カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 身をゆだねる。

    おはようございます。

     

    今日で、今回のブログ担当も最終日となりました。今回のテーマは「ネガティブなエネルギーから身を守る」という事でしたが、最近はネガティブになるようなニュースが多いですね。

    インターネットのニュースでは、連日、元プロ野球選手の覚醒剤使用についての記事が載っています。ネガティブに傾いた心をどうにかしようと薬物に手を染め、身も心もボロボロになっていく。そんな様子の記事を読んでいると、こちらもネガティブな気分になってきます。せっかくあれだけの、からだを授かりながら、やりきれない気持ちになります。

    薬物は気持ち良いと聞きますが、気持ち良さの捉え方が間違っているのです。自我が求める気持ち良さと、からだ(神性なるイノチ)にききわけた気持ちよさは違うのです。からだを無視した気持ち良さばかり追いかけていると、いずれは身心に破綻をきたしてしまう。やりきれない気持ちになります。

     

    話題を変えます。暗いニュースばかりではなく、光明がさすようなニュースもありました。

    先週末、宇宙空間にできた「ゆがみ」が波となって伝わる現象、いわゆる「重力波」を観測することに成功した、とのニュースが入ってきた。

    非常に画期的な事であり、これによりアインシュタイン相対性理論が証明され、時空が歪むという事に否定的だっいた人も納得せざるを得なくなった。今までは望遠鏡で光を放つ物しか観測できなかったのが、ブラックホールの存在も証明できた。本当に観測に携わった人達の努力と情熱、その信念には頭が下がります。

     

    これによって、更に将来的には宇宙の誕生時の姿も見えてくるとする科学者もいる。何だかワクワクしてくる。

    この宇宙は、無極無限の太極が「愛と調和」の意志をもって陰(-)陽(+)を設定した事から始まる。その始まりに少しでも近づきたい、少しでも知りたいというのが人間の本音にはあると思う。

    しかし、無極無限というのは現象を超えている。現象界の人間が観測というかたちで、それを捉えるのには無理があると思う。現象というのは、陰(-)陽(+)の展開で成り立ち、相対的である。それを超えて陰(-)陽(+)を設定した無極無限というのは、どんなに相対性理論が優れていても、それを超越しているのだ。

     

    だからといって、それを知ろうという努力が無駄だというのではない。相対性理論は様々な分野で応用され、人類の発展に貢献している。操体の自然法則の原究にも、つうじるものがある。一括りで解ったつもりにならず、細かく噛み砕いていくことも必要という事。

    大切なのは、陰(-)陽(+)の展開で成り立つ現象界、つまりこの世は、横の相対的な「報い」という真理と、縦の「救い」という真理が交叉しているという事なのだ。

    縦の「救い」の真理というのは、陰(-)陽(+)を設定した無極無限の太極の愛と調和という意志が、この世の全てに貫通しているという事なのだ。もう少し言えば、それによって生かされて生きているという事は絶対的なのだという事。

     

    とかくこの世は世知辛いと言われる。「報い」の世界なのだから。辛い事も、悲しくなる事もある。しかし、そこで潰れてはいけない。弁証法という事もある。その時、辛い事、悲しい事が起こっても、それは自分の生長に必要な事なのかもしれない。良い経験をさせていただいたと思える時がきっとある。

    へこたれずに、より良く変わっていくには「救い」という縦の真理を交差させる事。今、生きているという事は、生かされて生きているという事であり、それは絶対的なのだ。

     

    「Let it be」言わずと知れたビートルズの名曲だが、この曲はビートルズが分裂状態になりつつあるのを、ポール・マッカートニーが悲観していた時、亡き母メアリー・マッカートニーが降りてきて「あるがままを あるがままに (全て)受け入れるのです」と囁いた事をきっかけに書かれたのだという。

    私が子供の時からある曲で、和訳だと「あるがままに」だが、「身をゆだねなさい」と素敵に訳す人もいる。

    「あるがままを あるがままに (全て)受け入れるのです」こうするには、囚われの心を放下し「身をゆだねなさい」なのだ。

    身をゆだねる中で、何かが変わる筈なのだ。身心一如。心は現実と理想の狭間で揺れ動いても、からだには、からだの細胞一つ一つにも、太極の意志である「愛と調和」は貫通しているのだから。


    辛い時に聞いて欲しい洋楽 Let it be-glee cast

     

    一週間のお付き合い、どうも有難うございました。

    来週は中谷先生の担当となります。

    来週も、どうぞ宜しくお願いいたします。

     

    友松 誠。

     

    2016年春季東京操体フォーラム 4月29日(金)昭和の日 開催決定

    速報などの詳細は東京操体フォーラムHPをご覧ください

     

     

     

  • 思想による束縛。

    おはようございます。

     

    操体の創始者、橋本敬三先生は、先の戦争後、ソ連(現在のロシア)で捕虜生活を送っていた事があったという。

    その当時、寒さや食糧事情もさることながら、一番苦痛に感じたのがスターリン主義とも呼ばれる、共産主義思想の強要であったという。

     

    その思想は、唯物論弁証法が組み合わさった唯物弁証法を基としていた。唯物弁証法の最頂点にあるのが「万物運動の起源は物に内在する矛盾から生じる」ということである。これを元にソ連共産党では「発展を期待するには、あらゆる矛盾を暴露し、その闘争を、激化して、現象を展開していかなければならない」という事が、根本命題として提唱されていたのだという。

    これだけでは解りづらいかもしれないが、唯物論というのは、全てのものは物質から出来ており、人間の精神、心の在り方まで脳髄の産物としてしまう論なのだ。これに「発展を期待するには、あらゆる矛盾を暴露し、その闘争を、激化して、現象を展開していかなければならない」ということを加えて、それを根本命題とする。

    根本命題なのだから、その根本から派生する事柄というのは・・・考えただけで恐ろしくなる。

    戦争をする独裁者にとっては都合のいい思想体系かもしれないが、その体制下にある国民は悲惨だろう。それは歴史が物語っている。密告の奨励、懲罰、粛清、内ゲバ、恐怖支配、疑心暗鬼、ネガティブなエネルギーのかたまりのように思える。

     

    弁証法自体は悪いものではない。プラトンソクラテスを出して難しく考えればきりがないが、簡単に考えれば日々の生活の中で身近にある。

    例えば、何か指摘を受け、それを素直に聞き入れ、より良く変わっていく。という事や、からだからのサインを感じ、生活の間違いを正し、より良く生きられるようになる。という事も弁証法だと思う。

    しかし、唯物論弁証法を組み合わせるのは良くない。何か指摘する場合でも、思いやりの心がなければならない。その人が潰れてしまうような、その人の可能性の芽を摘んでしまうようなことは言わない方がいい。

    また、その人との間柄、その場、その時に応じた言い方というのもあると思う。まぁ大抵は「それを言っちゃあ、おしめえだよ」という事は自然に感じとり、言葉に出さないでおいているのではないだろうか。

     

    弁証法も心との兼ね合いが大切と思う。人間を物として捉え「万物運動の起源は、物に内在する矛盾から生じる」では、人間の尊厳も何もあったものじゃない。

    この場合の、内在する矛盾とは陰(-)と陽(+)を指す。モノコトナリの起源をさかのぼり、陰(-)陽(+)までは認めるが、それ以上は無視して、無いとする。それでは心無いではないか。

    そんな思想では、心無い一言を平気で言えるようになってしまう。恐怖政治の体制下であったなら、自分の為ならと密告も横行するだろう。だから恐怖政治は自然の秩序のもとに崩壊、消滅する。そんな思想は現実的ではない。人間の創造る現実はもうちょっと温かいはずだ。

     

    東洋の思想では、陰(-)と陽(+)は異質の勢力であり、その陰(-)と陽(+)を設定したのは太極だとする。 無極無限の太極が「愛と調和」という意志でもって陰(-)陽(+)を設定し、愛と調和の意志の元に様々な現象が展開されるという事なのだ。

    だから、人間一人一人、万物すべてに、愛と調和という太極の意志が貫通している。こちらの思想の方が現実の本質をついていると思う。また、こちらの思想の方が、ずっと心温まり、安心するではないか。

    ネガティブなエネルギーの方へ心が傾いた時、このような本質をついた思想に、想いを馳せるのも善いと思う。

     

    2016年春季東京操体フォーラム 4月29日(金)昭和の日 開催決定

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  • 一番身近な理解者と偕に。

    おはようございます。

     

    心とからだ。からだは、心の状態に合わせてくれている。からだの歪体化現象も、その心の状態にからだが対応し変化してくれている、という捉え方もできる。しかし、心はどうだろうか、からだの要求に応えてあげられているだろうか。

     

    何か、精神的に落ち込んだ時というのは、からだもクタッ~となる。クタッ~となって合わせてくれている。合わせてくれているのだが、ただ合わせているだけではなく、間をはかっているような感もある。精神的に落ち込んで心身ともにクタッ~となっても、からだの方が先に無意識の内に姿勢を正そうと、何らかの行動を起こすように感じられる。

    伸びをしたり、立ち上がってみたり。そうこうしている内に心は落ち着きを取り戻して、前向きになってくる。まるで、はじめに慰められ、そして元気づけられて背中を押してもらっているような、そんな感じを受ける。

     

    感覚をとおして、からだに向き合うと、その様に感じるのが自然だと思う。本当に気分が落ち込んでいる時というのは、自分の意思により、伸びをしろとか、立ち上がれとか、からだに指示したり命令する余裕なんてない筈なのだ。からだが、より良く生きられるように働きかけているのは、確かな事だと思う。

    心とからだは1にして2、2にして1。からだだって心が落ち込んでいれば、ツラクなるのだと思う。だから、何とか生きる意欲を取り戻せるようにと働きかけてくれる。

     

    心もからだの声にもう少し耳を傾ける必要があるのではないだろうか。からだがイタイとかツライなどのサインを送ってきている時は、尚更なのではないだろうか。

    この、からだのサインを無視してしまうという事が、心とからだの不調和を招き、ネガティブなエネルギーを宿す一因でもある。

    からだのサインを無視する、その心。その心は、からだの有り難い働きなど当然の事として捉え、自分の道具のようにしか、みていないのではないだろうか。

    一番身近で、自分の一番の理解者であり常に協力的な存在を、あまり文句を言わないからといって都合のいい道具のように扱う、その心。その心をもってすれば、からだがいつもどおりいかなくなった時、もの凄く不満だろう。その我儘勝手な心がネガティブなエネルギーにつうじる。

    言う事を聞くしかない弱い立場の人を虐める、無抵抗な子供を虐待する。これらは、からだを道具のように扱い、壊しても自分に非はない、とするような人から生じるネガティブなエネルギーの暴発とも思える。

    今回のテーマである「ネガティブなエネルギーから身を守る」それは外部からではなく、まずは内部、つまり自分の心の在り方が重要なのではないだろうか。

    今、生きているという事は、生かされて生きているという事であり、自分一人で生きている訳ではない。生かしてくれている一番身近な存在は、からだであり、からだにもパーソナリティを認め、偕に生きていく、そんな姿勢が求められるのではないだろうか。

     

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  • 向き合い方を変えてみる・・・3。

    おはようございます。

     

    からだの歪み。それ自体は悪いものではない。からだは歪む事で、様々な環境、関係性から受けるストレスを軽減させて、その生命を維持できるようにしているのだから。からだが歪むという事は、むしろ有り難い事でもある。

     

    健康傾斜の歪体化を説明する時、どうしても、からだの歪みを悪者にしてしまうようなニュアンスとなりがちなのだが、からだが歪む事が悪いのではない。悪いのは、イタイ、ツライといった不快感覚という、からだのサインに気づいてあげられない、または気づいても放ったらかしにしてきた自分という事。
    また、自分自身の生命の本質は快に向かおうとしているのに、不快に安住しネガティブなエネルギーと仲良くしてしまう自分という事。

     

    不快感を伴うからだの歪みを可逆的に健康へと変化させていくには、気持ちの良い方向へと積極的に自分を導き、ネガティブなエネルギーを振り払っていく努力も必要。一生付き合っていかなければならない、自分自身のからだなのだから、からだの求めに応じた気持ち良さを、からだと偕に味わっていこうという積極的な姿勢も必要。

     

    しかし、積極的姿勢はあっても、どうしたらいいのかが解らないというのが、ほとんどの人の実情だと思う。昨日のブログでは、不快な動きの方向にからだが歪んでいるのだから、からだにききわけた気持ちの良い動きにより、歪みの整復と身心のバランス調整が可能であると書いているが、自分で好き勝手にただ動いていても、気持ち良さはききわけられないだろう。自分の動きとからだの動きは違うのだ。本能のみで生きる動物は動きが合一化しているかもしれないが、人間の場合は知恵が発達して勘が鈍った分、逆にそうはいかないだろう。

     

    だったら、その知恵を智慧にしていけばいいのではないだろうか。動きにも自然法則が在るのだから。ありのままの自分自身を感じ、動きを自然法則に合わせていく。それが、からだの動きを識り、日常生活でも活かしていけるという事につうじる。そして、その動きの感覚を、からだにききわけていくという意識行動が、人間本来の勘を取り戻していく事に重要なのだ。そうした繰り返しの中で、自力自動でも快がききわけ味わえるようになっていくと思う。

     

    はじめのうちは、なかなか上手くいかないと思う。からだが歪み、不自然な動きが習慣化されていると、イメージ通りにいってない場合が多い。だから、まずは操体臨床家の助け(介助)を受けてみるのが得策だと思う。自然法則というのは全ての人に共通するものなのだから、その素晴らしさを体感しておいて損はないと思う。

     

    自然法則は一見シンプルであり、その実とても奥の深いものである。そして様々な可能性を秘めている。自然法則に順応すれば、するほど良くなり、自分が思いもよらないところも良くなっている場合が多々ある。
    自然法則には人智を超えたものがある。それを、より詳しく、より深く原究し続けているのが東京操体フォーラムであります。
    動の自然法則は般若身経として体系化されているが、常に進化と深化を続けている。そして原究し、解明できた事柄については操体フォーラムの場で、公開させていただいている。
    春の操体フォーラムでも、シンプルさの奥に在る、快に向けてより良く生きる為の理ごとというのが公開されるはずです。興味のある方は、ぜひ足をお運びください。

     

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  • 向き合い方を変えてみる・・・2。

    おはようございます。

     

    施術者は、依頼者の症状疾患やそれに伴う主訴をなんとかしようと、真正面から依頼者の持つネガティブな感情や思想から生じるエネルギーと向き合うのではなく、角度を変えてそれらの元になっている、からだの歪みに着目してみる。

    操体では、からだの歪みを、単に局所的な筋肉の凝りや張り、関節の変位、脊柱配列の異常などの構造的変化だけで捉えるようなことはしない。動きも含め全身の系統的つながりが、重力をはじめとする自然環境と適応しているかという事も大切なのだ。

    そして動きには感覚が伴う。これが最も重要で、健康傾斜の歪体化で捉えれば、症状疾患の程度や期間の全期に渡って、不快感覚が伴っている訳だから、動きに対する感覚というものが重要という事であり、不快な動きの方向にからだが歪んでいるという捉え方をしてみるという事なのだ。

    そして、その感覚は感情や想念ともつうじている。ここに身体的なことだけでなく、心とからだが調和に向かう道理がある。不快な動きの方向にからだが歪んでいるのだから、からだにききわけた気持ちの良い動きにより、歪みの整復と身心のバランス調整が可能であるという事。

    その過程で、からだにききわけた、その快適感覚を十分に味わう、というプロセスがあるのだから、ネガティブなエネルギーを生み出す感情や想念も、快適感覚によって浄化されていくという事なのだ。

     

    実際に、からだにききわけた気持ち良さを味わった事により、思わず両手を合わせて合掌している人や、顔の表情が明らかに変わって少年、少女のように目をキラキラさせているの人も多い。そして、その言動も前向きでポジティブなものへと変わっている。

    これは、操者としても操体をやってて善かったと、嬉しくなる瞬間であり、もっと精進しようというポジティブなエネルギーが湧き上がってくる瞬間でもある。

     

    また、気持ち良さを味わっている時空、つまりタワメの間というのは、依頼者だけでなく、操者も依頼者との接触をとおして気持ちが良いのだ。気持ちが良いという事は、操者もより良く変わっていくエネルギーを得ているということでもある。

    操者も依頼者も一体になって、快に調和していく。そこには後向きでネガティブなエネルギーをつくり出している自我は消え去り、積極的に快に従おうとする生命の本質があるように感じる。

     

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  • 向き合い方を変えてみる・・・1。

    おはようございます。

     

    臨床に携わって、身心の不調、症状疾患を抱えた人と向き合っていれば、ネガティブなエネルギーとは無縁でいられない。

    なぜなら、ほとんどの人は身心の不調、症状疾患により不快で、それが嫌で、どうにかしてほしくて、こちらに依頼してくるのだから。

    施術する側もネガティブなエネルギーから身を守るすべを持たなくてはならない。

     

    そうしないと、施術する側も身が持たなくなってしまうのだ。悲しいことに、誠心誠意、依頼者の為に尽くそうとしている人ほど、自分のからだを壊してしまうことが多いのも事実なのだ。

    だからといって、チャランポランにやれという事ではない。依頼者との向き合い方をちょっと変えてみてほしいのだ。

     

    ほとんどの施術者は、依頼者の症状疾患やそれに伴う主訴をなんとかしようと、正面から直にネガティブなエネルギーとも向き合っているのが現状だと思う。そして、依頼者も現時点での不快感をなんとかしてほしいというのがほとんどだろう。

     しかし、火事の時に火元を消化しなければ、なかなか炎の勢いが弱らない様に、症状疾患の元となっているからだの歪みを正していかない限り、その症状疾患もなかなか改善に向かないし、ネガティブなエネルギーも弱まることはない。

    一時的に弱まっても、風が吹けば燻っていた炎が勢いを取り戻して燃え広がる様に、またぶり返してくる。

     

    今のその症状疾患というのは、今ぱっと生じた訳ではない。からだは、その人の生き方、生命活動に応じて変化するが、その積み重ねが系統だった歪みとなって現れてくる。その歪みの現れ方も、生命活動に間に合った状態であれば、不快感覚は生じない。

    しかし、その歪みも間に合わずに不快感覚を伴ってくると、時間・空間のかかわりと共に、微症状的なものから、今にも壊れてしまうような重い症状まで、様々な症状疾患が現れてきてしまう。

    突発的な事故であっても、健康傾斜の歪体化が進んだ状態であれば回復も遅れるし、ちょっとした事でも怪我をしやすいし、伝染も起こりやすくなってしまうのだ。

     

    施術する側は、症状疾患や依頼者の言い分ばかりに囚われることなく、そういった根本的な事柄に目を向ける必要がある。

    そうでなければ、高い志は持つことはできても、確とした信念や自身が持てなくなる。そして氾濫する健康情報、テクニックの矛盾に振り回されることとなり易い。志が高い分だけ、不満や不安、劣等感を感じやすくなり、ネガティブなエネルギーとも共鳴しやすくなってしまうのだ。
    それでは長い間続けているうち、身が持たなくなってきてしまう。

     

    2016年春季東京操体フォーラム 4月29日(金)昭和の日 開催決定

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  • 増幅ではなく、転換へ。

    こんにちは。

    今週は友松が担当いたします。

    どうぞよろしくお願いいたします。

     

    今回のテーマは「ネガティブなエネルギーから身を守る」との事。

    臨床に携わって、身心の不調、病みを抱えている人を診させていただいていれば、ネガティブなエネルギーとは無縁ではいられないと思う。

    私も開業する前は、色々な種類の手技療法を学んでみたくて、いくつもの治療院で働かせていただいていた時期があった。そのなかで、時々「邪気をもらっちゃったよ」という会話を耳にしたことがある。
    邪気という言葉はあまり好きではないが、要は患者さんからネガティブなエネルギーをもらい、自分も消耗して何か落胆した気持ちになったという事だと思う。

    確かに東洋医学には邪気という概念はあるが、あの人に邪気をもらったとか、そういうことはあまり言わない方がいいと思う。確かにそういうエネルギーはあって然りなのだが、もしそれを自分が言われていたらショックだと思う。

    誰だって、そういうエネルギーを多少は持っている。病気や怪我など何かの拍子に、ネガティブなエネルギーとして増大させてしまうこともあるだろう。同情こそすれ、邪険にした言い方をするのはおかしいと思う。

    しかし、たまに本当に嫌な顔で邪気をもらったとか言う人もいる。人から受けたネガティブなエネルギーを、増幅させるようにして、まわりに発散してしまうのだ。
    これは良くない。聞いた人は嫌な気分になるし、ネガティブなエネルギーをもたらしたとする人の事まで悪い印象を持ってしまう。

    イジメなどの問題にも当てはまると思うが、ネガティブなエネルギーを受けて、その嫌な思いだけをそのまま伝搬させてしまえば、コミュニティとして攻撃や排除の対象としてしまいやすいのだ。
    思いやりの心のないままではいけない。ネガティブなエネルギーを受けても、思いやりの心があれば、その様子を他の人に話す時も言葉をはじめ、その表現方法は調和に向けたものに変わるはずなのだ。

    調和に向けた変化。ネガティブなエネルギーを受けたなら、それを伝搬させずに抱え込めということではない。周囲に話す場合でも、臨床家であったなら、病みから立ち直るのを望むのが当然なのだから、その想いを優先させる。
    そして周囲の助言なり協力が得られれば、受けたネガティブなエネルギーも、その人を病みから立ち直らせる為のエネルギーへと転換されていくと思う。

    また、そういう信頼で成り立つコミュニティを持つ、そのようなコミュニティを皆で創造っていくという事も大切だと思う。

     

     

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  • 互いに生かし活かし合う。

    おはようございます。

     

    今日は日の出が綺麗でした。

    地にある建物や木々は引き立て役として黒くなり、その上の天につづく空が、曙色、オレンジ、黄金色と重なっていく。その重なりは、いつしか黄金色旺盛になっていき、黒い引き立て役だった木々や建物に彩を与えていく。

    なんだか、互いに生かし活かし合う、陰と陽のスムースな流れが表現されているようにも感じます。

     

    今回のブログのテーマは、陰陽でした。

    陰と陽は異質のものではあるが、必ず相対して存在し、大きくみれば一つのもの。

    異質なものでも相対して、互いに生かし活かし合い、現象を生じさせ、そしてより良く展開させていく事に、その本質があると感じる。

    これは操体臨床での操者とクライアントの関係にも当てはまり、2週間後の東京操体フォーラムでの、参加してくださる皆様とお迎えする側の私たちや講師陣の関係にも当てはまる。

    なにしろ陰と陽を設定した太極の理念は「愛と調和」なのですから。
    「愛と調和」のカタチが、どのような現象として現れ、展開していくか、愉しみですね。

    そして、その太極の理念が「愛と調和」だと悟った、操体創始者、橋本敬三先生の想いを東京操体フォーラムは受け継いで、長年つづけてきているのですから。

    興味のある方は是非参加してみてください。

     

    2015年冬季東京操体フォーラム 12月5日(土)6日(日) 二日間開催します

    詳細は東京操体フォーラムHPをご覧下さい

    尚、12月5日(土)と6日(日)の開催場所と開催時間は、今回は異なりますので
    HPで地図、時間等、ご確認ください。

      

    一週間お付き合いただき、ありがとうございました。

    来週は中谷先生の担当となります。

    来週も、どうぞ宜しくお願い致します。

  • 鬼門より。

    こんにちは。

     

    今日は朝から、どんよりと曇ってます。最近は雨が多いですね。

    晩秋の雨というと、例年は傘をさす手が凍えるような、そんな冷たい雨だったような気がしますが、今年はそれほど寒くなく、静かな雨に感じます。

    静かな雨。ちょっと前までは蛙の鳴き声が聞こえていたのに、今はそれもない。

    気温の多少の誤差はあっても、自然に生きる生き物というのは、天然の波長を感じとり、もう眠りに入ってしまったのでしょうね。

    静かな静かな晩秋のひととき。

    陰と陽の展開による自然の移ろい。そしてその一つ一つにはイノチが在る。

    その一体としての周期、リズムに調和和合する。

     

    人間だって、そういったリズムに調和和合していくことは、凄く大事な事だと思う。

    休息、眠りのひと時は大事だが、眠りというのは単に睡眠欲を満たすだけのものではなく、生まれ変わりの時空の間として捉えてみる。

    誰でも、寝ているときは無意識となる。無意識の無とは、まるっきり無の虚無ではない。すくなくとも、からだは無意識の時、無極無限の無限界つまり太極とつながっているのではないだろうか。だから、その時空の間に於いて本来の像をとり戻し、疲労回復につながる。

     

    鬼門というのがある。これは鬼の出入りする門であり、普通は忌み嫌われる方位であり、時間である。しかし「鬼は帰なり」という古(いにしえ)の人の教えに従えば、本来の第一義的人間である実相の自己が、行き来する方位や時間と捉える事が出来るのではないだろうか。

    鬼門は丑寅の時空。時間でみれば、丑はだいたい午前1時から3時、寅は3時から5時。この間は、だいたい4時間ぐらい。この間に無意識となり、からだの無意識に委ねられれば、現象としての自分自身はナチュラルさをとり戻し、リフレッシュつまり生き生きと蘇えることが出来るのではないだろうか。

    一般的には、子の刻である午後11時から午前1時までには床に就き、活動と休息の陰陽バランスを切り替え、卯の刻の午前5時から7時までには起床して排便するのが、よいのではないかと思う。最大8時間となるが、大切なのは丑寅の無意識に委ねる時空の間であり、その質によって時間は調節できると思う。

     

    日は昇り、日は沈む。そういう自然のリズム。そのリズムに合わせるように、様々な生きものが生かされて生きている。そのリズムの中で大切なのは、変化を受け入れ、つなぐ事。

    鬼門という一般的には忌み嫌われる、丑寅の時空。しかし、本質的には変化を受け入れ超克する、つなぎの時空なのだと思う。陰から陽へ、静から動へ、本来的自己から現象である自分自身へ。自己超克。

    鬼門を神様のとおり道と呼び、その方角を綺麗に清めている人もいるという。そういった捉え方の方が良いのではないだろうか。

     

    2015年冬季東京操体フォーラム 12月5日(土)6日(日) 二日間開催します

    詳細は東京操体フォーラムHPをご覧下さい

  • 「鬼は帰なり」を考察してみる。

    おはようございます。

     

    五行大儀の「鬼は帰なり、古は死人を帰人と為すと謂う」

    この言葉の説明には「帰とは、其処から出て行ったものが再びその元のところに戻ってくることの謂。元のところとは、そのものの本来の居所なので、そうなれば帰人すなわち死者こそ本来的、第一義的人間であり、生者はそれに次ぐ仮の存在、第二義的人間にすぎないことになる」と記されている。

     

    しかし、この説明にあるような「生者はそれに次ぐ仮の存在、第二義的人間」という言葉をきいても、なかなかピンとこないのが実情だと思う。

    みんな肉体を有して、この世に生存しているのだから、目に見えるそれこそが、実在だと思っているから。あるいは、目に見える、あるいは顕微鏡や何かで観察できるものだけを実在としているからである。

    そういう思考なり嗜好なり思想なり論理だけに拘っていれば、なかなか古(いにしえ)のこういった素晴らしい教えというのも、なかなか伝わりづらいのではないだろうか。

     

    目に見えるものは、目に見えないものに触れている。そうやってイノチを宿している。

    それは万物に当てはまる。人間の肉体だって、細かく見ていけば、器官→細胞→分子、原子と細分化できる。そして、ここまでは客観的な観察が可能だ。

    しかし、原子の前の段階の素粒子というのは、観察するその観察者の意識によってカタチを変えてしまうという、そういったエネルギー構成主体の世界なのだ。

    だからといって、素粒子やその前の段階を否定することはできないだろう。

    素粒子から前の段階は、陰と陽が設定される事によって起こる波動であり、その陰と陽を設定したのは太極という事なのだ。太極が愛と調和の理念をもって陰と陽を設定した事により万物は生じた。そして、その意志は万物に貫通している。

    目に見えないものから、無機の世界、有機の世界へと、目に見えない太極の意志の元に、陰陽が展開され、そして人間の像を現しているのだ。

    目に見えるものは、目に見えないものから構成され、そして常に接触している。
    その目に見えないものこそ重要なのだ

     

    生者という現象の元の元を紐解いていくことで「生者はそれに次ぐ仮の存在、第二義的人間」という言葉の意味も明らかになってくるのではないだろうか。

    また、太極は陰陽未分の一であり、無極無限でもある。「そのものの本来の居所」というのも、この無極無限の太極、すなわち無限界なのではないだろうか。

     

    「帰人すなわち死者こそ本来的、第一義的人間」については、以下の文章を参考にしてみる。

    「釈迦も基督も、この生命は天地創造よりも前から生命そのものであると宣言されておる。此の世(現象界)において五官に映る肉体的人間を生命と思い込み、自分を生命源なる神仏から隔絶して考えているうちは、放蕩息子のようなもので、無限の富の後継者であることを悟らないから、その恩恵に浴し得ないでいるのだという譬話を釈迦も基督も説かれている。現象の人間は、理念なる人間(創造神が己の像と同じものとして生んだ人間)が、その栄光を、現象界に投写上映する最高の場であると説く師もある(谷口雅春氏)」

    この文章は、操体の創始者である橋本敬三先生の著書からのものである。

     

    私なんぞはまだまだだが、個による自我を取り払い、本来的な観点に立つと死も問題外となってくるようだ。生命源なる神仏こそが本来であり、生者からみた死とは本来は生命源なる祖神の里に帰ることなのだと感じる。

    それを「鬼」と捉えてしまうのは、人間の死に対する恐怖心や執着心、カタチがなくなる不安感からなる心なのだと思う。

    「鬼は帰なり」という古人の言葉には、鬼は不安から生じる妄想であり、それをふり払って自己本質の有り難さを想え、という意味がもあるのではないだろうか。

     

    2015年冬季東京操体フォーラム 12月5日(土)6日(日) 二日間開催します

    詳細は東京操体フォーラムHPをご覧下さい