カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 晩秋にて。

    こんにちは。

    今週のブログは友松が担当致します。どうぞ宜しくお付き合いください。

    秋もすっかり深まり、もう晩秋ですね。

    ひんやりとして澄んだた空気に、斜陽、木々の紅葉。晩秋独特の自然のコントラストが刻々と変化していく。存在投影時間はあっという間。
    無常。
    自然現象は常ではない。無常だからこその美しさ。無情ではなく、根底に親和性のある無常。

    落葉樹が紅葉するのは葉っぱの老化現象によるものだという。確かに葉っぱそのものは、やがて落葉し、朽ち果てていく。外面だけ見て、理屈で考えれば紅葉は老化かもしれない。

    しかし、紅葉を見て感じた感性は違う捉え方をしていると思う。確かに郷愁や哀愁の感はあるが、その感情は葉っぱが朽ち果てていく様を見て湧き上がってきているのかというと、そうではないと感じる。

    秋の陽射しを受けた時の、あの輝き、エネルギー感。葉っぱの老化だけで片付けられないものがある。
    あのエネルギー感は、自然環境に順応しようとする木そのものの姿であり、その様が自分自身に宿るイノチの永遠の記憶と共振し、心地良い郷愁や元気となるのではないかと感じる。

    木全体からすれば、一生賢明これから訪れる冬に向け準備している。そして眠りにつき、翌年の新緑の時節には、若々しい葉っぱを芽生えさせて生まれ変わる。

    それを繰り返して、より深く根を張り、広がる。無常のなかに常あり。常たらしめるのは自然法則。自然法則に合わせることで生長している。

    植物には植物の生があり、人間には人間の生がある。その生をより良く全うするために、それぞれ自然法則が自在する。もともとは有り難くできている。

    郷愁。

    夕やけこやけで日が暮れて
    山のお寺の鐘が鳴る
    お手々つないで皆帰ろ
    烏といっしょに帰りましょ
    幸いな吾が家に、母なる自然法則の懐に。
    橋本敬三先生著、「山寺の晩鐘」より一部抜粋)

    秋季操体フォーラムお待ちしております。

    「2014年秋季東京操体フォーラム
    今回は11月22日(土)23日(日)の二日間開催いたします。
    メインテーマは「操体進化論」。
    特に、22日は場所の都合上、人数が限られておりますので
    ご参加希望の場合はお早めにお申し込み下さい。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?p=813

  • 最終日。

    おはようございます。

     今回のブログは、おなかの中の中の外部でもある、腸内環境やそこに棲息する腸内細菌に想いを馳せて、書いてきました。この分野はまだまだ未知の部分が多く、特に腸内細菌の働きに関しては、解らないことや誤解している部分が多いようです。
     物事の本質は一にして二、二にして一。表面に現れている事だけが全てではない。表面に現れた事柄が間違っているという訳ではない。しかし全てではない。

     私は、腸内細菌を含む常在菌を、悪玉、善玉と分けるようなことは、あまり好きではない。3日前のブログでは、悪玉、善玉ということを書いているが、そうしないと伝えたいことが文章とならないので、苦渋の選択として悪玉、善玉の表現をさせていただいた。
     大腸菌にしても一部の病原性大腸菌を除き、大腸菌そのものは無害であり、ビタミンの合成や他の有害な病原菌が腸内に定着するのを防止する役割を担っているという。

     完全なる善も完全なる悪もない。人間だってそうだと思う。だから自然に秩序が生じてくる。そのバランスをどうするか。そのバランスをエントロピー増大に向かわせるのか、そうでないかは自分の生き方にかかっている。いくら、生かされているからといって他力本願ではダメだ。自分も参加しないと。自分も自然法則に合わせるという事をとおして参加しないと。生かされて生きているのだから。

     自分が、そういう生き方に参加せずに、腸内環境のバランスが崩れ、エントロピー増大の方向に向かう菌が増えたからといって、それらを悪玉と命名するのは勝手すぎやしないだろうか。悪に染まるには、染まるなりの理由があると思う。自分の生き方が大事。

     生かされて生きていることを自覚し、自分の生き方を自然法則に合わせていく。お隣の大国のように、一党独裁で異を唱えるものは悪者として排除し、バランスを無視して一握りの自分達の利益ばかりを追求した結果どうなっているか。自然環境の汚染、破壊、蔓延する食品偽装、そして一握りの自分達の腐敗。個人の横領額が何兆円になるなんて、本当に馬鹿げている。一方では食うや食わずの人達がいるというのに。

     しかし、一党独裁ではなく、他者性を尊重するといっても、みんながみんな自分のことばかり主張して、ピーチクパーチク騒いでいても、一向に前に進まない。みんなに共通して、みんなが幸福になれることを考えなくてはならない。みんな生かされて生きているのだから、そこに自在する自然法則は無視できない筈なのだ。自然法則を基にした上で、より良いバランスとなるように知恵、つまり体感をとおしての知の恵みを出し合っていくべきなのだと思う。

     話は変わりますが、先々月に旧富岡製糸場世界遺産登録されました。
     記事にすると長くなるので、やめておきますが、近所なので先ほど写真だけ撮ってきました。興味のある方は出かけてみてください。

    暑さ厳しい中、お付き合いいただき、ありがとうございました。
    来週は中谷さんの担当となります。
    来週も、どうぞ宜しくお願い致します。

    友松 誠。

  • おなかのきもち・・・6

    おはようございます。

     昨日、自力自療ということを書いていて、人生は他力なのではないだろうか、という事が、ふと思い浮かびました。これは、他力本願とか、行き当たりばったりとか、そういうことではない。

     生かされて生きている。自分を包み込み、背中を後押ししてくれているものが常に在る。そういうものに支えられて生きている。その事を基にして、その場その時に、自分に向けられた事象に対して、何かしらの意義を感じ、はじめから否定しないという事。

     自分中心で物事を捉えようとすると、どうしても一時の楽や損得につながりやすい。脳には、一時的満足感を得ようとする特性があると主張する人がいるが、その為だろうか。

     しかし、自分を生かしてくれているからだや、からだと共にあるイノチ、それを取り巻く環境には、長期的ビジョンが組み込まれていると思う。だから、自分に向けられた事象は、生かしてくれているものが、ある程度選別して噛み砕き、自分が受容できるように働きかけてくれているという捉え方も、出来るのではないだろうか。

     それを目に見える形で証明しろと言われても証明は出来ないが、何か最近そのようなものを感じる。人と人との御縁なども、そうなのではないだろうか。

     だから、生かしてくれているものの後押しを感じられるならば、一度や二度上手くいかなかったり、失敗と思えることがあったとしても、それは快への示方性でもあり、成長の予感でもあり、続けるべきだと思う。人生はトーナメントではないのだから。山あり谷あり。いつか、生かしてくれているもの達、生かしてくれる人達と歓喜に沸き、しみじみと悦びを分かち合える日が来ると思う。

     人間は、母親の体内にいる10ヶ月と生まれてすぐの数ヶ月で、37億年前に誕生した生物の進化をたどるような、個体発生と系統発生を繰り返すといわれる。

     そして、ハイハイが出来るようになってくると、動きまわりながら何でも口に入れるようになる。生まれたばかりの赤ん坊というのは、原始的な動物と同じような状態なのだという。そして原始的な動物というのは大地で泥まみれの生活をして、泥を舐めている。赤ん坊も同じような行動をとる。そうすることによって、赤ん坊の腸は一時的に大腸菌だらけになるという。しかし、これは赤ん坊の腸の正常な発育や、腸内細菌を増やすには欠かせないものであり、動物は皆やっていることなのだという。

     こういう行為は、赤ん坊が好奇心旺盛だから行っていると考えてしまいがちだが、それだけではないような気がする。赤ん坊を生かしてくれているもの達が、そういう行為をさせているのではないだろうか。それも長期的ビジョンでもって、成長した時、ちょっとやそっとじゃ感染症にかからないようにするとか、アレルギーの予防とか、いつまでも共存共栄が出来るように働きかけているのではないだろうか。
     
     自分に向けられた事象には、何がしかの意味や意義があると思う。否定的に捉えない事。自分に向けられた事象を受け入れていくなかで、新たな可能性は拓かれていくのだと思う。

  • おなかのきもち・・・5。

    おはようございます。

    今朝は快便でしたか。
    私は快便でした。

     快便は気持ち良いですよね。ストーン、ストーン、コンモリ。そしてニンマリ。快便して怒り出す人はいないと思う。「ほっ」としてニンマリ。そして感謝の念も湧いてくる。
     気持ちがいいから、感謝の念が湧いてくる。誰に対してとかそういう理屈ではなく、とにかく安心して感謝したくなる。それが気持ちがいいということだと思う。
     「ほっ」と安心するには、他力を認め、受け入れること。自分ひとりで生きているわけではない。自分の存在を存在たらしめている存在や自在があるということ。そういう他力があって、生かされて生きている。自分だけではどうにもならない。

     道元禅師は「鳥の命は鳥にあらづ空にあり、魚の命は魚にあらづ水にあり」と言ったという。操体の創始者橋本敬三先生は「生命体が自然環境に適応するということ、これは生命の至上命令であるから、この絶対原理は自然の救いになっているのである」と著書の中で書いている。

     他力の中に自分自身が在る。いや、他力の後押しによって自分自身が在る。だから、たかがウンコを出したぐらいで、と思われるかもしれないが、気持ちよさを味わえ、とにかく感謝したくなるのだと思う。これも腸内細菌の働きは大きいと思うが、それだけに拘って相対的に感謝しているわけではない。腸内細菌のバランスを良くする腸内環境、からだの働き。からだと環境との調和。生かしてくれている全てに感謝しているのだと感じる。

     しかし、他力にばかり頼っていたのでは生きていけない。生かされて生きる。一方が「有難う御座います」他方が「どういたしまして」の関係ではなく、尽十方に尽十方が「有難う御座います」の関係。間を取り持つのが自然法則。自然法則にあわせて生きられれば、間に合って生きられる、ということにつうじる。間に合っていれば良い。間に合っていれば良いという心の豊かさが大切。

     操体は、自力自療ということがよく言われる。しかし、それは物事の一面、片面だけでしかない。物事の本質というのは一にして二、二にして一。片面だけ理解しても、本質を捉えているとはいえない。
     自力自療は、他力によって生かされているという事に、気づくことによってより効力が発揮されてくる。動診、操法も「オレが、オレ我」と自分中心で行っても、あまり意味がない。それでは、ただの体操だ。
     自力自療を行うにあたって一番大切なのは「からだの感覚をききわける」ということなのだ。そして「ききわけた快に従う」。自分で治すから自力自療なのではない。自分を生かしてくれている、からだ、からだと共に在る細菌など、それと環境、それらが調和を密にしながら、自然良能作用を発揮するから、不快症状の解消、改善に向かうのだ。
     自力自療の対象は自分ではなく、自身と自身を取り巻くすべてなのだ。自分が治しているわけではない。自分は自然法則を意識して動き、その感覚をききわけ、ききわけた快適感覚に従い、お任せする。我を張って欲張らない。欲張ったり、頑張って動くと感覚は消滅してしまう。間に合っていれば良い、という心の豊かさが大切。

  • おなかのきもち・・・4

    おはようございます。

    今日は一段と暑くなりそうですね。それだけでもストレッサーになり得ますが、ストレスとならぬよう、然るべき対応をしながら、御自愛していただければと思います。
     

     生体は有害なストレスを受けた時、視床下部−下垂体−副腎軸を介して腸内細菌に影響を与えているという事が、明らかにされているという。その影響を与える仕組みとして、従来は免疫機能抑制や腸管運動の変動を介した間接的な影響が想定されていたが、最近ではストレス時に消化管局所で放出されるカテコラミンによる直接的な影響が注目されているという。そして、カテコラミンにさらされた大腸菌など悪玉菌と呼ばれる細菌は、増殖が進み、腸管各所での病原性が高まるという。
     それから、ストレス時の反応として、緊急反応するものとゆっくり反応するものとがあり、緊急の時はアドレナリンが、ゆっくりの時はコルチゾールが分泌されるが、どちらも腸内細菌に変化を及ぼし、その腸内細菌がまた脳内へ神経伝達物質を送るという循環ができているという。

     このようなことからも、ストレスによる悪循環をくい止め、早めにストレスの解消をしなければならないということが、盛んに言われている。そして、普段から腸内環境を整え、善玉菌を増やし、幸福感ややる気を起こさせる神経伝達物質である、セロトニンドーパミンを増やそう、ということも最近よく耳にする。

     そして、大概その取り組みは食生活に向けられ、腸内環境を整え、善玉菌を増やすとされる食物がもてはやされる。ヨーグルトが良いとされれば、ヨーグルトを毎朝食べる人も出てくる。それはそれで良い事だと思う。しかし、長続きせずに何日かでやめてしまう人も多いと思う。

    中には食べ過ぎて腹をこわす人もいるだろう。ヨーグルトの乳酸菌やビヒィズス菌は胃酸に弱く、その90パーセントが腸に届く前に死滅してしまうことから、沢山食べなくては、と思ってしまっている人もいると思う。
     しかし、ビヒィズス菌などが胃で死んだとしても、それらが棲みついていた溶液が腸に届くことで、腸内環境に良い影響を与えるという説もある。やはり、欲ではなく、からだにききわけながらとか、おなかにききかけてという事が大切であり、よく噛んで味わって食べることも肝要。

     腸内細菌は生き物だし、腸内細菌が合成するセロトニンなどの神経伝達物質も生き物に準じたものだ。物質を満たすために物質を補うという想いでは、調和和親して発酵というようにはならないと思う。イノチに対する想いも大切。セロトニンドーパミンは元気の素とも言われるが、その元気の素の素を、からだに応じた分だけ欲張らずに、いただくという想いも大切だと思う。

     想いもストレスによる悪循環をくい止め、早めにストレスの解消をするためには重要だと思う。腸は人間の感情や気持ちなどを決定する物質のほとんどをつくっているといわれる。ストレスを受けた時もそうだが、感受性にも大きく関わっている。そして、それを脳に伝えている。

     例えば、道端に咲くタンポポを見て綺麗だなと思った程度でも、腸内環境が良い状態でセロトニンなどが多ければ、脳が十分に幸福を感じられるようになるという。この時に言葉にする、その感情を言葉に出す、ということをすればもっと良いのではないかと感じる。決して「なんだ雑草じゃないか」と否定してしまわないこと。その時感じた感覚を大事にすることが肝要と思う。

     想の法則に「描写の理念」というのがある。これは「この現象の世界は、言葉の示方性を受け、言葉によって物事が具現化する世界である」ということである。だから「美しきこと」「清く好ましいこと」に心を向け、意識的に言葉に表現することが大事であり、その反対のことは極力心に留めず、言葉に出さないことが肝要であるということ。

     セロトニンドーパミンの力も借りて「綺麗だ」「美しい」と感じ、幸福感を味わったのなら、言葉でお返ししてあげるという気持ちも大切だと思う。ドーパミンが幸せを記憶する物質であると主張する人もいるというが、そうであるならば尚のこと、「美しい」と感じたことは言葉にしていくということが大切なのではないだろうか。

     そうすることで、からだのなかでは、脳と腸、腸内細菌のあいだに多幸感にあふれた循環ができ、より良い腸内環境が具現化してくるのではないだろうか。そうなれば、少々のストレッサーにはストレスとして反応しない、強くて穏やかな、個性真理体としての自分が、具現化してくるのではないだろうか。

  • おなかのきもち・・・3

    おはようございます。

    今日は土用の丑の日ですね。
    ずっと暑い日が続いて夏バテ気味だから、うなぎを食べて営養をつけるぞ、という人も多いのではないでしょうか。

    「石麻呂に 我れ物申す 夏痩せに よしといふものぞ 鰻捕り食せ」
                         大伴家持

    万葉集の詩にもあるように、昔から鰻は栄養価の高い食物だ。
    豊富な蛋白質に加え、数々のビタミン類、さらにカルシウム、鉄分と身体に必要な栄養素が、これでもかというぐらい含まれている食べ物だという。

    そして、美味い。美味くて高額だ。美味くて高額ゆえに普段より味わって食べる。
    お口の中で、よく噛んで唾液とよく混ぜあわせながら、自分独自のハーモニーを奏でる。

    ハーモニーの化学反応。唾液は人それぞれだし、味覚も人それぞれ。
    よく噛んで、自分にしかわからない感覚をききわける。だって操体なんだもん。

    そして、またよく噛んで食べる。おなかの中も悦んでくれているのか。発酵するのか腐敗するのか。
    ビタミンは他の生命から分けてもらうか、腸内細菌につくってもらうしかない。自分ではつくれないからビタミン。調和なくして循環なし。

    おなかの中もからだも悦んでくれているようだ。からだとイノチとともに悦びを分かち合う。
    悦びを分かち合いながら、またよく噛んで食べる。すべてをよく味わいながら。
    そして、またよく噛んで食べる。

    あぁ何て幸福なんだろう。あぁ有り難い。

    物質的な栄養価を超えたイノチの営養。

  • おなかのきもち。・・・2

    おはようございます。

     昨日は、おなかの中、おなかの環境にも想いを馳せ、おなかの快もききわけるということを書きました。
     

     私たちは、目に見えるものから目に見えないものまで、様々なものによって生かされている。その中の一つに細菌がある。細菌というと、あまり良い印象は受けないと思うが、自分たちが生きていけるのも細菌が居るお陰だし、また死、つまり肉体を脱ぎ去り帰一できるのも細菌が居てくれるお陰である。

     人間のからだには、常在細菌と呼ばれる細菌が大量に棲息している。勿論、外部環境には人間の存在を脅かすものも居る為、皮膚、鼻腔、口腔、消化管などで、存在を保てるよう働いてくれている。なかでも腸内細菌は、免疫力の70パーセントを担っているという.

     考えてみれば、私たちは雑食性であり、色々なものを食べている。よく食事会の時に、珍しいものが出てくると「コレを最初に食べた人って凄いな〜」という話になるが、それも腸内細菌が居てくれるお陰でもある。普段、おいしいと言って口にしている食べ物の中にも、直接血液に混入したりすると、ショック症状を起こして死に至るものもあるという。

    入れ場所を間違えば危険なものも、膨大な数の腸内細菌が居てくれるから、受け入れることができる。腸内細菌が居てくれるお陰で、消化器官は食物を栄養素までしてしまえる。そして消化管は、それと共に食物中の抗原や常在細菌の産物と接触し続けて、免疫系を巧妙に調節する役割を果たすことが出来ているのだと思う。

     目に見えるものは、目に見えないものに接触している。そして、目に見えないものに生かされている。食物など外のものを取り入れる消化器官と腸内細菌、皮膚、鼻腔、口腔など外部との接点と常在細菌。そこには常に自分の存在を存在たらしめているものが居る。

     なぜそういうものが自分のからだのまわりに居てくれるのか。これも目には見えないが、太極の意志である愛と調和が、どんなものにも貫通し自在して、イノチとしてのバランス感覚を有しているからだと思う。

     その調和のかたちは様々だと思う。腸内細菌だけでも百種類以上、百兆個以上もの細菌が居るというのだから。
    人間の思考からみて、善玉も居れば悪玉も居る。しかし、悪玉も居なければ、免疫機能はより良く向上していかない。バランスが大切。

     そのバランスの道しるべをどこに求めるか。よくよく吟味していけば、自然法則ということになる。自然法則も目には見えないが、確かに自在する。自然法則に合わせるようにする。その中で快がききわけられる。すべてのイノチは快を求め、それに従おうとするのだから。そういうイノチの快。

     消化器官というのは最も原始的でもある。脳がない生物は居ても、消化器官がない生物はいないはずだ。原始的であるが故に、その調和の仕方は頭であれこれ考えるより、イノチの快に委ねる方が効率的なのだと思う。おなかの快をとおしてのイノチの快。それが免疫系もより活性化して、環境に適応してより良く生かされて生きる、ということにつながるのではないだろうか。

  • おなかのきもち。

    おはようございます。

    今週は友松が担当させていただきます。
    どうぞ、よろしくお願い致します。

    梅雨も空け、夏真っ盛り、暑くなってきましたね。
    ついつい、冷たいものを飲んだり食べたりしたくなります。
    夏ですものね。スイカ、かき氷、冷たいビール。美味いですよね。
    一時の清涼感、爽快感は格別ですよね。
    しかし、飲みすぎ食べすぎをしてしまうと、気持ちが悪くなる。

     内臓をつうじてのからだの感覚をききわけ、日常生活の指針としていく。誰でもやっている当たり前の事だが、その当たり前の事こそ重要。そうでなければ生命の存在は保てないと思う。
    しかし、その感覚のききわけは不快が主となっていることが多い。

     例えば「これ以上かき氷を食べたら、おなかをこわしそうだ」「これ以上ビールを飲んだら、二日酔いで気持ち悪くなりそうだ」など、ちょっとしたことだが、不快なサインを感じることから予防につなげている。
     もちろん、これらは大切なことである。おなかの気持ち悪さは、からだの気持ち悪さであり、もちろん感情に作用し、まわりの環境にも影響を与える。まわりに迷惑をかけない為にも感情を押し殺し、無理して頑張る。これは、ボディの歪みにもつうじ、心とからだのアンバランスにもつうじる。だから、不快感をつうじての予防は大切だ。

     しかし、不快から学ぶだけでは、予防の枠の中に留まってしまう。予防の枠を超え、より良く健康増進につなげるには、積極的な快のききわけということが求められる。ボディの快のききわけだけでなく、おなかの快のききわけも積極的に行うという事。

     そのやり方は、臨床の場でおなかの快もききわけてもらうことは勿論、自分自身で行える事を含めれば、無数にあると思う。大切なのは、「息」「食」「動」「想」の自然法則に自分の生き方を合わせていくことと、「おなか」へのいたわり。

     おなかの中というのは、外部との接触の場でもある。食物は外部から取り入れるのだから、そのおなかの中の環境に配慮し、ストレスをなるべく与えないように心がける。
     例えば、食べる時には良く噛んで唾液と混ぜ合わせながら食べるのが良い。そうすれば、からだに良いものかどうかの選別や量の調節が出来る。しかし、良く噛むという事だけを意識していても、長続きしないし、からだに良いのかどうかの選別や量の調節にはつながらない。

     自然法則に合わせた作法が大切。その作法には「息」「食」「動」「想」すべての自然法則が絡む。姿勢を正すにしても、内蔵を定位に安んじるように正しく姿勢を正すには、普段から「動」や「息」の法則を意識して行動することが大切だし、その為には「想」も重要。

    そうした普段の積み重ねが、よく噛んで食べるということにも反映され、おなかが悦ぶ、おなかの快のききわけにつうじると思う。快をききわけるまでのプロセスが大事という事でもある。また、食欲を満たした時の頭の満足感と、おなかが悦ぶ、おなかの快のききわけとその識別。これも重要なことだ。

     ここまで、食べる時のことに関しての、おなかの快について書いてきたが、おなかの快というのは、食べる時だけにききわけられるのではない。空腹を感じた時にもききわけられるし、排便時にききわけられる快もある。
      先に挙げた臨床の場での快もあれば、ゆったりとした深い呼吸の中でききわけられる、おなかの快もある。また、人としての正しい想念の中でききわけられる時もある。自分の生き方を「息」「食」「動」「想」の自然法則に合わせていく中で、積極的にききわけるべきだと思う。

     その快こそが、からだのバランス制御に働くのは勿論、より良く生かされて生きる、ということにつながるのだから。

  • 眠りと想い。

    おはようございます。

    週のはじめから、陽射しの強さとともに気温もぐんぐん上がってきて、半袖でも平気な日もありましたが、昨日の雨とともに気温もぐんと下がり、今朝は肌寒い感じでした。
    今日のお目覚めは、いかがだったでしょうか。

     来院者の方に「良く眠れていますか」と質問すると、以前は「あまり寝てないんだよね〜」という人が多かったように思う。話を聞くと、仕事が忙しくて寝る時間があまり取れないとか、子供が夜泣きをして度々起こされるとか、何らかの外的要因があって睡眠時間が取れていない人達だ。

     しかし最近は「寝てるんだけど眠てない感じ」とか「眠れているのかな〜」といった、眠りの質に対しての不満足を返答してくる人が増えたように感じる。こちらは睡眠時間は取れているが、眠っている時や朝起きた時の理想のイメージと、現実のギャップを抱える人達だ。

     
     私自身、ここ10年ぐらいは不眠で悩んだことはない。寝不足と感じる日はあるが、仕事の都合など外的要因でそうなるのであり、外的要因がなければ、いつもどおりに寝て、いつもどおりに朝起きている。不満は感じていない

     しかし、20代後半から30代前半の頃は、なかなか寝付けないとか、夜中に目が覚めて明け方まで眠れないといったことが多々あった。
     そういう時というのは気持ちもイライラしてきて、足の裏にもグッショリ汗をかき、横になっているのがどうにも不快で、起きて歩き回ったりとかしていた記憶がある。
     いつもどおりのことが、いつもどおりいかなくなると、本当に焦ってしまう。そして、からだのせいにする。しかし、からだのせいではないのだ。

     当時はきっちりスーツを着て、ホワイトカラーの仕事をしていたが、とにかく数字や文章とにらめっこしていた時間が多く、左側の頭ばかりを働かせていたと思う。自分のからだの感覚をききわけるとか、そういったことには、まるで無頓着だった。
     からだを自分の道具のようにも考えていたと思う。不調を感じれば、パーツのどこかに異常があるのではないかとか、食べ合わせとか物体的で、わかりやすい事柄ばかりに捉われていたように感じる。動きとか呼吸、自分の想念には意識が向いていなかったと思う。

     なかでも自分の想念「想い」というのは大切だと思う。からだを自分の道具のように考えるのか、それとも一生をともにする絶対的パートナー、アドバイザーと想うのか。その違いは大きいと思う。

     眠りに関しても、眠るときに道具を放置する感覚なのか。それとも一日使わせていただいた、からだに感謝して、あとのバランス調整(疲労回復)を、全幅の信頼を元に委ねる意識を持つのか。それだけでも随分と違ってくると思う。

     まずは「想い」を変えていく。その日一日が自分にとって良い日でも、良くないと思えた日でも、からだとともにあった一日に変わりはない。絶対的価値観をもって、からだに感謝する。相対的価値観でもって、嫌なことがあったから、からだにも感謝しないというのではよろしくない。

     その日一日が、どんな一日であったとしても、自分自身に対して「ありがとうございます」と言葉にして眠りにつく。大切なことであり、誰にでも出来ることでもあると思います。

     まずは想いから、そして呼吸や動きをとおすなどの手入れ法を身につけていければ、より良く眠り、より良く日々生まれ変わる、ということにつながると思います。
     

     眠りに関する手入れ法などに関して、東京操体フォーラムでは、下記の要項にて、より良いものを実技を交えて御提案させていただきます。宜しくお願い致します。

    2014年4月27(日)
東京操体フォーラムが開催されます!
    会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。
    テーマは「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
是非お越し下さい。

    ソメイヨシノは散ってしまいましたが、開業当時に植えた遅咲きのシダレザクラがようやく花開いてきました。

    一週間お付き合いいただき
    ありがとうございました。
    明日からは中谷さんの担当となります。
    明日からもどうぞ宜しくお願いいたします。

  • 紡ぐ・・・2

    おはようございます。

     昨日書いたように、見るということに関しても、ただ見るだけではなく、からだの感覚のききわけをとおしてキャッチするよう意識する。そして、それらを自分自身の中で縒りをかけて、紡いでいく。ということは本当に大事なことだと思います。

     歳がいくつになっても、あるいはどんなに知識が豊富であっても大切だと思います。生かされて生きている限り「もういいや」はないようです。

     いや、むしろ歳をとってからの方が重要かもしれない。脳についても、脳細胞同士のつながり、連携の仕方が変わってくるようだ。

     若くて機能も充実している時は、片方の脳だけに依存していても、大抵のことは間に合ってしまう。間に合うということは良いことではあるが、その次元でという限定を伴う。次元を超えていかなければ、より良い、縒り良くにはつながらない。

     歳をとって脳の機能も衰えてきたという話はよく聞く。しかし、機能が衰えた分を補うように、片方が片方の働きに協力して、より全体的に機能する傾向がみられるという。

     最近「左脳・右脳神話の誤解を解く」という本を読んだ。

    「左脳・右脳神話」の誤解を解く (DOJIN選書)

    「左脳・右脳神話」の誤解を解く (DOJIN選書)

     その中に脳機能の研究者カベザらのグループの、高齢者と大学生の単語を覚える課題での、脳活動の違いが脳画像写真とともに説明されていた。内容については長くなるのでふれないが、結果的に単語を覚える成績に両者の違いはなかったが、言語課題を実施中の大学生の脳活動は左脳がやや活発に活動し、高齢者は左脳だけでなく右の前頭葉にも脳活動がみられたという。
     カベザらの解釈は、加齢に伴って左右それぞれの脳活動が低下しても互いに協力しあうことによって、左右それぞれの脳が得意なはたらきをしてもたらされた大学生と同じレベルの成績を生み出し、維持できるためとしている。

     左右の脳にも、このような協力し合う連係システムがあるということは有難くもあり、悦ばしく思う。左右の脳にはそれぞれ得意、不得意があるが「これは左脳にやらせる」「こっちは右脳に」と分断させるような、決め付けはしない方が良さそうだ。

     今の世の中は、左脳ばかりを働かせるような風潮となってしまっているが、片方ばかりを働かせるのは、効率がよくない。また疲労、疲弊にもつながる。右脳の協力も必要だと思う。

     言葉にしても、言語の働きを担うのは左脳が優位となる。しかし左脳だけで、そういった働きをしている訳ではない。左脳だけだとしたら、無機的で豊かさが感じられないものになると思える。人間関係もギスギスしそうだ。鍵を握るのは、感覚や感性だと思う。これらが右から左に橋渡しされることで、生きた言葉が生まれてくるのだと思う。

     だから「決め付け」や「縛り」を解除し、「今ここ」「今ここ」のからだの感覚のききわけをとおして、左右の連携を縒り密に紡いでいくことが必要だと思う。

     老いても積極的に快をききわけ、十分に満足して生きようという意識が大事。脳もそれを望んでいるから、左右両方で協力して、その意識に応えようとするのではないだろうか

     また、若いうちからそういう意識を持っていれば、一つの次元にとらわれることのない、よりクリエイティブで豊かな人間になっていくのではないだろうか。

    2014年4月27(日)
東京操体フォーラムが開催されます!
    会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。
    テーマは「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
是非お越し下さい。