カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 同じ時代を生きた二人。

    おはようございます。

     昨日は掃除について書きましたが、掃除といえば、経営の神様とまで崇められた松下幸之助氏も、とにかく掃除を重要視していたようです。
     松下幸之助氏の掃除に関する発言や逸話は多々ありますが、PHP研究所の松下理念研究部長の渡邊祐介氏によれば、松下幸之助氏は掃除というものを仕事観や人生観のみならず、自然・宇宙観と関連づけて考え、人間としての成長に役立つものと確信をしていたとのこと。

    『PHP Business Review松下幸之助塾』2012年3・4月号の渡邊祐介氏の記事から引用すると

    『これほど真剣に、かつ熱心に掃除を推奨したのは、松下の自然・宇宙観によるところも大きいと思われる。松下は、万物を創造し、存在せしめるものとして宇宙の根源を想定し、その力のもとにすべてが生成発展していくと考えていた。宇宙根源の力は、自然の理法としてわれわれ人間の体内にも脈々と働き、一木一草のなかまで生き生きとみちあふれている。しかがって、季節の移ろいも自然の理法によるところであり、何ごとも自然の理にかなった方法によれば、必ずうまくいくという哲学である。
    松下は、松下幸之助商学院において掃除を導入するにあたって、「1年間同じ時間、同じ場所で掃除をしても夏には夕立が降り、冬には枯葉が落ちるといった自然現象の違いを掃除を通じて感じるもの」と語っていた。掃除を実践するなかでそれぞれが作業のコツをつかむ工夫をこらす努力をしていれば、おのずと自然の理法に即した物事の道理を模索し、理解することに繋がり、より人間力を磨く修行となっていくのではないか。』
    と書かれている。

     この文章を読んでいると、ピンと来るものがある。言葉の表現こそ違うが、その自然・宇宙観、哲学は、操体の創始者、橋本敬三先生の想念、思想、哲学とよく似ていると感じる。
     松下幸之助氏は明治27年に生まれ、平成元年に御他界。橋本敬三先生は明治30年に生まれ、平成5年に御他界。戦争を含む激動の時代を、ほぼ同時期に、この日本で生きておられたことになる。
     お二人の境遇や歩んだ道のりは勿論違う。生涯をかけて成してきた事、かたちにしてきた事にも当然違いがあるが、その根底にある思想と、それをもとにした心の持ち方には共通したものがあるのではないか、と思えてくる。

     その思想の根底にあるのは、やはり「オレがオレ我」の思想ではないということ。常に自分を生かしてくれている、自分以外の、目には見えないが絶対的に自在してあるものがあり、それによって生かされて生きているという捉え方。絶対的に自在してあるものとは、宇宙の根源という言葉の表現であったり、太極であったり、サムシンググレートであったり、神仏ということになってくる。

     しかし、神仏といっても「困った時の神頼み」という言葉に表されるような、そんな自分本位の甘えた神仏観ではない。自分も他者もすべてのものは、この世に生まれる前から救いの成立したイノチであり、この世に出でてからも、皆平等に愛とその法則を享受しているという、真理に直結する非常に素直な考え方なのだと思う。そこから、苦労を苦労とは思わず物事を前向きに捉えられる強さと、勤勉さ、他者へのやさしさが、かたちづくられたのではないだろうか。

     その例として一つ挙げれば、松下氏は病弱な面があったという。しかし、それをプラスに変えて商売を成功させてきた経緯がある。『人生談義』という著書の中で、「病と健康」と題して書いているように「自分が病がちだから先頭に立って商売をするにもそれができない。どうしても自分の代理に頼んで仕事をしてもらうことになる。そうなれば、十人にも百人の人にも頼めるし、非常に多くの仕事ができるのですな」ということもある。
     しかし、これは松下氏だから、まわりの人達が協力してくれたとも思える。そのような人格を持ちえた松下氏を、かたちづくったのは、先に挙げた真理に直結する心の持ち方なのだと思う。

     同じ「病と健康」という文章のなかでも、最期にこのようなことが書かれている。
    「万物は日々生成発展をしているのです。それがほんとうの姿だと思うのですね。ですから、病も、老いも死さえも生成発展の姿である。そういう見方をすると、いやだ、いやだと思っていたものがいやでなくなる。敵のように思っていたものが、やがては味方になるということになります。
    何ごともこだわってはいけませんね。素直にありのまま見るということですわ。病とはそのような気持ちでつきあっていきたいと思いますね。」

     一方の橋本敬三先生も、病と健康ということについて「病気なんかねぇ」と言い放っていたと聞く。そして、『生体の歪みを正す』の著書の中で、このような事を書いている。
    「人が神性を自己に発見し、よくよくこれを思い、全く神人合一した状態においては、病も死も問題の外に置かれる。そして、その神性が発揮されればされるほど人は健康である。神に病や死がないと同様に、その像である人にも、その通りであるべきはずである。神と人とが同じ像であるとの信念から離れるほど完全な像から遠ざかってくるのは当然のことである。これを迷いというのであろう。迷いが深まるほど、人の生活は神性顕現から遠ざかる故に、健康を害する因子を積み蓄えることになる。像も歪んで来たざるを得ないわけである。」

  • 掃除。

    おはようございます。
    今週は友松が担当させていただきます。
    一週間どうぞよろしくお願いいたします。

    今日は今年最期の日曜日という事で、しっかり大掃除をして、新年を迎えようという人も多いのではないでしょうか。

     先日、インターネットを開いたところ、ニュース欄に「「なぜかいま、掃除する経営者が増えている」というトピックがあった。クリックして記事を開いてみると、「カレーハウスCoCo壱番屋」の創業者の方が紹介されていた。
     この方は、創業した企業の経営を順調なまま後進に譲り、名古屋に私財を投じて音楽ホールを建て、現在はそこのオーナーをされているとの事。
     そして、駅からホールまでを毎日掃除しようと思い立ち、以来6年、雨の日も風の日も台風の時も休むことなく、ゴミを拾い、雑草を抜き、花を植えるのを趣味にしているのだという。

     この方は、インタビューに対し「掃除をして悪いことはひとつもない、ただ辛いだけです。他人に勧めても、まぁやらないですよね(笑い)。それでもいいんです。花が咲いていても気づかない人だっているんです。掃除をやるのはその地に根を下ろすこと、心がこもっているということの表現。実は掃除には即効性はないけれど、ジワジワと姿勢がよくなってくるんですよ」と語っている。

     さすが、長い間毎日一つの事をきらさずコツコツ続けてきた人の言葉だと感じる。姿勢というのは、肉体的、形態学的なことを指す場合もあるが、物事に対する向き合い方、態度を指す場合もある。その場その時によって意味合いは違っても、別々ではなく密接に係わり合っている。形態学的姿勢は、感情や呼吸によって大きく変化するのであるから、物事への向き合い方、態度、というのは非常に大事であり、そういった精神的な面が姿勢となって現れている。

     掃除というのは、日常生活の中で不可欠の行為である。「そんなの無くてもいい」という人も居るかもしれないが、掃除が出来るという事は人間である証でもある。他の動物は、毛繕いは出来ても、身のまわりの整理整頓をしたり、きれいにする事など出来ないのだから。

     そう想うと、掃除をするのは単なる美意識からではなく、人間の品性からであるような気がする。やさしさをはじめとする品性だ。物に対するやさしさ、物を使う人へのやさしさ、思いやり。
     どんな物でも汚れたままにしておけば、その機能を十分に発揮できなくなり、廃れるのも早い。使う人もその影響を受けてしまう。
     物も人も全てが快適な方向へと向かえるよう、空間調整するのが掃除であり、他の動物からしたら神と同じような所業をしているのかもしれない。だから掃除もより良く発展していくものでなければならない。

     そして、その業は品性を磨く業であり、その時々、時節が変わろうとも、その空間に存在する全てが、快適な方向へ向かって調和できるよう、毎日続けることに意義があるのだと思う。その時候によっては手が傷むほど、水が冷たい時候もある。カンカン照りで立っているのさえ辛い時候もある。
     このような肉体的な辛さから、やめたくなる時もあるだろうが、創意工夫して続ける。手元に何もなくとも、からだの使い方、動かし方、息のつき方を自然法則に準じて応用するだけでも、肉体的辛さは和らぐのだから。

     また、「何でこんなものを、こんなところに捨てるんだ」とか「せっかく綺麗にしたのに、何でまたすぐに汚すんだ」と怒りの感情を露わにしたくなる時もあるだろう。
     しかし、そんな時もやさしく、その空間の存在する全てが快適な方向へ向かって調和できるよう掃除を続ける。そこに精進があり、品性も磨かれる。
     そして、この方の語るように「実は掃除には即効性はないけれど、ジワジワと姿勢がよくなってくるんですよ」という事につながってくるのだと思う。

    釈迦も掃除の功徳について、次のように説いているという。
    ・自心洗浄・・・自分の心が清められる。
    ・他心洗浄・・・他人の心まで清めることが出来る。
    ・諸天歓喜す・・・周囲の環境が活き活きしてくる。
    ・端正の業を植ゆ・・・周囲の人の心も物事も整ってくる。
    ・命終の後、まさに天井に生ずべけん・・・死後、必ず天上に生を受ける。

  • 般若身経と心の調和。

    おはようございます。

     昨日は、般若身経と他の健康体操的なものとの、違いについて書きましたが、昨日書いた事以外にも、般若身経には大きな特色があります。

     それは、からだに感覚をききわけるという事。自然法則に則り、からだを使い、動かすという意識をもって取り組んでも、この感覚のききわけがなければ、意味を成さなくなってしまう。
     例えば、一つの動きをゆっくりと、とおしてみて、どこかに痛みや不快感が生じたならば、その動きは一旦中止する事。「こうしなければいけない」という固定観念で、そのまま続けてしまうというのが一番良くない。
     何故なら、痛みや不快を感じるという事は、からだは「それ以上やってほしくない」という、サインを送ってくれているからだ。このサインに耳を傾けないと、かえってバランスを崩してしまう。

     これは不快に従う必要はないという事を、からだが示してくれているのだと思う。不快に従えば、不快な方向にバランスが傾き、バランスを崩すという事。逆に、快に従えば、快の方向にバランスが向き、より良いバランスとなる。
     「そんなこと言ったって、不快な事もしなければ生きていけないだろう」と言う人もいると思う。しかし、その不快な事というのは、心の表面の部分だけで、判断している場合が多いのではないだろうか。そして、心は移ろい易い。だから、からだにききわけるという事が重要になってくる。

     心の持ち方も重要だ。心の営み、つまり「想」も、「環境」と「息」「食」「動」の調和のうえに成り立っている。
     現代人は、「環境」との係わりに於いて、人為的環境、社会的環境との係わりの比重が、とても多くなってしまっている。その分、暮らしも豊かで便利なものと、なっていると言える。しかし、その反面、精神的ストレスを、生じさせやすくもなっている。
     心の問題を心の持ち方だけで解消できれば、それに越したことはないが、なかなか上手くいかないのが実情だと思う。
     しかし、心は単独ではなく、他の「息」「食」「動」とつながっているのだから、感覚をとおして快に向けた調和をはかっていけば良いのではないだろうか。
     心を一人ぼっちにさせておく必要はない。

     それには「動」で調和をはかるのが、一番取り組み易いのではないかと感じる。いかんせん「食」では、欲につながりやすく、その時は気分が良くても、後々、心とからだを気持ちの悪い方向に向け、更にバランスを崩す可能性がある。気分が良いという事と、気持ちが良いという事は違うのだ。
     また「息」での心の調和のはかり方は、それなりの修練が必要となると思う。その修練も、からだのツクリと動きを自然体に近づけるよう、バランスを調整してからの方がより効果的だと思う。

     心の動きとからだの動きは、同時相関相補連動性であり、心とからだは中枢神経を介してつながっている。だから、心の調和をはかるにも「動」から入るのが一番手近だと感じる。
     また、手近にする為にも「般若身経」を基に、からだと、感覚のききわけをとおして、向き合うことだと思う。
     感覚をとおして、つながりや係わり方は変わる。つながりや係わり方が変われば、当然、質も変わる。からだの細胞は80兆個あると言われるが、その一つ一つを構成する原子や原子核にも意志と意識があるのだから。
     それを快に導くのか、不快に導くのか。快によって、より良く調和するのか。それとも不快によって不調和を生み、衰退するのか。
     感覚をききわけるという事は、それほど大事なことなのだ。そして大事と思うか、思わないかは、心の在り方にかかっている。
     
     
     般若身経は、からだの使い方、動かし方の基本法則であり、そこから身体運動の法則の究明が成されてきた。その究明は、創始者橋本敬三先生から、高弟である三浦寛先生に引き継がれた。
     橋本先生の時代は身体運動の法則というと3法則1相関性だった。それでも間に合っていたのだと思う。しかし近年では、先日の「操体曼荼羅」で、三浦寛先生から発表があったように、8法則、8相関性となっている。
     それだけ現代社会が高度に複雑化し、身心のバランス、特に心の調和と身体とのバランスを保つのが難しくなっていると言える。何よりも良心や真心といったものがオブラートに包まれ、心の隅に追いやられてしまっている感もある。だから、より自然法則を細かく突き詰めて究明し、満を持して発表されたのだと思う。

     人間は不変で普遍的な自然環境に適応することを根本に、その時々の自然環境、そして人為・社会的環境にも適応していかなければならない。これだけ環境が、以前と変わったものとなってくると、人間もレベルアップする必要があるのではないだろうか。
     例えば、ほとんどの人は、本来の脳の機能を5パーセントぐらいしか生かせていない。それでも、これだけの知性を育み、文化も発展させてきたのは凄い事だ。
     しかし、あとコンマ数パーセントでも生かせれば、もっと様々な環境に適応でき、より快適に生命活動を営むことが、出来るのではないだろうか。
     良心や真心を、より手近で親密なものとし、心の調和と身体のバランスとの調和を、より良くすることで脳の機能も高まる。そんな可能性を8法則、8相関性は秘めていると思う。

    一週間、お付き合いいただき、ありがとうございました。
    暑い日も多く、パソコンの前で文章を読むだけで、汗が滲んできたと思います。
    また、この一週間は、自然の猛威をまざまざと、見せ付けられた週でもあったと思います。
    集中豪雨、竜巻。被害に遭われた方も、いらっしゃるかもしれませんが、どうか快に向け、舵をきって進んで頂けますよう、お祈り致します。

    明日からは中谷さんが担当されます。
    来週もよろしくお願いいたします。

  • いきなり、「動く」ではなく。

    おはようございます。

     昨日、からだの使い方、動かし方にも、純然たる生かされし自然法則が自在する。と書いていますが、それを表しているのが「般若身経」です。

     般若身経は、健康体操的なものではなく、エクササイズでもない。これらに共通する事は、「動く」という面から、いきなり入ってしまうという事だと思う。
     つまり、からだを使うという事とからだを動かすという事が、識別されずに、いきなり「動く」から入ってしまうという事。
     どの様にからだを使えば良いか、という事をすっとばして、いきなり動きに合わせるという構図だ。

     これは、ある程度の健康状態を保っている人ならば良いだろう。しかし、みんながみんな、ある程度の健康状態を保っているとは限らない。
     また、ある程度の健康状態を保っていても、これではバランスを崩し、異常感覚を伴うからだの歪みを生じさせてしまう人も出てきてしまう。

     操体法の創始者、橋本敬三先生は「お経のように、からだの使い方、動かし方にも法則があるんだ」と言われていたと聞く。つまり、「動」の自然法則は、「動く」だけにあらず、また、からだの動かし方、使い方でもないという事。使い方を基に動かし方がある。

     自然環境には、生命の存在とは切っても切れない、不変で普遍的なものがある。空気、重力、水、など。これらから成る普遍的自然環境に適応すべく、からだは設計されている。からだはツクリがあって動く。その設計にミスはない。
     まずは、そのツクリを普遍的自然環境に適応させるべく使うこと。つまり、からだを使う場合「全身の重力をからだの中心に近づけるということ」が基本となる。

     そうするにはどうしたら良いか。どう使えば、普遍的自然環境と、それに適応すべく設計されている、からだとの合致が見出せるか。
     そこから始まり、自然(からだを含む)から教えを受けながら気づきを得、気づいたものを繰り返し、繰り返し検証し、間違いないものと確信に至ったのが、からだの使い方の自然法則である、重心安定の法則だと思う。
     自然法則というのは、考案するものではない。自在して在るものを知るということだと思う。

     手は小指側側を、足は親趾側側を利かせるように使えば「全身の重力をからだの中心に近づけること」という基本条項を満たすことが出来る。そして、腰・骨盤が、文字通り要となるよう、重心を安定させることが出来る。
     この重心安定の法則を基に、からだを動かす。からだが動くとは要が動くことであり、この動かし方にもルールがある。 せっかく、腰・骨盤が要となるよう重心を安定させても、重心のかかり方で、からだのツクリは大きく変化してしまう。これが自然体から遠ざかる(歪む)要因ともなる。

     からだが最も安定した状態(極限安定)となる動きは8つしかない。前屈、後屈、左右側屈、左右捻転、牽引、圧迫。
     この8つの動きそれぞれに、要、つまりからだの中心腰・骨盤の必然的な移動が伴う。この事について究明したものが、からだの動かし方の自然法則である重心移動の法則である。

     橋本敬三先生は「からだがネ、8つきりしか動かないなんて、そんなことに気づいたのは、よっぽど年取ってからですよ、若い時は、わからなかった」と語っていたと聞く。それ程、自然法則を知るという事は、並大抵のことではないのだと思う。

     橋本敬三先生が、この様に語っていたと聞いても、自然という事に対する意識がなければ、なんの事やら意味がわからない、となってしまうと思う。
     しかし、不変で普遍的自然環境と、それに適応すべく設計されている、からだとの係わりを基とすれば、適応すべくからだを使い、動かし、適応できる動き(極限安定)となるのは8つきりしかないという様に感じられる。
     その他の動きは、自然環境とからだの係わりに適応しない、自分本位の動きという事になってくる。

     しかし、それでも間に合うのは、自分の意識の至らない無意識の領域で、からだが自然環境に適応しようと働いてくれているからだ。有難いことだと思う。有難さにつつまれ、生かされて生きている。
     しかし、有難さを無視したり、有難さに胡坐をかいていると、相応の報いがある。それは、異常感覚を伴うからだの歪みという事。これが病気、すなわち健康傾斜の歪体化への第一歩となってしまう。

     だから、からだの使い方、動かし方の自然法則を知る事。知った上で「般若身経」として実践し、健康の基、つまり、からだの歪みを自然環境に適応すべく、正していく事。
     そして、快適感覚のききわけを基に、自然体としてのあるべき姿を問いかけていくこと。それが、より良く身心のバランスをとっていく事や、健康増進につながる事だと思う。

     橋本敬三先生は、健康増進の倫理と題した論文のなかで
    「生命体が自然環境に適応するということ、これは生命の至上命令であるから、この絶対原理は自然の救いになっているのである。」と書いている。
    この事は、深く心に刻み、意識したいと思う。

  • バランスという事を考えてみる。

    おはようございます。

     昨日は、スポーツを土台として、バランスをとるのではなく、バランスをとってからスポーツをやる、という考え方のほうが良いのではないか、と最後に書かせていただきました。

     スポーツに怪我はつきもの、という話は良く聞きます。怪我をしない為に、準備運動をしっかり行う。良い事だと思います。
     ただ、その準備運動が、怪我をしない為だけの目的でなく、怪我は勿論、異常感覚を伴うからだの歪みの予防の為にも、身心のバランスをとる。
     また、好調子を持続させる為、より自然体に近い状態をキープするという事まで高められれば、と思うのです。
      

     その為には、自然環境に適応すべく、自然法則を知り、それに合わせていこうという意識が必要になってくる。
     周囲の環境は、人によってまちまちだ。民族単位で見たら、それこそ大きな違いが出てくる。それはそれで良い事だと思う。自然環境も地域によって少しずつ異なるのだから、その地域に適した文化の発展や習慣があって良い。これは尊重すべき事だと思う。

     しかし、自然環境には、どこの人々にも共通する普遍的なものがある。とりわけ、どこの誰でも、空気で満たされ、重力の作用を受け、生命を育み意識に反応する水がある、という恩恵を受けている。
     それらの恩恵を受けて、「息」「食」「動」「想」の生命活動を営むことが出来ている。これも、誰にでも共通する普遍的なことであり、誰もが生かされて生きている。
     そこに純然たる生かされし自然法則が自在する。これも普遍的なことであり、「生きている」と我を張る前に「生かされている」という事実に想いを馳せる事が必要だと思う。
     
     「動」つまり、からだの使い方、動かし方にも、純然たる生かされし自然法則が自在する。からだは構造があって動く。それも普遍的な自然環境に適応すべく設計されている。
     そしてその設計にミスはない。人は無重力状態のところに行くと、骨は10倍の速さで衰えると聞いたことがある。
     それだけ普遍的な自然環境との結びつきが強いということであり、その様に設計されている、という事だと思う。

     だから、その設計に基づいた使い方、動かし方がある。準備運動も自然法則を知った上で、それを応用したものでなければならない。
     いや、本来であれば準備運動という概念を捨てて、生活動作全般にわたり、「動」の自然法則を応用し、感覚をききわけながら、日常動作を作法化していくべきものだと思う。そうしなければ、真の自然体(健康体)としての身心のバランスというものにはつながらない。

     上辺だけの身心のバランスだけを言うなら、こんなにまどろっこしく、自然環境との係わりから始まる説明などする必要はない。
     しかし、本来の身心のバランスとは、自然環境と生命活動との係わりを無視しては成立しない。自然法則を知り、想いを馳せ、意識する事。その上で、感覚をききわけながら日常動作を作法化していく事。

     からだの動きは「動」だけで成り立っているわけではなく、他の「息」「食」「想」ともつながって成立している。
     そして、これらは同時相関相補連動性となっている。これは、あるものが悪くなれば他のものも悪くなる性質と、あるものが良くなれば他のものも良くなる性質を意味する。ここに、自然法則を知り、より良くバランスをとっていく為の鍵がある。そして、その時々の様々な「環境」と係わり合っている。

     その時々の様々な「環境」には、スポーツをしている時の環境も、当てはめる事が出来る。その環境におかれた状況に柔軟に対応し、尚且つ能率的である。そして事が終わった後も、異常感覚を伴うからだの歪みを生じさせることなく、疲労も最小限に収まる。
     そんな身心のバランス状態が理想だと思う。これはスポーツだけに限らず、他の事にも当然当てはまる。その根本にあるのは、普遍的自然環境への適応と自然法則への順応。

     より良く身心のバランスをとるという事は、一朝一夕には行かない。しかし一朝一夕に行かないから、面白いとも言えるし、愉しいとも言える。
     それだけ、より良くなる伸びしろが、あるという事。100点満点の人間などいないのだから。
     感覚をききわけながら、快の方向へ、より良くなる様にバランスをとって行けば良い。誰でも意識行動意欲さえあれば出来ることであり、人間としての本音の部分が求めている事でもあるのだから。
     取り組む中で、相応の成果は感じられると思う。但し、欲張らない事。バランスは間に合っている事こそ最良なのだから。

  • 年頭放談より・・・2

    おはようございます。

     昨日、橋本敬三先生の「年頭放談」より抜粋した文章の中に、トリムという言葉が出てきました。文中で、トリムとは船のバランスをとることを由とする語で、人間身心のトリムをとって行こうという運動である、と書かれています。

     これを読み、私は、生命としての営みが、自然環境に適応して、満足して行われるように、身心のバランスをとって行こうという運動、と想像しました。
     そう、大海原という自然環境の中で、その環境に適応するようバランスをとり、風を受けて進む帆船のように。

     しかし、調べてみると、想像とはちょっと違う印象を受けた。
     トリム運動は、1967年にノルウェーで始まった。そして、同じ60年代にヨーロッパでは、みんなのスポーツ運動というのも起こっている。だから、ヨーロッパ各地、世界各国に普及する過程で、みんなのスポーツ運動を土台としてバランスをとる、という意味に変わっていったような感じを受ける。

     国によっては、トリムの意味は刈り込むとか整えるといった捉え方となるので、尚更、肉体の形を整えるよう体力作りに励む、そうすればストレス解消にもなる、という意味合いになるのではないかと感じられる。

     こうなると、自然環境に適応した身心のバランスという事には、つながらなくなってしまう。何故なら、スポーツは人間が考案した施設や技術、ルールに則って営まれる、遊戯・競争・肉体鍛錬の要素を含む身体や頭脳を使った行為だからだ。(参考・・・wikipedia

     みんなのスポーツ運動が起こった背景には、自動化社会の成熟と、そこから情報化社会に移行する中で、人々の生活と労働全般における省力化、オートメーション化が進み、運動不足による健康と体力の低下が著しかったという事。都市への人口集中、過密化に伴う人間連帯性の喪失、管理労働下での人間疎外などの問題があったという事。
     それらの問題に対してスポーツを奨励し広く普及させ、健康と体力の増進と、人間疎外、人間連帯性の回復を目的として起こったのがみんなのスポーツ運動だという。

     つまり、背景には人為的、社会的につくられた環境と、人間の生命活動とのアンバランスによる、不具合がある。そして、それをスポーツという人為的なもので解消しようというものだ。
     しかし、人間をはじめ、すべての生命は自然環境があって成立している。人為的環境や社会的環境も然り。自然環境がなければ成立しないという事。
     だから人間が係わり、人為的、社会的につくられた環境と人間の生命活動とのアンバランスによる、不具合が生じたならば、自然環境という原点を振り返り、バランスをとるよう対策を講じる必要があったと思う。

     どんなに科学技術が発展しようとも、人間は天と地の間で生命活動を営まねば存在が成立しない。天地の間には自然環境があり、その自然環境に適応する為の自然法則が自在する。
     とりわけ、人間の生命活動の中で「息」「食」「動」「想」は他人に変わってもらえぬ自己最小限の営みであり、「息」「食」「動」「想」それぞれに自然法則が自在する。
     そして自然法則に合わせようとしなければ、一つ一つの営みが生体にとってストレッサーになりうる。だから自己責任がある。

     ここまでは自己の問題だが、人間は自然環境に手を加えて、周囲の環境を創りあげる能力も有している。
     それも一人ではなく大勢で協力し合って、大勢がより良く暮らせるよう、環境を整えていく。そこに、自然環境とともに、人為的環境と社会的環境が生じてくる。
     より良い暮らしを求めて生じた人為的・社会的環境も、自然法則から外れる生命活動を強いるようならば、生体にとってストレッサーとなる。

     ストレッサーとはストレスの要因となる事柄だから、生体がストレッサーに反応した時ストレスとなる。
     ストレスが積み重なると、異常感覚を伴うからだの歪みをはじめとして、身心に変調をきたしてしまう。逆をいえば、ストレッサーに反応しなければストレスとはならないという事になる。
     しかし、それではかえって何らかの支障をきたす。だから、ストレッサーに反応しても、ストレスを訴えるような状況にならない、柔軟で適応力のある身心の状態を育んでいく必要がある。この状態こそが健康状態だと思う。

     この柔軟で適応力のある身心の状態というのは、いかにして創られるか。それは、自然環境に適応するべく自在する、自然法則を元とした「息」「食」「動」「想」と「環境」とのバランスで創られる。
     このバランスは100点満点である必要はない。ただし、間に合うようにバランスをとること。

     説明が少々長くなってしまったが、何を言いたかったかというと、人為的、社会的につくられた環境と人間の生命活動とのアンバランスによる、不具合が生じたならば、自然環境の立場からも考え、自然法則を元としたバランスをとるよう対策を講じる必要があるという事。 人為的なもので問題を解決しようとしても根本的な解決にはならないと思う。
     スポーツのことを悪く言うつもりはない。スポーツには良い面も沢山ある。その良い面をより良く引き出すには、スポーツを土台としてバランスをとるという考え方ではなく、バランスをとってからスポーツという考え方の方が良いと思う。

  • 年頭放談より・・・1

    おはようございます。

     昨日は、国の負債が1000兆円を越えたという事から、国の歳出の中で大きなウェートをしめる社会保障関係費について書きましたが、この現状を約40年前に見越し、費用の事はさておき、一人一人が人間としての尊厳をもって生を全うする大切さを説いた人がいました。
     それが操体の創始者、橋本敬三先生です。

     40年前というと、社会保障の大幅な制度拡充が実施され、老人医療費無料制度や高額療養費制度などが導入された頃と重なります。
     卑俗な見方をすれば、橋本先生も医師だったので、これらの制度を受け、患者も引き手あまたとなり、経営も順調で、さぞや裕福な暮らしが出来たのでは、と思うかもしれません。
     しかし、橋本先生はこれらの制度を良しとせず、逆に苦言を呈している。それが約40年前の昭和51年に「年頭放談」として、東北日報に掲載された文面です。これは、物療内科・非保健医・温古堂として載せている。

    「生体の歪みを正す」の418ページにも、載っていますので、一部抜粋します。

    世の中、不満不服で要求要求の声ばかり強く、票につながる議員どもは、先のことなどどうでも、自分の首が可愛ければ、デマンドにペコペコ。やれ高福祉だ何だと御機嫌とりに懸命だ。
     愚老は老人がキライだ。老人といっても人におんぶしたがる老人のこと。体力的に衰えた老人に活動を求めるわけではないが、少なくとも奉仕の念のない老人はきらいだ。
     山崎朋子の書く「サンダカン八番娼館」に出てくる敗残の唐行さんのおさき婆さんの心境、現在己れの悲惨な境涯にあって、なお他人様の幸せのみを神仏に祈る崇高な姿を見れば涙が止まらない。
     せめて他人様のために祈る心をもちたいものだ。地獄に住んでいながら仏様になっている。有難や有難や。
     福祉福祉でただただ経済援助をするのが福祉ではない。せめて老いても、なんとか他に迷惑をかけぬように生の終りを完うできるような態勢を進めて上げるが本当の福祉でなければならない。
     五十年末に元通産次官の佐藤滋氏が音頭を取って、日本医師会と民間健康運動推進団体と経政界のトップが会合して、トリム運動を展開する相談がきまった。
     トリムとはスウェーデン語で船のバランスをとることの由だが、人間身心のトリムをとって行こうという運動である。

     時代背景を思い出しながら、この文章を読むと、老人医療費無料制度が有効だった時は医療機関が高齢者の社交場と揶揄されたりもしていた。病院に行ったら「○○さん、今日は来ていないけど、どこか具合でも悪いのかしら」という会話を聞いたとか、聞かないとか。
     それほど、無料なのだから受診しなければという人も多く、早急に受診しなければならない人が受診できない状況ともなっていた。その事に対する抗議の気持ちもあったと思う。

     しかしそれよりも、単に「楽」になる事ばかりを先行させると、かえって堕落を招き、人が人として自律した生き方が、出来なくなってしまう事への、憂いの心情が感じられる。

     何よりも、健康とは自らの責任に於いて克ちとるべきもので、自分自身で創造していくものだからだ。その為に、原始感覚が誰にでも備わっている。良くなるように、良くなるように動きたいという本能をもった、からだも有している。そういった天恵を思い起こし、バランスをとっていけば良い、ということだと思う。

     頑張って鍛え直すという事ではない。全然違う。お歳を召されているのなら、尚更無理は禁物だ。介助してもらわなければ、成らない状態であったならば、介助してもらえば良い。無理せず介助してもらうべきだ。
     しかし、自分自身の感覚というものは、自分にしか解らない。ここのところはキチンと自分で感覚をききわけるべきだ。そうでなければ自律につながらない。支えてもらって「楽」をしているだけとなってしまう。

     橋本敬三先生も、晩年は高齢の為、日常生活で動き回るにも、他の人からの介助を必要としていた。その度に「有り難い」「有り難い」と感謝の言葉を口にされていたという。
     そう言われれば、介助する方も迷惑とは感じないだろう。誰でも齢はとるし、お互い様なのだから。感謝の念は勿論、奉仕の念も込めて「有り難い」と口にされていたのだと思う。

     そしてこの「有り難い」は、他の人の優しさに対して言っている事は勿論だが、その優しさが自身のからだに響いて「快」と感じられる事にも「有り難い」と言っていたのだと思う。
     からだの感覚のききわけであり、これも一つの操法だと思う。「快」をききわけ、味わい、心とからだのバランスをとって行く。

     これだけで魔法みたいに10歳も20歳も若返って健康になるということはないだろう。
     しかし、状況に見合った、間に合ったバランスをとることにはなる。それが継続的となれば、結果的に長寿や満足して生を完うする、ということにもつうじると思う。

     今日は最後に、医道の日本誌に掲載されていた「歴史に残る斯界の人々 其の三十五 橋本敬三」という特集記事の中のものを抜粋します。

    橋本は95歳で老衰によりこの世をさる。橋本雄二氏は孫として、主治医として晩年を見守っている。

    「寝たきりになってもベッドの中で動いて最後の最後まで操体をやっていました。驚いたことに褥瘡や関節拘縮も起きなかった。最後まで西洋医学的な治療は何もしませんでしたが、自宅で家族に見守られ、治療家にふさわしい穏やかで人間として自然な最期を見せてくれました」

  • 1000兆円超。

    おはようございます。

    何日か前に、今年の6月末の時点で国の負債総額が1000兆円を越えたと耳にした。
    単純計算すると国民一人当たり792万円の負債を抱えていることになるという。
    負債の大半は国債によるものだが、税収で歳出を賄えないから、国債を発行する。
    国債には利子が付く。その債務と歳出を賄う為に、また国債を発行して借金する。
    繰り返しているうちに、どんどん膨らんでいく。

     この国債を返したり、利子を支払ったりする額が、年間約22兆円。国家予算が約92兆円として、この国債費だけで24パーセントを占めるという。
     その国債費を上回るのが、医療、年金、福祉、介護、生活保護などの社会保障関係費で年間約29兆円。こちらは31パーセントを占め、一番多く使われている。

     一時期、無駄使いが大きく取り上げられていた公共事業関係費は6パーセント弱にすぎず、国債費と社会保障関係費が、いかに膨大かが解る。そして、これから訪れる超高齢化社会の事を考えれば、益々その額は増えていくのは明らかだ。

     今までどおりのやり方では、いつか破綻の時がくる。国債を発行して、景気をはじめ、あらゆる面で「楽」になったとしても、「楽」は長くは続かない。「楽」をした分だけ「苦」は待っている。

     今までの考え方、意識の持ち方を変えていかなければならない。もう社会全体レベルでみても「楽」では通用しない時代になってきているのではないだろうか。

     「楽」をしたい。「楽」をさせたい。とりわけ日本人の場合は、「楽」をさせたいという想い。親、兄弟、子供に「楽」をさせてやりたい、その為に頑張ろう、という想いが強かったと思う。それが、急速な戦後復興を可能としたのかもしれない。
     しかし、復興を遂げ一定の水準まで成長すると、今まで「楽」に向け、ガムシャラに頑張ってきた事による歪みが、あちらこちらに生じてきてしまったようだ。
     そして借金につぐ借金。苦<楽<苦<楽<苦・・・。

     これからは「楽」ではなく、「快」をききわけ、それに従う生き方が主流とならねばならない。そこから、一丸となって「快」に向かうという意識を柱とし、その為に個人がどうするか、ということを考えていく必要があると思う。

     とりわけ、社会保障関連費の医療、福祉、介護。この分野の「楽」から「快」へのシフトチェンジは急務だ。これはサービスを提供する側ではなく、受ける側、特にこれから受けるであろう人達の意識を変革していく事が重要だという事。

     サービスを受ける人達が「楽」を求めたままならば、サービスを提供する側も「楽」に留まるしかない。
     専門色が強い分野だけに一般の人達は、専門家に任せたほうが確実と思い丸投げしてしまう。その方が診る方も診られる方も「楽」だろう。
     しかし、自分のからだの事は自分のからだが一番良く知っている。感覚をつうじて自分のからだと向き合うという事が非常に重要なのだ。そして「快」をとおして、心とからだのバランスを調整していくこと。
     つまり未病の段階で病の芽を摘んでしまうという事だ。そうすれば応急処置的な治療は別として、医療、介護などのサービスを受ける頻度は、おのずと減ってくる。

     サービスを受ける側が、器質的異常が認められるまで、自分のからだと向き合おうとしない。サービスを提供する側も器質的異常が認められてからのサービス。
     これでは、元の状態に回復するのに、時間とそれなりの費用がかかる。考え方を変える必要がある。健康診断で異常がないから良し、とする考え方も然り。その前に手を打つ。日々手入れをする。

     面倒くさいから異常が出るまで放っておくのは「楽」だろう。しかし「楽」をした分だけ「苦」は待っている。手入れは難しいものではない。気持ちよさ、つまり「快」をききわければ良いのだから、誰でも出来ることだ。

     大多数の人達がそうするようになれば、社会全体の在り方も変わってくる。「楽」を基準に考えても、もうどうにもならない。「苦」があっても、「快」の立場から物事を判断し、「快」に向かわなくてはならないと感じる。

  • 攻める守備。

    おはようございます。
    今週は友松が担当させていただきます。どうぞ宜しくお願いいたします。

    8月も終わり、今日から9月ですね。
    相変わらずの暑さが続いていますが、夏の終り特有の、何か寂しい感じがするような、そんな感じがします。日が暮れるのも早くなり、近所のプールからの歓声も聞こえなくなり、高校野球も終わってしまいました。
    高校野球といえば、私の地元の県の代表校が大活躍でした。
    とりたてて、早い玉を投げるピッチャーがいるわけでもなく、凄いスラッガーがいるわけでもないチームでしたが、あれよあれよという間に、準決勝、決勝と進み、初出場ながら、最後は優勝してしまいました。

    見ていて感じたのは、試合の流れが傾きかけてきたら、早々に立て直すことが出来るという事。それを可能にしたのがチームのスローガンである「凡事徹底」という事。当たり前のことを、当たり前にやるのではなく徹底して行う事。それを日々行う事で、一つ一つのプレーが堅実なものとなり、「攻める守備」を可能なものとした。

    印象的だったのは、相手チームがスコアリングポジションにしようと、送りバントをした時、通常はバッターを1塁でアウトにすれば良しとする場面でも、2塁に送球して1塁ランナーを刺し、あわよくばダブルプレーにしてしまう。これが非常に多く、文字通り攻める守備だった。

    考え方によっては、守備はいくら良くとも、守備で点が入るわけではなく、最高でも0点だ。しかし、点の入るのを防ぐ、それをもう一歩進めて点の入る状況をつくらないようにするというのは、点を入れるのと同じくらいか、それ以上の価値がある。

    相手チームからしたら、さぞや、やりづらかったと思う。小さなチャンスをものにし、得点に結びつけるのが攻撃のセオリーであるならば、そのチャンスの芽を早々に摘まれてしまう事ほど、嫌な事はない。調子の波に乗り畳みかけるという、攻撃の流れを遮断されてしまい、尚且つ精神的な落胆も生じさせてしまう。

    一方、果敢に攻める守備により、チャンスの芽を摘んだ方は、意気も高揚し、実力以上の力を発揮できるようになる。実際に、大量得点につながる場面を最小限に抑えた後ほど、攻撃に転じた時は、打順に関係なく会心の一打が出て、同点、逆転となった場面が多く見受けられた。

    攻撃は最大の防御という言葉は、よく耳にするが「攻める守備」というのは、あまり聞いたことがなかった。しかし、何だか未病医学という事や、からだとの向き合い方にも、つうじるものがあると感じた。からだの守備、つまり手入れを徹底し、病の芽を早々に摘んでしまおうという事。操体の真髄もここにある。起死回生のホームランを打つことも出来るが、それだけを良しとせず、起死回生などという状況をつくらぬ事こそ最良とする。

    病の芽とは、不快感を伴うからだの歪みであり、これを早々に正していく事。不快感は、感じられているのだから、「快」つまり「気持ちよさ」がききわけられないことはない。自然法則を意識して、積極的に「快」をききわけていく事。不快と手を組み落胆してしまうと、病は調子の波に乗ってしまう。そうさせない為にも、日々手入れをして、流れを「快」に引き戻すこと。それが未病医学からみた「攻めの守備」だと思う。

    凡時徹底を意識して、未病を治す < 未病を実す。

  • 般若身経からはじまる・・・4。

    おはようございます。

     操体法は、創始者橋本敬三の「気持ちよさをききわければいいんだ
    気持ちよさで良くなるのだからな」という発言によって、従来の
    「辛い方から楽なほうに動きを操る方法」である第1分析から、
    一つ一つの動きを個々単独に独立させ、からだに快をききわけさせる
    一極微の分析法、つまり第2分析へと深化と進化が成された。

     ここでいう深化と進化とは、身体運動の法則の3法則、つまり重心
    安定の法則(からだの使い方の法則)、重心移動の法則(からだの動か
    し方の法則)、連動の法則のうち、連動の法則での未開拓の部分を重心
    安定の法則、重心移動の法則、つまり「般若身経」をより深めていく
    ことによって、連動の法則が明確ものとなったという事。そして、連動
    の法則が明確なものとなり、それを臨床に応用することで一極微の
    分析法が成り立つこととなり、気持ちよさの問いかけに適う、第2分析
    へと進化したという事。
     
     進化というと、より複雑化することを連想する方もいると思う。
     確かに「辛い方から楽なほうに動きを操る方法」である第1分析は
    二者択一的であり、それに比べて一極微の第2分析は一極一比な為、
    分析法の数としては倍になる。しかし、からだが自然良能作用を
    発揮し、良くなるには「楽」ではなく「快」という事が明確になって
    くると、第2分析の方がシンプルでストレートなものなのだ。
     わざわざ楽の動きを確認してから、快に対する問いかけをする必要
    などないし、快がききわけられれば、即、操法に入れるのが第2分析
    なのだ。
     
     第2分析は、気持ちよさに対する問いかけをシンプルでストレート
    なものとしている。それを可能としているのは、からだの使い方、動
    かし方の法則である「般若身経」からはじまる身体運動の法則である。
     第一分析の頃は、身体運動のうちの連動の法則に未開拓の部分が
    あった為、熟練度や経験値といったもので、その効果に開きが出ていた。
    しかし、気持ちよさで、からだが良くなるという事実が明確なものと
    なり、連動の自然法則も明確になってくると、操体法の臨床(臨生)は
    「自然法則の応用、貢献」という操体の大前提が基になっているという
    事が、より明確なものとなってくる。テクニックという捉え方ではない
    ということであり、キチンと取り組めば誰でも効果があげられるという
    ことなのだ。誰でも自然界の一員であり、自然法則が自在してあるお陰
    で生かされて生きているのだから。
     
     その取り組み方は、身体運動の自然法則を知り、「般若身経」という行
    をとおして、自らのからだで体感していくことが大切と思う。
     からだに歪みを生じさせていない人などいない。特に文明社会に生きる
    我々は、生活の営みのなかで、必ず歪みを生じさせている。それを正体に
    近づける様、自然法則に則って身経の行をとおす。そして快、不快という
    原始感覚を研ぎ澄まし、感覚をききわけていく。その土台を基に、末端関節
    からの連動の理解も深めていく。その繰り返しの中で、自らのからだを
    とおして、臨床での相手のからだの要求しているものもイメージ出来てくる
    と思う。勿論自分も、より健康になっていく。
     はじめから上手く出来る必要はないと思う。無論それに越したことは
    ないのだが、上手くからだを操れて何も気づきを得られない人よりも、
    上手くいかなくとも、感覚を重視しコツコツ積み上げていく人の方が、
    人の痛みがわかる、つまり、どの様にからだが歪み、それに対してからだは
    どの様な不快のサインを出し、症状疾患現象に至っているかが、わかり
    やすくなると思う。これは視診にも触診にもつうじ、からだの内なる要求
    を感じるということにもつながる。そして、どの様な動診をするのかという
    事にもつうじると思う。
     何事も般若身経からはじまり、それを基として枝葉がつき、真花が花開く
    のだと思う。

    一週間ありがとうございました。
    来週は中谷さんの担当となります。
    来週もどうぞ宜しくお願いいたします。