カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 最終日。

    こんにちは。
    今日は、昨日の夜に雨が降った為か、随分と涼しく感じられます。それでも30℃。昨日の昼間が暑すぎたのでしょうね。涼しく感じられるのはいいですが、雲行きが怪しくなってきたので、今日は早いうちから一雨きそうです。

    今回のブログも今日で最終日です。
    2日目以降は、橋本敬三先生がNHKラジオ第1放送に出演した時の様子を記録した、人生読本「人間の設計」の中に収められている最後の方の文章の「その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達しているから」の「知識」と「だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」の「知識」との違いについて、自分なりに考察してみました。
     はじめは一日分だけのつもりが、色々なつながりが出来、ひろがっていった。色々と考察する中で、様々な文献にも目をとおしたが、橋本先生の言葉というのは、その場限りの言葉ではなく、どの分野でも、いつの時代でも通用するものなのだという事が改めて感じられた。言葉が生き、つながりをもつのだ。なぜそうなるのか。それは物事を根底から理解されていたからなのだと思う。橋本先生は医師であったが、局所的改善ばかりに拘り、全体の事やその後の事など、どうでも良いという態度であったなら、そうはならなかったと思う。また操体も生まれなかったであろう。しかし、橋本先生はみんなが、健康で快適に毎日を過ごせるようにと願い、生命体の成立の根本から医学を見直していくようになったのだと思う。これは次の「現代農業」に寄稿した文章の一部からも窺い知ることができる。
    「私も医者になりかけの若いときは、病気をなんとか治したいの一心だったが、だんだんそんなことは下の下だと思うようになった。医者が治してやるということではなく、生命体の成立の哲学に触れ、大自然を畏敬し、恭順すべきことが、はっきりした」
    生命体の成立の哲学とは宇宙現象創生の中心理念のことで、宇宙現象創生の中心理念である太極が陰(−)、陽(+)を設定し、愛と調和によって万物を具現化したことを指している。太極は万物発祥の源であり、無極無限である。この無限界のうちに陰、陽の現象が展開するのであって、現象のうちには無限が貫通普遍していることになる。元始は太極の意志が陰と陽の異質な二質を表して、そこに運動が起こり、物象が形成される時には、愛と調和によってムスビつくことから始まる。これは絶対なのだ。一つの物象となったものにも太極の意志により、陰・陽の性質が決定される。ここからは物的相対の世界で、素粒子、無機原子、有機、生物と次第に複雑な高次元の集合となり、各世界を形成していく。だから絶対純粋なる陰または陽は存在せず、総じて相対性となる。また陰と陽の性質上、同性は反発する。そして異性間は親和といえども、その差が大なれば激しく親和して火花も飛ぶ。しかし、物象を現わしている以上、その存在には太極の意志が普遍貫通しているのだ。だから、より複雑化した相対性の世界でも太極の意志が貫かれ、秩序が構成されてくる。その秩序の構成要因は自然の法則なのだ。だから自然法則は自在してあるというのだ。
    先月行われた「操体曼荼羅」で三浦寛先生は「太極は自在であり、混沌(カオス)である。この存在の世界は陰陽分極の相対的基準の世界であり、秩序のある世界(コスモス)である。」と仰っていたが、存在がある限り、無極無限の太極は自在しているのだ。生命現象も自在が貫かれた存在だ。存在の世界は複雑で時には反発も起きる報いの世界でもある。しかし複雑さに自分自身を失ってはいけない。どんなに複雑に高度化しようと存在である限り、太極は自在し、自然法則もそこに自在するのだ。そして調和に向かっている。調和するための羅針盤は原始感覚であり、調和に向かう原動力は快だ。だから、存在の世界の一現象である症状、疾患だけなんとかしようとしても、生命現象としては根本的には良くならない。生命現象として根本的に良くするには、生命の起源である太極に学び、自在する自然法則に従順になる以外にないのだ。 
     橋本先生も、先程の「現代農業」に寄稿した文章の一部でもわかるように、医者になりかけの若いときこそ、病気を治したい一心だったが、生命の本源に触れることで、その後は一貫して太極に学び、自然法則の応用貢献に励むということを重ねられ、生命体である人間を、根本からより良く健康に導くようにしていったのだと思う。
     そんな橋本先生であるから、言葉も絶対的見地から発したり、用いたりしているのだと思う。だから私のようなものでも学べば学ぶほど、その言葉に有り難味を覚える。そして、違う分野の人でも、一流とか達人とか呼ばれる人ほど根底でつながり、言葉の意味が理解できるのだと思う。

    一週間どうもありがとうございました。
    来週は中谷さんの担当となります。
    来週もお付き合いの程、どうぞ宜しくお願いいたします。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 知識と知識・・・「理屈をこねる」より

    おはようございます。
    今日も朝から蒸し暑いですね。湿気がまとわりつくようです。日中は気温も上がり、過酷な環境となりそうです。自分が過酷と思える環境の時ほど、立場の弱い人のことを考えなくてはなりませんよね。駐車場に停めた車の中、アスファルトの照り返すベビーカーの中、想像以上に過酷な筈です。

    自分自身が感覚するから世界がある。自分自身が感覚しなければ世界はない。自然が流動的であり、自分自身が感覚し、動く(広義な意味で)から時がある。と思う。
    自然を自分が止めることは出来ない。自然の流動性に合わせるしかない。しかし、脳に入ってくる情報は脳で止められるのだ。この情報には、原始感覚で快、不快を判断して、その感じ方も含めてインプットされて、記憶としてとどまり、行動の指標になっているものもある。逆に原始感覚の快、不快を感覚しないまま、詰め込み教育みたいなかたちでインプットされ、記憶にとどまっているものもある(今の人間はこちらの方が圧倒的に多い)。前者は原始感覚で快、不快を感覚した「知識」である為、自分の心が快の方向性をもっていれば、感恩報謝の行動、言動に結びつき、「理屈をこねる」にはつながらないと思う。片や、後者は原始感覚での快、不快の感覚をすっ飛ばしての「知識」である為、自分のエゴと結びつきやすい。それをエゴに合わせて、都合よく引っ張り出して論理立てするから「理屈をこねる」となってしまうのではないだろうか。
    ここで問題なのが、前者は自分の心が快の方向性をもっていれば、という限定がかかることだ。原始感覚で快と判断し感覚した「知識」も、「今ここ」の時空での心が不快の方向性にあれば、快の「知識」も隅に追いやられ、快の方向性の行動には結びつかないと思う。心の持ち方によって意志がおれてしまえば、その時の自然の流動性に合わせた原始感覚も衰退するしかない。次第に原始感覚で快と判断し感覚した「知識」も、エゴに結びつきやすくなってくると思える。逆に原始感覚で「不快」と判断した「知識」も、「今ここ」の時空での心が快の方向性にあれば、行動に結びつき、その時の原始感覚で「快」と判断し感覚すれば、以前は「不快」としてインプットしていた「知識」も「快」として更新されているはずだ。心の持ち方は本当に重要だと思う。「この現象の世界は、心のもち方一つで万象が発展変化する世界である」とは、決して誇張した言い方ではないと感じる。
    人間にとって、心の持ち方は重要だが、他の動物はどうなのだろうか。動物にも心はあると思うが「動物は学問しない」。学問による「知識」の詰め込み教育もない。だから理屈をこねる土台もない。野生動物は自然の流動性に合わせ、その都度その都度、原始感覚の快、不快の感覚情報に従っていると思われる。また、そうでなければ他の動物に食べられてしまう。理屈をこねている暇などない。無意識的にもそのようにしており、それが動物的「勘」となっているのではないだろうか。動物に比べて人間は甘えているのかもしれない。しかし、今さら野生動物と同じようにしろと言われたって出来るわけがない。他の動物にはない長所を伸ばして心の統制をはかっていくしかない。
    人間が他の動物とは違う最大の特徴は言葉であると思う。言葉というのも情報と同じ様に脳で止まる。そして心にも刻まれる。だから今こうして、19年も前にお亡くなりになった橋本先生の言葉から、ケイゾー・コードとして、その真意と成さんとしてきた事を、探求しながら学ぶことも出来る。そして、その言葉によって励まされたり、生きる勇気をいただいたりしている。この夏の暑さは何か考察する場面に於いては過酷であり、不快でもあるが、私の心は快の方向性を持てており、愉楽しんで取り組めている。原始感覚も暑さに負けて寝転んでいるよりも、取り組むことを快と選択してくれている。勿論、この暑さの中、根を詰めていけば「そろそろ休憩して水分補給してくれ」とか「涼しい処でからだを動かして、呼吸の流れも良くしてくれ・・勿論、般若身経でね」とか、からだはサインを送ってくると思うので、それには従うつもりだ。急がず、からだの要求に耳を傾けながら、取り組むのも心の平穏(快の方向性)につうじ、新たな気づきも得やすいと感じる。心の営み(想)は「環境」と「息」「食」「動」との調和のうえに成り立っている訳なのだから。
    心の平穏は、「理屈をこねる」という精神状態では得られないと思う。何故なら不安感や不公平感があるから理屈をこねるのだ。理屈をこねる精神状態を打破するのは、心を快の方向性へ導く「言葉」だと思う。そして、そういう言葉を沢山持てれば幸せだと思う。自然の流動性の中で生かされて生きている訳だから、その場面、場面にあった快の方向性に導く言葉を持っていれば、心が消沈することもなくなってくると思う。
    言葉は快、不快の波動を伴っている。言葉を聞いた時、すでに快、不快の判断を原始感覚が下しているのだ。それを感じられているか、いないかは個人差があると思うが、快の波動を伴った言葉であれば、からだ全体に響かせて増幅させ、そのからだの体感と共に「知識」として記憶にとどめておき、すぐ引きさせるようにしておいた方が良い。逆に不快に感じた言葉は大きくさせず、他の事柄とつながらないようにした方が良い。何故なら言葉を喋る時というのは、無意識から発動している為、意識せずにポロッと出てしまう時があるからだ。いくら自分の心が快の方向性を向いて、他人にも不快を与えるつもりがなくとも、何かの拍子で何かのつながりができて、ポロッと出てしまうことがあるのだ。だから、なるべく不快な言葉は小さくさせて、ネットワークしないようにしておいた方が良い。快の波動を伴う言葉が無意識に口から出、そこから快の方向性へスピンして、そのスピンが「息、食、動、想」の循環と、それにつながる「環境」の輪をどんどん快の方向へ導いていく。そんな風になればいいですよね。
    自分の中にある「知識」を「理屈をこねる」為に使うのではなく、「有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」の「知識」とするには、心を快の方向性へ導き、元々ある原始感覚を積極的に磨いて、ききわけられた快をスピンさせて膨らませるような、そんな珠玉の「言葉」を持つことなのではないかと思います。そうすれば、その場面、その場面の快の真っ只中で自然と「有り難う御座います」という言葉が口をついて出てくるのではないでしょうか。そして、そこからまた天に向かって快が縦にスピンしていく。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 「知識」と「知識」・・・「理屈」より

    おはようございます。
    今日は暑くなりそうですね。所どころで体温よりも気温が高くなるようですが、バランスを崩さぬよう、どうぞ御自愛願います。
     

    しつこいですが、今日も橋本敬三先生がNHKラジオ第1放送に出演した時の様子を記録した、人生読本「人間の設計」の中に収められている最後の方の文章の「その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達しているから」の「知識」と「だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」の「知識」との違いについて考察した事柄からです。

    橋本先生は「人間は理屈ばかりこねる。それじゃ駄目だ。知識で判断するから間違うんだ。ちなみに、動物は学問しない」という言葉も残しておられる。
    これは「操体法〜生かされし救いの生命観」の中に出てくるが、ここでの「知識」は「だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」の「知識」を指すのではなく、「その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達しているから」と同義の「知識」と思われる。しかし、言い方を少し変えて「人間は理屈ばかりこねる」と前置きしている。
    ここで、「理屈」ということについて考えてみたいが、辞書を引いてみると2通りある。
      1、物事の筋道。道理。「―に合わない」「―どおりに物事が運ぶ」
      2、無理につじつまを合わせた論理。こじつけの理論。へりくつ。「―をこねる」
    「人間は理屈ばかりこねる」の「理屈」は2の方であるのは言うまでもないが、1も2も人間を中心とした観点から捉えたものだと感じる。1の方も2と比べれば、聞こえは良いが、あくまで人間中心に合理的に物事を遂行するための理由付けのような感じを受ける。
    こちらもエゴが見え隠れする。考えてみれば「理屈」という言葉と「筋道」や「道理」という言葉を使う場面とでは明らかに違う。「理屈」は「理」が屈すると書く。「理」が屈してしまう。「理」が立たない。次に私が何を書くか、もう御見通しですね。つまり「理屈」では「真理が立たない」ということなのだ。
     人間のエゴに向いた合理的考え方にもとづく、物事の進め方というのは、必ずどこかで屈折してしまう運命にあるのではないだろうか。人間は天と地とのあいだに挟まり、自然の中でしか生きていけないのだ。人間の理屈に自然の摂理を合わせるという、人間から見た合理的なやり方はいつか破滅する。現に所どころでその予兆は警告として表れてきている。これからは、自然の摂理という理に、人間の理を合わせていく考え方が必要なのではないかと思う。
     これは自分の外の大自然にだけでなく、自分の中の自然にも言えることだと思う。自然法則がちゃんと自在してあるのだから。しかし、この自然法則もアタマで理解しようとすると理屈の論理になってしまい、不自然さが生じてきてしまう。なぜなら、アタマに入ってきた情報というのは止まっているが、自然界の一部である「からだ」は、恒常性はあるものの常に流動的であり、外の環境とのかかわり方も、常に一定とは限らず流動的であるからだ。
    自己最小限必須責任生活である「息」「食」「動」「想」についても、それぞれ自然法則が自在するが、からだの状態によっては、そのとおりに出来ないこともある。程度にもよるが、どこかに怪我をしている時、「動」の法則どおりに、からだを使い、動かしているつもりでも痛みが出ることがある。この場合は痛みという原始感覚のサインに従った方が良い。それ以上やってほしくないということなのだから。それをアタマで「こうしなければいけないんだ」「こうすれば良くなるんだ」と、からだに無理を押し付けるようなことをすると、かえって良くない。からだという自然に「こうすればこうなる」というアタマでの理屈は当てはめられないのだ。当たり前と言えば当たり前だと思う。しかし、実際に大きな痛みを感じないと、それがわかりづらくなっているのが人間であり、人間のエゴなのだ。
    また、「息、食、動、想」はバランス現象だが、「想」の法則の中には「頑張るな」「欲張るな」「威張るな」「縛るな」というバルの戒めも含まれている。だから、実際に「動」で痛みはなくとも、そういうアタマの理屈を押し付けること自体「想」の部分で法則違反をすることとなり、バランスを崩すことにもなる。ここでは「動」の部分で自分のエゴが満足しても、からだの満足ではない為、からだは良くなってはくれない。私はこのことを経験上、嫌というほど味わっている。できればその当時に戻り、やり直したいとも思うが、それもエゴであり、慎んで受け入れるしかない。
    反省して、「原始感覚」を頼りに、またすぐに再出発だ。こうしている間にも、自然と自分自身により、時間は流れ、「息」「食」「動」「想」というイノチの営みの要求も、環境も変化しているのだから。悔いることばかりに時間を費やしていては、また「想」からバランスを崩してしまう。後悔ばかりしていて、「原始感覚」を頼りにした行動に移れないと理屈っぽくなって、「知識」を頼りに言い訳ばかりしてしまうのかもしれない。反省したら、それはひとつの経験からの「知識」として、また原始感覚を頼りに快の方向への行動に移る。そして、より良い状態に自分が更新された時、その時の経験からの「知識」が、今の自分に、「懺悔」と同時に多大な「有難い」をプレゼントしてくれると思う。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 知識と知識・・・3

    おはようございます。
    今日は終戦記念日ですね。
    今年はオリンピックイヤーで、意識がそちらばかりに向きがちでしたが、悲惨な出来事を繰り返さない為の「知識」として、語り継がれる「記憶」として、意識を向け、心に刻んでおかなければならない事実もありますよね。 
     つい先日の新聞で知ったのですが、昭和18年、ソロモン諸島で散華した山本五十六は、一貫して米英との開戦に反対し、日独伊三国同盟にも異を唱えた人物であったそうです。戦争回避を模索し続けた山本五十六が、真珠湾攻撃の立役者として歴史に名を刻むことになったのは皮肉な結果です。その真珠湾攻撃も本人の意に反し、日本大使館の怠慢から米国への最後通牒が遅れた為、騙まし討ちという受け止められ方ともなってしまいました。
    その為か、表立った顕彰は長く控えられてきたようです。しかし、最近は軍人としてよりも、旧長岡藩士の家に生まれ「米百俵」の逸話で知られる旧長岡中学で学ぶ、という環境から培われた人物像とその言葉が、教育や自己啓発の分野で脚光を浴びているようです。
     ちなみに「米百俵」の逸話について簡単にまとめると、北越戦争と呼ばれる戊辰戦争の一つで敗れた長岡藩は財政が窮乏し、藩士達はその日の食にも苦慮する状態だった。このため窮乏を見かねた支藩の三根山藩から百俵の米が贈られる事となった。長岡藩士達は、これで少しは生活が楽になると喜んだが、藩の大参事・小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えず学校設立の資金にすると決めてしまう。藩士達はこの決定に驚き、反発して虎三郎のもとへ押しかけ、抗議するが、虎三郎は「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵になる」と諭し、藩士たちも納得し、旧長岡中学などの前身となる「国漢学校」を設立し、地域ぐるみで教育に力を入れていったのだという。
     
    今日も、橋本敬三先生がNHKラジオ第1放送に出演した時の様子を記録した、人生読本「人間の設計」の中に収められている最後の方の文章の「その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達しているから」の「知識」と「だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」の「知識」との違いから考えていきたいと思います。
     一昨日も昨日も書きましたが、どうも今の世の中を生きる私達の知識というのは、大部分が途中からというか、根の生えた知識ではないような気がします。それが情報として、あちこちに浮遊している、そんな感じがします。目まぐるしく変わるマスメディアの健康情報などは、その典型ですね。
    今も昔も赤ん坊が大人になっていく。これだけはどんなに世の中が変わろうと変わらない。大人になるには、社会の一員としてある程度の常識と知識を持ってもらわなければならない。だから、詰め込み教育もある程度必要だと思う。しかし、単に詰め込むだけで良いのだろうか。社会の一員となる前に、人間は自然界の一員として生を受けているのだ。そして自然界の一員としての原始感覚も必然的に備えている。学習の分野でも、この原始感覚を大いに活用すべきではないかと思う。活用していけば原始感覚もおのずと磨かれていくと思う。
    人間とコンピューターとは違う。コンピューターは情報を入力すれば、それをそのまま記憶してくれ、操作一つで情報をそのまま引き出してくれる。検索機能も使えて大変便利だが、情報の引き出し方が下手だと意図しない情報が引き出されてしまう。正確なのだが、その場その時の状況での、阿吽の呼吸のようなものとはならない。情報は流通しているようでも止まっている。情報は情報だけでは活きないのだ。情報を活かすのは流動性を持つ自然と人間だ。人間はコンピューターのような正確さは持ち合わせていない。しかし、その場その時の状況で、正確なもの以上に、情報をより良いものとして活かしていく能力がある。その能力を能力たらしめているのは感覚だ。その感覚は、からだにとって「気持がいい」か「悪いか」の識別を感じわける能力である原始感覚を元としている。
    教育の場でも、これからは感覚をとおした学習法というのが、もっと見直されるべきであると思う。こう書くと、どんなことなのだろうと思うかもしれないが、みんな誰でもやっていることなのだ。要はその比重が多いか少ないかということ。からだに、どうヒビイテいるのか、ききわけながら学習するということが、どれだけ出来ているかということだ。
    出来る人は知らず知らずに出来ている。出来ない人は、それを味わおうとせず、先へ先へと急いでしまうのではないだろうか。解った→ハイここまで→次、というかたちで、浅いところを次々と突っついては、情報処理をしているだけなのではないだろうか。これでは自分の我の範囲を超えたものは入ってこないし、個別対応は出来ても、知識が全体的なつながりを持たなくなってしまう。しかし、ものごとというのは根底ではつながっている。どんなものでも自然界に自在するものを元として存在を示している訳なのだから。
    自然界の一部である、からだからの感覚をとおして何か感じられれば、学んでいることが、より面白く深くなっていく。そして、表面的に難しく感じていた他の学びも、根底の方からみる事で面白くなっていく。そのような、つながりをもった知識が出来上がってくる。この原動力は何からくるのだろうか。それは原始感覚で、ききわけた快が原動力となっている。このあたりも有り難く出来ているのだ。
     自力で快による原動力が発揮できれば一番良いが、他の人の助けでも、快の原動力を発揮する為の方向性に誘導してあげることが出来る。それは「褒める」ことだ。橋本先生は子供が来ると、「めんこい、めんこい」と褒めてばかりいたと聞く。そして「子供は、ほめてやるのが一番だな〜。すなおな子供に育ってほしいと思うんなら、ほめてやればいい。ほめてやれば子供も気持ちがいいんだ。気持ちよければ、ヘソ曲げたり、いじけたりするもんか」と話されていたという。大人でもそうだと思うし、陰湿なイジメをする人間には育たないと思う。

    最後に山本五十六が、よく口にしていた言葉を紹介します。

    やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。
    話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
    やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

    「未病を実す」を根底とする操体の臨床、健康指導の場にも当てはまる言葉だと思います。
     

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 知識と知識・・・2

    おはようございます。
    今日も マイ フェイバリット ケイゾー コード である橋本敬三先生がNHKラジオ第1放送に出演した時の様子を記録した、人生読本「人間の設計」の中に収められている最後の方の文章の「その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達しているから」の「知識」と「だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」の「知識」との違いから考えていきたいと思います。
    フェイバリットといえば、AKB48のヘビーローテーションという歌の中に「いつも聴いてたFavorite Song」という箇所がありますが、私には「いつも聴いてたヘバリこそ」という風に聴こえていました。繰り返し、繰り返し聴いた歌のテープが、ヘバッテいる状態のことを指しているのかと、勝手に思い違いをしていましたが、フェイバリット ソングだったんですね。
    やっぱり、聞く時は我を出さずに素直な気持ちで聞かないといけませんね。からだに感覚をききわけるということに関しては尚更ですよね。

     「原始感覚」= からだにとって「気持がいい」か「悪いか」の識別を感じわける能力。
    これを踏まえての知識とそうでない知識では、身につき方と実につき方に差が出てくるのは当然であり、自分の生き方、ひいては自然環境、社会環境、人為的環境、人類の未来にも影響を及ぼしてくると感じる。
    なぜなら今の繁栄は自然を自分達の欲望に向く様に操作し、どこかに負担を強いての繁栄だからだ。今の繁栄がそのまま続き、拡大すればするほど、自らの首を絞めていくことになる。この3次元の空間には限度があり時間も逆行しないからだ。これは外部の自然環境の問題だけを提起しているのではない。人間という存在は、自分自身も自然を抱えている。そのことを忘れてはならない。なぜなら、からだは人工物ではないからだ。
    本来、自然環境も自分自身のからだも欲望でどうにかなるものではないし、自然あっての人間だし、人間も自然の一部なのだ。それが証拠に自分の生も死も自分の思惑でコントロールできないではないか。自然環境に対しても科学技術で制圧しようとするきらいがあるが、天と地の間でしか生きられないのが人間なのだ。
    どんなに住空間を自分の都合の良いものに変えて拡大しようと、大地には限りがある。食料を確保する為の大地も必要だし、何より空気を生み出す森林も必要だ。天と地の間を満たす空気が空気でないものに変わったら即座に生きてゆけなくなる。木を切り倒すのは、機械を使えば一日でも、それまでに5年、十年、あるいは何千年もかけて生長してきているのだ。元に戻そうとすれば、それだけの時間はどうしても必要となる。その間に・・・。人間は、自然の時間、空間のかかわりからは、どうしても逃れられない。制圧なんて思いあがりも甚だしい。
    みんながわかっている当然の事だけに、それを言ったら「そんな小学生レベルの知識の話をするな」と怒られそうである。大人というのはやっかいな生き物だ。根本的にはわかってはいるが、その根本的なものを隅に追いやり、科学技術で何でも解決できると考えてしまうきらいがある。ひょっとしたら、そういう大人の知識の用い方が、様々な問題の元凶になっているのではないだろうか。真理を立てようにも根本的な土台を心の隅に追いやっていては、立つものも立たなくなってしまう。
    なぜ、知識の用い方を誤るのだろうか。資本主義がこれだけ浸透した為か、消費を拡大させ、お金を絶えず循環させていなければ、経済が成り立たないのが今の世の中である。当然の事はとりあえず置いておいて、常にもっともっとと欲を出さなければ、生きていけないという強迫観念に駆られるのかもしれない。
    しかし「生きる」を前面に押し出す前に「生かされている」という事を忘れてはならない。赤ん坊としてこの世に産まれる前から、生かされているのが人間であり、生かされるべき環境がなければ、どんなに本人が生きようとしても、生きられないのだ。生かされるべき環境には、自然法則が自在してある。自然法則に順応していれば、生かされるべき環境は生きる環境となり、背反するほど生きづらい環境となってくる。これは、今までは個人とそのまわりだけの「報い」の問題だけで済んでいた。しかし、地球がおかしくなれば、全体の問題となってくる。
    幸いにも「原始感覚」は誰にでも備わっている。自分の内にある自然は自然法則に背反すれば、「気持ち悪い」というサインをおくってくれる。「法則違反をすれば気持悪いんだから」とはよく言ったものだと思う。法違反は見つからなければ罰せられないが、法違反は自然によって常に見られている。そしてダイレクトにはね返っている。しかし、内・外の生かされしイノチの営みのバランスと環境の御蔭で、有り難く緩和される。そして「これ以上するなよ」と不快な感覚をサインとして送ってくれ、調和に向くよう諭してくれる。そして調和に向けば、今度は「気持いい」という感覚を送ってくれる。自然は「気持いい」ことをすれば良くなるように、元々は出来ているのだ。こんな有難い事はない。
    この自分の中にある自然にききわけをとおすという意識を土台とする「知識」であれば、外のおおきな自然とも調和していけるのではないだろうか。誰でも出来ることなのだ。しかし、欲望や不公平感などの感情が、この自分の中の自然をオブラートのように包んでしまっていては、わからなくなる。そうならない為にも「原始感覚」は常に磨いておく必要がある。磨く秘訣は、元々は有り難く出来ており、生かされて生きているという事を意識することだと思う。

    今日は最後に My Favorite な橋本先生の文章をご紹介します。
    「生体の歪みを正す」の本の中の「開闢以来の医学の誤解」と題した文章の中からです。

    今日、全世界マスコミに発表される人類の認識には誤解と欠陥がある。「病気」を治したいと思っている。そして、局所的な改善を高々と誇っている。われわれが病気と称しているのは生命現象のアンバランスの一症候にすぎない。人間の肉体的精神的苦痛を「病」と思い込んでいる。
     生命現象には苦痛はなくともよいように、自然は設計されているのだ。苦痛そのものはサインにすぎない。警戒警報なのである。生命現象の生活の営み方そのものに何らかのアヤマチがあることを知らせているだけのことであり、「病気」は大自然の責任ではなく、人間自身の生活に誤りのあることを教える恩恵的サインなのである。
     動物は各自、苦痛から逃れたい本能をあたえられている。動物―人間は快・不快の原始感覚に素直に順って、快の方向角度に動いて逃げきればよいのである。欲張って急いでは失敗する。ウソかホントか、まず試してみるよう、野次馬根性のない人には、この呈言は馬耳東風にすぎない。やってみてから検討批判を進めていただきたい。医者になった因果で、御同僚にお願い申し上げる次第。
     現代全科学は原始感覚そのものの「不思議」を解明しなければならない責任がある。アカデミーの中から御発言を期待したい。
                (「日本医事新報」第3053号・昭和57年10月30日)

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 知識と知識・・・1

    おはようございます。
    昨日はロンドンオリンピックの閉会式は夜にあるとばかり思っていて、そのようなことを書いてしまいましたが、今朝LIVEでやっていましたね。失礼いたしました。

    今日も蒸し暑いですね。
     こうやってブログの原稿を書いていても、額から汗が滲み出てきます。大したことがないような文章でも、書いている本人は結構必死だったりするのです。知恵熱が出ると言うと言葉の意味が違ってきてしまいますが、脳がエネルギーを消費し放熱も結構なものなのではと感じます。「バカバカしいと思うなよ。やってる本人おお真面目。見ているアナタはドッチラケ」懐かしいフレーズですが、知ってる人は知っている。知らない人は、お近くにいるナイスなミドルエイジの方に訊いてみてください。

     橋本敬三先生がNHKラジオ第1放送に出演した時の様子が、人生読本「人間の設計」として「生体の歪みを正す」の本の中に収められています。
     その最後の方の文章に、このようなものがあります。

     だから「道だ道だ」って精神的なことばっかり言ったってね、法則を教えてくれなければ、その道の奥のことできないもんね。
     実践するのは本人がするしかないんだから。それの目印を何にするのかといったらね、気持ちがいいってことに逃げていきなさいっていうんだ。その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達してるから。説明に巧いこと言ってると思うんだな。
     アダムとイブが知恵の木の実を食べて天国から追い出されたでしょう。だから知恵が発達して勘が鈍ってきた。野生の動物には獣医はいない。みんな勘でいってるんですよね。人間だけは知恵があるから、今度は勘を意識しなさいっていうの。獣医は動物園と家畜にだけ必要なんだ。
     だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね。だから基本は気持のいいことをね、勘を鋭くしなくっちゃ。気持がいいってことになれば自然と安心するしね、愉快になるし、結局最後には有難いって思わなきゃ。有難いって思わないことに気がつくと懺悔したくなるんだ。
     
     この中で「知識」という言葉が二度出てくる。「その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達しているから」という部分と、「知恵が発達して勘が鈍ってきた」という話の後に、「だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」という部分だ。同じ「知識」という言葉でも、はじめの「知識」と後の「知識」では指しているものが違うように感じる。
     はじめの「知識」と後の「知識」ではどう違うのだろうか。読む人によって、感じ方は違うと言ってしまえばそれまでだが、ここは橋本先生がどのように識別した上で語っていたのか、色々と私なりに考察してみたい。これも「ケイゾー・コード」ですよね。
     キーワードは文中に度々出てくる「勘」「気持がいいってこと」「有難い」それと「法則」。
    「勘」は何を指しているのかといえば、原始感覚だと思う。原始感覚とは、からだにとって「気持がいい」か「悪いか」の識別を感じわける能力のことで、全てのイノチに元々備わっている能力の事。つまり、はじめの「今は勘より知識が発達しているから」の「知識」とは、からだの要求はどうなのか、イノチの宿るからだは、これで「気持がいい」のか「悪いのか」というききわけをすっ飛ばしての「知識」なのだと思う。
    「今は・・・」と限定する言葉を入れているという事は、昔は違っていたのだと感じる。昔の暮らしとか生活というものは、動に直結したものだったのではないかと思われる。生命活動といえば、無視できないのが、自己最小限の責任生活必須条件である「息、食、動、想」だ。昔の人は生きていく上で、上手くこの「息、食、動、想」の「自然法則」を取り入れ、廻りの環境とも調和しながら生活していたのだと思う。取りいれ方は、実践の中でからだにとって「気持がいい」のか「悪いのか」をききわけ、気持のいい方法を取り入れていた。
    例えば、重いものを持ち上げる時や急激な動作の時は息を吸いながら行ってはならないとか。食についても身土不二という言葉は昔からある。想については、日本には昔から八百万の神々の思想と信仰がある。これも、心がからだを支配しているという発想からでは生じない。からだの御蔭で生きていられるという発想から生じたのだと思う。そして、からだが生きていられるということは、様々な環境の御蔭という発想にもつながる。だから木にも岩にも台所にも神を見出せ、自分の使う仕事道具にも神は宿ってくる。根底にあるのは、からだにききわけた「気持がいい」という感覚だ。橋本先生もラジオ放送3日目で「身体のほうが気持よければ、そんなにガメツク人をいじめる気にはならないでしょう」と語っているが、逆を言えばイノチを宿す、からだからの「気持よさ」がききわけられるから、優しくなれるという事だ。からだをとおして、自分の廻りの様々なものの、母心というものが身にしみて解るのかもしれない。悦びあり、感動あり、「お蔭様で」という慎みあり、そして「有難い」という感謝につうじる。ここで誤解してほしくないのは「身体のほうがきもちよければ」とは、からだが良いか悪いかの問題なのではなく、からだにききわけているのか、からだの「気持がいい」という感覚を味わったことがあるかの問題という事だ。
     少々例えが長くなってしまったが、昔の暮らしや生活というのは、イノチの営みでもある「息、食、動、想」の「自然法則」を上手く取り入れたものだったのだと感じる。上手く取り入れるには「勘」を養うという事。「勘」を養うには元々備わる原始感覚を磨くという事。様々な環境の中で、原始感覚を磨いてゆく、または磨かれてゆく過程において、その経験が「知識」となっていったのだと思う。その「知識」が少しずつ時間を経ながら、空間的に拡がり、定着していったのが「生活の知恵」というものだったのではないだろうか。
    いきなり良い知恵は出てこないのだ。段々がある。聖なる知識の後ろ盾がなければ、知恵の木の実は禁断の果実ということであり、それをアダムとイブはいきなり食べたものだから、神様の怒りをかい、天国を追われたのかもしれない。
     はじめの「その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達しているから」の「知識」と後の「だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」の「知識」との違いを、電気もガスもない昔の生活はこうだったのではという想定をもとに考察してみたが、昔の生活様式が善で今の生活様式が悪としているのではない。どちらも良い面も至らない面もあると思う。しかし、これから先の事を想えば、今の便利さを当たり前と思ってはいけない。今の便利さはどこかに、しわ寄せを強いた便利さだからだ。そのしわ寄せは、どこに出ているかというと、地球環境、他の誰か、他の生きもの、気がつかないだけで自分自身にも出ている。
    スイッチひとつでほとんどの事が可能という時代に誕生し、そこからスタートしていれば解り難いかもしれない。しかしスタート位置を前の段階に置いて意識してみても良いのではないだろうか。温故知新という言葉もあるが、昔に逆行するのではなく、「知識」のスタート位置を意識して変えてみて、改めて認識し直すという事も必要だと思う。そうすれば、もっと今の生き方が充実したものとなるのではないだろうか。「有難い」という気持ちにもつうじてきますよね。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定

  • 「体を操る」と「操る体」。

    こんにちは。
    ロンドンオリンピックも今日までですね。
    最終日の競技や閉会式は、家に帰ってからニュースで見ることにしますが、閉会式などは、さぞや派手で豪華な演出がされているのでしょうね。世界中の注目を集め、しかも4年に一度のことですから、盛り上がりますよね。

    盛り上がりながら選手の結果に一喜一憂し、同じ国の人間がメダルを取れば嬉しくなってしまう。特に私みたいにテレビのニュースで見る人間は、ハイライトの良いところばかりを見て、はしゃいでいる。しかし見てないところでも色々なドラマがある。
     ちょうど一週間前の日曜日の夜に、テレビの生中継を2時間ほど見ていたが、体操の女子跳馬で着地に失敗し、膝か脚のどこかを痛めてしまった選手がいた。その選手は果敢にも2回目の演技に入り、力強く助走していったが、踏み切り板手前で止まってしまった。なんとか期待に応えたい気持ちだったと思うが、からだがついていかない感じだった。その後どうなったか気になり、調べてみても、メダルを取った選手を称える記事ばかりで、この選手のことは名前と0点という結果だけが書かれていた。
     この場面のことを思い返すとギクッとする。もちろん怪我をした選手のことも気にかかるが、何か違う意味でもギクッとする。そして、橋本敬三先生の次のような言葉が浮かんでくる。
    今のスポーツっていうのはレコード(記録)をあげるってことでしょう。そっちのほうにいってしまっているから、だから軽業師みたいになっているんです。この間、僕は本を出す人に序文を書いてくれっていわれたから、スポーツをみんなやっているけれども、あれは見世物だっていうの。ところがね、見てるほうってのは残酷ですよ。選手が怪我しようと何しようと、巧いことやれば拍手喝采だけども、選手が怪我したって見てるほうは平気だから。やってるほうは一生懸命にやるんだけども、それは何にも健康には関係ないと思う。
    これは橋本先生が、NHKラジオ第1放送に出演した時に語っていた内容だが、「生体の歪みを正す」の本の中にも収められている。
    特に「やってるほうは一生懸命にやるんだけども、それは何にも健康には関係ないと思う」という言葉は、ある意味ショッキングだと思う。しかし、実際にスポーツを一生懸命やっている人ほど、持病や不快症状に悩まされていることが多い。なぜなのか。先ほどの跳馬の場面のように、常に危険と隣りあわせで怪我もつきもの、ということもあるだろう。しかし、もっと根本的な部分で、健康にはつながらない理由もある。
    体を操ると書いて体操と読む。この場合、主体は自分の気持ちということになる。つまり自分の気持ちで体を操る。スポーツは全般的にこのような考え方だと思われる。だから応援も「頑張れ、頑張れ」と声援を送る。しかし、操られる「からだ」の方はどうなのだろうか。からだの使い方、動かし方を知っている人だったら、そんなに無理は生じないと思うが、それを知らずに、自分の「記録をあげたい」「出来ないことをやってやる」といった気持ちだけで、からだを操っていれば必然的に無理が生じてしまう。無理が生じれば、からだがついていけなくなり、気持ちと対立してしまう。そこから更に無理を重ねれば怪我もしやすくなる。これでは健康につながるはずもない。
    自分の動きとからだの動きは違うということだ。からだは自然法則に則った動きを元としている。何故なら、からだは元々自然だからだ。自分が自然から遠のくほど、からだは歪体化し、動き(連動)にも不自然さが生じてくる。だから、人間社会で生活している以上、100点満点の自然体をキープしている人などいないと思われる。どんな人でも必ず歪みはあるということだが、歪みを補い、間に合った状態にしてくれているのも、からだなのだ。だから、みんな生かされながら生きていられる。こういったところに意識を向ける必要があるのではないだろうか。「やってやる、やってやる」で上手くいっているうちは良いが、それがキープできるとは思えない。その反動もあるだろう。何よりそこで人生が終わる訳でもないのだから。人生はトーナメントではないのだ。生きている限り、からだと上手く付き合っていくべきだと思う。
    操る体と書いて操体と読む。こちらの主体は、あくまで「からだ」だ。からだの要求をききわけながら操るのだ。何をききわけるのか。元々、誰にでも備わっている原始感覚で快、不快をききわける。不快であれば、その動きを中止する事。快であれば、その快適感覚でからだを操るのだ。そうやってバランスをとっていく。しかし、自然から遠のいた自分の動きで、からだにききわけても感覚はわかりづらい。からだは元々自然なのだから、からだの求めている自然法則に則った使い方、動かし方を基準に動かして、感覚をききわけるのだ。それが自分と自身の調和につながり、その経験を元にスポーツに応用していけば良いと思う。つまり、バランス(肉体的な面だけではない)を調整してから鍛錬をするということだ。そうすればスポーツのあり方は、また違ったものとなり、健康と結びつくものとなってくるのではないだろうか。

    一週間どうぞ宜しくお願い致します。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催。

  • 素食に関して。

    おはようございます。

    今日は朝から珍しいお客さんの来院です。
    そのお客さんは、玄関の掃除をしていると、ヒュ〜と入ってきました。
    燕尾服で正装した紳士?です。

    どこからきたのだろうか。反対側の窓を開け、出られるようにしているのに、部屋の中を愉しそうに飛び回っている。寒い冬のあいだは東南アジアの方にいっているというが、やっぱり日本が良いのでしょうね。秋になってまた旅立つ時は、軒先を貸してくれた家主には、旋回して感謝の意を示していくという話も聞きます。穀物を食べず、害虫を食べてくれる益鳥として、昔から人間と仲が良かったのでしょうね。

     昆虫しか食べず、元気に飛び回っているツバメを見ていると、春季東京操体フォーラムのメインセミナーで、三浦寛理事長が仰っていた「人間だけが色々食べて病気になっている」という言葉が脳裡に浮かんできた。肉食動物は肉食、草食動物は草食と決まった原則食がある。人間は雑食だといわれるが、同じ様に人間にも原則食、素食、がある。人間にとっての素食、つまり必要な素となるものは、果物だという。
     橋本敬三先生は「生命を支える栄養の合理的摂取」と題した文章の中で、最高の人類の食は逃げるものを捕まえて食わないことではあるまいか。動物の世界では弱肉強食が行われているとしても、人間は最高の生物として、仏教の示す殺生をしないですむなら、そうありたいと念願する方が純粋だと思う。・・・中略・・・人間一日の往復歩行が可能な距離を半径とする圏内の地域に育つ植物、しかもその時節に応じた植物食を摂ることが食の原則ではあるまいか。と書いています。
     この文面から、人間の素食は植物食となってくるが、菜食主義というのとは、ちょっと違うと思う。その時節に応じた植物食といっても、植物自らが「食べてほしい」という要求があるものを食べるというのが、最高の生物たる人間の食という事なのではないだろうか。
     野菜と果物では、野菜はそのままでも食べられるものもあるが、旬といえども火を通さなければ食べられないものが多い。その点、旬の果物はそのままで食べられるものが、ほとんどだ。旬の果物というのは、食べてほしいという要求があるのだと思う。熟したその実を食べてもらい、そのかわり種を運んでほしいという要求がある。だから、内臓にも負担をかけないのだと思う。
     食に関しては色々な考え方があり、それぞれ学問として成立させているが、ちょっと見方を変えるとすぐに矛盾が生じてくるものも多い。だから、単一的にからだに良いともてはやされるものが、出ては消え、出ては消えしている。時間、空間のかかわりの中で、生かされて生きている人間にとって、それを無視した考え方というのは矛盾が生じてきて当然なのだ。しかし、橋本先生のような考え方から、自然界の一員としての人間の食を考えれば、矛盾はなくなってくる。
     人間にとっての素食というものが、きちんとあり、それを理解した上で、生き方の自然法則である、歯の種類と数に注目した食物の種類と量の摂り方を、慎んで行っていけば良いのではないだろうか。そんなことを思いました。

    一週間お付き合いいただき、ありがとうございました。

    来週は金環日食が四半世紀ぶりに、見られるそうですね。
    私の住む地域では、書店から金環日食用のメガネの付いた雑誌が、売れに売れていて、どこにいっても完売状態のようです。
    天気が良いといいですね。

    来週は中谷さんの担当となります。
    来週もどうぞ宜しくお願い致します。

    友松 誠。

    三浦寛 操体人生46年の集大成 ”[http://www.sotai-miura.com/?p=484:title=Live
    ONLY-ONE 46th Anniversary]”は2012年7月16日(海の日)に開催致します。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定

  • 一つ一つをしっかりと。

    おはようございます。

    今回の春季フォーラムは研究会というかたちで、「見る」「受けてみる」「やってみる」ということをコンセプトに実技中心に行われました。
    実技では、ヒカガミの硬結の触診からはじまり、第1分析による足関節の背屈、両膝傾倒の動診と操法を行いましたが、普段は第2分析、第3分析の臨床を行っている人にとっても、第1分析を改めて行ってみることで、得るものが沢山あったと思います。

    第1分析では、一つ一つの動きに全身がどのように連動するかが、体系づけられていませんでした。したがって今回の実技でも、末端が動き、からだの中心腰・骨盤が作動すれば全体としての連動性が表現されてくる、という大前提だけに応じた言葉掛けで行いました。普段、第2分析を行っている人からすれば「ここで、こう言葉掛けをしたら・・・」と、歯がゆい感じもあったと思います。しかし、連動性が把握できているがゆえに、それに助けられて、疎かになっている面が、(私もそうですが)誰にでもそれぞれあると思います。今回、連動性を促す言葉掛けを使わず、第1分析をポジション設定から一つ一つ作法に基づいて、行った事は意義のあることであり、より良くする為の気づきが、それぞれ得られたことと思います。
    勿論、第1分析をポジション設定から一つ一つ作法に基づいて、行った事は初学者の方々にも、有意義だったと思います。はじめから上手くいくほど生易しいものではないですが、一つ一つを、実技の前に行った般若身経ともリンクさせて、学びを継続していただければと思います。そうすることで、一つ一つが意義ある事として腑に落ち、自身の健康増進にも役立ちながら、臨床効果も上がるという様になってくると思います。正法に奇特なしという諺もある様に、すぐに効果が上がる事が出来る様になる、と謳っているものほど邪道が多いのです。やらなければなんにもなりませんが、一つ一つをしっかりやれば、必ず良い報いがあると思います。
    それと、今回行った第1分析は、勘違いし易い要点もしっかり抑えていたと思います。足関節背屈の操法は特にそう感じました。足関節の背屈は足首を背屈させればいいというものではないのです。しかし、その名前からか、足首に介助し、「足首を反らせて」と誘導している人も、多いと思います。これでは、なかなか全身の連動性は促せません。今回行った介助法の様に、つま先の付け根に沿うように手を当て、「踵はつけたままで構いませんから、つま先をスネに近づける様に反らせていただけますか」と言葉掛けをすることで、全身の連動性が促せてくるのです。この違いは、自力自動でやってみても確認できると思います(但し、力まずゆっくりやらなければなりません)。末端の局所だけ大きく動いても、全身が連動しなければ意味がありません。末端の局所の動きは小さくとも全身の連動を促す事に、意義があるのです。第2分析を行う上でも、役立つ事だと思います。

    介助の目的は
    1.動きの安定をはかる
    2.動きの充実感を満たす
    3.全身の連動を促す
      この3つの条件を満たしながら
    4.よりよく感覚がききわけられるように導く
            三浦寛先生著 〜操体臨床への道しるべ より〜  
     
    この中の4は第2分析になりますが、いきなり4ではないのです。今回おこなった第1分析にも当てはまる、1.2.3.の条件を満たしながらの4なのです。ですから、参加して下さった方々全員にとって、第1分析を理にかなった一つ一つの作法から、やってみた事というのは、大変有意義な事だったと思います。
    それを、とる、とらないは、後は本人次第という事になってきます。

    フォーラムという限られた時間内では、やれる事に限りがあります。もう少し時間をかけてじっくり学んでみたいという方は、定期講習を受講されてはいかがでしょうか。
         操体法東京研究会「操体臨床コース」開設

    友松 誠。

    三浦寛 操体人生46年の集大成 ”[http://www.sotai-miura.com/?p=484:title=Live
    ONLY-ONE 46th Anniversary]”は2012年7月16日(海の日)に開催致します。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定

       

  • 正伝。

    おはようございます。

    春季東京操体フォーラムから、もう一ヶ月ちかく経ちましたが、沢山のご来場ありがとうございました。熱気むんむんといった感じでしたね。

    私は、フォーラムの何日か前に、フッと中野孝次氏の「道元断章 正法眼蔵と現代」という本がまた読みたくなり、書棚の奥に眠っていたのを3年ぶりぐらいに取り出して、読み返していたのですが、今回のフォーラムに共通するものがいくつもあったように感じられました。
    道元は「正法眼蔵」の中で、仏教に関する形式や規定について、事細かく言及しており、それはTPOに合わせた御辞儀の仕方は勿論、用便の仕方、用便後の尻の洗い方、手の洗い方に至るまできちんと規定していたといいます。なぜ、そんなことまで、と思われる事柄まで作法として規定しなければならなかったか。それは、釈迦の前の七仏から始まる正法を、正しく伝える為だったのだと思います。
    道元は天童山で如浄和尚に会ったことによって、修行とは正師からの正伝以外にないことを知ったといいます。各人が思い思いのことをやっていては、形の崩れ、ひいては心の崩れにつながり、修行の妨げとなってしまう。正法を正しく以心伝心するには、受け止める側も己見を一旦捨て、心とからだを正法にふさわしいものとしていかなければならないのだと思います。そうでなければ、どんな言葉も腑に落ちていかない。
    敬愛する師、如浄から授かった正法とは如浄の教えだけにあらず、その奥の連綿とつづく代々の仏祖にまみえることである。それを後世に正伝する為には、細かな事も疎かにせず、作法とし、「型」から入るという修行の形をとらなければならなかったのだと思います。

    操体法も、創始者橋本敬三先生の意志を受け継ぐ、正法でなければならない。しかし、初期の操体法は正しい介助作法の研究がされぬまま、普及してしまった経緯があります。それによって、操体法とは名ばかりの、まるで違ったものまで出て来るようになってしまいました。
    しかし、本来は作法がキチンとあるのです。これは自分勝手に規定したものではなく、からだの使い方、動かし方の自然法則から導き出されたものであり、そうしなければならない理由も、それぞれあることなのです。そして、その作法は臨床のみならず、日々の精進により、作法が円熟するほど、自分もより健康に身体機能がアップしていくというものなのです。
    そうでなければ、操体法はみんなの為のものとはならないのです。操体法はみんなのものだから、どんなやり方をしても良い、というものではないのです。あくまでも、みんなの為になることを前提に、自然法則の応用貢献に励むものなのだと思います。

    友松 誠。

    三浦寛 操体人生46年の集大成 ”Live ONLY-ONE 46th Anniversary“は2012年7月16日(海の日)に開催致します。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定