カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 生者と死者・・・2。

    おはようございます。

     

    ちょっと昔の記憶が、ふと、蘇えって来た。

    ちょっとといっても、私がランドセルを背負った小学生だった頃の事だから、随分と昔のことになる。

    内気で気の弱いMちゃんという同級生がいた。学校の帰り道が同じ方向だったので、よく一緒に帰った。

    あまり口数が多くなく、大抵は私がベラベラしゃべっているという感じだったが、その日は何だか晴れ晴れとした表情で、こう言った。

    「俺、もうお化け怖くなくなったんだ」

    「へぇ~、どうしたん、なんで?」と聞くと

    「それはさぁ、友達になっちゃえばいいんだよ」と、その秘訣を教えてくれた。

    実際にお化けを見たわけではなく、まだ見ぬ見えないものを恐れ、夜中にトイレにも行けなかったMちゃん。しかし、考え方、想いを変えただけで、まるでへいちゃらになってしまった。行動まで変わる。その変化の循環は性格にも表われ、何かどっしりしたようにも感じた。これも一つの観の転換なのだと思う。

    今思い出すと、何だか合気道塩田剛三先生が「合気道で一番強い技はなんですか?」と聞かれ「それは自分を殺しに来た相手と友達になることさ」と答えた言葉とも重なり、妙に納得でき、感心させられてしまう。

     

    生者と死者。昔の昔、古代の中国では、死によって形を失ったものを鬼としていたという。鬼はキであり帰でもある。五行大義には「鬼は帰なり、古は死人を帰人と為すと謂う」と記されており、死者を帰人としていたのだという。

    「帰」とは、其処から出て行ったものが再びその元のところに戻ってくることの謂。元のところとは、そのものの本来の居所なので、そうなれば帰人すなわち死者こそ本来的、第一義的人間であり、生者はそれに次ぐ仮の存在、第二義的人間にすぎないことになるという。

    物事、モノコトの始まり、を想えば納得のいく話でもある。モノコトナリの元の元には太極が在り、その太極が理念をもって陰と陽を設定したことから、すべてが始まったという事。

     

    鬼の語源は、オン(陰)やオヌ(隠)が転じたもので、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものを意味したという。

    鬼というと、どうしても角が生えた化け物のようなものを想像してしまうが、元々はそうではなかったということであり、生者の社会的秩序を保とうとするその想念が、化け物のようにしてしまったとも考えられる。

    いつの世でも子供は言うことをきかない。言うことをきかせて、社会の一員として立派になってほしいと思えば、畏怖する対象をもたせる事も必要ということなのだ。

    しかし、そういう生者の都合ばかりを先行させ、死者を遠ざけてばかりいると、生者は死の恐怖から逃れられなくなるだろう。その恐怖は、カタチが壊れる恐怖やカタチあるものへの執着として表われ、常に不安を抱えながら生きるという事につながるのではないだろうか。それでは生かされて生きる幸福の本質が隠されてしまう。

    ちなみに操体では、肉体の死を死としてとらえずに、帰一の法則としてとらえている。帰一とは、命あるものは無条件の愛から生まれ、そして、その神性に帰っていくことを謂う。

     

    Mちゃんは、お化けと「友達になっちゃえばいいんだよ」と教えてくれた。

    それまで本人は、よっぽどお化けが怖かったのだと思う。怖くて怖くてそれでも怖くて、そんな時、想いの質の転換が起こった。陽から陰ではなく、陰から陽へと転換されたのだ。

    その転換を可能としたのが、一人一人の生命に貫通する太極の意志だったのではないだろうか。

     

     

    2015年冬季東京操体フォーラム 12月5日(土)6日(日) 二日間開催します

    詳細は東京操体フォーラムHPをご覧下さい

  • 生者と死者。

    おはようございます。

     

    人間を陰陽で捉えると、男女だけでなく、生者と死者にも分けられる。分けられるだけでなく「一は二にして、二は一」。表裏であり、統合であり、調和の像の現われでもある。

    生者と死者。オドロオドロしく考えずに、今、生きている自分自身の内には、生者と死者が混在していると捉えてみる。

     

    今、息をしていられる自分自身の内には、死んでいく細胞、死んだ細胞の存在がある。そういう細胞のお陰で自分自身は生かされているともいえる。

    例えば、人体を包み込んでいる皮膚。その表皮細胞の最表層、つまり外界との境界の最前線で、様々な働きに関与しているのは死んだ細胞なのだ。

     

    生命科学や医学としての皮膚本来の働きの研究というのは、まだまだポプュラーではなく、一般的には広く知れ渡っているとはいえない。しかし、その役割や働きには驚くべきものがあり、熱意ある研究者によって、その科学的研究成果も徐々に明らかにされてきている。

     

    勿論、操体も昔から皮膚には注目していた。そして臨床の中から、皮膚に問いかける診断分析法が体系化されていった。そして、既に平成11年には、三浦寛先生著作による「快からのメッセージ・哲学する操体」の中に、その取り組みの過程や成果の程が書き表されている。

    私たちの師が、臨床の場で信念を持って実践して築き上げてきた事が、科学的根拠や研究実績によっても裏付けられてくるというのは、凄く嬉しい事である。

     

    「快からのメッセージ・哲学する操体」の中で三浦先生は、「皮膚という器のなかでイノチが機能する」と書いているが、それだけ皮膚は人間にとって、いや全ての命あるものにとって大変重要で、これなくして生命は全うできないというものである。

    その皮膚の最表層は死んだ細胞の集まりで出来ており、それが生きた細胞と連携し、そしてからだの内部にも、心にも働きかけているから、私たちは生きていられる。

    「生者」も「死者」もつながっている。「一は二にして、二は一」表裏であり、統合であり、調和の像の現われでもある。

     

    快からのメッセージ―哲学する操体

    快からのメッセージ―哲学する操体

     

     

    皮膚に問いかける診断分析法は渦状波と名づけられたが、
    「渦状波®」は 三浦寛先生の登録商標です。 

     

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  • 日々生まれ変わり。

    おはようございます。

    日一日と、日が昇っているあいだが短くなり、一日一日があっという間に過ぎていくように感じる今日この頃です。

    今年も、あと一ヶ月と半分ぐらいなんですね。

     

    年単位で考えると、歳を追うごとにエントロピー増大へと向かうような気もしてきてしまうが、一日一日が日々生まれ変わりと捉えれば、先行きの不安は解消されてくるのではないだろうか。

    死んで生きる。死んで生きるというと、ゾンビみたいなものを想像してしまうかもしれない。

    しかし、そういうオドロオドロしいものではなくて、自我を捨て、今、息をしていられる自分自身を、陰陽の展開のうえに成り立っている存在として捉えてみる。

     

    陰陽の展開は、ミクロからマクロまであらゆる事象にみられる。そして、それがある一定の秩序、法則の元につながりをみせている。

    人体は小宇宙とよく例えられるが、小宇宙から宇宙へ、宇宙から小宇宙へ、小宇宙から更にミクロな小宇宙へ、すべては陰陽の展開による。そして、そのように陰陽を設定したのが太極である。

    自分自身のミクロな部分に目を向ければ、細胞という存在が浮かび上がる。60兆個とも70兆個ともいわれる人体の細胞は、常に生き死にしている。

    実際に私達の細胞は、日々刻々と生まれ変わりを繰り返しており、3ヶ月もすれば全体が入れ替わっているという。

     

    3ヶ月というのは、四季のうつり変わりにもつうじるものがあると思う。陰陽の展開による四季折々の自然環境。それに対応してくれる、からだ。

    暑ければ冷房を入れればいい、寒ければ暖房を入れればいい?そんな単純なものではない。呼吸、飲食、身体運動、想念、すべてに影響し、関わりをもっている。

    日々刻々の生まれ変わりが、自然環境をはじめとする様々な環境変化、時空への適応を可能としている。

    人体という小宇宙では、常に生死が繰り返され、循環が生(な)されている。そのうえに成り立つ自分自身。生かされて生きている。有り難い事だ。

     

    日々、その一日を肯定的に捉え、心底満足して、感謝する。それは太極の理念に調和し、より良く生まれ変わる事につうじるだろう。

    四季折々の陰陽展開による自然環境をはじめとする様々な環境にも、からだ全体がより良く適応でき、結果的に12ヶ月という一年間が息災となり、実年齢より若々しくいられるのではないだろうか。

     

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  • 困沌にして混沌。

    こんにちは。

    今週のブログは友松が担当いたします。

    どうぞ、よろしくお願い致します。

     

    朝方までつづいた雨もあがり、スッキリと晴れてきました。

    空を見上げれば、天高くなればなるほど青さが増し、濃く深い色になっていくように感じます。まあるく空気に包まれて、その先の宇宙が昼間でも意識できる気がします。

    地表を見れば、赤く色づいた楓や黄色い銀杏で彩られた山々、朱色に実った柿の実や橙色のみかん。秋も深まってきましたね。 

    色々なものが見え、色々な事が感じられる。混沌の中にも秩序あり。だからこの一瞬の景色が美しく感じ、なにかヒビクものがあるのかもしれない。

    これから日一日と日も短くなり、寒さが増し、この景色も様変わりしていくだろう。今年の冬至は12月22日だそうだが、その頃には柿の実も落ち、黒い枝にわずかに残る茶色の葉が寒空に揺れる光景となっているだろう。寂しい気持ちにもなるだろうが、かといってずっと実をつけているわけにはいかない。全体の中の秩序。 

    冬至を含む子月。子月は陰が尽きて一陽来復の陽の始め、陽始であり、陰の終わりの陰終でもある。ものの終わりであって始まり。「子」という字は「一」と「了」。「始め」と「終わり」が同時に在るということ。 「五行大義」では「子は困沌と名づく。陽気混沌をいう」というのだという。

    うん?字が違う。困沌と混沌。困沌の困の字は、木が四角く囲われて伸びられない状態。困沌とは進退窮まることを意味しているともいう。

    困沌にして混沌。なにか進退窮まるかたちとなっても心配いらないと励まされているようでもある。万象を輪廻、循環として捉える古代中国哲学に於いては、混沌は太極とされ、太極は子であり、輪廻、循環の中枢と意識されているのだという。 

    柿の実はいずれ落ちても、それは新たな生命を生じさせる始まりでもある。先の事を自分の視野で考えて、悲観してもしょうがないという事でもあると思う。明けない夜はなく、上がらない雨もないのだから。

     

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  • 調和へ。

    おはようございます。 

     2、3日前に新聞を見ていて、ちょっと驚いた事がありました。その見出しには「盆踊りは騒音?イヤホン利用や密閉空間の練習」という文字が躍っています。
     盆踊りというのは、音楽や太鼓の音があって当たり前、それに合わせて皆で賑やかに踊るものだと思っていましたが、最近は変わってきているようですね。盆踊り会場へ行くと、無音なのだという。無音で浴衣を着た人達が踊っている状況。想像すると、なんだか幽霊でも出てきそうな感じがします。
     そうしなければ、音楽や太鼓の音を騒音と感じる人から、すぐに苦情が入るのだという。やむなく、音楽をトランスミッターを使って電波で飛ばし、踊り手は持参した携帯ラジオとイヤホンで音を聴きながら踊るようにしたのだという。そこから一つの音楽の電波を飛ばすだけでなく、複数の音楽の電波を飛ばようにして、踊りの隊列やスタイルも変えるアイデアに結びついたという。
     ある自治体では、踊りの輪を2重にし、外側の人達には「炭鉱節」内側の人達には「踊るポンポコリン」が聴けるようにし、そうすることで、逆に大人も子供も同時に楽しめ、幅広い世代の参加につながっているのだという。

     記事を読んでいて、個人主義もここまできたか、といった感があった。確かに、みんながそれぞれ、たのしめるのは良いことだと思うが、同時に何か、それで良いのだろうか、といった気持ちや、なんだか寂しいような気持ちにもなってきた。
     一箇所に幅広い世代の人が集まるのなら、同じことをとおして皆に益のある事が、望ましいのではないでしょうか。なにか、地域の伝統的なものを、年配層が子供や若い世代に伝える機会を、みすみす逃しているようにも感じます。
     代々受け継がれてきたものには、何かがある。それが自然の理念にそぐわないものであれば、すぐに消滅している筈なのです。
     お囃子の囃子言葉などは、遡ればヘブライ語の、神々への感謝や賛辞の言葉につうじるものがあるという。そういった言葉でリズムをとって発声し、からだを動かせば、その動きも自然と自然法則に見合ったものに近づいていく。内臓の働きも良くなり、普段食べているものでも、凄く美味しく感じられる。「息」「食」「動」「想」と「環境」の調和が、そこにはある。
     踊り方を知らない子供や若年層に、踊る愉しさを教える。若い人達も、教えてもらう有り難さを感じ、年配者は教えて引き継げる有り難さを感じる。有り難く感じるという事は、気持ちがいいことでもある。そういう場が少しはあっていいと思います。 

     盆踊りは夏の風物詩でもある。騒音として苦情を入れる人にも、何か理由があっての事と思うが、ちょっとの期間だけのことなのだから、なるべく大目に見てやってほしい。蝉の鳴き声がうるさいからといって、蝉に文句を言いに行く人はいないはずです。観の転換をはかり、おおらかで豊かな心をもつということも大切だと思います。

     勿論、個人の権利や主張は、尊重されなければならない。しかし、そちらばかりに傾くのはどうかと思う。それでは人間関係もギスギスしてしまい、ストレスにもつながってしまいます。 
     相対的に捉えると、どうしても個の利益、損得の思考が働いてしまい、対立を招く事となりがちです。それでは安心は得られない。そこから精神的ストレスを生じさせ、からだを歪ませ、さらに精神的ストレスを増大させ、病みの状態となっている人も多いのです。

     これからは個人を尊重しつつも、調和に向けた心の持ち方が必要です。相対的なものを超えた絶対的なものに意識を向けていく。絶対的なものに意識を向けるほど、今生かされて生きている、その有り難さが感じられ、心も安らいでくると思います。 

     ストレス学説を唱えたハンス・セリエは「ストレスに打ち勝つには”東洋の感謝の原理”にその秘訣がある」と説き、その原理とは「対立するものを生むのではなく、調和するものを生む哲学」としています。

      

    一週間お付き合いいただき、ありがとうございます。
    来週は、作務衣が似合い、浴衣や甚平も似合いそうな
    中谷さんの担当となります。
    来週も、どうぞ宜しくお願いいたします。 

    友松 誠。

     

  • 睡眠によって。

    おはようございます。

      まだまだ日中は暑いですが、夜は随分と涼しくなってきましたね。コオロギの鳴き声も聞こえてきて、秋の気配すら漂ってきています。
        昨日はよく眠れましたか?
     猛暑が続いていたころは、布団に横になってもなかなか寝付けなかったりとか、眠りについてもすぐに途中で目が覚めてしまったりとか、よくありましたよね。よく眠れないという事も、からだの歪みにつながりやすい。眠りの質にも関係しますが、眠りを妨げられるのは誰でもストレスですものね。
     毎日、眠ることができる。当たり前のことのようですが、有り難い事なんですね。

      誰でも、日中に様々な動作をしている。重いものを持ち運ぶことが多い人、車の運転が多い人、デスクワークの人、色々な職業の人がおり、色々な姿勢から色々な動作をしている。その動作が不自然であれば、局所的に疲労を蓄積することになる。
     疲労を老廃体液が貯留して異常な緊張感覚が起こっている状態としてみる。その状態から時間的にも、空間的にも無理をすれば骨格関節にも変位が生じてくる。局所の変化が波及して歪まぬよう、バランスの崩れとならぬよう、姿勢を変えてそれまでの動作とは違う動きがしたくなる。
     畑仕事をしている人が、疲れを感じて、腰を伸ばしてトントンと叩いている姿などは、この現われだと思う。

      そうやって日中にも、からだから感じとることで、疲労を蓄積しないように、誰でもしていることがあると思うが、どうしても不十分だ。
     自然の力を借りるしかない、自然に癒していただく。それが睡眠ということでもある。
     寝相も、その現れであり、眠りながら色々な動きをするのは、力学的に体重力を活かして、局所的な緊張変化、内圧の変化、脊柱配列の変化などを調整し、からだの歪みというストレス状態にならぬよう潜在意識が働きかけているものである。

     潜在意識が行なっている自然良能作用。これを橋本敬三先生は、天の御中主(+)(-)のバランスの神様が行なっているとも表現している。太極のことである。太極の意志である愛と調和が、人間にも貫通しているからこそ、潜在意識が自然と一体となり、自然良能作用が現れる。
     潜在意識は宇宙意識とつながっているというが、何だかわかるような気がする。宇宙という現象も太極の意志という潜象の現われなのだから。

     寝相というのは、動きによって力学的外圧を活かしているだけではない。呼吸によって空間と交わりながら内圧と、そのリズムによっても自然良能作用を発揮している。空間のみならず、無意識の中で時間的なことが加わってくるのだから、宇宙を意識せずにはいられない。
     その時空では、時間も一方通行ではなく、時環となっていることだろう。そうでなければエントロピーは増大するばかりとなってしまう。人体は小宇宙だと表現する人も多いが、正にそうなのだと思う。

     眠りというのは有り難いと思う。絶対的「救い」の世界でもある。眠るときは、相対的な思考は、はさまぬほうがよい。その日一日がどんな一日だったとしても、生かされて生きた事には変わりないのだから。その事実は絶対なのだ。「有難う御座いました」と言葉にだしてみる。
     絶対的なものに意識を向ければ、嫌な事があった日でも、心は落ち着いてくると思う。あれこれ考えず「有難う御座いました」で区切ってしまう。そして、自然に身心を委ねる。潜在意識に、より良く働いてもらうためには、生かしてくれている自分自身に対する、また自然に対する、そういった働きかけも大切だ。
     人は日々、生まれ変わっている。その変化を有り難く受けとり、より良く快適になる生まれ変わりとしたいものです。

     

  • 教育によって。

    おはようございます。

      ルカやマタイやマルコ、キリストの弟子達の書いた福音書の中には、このようなくだりがあるようです。
     
     イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。
     「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこにはいることはできない」
     

     今回のブログのテーマである「歪み」のことを考えていて、このキリストの言葉が浮かんできた。

      バランスが崩れて生体が歪む。そのバランスとは? 生命エネルギーのインプットとアウトプットのバランス。
     色々あるが、絞っていけば「息」「食」「動」「想」につきる。この4つは自己最小限必須の責任生活である。
     責任を問うなら、法則がなければならない。その法則は誰がつくった?誰がつくったとかそういう次元ではなく、大いなる大自然に自在するものである。
     そして「息」「食」「動」「想」と「環境」とは、鎖の輪のように密接に係わり合いながら存在を成立させている。
     「息」「食」「動」「想」が自然法則に背反すれば、バランスは崩れて生体は歪む。また「環境」が苛烈であっても、「息」「食」「動」「想」のバランスは崩れざるをえなくなり、生体は歪んで対応するしかなくなる。

     この「環境」の苛烈さについてなのだが、人為による社会環境が熾烈で、自然環境が著しく汚染、破壊された公害みたいな問題は、直接的に生命の危機にも陥るケースもある為、環境との調和の重要性とか、自然環境の大切さというものが、目に見えるかたちで理解できる。
     しかし、自然環境を物理的に汚染、破壊していなくとも、人為・社会的環境が熾烈で自然環境の有り難さを隅に追いやってしまっているという問題もある。こちらは解りづらい。解りづらいが、これは乳飲み子から子供、大人へと成長する段階において、すごく大事な事だと思う。

     みんな誰でも、自然の一員として、この世に生まれてくる。そして呼吸をし、次第にハイハイから二本足で立って歩けるようになっていく。これは自然環境の空間のお陰である。そして、生きていくには食べ物を食さなければならない。これは親が面倒を見てやらなければならない。ここで人為的要素が加わる。「息」「食」「動」ここまでは本能で生きる他の動物と似ている。しかし、「想」は言葉を有して文化、文明を創造できる人間独特のものである。親は子に対して愛情を注ぎながら、言葉によって人間社会に適合できるように躾け、教育する。

     この過程に於いて、親や教育する側の人間は、自然環境の有り難さを語り継ぐ必要がある。息ができるのも、重力の作用を受けて地球に居られるのも、自然環境のお陰なのだから。これを当然の事なのだからと、隅に追いやらないことだ。自然を切り離した教育は、自然法則への背反が生じやすくなる。バランスを崩し、年端もいかないうちから、からだの歪みによる不調を抱えこむ、ということにもなりかねない。
     人為・社会的環境の中での常識とか規範を教える事も重要だと思うが、自然への畏敬と感謝を忘れずにバランスのとれた教育が望まれると思う。 

     私はキリスト教やキリストについてよく知らないが、冒頭の福音書に戻ると、イエスは人為・社会的環境の影響を受けず、自然環境に身を委ね、母親の愛情と自然の本能によって抱かれている乳飲み子を見て、「神の国はこのような者たちのものである」と言ったのではないかと思う。
     そして、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこにはいることはできない」という言葉は、人為・社会的な常識とか規範ばかりに捉われ、自然の有り難さや人間や自然をつくった創造主(神)を見失っていた弟子達(啓蒙、教育する側)に対する戒めのように感じる。

  • 息によって・・・2.

    おはようございます。

      「息」「食」「動」「想」これらにかかわる「環境」。これらはすべてが鎖の輪の様につながっており、同時相関相補連動性であり、あるものが悪くなれば他のものも悪くなる性質と、あるものが良くなれば他のものも良くなる性質があります。
      操体臨床の現場では、からだの歪みから感覚的バランスを崩し、様々な不調や症状疾患を抱えた人を診させていただいている。その時「動」に着目し、動の自然法則を応用して、被験者に動いていただき、動きのなかで快をききわけていただき、からだの要求に則った快を味わっていただきます。
     そうすることで、「動」から「息」「食」「動」「想」と「環境(自然環境)」の調和が密になり、バランス快復へとつながり、結果的に不快感覚の消失、様々な不調や症状疾患の解消、改善がみられます。これは、同時相関相補連動性になっているお陰とも言えます。

      からだの歪みは、ツクリと動きに歪みが生じていることを指すので、「動」から快適感覚の問いかけを行なうのが、一番手っ取り早いということになってくる。
     しかし、「動」だけで臨床をとおしているわけではない。身体運動の法則に呼吸との相関性があるように、「動」と「息」とは相関しており、呼吸によってもからだが動き、からだの歪みが調整され、心のバランスをはかって癒す事も出来る。 

     この「動」と「息」との相関性を活かす取り組みは、操体創始者、橋本敬三先生が現役の時から行なわれていた。
     しかし、その取り組みは呼気が中心であり、それが近年まで継続されていた。それが間違っているというわけではない。ただ、より良くからだの要求に応えようとすれば、それだけでは十分ではなくなってきたのだ。
     これは、時代背景もあるだろう。この何十年かの間に、人為・社会的による環境の変化がどれだけあったろうか。物質的に格段に豊かになり、それまでの暮らしとは雲泥の差がある。生活の質も変わり、人間のからだは、以前と比べ格段に自然から離れてしまってきていることは事実なのだ。

     また、呼吸も気持ちよさを、からだにききわけてみれば、呼気よりも吸気の方が気持ちよい場合もある。それに、身心のバランスが崩れ、特に内臓疾患など抱えている場合などは、従来から良いとされている腹式呼吸はスムースに出来ないはずなのだ。
     個的観念からではなく、その気持ちのよさを優先するべきであり、どのような人でも、呼吸をとおしての気持ちよさがききわけられる呼吸の仕方が望まれる。気持ちのよさで、心身は調和に向かうのだから。 

     その望みは橋本敬三先生の遺志を継ぐ、三浦寛先生によってかなえられた。背筋吸気、骨盤呼気。5年前に出版された「操体臨床の要妙partⅡ 皮膚からのメッセージ」にも、その一部が記載されているが、当然それ以前から先生は、何度も繰り返し繰り返し、実践し、確認する取り組みをされており、間違いないと確信したものを5年前に記載し、そこから更に深めたものを、講習や東京操体フォーラムといった場で提供してくださっている。
     今までの固定観念は捨てて、受け止めたほうがいい。橋本敬三先生は「気持ち良さをききわければいいんだ、気持ちよさで治るんだからな」と宣言し、楽から快へのシフトチェンジをしてくださった。その意志を継ぎ、快に基づく操法を体系化したのは三浦寛先生なのだ。
     呼吸も快適感覚というフィルターにとおしてみれば、そのやり方が進化しなければならないのだ。背吸骨呼。特に背筋吸気は、バランスの崩れが著しい人ほど、快がききわけられやすいと感じるし、その効果には眼を見張るものがある。自然の法則を応用し、人々に貢献しようと思うなら、固定観念は捨て、快に基づき進化した呼吸法を学ぶ必要があると思う。

  • 息によって。

    おはようございます。

     自己最小限の責任生活必須条件である「息」「食」「動」「想」この中で、一番蔑ろにされているのは、「息」ではないでしょうか。しかし、本当は一番重要であり、だから一番最初に位しているのかもしれません。
     「息」つまり呼吸は、自分であまり意識しなくとも、この世に生まれた時から、からだと空間との間で交わされている、言ってみれば、生かされて生きているということの根底を成すものです。
     呼吸が出来なくなれば、生命はその存在を保てないのです。それだけ重要なものですから、もしかしたら自在する神さまが間(マ)をはかってくれているのかもしれませんね。
     呼吸を蔑ろにするということは、神をも蔑ろにするということであり、それでは神からはなれ、もともと神人合一だった像を歪ませざるをえないのかもしれません。

      呼吸は、健康状態、心理精神状態、対人、自然環境によって変化する。この変化と、からだの歪みは重要なかかわりをもっている。
     呼吸は身心のバランスがとれ、十分に満たせれている時は、深くて長い間となっており、これが健康時における自然呼吸の状態といわれている。逆に身心のバランスが崩れ、疲労している時や、内臓疾患、精神的障害を抱え込んでいる場合は、浅く短い呼吸の間となり、そうすることで身心のバランスを調整しようと働きかけている。

     また、「怒は肝を傷り、悲は肺を傷り、驚は腎を傷り、憂は脾胃を傷り、喜は心を傷る」という言葉があるが、これらの感情でその感情に応じたからだの動きがおこり、その感情を表す体位となることはよく知られているが、呼吸もその時々の感情によって変化する。
     平常心を失った感情によって、からだのアンバランスを招きやすくなるが、からだの動きと呼吸は不自然な中でも調和して、身心のバランスを調整しようと働きかけてくれているいる。

      心とからだ、からだの動き、呼吸、呼吸することで交わる自然環境の空間。有り難くつながり、循環している。
     多少精神的に落ち込んで、心身ともにグッタリしても、このつながりのお陰で、時間とともに空間的に癒され、気分は前向きになり、身体もシャキッとし、元気をとり戻せるのだと思う。
     しかし、精神的に落ち込んだ要因にいつまでも縛られていると、その不自然な中でもバランス調整に働きかけている呼吸や、からだの動き、空間の働きさえも縛ってしまう事となる。
     その縛りが時間的にも空間的にも恕限度を超えれば、からだは歪むことで対応せざるを得なくなる。
     精神的ストレスを抱えている時、身体的にも疲労の蓄積を感じている時は無理せず、からだの求めに応じて、リラックスできる体勢で休息してみる。休息するときに、呼吸に意識を向け、有り難く息がついていられる事を想ってみる。
     何かが変化している筈です。あまり欲で捉えない事。何かが変化するのは事実ですから。それを有り難く受け取る事で、より良い新たな展開が始まっていきます。

     

     

  • 感じとることから・・・2。

    おはようございます。

     私たちは、自然環境をはじめとする様々な環境と関わりあいながら、呼吸し、飲食し、動き、精神活動を行いながら、生命活動を営んでいます。

      これらの生命活動をバランスよく営む上で、欠かせないのが、感じるということです。例えば、息苦しく感じたら、衣服を緩めたりして、呼吸をスムースに行なえるようにする。営養や水分が不足しないよう、空腹や喉の渇きを感じたら飲食する(食)。身の危険を感じたら、動いて逃げる(動)。

     簡単な例を挙げてみましたが、普段何気なく行っている事でも、生命活動を営むうえで大切な事を行っていると思います。何気なくでも大切な事が行なえているのは、感じるということを元に「息」「食」「動」が調和しているからです。そして、調和を元にした行動が起こる。

     感じて、からだが動く。思考を超えて、そういった能力が元々備わっているということは有り難い事だと思います。

     お気づきかと思いますが、ここまで、「想」の精神活動の営みの事が出てきていません。それは、精神活動の営みは「環境」と「息」「食」「動」の調和のうえに成り立っているからです。

     「想」は言葉を有し、文化、文明を創造し、自然環境に手を加える事ができる人間独特のものだ。それによって色々な物事を発展させる事が出来る。他の動物からしてみれば神のような存在である。しかし、その反面、実相として自在する神や、神の創造った自然の秩序から離れてしまった存在でもある。

     精神活動の中の思考は、感じてからだが動くという、至極自然な領域では妨げやストレスになるものと思う。武道でも華道でも、その道の名人、達人と呼ばれる人達は、無の境地というものを大切にしているというが、なんだかわかるような気がする。

     では、感じてからだがうごく、その領域へは、精神活動は介入すべきではないのだろうか。いや、そういうことではない。感じてからだが動く、その自然を感じとり精神活動へ反映させていけば良いのだと思う。そうすることで「想」は他の「息」「食「動」」と調和し、「環境」に適応したより良いバランスとなっていく。

     からだが歪み、なんらかの不調を抱えている人は多いが、その人達に共通するのは、からだの自然な動きも、思考による自分の動きも混同してしまっているという事。

     思考による動きを無理にからだにとおそうとすれば、反発もある。健康体操の類を行なっていて、かえってからだを壊したという話が後を絶たないのは、その為である。

     まずは自然法則に則り、からだを動かしてみて、その感覚をからだにききわけ、感じとる事。それなくしてバランス快復への道はなく、歪みを正す道もない。