カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 進化の求め・・・2。

    おはようございます。

     

    進化とは、環境に適応する為に自らの生態を変化させていく、という考え方が多いと思います。しかし、人間だけは自然環境に手を加えることが出来る。という事は自らの手で、よりよい環境をつくりだしていく、そのテクノロジーも、進化するという事に当てはまるのだと思います。

    しかし、そのテクノロジーも人間の欲望を満たす事ばかりを優先させてしまえば、自然環境を破壊する事につながり、結果的に自分の首を絞めることになってしまいます。

     

    三浦寛先生の著書の中に度々でてくる道元禅師の「鳥の命は鳥にあらづ空にあり、魚の命は魚にあらづ水にある」という教え。

    これはイノチの本質とは生かしてくれているものにあるということであり、自然環境もイノチであり、人間もそのイノチによって生かされて生きている存在なのだ、という捉え方ができます。

    テクノロジーの進化も、人間だけでなく、生かしてくれているものにも、やさしいという事が、これから益々求められてくると思います。宇宙運行周期の波長も陰の時代に入っていることですしね。

     

    自然環境をイノチと認識できれば、あまり消化不良を起こさせるような事はしたくなくなりますね。CO2の問題もそうですが、これだけ人口が増え続けているのですから、ゴミの問題も深刻になってくると思います。

    先日、畑仕事をしていて、土の中からビニールが出てきたのですが、ヨレヨレになって痛んだ姿になってはいても、そこから先、つまり土に帰る事ができないんですね。自然の循環に帰っていく事ができない。これも悲しい事と思います。

    帰るべきところに帰っていけずに、朽ちた姿だけを晒している。なにか考えさせられるものがあります。

    自然環境というイノチに、こういった消化不良を起こさせないようにし、物にも自然環境の一員としてのイノチを宿させ、供養、発酵、循環再生が成るようにする。そういったテクノロジーの進化というのも、これからは求められるのではないかと感じます。

     

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  • 進化の求め。

    おはようございます。

     

    あらゆる生き物の中で、自然環境に手を加えることができるのは人間だけです。そして文化を創造し、文明を発展させることができるのも人間だけです。

    大元に自然環境があり、そこに人為・社会的環境が加わり、そうした空間で文化、文明の繁栄、衰微がある。大元は自然環境である為、その空間は自然環境にバランスよく順応できるほど発展していき、そのバランスの自然法則から外れていくほど衰退するのだと思われます。

    まわりにある物も、ほとんどが自然の法則性を利用してつくられますが、単一的な法則性を利用して作っただけでは、その存在は長続きしません。自然環境をはじめとした空間との調和、つまり間に合った状態でなければならない。

    間に合うは100点満点ではなく、60点ぐらいでいいのですが、空間が変化する以上、60点の質が問われてきます。つまり空間が変化する前の60点のままでは調和は成り立たず、改めて60点をとりなおして更新していく必要があるのです。

     

    昭和の景気が良かった時代というのは、物を作れば作っただけ売れ、経済は発展し、暮らしも豊かになっていきました。その反面、空気や水は汚れ、人間が快適に生活できる空間ではなくなっていってしまった。

    そこで、工場の在り方やその生産の仕方も見直され、製品も環境にやさしいとか、省エネといったものへシフトしていきました。自動車なども、使うエネルギーを最小限に抑えて環境に配慮し、尚且つ今まで以上に性能や乗り心地のよいものが求められていきました。

    その要求に応えようとしたことで、技術革新は進み、改めて間に合う状態になっていったのだと思います。

     

    この、人間が快適に生活できる空間ではなくなっていってしまった時、求められたのは進化だったのだと思います。進化といっても、他の生物のように環境に合わせて生態を変えるというのではなく、人間だけは自然環境に手を加えることが出来るのですから、そのやり方を変えていく。
    今までのやり方が自然環境を破壊し、自分達が快適に生活する空間ではないものにしていたのなら、そのやり方を変えていく。これも進化なのだと思います。

     

    人間には、著しく自然環境が破壊された時、自分達だけ生態を変化させ、生き延びるということは許されないのだと思います。知慧を出し、他の生物と偕に共存共栄の空間をつくる責任があるのだと感じます。

     

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  • 進化と進歩。

    はようございます。

    今週は友松が担当いたします。どうぞ宜しくお願い致します。

     

    今回のテーマはシンカということです。

    このテーマを聞いた時、思い浮かんだのが10年以上前の東京操体フォーラムの懇親会での出来事でした。

    飲みながら何人かの人と話し込んでいて、話題が進化という言葉と進歩という言葉と、どちらが好きかということになった。進化がいいという意見もあれば、いや、進歩だという意見もあり、私はどちらかというと進歩の方がいいのじゃないかと思っていた。

    当時は、イチロー選手の大リーグでの活躍や、漫画のドラゴンボールなどの影響もあり、進化という言葉がもてはやされていたが、進化の化けるという字には、あまり良い印象はなく、それよりも一歩一歩成長する感じの進歩の方が良いのではないか、と私は感じていた。

    そのことを三浦寛先生にお話したところ、「いや、進化だよ」ときっぱり答えて下さった。

     

    進化と進歩の違い、それは生命の観点から捉えるのか、自分の観点から捉えるのかの違いだと思います。

    進歩とは、簡単に言えば望ましい方向に物事が進んでいく事だが、その望ましいという判断基準は自分や人間の思考という事になる。これは、自分の観点で一歩一歩良くなっていると思っていても、他の観点からは逆に退歩だったりするという事もある。健康ということに関しても、自分が健康に良いと思ってやっていることも、からだにとっては有難迷惑で、かえってアンバランスとなって体調を崩すといった事例は沢山ある。

    また、暮らしの便利さなど人間に都合の良い事が、他の生き物や環境に対しては破壊につながり、一面では日々年々良くなっていると思われる事が、実は当の人間を一歩一歩苦痛に導いている面もあり、進歩しているのか退歩なのか、よく解らなくなっている事柄もある。進歩という表現は、堅実のようで実は曖昧さの上に成り立っているのだと思います。

     

    では進化の方はどうだろうか。進歩との大きな違いは、環境に適応し変化していく事にあると思います。

    こちらは自分だけの観点ではなく、からだやイノチというものが必ず関わり、生命の観点からの捉え方となる。自分や人間の思考からは良くなっていると思えることも、生命としては退化、つまり環境との不調和を招いている場合は多々あるという事。

    昔に比べたら物や暮らしも豊かになった、この進歩は近年特にめざましい。それに伴い、生活(生命活動)が快適になったかというと、そうではないと思う。かえって生活に対する責任が薄れ、それによりアンバランス、弱体化を招いているとも言える。生活(生命活動)には必ず責任が伴い、その責任とは自然法則に合わせていくという事。

    そして、自然法則に合わせていく事で、自然環境に適応していくという事。その責任が薄れ、自然環境を意識する機会もだんだん少なくなり、人為・社会的環境への適応ばかりを優先していれば、自分は進歩したとしても、からだはいつもおいてけぼりであり、バランスが崩れてなんらかの不快症状があらわれてきても、仕方のないことなのだと思います。

     

    ここまで書けば、どちらが操体に合っているか、続けて書く必要ないと思います。しかし10年以上前の入門したての私には、自然環境への適応という事がどれほど大切かということが、よくのみ込めていなかったのだと思います。今回改めて見直すことが出来たことに感謝です。

     

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  • 習慣。

    おはようございます。

     

    環境に適応することが健康につながりますが、健康とは自分自身で創造していくものだと思います。創造とは新たにつくりだしていくという意味合いがありますが、まずは自然環境にからだとともに順応できるようにしていくべきであります。その為に自然法則を知り、からだをとおして識っていく必要があります。

     

    人間が生きていく上で、必須な生命活動を最小限まで突き詰めていくと、呼吸、飲食、身体運動、精神活動の四つに絞られ、それぞれに自然法則が自在し、責任も生じます。そして、生命現象はバランス現象ですから、この四つのうち一つが悪くなれば他も悪くなるという性質と、一つが良くなれば他も良くなるという性質があります。

    ですから、四つの自然法則を知った上で、その中の一つでも自然法則に沿ったものとしていくことで、生命活動の質は善くなっていき、自然環境への順応性が高まり、様々な環境への適応能力も増していくことになります。これは、健康状態がより善くなっていくという事でもあります。

     

    四つのうちで一番取り組みやすいというか、一番からだと自然環境との調和が意識できるのは身体運動の法則、つまり般若身経だと思います。自然環境の一つである重力との調和は、身体運動にとって切り離せないものですから。

    般若身経をつうじて、からだ(自分自身)と向き合い、それを習慣化していく。そうしていくことで、からだのバランスは勿論善くなり、他の生命活動である呼吸、飲食、精神活動も善くなっていく。自然界の一部であるからだは身体運動だけでなく色々と至らない点を、感覚をとおして教えてくれたり、励ましたりもしてくれるのです。からだと偕にある習慣をもつことで、心もからだも変わっていけるのです。

    私もそうでしたが、健康状態が善くなった人は沢山います。是非、善い習慣を基に日一日と、心新たに、より善い自分自身を創造していってほしいのです。神人合一の生命観からすれば、一人一人それぞれが、それぞれに無限の可能性と創造性をもっているはずですから。

     

    昨日も引用させていただきましたが、医師の日野原重明先生の書いた「生き方上手」という本には、このようなことも書いてありました。
     

    【 人生は、ひと言で言えば習慣です。アリストテレス(前384~322)は、「習慣とは繰り返された運動」であり、習慣が人間の性格や品性をつくると言っています。
     習慣に早くから配慮した者は、おそらく人生の実りも大きく、習慣をあなどった者の人生はむなしいものに終わってしまいます。習慣は日々の積み重ねですから、それが習い性になってしまえば、その後はつらいとも面倒だとも感じなくなります。よい習慣をからだに覚え込ませればよいのです。
     鳥は生まれついた飛びかたを変えることはできません。動物は這いかた、走りかたを変えることはできません。けれど人間は生き方を変えることができます。それは、人間だけがいのちに終末があることを初めから知っているからです。かぎりあるいのちをどう生きようか、と生き方を考えることができるのは、人間にだけ許された特権なのです。
     「人間は死に向かって成長する」と、精神分析学者のエリクソン(1902~94)は言いました。年とともに肉体は衰えても、心はつねに生きる意味を探求しながら前進できるとは、なんとありがたいことでしょうか。 】
     

    改めて、人間という存在は凄いと思います。人間に生まれてこれただけでも素晴らしいことであり、有り難いと感じます。

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。
    明日からは、畠山先生の担当となります。
    来週もどうぞ宜しくお願いいたします。

    友松 誠。

     

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  • 「生き方上手」という本より。

    おはようございます。

     

    今回のブログのテーマが「上手い下手」だと聞いた時、まず思い浮かんだのが「生き方上手」という言葉でした。

    この生き方上手という言葉から、誰もが思い浮かべるのが、医師の日野原重明先生の書いた「生き方上手」という本のタイトルではないかと思います。ベストセラーだったですものね。発刊から、もう15年ぐらい経つんですね。当時はどこの書店にいっても、入ってすぐのところに、健やかな微笑みをうかべた日野原先生の写真が表紙となった、この本がズラッと並んでいたものでした。

     

    その「生き方上手」という本の中にこんなことが書いてありました。

     

    【 あなたの置かれている環境や状況はそのときどきに変わります。その変化に自分を上手に適応できることは、健康であることの一つの証です。健康はつねに変わらない状態を言うのではなく、個々人にその対応が任された、応用自在なものであるべきなのです。
     きのうのあなたと今日のあなたがちがうように、健康もあなたとともに姿を変えます。環境の変化を読む熟練した舵取りは、医師ではなく、あなたのことを一番よく知っているあなたが取るべきだということを忘れないでください。 】

     

    さすが、その道に精通し、達観した方の言葉だと感じます。

     

    この本が発刊された当時、私はまだ操体の門下に入っていたわけではなく、まだ症状疾患に対する治療法を色々と探っていた「オレがオレ我」の頃だったので、不覚にもこの言葉はあまり響かず、見過ごしていました。

    しかし、今読み返してみると、ピンピンにヒビクものがあります。医師であった、操体の創始者、橋本敬三先生が生涯をとおして提唱してきたものとも共通するものを感じます。

     

    やはり、何事も上手くなるには健康という土台が必要なのだと思います、その健康とは単に体力が勝っているとか、内科的数値とか、そういう事で測るものではありません。数値はあくまで目安であって、からだのバランスとか心の問題とかを含めれば、必ずしも個々の数値が良いのが健康とは言えないのです。

    突き詰めれば、環境に適応する為の変化が出来るという事。その環境も、からだのことを想えば、まずは自然環境という事。人為、社会的環境ばかりに振り回されて、あっちに良い顔、こっちにも良い顔と変化することではありません。それでは疲れてしまうし、信用もなくなっていきます。

    自然環境へ順応する。これは自分自身でやっていくしかない。健康は自分の責任でもあるのです。この責任というのは、堅苦しいものではなく、やればやっただけ善くなるという事で、その為に自然法則(快へ向く)が自在するのです。

     

    橋本敬三先生は、健康増進の論理と題した論文の中で、このようなことを書いています。

    【 生命体が自然環境に適応するということ、これは生命の至上命令であるから、この絶対的原理は自然の救いになっているのである。】

     

    自然の救いになっている・・・有り難いですよね。

     

     

    生きかた上手

    生きかた上手

     

      

    生体の歪みを正す オンデマンド版―橋本敬三論想集

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  • その感覚は財産。

    おはようございます。

     

    何事も動作一般に言えることですが、からだ全体で合目的な使い方ができれば能率が良く、見栄えも良く、心も晴れ晴れしてくるものです。

    からだを動かす事は、生きていく上での最小限必須条件であり、その使い方にも責任があるのです。能率よく使えていれば生活の質も向上しますが、責任を放棄していれば様々な面で不調和が生じてしまいます。

     

    責任を果たすには法則を知る必要があります。からだの使い方に関しては、身体運動の法則があり、世界で一番短いお経になぞらえて般若身経と名付けられています。

    この般若身経、その命名どおりに、からだの使い方を本当にシンプルに説いています。しかし、シンプルゆえに奥は深い。

    なぜかというと、人間一人一人は、一定の秩序や真理で成り立った上での、様々な可能性を秘めた個性真理体だからです。その個性真理体の誰にでも共通する真理を辿っていけば、その表し方はシンプルにならざるをえない。だから、本で読んで頭で理解しても、その本質や法則の有難味はわからないんですね。

    実際にやってみて体感しないと。やってみても最初は戸惑いがあるかもしれません。それは、自分の動きとからだの動きは違うからです。自分の勝手で動いても、なかなか協調した全体的な動きというのは表現されて来ないんですね。

    簡単そうに思えても、人それぞれ生活の間違いからの習慣化されたものがあり、勝手が違うんですね。その勝手を取り除き、自然体としてのからだの動きを体感するには、善い指導者の指導を仰ぐ必要もあります。

     

    操体の指導者というのは、動きを骨格関節、筋肉の働きの枠の中でしか捉えない偏った専門家ではありません。からだの動きには、呼吸や目線などとの相関性もあるのです。法則との相関性も生かして、からだの使い方を指導しているのが操体の指導者、臨床家なのです。

    今回の春季フォーラムでは、その好例がありました。三浦理事長から目線についての新たな提案がなされ、それを参加して下さった方々が実践されると、みるみるからだの動きが変わってきましたものね。

    そして、その表情も目がキラキラ輝いて、ほんとに愉しそうでした。自分の動きではなく、からだの動きが表現されてくると、からだも心も快の方向性に向くのでしょうね。

    自然法則に則り、自分自信で動き、得た快適感覚。上手くなるための財産になると思います。

     

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  • 感覚を取り入れましょうよ。

    おはようございます。

     

    昨日ちょっと書きましたが、これだけ練習を続けてきたのだから、という裏打ちを自信にしている人は多いと思います。しかし、量を積み重ねるだけでは自己満足は得られても、上手いにはつながらないと思います。

    量より質という事は重要であり、スポーツの練習などでも昔は根性論が幅を利かせていましたが、今は科学的トレーニングも取り入れた方法が主流のようです。

     

    特にスポーツでは、ある一定の箇所に負担をかけることが多くなりがちです。一定のルールの下で、その優越を競うわけですから、頷けるものがあります。

    そして、本番でもミスがないよう、同じようなことを何回も繰り返し繰り返し練習する訳ですから、ある一定方向にからだが偏してきても不思議ではありません。

    また、からだからも、痛みをはじめ不快な感覚が、これ以上やってほしくないというサインとして発せられてきます。それでも続行して、からだの元に戻ろうとする働きを上回れば、からだは歪んで対処するしかなくなってきます。

    こうなってくると、はじめは楽しかった練習も、だんだんツライものとなってくるし、からだを壊す危険も出てきます。

    それでも、練習しないよりは能率的なのは確かでしょうが、練習しつつも、なおかつ全体的に合目的使用がされたからだよりは低能率なのです。

    それで、科学的トレーニングを取り入れて、スポーツ障害などの予防をしながら、合理的な練習をしていこう、ということになったのだと思います。

     

    しかし、科学的トレーニングの科学っていうのは、論理的、実証的で系統立てるものですから、個人個人の感覚って事とは相容れないんですよね。ここに恨みがあります。

    ある目的に向かって全体的にからだを使う、怪我をしないようにする、その為に共通するのは感覚なのです。

    感覚を磨いていく。その為には自然法則(身体運動の法則)を知っておく必要があります。感覚、感覚って言ったって、自然法則という根幹の基準がなければ、何をやっているのか捉えどころがなくなりますから。

    自然法則(身体運動の法則)に則ってからだを使い、からだ全体が協調的に連動していく感覚を体感し、からだで識っていく。その上で色々な動作に応用し、感覚をききわけながら、より能率的な動作にしていく。何事も上手くなるのに最善なやり方だと思います。

    また、そういうプロセスを踏みながら練習することで、上手い人が何故上手くいっているのかが解るようになってくると思います。

    私たち一人一人は、科学では計り知れない可能性を秘めています。枠でくくるよりも、感覚をききわけましょうよ。その感覚によって、かたちづくられたものが、科学の対象となっていくわけですから。

     

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  • 自信。

    おはようございます。

    昨日の最後に、自己本質の善美を信じ、という言葉を使いましたが、これは橋本敬三先生の文章の中の言葉を引用させていただいたものです。文章ですから、この言葉の前も
    あり後もあり、文節として以下の様になっています。

     【 自分の失敗にこだわるよりも、本質の自分を信ずる方が勇気づけられる。キリストは「汝ら恐るるなかれ、我れすでに世に勝てり」と言った。自己本質の善美を信ずるほど、現象の自分には懺悔と謙虚を覚えるはずであり、そこに向上があると思う。 】

     スポーツでも仕事でもプレッシャーによって、本来の能力、上手さが引き出せない人もいる。自分自身に自信を持つことは大切だと思います。

    その自信も、相対的な自信ではなく絶対的な自信を持つ。つまり、どれだけ練習したから、どれだけ遅くまでやったから、という量や時間を裏打ちとする相対的なものではなく、絶対的な自信を持つということ。

     

    これだけツライ練習を続けてきたのだから、上手くいかないはずがない。そういった自信も必要かもしれない。しかし、それが上手いにつながるかといったら、そうなるとは限らない。そうならないどころか、無理がたたってからだを壊し、本番を迎える事すら出来なくなる可能性もあります。

     

    相対的ではない絶対的な自信。では絶対的な自信とは。それは橋本先生の文章にあるような本質の自分を信じる事なのだと思います。では本質の自分とは。それは神人合一の生命観にあるのだと思います。物体としての自分、自我としての自分ではなく、神仏にイノチをいただき、神仏と偕に在る自分自身という捉え方。これは絶対的なのだと思います。

     

    しかし、その絶対的自信に胡坐をかいてしまうというのも良くない。努力しなくて神頼み、というのではないのだ。努力した上で、あくまで謙虚に、すべてやることはやらせていただきました、あとは(結果はどうあれ)おまかせいたします、という心持。

    結果も、神仏や太極といった絶対的なモノの意志であるなら、有り難く受け止めるしかないではないですか。結果は良くても悪くても、それは絶対的なモノの愛だということ。

     

    良ければ、素直に喜び、更に善くするようにしていく。悪ければ、自分の至らなさを懺悔し、悔い改めて善くしていく。その時の結果はどうあれ、必ず向上があるという事であり、どちらも愛という捉え方、潔さ。そういった裏打ちがあっての自信。物事が上手くいくには大切な事なのでは、と思います。

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  • 資本に見立てて。

    おはようございます。

     

    からだが資本という言葉をよく聞きます。怪我をしていたり、からだになんらかの不調を抱えていては何事も上手くいかないということは、誰でも周知の事柄です。資本となるものは大切にしなくてはならないですね。
     

    資本を活動の元になるものと考えてみると、資本が潤沢なほど、活動の選択肢や量が増え、その活動によって得たものを資本に上積みすることで、更なる発展をしていく。逆に、いくら資本が潤沢でも、その活動の仕方を誤れば、資本を食いつぶすことになってしまう。
    発展していくか、食いつぶすか、それはその活動の仕方の上手い下手にかかっているのだと思います。
     

    人間のからだは、本来もの凄い可能性を秘めているという。例えば脳にしても、本来の能力の5パーセントぐらいしか活用できていないという話もあります。それだけ元々の資本は誰でも潤沢だということ。 

    その人間の持つ可能性というのは、具体的に計ることは出来ない。しかし、自分自身は無限の可能性を秘めていると自信を持つことは出来るはずです。

    もう少しいえば、自分自身の可能性を自分で否定してしまえば、いくら上手く活動する環境要因や条件が整っていても、それに気づく前に、自ら資本を枯渇させてしまっているということ。資本は潤っていてこそ、活動の元と生り得るのだと思います。
     

    操体の創始者、橋本敬三先生の思想、哲学には、一貫して神人合一の生命観というのがあったようです。自己本質の善美を信じ、その可能性を否定しないこと。これは上手い下手という現象以前に重視しなければならない事であり、そうしなければ何事も上手くいかないよ、という事なのだと思います。

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  • 聴き上手。

    こんにちは。 

    今週のブログは友松が担当いたします。

    一週間どうぞよろしくお願いいたします。

     

    今回のテーマは「上手い下手について」ということですが、このテーマは春の東京操体フォーラムのテーマでもありました。

    春の東京操体フォーラムといえば、先週ブログを担当して下さった寺本さんのホーメイと弦楽器の演奏も印象的でした。

    朝一番、プログラムの始まる前に寺本さんが演奏したことで、場の雰囲気やご来場の皆さんの心もちも穏やかになり、愉しく学ぶための空気が満ちていったように感じました。

    私は、この日、フォーラム会場へ向かう途中に列車トラブルに遭遇してしまい、予定より50分ぐらい到着が遅れることとなってしまった。中央線から慣れない地下鉄に乗り換え、大慌てで走りに走り、会場に着いた時には、息はセカセカ喉はカラカラ、開会しても気持ちが上ずったままの状態でした。

    しかし、寺本さんの倍音の利いたホーメイと演奏を聴いていると、そんな心とからだが癒されていくのを感じた。なんだか懐かしいような、安心できるぬくもりのような、そんな空気に包まれながら旋律がからだにヒビキ、心の奥深いところを嬉しくさせていく、そんな感じだったように思います。
     

    音楽で心とからだの不調が癒えるという事は、古くから知られており、巷にはリラクシングの音楽が数多く溢れています。数多くあるという事は、好みもありますが、人それぞれに合う合わないという事や、上手くいく場合とそうでない場合があるという事でもあります。

    これは聴く側にも問題があるという事を示唆しているのではないでしょうか。つまり上手く聴く態勢がとれていない。空間もそうですが、コンサートホールに行ってポテトチップをパリポリやるような空気の読めない人が一人でも居たら、台無しになってしまう。空間との調和、一体感を意識するということも大事だと思います。

    言葉もそうですが、上手く伝わる場合とそうでない場合がある。同じ言葉でもニュアンスが変われば違う意味になる事が多いですから。空間をつうじて波長が合わなければ、行き違いが生じる。それを合わせるのは感覚であり、思考優位になっている時ほど、言葉の行き違いを起こしてしまうと感じます。話でも音楽でも聴く態勢をとるという事は大切と思います。

    今回のフォーラムでは三浦理事長から音楽を聴く時も、こういうふうにしたらその音楽の善さをありのまま受け取れる、という提案がありました。ご参加の皆様は実践してみていただけたでしょうか。やってみて体感して、善いと感じたものは取り入れていく。そういう姿勢も何事にも共通する上手くなるコツだと思います。

     

    2016年9月 新創生期操体法特別臨床講座 開講!