カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 飛車と歩。

    おはようございます。

     

    飛車は、その名前のごとく縦横に何マスでも、一飛びに移動できる。

    歩は、その名前のごとく前に一歩一歩と歩を進める。

     

    先日の夜、コンビニに買い物に出かけた時、隣の宅配業者の明かりが煌々とついていた。

    いつもであれば、もうとっくに閉まって真っ暗になっている時間帯である。

    気になって目を向けてみると、荷物の仕分け作業を黙々と一生懸命に行っている人達がいた。

    思えば、宅配便も交通網の発達により、遠方から直ぐに荷物が届くようなった。

    荷物を受け取る側からすれば、一飛びで来るような感じもするが、色々な輸送過程を経て、最後は配達員の人が一歩一歩と歩を進めて届けてくれる。

     

    今は、コロナ禍により外出自粛が要請されている時期であり、宅配便の荷物の数は相当多くなっていると思う。

    荷物の多さに加え、感染リスクへの備えもしなければならず、大変だと思う。

    考えてみれば、宅配便をはじめ流通に携わる人が一生懸命に仕事をしているお陰で、自粛生活が送れている。

    有難い事だと思う。

    そして、有難いと想えることで嬉しくもなれる。

    暗いニュースが多い中、どうしても気持ちがカサカサしがちだが、有難いと想える事、有難く感じられる事に心を向ければ心は潤う。そして、からだも悦んでくれるようで、底のほうから元気が出てくるように感じられる。

    免疫力のバランスも高まるだろう。

    科学的ではないかもしれないが、誰でも生命の経験的には解っているはずだと思う。

    積極的に有難さを感じられるようにしていく事。その心の向け方、想い方が大切。

  • 飛車より王。

    おはようございます。

    今週は友松が担当いたします。どうぞよろしくお願いいたします。

    今回のブログのテーマは「飛ばす」です。

     

    「飛ばす」という字を見て、はじめに思い浮かんだのが将棋の飛車でした。

    一マス一マス、一歩一歩、前に進むことしかできない歩に比べれば、縦、横に何マスも移動できる飛車のポテンシャルは絶大です。

    また、縦、横、斜めと縦横無尽に動ける王将でさえ一マスづつなのに、敵陣に入って竜王と成った飛車は斜めにも一マス動けるようになり、機動的な面からみれば王将をも凌ぐようになる。

     

    将棋の格言に「へぼ将棋、王より飛車をかわいがり」というのがあるそうです。

    これは、勝敗に直接関わる王将よりも、戦闘力の高い飛車の駒を重宝する愚かさを意味するという。

    昨今の新型コロナ禍による世相に当てはめれば、人の生命の重さよりも国の経済事情やメンツ、前例に拘り、時間を無駄にしてきた政治論理といったところだろうか。 

    「命あっての物種」という言葉がある。

    今は苦難の時期ではあるが、一人一人の生命さえあれば経済を立て直す原動力ともなるし、あるいは経済成長に左右されないもっと人間の幸福の本源に則った新たな社会をつくる原動力ともなれるだろう。

    人こそ命、イノチあっての物事種。

  • 60点の豊かさ。

    おはようございます。

     

    物事の成り立ちには、異質なものどうしの調和がある。

    これはフィフティ・フィフティの状態のままではなく、どちらかが歩み寄り、比率を変えてつり合いを取るようにして、両方が活きてくる状態になるのが良いと思います。

     

    どちらかが、どちらかを屈服させる状態であれば個性が活きてこないし、そこからの発展は望めないと思う。
    この場合50:50だった比率が、90:10とか一方が限りなく0に近くなる比率であり、これではまわりの状況に上手く対応できず、まわりの状況が少しでも変われば破綻に向かってしまう。

     

    まわりの状況に対応した上で、目的に応じて優先して動く側と、その動きを支えるよう違う動きをする側というように、違う個性を発揮しつつ合目的となる、その比率。

    その比率は50:50ではなく、ましてや90:10でも100:0でもない筈だ。
    その、つり合いの軸も然り。

     

    ふと、橋本敬三先生がよく言われていたという「60点取れればいい」という言葉が浮かんできた。
    更に「バランスは100パーセント取らなくてよい、間に合えばよい」という言葉も浮かんできた。

    これらの言葉は、調和したバランスの比率にも、当てはまるのではないかと感じた。

     

    誰でも目的を十分に果たしたいと思うだろう。しかし、目的に向かって動く側の比率ばかりを高めても、まわりの状況(空間、時間を含む)を理解しながら、目的行動を支えてくれる側を忘れては、バランスを崩してしまう。

    アクセルとブレーキの関係でもあり、一方を外に捻れば、反対側は内に捻ってバランスを保とうとする、そんなつり合いでもある。

    目的行動が60点を越えてると感じたら、あまり欲張らず、また頑張らず、自分の我をとおそうとせずに、支えてくれている側の事も慮い、配慮するという事。

    また、支えてくれる側をはじめから優位とし、目的行動をそこに合わせていく、というバランスのとり方もあって然りだろう。

     

    橋本敬三先生はこうも言っていたという。

    「間に合っていればいいんだ! 間に合っていればよい、という心の豊かさが必要だ。
     それが、人間が生きる、ということの品性だ」

     

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。

    明日からは畠山裕美先生の担当となります。

    明日からも、どうぞ宜しくお願い致します。

     

    友松 誠。

  • 盾と矛より

    おはようございます。

     

    今回のブログでは、調和という言葉を何回も用いていますが、調和とは何なのか?を少し考えてみたいと思います。

     

    辞書には「物事の間につり合いがとれていること」とあるが、これだけだと何かあっさりしているというか、動いているものを止めて外側の状態だけを客観的に見ているだけといった印象を受けます。

    辞書ですから、これはこれでいいと思いますが…。

     

    しかし、調和というのは、エネルギーを秘めた動的な事柄だと思うのです。

    もっと何かこう、感動と歓喜あり、美しいハーモニーの調べを奏でるような、そういったものを感じるのです。

    調和が無ければ、この宇宙を含め現象界そのものが無いのですから。

     

    物事の成り立ちには、異質なものどうしの調和がある。

    例えば、中国の故事に「盾と矛」というのがある。
    これは「どんな盾も突き通す矛」と「どんな矛も防ぐ盾」を売っていた男がいて、客から「その矛でその盾を突いたらどうなるのか」と問われ、返答できなかったという話。

    これも相対して対立させる観点では、フィフティ・フィフティのまま物事は平行線となり、進まない。

    しかし、正反対なモノの間を取り持つモノが現れ、お互いの個性、主張が引き立つように調整し、フィフティ・フィフティの関係から、どちらかが歩み寄り、比率を変えてつり合いがとれるよう一体化できれば、両方が活きてくるのではないだろうか。

    この歩み寄って和親していくところに、何か凄い動きのエネルギーを感じる。
    そして、そこには感動あり、歓喜ありなのだと思う。リズムも生じるだろうし、そういった和親、調和の現象があちこちで起これば、美しいハーモニーとなっていくのではないだろうか。

    この宇宙が、時と共にひろがり、膨らみをみせているのも、こうした調和があるからこそと思う。

  • 整から調を学ぶ

    おはようございます。

     

    これからの操体臨床を学ぶ上で、この生かされし空間に調和するナチュラルなからだの動きを識り、そして自分自身でその動きの感覚をききわけながら、自然の摂理に調和していく事は大事だと思います。

    その調和が密になるほど、自分のからだのツクリも整い、そして動きも更に良くなっていく。

     

    私も20年近く前の、創始者直系の操体の門をたたいた時は、体重が100kgを超えたメタボ体型でしたが、その2年後くらいには70kg台の体型、更に60kg台の体型になり、ここ10年以上体重の変動はない。

    そして、中身の動きの調和をつうじて、ツクリも整っていると感じるし、更なる可能性も感じている。

     

    これも、操体の第一人者である三浦寛先生に学んでいるからだと感じる。

    ナチュラルな動きを知り、自分で実践するにしても、整ったお手本となる人物は必要。

    手本とする形(カタ)がイメージできなければ、形無しともなりかねない。

    良いイメージを、意識に刻み込むにこしたことはないが、それには第一人者に指導を仰ぐのが最適であろう。そして、その息遣いやからだに対する気遣いに触れておくことも大切。

     

    本を読んでのイメージだけでは、自分の先入観が勝ってしまう場合が多い。また、写真やビデオだけでも、体感が伴った経験をしていないと、大切な事が写りこまれていても何が大事なのかが理解しづらい。

     

    操体の作法の動きは、筋肉を消耗させる動きではない。その為、動きと呼吸の相関性はとりわけ重要となる。

    操体の第一人者が、どう息を使い、この生かされし空間と調和しながら全身の動きを表現しているのか、実際にその息遣い、からだに対する気遣いを感じるのも大切。

     

    「整」の形(カタ)が成ったお手本から「調」を学び、自分自身で動き、からだの感覚をききわけながら「調え」そして「調和」に導き、自らも「整って」いく。

    そして更に、整った状態から、ナチュラルな動きを取り戻してゆく。そして更に…と循環する学びは凄く大切であり、そして愉しいものでもある。

  • 調和の質を高めるには

    おはようございます。

     

    操体の臨床は、初期の初期のまだ操体法の名称すらなく、創始者の橋本敬三先生が様々な療法の影響を受けて「整える」という発想をしていたと思われる頃より、長い年月の検証の積み重ねから、からだの声に耳を傾けて「調え」そして「調和」に導くという臨床体系となってきた。

    そして、それを基に今、進化した操体となってきている。

     

    治すのは、紛れもなく、からだなのです。

    治療者は、からだが治しをつけるのをサポートしているにすぎない、それが本然なのであります。これは本来、どのような療法にも当てはまる。

    治しをつけるからだを上手くサポートできるほど高い臨床効果となる。しかし、そのサポートの仕方によっては却って良くない結果を導き出す事もある。

    操体は、その本然の事実に正直であり、忠実なのです。
    だから「からだの声に耳を傾ける」「感覚をとおしてからだにききわける」という事を重要視している。

     

    昨日も書きましたが、動診の際「気持ちよく動いて」では主語、主体が治しをつけるからだではなくなってしまうのです。

    第2分析の動診では「からだにききわけて」と問いかけますが、これはあくまでも快適感覚、気持ちよさであり、調和に向く気持ちよさの質を問うているのです。

    気持ちよさをききわけるのに適った動かし方、問いかけ方があるということであり、これを実践するならば、第一分析(D1)で必須だったツライ動きを確認する必要はなくなります。
    快に向けたからだの動きの要求をわかった上で、その質を問いかけているという事。

     

    一極微とも呼ばれるこの問いかけ方には作法があります。まずはナチュラルなからだの動きを知り、自分でも実際に感覚をききわけながら実践してみる事。

    操体で学ぶナチュラルな動きは、臨床だけのものではないのです。日常生活動作のいかなる場面でも応用が利きます。

    自分でも感覚をききわけながら、動作の自然さを取り戻していきながら、作法とリンクしていく事が重要。

    これは第2分析の動診に限らず、その後の進化した操体臨床にも当てはまる事であり、まずは自分自身で体感してみなければ、他人様のからだの要求などわかろうはずもないのです。

    まずは自分自身が、動きをとおして自然の摂理に調和していこうとする事。

  • より質の高い調和へ

    おはようございます。

     

    昨日は、昭和53年に書かれた操体の創始者、橋本敬三先生の動診と題した文書より

    整復は形の上から考えるなかれ、動かして診ることだ。制限されて苦痛な動きは、体の方で止めてくれと言っているのだ。気持ちのいいように、痛い方から痛くない方向に柔らかく誘導し、最快適な時点で急速に脱力させると、元におさまる。 

    という文面をとり上げました。

    この頃の動診は、操体法の初期の第一分析(D1)でしたが、操者(施術者)は「整える」という観点ではなく、被験者のからだの感覚を重視しながら動かして診るという操体法の特徴が端的に表されている。

    一方的な物事の進め方ではなく、からだの声に耳を傾けるという「調える」「調整」の姿勢から「調和」へ導き、臨床効果を上げるという事なのです。

     

    そして、調和と時間、空間の係わりは無視できない。つまり、その時良くなっただけではなく、その良い状態がキープできる、続けていけばそれ以上により良い状態となるような効果が伴わなければならない。

     

    上記の第一分析の動診も、橋本先生の御存命中にD1からD1’へと更に改良されていった。

    D1’では「急速に脱力させる」ではなく、脱力もからだの要求感覚に委ねるように変更されたが、それだけ整復も含め整えるという観点から脱し、快適感覚により全体的な調和に導く事が大事であり、元におさまるという結果は同じでも、内容はその後の経過も順調となるよう改良されたという事。

     

    そして、D2つまり第2分析へとシフトアップされていくわけだが、そのきっかけは橋本先生の「気持ちよさをききわければいいんだ、気持ちよさで治るのだからな」という言葉だったと聞いている。

    先の第一分析の動診の文章に「気持ちのいいように」とあるが、それから4,5年たった後の「気持ちよさをききわければいいんだ」という言葉、この2つは一見同じように感じる人もいるだろうが、まるで意味合いが違っている。

    「気持ちいいように」というのは被験者本人の意思に向けた言葉であり、あくまで本人が主となり、本人のからだは対象外となっている。

    しかし「気持ちよさをききわける」となると、本人の意思よりも本人のからだが主になり、本人はからだの感覚に従動的な立場となる。

    より高次元の自然良能作用の発現に向けた調和への問いかけとなっているという事であり、ここから更なるシフトアップした診断法、更には今までの常識を覆す進化した操体へとつながっていく。

  • 調から整

    おはようございます。

    今週は友松の担当となります。一週間どうぞよろしくお願い致します。

     

    今回のテーマは「ととのう」です。

    ひらがなで表現してるところがいいですね。

    漢字だと何だか枠にはめられる感じがするのですが、ひらがなだと何か意味合いが膨らむ感じとか、何か愉しそうであり、何か新たな気づきや発見が有りそうな予感がします。

     

    整理整頓という言葉がすぐに思い浮かびましたが、これなども自分でやり方や準備が「調った」上で、それをキチンと「整えて」いくものだと思うのです。

    整理整頓も、その為の条件が揃った上での行いとなり、部屋の片付け一つでも本人の美的センスや快適に過ごす為に必要なビジョン、掃除道具などが揃った上での行いとなる。

     

    順序としては「調う」から「整う」であり、いきなり「整う」をやろうとすると上手くいかないのではと思う。

    これは何をするにも当てはまる事だと思います。

     

    臨床にしても、猫背やO脚など姿かたちを整えてほしいという人も多いと思いますが、気になるところの形だけ整っても、内実が伴っていなければ整ったと思われる状態は長続きしない。

    この場合の内実とはからだの動きであり、形だけ整えた状態とからだの動きが調和していなければ、その形が崩れるのは自明の理です。

    からだの動きを全体的な観点からナチュラルに調えていく必要があり、ナチュラルに調っていく過程には気持ちが良いという感覚による調和、そこからの健康の回復、維持、増進が伴い、その上で自分の望む姿かたちへの整いがあるのです。

     

    ある程度の健康状態で間に合って、尚且つ自分の望む姿かたちを求める人には遠回りに思えるかもしれない。

    しかし、結局は一番の近道であり、そしてそこには幸福への切符が伴っている。

    生きている限り、誰もが時間の経過と空間との調和の関係性からは逃れられないのですから。

    整の前には調があるべきなのです。それを繋ぐのは感覚であり、そして、ととのう。

  • 対立から調和、共生へ。

    おはようございます。

     

    自分のからだと対立して頑張っても仕方がない。

    自分のからだが無ければ、自分の存在は無いわけだから。

    自然と対立して頑張るよりも、調和して、より良い未来を創造していった方が良い。

    今がどんな状況でも、自然に生かされて生きている事には変わりないのだから。

     

    人間と自然とは、共に調和して共生に向かうものであると思う。

    古の日本人には、人間は自然の一部であるという考え方が根底にあったという。自然は物ではなく、限りなく流転していく生命そのもの。

    その自然を畏敬し、共生や一体化を考えていく中で自分自身をみつめ、そこから他への思いやり、慈しみの心が養われていったという。

     

    一方、西洋的な自然観はというと、旧約聖書の創世記に「子孫を繁殖させよ、そして大地を満たせ。大地を征服せよ。海中の魚、空飛ぶ鳥、地上を這うすべての生き物を所有し支配せよ。腫を結ぶ一切の植物、実のなる一切の木を食物として人間に与える」とあるように、自然を物とした人間中心の自然観が窺える。

     

    そして、そこには自然と対立して、自然を克服するとか、征服していくといった頑張りの構図もみえてくる。

    それによって文明は発達し、今を生きる私達の衣食住の空間は便利になったのは確かだろう。

    しかし、自然との対立の構図からでは、どんなに頑張っても、どうにもならない事だってあると思う。

     

    その一つには、増加の一途を辿る生活習慣病をはじめとする、様々な現代病の問題。これは心とからだのアンバランスによるストレスが多分に関わっていると思われる。

    この問題は、からだを物や道具として捉えていたのでは、解決しないと思う。からだは自然の摂理に向いて自律しており、からだにはからだの求める空間があるのだから。

    どんなに頑張ったって、人間は天と地の間でしか生きられないし、からだが無ければその存在は無いのだから。まずは、その関係性に調和和合の心を向ける。

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。

    明日からは畠山裕美先生の担当となります。

    来週も宜しくお願い致します。

  • より大きな目的を果たす為に。

    おはようございます。

     

    今回のテーマである「頑張るな」には、その時の勝ち敗けの結果ばかりに執着しすぎ、本来の目的や目標を失うな、といった戒めにも感じる。

     

    柔道の神様とまで崇められた三船久三十段は、前回の東京オリンピックで柔道競技運営委員を務め、国際競技としての柔道の完成を見守った後、その翌年に81歳で永眠したという。

     

    前回の東京オリンピックから正式種目に採用された柔道は、日本のお家芸として全階級での金メダルが期待されていたという。

    そして、日本選手は期待に応えるように順調に勝ち進み、金メダルをとっていった。しかし、もっとも重要視していた無差別級だけは金メダルがとれなかった。

    無差別級の決勝で、日本選手がオランダのヘーシンク選手に敗れたその瞬間、日本柔道界の関係者の多くが項垂れた。生き恥をさらした、とまで感じた人も多数いたという。

     

    しかし、三船十段は「ついに日本柔道も、ここまできた、世界の柔道になったと悦ぶのが本当」と言ったという。

    三船十段からしてみれば、ヘーシンク選手も講道館の弟子であり、外国で発生した柔道を習ったわけではない。日本から学んだ弟子の一人が優勝したわけである。

    「そこに日本人だの外国人だの差別をつけるのは日本人の肝っ玉の小ささだ。そんなことでは柔道は世界の柔道になれない。日本人も世界の日本人にはなれませんよ」

     

    そして三船十段は、こう続ける「だが、こういうことはいえる。日本はやはり世界の柔道修行者の中心地であり、目標なのだから、大きな道の発展のために、人一倍の工夫と、さらに一段の真剣な努力が必要だということです」

     

    こうした発言は、当時の社会情勢としては異色だったと思います。しかし、一連の発言は本質をついていると感じます。