カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 愛からの道程。

    おはようございます。

     昨日はちょっとだけ操体について書きましたが、操体の創始者、橋本敬三先生ほど愛と共に人生を歩んだ人は、いないのではないかと思っています。愛について感じ、考え、悩み、そしてまた愛から気づきを得、観の転観を迎え、大いなる安心と大いなる自信を得、真理の追求に邁進し、自然法則の応用貢献の土台を築き、その成さんとした事を愛を持って次世代にバトンを渡した。
     それは、創始者の著書にも表れており、我々はその愛に触れながら操体に親しむことができる。また、その真意を一人の高弟に愛をもって託した事で、私達は創始者の成さんとした事を、道を踏み外すことなく、愉しみをもって学んでいける。

     創始者は著書の中でも書いておられるように、18歳の時に山室軍平先生の「神は愛なり」という説教を聴き、いたく感激し、それから頻繁に某キリスト教会に出入りするようになったという。しかし、その教会で説いている内容に次第に不安を感じるようになったという。
     なぜ不安になったのか。その教会では、人間は神の前に罪悪を犯しているものであるから、そのままでは赦してもらえない、キリストの愛を信じ、そのような行いをした者だけが救われる、といった内容に重点を置いて教えを説いていたからだ。

     創始者は、こう書いている「自分が罪悪深重の凡夫であることはよくわかる。神の愛もわかる。キリストの贖罪もわかる。しかし自分はキリストを救主と信ずることによって、一旦赦されても、また繰り返し繰り返し、罪を犯すことから脱出できないのである。懺悔して悔いあらためても、またまた罪を犯すのである。この生身の体をもち、五官の貪欲な本能がそれぞれ頭をもたげてくると、どうしてもこれを制しきれないで、つい悪いと知りながら、負けてしまい、次から次へとさまざまな罪を犯すのである。」

     この中の五官の貪欲な本能がそれぞれ頭をもたげてくると、というのは一つには食欲があるだろう。一番身近なものだと思う。人間だって他の動物のように、食べなければ生きていけないのだ。つまり他の生物の生命を奪わなければ生きていけない。
     そういったようなことに、純真な青年期の創始者は罪悪感を感じ、霊と肉体の板ばさみにあって苦悩してしまったのだと思う。食欲に関したことに限らず、こうした罪悪意識に苦悶し、そんな自分でも救われる道はないものかと5年間苦しんだという。

     そして23歳の或る日、盛岡の牧師・平野栄太郎先生から、エペソ書の第1章より創世以前の久遠の生命の観念の提示を受け、自分は生まれぬ先から、聖別され祝福された神と同格の永遠の生命そのものであるとの自覚を得た。そして「救い」と「報い」の区別をはっきり教えられたという。
     そして、創始者は観の転換による悟りを得たという。つまり、霊、イノチは元々救われているという事であり、5年前の自分は肉体を有してからの現象としての肉体しか見ていなかった自分であり、肉体の心は見ていなかった。肉体の細胞を構成する原子にだって意志と意識があるのだ。肉体の要求を現象だけで、罪な欲求と決め付けていた。自分のイノチも、自分自身の細胞のイノチも、その法位は違うが、生まれぬ先から聖別され祝福された神と同等の永遠の生命そのものなのだ。といった観の転換があったのではないだろうか。

     観の転換。自分を捨てる事で、自分の心を覆っているオブラートのようなものが溶けて、本来の心の在り方が見えてきたのだと思う。身ではなく、我を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。
     「おれが、おれ我」と自分が、どう生きるかという観点ではなく、どう生かされている自分なのかという観点への転観。生かされて生きているという自覚。

     観の転換によって、大いなる愛に気づき、大安心を得た。愛によって開眼されたのだと思う。自分自身のイノチへの自愛と慈愛、そして自己責任。自分のイノチも自身に宿るイノチも神と同等の永遠の生命そのものだが、法位は違う。
     自分には、自分自身の調和を保ち、より良い方向へ導く役割がある。現世での自分の歩み方であり、これには自己責任が伴う。この世は現象による「報い」が成立する世界なのだ。愛はあっても、それを現象に反映させなければ物事は始まらない。

     報いの成立する世界で、どのように救いを実すか。自分の欲ではなく、身心(みこころ)が悦び、からだ全体と心が調和に向かうもの。自分自身が生命活動を営む上で、必要最小限、自己で責任を持って営まなければ活動を絞り込んでみた。「息」「食」「動」「想」となる。
     そして人間は「環境」の中で「息」「食」「動」「想」を営んでいる訳であるから、環境に適応しなければならない。「息」「食」「動」「想」それぞれに自然法則が自在してある事がわかった。自然法則が自在してある事も救いだし、自然法則は愛の結びにもなっている。

     自然法則の応用貢献。創始者は自然法則の追求、追求した中から更に原究するといった学びの中から、愛をもって自分自身の生命バランスをより良い方向へ導いた。その過程で「気持ちよさで、良くなる」という事を識った。この世には、救いが貫通している事を自らが体現できた。
     しかし、一個人だけ良くてもしょうがない。愛をもって他の人達にも識って貰わなければ。自分が学んできた自然法則を応用し、人々に貢献する。

     創始者の成してきた道のりには、常に愛があった。操体の看板を掲げ、創始者の成さんとしたことを引き継ぐ我々も、常に愛をもって道を歩むべきだと思う。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • まずは自分自身から。

    おはようございます。

     昨日は最後に、まずは自分自身からという言葉で結びましたが、キリスト教にも「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉があると聞きます。マルコの福音書の12章からですが、わたしは昨日挙げた福音書のものより、こちらの方が安心するし、慈愛ということに関しても、こういうものだという結論ではなく、生涯をとおしてその意味を自分自身で学んでいくものなのだよ、と諭されているような、そんな感じを受けます。

     まぁ、「自分を愛するように」と訳す人もいるでしょうが、それだと何だか自分勝手とか、そういうイメージも浮かんでしまいます。やっぱり「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」の方がシックリくるし、一番身近でいつも一緒にいて、一生付き合っていかなければならない自身を愛せなければ、隣人も愛せないと思うのです。

     自身つまり自分のからだ。自分のからだは自分で支配しているわけではない。からだにもパーソナリティがある。身心(みこころ)であり、身だけの物ではないということ。自分の心と身心(みこころ)は本来、1は2であり2は1であるものだと思う。
     しかし、現代人は身心の心は隅に追いやり、表面的自我優位の自分の心だけで、からだは自分の物としてしまうところが多分にある。自分のものは自分のものかもしれないが、自分自身は2であり2は1である、という捉え方が必要だと思う。生かされて生きている。自分自身は愛と調和の賜物である。

     自分が自身を愛せて、はじめて他人様を愛して調和することが出来てくるのではないだうか。自分自身を粗末に扱っていて、それが普通と感じていれば、自分以外のものや他人様も粗末に扱ってしまうのではないだろうか。まずは自分自身から。自分自身を愛する事が出来て、利害関係なしで隣人も愛する事が出来る。

     そうは言っても、なかなかそう出来ないのも、五官の本能や欲を有する人間の性(サガ)だと思う。だから学んでいくものなのではないだろうか。生命活動をとおして一生学んでいく。
     その度ごとに反省して、懺悔して、気づきを得て、感謝して、その繰り返し。繰り返しといっても、堂々巡りのようなものではなく、循環して渦を巻き、渦が大きくなるように生長していく。そんな感じなのではないだろうか。

     イエスは慈愛の規範を示してくださったが、そのとおりにしなければいけないというものではないと思う。イエスの教えが、人間を縛っているとしたら、イエスも悦ばないと思う。
     それぞれが、生かされて生きていく中で自分自身で愛を学び、学んだ中から愛を提供し、慈愛をかたちにしていく。それが個性真理体としての、イノチを授かり生まれてきた、それぞれの人の使命なのではないだろうか。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
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    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
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  • 花言葉より。

    おはようございます。

     上州名物の空っ風が一休みしている穏やかな時間に、外に出て散策していると、どこからともなく甘く芳しい香りが漂ってきました。人工的でなく、この季節にシックリくるようなかほり。指先が冷えて思わずスリスリしている時に、いつも匂っていたようなかほり。見渡してみると、黄色い花を咲かせた木がありました。ロウバイのようです。

     近づいて花を見てみると、ミツバチの羽を幾重にも綺麗に並べて、こじんまりと整えた、そんな可憐な花です。ロウバイは蝋で作った梅のようだから蝋梅と書くそうですが、そういうのを聞くとなんだか和菓子にも見えてきてしまいます。
     2月というと、すぐに梅を思い浮かべてしまいますが、梅の前にもこんな花が咲いていたんですね。かほりは無意識に嗅いでいても、いつも寒いとか忙しいとかで、こんな可憐な花がこの時季に咲いているとは気づいていませんでした。心の豊かさが足りないですね。

     蝋梅の花言葉はいくつかあって、その中に慈愛というものがあります。
     慈愛。辞書では、親が子を慈しみ、かわいがるような深い愛情、とのこと。キリスト教では、キリストの純粋な愛だという。宗派によってキリストの純粋な愛についての解釈や、重点をおいて啓蒙したい部分というのは、それぞれだと思う。たとえば、キリストの慈愛の頂点を成すのは、その無限の贖いだとして、ヨハネ福音書の15章にある「人がその友のために自分の命を捨てること。これよりも大きな愛はない」という言葉を挙げている宗派もあると聞きます。

     この言葉を聞き、私は大変立派な事だと思う反面、捉え方によっては恐さも感じるのです。友と友のあいだであったなら崇高な事だと思う。しかし、権力を持った人間が、こういう言葉を支配とか領土拡大の為に利用するとなったら話は別になってくる。それは西洋の歴史を振り返ってみてもあきらかだ。この教えが悪いというのではない。あくまで捉え方の問題であり、状況によってはそういう捉え方をされてしまう要素があるということなのだ。

     その要素とは、一つには、この教えの愛は無条件の愛ではなく、条件付の愛だという事。
    先程挙げた一文だけではわかりづらいが、この教えの前の部分と後の部分もつなげると、このようになる。
     「わたしのいましめはこれである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい(15章12)。人がその友のために自分の命を捨てること。これよりも大きな愛はない(15章13)。あなたがたにわたしが命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である(15章14)」

     つまり、崇高な愛の教えではあるけれども、極端な見方をすればキリストが人類を愛したように、愛し合う事ができなければ、友ではないということになってくる。キリストの愛がどの様なものかを知らなければならないし、そうなるとクリスチャン以外は友ではないということにもつながる。宗教上の対立や宗教と政治が絡み合い、宗教戦争のような争いが起これば大義名分に利用される恐れもある。そういった時、真っ先に犠牲になるのは純真な若者なのではないだろうか。

     一神教の中の、条件付の愛の教えというのは、道徳観や倫理観を育む上では大切だと思う。しかし、ややもすると縛りになったり、その道徳観からの比較対称が生じ、排除、対立の方向性も出てくるということなのだ。
     最近、中東の方では大変な事になっている。宗教の名を語り、対立を深める事に邁進し、その宗教の教えを捻じ曲げて解釈し、自分達の組織の正当性を主張し、領土の拡大をはかる。そうするためには、自爆テロも辞さない、また、それを友、同志に求める、強要する。自分達に賛同しない、友になれない人達の生命を、生命と思わぬ蛮行をする。そんな事が許されるはずはない。名前を使われた宗教も、本当に迷惑していると思う。

     宗教が支配の道具にされるという事は、あってはならないことだと思う。神は支配主ではないのだ。神が支配するために、人間を創造したとは思えない。私達の悦ぶ姿、歓喜に満ちた姿を見たくて、愛と調和という理念にもとに、自分(神)に似せて創造したのだ。だから私達の本質的な悦びは神の悦びであり、本質的な快は神の快でもあるのだと思う。

     この世に生まれた時点で、もうすでにその前より神の聖別と祝福とを受けている。もともと救われているのだ。そこから、より良く生き、より良く神と悦びを共有するには、自己責任の果たし方によって報いがあるということなのだ。その自己責任の果たし方は自然法則の内にある。自分ひとりで生きてるわけではないのだから。生かされて生きている。
     いきなり、他人様のためではなく、自分と一生を共にする自身との向き合い方からなのだと思う。まずは自分自身から。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
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  • 2月の景色より。

    こんにちは。

    今週のブログは、友松の担当となります。
    どうぞよろしくお願い致します。

    前回の担当の時は、紅葉真っ盛りで日一日と寒さが深まる頃だったのですが、今回は寒さは残るけれども、日一日と春の訪れの予感を感じさせられる、そんな頃合のようです。
     梅の花の便りも聞こえてきそうな時節ですが、まわりを見渡せば、まだまだほとんどの木々は葉っぱを落としたまま、眠っている状態のようで、茶色い景色が広がっています。

     眠るときというのは、余計なものは取り去り、余計なことも考えず、ただただ自然の恩恵に委ね、英気を養う。そんなことを、枝をむきだしにして、シルエットをさらけ出している木々達から教えてもらっているような気がします。

     自然は確かに自然良能作用を与えて下さっている。それも万民、万物平等に。それを受け取るか、受け取らないか。
     ありのままをさらけ出さないと、与える方も何を与えたら良いのか解らないのではないか。少なくとも自然と向き合う時は、浮世の鎧は脱ぎ捨て、ありのまま素直に向き合う事。変に取り繕ったり、企んだりしても仕方がない。いつも見られているのだから。
     

     木々達の眠りを妨げないよう、お日様もまだ少し遠慮がち。真昼に照っても、夕近づけば雲を纏って控え気味。なんだか太陽が木々に合わせているような印象となってしまったが、一般的に考えれば、逆になる。
     地球の地軸には少し傾きがあり、自らも自転し、太陽の周りを一年かけて公転しているから、日本には四季がある。その気候に合わせるように、木々や他の動植物も冬の間は、眠りにつき、英気を養うのがほとんどだ。木々達が自然環境の法則性に合わせているといえよう。現象だけ論ずれば、それが正論だと思う。

     しかし、その現象はどうやって生じるのかといったら、また違ってくる。太陽系の形成は46億年前に始まったとされるが、偶然が度重なり今のようになったとは思えない。その根源には何があったか。物理的には巨大な分子雲の一部の重力による収縮とされているが、その元の元の働きかけというのは何なのだろうか。
     唯物論では限界がある。現に質量が何から生じているか、といった事が解明できてはいない。しかし、唯心論の立場に立てば、それは愛だと言えるのではないだろうか。

     根源に愛と調和という創造主の理念があるから、それがカタチづくられる。その理念の元では皆平等なのだと思う。自然環境を現象のみで考えれば、太陽が支配者で木々は従者という見方もできるが、そうではないと思う。
     ただ、それぞれの個は、それぞれ意志と意識を持ち、その法位に準じている。太陽には太陽の、木々には木々の役割があり、それを全うするイノチがある。生命という現象(有機だけでなく)がイノチを全うするためには、それぞれに自然法則が自在するが、太陽だって例外ではない筈だ。

     宇宙の中の太陽が、どんな自然法則の元に、イノチを全うしようとしているのかは、解らない。ただ、自然法則は個を支配するために自在するのではなく、個がより良くそのイノチを全うする為に自在して在るのだと思う。そして、それぞれの自然法則の根底にあるのは愛と調和だ。
      
     愛と調和の元では、それぞれの個のイノチは尊重されるべきであって、甲乙をつけられるものではない。そして様々な面で、それぞれがつながりをもっている。地球という生命体のそれぞれの有機生命体のイノチの躍動が、太陽の生命活動にも影響を与えているという事もあると思う。みんなお互い様なのではないだろうか。

     そうやって考えていくと、太陽が木々達の為に気を使っているように見えても、おかしくはないと思うし、そう感じられた事に「有難う御座います」なのだ。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
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    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
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  • 間似合紙より。

    おはようございます。

     今回のブログ担当も今日が最終日となりました。陽が暮れるのが早くなったせいか、ホントに一日が早く、一週間もあっという間と感じます。

     この、あっという間に、自分は間に合っていただろうか。間に合うという言葉は、寛げるような、安心するような言葉ではあるが、奥の深さを考えさせられる言葉でもある。

     最近、テレビを見ていて、間似合紙というものを知った。これは雁皮紙の一種で、名称の由来は襖の半間の幅に継目なしにはるのに、間に合うという事柄からだそうです。

     「間に合う」から「間似合う」へ。当初は襖にはる襖紙に、ちょうどよいサイズとして、間に合うという意味からだったと思う。しかし、襖は室内空間に合わせて、絵が書かれたり、金箔が貼られたりするので、紙質も用途に適応するものでないと間に合わなくなる。
     「間似合紙」という名称が生まれたのは、そういった背景があったからではないだろうか。

     テレビ番組は、間似合紙として名高い名塩雁皮紙を作る人間国宝の職人さんの仕事ぶりを紹介したものであったが、名塩雁皮紙のすばらしさが十分に伝わってくるものであった。

     名塩雁皮紙の特徴としては、日焼け、変色、湿度の変化に強く、保存性に優れている。その他に書画の墨ののりも良く色も良くなる、絵具の発色も良い、摩擦熱に強いことから箔打ち紙にも最適など。この適応力の高さ。正に間似合紙。重要文化財の修復には、なくてはならないというのも頷ける。

     襖が部屋どうしを仕切る単なる間仕切りであったなら、襖紙もサイズがちょうど良く、保存性に優れるという面だけで十分間に合い、間似合紙という名称はつかなかったかもしれない。しかし、人々は室内空間をより豊かに愉しむ為、美的景観を求めた。
     襖にそれを求めても何ら不思議はない。格好の下地だと思う。そして、文化の発達に伴い、書や絵画という芸術作品のキャンバスの役割も担うようになった。

     そうなると、襖紙も人々の要求、時代の要求に応じて、質的に進化していかなくては間に合わなくなる。
     保存性に優れるという事をベースに、書の墨や絵画の絵具への適応性を付けていくという事であり、墨ののりや絵具の発色が良くなったからといって、保存性が薄れ、日焼けや変色が起きやすくなってしまっては元も子もない。

     基本をおさえ、基本を成す事柄を深化させ、その上で適応性を付けていく。雁皮紙の原料を再確認し、足りないものは足し配合のバランスを調整し、紙すき、乾燥まで、要望に沿う為の調和を模索していく。地道な精進の積み重ねであり、突然変異的進化ではない。深化を元にしての進化。

     当初はサイズが間に合うだけの襖紙だった。それが時代や人々の美的空間への要望が加わり、その美的価値に似合う襖紙が求められた。間に合うように進化させていった結果、間似合い紙と呼ばれるような適応性の高い上質な紙となったのではないだろうか。
     

     操体も進化している。こちらも突然変異的進化ではなく、深化を元にした進化だ。何を深化させているのか、もちろん自然法則だ。自然法則の原求を深めた上で進化している。

     なぜ、進化しなければならないか。それは、時代とともに、人々のからだの要求が変化しているからだ。
    何十年か前の、コキンとやったらパッと良くなった、という長期的展望抜きの考え方は通用しなくなっている。物質的に豊かになり、生活様式も大幅に変化した今、人々のからだに、それを受け入れるだけの素地がなくなってきているのだと思う。

     人々の心とからだは快を求めている。それも年々、より高い調和に向けた快が求められるようになってきている。出来るかぎり、からだにやさしく、効果のあるものへ。
     進化していかなければ、間に合わない。

    「2014年秋季東京操体フォーラム
    今回は11月22日(土)23日(日)の二日間開催いたします。
    メインテーマは「操体進化論」。
    22日は満席となり、締め切りとなりました。
    23日は参加可能です。ご参加希望の方は、お早めにお申し込み下さい。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?p=813

     一週間お付き合いいただき、ありがとうございました。
     来週は中谷祐祥さんの担当となります。
     来週も、どうぞ宜しくお願い致します。

  • 本人自身の利益。

    おはようございます。

     最近、歯医者さんに通っており、昨日は奥歯に詰め物をしたせいか、何かシックリきません。歯医者さんに通うのは10年ぶりくらいとなるので、歯の良い状態に戸惑っているのかもしれません。
     痛みがないからと、歯があまり良くない状態に慣れてしまうと、噛み合わせをはじめ、からだの動きにも影響しますものね。定期的なメンテナンスは、やはり必要ですね。
     

     ふと、ある歯医者さんを取り上げたテレビ番組を見ていた事を思い出した。印象に残っていたので、日記にあるかもと思い、専用の操体ノートを見返してみる。あった、あった。先月末のNHKの番組だった。

     その歯科診療所に通う人達は、80才を過ぎても25本前後の歯が残っている人が多数おり、また子供たちの8割以上が、20才になっても永久歯に虫歯ができないという。
     この世界的にも類のない圧倒的な成果は、単に治療の腕が優れているだけではなく、予防に重点を置いてきたことによる。

     番組で取り上げた歯科医の熊谷先生は、70歳ぐらいとお見受けする。若い時から最高難度の治療テクニックを磨いてきた歯科医だが、ある時から「真の患者利益とは何か」ということを自問自答するようになったという。

     痛みを治す歯医者から痛くならない為の歯医者へ。治すだけを良しとせず、予防の大切さを説き、意識改革を促す。虫歯を削って治療して、痛みがなくなっても、どうして虫歯になってしまったのか本人が気づけなければ、虫歯になったら削って治療しての繰り返しになってしまう。治療の度に削った穴も大きくなる。

     熊谷先生は、35年前に診療所を山形へ移転したのを機に、予防とメンテナンスに重点を置く方針に切り替えた。しかし、はじめの頃は、なかなか理解が得られず、罵倒されることも度々だったという。
     当時の患者の多くは、歯が痛いから歯医者に来たのだから、手っ取り抜いてくれ、早く削って詰めて治してくれ という人がほとんどだったと思う。
     それを唾液の殺菌力を検査することからはじめ、予防とメンテナンスの大切さを理解させ、口の中を清潔にすることが定着するまで、実質的な治療はしないというのだから、軋轢が生じるのも無理はない。

     それでも熊谷先生は、己の信念を曲げずに、真の患者利益を優先し、患者の意識改革を促すことを地道に繰り返した。そして、痛くなくてもメンテナンスに通うことで、健康な歯を保ち、快適な毎日が過ごせる事を実証していった。
     現在では、その成果は世界的に類のない成績となって表れている。また、成績という数字以外にも、地域社会への貢献は計り知れないものがあると思う。
     番組中、80歳代の男性が「酒を飲んでも、歯磨きしないと気持ちよく寝付けないんだよ」と綺麗な歯を覗かせて、微笑んでいる姿が印象的だった。

     操体臨床にも、つうじるものがあると思う。そして、時代は確実に「からだに、やさしい」という方向に進んでいると感じる。
     依頼者の勝手都合の満足ではなく、一生使わせていただく、からだの満足を考える。それが結果的に依頼者本人の利益につうじる。
     

    秋季東京操体フォーラムお待ちしております。
    23日は、まだ参加可能です。

    「2014年秋季東京操体フォーラム
    今回は11月22日(土)23日(日)の二日間開催いたします。
    メインテーマは「操体進化論」。
    22日は満席となり、締め切りとなりました。
    23日は参加可能です。ご参加希望の方は、お早めにお申し込み下さい。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?p=813

  • 落ち葉焚きより・・・なにも足さない、ありのまま。

    おはようございます。

    昨日、焚き火を見ていて、ふと、道元の言葉も思い返されていました。
    「たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後裁断せり。灰は灰の法位にありて・・・・」

     この後、生死観を表す文章へと続くわけですが、生死観を表すのになぜ薪と灰の関係をあげているかというと、一番身近で誰でもイメージしやすいものだったからだと思います。現代では薪や灰は、めったにお目にかからなくなったが、当時は両方とも暮らしに欠かせないものだったと思う。

    「たき木、はいとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず」当時の人達も、経験上そんなことは当たり前と捉えたと思う。たき木が「燃えて」灰になってしまったのだから、元に戻らないのは当然、と暮らしの経験上感じたと思う。

     しかし、道元は「燃えて」とは言っていないのである。「薪が燃えて灰となる」ではあまりにも唯物的になってしまうと感じる。言わなくていいことは言わない。言わないが、聞く人への配慮も忘れない。それが「しかるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず」という言葉に表れていると思う。自分の哲学を理解している人にも、そうでない人にも、つうじる言葉をつなげる。この文章には、そんな思慮の深さが窺がえる。

     では、道元の哲学の根本を成すようなものは、どういったことなのだろうか。私は、「鳥の命は鳥にあらづ空にあり、魚の命は魚にあらづ水にあり」という言葉に表されるような哲学だと思う。存在を単に存在として捉えずに、その存在を生かしてくれている存在が必ずあり、そうでなければ生命は成立しない、そうしたつながりというか、法というか、縁というか、そういったものが自在してある。自分以外のそういった存在や自在してあるものこそイノチである。というような哲学。本質への求道心なのだと思う。

     道元のこのような哲学、「想い」は一貫しているように感じる。それは礼儀、作法に厳しかった面にも窺がえる。決して、威張りたくて、自分を権威付けたくて、厳しくしていたのではない。そのものに対する愛情や、そのものを包み込んでいるイノチにやさしくあれ、と思えばこそであり、それをいい加減にすることを厳しく諌めていたのだと思う。

     そういったことを踏まえると、「薪が燃えて灰になる」というように、ひと言加えて暮らしの経験則に当てはめてから入るのではなく、そのまま素直に「たき木、はひとなる、」から入ったほうが「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり」という言葉がすんなり入るし、法位の意味も輝きを増すと感じる。「前後ありといえども、前後裁断せり」は非常にインパクトのある言葉だが、これも道元の配慮の言葉のように感じる。
     「前後ありといえども、前後裁断せり」という言葉を抜き出し、時間観に当てはめ「過去に捉われず、未来を恐れず、今を精一杯生きる」と解釈して、行動力の糧としている人もいると思う。それはそれで良い事だと思う。ただ、「法位に住して」という言葉がある以上「生かされて生きる」という事を念頭にしなければならないと思う。

     「法位に住して」という言葉から、操体創始者、橋本敬三先生の言葉が浮かんだ。橋本先生は、著書の中で「生命現象の生物の組成を逆に考えてみるならば、生物の世界は有機の世界から生まれる。有機は無機の世界から、無機の原子は・・・・・・・中略・・・・・・・各世界には、ひとかわ上の世界が入り込み、また各世界には第七天の太極が普遍貫通していることになる」と書いている。
     薪は有機、灰は無機。「法位に住して、さきありのちあり、前後ありといえども、前後裁断せり」
     また橋本先生は「どんなものにだって、意識と意志がある。石ころにだってバランス感覚はあるのだ」と語っていたと聞く。

     橋本哲学と道元の哲学、合いつうじるものがあると思う。お二人とも真理をズバッと言葉にするものだから、自分の経験側に落とし込んで簡単に理解しようとしても、なかなかそうはいかない。固定観念を捨て去り、まっさらな気持ちで向き合うことも大切だと思う。

     昔、ウィスキーのCMで「なにも足さない、なにも引かない」と言っていたものがあったのを思い出した。これには続きがある。「ありのまま、そのまま。この単純の複雑なこと」

    「2014年秋季東京操体フォーラム
    今回は11月22日(土)23日(日)の二日間開催いたします。
    メインテーマは「操体進化論」。
    22日は満席となり、締め切りとなりました。
    23日は参加可能です。ご参加希望の方は、お早めにお申し込み下さい。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?p=813

  • 落ち葉焚きより・・・慎む。

    おはようございます。

     冷え込んだ空気の中で、降り注ぐ晩秋の陽の光を浴び、その暖かさを感じていて、ふと陽の光以外でも暖をとれるのは人間だけなんだなぁ、と感じました。
     そろそろストーブでも出さないと。ストーブのゆらぐ炎を見ていると、なんだか和みます。考えてみれば、火を熾すことが出来るのは人間だけ。他の動物はむしろ恐がる。他の動物とは何か違う特別さと、有り難さを感じます。それと同時に何か責任のようなものも感じる。

     ふと、懐かしい匂いがしてきた。窓を開けて見てみると、畑で焚き火をしながら焼き芋を食べている人がいる(田舎なものですから)。
     火を使うことが出来たから、食べ物を焼いて食べたり、煮て食べたり、それが器の開発や穀物の栽培にもつながってくる。そして、暖房、照明、様々な機械の動力源としての利用。火を使うことが出来たから、暮らしが豊かになり、文化、文明の発展につながった。

     その反面、火は使い方によって、破壊に導くものになったりする。火災などは、その一例で、火の破壊力の凄さや恐さがダイレクトに実感される。誰だって、火災を起こしてはいけないと感じるだろう。
    ダイレクトに実感出来るものほど、一致団結して予防をしたり、対策を立てやすい。

     問題なのは、火の燃料となるものが有限なのに、無限であるかのように使いすぎたり、それによって空気をはじめとする自然環境を徐々に破壊してしまっている事の方。
    こちらは、徐々に進行する為、自分達で自分達の首を絞めるようなことをしていても、なかなか実感できていない。地球の温暖化など、その報いの警告は感じていても、対策については、なかなか足並みが揃わない。

     火を使えるという有り難さを、もう一度想い返し、慎みの心を取り戻す必要がでてきていると思う。慎みの心というのは、「自分で自分が生きている」といった、自分中心の考え方からは生まれない。
    自分を生かしてくれている存在や、存在を可能としている絶対的イノチが自在する真実を、真実として受け入れる事からはじまる。人間と人間という相対関係の枠を超えなければ、利害関係の枠も越えられず、自分達を生かしてくれている地球の事は、いつまでも枠の外に置かれてしまうのかもしれない。

     幸いにも火に関しては、世界の、どの民族でも畏敬する文化があるという。日本でも、つい何十年か前、私が小学生の頃ぐらいまでは竈があり、竈の神様を祀っていた。竈三柱神。
     竈三柱神はオキツヒコオキツヒメカグツチオキツヒコオキツヒメが竈の神でカグツチは火の神であるという。

     昔の人は、暮らしや生活に切っても切れない竈という大切な場に、小宇宙を感じていたのではないだろうか。私なりの解釈だが、オキツヒコオキツヒメは竈という場の(+)と(−)の神様。カグツチは「愛と調和」という太極の意志が貫かれた、竈での生成、具現化の神様、別名ホムスビ。ホムスビの「ムスビ」とは「愛とその法則」であり、愛をもって現象に秩序をもたらせている。

     秩序をもたらすことで、燃料の質と空気の触れ合いに法則性をもたらす。その法則性があるお陰で、炎のエネルギーは対象物に質的変化をもたらし、新たな命を呼き込める。生まれ変わった対象物は、炎が消えてもイノチと共に存在する。命の結び、命の連続性。

     重要なのは物質現象の根底には波動現象があるということ。よく料理は、愛情と火加減が大事だと言われる。「美味しくなれ、美味しくなれ」と想い、やさしい波動の言葉をかければ、火の神様も応えてくれるということなのではないだろうか。昔は、燃料が薪だったのだから、なお更だと思う。

     恐ろしいのは火事を起こしてしまうこと。注意散漫もさることながら、荒い波動を向けることによって、怒ったように荒く燃え広がることもあるのではないだろうか。悪くすれば、自分の家の焼失どころか、他の家にまで災害を及ぼすことになる。竈三柱神は別名三本荒神、仏教では三宝荒神

     火に畏敬の念が生じるのも当然と思う。自分達は絶対ではないのだ。生かされるべき絶対的なものに、見守られながら生きている。慎んで生きる。

     再び、窓を開け、焚き火の様子を見てみる。年配の方が一人だけだったのが、お孫さんだろうか、小さな子供が一人増えている。
    お爺さんは、焼き芋の灰を軍手で掃い、二つに割って半分子供に与えた。子供は晩秋の優しい光を受けながら、ハフハフ食べている。お爺さんは軍手を外し、そっと子供の頭を撫でている。荒神様の出番はなさそうだ。

    「2014年秋季東京操体フォーラム
    今回は11月22日(土)23日(日)の二日間開催いたします。
    メインテーマは「操体進化論」。
    特に、22日は場所の都合上、人数が限られておりますので
    ご参加希望の場合はお早めにお申し込み下さい。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?p=813

  • 晩秋の光より・・・相補性。

    おはようございます。

     光は粒子性と波動性を併せ持つ。こう表現されるようになったのは、ニールス・ボーアが相補性という概念を提唱したことによるという。粒子性と波動性という、異なる二つの性質が互いに補いあって一つ。
     この世で最も根源的なものとも思える、光にこのような性質があると想うと、なんだか嬉しいような、救われているような、有り難いような、そんな気分になります。

     ニールス・ボーアが相補性という概念を提唱するまで、光は粒子だと主張する科学者と、波なのだと主張する科学者とが対立し、大いに議論していたという。しかし、光が波であるとしなければ説明できない現象と、光が粒子であるとしなければ説明できない現象とがあり、科学者達を悩ませ続けたという。

     そこでニールス・ボーアの登場となったわけだが、ボーアもなぜ相補性が在るのか?相補性の元とは?起源とは?という事は言っていないと思う。知ってはいたと思う。
    それはボーアが後半生、量子物理学と東洋哲学に類似性があるとして東洋哲学を研究していたことから伺えるが、科学者の立場としては自在を肯定しつつも存在の研究を優先するしかなかったのかもしれない。あるいは社会環境が、そこを超えた発言を拒んだのかもしれない。

     橋本哲学では、そこから先、つまり相補性というある種の親和的エネルギーの起源はどこかという事を重要視している。橋本敬三先生は著書の中でも、その起源である太極が自在することの有り難さ、太極の意志のすばらしさについて、ことあるごとに説き、悩める私達に生きる勇気と自信と、生かされている悦びと感動を与えて下さっている。

     相補性の元は、太極の意志である愛と調和という、ものごとの基本となる理念なのだ。
    愛と調和という太極の意志が起源となり、相補性が生じる。または、愛と調和という太極の意志は全てに普遍貫通しているのだから、相補性はその表れと捉えることも出来ると思う。いずれにしても、太極の意志が元になっているという事。

     相補性はいたるところに発現している。一番身近なところでは、自分のからだや、今、生かされて生きている自分自身の事だろう。

     人間が生命活動を営む上で、「息」「食」「動」「想」は自己最小限の必須条件であり、責任がある。これらは同時相関相補連動性であり、そして「環境」と密接に関わっている。
     同時相関相補連動性とは、あるものが悪くなれば他ものも悪くなる性質と、あるものが良くなれば他のものも良くなる性質を意味する。
     高次の存在の集合体として存在する人間は、相関相補性をより良く活かさなければ、その相補性により集合体全体が衰弱してしまう恐れがある。

     その為には「息」「食」「動」「想」の自然法則を学び、相関相補性をより良く活かしていく必要がある。そうすることで、「環境」への適応力が増す。
     特に人為的環境とのかかわりでは、一人の自然法則への気づきから、他の人達とも良い相関性が築け、一人一人をより高めるような相補性が引き出されて、より良く人為・社会的環境を変える力が生じてくると思う。

     秋季東京操体フォーラムお待ちしております。

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    今回は11月22日(土)23日(日)の二日間開催いたします。
    メインテーマは「操体進化論」。
    特に、22日は場所の都合上、人数が限られておりますので
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    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
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  • 晩秋の光より・・・ヒビキ。

    おはようございます。

     朝起きて、朝陽を見る。これが春の東京操体フォーラムで学んでからの日課となっている。秋のこの季節、それほど眩しく感じない。
    手をかざし、指の間からこぼれる光を目を細めて陽の光の線だけ見る。スペクトラムが山吹色優位で、ほんの少しだけ緑や青が混じるように見える。なんだかゴッホの絵の配色にあったような、なかったような。

     降り注ぐ陽の光と、その波長を吸収したり反発させたり、上手い具合に調整してくれる空気のお陰で、自分達は生きていられる。そう想うと、今、指の間からこぼれている光が、なにか愛おしく感じてきます。ある意味、聖別され祝福された光なのかもしれない。

    そういう光と空気を感じて、木々は紅葉する。それを愛でる人間の視覚も遥か昔からの進化により、美しいと感じられる色彩感度を備えた視覚を持つことができている。逃げるものを追って食べる動物の目では、この色彩に富んだ紅葉の美しさは感じられないかもしれない。文化、文明を創造できる人間の目だからこそ視感できる美しさ。それを受け継ぐ有り難さ。秋の紅葉の風景の一瞬には、様々な構成要素とそのプロセスが含まれている。

     その構成要素とそれらのプロセスを知り、有り難いと想えば、風景の記憶は一層輝いてくるだろう。しかし、見る時は、その美しい記憶を一旦区切らなければならない。そうしないと、その一瞬を思考の決め付けで見てしまう恐れがある。
     決め付けをもった目で見れば、その時の本当の姿というのは見えてこない。それでは、その時その場にいる意味がなくなってしまう。

     操体臨床にも、つうじるものがあると感じる。操体には、この症状だからこうする、という決め付けはない。今その場で、からだの要求に応えることを行なう。前回診た時と同じやり方で、快がききわけられ、バランスの回復、不快症状の改善に向かうとは限らない。
    常に、その場その時の、からだの要求に対して、負担をかけずに優しく、尚且つ調和に向けた効果的な応え方をしている。快にも質があり、からだの求めている最高の快を味わっていただく為だ。

     決め付けずに、素直に見て、感じて、ヒビキ、そして紡ぎあげていく。どちら側の目を優先させるか、どちら側の脳を優位にするかということも、ヒビキという事に重要になってくる。
    そして、紡ぎあげるという事では、それまでの経験や知識というものも絡んでくるが、経験や知識でヒビキをシャットアウトしてはならない。一番の大敵は知識による決め付けだ。

     ヒビキ、つまり、からだや心の心根にヒビクということは、イノチの記憶と交感することであり、存在を存在たらしめる意識に触れるということであり、存在の創造主の意志に触れることでもあると思う。
    知識を高めることは重要なことだが、高めた後の想いが大切。想にも自然法則がある。想いを自然法則に合わせるようにすることで、知識はより活かされ、ヒビキとも調和和親でき、より良く美しいものが紡がれるのではないだろうか。

     ヒビキということに焦点をあてれば、時には目を消し、自然現象の呼吸を感じるということも必要かもしれない。光からすれば人間の可視域は限られている。そのお陰で美しいものが美しいと見れるが、自然現象のヒビキには、それ以上のものが在ると思う。

    「2014年秋季東京操体フォーラム
    今回は11月22日(土)23日(日)の二日間開催いたします。
    メインテーマは「操体進化論」。
    特に、22日は場所の都合上、人数が限られておりますので
    ご参加希望の場合はお早めにお申し込み下さい。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
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