カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 感じとることから。

    おはようございます。

    今週のブログは友松が担当いたします。

    どうぞよろしくお願い致します。

     暑いですね。晩夏の候、陽の暮れる時間は早くなったとはいえ、まだまだ暑さが堪えます。そういえば、昔はこの時期になると、むし暑さに対する不快指数という言葉をよく耳にしました。その言葉を聞いて、もっと不快というか、気分が低調になっていたような気がしていたのですが、最近は聞かなくなりましたね。

     そのかわり熱中症指数というのをよく聞きます。7月の終り頃から昨日まで、うちの方はほとんど毎日が厳重警戒です。それだけ以前より極端に暑くなっており、とにかくこの暑さに気をつけてくれ、ということだと思います。現に熱中症で生命の危機に陥る人や亡くらわれてしまう人も、年々増えているようです。

      暑さに対する感覚は人それぞれであり、その時の体調にもよります。自分は大丈夫という過信は禁物です。自分は大丈夫という過信には、自分と共にあるからだを蔑ろにしてしまっている面が多分にあります。からだのことは放っぽっておいて、自分の無理が効いた時の記憶が支配的となり、その記憶だけで自分は大丈夫と決め付けてしまいがちです。

     しかし、現実のからだは記憶の中のまま留まっているわけではなく、常に変化しています。思考ではからだの現状はわからない。感じとる必要があります。

     

     この、感じとるという事は非常に大切です。熱中症では、めまいやふらつきなどの初期症状があるという。これだけ暑く、湿気も多い環境ですから、初期症状がそのまま重篤な症状につながることも多い。初期症状の兆候、あるいはその前にはもう、からだから何らかのサインを感じとり、適切な対応を心掛ける必要があります。

     こう文章にして書いてしまうと、難しく感じてしまうかもしれませんが、誰でも普段気にもとめずにやっていることです。

     しかし、その感度は残念ながら、鈍ってしまっている人も多い。それは自分自身が生活の中で最小限、責任をもって営まなければならない「息」「食」「動」「想」と、連鎖する「環境」とにストレスをかかえているからです。

     

     「息」「食」「動」「想」には自然法則があり、その自然法則に生き方をあわせていくようにすれば、何らかのストレッサーがあったとしても、ストレスとして反応し難くなる。

     しかし、自然法則に背反し、からだにとってのストレスが生じると、からだはそのツクリと動きを歪ませて対応せざるをえなくなる。

     これはこれで有り難い働きではあるのだが、時間空間的限度をこえると、局所的な緊張変化、内圧の変化、脊柱配列の変化などを生じさせ、その変化はまた新たなボディの歪み(運動系、それ自身の不調和、アンバランス)を誘発し、歪みは系統的に波及していく。

     この間に、物理的にも生理学的にも、変調をきたし、エントロピーの増大へと向かってしまう。その現われが、症状疾患現象ということなのだ。

     そうならない為にも、感じとるという事が非常に重要であり、ボディの歪みが恕限度、つまり時間的にも空間的にも許してもらえる限度を超える前に、からだにとってのストレスを感じとり、歪みを波及させないといった対応が必要です。

     それには自然法則を識っていく必要がある。自然法則を識っていきながら、からだから感じとった事を照らし合わせて、自分の生活、生き方を自然法則に合わせるように変化させていく。

     その中では反省あり、懺悔あり、そしてそれ以上の感謝と悦びあり。神性相続権を有する本来の人間の像がみえてくるかもしれません。

     その実践の中で、自分自身の周りの環境が苛烈になっても、最適で能率的な対応が出来、逞しく生き活きできるようになっていくと思います。

  • 最終日。

    おはようございます。

     今日は朝から、ウグイスの鳴き声が響いています。ウグイスというと早春の鳥として有名ですが、私の住む地域ではこの時期に鳴いていることが多いです。

     「ホ~~  ホケキョ」ホ~は吸気、ホケキョは呼気。このように鳴くのは、この時季特有のもので、秋になると「ケキョ ケキョ ケキョ」と鳴くのだそうだが、なにか「ホ~」で充満する色々なエネルギーをいっぱいに吸いこみ、生命力を表現しているように感じられる。この時季の姿と秋の姿では、随分と違うと思うのだが、なかなかその姿を目にすることはできない。

     「ホ~ ホケキョ」「ホ~ キケヨ」「法~ 聴けよ」すぐ近くで鳴いているのはわかるのだが、御身は隠し給いき。目で見ることばかりに捉われず、聴いた感覚、音がからだにヒビクことで感じるものが大切と諭されているような気がする。音は目には見えない。見えないゆえに、より真実を伝えているような気がする。

     

     今回のブログのテーマは、「おさめ」でした。そのヒビキは重奏にして濃厚、そして神聖的な感じすらする。

     漢字も、「収め」「納め」「治め」「修め」と、その場の状況に応じたものが色々とある。通常はこれらの語に「る」とか「た」をつけて、「収める」「納めた」といった使い方をするのが一般的であろう。

     「る」とか「た」と付け加えると、たちまち人間の行為を意味するものになってくるが、「る」や「た」をつけても、敬いや感謝、なにか目に見えないものに献上するような、そんな含みを帯びている。

     単に人間の行為を意味するものであれば、わざわざ「おさめ」という言葉を使わなくても、他にも言葉は色々ある。「収める」は「しまう」でもいいし、「納める」は「支払う」でも意味はとおる。しかし、それではとおらない、ということは誰でも知っている事だと思う。

     

     例えば、神社の神主さんに、玉串料を渡す時、「支払う」とは言えないだろう。納めるでなければ、社会的にとおらないし、なにより自分の気持ちとの大きな隔たりを感じる。

     まぁ、税金だったら支払うでもいい様な気もするが、支払うという意味を何かの対価に対してと考えれば、税金も納めるということになってくる。昨今の政治や政治家の事を思い浮かべれば、ちょっと癪にさわる感じもするが、公共の為と気持ちを切り替えれば、癪にさわっても、気分はおさまってくる。

     存在にこだわり相対的に考えると、どうしても見返りとか損得のつり合いとかが先行して対立が生じやすくなるが、より自在性の高いものを想えば、平静を取り戻してくる。誰かに水をぶっかけられれば、頭にもくるが雨だったらしょうがないではないか。雨も降らなければ逆に困る。

     

     こうして例え話を書き出していくと、「おさめ」とは相対的なやりとりを超えた言葉だと感じられてくる。現象だけを論じる言葉でもなく、絶対的な自在につうじる言葉でもあるという事。

     「治め」であれば、病気を「治す」という言葉が浮かぶが、実際は人間が人間を治しているわけではないですもんね。その人のからだが十分に治癒力を発揮してくれなければ、どうにもならない。本当は相対的なもので治っているわけではない。投薬でも、外科的処置でも手技療法でも、からだが応えてくれなければどうにもならない。からだが応えてくれるよう、その要求感覚に施術者も被験者も一緒になって耳を傾ける。からだの要求感覚は「気持ちよさ」なのだ。「気持ちよさ」をききわけ、とおす。ききわけた「気持ちよさ」を味わう間というのは、自在する中心理念「愛と調和」へとおる間なのだ。この太極とか祖神(親の親の神)とか呼ばれる中心理念へとおすことこそ「おさめ」だと思う。

     

    今回はこれにて筆をおさめさせていただきます。 お付き合いありがとうございました。

    来週は中谷さんの担当となります。 来週もどうぞ宜しくお願い致します。

     

    友松 誠。

  • 滋養より。

    おはようございます。

     「目に青葉、山ほととぎす、初鰹」自然が奏でる美しいものを見、美しい音色を聞き、旬のものをいただく。初鰹も良いですが、大地の営養を吸い込んだ旬の地のものをいただくのも良いですね。

     キャベツにレタスに筍、アスパラガス。この時期のものは、みずみずしくて、歯ごたえもシャキシャキ、シャリシャリ、そしてすっきりとした甘み。キャベツなどは冬場に食べたものとは別物といった感じさえします。

     旬の地のものって良いですね。からだにもやさしい感じを受ける。口や舌だけでなく、お腹でも味わうという意識を持つと、お腹で有り難さを感じ、優しい気分になっていくのがわかる。

     滋養という言葉があるが、滋養の滋はしげることであり、草木が繁り育つ、うるおすという意味があるという。また、滋という字は糸が2つ並んでいるが、これは2つの糸束をあらわしており、染色する時に、それが水を吸ってゆったりと膨らんでいく状態をあらわす字であり、滋養につながり育むといった意味にもつながり、そのような心情を慈しむという意味になるという。

     滋のさんずいが心のつく慈しみに変わる。みずみずしさは、水っぽさとは違い生気の充実にこそ意味がある。水も質が重要であり、水分量を満たしていれば、それで良いというものではない。水には、あらゆるものを変化させる力がある。エントロピーの増大に向かう変化もあれば、その逆の変化もある。生気の宿る水なのか、ただの水なのか、それによって化学変化の仕方も変わってくると思う。

     水は言葉に反応するという。正確には言葉の波動に反応するのだろう。同じ言葉をはいても、ヒビキ方は人それぞれ違う。この言葉を使えばこうなる、という思考的ハウツーは通用しない。思考は嘘をつくのだ。しかし、感覚は嘘をつかない。感覚が嘘をつくとすれば、それは思考が誤魔化しているからであろう。嘘をついても見透かされてしまう。水は液体としてからだの隅々まで浸透し、空間にも気体として融合し、常に自分達の内と外に在るのだから。ありのままの良い感覚と良い感動を言葉の波動として、とおせばヒビク、そして現象も良い方向へ変わるのではないだろうか。

     みずみずしい精気に満ちた旬の地のものをいただき、口や舌だけでなくお腹でも味わう。何故お腹でも、ききわけと味わいをとおすかというと、口や舌は欲と結びついて騙されやすいからだ。舌の極楽、腹地獄という言葉もある。お腹でもききわけをとおし、味わってみる。そうすると結構、からだに良いかそうでないか、良いものでもどのくらいが良いかが解りやすくなる。生気のあるものを食べ、お腹で味わった感覚と感動を言葉にすれば、現象は変わってくると思う。「うぁ~ 身体の毒が抜けていくようだ」「おぉ~ 元気がわいてくる」感覚はそれぞれだと思うが、感覚を素直に口にすることで大なり小なり現象は変化しているのだと思う。

     しかし、その現象が継続して良い事がより大きくなるかというと、そうは上手くいかない。生命現象はバランス現象だからだ。腹に収めただけでは不十分で、それをより良くアウトプットしていかないと。その指標は自然法則の内にある。「息」「食」「動」「想」。全部大事なのは言うまでもないが、まずは食べ物から生気をいただいたのだから「いただきました」「ご馳走様でした」「ありがとうございました」といった想念を言葉に出し、意識を食物だけでなく、そのおおもとの天地に向ける、ということも大切だと思う。

     そうすることで現象だけの収めが、自在にもつうじるおさめとなる。他の生命のイノチをいただいて、生きているわけですから、天地におさめてあげたいですよね。自分達だって、いつかは肉体を地に還し、天に帰る時がくるのですから。

  • 以前の記憶より。

    おはようございます。

       このところの陽気のせいか、気がつけば部屋の片隅の観葉植物も随分と大きくなってきて、瑞々しく光を反射させています。葉っぱに触れてみると、若々しい肌のようです。
     これから段々暑くなってきますから、葉っぱの感触を確かめながら、土が乾いてしまわぬよう、波動の質の良い水を与え、土壌のバランスを保ってあげる事も大切ですよね。この観葉植物とは、かれこれ10年以上の付き合いとなります。

     

     ふと、随分と前に、この観葉植物を見て「みどりって、みどりなんですね」と言っていた人の記憶が甦った。操体の臨床を終えた後、ありのままを見て、感じたまま、ありのままに素直に口にした言葉だった。
     こうして文字にして書き出して読めば、意味不明かもしれないが、その時の少女のようにキラキラした瞳から、何を言いたいのかが、直ぐに伝わってきた。

     その方によれば、今まで木々の葉の緑も、トタン屋根のペンキの緑も、同じ緑という感覚だったという。ちょうど今ぐらいの草木が生長し、瑞々しさを湛えながら様々な緑が溢れる頃合だった。濃い緑、薄い緑、黄緑、硬そうな緑、やわらかそうな緑、それらがサラサラとした風を受け、幾重にも折り重なるようにして、生命力の輝きを放っているのに、いつもと同じのペンキの緑と一緒にしてしまったのでは勿体無い。

      色は反射する光の波長によって決まるが、目にうつるものがどういう印象を与えるか、どう認識するかは、その人の都合によって決まるという。
     緑とは、こういう色なのだとはじめから決め付けてしまえば、忙しい人には都合がよく、合理的なのかもしれない。しかし、思考による合理性は、自分の我ばかり増大させ、からだのことはお構いなしといった状態を招きやすい。心とからだのアンバランスも生じ、この方が怒り交じりに訴えていたように「からだがいうことを聞いてくれずに、あちこち痛む」という様な状態ともなりやすい。
     からだのパーソナリティを尊重し「からだにききわける」ということは、本当に大切な事なのだ。

      この方は、こちらの指示(お願い)と介助があったにせよ、自分自身で動きを表現し、その感覚をからだにききわけ、ききわけた気持ちよさを十分に味わった。そうすることで、からだ全体の調和が密になり、心とからだのバランスを取り戻していった。快によって調和が成り、からだがおさまった。そして、そのおさまった感覚を天の中心におさめた。
     本人には、そういった顕在的な意識はなかったと思う。本人に宿る神性が無意識的にそうしたのだと思う。有り難い事だと思う。
     そして本来の自分自身を取り戻していった。そこにはもう、からだの不快感はなく、からだが感じたことに素直になれる自分がいた。そうして出た言葉が「みどりって、みどりなんですね」だったのだと思う。

  • 土台から。

    おはようございます。

     麦畑の麦にも、ようやく穂がついてきたようです。麦一本一本が黄緑色のなかに黄色い穂を掲げ、風の向きに逆らうことなく、いっせいに穂を揺らすその姿は、大地の雄大さや恵みを象徴しているかのようです。

     何事にも土台が大事だとは、よくいわれる事です。
     操体操体法
     操体法は、創始者である橋本敬三医師が、日々の治療として行なっていたものを指すが、はじめのうちは名称などなく、創始者自身も「名称なんてどうだっていい、真理が大切なんだ」と名称が無い事を意にも介してなかったという。

     そのうち、その治療効果の高さが評判となり、テレビやラジオなどのメディアが、どっと押しかけるようになり、名前が無ければ紹介しようがないということで、つけたのが操体法という名称だったという。

     操体法という名称の方が先に世間に知れ渡ってしまったわけだが、それによって「○○病には、どういった動きをすればいいんですか」といったような方法論を得たくて、訪れる人も非常に増えたという。

     しかし、操体法の法というのは方法論の法ではなく、法則の法なのだ。法則とは自然法則の事であり、創始者が治療として行っていたものは、自然法則を応用し、向き合った一人一人を快復に導く為の貢献にあったのだ。

     見方を変えれば、自分自身が生涯かけて自然法則の解明、そして究明といった取り組みで得たものを、向き合った人のからだの要求に応じ、からだと共にその神性におさめていたのだと思う。だから晩年は「気持ちよさをききわければいいんだ」という様に、変わっていった。

     

     創始者、橋本敬三先生の思想、哲学、生命観、死生観を含めたものを操体と呼ぶが、本来、土台とするべきものは、こちらなのだ。

     こちらを土台にしなければ、楽から快へのシフトチェンジはなかったと思う。いつまでたっても、ツライ方から楽な方に動かし、楽にする為の方法論に終始していたと思う。

     しかし、楽では、からだの要求に応えることが出来ないのだ。もしかしたら、土台であるべき操体も自然消滅していたかもしれない。

     

      成してきた事を学ぶのではなく、成さんとした事を学んでいく。

     操体を土台にして、創始者が解明、究明してきた事を含め更に耕すように、それぞれが体感をとおして原究していく。

     そして、それぞれが臨床の場だけでなく、自分自身のおかれた環境の中で、自然法則の応用、貢献という生きた柱を立て、生長させていく。

     天の中心に帰一していった創始者へのおさめだと思います。 

  • 中心理念へ。

    おはようございます。

     

     昨日ブログは、なにやらカタカナの長たらしい名前がたくさん出て来て、読むのが面倒だったかもしれませんね。
     私も操体と出会い、橋本敬三先生の書物に触れるまで、古事記とかそういったものとは無縁でしたから、橋本先生の書物でたびたび出て来ても、初めのうちは名前はスルーしてしまったりとか、していました。
     しかし、名前の一字一字にも相応の意味はあるし、その内容には操体の学びにつうじるものが沢山あると感じています。

     

     橋本敬三先生は、著書の中で「神その像(かたち)の如くに人を創造りたまえり」と宣言するかの如く書いている。そして、「神の像なる人間がなぜ病気をしたり死んだりせねばならないのか。これは医学の範囲外ではあるが、重要な関係がある」と続けている。
     神人合一の生命観であり、哲学である。これこそが操体の原点であり、土台となるべき思想である。そして、真の健康体への問いかけ、歪体化現象への着目と自然法則の究明、更に原究という実践医学の基でもある。

     

     では神とは何ぞや。人間をはじめとして、この大自然をつくった神とは。万物の創造主たる神とは、どういうものか。
     自分自身に自問自答するのも良いと思う。いろいろな神が居ていいと思う。しかし、宗教的な神が必ずしも神ではないと思う。神は創造主ではあるけれど支配主ではないからだ。
     いろいろな神が居ていいと思うが、支配主のような神が色々居たら、対立を招き、地獄のようになってしまうと思う。おさまりがつかなくなるということ。これは、まだ尾を引く西洋の宗教的対立の歴史を見ても明らかだ。

     

     この世は地獄ではない。また地獄のようにさせない為にも、各人が想ういろいろな神にも、一番始めの原初の神の中心理念が貫通しているという事を認識し、自覚する必要がある。
     この世は本来、原初の理念である「愛と調和」によって成り立ち、快に向き偕に歩む快園なのだ。大自然のそれぞれにも、その理念は貫通しており、水や風や山の岩にも神は宿るし、様々な生物にも神は宿り、全体的な大自然として調和が保たれているのだ。そこに病や死の概念はない。

     

     しかし、人間だけは大脳の発達があまりにも急激だった為か、その理念は隠されてしまった。古事記でいう「御身をかくし給いき」であり、在ることはわかるのだが、お姿が見えないという状態になってしまった。
     神の姿が見えないということは目標や目的を見失う事でもあり、迷いが生じたということだ。そして、いかに大自然と調和して生かされて生きていくかが、わからなくなったということでもある。それによって病や死をつくってしまった。

     

     人間の大脳が発達し、文明が発達したのは確かであり、そのお陰で私たちは便利な暮らしが営めている。
     しかし、暮らしが便利になったからといって、心が満たされているとは限らない。物質的に豊かになった分、あっちこっちに振り回され、自分は何を求めているのだろうかと、自分自身がわからなくなってしまうという事もある。

     

     軸とか中心となるべきものがなければ、そうなっても仕方のないことだと思う。中心から離れるほど、迷いと妄想が生じ、神性が隠されてしまう。
     本来持っている自然への適応性も隠れてしまい、その生活も自然法則に反したものとなり、像は歪み、健康を阻害する因子を積み上げる事となってしまう。

     

      中心におさめる。みんな一人一人が個性真理体なのだから、思想、信条はそれぞれあって良い。
     しかし、大自然に生かされて生きているという自覚は持つべきだと思う。自我ばかりの自分勝手は許されない。

     

     自我ばかりを悪者にする訳ではないが、自我は迷いの元でもある。迷いを断ち切るには、自分自身の神性に問いかける必要がある。
     神性を宿し大自然とともにある、からだにききわける。そして原初の中心理念に向かって、柱を立て、おさめていく。

  • 古事記より。

    おはようございます。

     先週は5月なのに、台風が来て私の家の方でも、暴風が凄かったです。いつもであれば、薫風を受けて大空をいかにも泳いでいるといった感じの、鯉のぼりを見ている頃合なのですが、暴風でバタバタと吹き飛ばされそうになっている鯉のぼりを見るのは、痛々しい感じで、風情もなにもあったもんじゃないという感じがしました。暴風でケガをされた人もいたようですが、9月の台風にみたいに洪水とか土砂崩れがなかったのはよかったです。みんな地に足をつけて生活しているのですから、地盤や土台というのは大切ですよね。

     天地の地。古事記では、天と地が初めて分かれたとき、高天原に先ず三柱の単独神が出現したとしている。アメノミナカヌシノカミ(天之御中主神)、タカミムスビノカミ(高御産巣日神)、カミムスビノカミ(神産巣日神)であり、アメノミナカヌシは天の中央にあって天地を主催する神であり、タカミムスビカミムスビはどちらも万物の生産・生成を掌る神である。 

     その次に出現したのが、アメノトコタチノカミ(天之常立神)で、地盤となるものが若く脆弱で、水に浮いた油のような状態のとき、葦の芽が泥沼から萌えいずる力から生じ、天の永遠性を神格化させた神だという。その後も大地が整うまで、神代七代の神々が出現する。神代七代の最後に出現するのが、おなじみのイザナギノカミ(伊邪那岐神)とイザナミノカミ(伊邪那美神)となっている。

     イザナギイザナミの神は国土となる島を生み、スサノオやアマテラス、火の神など、様々な神々を生んだことから、一般的にあまりにも有名だが、この二柱一代の神が始まりではない。具体性をもった現象を生みだす神が出現するまでの、その土台創りをした神々も重要であり、そのプロセスや目に見えない創生のエネルギーに意識を向けることも、大切だと思う。

     一番はじめの神の、愛と調和という中心理念によって、混沌から陰と陽の神が出現した。これが万物の根源であり、ここから現象の土台がつくられ、次第に原初の中心理念がより具体性をもった実在となっていった。だから、この世に存在するということは、自在する理念によって実在しているということでもあり、どんなものにも原初の中心理念が貫通しているということにもなってくる。

     先にあげたアメノトコタチノカミ(天之常立神)も、その証であり、葦の芽が泥沼から萌えいずる力も原初の理念の現れであり、その芽生えのエネルギーから天地の交信、フィードバックが生じ、天とともに永遠性をもつ土台つくりへとエネルギーの質の転換が起こっていったのではないかと思う。

     アメノトコタチノカミ(天之常立神)の次に出現するのは、クニノトコタチノカミ(国之常立神)だが、この神から神代七代となり、クニノトコタチノカミ(国之常立神)、トヨクモノノカミ(豊雲野神)と続くが、ここまでは単独神だ。そしてその次からは、ウヒヂニスヒヂニという男神と女神を一対とする二柱一代の神が出現し、より大地が整えられ、土壌も豊かになり、生物をはじめとする万物を育む土台が出来上がってきた。これは原初の理念が目的をもって現われたからなのではないかと感じる。

     そして最後にイザナギイザナミが出現し、土台を引き継ぎながら、目的に沿って、互いにその個性を認め合いながら、原初の理念である愛と調和のもとに、おさめていった。このおさめは八百万の神々という言葉があるように、いたるところで愛と調和の柱を個性的に立てる事となった。そしてそれは生生流転している。どんなものにも原初の理念は貫通しているという事であり、私達一人一人にも、その柱は宿っている。

     その柱を、個性を発揮しながら、どのようにして、しっかり立てて天の中心におさめていくか。その土台となるものが重要となるが、それはもう自然環境というかたちで、つくられており、すでに在る。それをどう活かしていくか。どう自然環境に適応していくかを識っていくことが大事。そうしなければ宝の持ち腐れだ。ではどうするか。答えは自然法則の内にある。自然法則の原究あるのみ。

  • 縦軸をとおして。

     

    おはようございます。

    今週のブログは友松が担当いたします。 一週間どうぞよろしくお願い致します。

     前回の担当の時は、まだまだ寒さが残り、まわりを見渡せば、木々は葉っぱを落としたまま眠っているような状態で、なんだか茶色い景色ばかりでしたが、今回は立夏から小満の頃合ということで、草木が生長して色々な緑が溢れています。緑一色、役満ですね。それぐらい色々な種類の植物が天に向かって息づいています。

     「万物盈満すれば草木枝葉繁る」全てのモノコトが満ち溢れているのでしょうね。その証として草木がグングン生長する。草木のその証は天地に対する感謝の現れであり、また受け取ったエネルギーが、どの様なかたちで調和しているのかを、天の中心におさめているようにも見受けられる。

     草木が天に向かって伸びていくには、土台が必要になる。大地に根をはり、環境に適合する事。植物が芽生えると、芽は重力とは反対方向に伸びるが、その分、根は重力と同じ方向に伸びる。重力屈性。背地性と向地性。負と正、マイナスとプラス。環境に適応する為の絶妙なバランス。そこから芽は茎となり、茎は幹となるが、同じように地中の世界でも根が成長している。

     環境に在るものは、重力だけではない。空気、光、水、大地。陽気がよくなれば、普段は目にすることのない地中の闇の世界も活発になってくる。根は地中の世界と交信、呼応し、生きる力を営むエネルギー、営養をいただく。根が営養をいただいた分、芽生えから茎が生じる。そして天に向かって伸びる。これは、さまざまなものに支えられ、成長した自分を天の中心におさめているように見受けられる。

     天の中心におさめることで、天が無償に降り注いでくれているものに気づく。そして、それを受け取る資質を元々有している事にも気づく。感謝しながら、気づいたものを受け取る為に、葉っぱを伸ばす。呼吸をとおして。そして、葉っぱから得たものを自分なりに咀嚼、合成し、環境に配慮、還元しながら、自らの養分とする。

     養分を受けた根は、葉っぱが十分に受け取るものを受け取れるように、地中で呼吸をとおしながら伸び、営養をいただく。そしてまた茎は伸び、その循環のなかで生長する。

     縦のつながりというのは、そういうものではないだろうか。おさめて気づく。その繰り返しに生長と成長があると思う。

     

     

  • 愛と言葉・・・2

    こんにちは。

     今回のブログ担当も、今日で最後となります。今週は雪がチラついたりして、底冷えした日もありましたが、ようやく春の足音が感じられるようになりました。風も少し暖かくなり春の匂いを感じます。紅梅のつぼみも、知らぬ間に膨らみ、ようやく花開いてきました。

     春の匂いのする風というのは、なんだか気持ち良いですね。そういえば、やさしい言葉のことを「春風心」と言うそうですね。春風のように、ふんわりと人を包んであげる言葉という意味だそうです。せっかく春がすぐ近くまできているのですから、そんな言葉を心掛けたいですね。

     鎌倉時代の禅僧、道元は「正法眼蔵」という書物を遺されました。「正法眼蔵」の菩提薩埵四摂法に愛語の項というのがあります。
     ここで、それを書き出すということはしませんが、道元の「愛語」に感銘を受けて、その愛語の精神を生きる指針とし、身をもって実践した人が、江戸時代の良寛和尚だといいます。
     やはりココロにヒビク、コトノハというのは、時代を経てもイノチをもち、新たな現象を生じさせるのですね。
     

     また、現代では酒井大岳という方が「正法眼蔵の愛語に学ぶ」という本を出されています。冒頭の「春風心」という言葉は、この本からでした。春風心は母の愛だといいます。
     
     父の愛はというと「秋霜心」。こちらは、きびしい言葉。身が引き締まり、目覚めさせ、変えてゆく力をもつ言葉。

     父の愛の言葉は、その時は反発もあるだろうが、将来の発展につながる言葉でなければならない。そして母の言葉も、その時はほっとしても、後々怠惰につながってしまうようではいけない。
     母の愛の言葉も父の愛の言葉も、その場しのぎとか、その場限りの言葉ではないということ。時空の間を超越して、より良くなるものなのだ。

     母の愛と父の愛、2つ揃えば功徳は無尽蔵。そしてそれは、イノチを紡ぐ自然のなかに在る。母親と父親の親の親の、そのまた親。陰(−)と陽(+)を設定し、おおいなる自然を創りたもうた、おおもとの親の愛にある。
     それは太極であり、その理念である愛と調和なのだ。そしてそれは、自然法則の内に在る。

     酒井大岳氏は「正法眼蔵の愛語に学ぶ」の中で、このようにも書いています。
    「真実の愛語は、自然の法則、宇宙の法則に反する世界にはないのです。人間だけでなく、一切のかかわりあいの不思議にしっかり目を向けたうえでの『愛語』でなければなりません」

    「真の愛語は、自然の法則の外にはなく、たとえその場でうらまれても、先の先へいってかならずほんとうの喜びをもたらすものです。そしてその愛語は、決して1対1のことにとどまらず、いつの時代(永遠)の、だれの心(普遍)をも、しっかりとうなずかせるちからをもつものでなければなりません」

     道元良寛橋本敬三も、おおもとの親の愛の学びに、その生涯をささげていたのだと思います。

    正法眼蔵の愛語に学ぶ

    正法眼蔵の愛語に学ぶ

     
    今回は、このへんで終わろうと思っていたのですが、今朝、新聞を見ていて素敵な詩があったので紹介します。

     産経新聞朝刊より、朝の詩。


                  東京都杉並区
                   松崎 義行 50
    私の手を包んでくれた
    あなたの手
    私の手が
    おぼえている
    あなたの
    冷たい手の温かさ
                 (選者 新川和江
                         *敬省略

    一週間どうもありがとうございました。
    明日からは中谷さんの担当となります。
    来週もどうぞよろしくお願い致します。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 愛と言葉。

    おはようございます。

     昨日は、操体の創始者、橋本敬三先生を想い、その歩まれた道のりをちょっとだけ書きました。その中で「この世は現象による『報い』が成立する世界なのだ。愛はあっても、それを現象に反映させなければ物事は始まらない」と自分自身で書いたのですが、読み返していて、「そうだよなぁ」と自分で妙に納得していました。

     操体について何か書いているときというのは、何か自分以外のものに突き動かされて書いていると感じる時があるのです。自分以外のなにかとは、やはり自分と共に在るイノチなのではないでしょうか。
     自分なんてのは、ほんとにちっぽけな存在だ。しかし、自分と共に在るイノチというのは、あらゆるものにつながりを持つ事ができ、無数の記憶を包含していると感じる。
     そういうイノチと、皆、誰でも共に歩んでいる。これは人間に限らず万物、万象につうじるものだと思います。そして、イノチとイノチは時空を問わず、表在的にも潜在的にもつながりをもっている。だから、皆、個性的ではあるが奥底にある良心は同質なのだと思う。イノチとイノチをつなぐもの、それは愛しかないのではないでしょうか。

     「愛はあっても、それを現象に反映させなければ物事は始まらない」自分自身で書いた、この言葉を反芻してみる。そして、愛を現象に反映させるものとは、と考えてみる。色々と突き詰めていけば、言葉しかないことに気づく。
     綺麗な花や高価な宝石のプレゼントがいいと言う人もいるだろう。しかし、それらは持っていける範囲が相当狭く、自分の行動範囲に限られてしまうだろう。そして、花は時が経てば枯れるし、宝石だって磨かなければ、ただの石ころのようになってしまうのだ。
     愛は時空を超えている。それに見合うものとなったら言葉しかない。
     

     創始者は言葉の持つ力、言葉の重要性というものも、広く人々に解ってもらおうと啓蒙した人であった。よく「言葉は運命のハンドルだ、善きことを想い、善きことを述べよ」と言っていたと聞きます。
     また、著書の中には度々、ヨハネ伝から「最初に言葉あり、言葉は神と偕に在り、言葉は神なりき。万の物これによりて成る」という文章の引用がみられる。引用ではあるが、この文章には創始者のこだわりというか、想いが感じられる。
     「言葉は神と偕に在り」という文言を見て感じたのだが、想いを込めずに単に引用しただけだったら、「偕に在り」という漢字の使い方はしないと思う。「偕に」の偕は人偏に皆、人は皆ともとれる。そして「在り」は存在にも自在にも共通してある漢字だ。
     「言葉は神と偕に在り」創始者の想いを察すると、言葉は神と一緒に人間皆がもっている、万物、万象とつうじ合っている人間のイノチがもっている、という様に感じられる。

     考えてみれば、言葉で表現できるのは人間だけであり、言葉で表現できるから人間は色々な文化、文明を創造、構築できた。文明を構築できるという事は、自然環境に手を加える事ができるということでもある。他の動植物では自然環境に、これ程までに手を加えられない。他の動植物に多大な影響を与えているのだ。
     万物、万象のイノチは平等であり、それぞれに尊い。しかし、法位は違う、人間の法位は特別なのだ。言葉をもつことによって、神と偕に同じ創造主の役割を担っているのだとも感じる。責任重大だ。

     しかし、言葉はただ単に発するだけでは、文化、文明を創造するような力は持たない。時空の流れの中で、ぱっと出て、すぐに消えてしまうだろう。理念の無い言葉というのは創造力を持たないのだ。イノチにヒビク、コトハでないと。
     神が理念を宣言して宇宙を創生したように、人間も理念をもって言葉を発しなければ創造性は発揮されない。人間の理念と神の理念が近しいほど、創造性は発揮され、それぞれのイノチにヒビキ、人のココロに何年、何十年、いや永遠に刻まれるものとなったり、末永い文化、文明の構築、発展につながるのだと思う。そう、愛と言葉は時空を超越するのだ。 

     神(創造主)の理念、それは「愛と調和」である。愛と調和への導き、それは自然法則の内にある。
     自然法則を学び、愛の本質を感じていくことこそ、愛と調和という理念を学ぶ事につうじる。人間が特別の法位にあるといっても、万物、万象全てに生かされて生きているのだから。
     そして、自分自身の置かれた時空環境の中で、より良い愛の波動を偕った言葉を、意識して発していく。これも一生ものの、実践をとおしての学びなのだと思います。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980