カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 紡ぐ・・・1

    おはようございます。

    ずいぶんと暖かくなってきましたね。
    日中は木綿のシャツの肌触りがすがすがしく、ここちよく感じます。

    木綿でも絹でも、生地を織るには縦糸と横糸を交叉させて織り込んでいきます。人間社会は「報い」の成立する社会ですが、「救い」の想念をところどころで立て、織り込むように意識すれば、気持ちよく快適に過ごせる、良い「報い」となってかえってくると思います。
    ダメージデニムがカッコイイと言っても、横糸だけとなってしまえば、肌触りが良くないですものね。

    生地を織るには、糸が必要だが、糸は紡がなければならない。紡ぐとは、綿や繭を錘にかけて繊維を引き出し、縒りをかけて糸にすることを意味する。

     この紡ぐという言葉は、糸をつくるとき以外でも使われる。「言葉を紡ぐ」「心を紡ぐ」「いのちを紡ぐ」など、なんとも心地よいヒビキとなる。なにか大切に育むような印象を受け、やさしさや美しさも感じられる。「言葉を紡ぐ」という場合は、詩や文章の雅さを表すものでもあるという。

    言葉には認識を共有するという面がある。これがなければ言葉での意思疎通はありえない。カラスが黒いというのは、みんなで概念を共通認識として共有しているということ。実際には、光のあたり方などで、白く見えている部分もある。しかし、あえてそんな事をつっこむ人はいない。概念を共有するから意思疎通がスムーズにいく。便利ではある。

     しかし、それによって物事の本質とか真理といったものを、なおざりにしてしまう面もある。概念というのは頭でつくる世界であり、そこに捉われてしまうと本質がうらむやになってしまう。これは、感覚のききわけを蔑ろにすることにもつながる。心の豊かさにはつながらない。
    心の豊かさどころか、身心のアンバランス、不調を招くことにもなる。からだは感覚を共有したいと望んでいるのに、頭でそれをシャットアウトしてしまっていれば、身心のアンバランスは起こるべきして起こる。当然の報いでもある。

     概念は概念として持たなければならないが、そこにもう一捻り、感覚のききわけを加えてほしい。からだにききわける、自分自身に宿る御魂にききわける。
     カラスは黒い。しかし自分の頭の中で、のっぺらぼうに黒く塗りつぶして縛り付けないこと。この縛りが良くない。目で見ていることは事実なのだから、目で見たというからだの感覚をききわける。決してのっぺらぼうな黒さではない筈だ。
    からだはありのままの真実を伝えてくれているのに、頭の既成概念で縛ってしまうと真理は立たなくなってしまう。
     

    最近読んだ本にこんなことが書かれていた。
    「目で見る行為というのは、ただ見るのではなくて、見る対象と内面的な交感・交渉を持つ意味があったという。古来、森や川を見ることは、その森や川が持つ自然の強い力を自分の身に移し取る行為だった。対象の魂をよびこむことで新しい生命力を身につけようとしたのです」

    白川静 文字学入門 なるほど漢字物語

    白川静 文字学入門 なるほど漢字物語

     頭の既成概念で縛ってしまうということは、まわりの自然環境の持つエネルギーもシャットダウンしてしまっているとも言える。まわりの自然環境はエネルギーを「受け取っていいよ。そしてお互いに、より良くなっていこうね」と手を差し伸べているのだと思う。受け取らないのは勿体無い。

     ただ見るだけではなく、もう一捻り。からだの、あるいは御魂の感覚のききわけをとおして、しっかりキャッチする。それらを自分自身の中で縒りをかけて、紡いでいく。
     「言葉を紡ぐ」「心を紡ぐ」「いのちを紡ぐ」という語に共通するのは、そういうことだと思う。だから、やさしさや美しさを感じるのかもしれない。

    つづく。

    2014年4月27(日)
東京操体フォーラムが開催されます!
    会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。
    テーマは「入眠儀式 快眠・快醒のコツのコツ」
是非お越し下さい。

  • 美は犠牲的?・・・2

    おはようございます。

    「美」を漢字の成り立ちから考えると、羊を神様への生贄として献上した古事から始まるようです。昨日紹介したwikipediaの説明では、「美」とは大いなる犠牲であり、「自己犠牲」であるといったことが書かれていました。
     昨日は戦争の話となってしまいましたが、この「生贄」の文化というのも恐ろしいと感じます。

     そもそも、神様は生贄を求めるのだろうか。これは、当時の人達の恐怖心から起こった妄想だと思う。羊だけでなく、水害の多いところでは、人柱というものもあったと聞く。同情する。しかし、神様は生贄など求めないと思う。これは「報い」の価値観だけからなる妄想だ。
    「報い」つまり相対的価値観から、人間がこれだけの犠牲を強いているのだから、それだけの見返りをしてほしいと相手(神様)に要求しても、相手がそれを求めていなければ不成立となってしまう。
     当然、生贄の効果はない。その効果のなさを犠牲が足りないからと考え、犠牲をもっと増やす。羊の大きさ、数、果ては人間まで。妄想はどんどんエスカレートする。恐ろしいことだと思う。
     

     一方、同じように神様になにか献上するのでも、「祭り」はどうだろうか。「生贄」も「祭り」も宗教的儀式に変わりはないが、随分と印象が変わる。
     祭りの種類にも色々あるだろうが、こちらは総じて、誰かが犠牲になったり、その分だけ見返りを求める、というような発想は感じられない。
     神様に感謝して祝う。収穫が少なくとも感謝して祝う、多ければ悦ばしい気持ちが上乗せされて感謝して祝う、また少なくなってもそれはそれで感謝して祝う。良いからはじまり、良い、良い、良い。比較のない絶対的価値観。
     神様が全愛であり、公平であると本当に信じられるならば、自分達の都合によって、その敬う気持ちが良くなったり、悪くなったりするものではない、もちろん恐怖の対象でもない。自分達の状況が今、悪くても、良くなっているところもある。良くなったところが、自分達にもまた返ってくる。みんなつながっているのだから。更に良くなる。
     また、比較がなければ僻みや妬みもなくなってくる。良いものは良いと素直に認め、尊ぶ心。
     絶対的価値観、それこそが「救い」であり、潜在的には誰にでも宿っている普遍の価値観であり、良心であると思う。

     「救い」と「報い」どちらの方が良いのか自分自身に問いかけてみる。考えるのではなく、からだにききわける、自身に宿る御魂にききわける。「救い」の方が良いに決まっている。
     しかし「報い」が悪いということではない。「報い」というのは現世における歩み方の努力に対する評価でもある。その歩み方の努力の源をどこにとるか、ということが重要になってくる。心の持ちようによって、万象が発展変化するという事なのだから。
     心の持ち方に「救い」という絶対的価値観がなく、相対的価値観しかなければ、比較対象による限りない欲望や、そこから生じる劣等感、不安感から逃れようがなくなってしまう。 そして、これは個人だけではなく、まわりも巻き込む。生贄文化のような事も起こってしまうだろう。
     また、心的ストレスを吟味していけば、これが係わっていないものなどない。だから努力の源には「救い」という絶対的価値観が求められる。

     「自己犠牲」ということに関してもそうだ。自己犠牲には自分さえ我慢すれば良い」という側面もある。そして、これが過ぎると自己を潰してしまうと考えられている。そのようなものに美しさはないと思う。
     また、自己犠牲はニヒリズムにもつうじるが、ニヒリズムは虚無にもつうじる。虚無に「救い」はないのだ。

     三浦寛先生は、「快からのメッセージ」の著書のなかでこのようなことを書いている。
    「自己犠牲をよしとしてはならない。相手につくす場合に、自己犠牲をよしとして甘んじるのではなく、自分もそうすることが喜びであり、生きがいで、うれしいことでなければならない。この逆の場合は、相手に尽くしているうちに自分自身が苦しく耐えがたくなってきます。」

     自分の現世における努力の歩みの中に、心の本源の泉から「救い」の価値観を、少しでも湧き出させていく様に意識する。大切な事だと思います。

    2014年4月27(日)
東京操体フォーラムが開催されます!
    会場は東京千駄ヶ谷津田ホールです。
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  • 美は犠牲的?・・・1

    おはようございます。

     昨日、桜の美しさについて考えていて、美しさの「美」という文字は、なぜ羊という字と大という字が合わさっているのだろうかと思いました。

     Wikipediaで調べてみると、
    『「羊」と「大」の合成が「美」であり、「羊」と「我」の合成が「義」である。孔子の『論語』の中にも記されているが、「羊」は宗教的祭式において献物として利用された動物で、「犠牲の動物」の意味があり、そこから「羊」を要素とする合成漢字には、「犠牲」の意味が含まれている。あるいは「犠牲」の意味を持つ概念を表現するために、これらの漢字は合成され造られたとも言える。
    「義」とは「我の責任の限りの犠牲」という意味があり、「善」は、「儀式の祭具に盛る限りの犠牲」という意味があるが、「美」とは「大いなる犠牲」である。この場合の犠牲とは、「自己犠牲」であり、共同体の命運などに対し、人間として行える最大限の犠牲、つまり己の命を献げて対象を高めるという含意があり、言い換えれば、人の倫理の道において、最も崇高な行いが「美」であったのである。』
    と書かれている。

     なんだか納得がいくような、いかないような。立派なことも書いてあると思えるが、なんだか危なっかしさや不安を感じ、心がザワザワしてくる。
     漢字の成り立ちを歴史的に紐解き、客観的に簡潔にまとめれば、こう説明するしかないのかもしれない。しかし、本来の「美」とは、しっかり識別する必要があると思う。
    「美」とは本来、感覚が伴うものだ。美しいと感じるから美しい。美学にしても、感覚を伴う経験をとおして、確立していくものだと思う。頭だけでつくりあげた「美」とか「美学」、他から強要された「美」とか「美学」には危うさを感じずにはいられない。感覚をききわけるという事の大切さは、こういう場面でも生きてくる。

     ふと、「同期の桜」という軍歌の歌詞が思い浮かんだ。「咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ国の為」
     先の戦争では、大勢の人達の尊い生命が犠牲となってしまった。その中には、この軍歌を口ずさみながら死んでいった人も沢山いただろう。神風特攻隊のように、行きだけの燃料しか入れず、「お国の為」と自己犠牲を美徳として、死んでいった若い人も沢山いたと聞く。
     昭和天皇のような偉人がいなかったら、泥沼化して犠牲者はもっと多かったかもしれない。さぞ御心を痛めていらしていた事と思う。死んでいく本人も不幸だが、まわりも悲しくていたたまれないと思う。
     このようなことを繰り返さないためにも、安易に自己犠牲を美学とするような風潮は、慎むべきだと思う。

    つづく。

    2014年4月27(日)
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  • 美は、儚いもの?

    おはようございます。

    桜の花は美しい。
    ぱっと散るから美しい。

     儚いから美しいという人もいるだろう。しかし、ぱっと散っても次の年の時節が来れば、また咲いている。それも、より美しくなって。桜の花の美しさとは、内面の横溢するエネルギーが最良の時季に、外へ向かって表現されたものではないのだろうか。

     以前のブログで大岡信氏の「言葉の力」というエッセイを紹介したことがあったが、その中で人間国宝である染織家の志村ふくみさんとのエピソードが書かれている。
     志村さんは桜の美しさをそのまま染物に表現できる染と織の第一人者だ。志村さんによれば、染物の美しい桜色は、花からではなく、あの黒っぽくてごつごつした桜の皮から取れるのだという。それも一年中とれるのではなく、桜の花の咲く直前の皮からしか取れないのだという。まさに桜の花の美しさは内面の美しさでもあると思う。

     桜の花が散るのも、その美しさの内面に横溢するエネルギーが最高潮に達した証として捉えてみたい。花が散るのはエネルギーがなくなったからではなく、その質が変化したということ。桜の木全体からしてみれば、せっせと根を張ることもしなければならないし、葉っぱもつけていかなければならない。寒い冬場には休眠期間をとってバランス調整しなければならない。
     そうやって次の時節がきたら、また花を咲かせることができる。だから、消えてなくなりやすいとか、もろくて長続きしないといった儚いイメージではなく、その内面にはむしろ逞しささえ感じる。
    その内面の逞しさとは、日差しをはじめ、そこから生じる温度変化など、諸々の自然環境の変化に、全体で適応していこうとする逞しさであり、潔く花が散るのも、その生命力の表れだと感じる。

     厳しい自然環境の中でも、健気でひたむきな逞しさがあって咲き、そして散る花だからこそ、人の心根になにか訴えかけてくるものがあるのではないだろうか。それは儚さではないと思う。

    「儚いから美しい」という言葉を聞くと、なにか危なっかしさを感じ、心配な気持ちになってしまうのです。

    2014年4月27(日)
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  • サクラ、サク。

    おはようございます。
    今週のブログは友松が担当させていただきます。
    どうぞよろしくお願いいたします。

     前回、ブログを担当した時は、ちょうど年末年始の時期でしたが、今年も4分の1の日数が過ぎ、新年度のはじまりの時季となりました。
     私の住む地域では、ちょうど桜の花の見ごろを迎えています。新年度のはじまりには、やはり桜ですね。まだまだ冷えることがありますが、春の陽ざしを受けた空気というのは、この時季独特のものを感じます。秋の空気のクリアさとは違った、なにか色々な精気が入り混じったワクワクするような、それでいてボンヤリとした長閑な感じ。何か幻想的でもあります。その空間に薄いピンクの花びらが咲き誇り、微笑むように揺れている。麗らかであり、可愛らしくもあり、その可愛らしさに包み込まれていくようでもある。なんとも気持ち良く、ここちが良い。
     サクラの語源については、古事記に出てくるコノハナサクヤヒメのサクヤが転化したという説がありますが、桜の木、一本一本には時節の到来と同時に、コノハナサクヤヒメは宿るのかもしれませんね。
     

     先週、NHKスペシャル・人体ミクロの大冒険を観ていて、山中伸弥教授が「細胞には意識がある」と何回も言われていたのが印象的だった。
     以前は、細胞のことを体を構成する部品として捉えることが多かったが、近年はそうではないという。一つの自律した生命体のように、自ら周りを探り、状況を判断し、自らを変化させているダイナミックな存在なのだという捉え方になってきているという。今後のさらなる発展が愉しみになってくる。
     私見となるが、その、細胞の元となる原子や原子核にも意識や意志はあるのではないかと思う。そこから、それぞれが快を求め、愛と調和によって結びつき、秩序が生じる。そして、一つの自律した生命体としての細胞が生まれる。細胞一つ一つもまた、快を求め・・・・・。そうやって、それぞれが結びつき、統合された個性真理体になっているのだと思う。
     山中教授はこのようなことも仰っていた。「人間は細胞をつくれません。創造っているのは神様ですよ」また、真摯な眼差しで「ips細胞も細胞自身の力を借りたもの」と謙虚に語っておられたのも印象的だった。

     目には見えないが、人知を超えた結びつきの力というものは確かに自在していると思う。そして、快を共有し渦を巻くように更に快を求め、より大きなエネルギーとなっていくのではないだろうか。
     時節の到来とともにコノハナサクヤヒメが桜の木に宿るという考え方もあって良い。桜の細胞一つ一つに宿る、生と性のエネルギーを賞賛し、見事な結びの現れとして、祝福すべきだと思う。

    2014年4月27(日)
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  • 体験。

    こんにちは。

    今日で、今回のブログ担当も最後となりました。
    今回は、経営の神様とまで崇められた経営者、資産家である松下幸之助氏と、操体の創始者である橋本敬三先生について、あれこれ書いてきました。

     お二人とも、この世で成してきたことは違う。みんな、それぞれ個性をもって、この世に生まれてきている訳だから、違って当たり前であり、比較しても仕様がないことだと思う。しかし、成してきたことの原動力となっていた想念には、共通したものがいくつもあるように感じられた。

     松下氏は、はじめから資産家であったわけではない。家庭の事情で、小学校を中退し、9歳の頃から丁稚奉公に出されたという。そこでの色々な体験は、単なる知識として得たものと違い、いつまでも身についており、いかようにも応用が利いたという。そして体験というのは、ただ体験すれば良いというのではなく、その体験の味をかみしめる事が重要、と著書の中で書いている。

     操体操体法にもつうじるものがあると思う。温古堂先生語録にもあるように、橋本先生はよく「やじ馬でなければダメだ!嘘か本当かやってみよ」と仰っていたと聞く。
     また「動物は学問しない。しかし人間は理屈ばかり言っている。知識で判断するから間違う」とも仰っていたと聞く。

     見たり聞いたりしただけの頭の知識では、その本質までは捉えられないものだ。ものごとの本質というのは、本当にシンプルで、そして奥の深いもののようである。しかし、シンプルゆえに、頭の知識で判断してしまう。そして、表面的なことだけで、簡単なものと片付けてしまう傾向があるようだ。
     しかし、人間の頭の知識など、本質というそのものの根本にあるものに比べれば、たかがしれている。実際にその本質に触れてみようとする「やじ馬根性」というのは大切なことだと思う。

     嘘か本当か、頭だけで判断するのではなく、実際にやってみる。しかし、ただ単にやれば良いというものではない。やってみるという行動には、必ずからだの感覚が伴う。その感覚をききわけることが大切なのだ。創造主の理念が貫通し、それによって快か不快かを識別する能力である、原始感覚が備わったからだにききわける。これほど確かな判断基準はないと思う。
     知識で判断するから間違う。いかに科学が進歩しようとも、人間は人間を創れないのだ。コピー人間は遺伝子操作によって作れるかもしれない。しかし、創れないのだ。いくら利口ぶったところで、宇宙の根源とか太極とか呼ばれる創造主には敵わないということ。

     人に親切にする場合でも、大抵は自分が気持ちよさを体感したことを、まずはじめにしてあげようとするのではないだろうか。それが自然だと思う。頭で考えた気持ちのいい事を人に施す場合は、なにか迷いが生じるように感じる。
     体感した気持ちよさを体験という財産にかえていく。松下氏が語る、いつまでも身につき、いかようにも応用が利いたという丁稚奉公での体験は、そういうことが土台にあったのではないかと感じる。
      

    年末年始のお忙しい中、お付き合いいただき
    ありがとうございました。
    明日からは中谷さんの担当となります。
    明日からも、どうぞよろしくお願いいたします。

  • 昨日、想ったこと。

    おはようございます。

     昨日は、操体の創始者、橋本敬三先生はNHKラジオ放送に出演した時に語っていた言葉
    「自分一人で生きてないもんね、みなさんのお蔭で生きているんだ。そういう天地の法則のもとで生きているんだから、法則に違反しては生きられないわ。天地の法則もバランスなんだもんね。そのバランスの気持ちよさっていうのを味わうということが、自分にとっては一番しあわせだと思いますよ。」
    というのを紹介しました。

     この言葉というのは、本当に名言であり、救いの生命観に根ざした言葉だと感じる。この言葉を紙に書き、パソコンに入力し、ブログにアップする過程において、何度も身震いがした。仕事柄、「息」「食」「動」「想」の「動」の法則には敏感で、常に意識していることなのだが、天地の法則ということを改めて意識してみると、本当に有難く出来ていると感じられるし、橋本先生が仰っていた「この世は極楽だ」ということも理解できてくる。共存共栄が成り立つように、元々この世は作られているということなのだから。縦にも横にも、みんなそれぞれがお蔭さまであり、元々調和尽十方なのだ。

     そして、聖書の言葉などにある「まずは与えなさい」見返りを求めることなく与えなさいというのは、この天地の法則に則った行為であり、人やそれ以外にも親切にしたり、やさしくしたりすれば、「気持ちがいい」のだと思う。これは誰でも経験していることであり、体感していることでもあると思う。
     橋本先生は常々「原始感覚、気持ちが良いか悪いかがわかるから有難い」と仰っていたと聞くが、そういう能力を元々誰でも持っているということも救いだと感じる。
     みんなそれぞれが、この「気持ちよさ」をききわけ、味わうように心がけたならば、この世はもっと、より良く発展していくのではないだろうか。元々、この世は極楽となるように創られているのだから。

     まずは、やってみること。家族や隣人、親しい人に対して、善く思い善き言葉を叙べることからはじめてみるのも良いと思う。必ずや自分自身も気持ちよくなり、善いことが成ると思う。その発現に、時間的差異はあったとしても、必ずや善い事が成ると思う。

     松下幸之助氏は、著書『人生談義』の中で、「まずサービスを」と題して、このような事を書いている。
    「世の中というものはありがたいものでしてね、基本的にはサービスのしっぱなしということはないと思うのです。サービスをすれば必ずそのサービス以上になって返ってくる。“君にはこのあいだ大変お世話になったから、お礼をするよ”というものですな。見返りを求めてサービスをするわけやないけど、結果的にはそうなっている。
     よく見ていますとね、人間の心というものは一面利己的ですが、また一面で非常に報恩的といいますかね。恩を感じるものです。恩ということばが古くさければ、好意を感じて、それに報いると言いかえてもいい。それを皆やっていますね。
     また、その感謝報恩の念がなかったら、イヌやネコと同じでね、いや、それ以下かもしれない。人間の価値はありませんよ。だから、“まずサービスしよう”といいたいですね。」

  • 縦のつながりを、横のつながりに生かす。

    おはようございます。

     一昨日も昨日も、松下幸之助氏の「素直な心」について、ところどころで紹介していますが、もう一度『人生談義』の「真実を見るこころ」から引用すると
    「素直といっても、それは一般によく使われているような、おとなしく、従順という意味ではないのです。ぼくがいう素直な心とは、真理に直結する心とでもいいますか、私心や私利私欲など、何ものにもとらわれず、ものごとのありのままを見、ものごとの実相を明らかにする心です。それは広い寛容の心、他に耳を傾ける態度にも通じる心です。」とある。

    しかし、このことだけが「素直な心」というわけではなく、違う面からも「素直な心」ということを、同じ『人生談義』という著書の「とらわれていないか」という題目の文章で、こう書いている。
    「しかし、人間というものは、ともすれば何かにとらわれて、迷ったり、人間関係をこじらせたりしがちなものです。ぼくの今日までを顧みても、毎日、憤慨したり、他人のことをうらやんだり、・・・。だんだん少なくなりつつあるとはいえ、これまではずいぶんそうした経験がありますな。
     でも、そうした心を持っていない人はおそらくこの世に一人もいないのではないかと思うのですよ。もちろん、そのあらわれる度合いや程度は、人によっていろいろだと思いますが、しかし“おれはいまだかつてそんなとらわれた心をもったことがない”というような人がいたら、ウソだと思いますな。それは、欲望や感情を持っている人間なら当然のことで、そうした心の動きがあればこそ、また人生における満足や幸せ生まれるんですね。
     だから、大切なのは、欲望や感情をなくそうとするのではなく、それにとらわれず善導することです。折々に反省し、とらわれを極力排していかなければならないということでしょう。
     そのことは何も自分の気持ちを押し殺せ、ということではないと思います。たとえば、あなたがトクをすればあなたの親しい友達がソンをする、その場合、きっとお互いにほどほどの調和点を求めるのではないでしょうか。それでよいのですね。つまり、自分の欲望も適切に満たす。しかし、相手の欲望をも適切に満たしてあげる。自分だけの欲望、私心にとらわれることなく自他共に生きるということを大切にする。そうした心がまた素直な心だと思うのです。」

     これを読んでいて感じるのは、はじめの「真実を見る心」の文章の「素直な心」は縦軸につながる「素直な心」であり、「とらわれていないか」の文章の「素直な心」は横軸につなげなければならない「素直な心」なのではないかということ。
     もし、人間が本能だけで生きる動物ならば、縦軸とのつながりだけでいいと思う。しかし、人間は本能意外に知能や言葉を有し、自然環境に手を加える能力を持っている。そこに人間独特の欲望や感情といったものが生じるのは仕方のないことであり、横との関係による欲望や感情も否定は出来ないと思う。

     しかし、みんながみんな個人個人で、欲望と感情のままに生きていたら、社会は成り立たない。社会が成り立たないどころか、この世は地獄の様相を呈してしまうと思える。まがりなりにも社会や娑婆が成り立っているのは、個人個人の心の中に、縦軸につながる良心というものがあるからだと思う。

     良心というのは、非常に偉大な力を有しているが、一人一人に元々備わっているものでもある。しかし、備わってはいるが、横との関係ばかりにこだわっていると、この良心は欲望や感情によって、次第に潜在化していってしまう。松下氏のように、縦軸につながる「素直な心」を持ち得た人であるならば、横の関係で生じる困難や精神的ストレスも良心の力を借りて、プラスに変えていけたと思う。しかし、それ程の「素直な心」というのは、そんな一朝一夕に会得できるものではない。松下氏も「素直な心」になろうと決意してから、30年かかってようやく「素直な心の初段」になれたと仰っている。

     それだけ「素直な心」を高めていくのは大変な事なのだが、それによって良心の力、つまり宇宙エネルギーをも超えた無限の力の現れ方は違ってくるのだと思う。大変とか難しいと思ってはいけないのだと思う。せっかく誰にでも良心は備わっており、その力を大きく顕在化させる能力も秘めているのだから。
     良心を否定してしまったら人間が人間でなくなってしまう。だからといって良心を覆ってしまっている欲望や感情も否定してはいけないと思う。それも人間らしくない。可愛くもない。それでは生きる意欲も湧いてこないのではないだろうか。
     良心が潜在化してしまっていても、誰でもそのイメージと意識は出来ると思う。その人のイメージと意識の度合いで、欲望や感情を善導し、自他共に生きていくということを大切にしていく。そういう事を、少しずつ積み上げていけば良いのではないかと思う。そうする事で、自分自身は勿論、人間同士、生物同士、横のつながりもより良く生成発展していくのではないだろうか。

     これも一つの法則なのだと思う。宇宙の根源とも太極とも呼ばれる、創造主の理念とはそういうものだと思う。そして法則に順応していれば気持ちがいいのだ。上手い具合に、有難く創られていると思う。操体の創始者、橋本敬三先生はNHKラジオ放送に出演した時、欲望に対応する為にも常に「有難い」と思うことが大切であり、そうすれば人に迷惑をかけるような欲望は起こさないと語った後に
    「自分一人で生きてないもんね、みなさんのお蔭で生きているんだ。そういう天地の法則のもとで生きているんだから、法則に違反しては生きられないわ。天地の法則もバランスなんだもんね。そのバランスの気持ちよさっていうのを味わうということが、自分にとっては一番しあわせだと思いますよ。」と語っている。

     それと、良心の力を顕在化させるためには、言葉の重要性も無視できないと思う。橋本先生は著書の中で、言葉の重要性を説いているが、その中のひとつには、こう書かれている。
    「人は思って言うがままに現象をつくっているのであるが、このことを、はっきり認識している人は少ない。善く思い、善き言葉を叙べよ。善きことが成る。悪しく考え、悪しき言葉を語るなら物事は悪しくなる。」

  • コツのコツ、のコツ。

    おはようございます。

    あっ 今日は新しい年のはじまりでしたね。
     
     新年あけまして
     おめでとうございます
     今年も東京操体フォーラム実行委員ブログを
     どうぞよろしくお願いいたします。

     お正月といえば、おせちにお雑煮、初詣、それからお年玉。
     経営の神様とまで崇められた松下幸之助氏は、お正月に社員の人達に対して「経営のコツここなりと気づいた価値は百万両」という標語を、お年玉として贈った事があったという。松下氏の著書『人生談義』では、五十一年前のお年玉と題して、51年前を振り返りながら、何事でもコツをつかむことの大切さや、その意義、そしてコツをつかむにはどうすればよいのかということが書かれている。
     コツをつかむにはどうすればよいのか、という事に関して、要点と思われる箇所を抜き出してみると・・・

    1、
    「ぼくは、ものごとのコツというものは、単に人から教えられたり本を読んだりしてわかるというものではなく、みずから悟るというか、自得するものだと考えています。」

    2、
    「どんなことを行う場合でも一所懸命取り組んで、その都度これはうまくいったなとか、これはここをこうすればもっとよかったという具合に反省を重ね、新たなやり方を工夫していく。そのようなことを繰り返していくうちに、そのコツがおのずと身についてくるということではないかと思います。」

    3、
    「ものごとのコツをつかむコツは素直な心になることであるといえるのではないでしょうか」

     この題目の文章の中では、自然の理という言葉はでこないが、昨日のブログで紹介した根源社へ祈りをささげている時の心境、意識である「自分が何ものにもとらわれない素直な心で、自然の理に従っているかどうかを反省しているのや」という言葉を2と3の中に重ね合わせて考えても良いと思う。
     そうすると、操体法の中でも、最も重要な身体運動の法則を説いた、般若身経への取り組み方が思い浮かんでくる。

     般若身経は、健康体操のようなものと捉えられてしまっている面があるが、健康体操ではない。般若身経からはじまる身体運動の法則には、健康の基を正し、自然体(健康体)としての、あるべき姿を問いかけ、それが成り立つ理と約束ごとが示されている。
     だから、単に人から教えられたり本を読んだりしてわかるというものではなく、本人自らからだを使って、動かし、感覚をききわけながら悟るというか、自得していくものだと思う。その際注意しなければならないのが、自分の持論の眼中で解釈しようとしないこと。それをしてしまうと身経の意を成さなくなり、当然、何の効果も上がらなくなってしまう。快・不快の原始感覚を研ぎ澄まし、自然の理が成り立つ約束ごとを体感することが重要であり、それを体感することで、より自然体(健康体)へと近づいていくということなのだ。

     操体法の創始者、橋本敬三先生は、武芸諸般、茶道、華道などの名人達人、あるいは一般の人でも、外観上のフォームも麗しく見え、且つからだをより能率的に使うコツを会得している人に共通した道理を解明した。それは、自然環境に適応することであり、より良く適応している程、全身の重力をからだの中心に近づけて、からだを使えているという事。
     自然環境に適応するには、その法則に従うという事。自然法則の解明の為には、あらゆる方面からの検証がなされと思う。そして、事が自然法則の解明なだけに、自然の理に従っているかどうかを、素直な心で、自分を超えて自分を生かしめている大いなる自在に、問いかけることも忘れてはいなかったと思う。

     そうして、からだの使い方の自然法則である、手を使う場合は小指側側を利かして使う、足の場合は親趾側側を利かせて使うという重心安定の法則の解明が成された。重心が安定することによって、からだの使い方のバランス制御が保たれるわけであって、これによって文字通り腰を要とした、からだの使い方が可能となってくるということ。

     しかし、事はそれだけでは終わらない。からだの使い方の自然法則も、ある程度コツを会得している人ならば、成る程とすぐに納得していただけると思う。しかし、大部分の人達、特に臨床の場で出会う健康傾斜の歪体化の進んだ人達には、それだけでは納得していただけないのが実情だ。もっとその奥にあることまで解明していかなければならない。つまり自然法則の究明だ。そうしなければ、コツが会得した人達だけのもので、終わってしまうのだ。

     橋本先生は、この自然法則の解明と究明に生涯をささげていたと聞く。その成さんとしたことの真意とは、限られた人達だけではなく、すべての人達がやればやっただけ良くなる、より自然体(健康体)に近づくことができるという、いわゆる名人達人はたまた理想像とする絶対完全健康正体に、共通する健康のコツを得るためのコツまでをも、明らかにしていくという事だったと思う。

     しかし、橋本先生の御存命中、それは完成されたかたちでは、適わなかった。橋本先生の中では、それは出来上がっていたのかもしれないが、公表するまでには至らなかった。いかんせん検証する時間と身が持たなかったのだと思う。人間には寿命があるのだ。さぞや無念だったろうと思う。しかし幸いにも、その意志は、高弟、三浦寛先生にきちんと受け継がれた。

     重心安定の法則に限っただけでも、三浦先生によって、更なる検証と法則の奥にあるものの究明がなされ、より良くなる為のコツが明らかにされてきた。
     般若身経は基本的には立位で行うが、重心安定の法則に則った立位の姿勢を意識して行わなければ、自然体(健康体)に近づこうという取り組みにはつながっていかない。

     橋本先生は「からだの使い方は、かえだの中心である腰に集約されるべきが理想である。腰を要として、からだを使うコツは重心が母趾の足底、つまり、母趾のつけ根の部分(足心)にかかる」と述べていたという。この条件を満たすには、「両足を腰幅に開き「つま先と踵を平行させ」「両膝の力を抜いて緩め」など、いくつかの条件に従わないと、そのようにはならない。コツを活かすコツということ。

     コツのコツ、ここでいう重心安定の法則に則った立位の姿勢がとれる条件、つまり法則の奥にあるものの究明は、橋本先生から三浦先生に、その意志が引き継がれたことで完成の域に達した。しかし、そのいくつかある条件も、般若身経を行う本人が、どこまで意識して行え、その感覚をフィードバックできるかで、その効果の程は変わってくる。健康体操の類のように、法則も意識しなければ、その感覚もききわけないというのとは根本的に違う。
     そこで大切になってくるコツが松下氏の言う「ものごとのコツをつかむコツは素直な心になることであるといえるのではないでしょうか」ということだと思う。

     今年もコツコツ精進していきましょう。

  • 実相を意識して、自らの道を歩んだ二人。

    おはようございます。

     昨日は、宇宙の根源という言葉が出てきました。松下幸之助氏は檜の札に「根源」と直筆し、その札を祀る社を建立していたという。
     その社は「根源の社」と名づけられ、今も3ヶ所にあるという。そのうちの一つであるパナソニック創業の森にある社の社頭には、こんな言葉が掲げられているという。

     「宇宙の根源の力は、万物を存在せしめ、それらが生成発展する源泉となるものであります。その力は、自然の理法として、私どもお互いの体内にも脈々として働き、一木一草のなかにまで、生き生きとみちあふれています。私どもは、この偉大な根源の力が宇宙に存在し、それが自然の理法を通じて、万物に生成発展の働きをしていることを会得し、これに深い感謝と祈念のまことをささげなければなりません。その会得と感謝のために、ここに根源の社を設立し、素直な祈念のなかから、人間としての正しい自覚を持ち、それぞれのなすべき道を、力強く歩むことを誓いたいと思います」
     
     根源の社はPHP研究の道場とした真々庵にも建立されているが、松下氏はここで仕事をしていた頃、何よりもまずは根源の社にお参りしていたという。そして二礼二拍し、手を合わせて祈り、時には藁の円座を敷きその上で座禅を組み、手を合わせて瞑想にふけっていたこともあったという。
     『松下幸之助人生をひらくことば』の著者でもある谷口全平氏が「何をお祈りされているのですか」と問うと「一つは根源に対する感謝や。いま自分がここに生まれているということも根源の力のおかげやからね。もう一つは自分が何ものにもとらわれない素直な心で、自然の理に従っているかどうかを反省しているのや」と仰っていたという。

     松下氏の祈りとこの語りの中には、常に実相を意識して精進していたということが感じられる。松下氏のいう素直とは、一般によく使われているような、おとなしく、従順という意味ではない。
     『人生談義』の著書の中から引用すれば「ぼくがいう素直な心とは、真理に直結する心とでもいいますか、私心や私利私欲など、何ものにもとらわれず、ものごとのありのままを見、ものごとの実相を明らかにする心です。それは広い寛容の心、他に耳を傾ける態度にも通じる心ですね。」という事。
     これも踏まえて、先の語りを反復してみると、非常に崇高な精神をもって、自らの道を歩んだ方なのだということが窺い知れる。

     崇高な精神といえば、操体の創始者、橋本敬三先生も、常に実相を意識して精進しながら、自らの道を歩んだ一人であった。
     『生体の歪みを正す』の中に人生読本「人間の設計」と題した、NHKラジオに出演した時の内容が書かれているが、このようなことが書かれている。

     「道って字を書くけども、これは中国語で「タオ」っていう。「タオ」っていうのは人間が造ったんじゃなくて、自然にあるんだから無碍自在ですよ。自在ってことは自ずから在るんだから、それはね、調和尽十方なんだ。まあ懺悔する気持になると思うね。だから仏教の経典のなかにね、読ましてもらったんだけど、「観普腎菩薩行法経」ってのがあるんだな、それにね、「一切の業障海は、皆妄想より生ず、もし懺悔せんと欲せば、端坐して実相を思え、衆罪は霜露の如し、慧日よく消除す」、だから懺悔の心が起きれば実相を見ろっていうの。実相を見ろっていうのは、「無量寿の慈悲」と「無辺光の智慧」と「道」というのが無碍自在だということがわかれば、あとは懺悔して感謝するっきり仕様がないですよ。その感謝も衆生と倶に、讃えて仰ぎ奉ることを冀うってことに僕は尽きると思うな。ちゃんと法則があるんだもんね。」