カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 私のズッコケ操体クロニコル2

    おはようございます。

     

    私は、正式に操体を学ぼうと入門した初日に、テープレコーダーの音源でも橋本敬三先生の話し声が聞けた事で、その後の操体の学びの指針を示していただいたように感じている。

     

    橋本敬三先生の語り口。あの独特な話し声に触れた時、私は心の底というか、表面的な心ではなく奥のほうから何かホッコリして安らぐような感じを受けた。

    あの感じ、感触は今でも時々思い出す。

    そして、何故あのような感じを受けたのだろうか?と想いを巡らす。

     

    橋本先生の想念の根本を成していたのは、救いの生命観なのだと思う。

    救いの生命観の説明はしないが、否定という言葉が似つかわしくない事だけは確かだ。

    否定がないと感じられるから、受け入れてもらえていると感じられる。

    だから、安らぎや安心につながるのではないかと思える。

     

    否定から入らない。これは操体を学んでいく上でも非常に大事だと思う。

    操体は対立させて、白黒つけるような事は望まない。

    だから、決めつけや否定がない。

    「こういう事をやってはダメだ」ではなく「それも良いけど、それだったらこういうふうにやった方が、もっと良いんじゃない」という感じだ。

     

    だから、ズッコケな私でも受け入れてもらえたし、20年近くも学び続けていられるのだと思う。

  • 私のズッコケ操体クロニコル1

    おはようございます。

     

    今週は友松が担当いたします。どうぞよろしくお願いいたします。

    今回のテーマは「私のズッコケ操体クロニコル」となります。

     

    先日行われた秋季操体フォーラムでは、橋本敬三先生がまだ現役の頃のビデオの上映がされていました。

    橋本先生の、あの声、喋り方を聞いていて、三浦寛先生の講習に参加した時の記憶がよみがえってきました。

     

    当時、私は群馬から東京まで高速バスで通っていたが、講習初日は渋滞に巻き込まれ、一時間以上もバスの中で足止めをされてしまった。

    予定では終点の池袋で降りて、お昼ご飯を食べても余裕だったはずなのに、それもままならず急ぎ山手線へ。

    しかし、気が急いているものだから、焦りと空腹感で山手線の内回りと外回りを間違えて乗り込んでしまう始末。

    すぐに気がついて大塚でÙターンしたが、はじめからのズッコケ感は否めない。

     

    なんとか三軒茶屋まで移動し、冷や汗交じりの汗を拭いながらも講習所の一室に入ると、

    なにやら皆テープレコーダーの声に聞き入っている。

    声の主は橋本敬三先生であり、NHKラジオに出演した時のものだった。

    私も入り口の傍に座り、聞き耳を立てたが、聞き耳を立てるまでもなく、随分と距離があるにもかかわらず話していることがよく聞こえた。

    これは、橋本先生がとりわけ活舌が良いからというわけではない。どちらかと言えば、ゴニョゴニョっとした喋り方である。

    また、政治家の街頭演説のような、大きな声を張り上げて自分の主張を聞いてもらおうとしているふうでもない。

     

    活舌がよく大きな声で喋られても耳障りになる事があるが、そうではなく聞いていて耳触りが良く、なんだか心地よく安心してくる感覚。

    そして、安心していられるから声も自然に入って奥にヒビイてくる感じ。

    何か今までの日常の場面とは違う不思議な感じがした。
    なにか、何に対してとか、誰に対してとか、対象は関係なく有難いと想える気持ちが満ちてくるのを感じた。

     

  • 般若身経の解説~身悟りからの進化。

    おはようございます。

     

    操体は、からだから学ぶ学問でもあります。

    自然法則を究明するとは、並大抵の事ではないのです。

    今現在明らかになってきた様々な分野からの知識だけでなく、昔の人の智慧から書物をつうじて学ぶ事も大切。

    それに加えて、昔の人が書物にしていなかった事柄や文字に出来なかった事柄、今も昔も全く手が付けられなかった事柄も学んでいく必要がある。

    自然の一員であるからだから学ぶ。

    感覚をとおして身悟りしていく。

     

    その身悟りで、自分自身が真の自然体(健康体)に近づき、より良く変わっていく程、それまで究明してきた自然法則も見直して、修正を加えてより良いものにしていく必要が出てくる。

    橋本敬三先生もそうやって、般若経を幾度となく修正してきた様子。

    それは、橋本先生が近しい弟子の人達に語った「体系づけてはきたが未だ確立されたものではない」という言葉からも想像できる。

    それだけ自然法則の究明というのは並大抵な事ではなく、人一人の生涯だけでは時間が間に合わないくらいに大変なことなのだと思います。

     

    その自然法則の究明の遺志を継いだのは三浦寛先生でした。

    三浦先生は、それまで深く究明されていなかった連動の法則について細かく究明し続け、からだに気持ちよさをききわける操体臨床の第2分析につなげていった。

    この道のりも平坦ではなかったと思う。

    なにせ、どこを探してもからだのバランス制御に係る連動について研究している人など居ようはずもなく、古今東西の書物にも書き記されたものが無いからだ。

    原始感覚を鋭敏にして、からだから学び、身悟りしていくしかない。

    そうして身悟りしたものを、臨床ともリンクさせ、被験者のからだとその感覚からも学ぶ日々だったと思う。

     

    からだから学ぶ。そうして三浦先生は第2分析を体系化させ、更に動きがとおせない人や感覚のききわけが困難な人にも対応できるようにと、皮膚へのアプローチである第3分析も体系化させた。そして、操体臨床はその後も進化していく事になる。

    その根底には、身体運動の自然法則をつうじて、真の自然体(健康体)が成り立つ理り事を、感覚をとおしてからだから学んできた経緯があった。

    からだから学び、細かく且つ深く掘り下げて究明し、身悟りしていく。

    それまで究明されてきた自然法則も、修正すべきは修正し、付け加えるべきは付け加え、より良いものへと体系化していく。操体の進化は深化を伴った進化だという事。

     

    操体の進化は、第2分析、第3分析に留まらず、第4分析、第5分析と進化していく事となるが、特に第5分析への進化は、橋本先生の時代から当然として受け入れられてきた身体運動の基本を根本から見直す事となった。

    しかし「真の健康体とはどうあるべきか」という真理への求道精神は、橋本先生も三浦先生も同じであり、橋本先生も祝福してくれているのだと思います。

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。

    明日からは畠山裕美先生の担当となります。

    どうぞおたのしみに。

  • 般若身経の解説~真の自然体(健康体)の追究。

    おはようございます。

     

    「ー橋本敬三論想集ー生体の歪みを正す」に載っている般若経の身体運動の法則その1だけで、般若経とはこういうものだ、というふうに思ってほしくはないのです。

    身体運動の法則その1は、多分にエクササイズ的な要素がありますが、本来の般若経の身体運動の法則というのは、自然法則の究明という壮大な背景があるのです。

    だから、ある程度バランス状態が間に合っている人が、健康維持、増進の為にエクササイズ的に取り組むものとしてしまっては、勿体ないのです。

     

    根底には、どんな人が行っても健康の基礎を調整して健康の回復に向かえ、そこから底上げしていき健康の増進に向かえるということがあるのです。

    その為の自然法則であり、誰のからだでも自然環境に適応する能力を元々もっているわけですから、究明した自然法則を手引きにからだの感覚をききわけながら身体を操り、より質の高い快適感覚をききわける。

    そして、その感覚を味わう時空に於いて自然環境と身心の調和が密になり、バランス制御に向かうという事で、バランス制御が成されるほど健康になるという事なのです。

    これは臨床につうじる事でもあります。

     

    では、バランス制御が成され、最も自然環境に適応した真の自然体(健康体)とは、どのようなものなのでしょうか。
    その例を一つ、橋本敬三先生の文章からお借りすれば

    人が正しきにおれば容姿はおのずから端正となり、

    骨格は整い、筋肉も拘筋するところなく、内臓もその地位に安んじ、

    機能は互いに相調和して、健康である。

                   
             「ー橋本敬三論想集ー生体の歪みを正す」より 

    という事が挙げられます。

    文章にすると、姿かたちの止まった状態が想像されやすいですが、動いていても上記のような全体のバランスが崩れることなく、所作は奇麗であり、それでいて身体能力は発揮されやすくなり、疲労や消耗とは無縁になっていくという事です。

    それには、自然環境と全身の調和に欠かせない重力との関わり方が重要になってくる。

    それを究明し体系づけてきたのが、身体の使い方、動かし方の自然法則であり、重心安定の法則、重心移動の法則、連動の法則と呼吸との相関性だったのです。

    般若経もこれらの法則に準じて身体を動かし、からだの感覚をききわける事が大切。

     

    からだの動きというのは前屈、後屈、左右側屈、左右捻転、牽引、圧迫と8つきりしかない。

    この8つのうちの牽引、圧迫を除いた6つだけでも、毎日何回か自然法則に則ってからだに感覚をききわけながら般若経を行じる事で、より自然体(健康体)に近づいていく。

    回数の問題ではなく、じっくり自分自身と感覚をとおして向き合う事。

     

    自分自身がより自然体(健康体)に近づく程、臨床に於いても被験者のからだの動きの要求が感じとれるようになってくる。

    操体の臨床は、病みを病みとして診断してパターン的な対応をするのではなく、自然体からみて被験者の(ボディの歪みをはじめとした)からだのバランスがどうなのかを診る。

    そのバランスの崩れが病みにつながっているからだ。

    そして、そのバランスの崩れからは、同時に本来のバランスに回復しようとするからだの動きの要求も表現されている。それを感じ取る事が臨床上、非常に重要となる。

    それを、より的確にスムースに行うには、自分自身で真の自然体(健康体)が成り立つ理り事を、感覚をとおして身悟りしていく必要がある。 

    操体は、からだから学ぶ学問でもあるのです。

     

  • 般若身経の解説~健康体操とは違う。

    おはようございます。

     

    創元社から発行された「ー橋本敬三論想集ー生体の歪みを正す」には、般若経〔健康の自然法則〕が載っている。

    ここに載せられた般若経は、その1の身体運動の法則と、その2の生き方の自然法則からなる。

    改めて読んでみると、その1の身体運動の法則は、図解入りで親切に説明しているが、何だか体操の教本のような印象を受ける。

     

    広く一般向けに身体運動の法則を知ってもらう為に、解りやすく、それでいて効果が現れるように工夫したのだと思うが、却って法則の奥深さが分かりづらくなっているように感じる。

     

    確かに、ここに記されている基本運動と称した運動を毎日、左右、前後と比較して、やりやすい方を多めに行うという運動をしていれば、他のエクササイズよりも安全だし、身体も柔軟になってくるだろう。
    きちんと行えば、健康維持、増進につながる事は確かだ。

     

    しかし、一つ一つの基本運動を3~5回おこなうとか、そういう決めつけをしてしまうと、エクササイズ的な要素が多分に感じられるようになってしまう。

    義務感のようなものが生じたり、動きも早くなってしまうだろう。

    それでは感覚のききわけが疎かになってしまう。

    これでは、ある程度バランス状態の整っている人が、健康維持、増進の為に行うものというふうになってしまう。

    それでは身体運動の法則を自然法則として活かせない。

    感覚のききわけを疎かにすれば、般若経も単なる運動と化してしまう、とはよく言われている事である。

    ゆっくり動いて、感覚をききわけながら行うから、バランスを崩して症状、疾患を抱えている人でも活用でき、健康の基礎の調整から健康回復に役立てられる。続けていけば、更に健康の底上げが期待できる。

     

    橋本敬三先生の悲願は、全ての人が健康で快適に十分に満足して一生を全うできるように、という事であり、身体運動の自然法則の究明もその為だった筈です。

    ですので、どんな人でも活用できる健康への手引きであるべきなのです。

    だから、操体臨床(治療)も根本には身体運動の自然法則があり、それを臨床で応用して快適感覚のききわけにつなげられる。
    また、快によってバランス制御に向くからだの動きをサポートするにしても、身体運動の法則あったればこそなのです。

    「ー橋本敬三論想集ー生体の歪みを正す」に載っている般若経の身体運動の法則のその1の取り組み方では、自然法則の奥深さが伝わらず、勿体ないと感じてしまうのです。

  • 般若身経の解説~愉しく生きるために。

    おはようございます。

     

    この世に生を受けたからには、身がなければ自分の存在は無いのであり、身心のバランスを保ち、様々な環境に適応しながらも、自分なりに愉しく満足して生きていかなければならない。

    ここでいう「愉しく」とは「楽しく」ではない。

     

    「楽しい」というと、テーマパークに行った時のような、与えられた枠の中で楽しむような、どちらかというと受動的な意味合いがあるという。

    対して「愉しい」のほうは、自分自身の気持ちや想いから感じ生まれるたのしい状態の事で、自分の意識、気持ち、考え方次第でどうにでも変化できる能動的な意味合いがあるようです。

     

    自分の人生は他人様から与えられるものではない。自分の人生なのだから自分自身で、自分なりに愉しくしていくものだと思います。

    その為に、全ての存在には快、不快を識別する能力である原始感覚が備わっている。

    だから、快をききわけ、快の方向へ向けて生きていけばいい。

    師がよく言われるところの「石ころにだってバランス感覚はある」という事なのだ。

    この世を創った創造主の真意は、みんなそれぞれ愉しく満足して生きろよ、という事なのだと思う。

     

    その真意に応える為にも、身心の健康は大事である。

    だから、操体では「からだにききわける」「からだにとっての快、きもちよさ」という事を重要視している。

    その為の取り組みも、体操のように動いて、からだにききわけても仕様がない。

    からだは自然環境に適応するように動く事を望んでいるわけであるから、その為のルールなり法則というものがある。

    それを表したのが般若経であり、般若身経はからだの使い方、動かし方の自然法則を究明してきたものです。

     

    ルールに則って行い、身体を操り、からだの感覚をききわける。

    不快であれば、からだがそれ以上やってほしくないサインと受け止め、快であればからだと共に気持ちよさを全身で表現しながら、気持ちよさで身と心を調和させていく。

    感覚はその時々、バランス状態によって違いますから、快の感覚ををききわけるのが愉しみとなってくれば、身心の健康を基礎から調え、底上げさせていく事が可能であり、そこから人生を十分に愉しんでほしいという事なのです。

  • 般若身経の解説~心と身は別々ではない。

    おはようございます。

    橋本敬三先生はNHKのラジオ放送に出演した時、「般若経」と名付けた狙いについて話されている。
    その中で、以下のようなことも話されています。

    般若心経のシンは仏教では「心」だけども、身体の身のほうは健康の問題に関係すると思うけれども、「心」と「身」は別のものじゃないんだ。表裏ですよ。だから、どっちでも同じことだと思っている。

    身体のほうが気持ちよければ、そんなにガメツク人をいじめる気にならないでしょう。身体が気持ちよくて自分が満足しているときは、そんなに悪い気を起こすことはしませんよ。ムゴいことする気にならないですよね。

    不満足だから、そいつを満たそうとすれば、人にご迷惑をかけるようなことになる。

    身心は裏と表ですから 

     

    読んでいて思い当たる節がある方は大勢いると思います。

    私は、経験的に思い当たる場面がいくつか思い浮かぶ。そして、反省や恥ずかしい気持ちも持ち上がってくる。

    誰だって感情というものがある。そこから起こる情動というものもある。

    これは身体と密接に関わっていると感じる。

    体調がよく気分も良くて、それが他人様に対して仏意のような慈悲やいたわりに向く場合もあれば、体調がすぐれず気分もどんよりしている時は、自分より立場の弱い人や心配してくれている人に辛くあたってしまう、という場合もある。

     

    後になって、気分がすぐれなかった時の自分の非礼に気づき、悔い改めようとする。そこまでは良い。

    しかし、ほとんどの人は自分の精神性は改めようとするが、その時のからだの状態に関しては忘れてしまっているか、端からからだの事などお構いなしだと思う。

     

    症状疾患を抱えていなくとも、その気分のすぐれなさ、何だか気持ちが悪いというのは、ボディの歪みをはじめとする身体のバランスの崩れと、それに伴う生命活動への影響が大きく関わっている。

    元々は気分よく生きられるようになっているのに、身体のバランスの崩れから健康の基礎がグラついている為に気分よくなれず、本来の自分自身として自然環境をはじめ人為的、社会的環境にも上手く適応できずにいるのだ。

     

    だから、自分自身で健康の基礎を正していく事が、自分自身の為でもあり、周りの人に対する最高の気遣いでもあるのです。

    では、どうやって自分のからだと向き合い、自身の健康の基礎を正していくか。

    それを表しているのが「般若経」という事なのです。

  • 般若身経の解説~真意を汲んだ経典。

    おはようございます。

     

    「般若経」を体系づけた橋本敬三先生の悲願は、全ての人が健康で快適に十分に満足して一生を全うできるように、という事だった。

    これは、人間をはじめ此の世を創造した神仏の真意にもつうじると思う。

    そうでなければ、此の世など存在していない筈である。

    本来は有難く出来ているのだと思います。

     

    しかし、人間の場合は他の生物と違い、なまじ知識があるものだから思考的にそんな有難さは当然なものとし、他の知識欲を掻き立てるものに目が向きがちとなる。

    そして迷いを生み、浮遊しながら悩みを抱えてしまう。

    心だって、元々の土台や軸を蔑ろにしたまま、あっち転びそっち転びしていては傷つきやすくなる。

     

    だから、仏教はじめ心の在り方の教えというのは、元々は有難く出来ているのだからそちらに目を向けて、そこに心の在り方を調和させていくように、というのが大方の教えだと思う。

     

    しかし、それが上手く行えないのも人間なのだと思う。

    だから、経典というのが必要であり、様々な迷いや悩みに対応しながら、より良い方向にと導けるようにしているのだと思う。

     

    では、健康に関してはどうだろうか。

    健康に関しては、心の在り方も大いに関わることは確かだが、この身体も元々自然から生じ、自然環境に適応できるように、元々は有難く出来ているという事に気づく事が大切。

    身体の設計にミスはなく、からだはそれを常に遂行してくれている。

     

    そんなの身体の恒常性だから当然、と、その時点で知識で切って捨ててしまえば、有難く出来ている事にも気づけないし、気づけないから自ら身体の土台や軸を崩すような事をしていても分からない。

    そして、分からないまま健康の基礎を害して様々な症状疾患を生じさせてしまっている。

     だから、神仏の真意を汲んだからだについての経典が必要であり、橋本敬三先生は「般若経」の体系づけに邁進していたのだと思います。

  • 般若身経の解説~何故そう名付けたか?

    おはようございます。

     

    リレーブログ、今週は友松が担当します。どうぞ宜しくお願い致します。

    今回は「般若経を解説」というテーマでリレーしております。

     

    創元社から発行された「ー橋本敬三論想集ー生体の歪みを正す」には、31ページから37ページにかけて小さな冊子みたいなかたちで、般若経〔健康の自然法則〕が載っています。

     

    その最後に

    仏意を集約した一番短い経典「般若心経」になぞらえて、著者年来の主張を要約した一枚刷りのビラを「般若経」と名づけ、みんなに配布してきたが、このユーモアは通ぜず、誤解されるので、最近はこの命名をはずしている。 

    と書かれている。

     

    仏意、仏の心は大慈悲であり、その心は無量寿なのだと思います。

    それだけでなく、その心は生きとし生けるもの全てが元々もっている心。

    元々あるのだが、その心は靄がかかるようにして、この娑婆を生きる自分の心によって隠されてしまっている。

    その靄を取り去り、本来の仏性を発揮できるよう導いているのが数多ある経典であり、般若心経はその中でも一番短く要点をついているものなのだと思います。

     

    般若経を体系づけた操体の創始者、橋本敬三先生には「全ての人が快適に満足して一生を全うできるように」という悲願があった。

    その悲願達成の為には、人が健康であるという事が大きく関わってくる。

    この健康に関しても、元々は全ての人が生まれ落ちた環境に適応し、健康で満足して生きられるようにつくられている。身体の設計にミスはないという事。

    設計にミスはないが、自らの生き方で健康を害してしまっている。

    だから、その為の経典が必要となってくる。

    人間は地球の上で「呼吸」「飲食」「身体運動」「精神活動」といった最小限の生命活動を基盤に様々な生活を営んでいるが、特にこの中の「身体運動」が「自然環境」と上手く適応できていないが為、ボディに歪みを生じさせ、アンバランスなまま健康の基礎を崩してしまっているという事。

    そこから様々な症状疾患を生じさせてしまうし、事故も起こしやすくなってしまう。

    身体の使い方、動かし方にも自然環境へ適応して、快適に生活を営むためのルールがある。

    それが自然法則であり、究明した身体の使い方、動かし方の自然法則を一般の人にも知ってもらい、健康を基礎から調整できるよう役立ててもらいたい。広く一般に親しんでもらいたい。
    そういった意味で、ユーモアも交えて般若経〔健康の自然法則〕と名付けられたのだと思います。

     

  • 暮らしの中で役立てる。

    おはようございます。

    今回のブログ担当も今日が最終日となりました。
    今回のテーマは「この時代の暮らし方・私の免疫力アップ法」でした。

    一般的に免疫力を上げるヒントとして、適度な運動をする、ぐっすり眠る、バランスのとれた食事、身体を温める、よく笑う、リラックスした時間をとる、といった提案がされています。
    どれも今の時代を生きる私達にとって心掛ける必要のある事柄だと思います。

    しかし、もっと具体的にどうすればと良いかとなってくると、個人のライフスタイルの時間、空間はそれぞれ違うのではっきりしたことは言えなくなってくる。

    特に運動に関しては、個人の生きてきたプロセスによる歪みや持病が加わる為、このやり方はこの人には適しているが、この人には危険が伴うといった事が生じてくる。
    そこで、広く一般に伝えようとすれば、適度な運動という言葉の表し方となってしまうのだろう。

    個を優先させた暮らしやライフスタイルからは、誰にでも出来、誰にでも有効なからだの使い方、動かし方というのはみえてこない。

    その点、操体では、この地球に生きる限り、自分で責任をもって行わなければならない最小限の生命活動をつうじて、誰にでも当てはまり、最小エネルギーで最大の健康効果が期待できるよう、からだの動きの研究がされてきた。
    研究テーマが壮大なるが故に、創始者、橋本敬三先生の成さんとした事を深化させつつ、操体は進化してきた。

    先頃行われた操体曼荼羅では、新重心理論の発案者である三浦寛先生を中心に、重心の適正に適うからだの使い方動かし方について、深く掘り下げた議論がされた。
    参加者全員が何かしらの意見や質問を出し合い、それによって直接的な理解は勿論、どう質問していいのかわからないといった事柄に関しても間接的に対応できていたと思いました。

    そして、理解した事は自分自身で実践してみる。
    操体は、未病医学に基づいた実践医学でもあるのですから。
    暮らしの中で役立てていく事が大事だと思います。
    暮らしの中での生活習慣に於いて、例えば雑巾を濯いだり、茶碗や皿を洗ったりする立ち仕事の時など、からだと向き合いながら日々応用、実践ができると思います。
    今の時代は新型コロナウィルスの影響もあり、特に暮らしの居住空間を清潔に保つ事が求められます。
    男であろうが女であろうが、偉かろうがそうでなかろうが、誰しも清潔に保つ行ないには参加する必要がある。
    どうせやるなら、気分良く、そして自分自身がより良く変わっていけるようにしていく必要もあると思います。

    そして、動きの生命活動の営みが、地球上でより良く生きる為のものへと変わっていけば、自ずと呼吸や飲食、精神活動もより良く変わっていくという性質があるのです。
    「息」「食」「動」「想」と「環」はバランス現象として、同時に相関相補し合っているのですから。
    このバランスが良くなる程、健康で満足して長く生きられる事につうじ、免疫バランスの向上もみられるという事なのです。

    私自身もまだまだ未熟者であります。操体曼荼羅をつうじて得た気づきを基に、実践をとおして精進していきたいと思います。

    一週間お付き合いいただき、ありがとうございました。
    明日からは畠山裕美先生の担当となります。
    来週もどうぞ御覧ください。