カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 感性とAI(人工知能)。

    おはようございます。

     

    近頃よく人工知能、AIという言葉を耳にします。自動車なんかでも自動運転装置の技術が急ピッチで進んでおり、最近ではドライバーが運転中にハンドルから手を放して車に任せているテレビCMもよく見かけるようになりました。近い将来、法律的な問題はあるにせよ、技術的には完全自動運転も可能らしいです。最近のコンピューターの進歩は目覚ましいですね。

     

    生物の進化の歴史とコンピュータの進歩の歴史は逆になるようです。これは、東北大学大学院教授、行場次朗氏の情報ピラミッドという概念を用いれば解りやすいと思います。

    情報ピラミッド

    ピラミッドの上の方は言語や数字など抽象化レベルの高い知識情報の領域で、下の方は感性情報となり、しゃべり方や表情など画像的データとしています。

    画像的データは抽象化レベルが低いですから、そのデータ情報は大きくなります。パソコンでも文章や数字などの記号的データでは容量は少なくてすみますが、写真などの画像データは容量を多くとってしまいますものね。

    コンピューターは人間が開発し、プリグラムを組んでいる訳ですから、記号処理が得意で知識情報から感性情報への進歩となり、図では上から下への流れとなります。一方、生物の進化は逆方向になります。しかし、人間だけは言語を操り、コンピューターも操るのですから両方向への進み方、つまり進化と深化が可能なのだと思います。

     

    今、コンピューターの進歩、人工知能の発展にはめざましいものがあります。何年か前には囲碁のプロと大局して勝ったとか、そういうニュースもありました。近い将来、人間とコンピュータの立場が逆転するのではないか、といった危惧を抱く人も多くいるようです。

    かのビル・ゲイツ氏も「これは確かに不安を招く問題だ。よくコントロールできれば、ロボットは人間に幸福をもたらせる。しかし、数年後、ロボットの知能は十分に発展すれば、必ず人間の心配事になる」と言っているそうです。

     

    その心配事を杞憂に終わらせるためにも、これからは感性を磨く必要があると思います。人間にあってコンピーターにないもの、それは直感とか閃きといった感性です。そして感性は創発特性という無限の可能性を秘めています。

    人工知能も直感や閃きが持てるようになるかも? それは無いと思います。発生の根源が違いますから。人工知能はあくまで人工です。しかし、我々人間は、大自然の創造主である太極の、愛と調和という意志によって生じているのですから。根源的に違います。

    そして、太極は無極無限であり、その意志は大自然の存在すべてに貫通しております。感性も情報ピラミッドの例を用いれば、その底辺、裾野は無限大なのかもしれません。

    その感性と上手く付き合い、どう磨いていくか。それは、からだ(身体のみならず)についての学びである操体の学びの中にあると思います。

     

    2016年11月23日(水)勤労感謝の日

    秋季東京操体フォーラム開催!

    今季のテーマは「膝と進化した操体」です

  • 感性 > 知性と知識。

    おはようございます。

     

    愉しい時、嬉しい時というのは、脳内にドーパミンが分泌されているようです。ドーパミンは報酬系の神経伝達物質ですから、何かを達成したときや満足感によって分泌され、快感をさそうようです。ですから人間が創造性を発揮することに於いて大変重要な役割をしています。また近年では、ドーパミンが分泌された時、その直前に行っていた能力が強化されるという事が実証されているようです。

     

    ドーパミンは、幼児など小さな子供ほど分泌量が多いと言いますが、これから成長する過程において、からだをとおして様々なものを吸収して知識とし、そこから考えたり判断する能力である知性を育てていくには、分泌量が多いというのも頷けます。

    この観点からみても、土台はからだをとおしての感性なのですね。幼児は自然に、当然のようにからだをとおして、悦び、感動し、愉しみながら学習しているのです。

     

    三つ子の魂百までとか言いますが、幼児に限らず感性を土台とした知識や知性といったものは記憶に残りやすいと感じます。しかし、本を読んだだけとかの場合は忘れるのが早いと思います。知識だけ詰め込もうとしても、なかなか上手くいかないのは経験上誰もが知っていると思います。だから書き写して覚えようとしたりするのでしょうね。

     

    写本なども時間はかかりますが、感性とともにからだが文字を書いているので、記憶に残る知識としやすいのだと思います。そして、その感性を更に高めるには、書いた著作者本人に会うことでしょうね。著作者が故人であれば、一番身近に居た当時の状況を知る人に会って話を聞くことだと思います。

    そうすれば、文章に共感しやすくなり、感性が高まることによって、記憶に留まりやすくなり、それが知識となる。その知識は知性も高め、知性はその知識を要所要所で引き出してくれるようになる。それが和を生み、調和による善い循環となり、そんな中で創造性も発揮されるのだと思います。

     

    操体の学びも、本を読んだだけでは、なかなかその意味するところが解りづらい面があると思います。また、症状疾患に対しての治療法の知識が多いほど、操体法の効果の高さは知っていても、なぜ効果が高いのかが、今までの知識によって解りづらくなっている面があると思います。

    活字になっているものの土台には、多くの活字では表現できないものが在ります。そして活字では表現できないものの中に、活字を活字(活かす字)たらしめる真の理解につうじるものがあります。活字では表現できないものを感じ、真の理解とするには、書いた人の生の声を聞き、その想いに触れるのが一番です。

     

    操体のスーパーバイザーとして数々の著書があり、現役の操体臨床家である三浦寛先生。三浦先生は、操体創始者、橋本敬三先生の一番近くで、一番長く操体を学んだ高弟でもあります。

    三浦先生は臨床や講習(新創生期操体法特別臨床講座)を精力的に行っていますが、勿論、今度の秋季東京操体フォーラムでも講演していただきます。ぜひ、生の声を聞き、その操体への想いに感性で触れてみて下さい。

     

    2016年11月23日(水)勤労感謝の日

    秋季東京操体フォーラム開催!

    今季のテーマは「膝と進化した操体」です

  • 感性と知性・・・2。

    おはようございます。

     

    知性とは、物事を知り、考え、判断する能力のことで、比較、抽象、概念化、判断、推理などの機能によって、感覚的所与を認識にまで作り上げる能力。

    感性とは、物事を直感的に感じ取る能力のことで、これは言語では表現しづらく、実感、体感、共感するしかないと言われます。

     

    感性の直感的に感じとる能力を突き詰めていけば、快、不快の識別を感じ分ける能力、つまり原始感覚に行きつくのではないでしょうか。しかし、ここで識別とすると、上に挙げた知性の意味とこんがらがると思います。ですが、それは頭の思考だけで考えるから矛盾があると思うわけであり、ここでからだと偕にあるという想いを向けてみると、矛盾はないと思えてくるのです。

    からだにも人格やパーソナリティといったものが在るという事。原始感覚というのはきわめて生物的、生命的、自然的能力であり、自分が持っているのではなく、自分のからだがもっている能力なのです。

    ですから、操体臨床の第2分析である快をききわける動診も、「からだにききわけて」という言葉かけが、重要となっているのです。

     

    原始感覚から直感へ、そして感性へ。この快、不快からの流れの中に、からだからのメッセージ、あるいはからだが受け取ったメッセージがあると思います。感性の鋭い人というのは、このメッセージの受け取り方が上手いのではないでしょうか。

    どのように快なのか、不快なのか、そしてそのおくに在るもの。これがからだとのコミュニケーションが密になるほど、明快さが増していき、表現力も増すのではないかと思います。

    音楽のメロディーにしろ、絵画にしろ、必ず題名がありますが、これもメッセージをそのように受け取っているからなのではないでしょうか。それを、それぞれの分野での学びから得た知性や知識と融合させて、愉しみのなかで作品に仕上げていく。

    そして知性というのは、感性によって変化するものなのだと思います。ピカソにしても、はじめはベーシックな画法を学び、ベ―シックな絵を描いていたようですが、ガラっと画風が変わりました。あれは感性からの進化ではないかと思います。

     

    感性から考えると、からだや、からだという存在を成立させているこの空間にも、生かされているという事を改めて感じさせられます。過去→現在→未来という時間の捉え方も、本来は逆なのではという気もしてきます。

    自分に人格やパーソナリティがあるように、からだにも人格やパーソナリティが在る。それを認める。そして偕に歩んでいく。知性の高め方も変わり、頭で押し込んだ知識からの仮面の知性ではなく、本来の知性へ。生き方も優しく丁寧になると思いますね。生きる前に、生かされて生きているのですから。

     

    2016年11月23日(水)勤労感謝の日

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  • 感性と知性。

    おはようございます。

     

    知性とは、物事を知り、考え、判断する能力のことで、比較、抽象、概念化、判断、推理などの機能によって、感覚的所与を認識にまで作り上げる能力。

    感性とは、物事を直感的に感じ取る能力のことで、これは言語では表現しづらく、実感、体感、共感するしかないと言われます。

     

    知性は合理性、論理性を優先する。だから記号や言語でまとめやすい。しかし、感性の方は多義的でまとめづらい。そのような特性があるといいます。

    社会生活を営む上では、ある程度の知性や知能、知識といったものが無ければならないし、何か契約を結ぶときなどでも、書類を見て内容を把握できなければどうにもなりません。知性的で知能も高く、知識も豊富な人というのは色々と重宝され、社会的ステータスが高くなるのも頷けます。

    しかし、そのステータスも知性や知能、知識といったものだけでは、高くはならないし、保てないと思います。やはり、場の雰囲気がわかるとか、他の人に共感する、実感としてその人の気持ちがわかる、体感する、といった感性が土台にあったればこそだと思います。

     

    感性が土台にあっての知性であり、これが逆になって感性が蔑ろにされると上手くないと思います。特に知性が合理的思考とばかり手を組んでしまい、感じ取る能力を隅に追いやっている状態では、環境(自然、人為、社会)の変化に上手く対応できないとか、からだとのアンバランスを感じとれない、ということにつながってしまいます。それでは仕事や生活に支障をきたすとか、何らかの病気の発症原因ともなります。

    また、合理的思考ばかりの人というのは、からだを自分の道具のようにしか考えていないという傾向があります。自分勝手に使うだけ使って壊れたら直してもらえばいい、そんな考えがすり込まれているようにも思えます。

    しかし、からだは自分の道具ではないのです。自分が生きる為に大自然からお借りしているものなんです。だから、自分がこの世を去る時には、大自然にお返しして旅立つわけですね。大自然からお借りしているものですから、ちっぽけで勝手な自分の合理性などに向いていないのです。

    からだは自然の摂理に向き、そして自分に合わせてくれているんですね。それを自分の合理性に合わせようとすると、アンバランスとなり、そのアンバランスはストレスにつうじ、ストレスが積み重なれば、何らかの病気になってしまいます。

     

    この世で存在するには、からだがなければ存在できないのです。知性だけでは存在は成り立ちません。感性が土台にあっての知性であり、それを包み込んでいるのは大自然の理であり、大自然の理から感性にもたらされるのが直感や閃きと呼ばれるものであり、だから名人達人の域に達している人というのは直感の方が間違いない、と言われるのではないかと思います。

    そして、そのような人たちの言葉には重みや愛、ヒビキがあります。それは自然の理からもたらされるものを直感として感性で受け取り、知性につなげるという繰り返しにより、理性という橋渡しがしっかりできているからなのでは、と思います。

    その橋渡しをしっかりさせるには、自分は生かされて生きている、という事を識っていくことからはじまるのだと思います。

     

     

    2016年11月23日(水)勤労感謝の日

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  • 感性とバルの戒め。

    おはようございます。

     

    天才的とか感性が豊かとか、何かの才能に秀でるセンスというのは、遺伝や脳の使い方、育て方によって決まってくると言われます。

    だいたい60パーセントぐらいは遺伝子の影響を受け、40パーセントぐらいは生まれた時代や受けた教育を含めた育った環境要因による、と脳科学的には言われているようです。

     

    音楽家のモーツァルトは、色々な意味で恵まれていたと言えるかもしれません。産湯に使ったときから父親や姉の奏でる音楽を耳にしながら育ち、3歳の時から父レオポルトから音楽理論や実技を徹底的に叩き込まれたといいます。

    しかし、徹底的に叩き込まれたといっても、スパルタ教育みたいな束縛して無理やりやらせるとかではなかったようです。

    どちらかといったら、5歳で小曲を作曲し8歳で交響曲を作曲したモーツァルトのよき理解者、讃美者だったといわれています。一緒にヨーロッパ中を旅する中でも、自分のやり方を押し付けるのではなく、出会った音楽家達の薫陶を受け才能を開花させていくモーツァルトを、嫉妬することなくその成長をよろこんでいたようです。

    父レオポルトが演奏して、モーツァルトに体感させる事からはじまる、環境要因、空間づくりというのは、モーツァルトを天才たらしめる感性を育成させるものだったのだと思います。

     

    やはり感性というのは、やらされて身につくものではなく、自分自身で体感して、からだをとおして愉しみを感じ、快の方向性に向くことから始まると思います。それがなければ、いくら遺伝子的に優れた才能を受け継いでいようとも、開花することなく埋もれてしまうと思うのです。

    生きる上での環境要因は重要だと思いますが、それよりもその環境をどのように想うかの方が重要だと思います。人から羨ましがられる環境にあっても、欲張り心が強く、いつも不平不満ばかりでは感性は磨かれず、才能や環境要因に恵まれていても宝の持ち腐れでしょう。生きる前に生かされて生きている訳ですから。

     

    操体にはバルの戒めというのがあります。これは「頑張るな」「威張るな」「欲張るな」「縛るな」という生かされて生きる上での戒めのことですが、往々にしてこれらの自分の我が、感じられるものを感じられなくしているし、受け取っていいよと差し出されているモノ(物ではなく)を受け取れなくしてしまっているのです。

    私たちは空間をとおして、森羅万象とその創造力の源ともつながりをもっていますが、バルの戒めで表されるような自分の我というのは、そういうつながりとか御縁というものを、自ら断ち切るようにしてしまうのです。

    感性というのは、生かされて生きる中で活きてくるものですから、バルの戒めというのは凄く重要であり、ゆめゆめ、努努、忘れ無きようにしたいものです。

     

    2016年11月23日(水)勤労感謝の日

    秋季東京操体フォーラム開催!

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  • 感性と努力。

    こんにちは。

     

    今週は友松の担当となります。

    どうぞ宜しくお願い致します。

     

    今回のテーマは「感性」ということですが、感性と聞いてまず思い浮かんだのが、音楽や絵画といった芸術と呼ばれる分野の人達でした。

    そして、芸術の分野では、しばしば「天才」という表現が用いられます。音楽家のモーツァルトは、その典型ではないのでしょうか。

     

    モーツァルトは、5歳のときから作曲し、8歳のときには交響曲を、11歳のときにはオペラを書き、その作品は800曲以上にのぼるといわれます。そして、作曲に使った楽譜には、書き間違いがほとんどなく、名曲の数々は頭の中から湧き出るように生まれたといいます。まさに天才であり、生まれつきの才能というのを感じます。

    ですから、作品をつくるなかで苦悩するとか、努力するといった事とは無縁のように思われます。しかし、いくら閃きとか感性が豊かでも、感じたものがそのまま右から左に通り過ぎるだけでは創作にはつながりません。
    やはり努力は必要なのではないでしょうか。からだにききわけた、静かな汗をかくような努力。

     

    音楽プロデューサーの中野雄氏は、「モーツァルト天才の秘密」という著書の中で、このようなことを書かれています。

    モーツァルトは、群百の音楽家に比して、百倍も千倍も努力した人であった。ただ、彼はその”努力”を「つらい」とか、「もういやだ」と思わなかっただけの話である】

     

    豊かな才能は豊かな感性からであり、その感性からの才能は努力の賜物からなのだと思います。

    ちょっと意味合いが、おかしく感じられるかもしれません。それは、努力ということに関して一般的に、しんどいとか頑張るとかのイメージが強いからです。しかし、モーツァルトのした努力というのは、ちょっと違うのだと思います。

     

    そこで努力について考える必要がありますが、努力の「努」の字の由来から考えてみる事にします。「努」は「奴」と「力」でできています。「奴」の「又」は手を表す形であり、女を手で捕まえて奴隷にする事から、「めしつかい」「やっこ」「しもべ」など総じて「従う者」を意味しているといいます。

    そして「奴」に「力」(鋤)を加えて、農奴が農耕に努めることを意味する漢字が「努」となり、そこから「つとめる」とか「はげむ」という意味合いになっていったと言われています。

     

    努力の「努」が、奴隷からきていると考えると、なにかネガティブな気持ちになってしまいます。しかし、人間社会の枠の中だけで考える必要はないのだと思います。

    もっと違う観点から「従う者」の「力」というものを捉えればよいのではないでしょうか。

    自然法則に従うとか、原始感覚に従うとか、からだにききわけた快に従うとか、そういう絶対的なものに従って、もたらされる力、エネルギー。

    そういうふうに捉えれば、【モーツァルトは、群百の音楽家に比して、百倍も千倍も努力した人であった。ただ、彼はその”努力”を「つらい」とか、「もういやだ」と思わなかっただけの話である】という中野雄氏の文章も腑に落ちてきます。

     

    努力は愉しみ。それによって感性も豊かになる。からだをとおした操体の学びにつうじるものがあると思います。

     

    2016年11月23日(水)勤労感謝の日

    秋季東京操体フォーラム開催!

    今季のテーマは「膝と進化した操体」です

     

  • 真花へ。

    おはようございます。

     

    今回のブログのテーマは「シンカ」と聞いて、思い浮かんだものに「真花」というのがありました。関東甲信はやっと長い梅雨が明けたようですが、梅雨の季節の代名詞でもあるアジサイには装飾花と真花があります。はじめに大きな花びらのような装飾花が咲きますが、この装飾花がいくら派手に大きく咲こうと開花とは呼ばないそうですね。中心にある小さくて地味だけど生命力に富む真の花、真花が咲いてはじめて開花と呼ばれるそうです。

     

    アジサイの時節はすでに過ぎていますが、真の花という言葉は以前に三浦寛先生からいただいた言葉の中にあったと感じ、古いノートを辿っていくと、平成16年のノートに書き写したものがありました。

     

     その時の時流にのって時とともに枯れていく花(時分の花)となるのではなく

     年輪を重ねる中でみがかれ華をはなつ真の花になれ

     

    先生は、当時入門したての私達の為に、世阿弥の言葉を参考にわかりやすいように、これからの指針を示してくれていたのだと感じます。

    ノートを再度見直していると、この言葉の2行空白を空けた上に、このようなことが書いてあります。

     

     操体=命の営みと摂理を学ぶ。体系付けられたものではない。

     

    とありました。

     

    昔から本当にブレないですよね。その時々新しいものは取り入れても、それが主ではない。主柱は、生命の本質とかイノチの本質を学ぶという事であり、その時々に新しいものを取り入れても、必ず主柱に還っていく。主柱から真価を見究めながら、真理を求め年輪を重ねていくという事なんですね。

    創始者の言葉に「野次馬でなければダメだ」というのがあります。勿論、好奇心をもって学ぶという事は大切ですが、主柱や志柱のないまま、あっちが良い、こっちが良いと時流に流されてばかりだと、真の花にはなれないのだと思います。 

    進化という言葉は、なにか格好良さがありますが、時流にのった格好良さではなく、求められるのは地道な深化が伴なった真の進化だと思います。

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。

    来週は畠山先生の担当となります。

    来週もどうぞ、よろしくお願いいたします。

     

    友松 誠。

     

    2016年9月新規講座開講のご案内

     

     

     

     

  • その進化は深化より。

    おはようございます。

     

    なんだか最近、某週刊誌で手術や薬に関する記事を毎週のように取り上げています。その内容を詳しく書くつもりはありませんが、やはり、からだを治すのはからだであり、そのからだの要求に応える事を最優先しなければならない、ということを強く感じた次第であります。

    生命の本質に目を向けるという深化の仕方が、これから益々問われ、これからの人間の進化に関わってくると思います。

     

    医師であった操体創始者、橋本敬三先生は、昭和58年5月号の仙台市医師会報に載せた記事の中でこんなことを書いています。

    【現在一般に知られている以外に医学医療技術は歴史的に世界地域的にもたくさんある。しかし今のような現代医学の黄金時代はかつてなかった。伝染病は現代医学が抑えたが、自らの生活の営みからくる弱体化、疾病化は現代の方がわるい。生きて行くための自らの責任的営み、息、食、動、想の四つには自然の法則があり、自然環境、人為環境と関連し、バランスを崩せば健康は保持も増進もできない。科学的検査がいくら開発され、進歩しても、生命の本質に暗ければ治療の効果を挙げ得ないのが現実だ。生命の現象の展開のバランスのうちに本当の快適感覚をつかまなければ、どうにもならない。知識が進んでもカンが衰退しては生きてゆけない。野生動物には医者はいない。獣医は人に飼われた動物園と家畜のためにある。】

     

    昭和58年というと30年以上前となりますが、創始者はもうこれだけの事を書いて先を見越していたんですね。改めて凄いと思います。これも、人間が環境に適応して、より快適により長く生かされて生きるには、という事を常に深化させていたからなのでしょうね。

    この中の【自らの生活の営みからくる弱体化、疾病化は現代の方がわるい】という文言。これは30年以上たった現在はもっとわるくなっていると思われます。弱体化とは、単に体力の弱体化と捉えられるきらいがありますが、環境との関わり方も含めたトータルバランスとしての生命力です。これはスポーツ的な、ある一定条件での記録や数値には表せないものです。体力がある、イコール健康ではないことは確かです。

    このトータルバランス的な生命力の弱体化で、なにが危惧されるか。ひとつには、はじめに挙げた手術や薬といった現代医学を象徴するものに、からだが対応しきれなくなってきているのではないかという事。これでは医療技術がどんなに進歩しても、暖簾に腕押しだと思われます。

    【科学的検査がいくら開発され、進歩しても、生命の本質に暗ければ治療の効果を挙げ得ないのが現実だ】という創始者の文言が浮かんできますが、これからは生命の本質というものに関して深化した研究が求められて然るべきと思います。その深化によっては、現代医学の在り方も変わってくるのかもしれません。

     

    操体も変わります。ただの変化ではありません。これからの時代に合った人間と環境との関わりを重視し、深く深化させ、客観的検証を繰り返しての進化です。これは創始者の遺志を継ぎ、生命の本質に対する学問を深化させてきた三浦寛先生だからこそ、成し得た進化なのでしょうね。

    2016年9月新規講座開講のご案内を見てみると、三浦寛先生は、受講ご希望の皆様へのメッセージとして「これからの操体法は、重心の適正化を目的とした医療分野への対応と、健康維持増進医学にお答えいたします」と明言しています。

    それだけ、からだにやさしいアプローチとなり、昔カックン療法などと呼ばれ、瞬間脱力がどうのこうの言われていた時代の面影はもうありません。臨床家はもとより、医療分野でもトータルバランス的に弱体化した生命力を、重心の適正化をはかる事で、からだから変えていき、医療を成功に導く手助けもできる、という事なのではと思います。

    これをやって上手くいったから大丈夫、ではなく、これにからだがどう応えてくれるかも重要なのです。最終的に治すのはからだであり、善くなっていくのもからだなのですから。からだが善く応えてくれるよう、負担をかけず、よりやさしく、調和に向けた生命エネルギーを呼び覚ましてあげる。そういう分野も現代医学には必要なのではないかと思います。

     

    2016年9月新規講座開講のご案内

     

     

     

     

  • 進化と深化の求め。

    おはようございます。

     

    生き方の自然法則を究明し、それを応用して、変化する環境に適応出来るようにしていくのも進化であると思います。そして、その進化には究明した自然法則を更に原究するという深化が伴います。

    つまり、時代背景やそれに伴う環境が変わったからといって、新たに自然法則をつくりだすというのでは、自然法則としてとおりません。また、ある人にはそれが適合しても、違う人には適合しないというのも、自然法則ではありません。

    自然法則にそのような矛盾はないのですから、究明した自然法則を更に細かく奥深くまで深化させ、その環境に適応するものとしていかなければなりません。

     

    なぜ自然法則を深化させていかなければならないか。それは、ここ数日書いているように、今を生きる人達に自然環境への順応性が薄れてきており、その為に様々な環境、空間にも上手く適応できずにアンバランスとなり、からだの不調を招きやすい状況となっているからです。そして、その状況は親から子へ世代が受け継がれるごとに顕著になり、ますます間に合わなくなっていく可能性があるからです。

     

    自然法則を深化させる。生き方の自然法則の中には、「動」の法則である身体運動の法則があります。これは般若身経とも名付けられておりますが、どうしてもそのやり方と効果の方にばかり目が行きがちです。しかし、大切なのはどういう目的で操体創始者・橋本敬三先生の頃より体系づけられ、研究がされてきたかという事です。

    やり方だけ覚えて、そこに自分勝手な知識の動きを付け加えてしまうと、それは自然法則ではなくなってしまうんですね。かえってバランスが崩れてきます。自然法則の応用貢献にもつながりません。

    般若身経には、自然体としてのあるべき姿を問いかける、という大目的があるんですね。

     

    そして、その中で当初より位の一番にあるのが、重心を安定させるという事です。環境にある普遍的な重力との調和が、まずはじめに唱えられているのです。

    想いを巡らせれば、この重力というのは人間が地球の上で生活する以上、その影響は不変なんですね。どんなに人間の暮らしの時代背景が変わろうと不変ですし、家にいる時も、職場に行っても、働いている時も、休息している時も、いつも普遍的影響と恩恵をうけているんですね。

     

    春季東京操体フォーラムでも、先ごろ行われた操体曼荼羅でも、橋本敬三先生の高弟である三浦寛先生は、重心の不正は「息」「食」「動」「想」をはじめ全ての不正につながる、とおっしゃっていましたが、おっしゃるとおりであり、環境に普遍的な重力と、いかに善く調和するかはとても大事な事だと感じます。

    また、これからは重心の適正化をいかにはかっていくかだ、ともおっしゃっていました。身体運動の法則も、いつの時代でも人々が環境に順応していけるよう、深化させて進化させていくべきだという事なんですね。それでこそ応用貢献が成るのだと思います。

     

    2016年9月新規講座開講のご案内

     

  • 進化の求め・・・3。

    おはようございます。

     

    進化という事柄について、私は3つのことが思い浮かびました。

    一つには、環境に適応する為に自らの生態を変化させる。もう一つは、環境をよりよく共存共栄の世界へと自ら変えていく智慧とテクノロジー。そして、もう一つ挙げるとしたら、自然環境に自在する自然法則の究明、原究、そして応用、貢献のあり方にあると思います。

     

    世の中に自然法則と呼ばれるものは色々ありますが、大切なのは生き方の自然法則。人間の生き方にも自然法則が自在するのです。これは生かしてくれている「環境」と、人間が最小限責任をもって自分自身で営まなければならない生命活動である「息、食、動、想」の生命力学の生かされしバランスを説いたものです。

    この生命力学のバランスが崩れれば、健康は保てなくなります。逆に、調和したバランスであれば健康は維持されます。そして、更にバランスを善導して健康増進に向かわせることも可能なのです。

     

    人間のからだの設計にミスはなく、自然環境の変化に適応できる能力も、元々備わっているのです。しかし、人間の場合は知識もありますから、自然環境に手を加えて暮らしを便利にしてきたのは良いのですが、時代が進むうちに便利が当然化し、だんだん本来の能力は使われずに錆びついてきた感があります。そうなると、からだとの協調性は薄れてバランスを崩すことにつながります。

    やはり、この世に生きている限り、からだが無ければ生きられないのです。そのからだを自分で錆びつかせて上手く動けないようにしていたのでは、からだの全体的な調和や心とからだのバランスをも崩してしまい、健康は保てなくなってしまうのです。

    最近は、それほど病んでいるというふうに見えなくても、何をするのでも億劫で疲労感が抜けないといった感じで、自分から病気をつくりだしているというふうに見受けられる人が増えてきたように感じます。

    これも、自然環境よりも人為的、社会的環境への適応を優先してきた、生き方の時代背景を反映しているように感じます。そこに共通するのは、自分とからだをかけはなし、からだは道具のように扱い、自分勝手な使い方をして、頑張ってきたという事。

    からだは自然環境というイノチに生かされ、自分はからだに生かされて生きる存在でもあるのです。からだの使い方にだってルール、自然法則が元々在るのです。

    そういったことを蔑ろにしては、この時代やこの時代以降に生きる人達は、絶えずアンバランスによる色々な不調を抱えて生きるというような、生命力の弱体化が生じても不思議ではないのです。

    今、求められるのは、生き方の自然法則に基づいた生活(生命活動)に改めていくことであり、これもよりよく環境に適応する為の進化だと思います。

    操体は自然法則の応用貢献にあるのですから、これから益々その役割は重要になっていくと思います。

    2016年9月新規講座開講のご案内