いている。

     その疲労や骨格関節をはじめとするからだの歪みを、寝ているときに様々な寝相をすることにより、体重力を利用して、骨格関節をはじめとするからだの歪みを調整し、疲労を和らげている。これは、からだの無意識の行なってくれていることであり、無意識以外にこれ程のことは出来ない。
     この310ページの抜粋した文章には、潜在意識とか天の御中主(+)(−)のバランスの神様という言葉が出てくる。このことからも、無意識とは単に意識のない状態のことを指しているのではない。無意識のうちに何が在り何が起こっているか、という事が重要なのだ。
     潜在意識は、心の極く表面に現れている氷山に一角のような表在意識と違い、無数の記憶と経験を包蔵しており、単独自己のみならず全人類をふくむ宇宙意識と根底において連なっているという。正にからだの無意識であると思う。からだの無意識は全人類共通であり、宇宙現象創生の中心理念が普遍貫通したものであると思う。
    天の御中主とは古事記に出てくる神様の名前だが、宇宙現象創世の中心理念を指す。理念をもって(+)(−)が設定され、異質のもつ親和反発性すなわち愛と調和により、万象は具現化されたのであるから、(+)(−)のバランスの神様という表現は、大変に的を得た言葉であると思う。
    無意識というのは、正に人間に与えられた天恵であると感じられる。単独自己のみならず、全人類の味方であると思う。そして、良くなるように良くなるように動かしてくれたり、誰にでも愉しんで生を全う出来るように働きかけている。どう働きかけているかといったら、宇宙現象創生の中心理念を現象の世界の人間にもわかりやすいように、自然法則というかたちで働きかけている。自然法則を尊重した上で、現象の世界を生きようとすれば、現象の世界でも愉快で調和した象を現せる。しかし自然法則を無視して、現象の世界での単独自己の我の欲望ばかりを優先させると、中心理念から離れてしまう。中心理念から離れれば、バランスの崩れになるということだ。バランスの神様は、みんなに普遍して貫通しているのだから。だから、寝ているときをはじめ、無意識のうちにバランスの神様が、からだを調整してくれているとはいえ、それを当たり前とせず、バランスの神様の意志を尊重する事が最も重要なのではないでしょうか。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催。

  • 無意識について・・・1。

    おはようございます。
    昨日は、一日一日生まれ変わりながら、生きていかなければならない、と書きましたが、特別病気していないかぎり、誰でも活動の動と寝ている静があり、一日となっていると思います。
    動の世界は意識を中心とする世界であり、静の世界は無意識の世界だと感じます。動の世界は意識を中心としていても、無意識に支えられている。無意識は動の世界でも静の世界でも、休みなく働いている。有難いことだと思います。無意識に支えられて一日を生き、無意識によって一日一日生まれ変わることが出来ているのだと感じます。
     この有難い無意識ということについて、橋本敬三先生も「寝相」「癖(くせ)」と題して執筆されたり、その他の執筆でも折に触れて無意識の天恵について書いている。
    「生体の歪みを正す」本のの349ページには、
    無意識の反応はバランス存続的に作動する。あらゆる動植物は皆そうしている。動物では自律神経がそれに関与する。けれども、人間の生命現象のなかで、呼吸、飲食、身体運動、精神活動の四つには意識関与が可能であり、天然法則性の識別、把握を可能にしている。無意識にも、或る程度、時間・空間的に生存は許されるが、突発事故対応性は保証されていない。
    と書いている。
     これは活動の動の世界の時のことを表していると思う。覚醒時の行動は意識が関与するが、意識よりも表面的な心(自我)を関与させて、バランスを崩している人が多いと感じる。これは、からだのことをかえりみず、社会的あるいは人為的な対処ばかりに、心が働くからだと思う。
    からだには自然法則が貫通しているが、無意識はそれを認知した上でからだの調和、心とからだの調和の為に働いている。しかし、心が社会的・人為的な対処ばかりに捉われてばかりだと、自然法則に背反する行いにもつうじてくる。自分自身が生活の中で最低限責任をもって営まなければならない「息」「食」「動」「想」を蔑ろにしてしまうということだ。ここに、からだにとってのストレスから病気への、健康傾斜の歪体化が進む要因がある。無意識はいつも調和に向けて働いているが、自分の心の持ち方で無意識の有難い働きを反故にしてしまっているということなのだ。他の動植物に見習うべき点は大いにあると思う。
    しかし、生活の中の行動全部を無意識に委ねてしまえば良いというものではない。物質的にこれだけ豊かになった現代では、人間同士の取り決めにも対応しなければ、突発的事故対応性は保証されない。交通ルールを守らなければ、重大な事故を引き起こすというのはその典型だし、その他にも個人のおかれた環境により色々あると思う。ではどうしたら良いか。「息」「食」「動」「想」それぞれの自然法則を知り、より複雑化していく現代社会の中でも、それをしっかり意識して、応用して対応していくという事であり、人間同士の横のつながりを尊重しつつ、自然法則という縦軸をしっかり意識する、もしくは縦軸をしっかり意識してから、横のつながりに対応するということだ。
    有難い事に、しっかり調和できれば「気持ちがいい」という感覚で、からだは応えてくれるように出来ている。

    *   
    どんどん複雑化し便利にはなったが、その分ストレスを抱え込まざるをえない現代社会に於いて、どうしたら現代社会と自分自身が調和できるか。それを「息」「食」「動」「想」の自然法則から、刻々と変化していく現代社会に対応できるものへと応用し、人為的面でも社会的にも貢献しているのが東京操体フォーラムです。そしてそれを公開する場が、来る平成24年11月18日に開催される秋季東京操体フォーラムであり、今回のテーマは「自力自動・自力自療」です。
      秋季プログラム 

    人間も他の動植物と同じように無意識を基盤としている。しかし、人間だけは道具を使うことから始まり、文明を繁栄させる能力を与えられている。私達も先人から培われた繁栄にあずかっているわけだが、その中で健康とともに、それに見合った心を育めているのだろうか。人間社会の横のつながりばかりに心が捉われ、絶対的なものとのつながりを無視して、常に不安にかられていないだろうか。意識を向けるとよく言われるが、意識を向ける時には意識で心を統合しなければ、意識を向けるとか、意識するという事にはならないと思う。その意識は無意識とつうじた意識という事であり、その時の自我を中心とする心の状態からの意識は、意識と呼んではいても別物であり、その場合は心が向くということだと思う。
    人間以外の動植物にも心はあると思うが、その心は無意識からつながる意識により統御されているのではないだろうか。人間も横ばかり知ろうとしていないで、自然法則を知り、縦につながる無意識と上手く付き合っていく必要がある。その上で横に意識を向けてみると、横のつながりはもっと、良いものへとなっていくと思う。文化、文明の新しい創造をしてきた人達というのは、そういう人達だと感じる。
    寝ている時の、静の世界での無意識に関しては、明日とさせていただきます。 

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催。

  • 大罪。

    おはようございます。

    昨日は最後に、「救い」→「報い」→「救い」という図を書かせていただきました。
    これは、私達が絶対的な救いから生じ、相対的な報いの世界を生き、絶対的な救いに帰っていくことを簡単に表したのですが、思い違いをしてほしくないことがあります。それは、報いの世界で生きるのが辛いから、自ら命を絶って絶対的な救いに行こうなどとは、絶対に思わないでいただきたいのです。
    そんな考えを持ってしまっては、せっかく絶対的救いからイノチをいただいている意味がない。
    それに、今こうして、生きて、呼吸しているのも、それぞれのすべてのイノチに絶対的な救いが普遍貫通しているから、生かされて、呼吸していられるからなのだ。
    800年前の禅僧、道元は「鳥の命は鳥にあらづ空にあり、魚の命は魚にあらづ水にあり」と言った。
    人間は空気がなければ、すぐに生きていられなくなる。空気があるから呼吸ができて、生きていられる。
    空気は人間がつくったものではない。絶対的救いによって生じたすべてのイノチがつくったものであり、絶対的救いが普遍貫通しているすべてのイノチがつくっていくものだと思う。人間もその中のイノチであり、イノチの循環の一員なのだ。
    自分の思惑で息を止めて死のうとしても、先に酸素不足で意識が遠のいてしまい、その間に不随意的にからだが呼吸する為、死ぬことはできないと聞いたことがある。
    自分の思惑とは別のところで、からだや自身のイノチ、それと相関相補しているすべてのイノチが、絶対的救いの元に、死なせないのだと思う。
    すべてのイノチが、ここにいていいんだよ、と言っているのだ。
    だから、自分がどんなに辛く感じていようとも、イノチを想い、自然に息を引き取るその日まで、一日一日生まれ変わりながら、生きていかなければならない。
    どの教えにもあるように、自殺は大罪なのだと思う。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催。

  • 「救い」はもともと。

    おはようございます。
    昨日のブログの中で、神とか陰陽未分の一(太極)の意志という、人智を超えたものが自在することを認識しなければ、宇宙の根源である太極の説明は不十分なものとなってしまうと書かせていただきました。
     神と書いているが、私は神という表現をすると読んだ人が、どういう感じ方をするか不安になる時があります。勿論、絶対的自在、絶対的救いを表現する際、こう表現するしかないと思う。しかし、今の世の中では相対的な基準での神への信仰が一般的となっていると感じるからなのです。
     キリスト教なども一般には、本来の教えよりも、解釈する人間の心理(理想が高いゆえに過剰に罪悪感を持っている)や時の権力との兼ね合いもあり、次第に相対的基準をもとに、「報い」の面ばかりを強調したものとなって、今の世に伝わっている感もある。
     これは、若き日の橋本敬三先生の時代でも、一般的にはそうだったようで、「生体の歪みを正す」の375ページには、このようなことが書かれている。
     自分の見たところでは、一般キリスト教会において説かれていることは、人類は神の前に罪悪を犯しているものであるから、聖なる神は、いかに愛であっても、そのまま人類を赦して、これと交際したり、永遠の生命を与えてやることはできない、仕方がないから罪のない自分のひとり息子なるキリストを人間の形にして、この世に生まれさせ、これを十字架にかけて人類の身代わりとして罰を加え、罪の処分をした。この身代わりになったイエス・キリストを自分の救主と信じて、神の前に立つならば、神はキリストの犠牲に免じて、信じたものだけを神の子として受け入れてくれるのだ。信じないものは天国入りは許されない、気の毒ながら地獄行きにする。人類のうち純粋の神の子は唯一人イエス・キリストだけで、これを信じたものが準神の子として天国入りのパスポートを与えられる、というのであるらしい。 
    このあたりを読むと、一般的には随分と前から「報い」の強調された教えとなっていたと感じる。
    別に一般的にひろまっているキリスト教を悪く言うつもりは更々ないし、この個人の利益(欲)ばかりを優先させる現代社会にあっては、現世での周囲に対する感恩報謝の行動、道徳という面に於いて素晴らしいものがあると思う。
    しかし、このような「信じたものは救われる」という言葉に代表される相対的な価値観だけでは、確固とした自分自身のイノチというものには結びついてこないと感じる。常に罪を犯す不安からは逃れられないだろうし、自分は死んだ後、現世での報いをどう受けるのだろうかという不安からも逃れられなくなると思う。
     橋本先生も青年時代、5年間も悩みに悩んだという。そして23歳のある日に、大きな皮表紙の聖書を二冊もボロボロになるまで読みつぶしたという無名の牧師・平野栄太郎先生から、エペソ書にある「世の創の前より我らをキリストのうちに選び・・・愛をもて己が子となさん事を定め給えり・・・」という聖句を教えられて、豁然として目が覚めたという。そして、平野先生から「救い」と「報い」の区別を、はっきり教えられたという。
    本来はキリスト教も、人間あるいはすべてのイノチは、生まれぬ先から、聖別され祝福された神と同格の永遠の生命そのものである、という「救い」の教えが元になっているのだと思う。
    「救い」と「報い」。橋本先生は、「救い」は絶対、「報い」は相対だ、ということである。「救い」とは絶対の無罪宣言であり、神性相続権であり、何ものも覆すことができない久遠の事実である。
    と著書の中で書いている。
    このことからも、太極を神に例える場合、絶対的な救いの神なのだ。信じたものは救うというような条件付の神ではないのだ。条件付の神とは人間がつくってしまった偶像なのではないだろうか。
    人間のつくった条件付の神では、先程書いたように罪を犯す不安からは逃れられなくなるだろうし、自分は死んだ後、現世での報いをどう受けるのだろうかという不安からも逃れられなくなると思う。条件付の神のもとでは、安心は得られないのではないだろうか。何よりも、神の前で罪を犯しているという前提のもとでは、自分自身のイノチというものの尊厳にはつながってこない。それではイノチというものを軽んじてしまうのではないだろうか。生きる自信にもつながらないと思う。
    罪を認識し、自分以外のイノチを尊重することは大切なことだ。そして感恩報謝の行動も道徳を守るという事も、人間として生きる上で重要ことだ。しかし、その前にこの世に存在している自分が、どのようなものであるかを知ることは、もっと重要なことなのだ。自分自身の確固とした存在の根拠をもつというのは大変重要な事だ。自分自身のイノチは、絶対的な救いである太極から生じ、陰陽分極の相対的な現世を生き、そして絶対的救いの太極に帰っていくのだと思う。
    「救い」→「報い」→「救い」であり、いきなり「報い」から「死んだらどうなるのだろう?」ではないのだ。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催.

  • 太極について感じたこと。

    おはようございます。
    今週は友松が担当させていただきます。一週間どうぞ宜しくお願いします。 

    今日は11月11日ですが、なんだか前にも1がゾロ目になる日に、ブログを担当したことがある気がします。確か、11と11を漢字で書くと十一と十一となり、+(プラス)−(マイナス)に見えることから、電池の日となっていると書き出した記憶があります。今回も+(プラス)−(マイナス)をつうじて、感じたことを書こうと思います。

    −(マイナス) と+(プラス)ということから、すぐに脳裡に浮かんだのが、陰と陽ということなのですが、陰と陽が何故あるのかというと、太極の意志によるのだという。
    太極の意志の、太極とはどんなものなのだろうか?
    これは「古事記」に、御身をかくし給いきとあるように、在るということはわかるのだが、お姿はみえないということで、自在なのだと思います。
    そのお姿がみえない自在を、どう説明するかは大変だと思う。
    易をはじめ、陰と陽とか太極について説明している書籍は沢山ある。皆それぞれ、素晴らしい事が書かれていて、大変勉強になるのだが、一つ気になることがある。
    それは、文章は素晴らしいのだが、それを図によって説明すると、読み手の太極のイメージが固定的となってしまうような気がするからなのだ。
    よく見かけるのが、太極という字を丸で囲み、そこから棒線を2本引き、一方は陰、一方は陽としているものだ。そしてその殆どが、はじめに太極から陰と陽に分かれると表現している。ここから想像すると、太極とは陰の気と陽の気が合わさった一つのものというイメージが浮かんでくる。そして、いきなりそれがビッグバンのように二つに分極するイメージも浮かぶ。そうなると、じゃあその一つの気のかたまりみたいなものは、どうしてできたのか、誰が創ったのか、それとも、それは偶然できたものなのか。ということになってくると思う。
    このあたりは、宗教とかも色々と絡んでくる為、一般向けの書籍としては、誤解のないように、あえてそこまでは言及しないのかもしれない。
    しかし、その根源的なことを追求し、一般向けにも書き記したのが、操体法の創始者、橋本敬三先生だった。
    「救い」と「報い」の識別について悟った橋本先生は、著書の中でも度々、この根源的な事柄について記述している。
    例えば「生体の歪みを正す」の284ページにはこう書かれている。
     東洋の考え方では、陰陽はもちろん二つの異質のものではあるが、二つは必ず相対して存在し、大きく見れば、これは一つのものである。時に二つの面として現われる。二は一にして、一は二だと言う。陰陽未分の一なるものを太極と言う。この太極が万物発祥の源だと言う。 
    ここまでは、陰陽や太極に関する一般的な書籍でも、同じようなことを記載しているが、分かれるという表現はしていない。
    そして、ここから続けて、
    太極は無極無限であり、無限界のうちに陰陽の現象が展開するのであって、現象のうちには無限が貫通普遍していると言うのである。 
    と書いている。
    ここまでのことは一般的な書籍では、なかなか書かないと思う。そして、ここまでくると、一つのものは一つのものでも、それまでの一つのもの的なイメージを超えていかなければならなくなる。そして一つのものが、そのまま分かれるというイメージも、拭い去らねばならなくなってくると思う。時間や空間もないが、この世のものはすべて在り、この世でこれから起こることも、過去に起こったこともすべて在るという一つのものなのかもしれない。無極無限そこに陰陽の現象が展開する。
    それを図にしたものが、285ページに描かれている。興味のある方は一見されたし。
    文章をつづけると、
     私はこのことを思い浮かべて、西洋の最高原理よりも東洋の考え方の方が一段上だと思った。そして宇宙と言っても現象界のことであるが、そこに神が普遍しているというのは、なるほど本当だと思った。神は愛だというが、愛とは陰陽の親和のことであって、ムスビというのはこのことだと思った。聖書に「元始に言あり、言は即ち神なりき、万物これによりて成り・・・」とあるが、言が宣せられるということは、陰陽未分の一なるものの意志が陰陽二質を現わして、そこに運動が起こり、物象が形成せられることであろう。 
    つまり神とか、陰陽未分の一(太極)の意志という、人智を超えたものが自在することを認識しなければ、宇宙の根源である太極の説明は不十分なものとなってしまうのだ。
     目に見えるもののイメージのままだと、相対的世界観を超えることができない。しかし、絶対的世界は自在する。絶対的自在、絶対的救いがなければ、相対的世界である現象界は存在しない。イメージが3次元空間(相対的世界)を超えられないのであれば、ただただ感じるしかないのだと思います。それは普遍貫通しているのだから。
    また380ページで少し言葉を変えて説明しているものも抜粋します。これも一つのものが、そのまま分かれるというイメージではないことを現していると思います。
    神は実相理念をもって万象を創造したのであるが、無限界(太極とも言う)のエネルギーに陰陽を設定し、陰陽分極によってこの異質のもつ親和反発性を波動に変えて現象を具現化させたのである(太極は陰陽未分、二にして一、現象は一にして二なる陰陽が分極して発したもの)。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催。