カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 頑張らせない考え方。

    おはようございます。

     

    炬燵が心地よく感じる季節な為か、このごろ運動不足になったという声をよく聞くようになりました。

     

    運動というのは、一般的に健康の為、身体を鍛える為、楽しみの為などといった目的で身体を動かすことを指すようです。

    しかし、その目的意識はほとんどの場合、自主的なその運動を支えてくれている、からだに向く事はないと思います。

     

    ラジオ体操をするにしても、手を伸ばす運動をしている時、手の使い方やその時の足の状態まで気にしてやっている人は、なかなか居ないと思います。

    大抵は、いつもの生活習慣からの状態からそのまま、手を伸ばしていると思います。

    それでも、日頃の精神的なストレスの軽減につながれば心地よく、からだにも良い事をしていると思ってしまう。

    それはそれで良い。何もしないよりは良い。

     

    しかし、その心地よさは、からだの頑張りによって裏打ちされた心地よさなのです。

    足元が不安定なまま、手を伸ばせば、身体のどこかで頑張って、それを負担しなければならなくなる。腰然り、肩然り。

    結果的に手の動きには、拮抗作用が働き、動きの制限が加わる。

    これでは、ブレーキを引きずりながら動いているようなものであります。逆らって無理して動くよりも、ブレーキとなっている事柄を改善する方が先決。

    からだに意識を向けてみなければ、そういった事に気づけない。

     

    意識を向けるだけでなく、からだの立場に立った考え方ができれば、からだに負担をかけない事、頑張らせない事につながります。からだにとってのストレスを与えない事にもつうじます。

    同じような運動をする時でも、何もしないよりは良いというレベルから、身心ともにストレスから解放させ、より健康に導く運動に変えていけるのです。

    からだの立場に立って考えてみる。

  • 注意、警告の観点から。

    おはようございます。

     

    操体には「バルの戒め」というものがあります。

    これは4つのバル、つまり「ガンバルな」「ヨクバルな」「イバルな」「シバルな」の4つであり、「頑張る」「欲張る」「威張る」「縛る」ことを戒めているのです。

     

    「戒め」とは、過ちを起こさないように前もって注意、警告するという意味があります。

    注意、警告という観点からすれば、4つのバルのうち「欲張る」「威張る」「縛る」は、他人からも注意をしてもらえたりします。

    しかし、「頑張る」については、「頑張りすぎると、からだに悪いよ」という言われ方はされても「頑張るな」と言われる事は、まず無いと思います。

     

    では「戒め」の注意、警告というのは、誰が誰に対して注意、警告するのでしょうか。

     

    それは、自分のからだが自分に対して、注意、警告を発してくることを指します。

    からだの事を無視して、自分の思惑だけで頑張っていればバランスは崩れてきます。

    バランスが崩れることで、からだは本来の機能を発揮できなくなり、自分自身の健康にも影響してくる。そんな時、からだは感覚をとおして注意を促してきます。

     

    その注意を無視して頑張っていれば、からだに異変が生じてきます。

    からだに何らかの異変が生じれば、注意では済まなくなり「痛い」「ツライ」といった警告を発してくるようになります。

    そして、その警告が大きくなる程、異変も大きくなっているという事なのです。

     

    からだにききわけるという事が大切であり、自分の頑張りの尺度というのは、思考的に決めつけられないのです。その時、その時、場面、場面で、からだとのバランスは変わりますから。

    からだの感覚を頼りに、注意を受けたなら、やり方や取り組み方を変えてみるのも良いと思います。

    からだの使い方にも、合目的で調和に向く使い方と、一部だけが頑張って疲弊してしまう使い方があるのですから。

    そのやり方、取り組み方の最善を研究しているのも操体なのです。

  • 頑張るな、と能率、効率。

    おはようございます。

     

    何かを成し遂げようと困難に耐えて努力する事は大事です。

    ですが、何をするにしても能率と効率を考えた上で、成果を高めるべきです。

    しかし、能率面や効率面ばかりを追求していては、無理が生じ、疲弊してしまう。

    企業然り、人間然り。

     

    能率というのは、時間に対して出来る仕事量や達成度。

    効率というのは、エネルギーやコストに対して出来る量。

     

    能率も効率も、機械に当てはめて考えれば、予定通り、思惑通りに運んでいる時はいいが、そうでない時は凄く不満が溜まると思います。

    ちょっとしたアクシデントでも許せなくなる。

    そのアクシデントの原因は、機械を使う側の手入れの不備や怠慢、使い過ぎであったとしても、そんな事は隅に置き、あるいは気付きもせず機械のせいにしてしまう。

    機械は文句を言わないから、責任を押し付けやすい。

    機械と人間を同じように考えて、能率や効率ばかりを追求していれば、人を使う側にも、使われる側にもストレスが生じ、関係性も崩れてくるでしょう。

    関係性。これは目には見えないが、とても重要だと思います。

    いくら良いものを持っていても、合目的に動ける関係性がなければ、宝の持ち腐れであり、目的の遂行や仕事量以前の問題となってしまう。

    この関係性を高めるには、思いやりや優しさというのは必須であり、根底になければならないものだと思います。

    しかし、思いやりや優しさも、度を超せば過干渉やお節介であり、却ってよくない場合もある。

    しかし、それでもはじめに、思いやりありきでなければならない。

     「頑張るな」という言葉は命令形ですが、その裏には、思いやりや優しさが含まれていると感じます。

  • バランスも考慮した上で。

    おはようございます。

     

    今週は友松の担当となります。どうぞ宜しくお願い致します。

    今回のテーマは「操体における頑張るな」です。

     

    頑張るには、「ある事を成し遂げようと困難に耐えて努力すること」という意味合いがあるようです。

    ですが、困難に耐えて努力する意味を、どんなにツラクとも我慢して続ける、と解釈している人も多いと思います。

     

    しかし、何の工夫もなしに続けていても良い成果にはつながらないし、ツライのを我慢して続けていれば、からだも疲弊し何らかの不調を訴えてくるのは、誰でも経験上知っている事だと思います。

     

    何かを成し遂げようと困難に耐えて努力する事は、もちろん大事です。
    ですが、何をするにしてもバランスを考慮した上で、成果を高めるべきです。 

    ですので、困難と思われる事柄は避けるようにしろ、という訳ではないのです。勿論、努力なんてしなくて良いという事でもないのです。

      

    自分と、感覚をとおしてのからだとのバランス、その上でのより良い成果。

    はじめは、思考の決め付けだけで、頑張って成される事柄より、時間も手間もかかるかもしれない。

    しかし、成されたものの価値はずっと大きく、なによりそのプロセスは財産となる。

    その財産は、健康と直結しており、健康で長く、より良い成果に結びつけていける未来への宝物。 

    その宝物を得る為にも、一時の頑張りに甘んじない。

  • 操体の説明・・・7

    おはようございます。

     

    東京操体フォーラム理事長である三浦寛先生が、操体創始者である橋本敬三先生の内弟子になった時に、初めに教えていただいたのが、人間を含めた生物の起因や生命現象創生にまつわる話だったと聞きます。

     

    生命現象の生物の組成を逆に考えてみるならば

    生物の世界は有機の世界から生まれる

    有機は無機の世界から

    無機の原子は素粒子より成り

    素粒子はエネルギー波動の世界より生じ

    波動は陰陽二極の世界から起こる

    陰陽なる性質の決定は、無限なる太極の意志である。

    太極の意志とは「愛と調和」である。

    各世界には、ひとかわ上の世界が入り込み

    また各世界には太極が普遍貫通していることになる。

     

    これは「救い」の生命観の根幹を示したものではないかと感じます。

     

    橋本先生は若かりし頃に、盛岡の牧師、平野栄太郎先生から「救い」と「報い」の区別をはっきりと教えられたという。

     

    「報い」は相対的であり、この世に於ける生き方に対する相対的評価であり、自分の行いによって加減変化する価値観である。

     

    「救い」は絶対であり、神性相続権であり、何ものも覆すことができない久遠の事実である。

    橋本先生は自己単独における観の転換により、この「救い」を悟ったという。

     

    太極を神とすれば、神性相続権というのも頷ける。

    創造主とか神といった言葉が出てくると、怪しいとか胡散臭いと思う人もいるかもしれません。

    しかし、誰にでも神性は宿っています。時には自分に向き過ぎた「報い」の想念から、天に唾を吐くような気持ちになる時もあるでしょうが、そんな気持ちは長くは続かない。
    気持ちが悪いからなのでしょうね。自分はどうでも、自分のからだは気持ち悪いのでしょう。
    だから、誰かを「ゆるせない」といった感情を持ち続ければ、バランスを崩して病に陥りやすいのだと思います。
    誰にでも、神性は宿っており、見えないところでつながっているのでしょうから。

     

    臨床でも、臨床家が向き合うのは単なる物体や機械ではなく、からだであり、神性の宿った生命なのです。

    昔から言われているように、医学は単なる修理医学であってはならないと思うし、臨床家も修理屋であってはならないと思うのです。

    それには、感覚というものを重視する必要があるのです。

     

    操体臨床では、本人にからだの快感覚をききわけていただく第2分析。

    そして、どうしても感覚のききわけが困難な人にも、渦状波®による皮膚へのアプローチにより、からだの生命感覚に直接に快適感覚を問いかける第3分析も行われています。

    そしてまた、三浦寛先生により、操体臨床は第4分析、第5分析へと進化を続けています。

    この進化は生命に優しく、そしてより効果の高いものへの進化です。

    この進化も、操体創始者の橋本敬三先生から臨床技術だけでなく、思想、哲学、真の生命観を学び、操体と操体臨床(操体法)をリンクしながら、50年以上の長きにわたり深め、研鑽を重ねてきた三浦先生だから、可能だったのだと思います。

     

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。

    明日から畠山裕美先生の担当となります。

    来週もどうぞ宜しくお願い致します。

  • 操体の説明・・・6

    おはようございます。

     

    人間は、様々な要因、お陰で、有難く生かされている。そして、その上で生きている。

     

    道元禅師の有名な言葉に
    「鳥の命は鳥にあらづ空にあり、魚の命は魚にあらづ水にあり」

    というのがあります。

     

    イノチあるものは、生かしてくれているものがなければ、生きてゆけないのです。

     

    人間も、その人を生かしてくれているものを挙げれば沢山あると思います。

    親、兄弟、友人、恩師、それから食料、電気、水道、今の時代であればスマホと言う人もいるでしょう。

    人に差はあるでしょうが、挙げだしたらキリがなくなります。それだけ様々な恩恵を受けているという事なのでしょうね。

     

    しかし、生命現象の観点から根本的に捉えてみると、重力があり、呼吸をさせてくれているこの空間でしょう。

    道元の言葉につうじるものがあると感じますが、やはり大自然大自然の愛なくしては全てのイノチあるものは、その存在を保てないのです。

     

    逆に捉えれば、存在しているという事は大自然の愛を受けているという事でもあります。

    大自然の愛、それは見返りを求めない無償の愛であり、宇宙が138億年前に誕生したとすれば、その時からずっと無償の愛を膨らませながら、隅々まで与え続けているのだと思います。

     

    愛を与えられることで、目に見えないものも含めて重さを持つものは、調和へ向かい様々な体(タイ)をなしていったのだと思います。

    そして、重さをもつものは、快、不快によって結びついたり、反発したりを繰り返し、イノチを育んでいった。

    そうしたバランス感覚を持ったイノチの集合体が、存在であり、生命なのだと思います。

     

    では、そのように大自然をつくったのは誰なのでしょうか?

  • 操体の説明・・・5

    おはようございます。

     

    生き方の自然法則の中の一つである「身体運動の法則」は、確立されたものではなく研究と研鑽が重ねられるにつれ、何度も修正がされ、より良いものへと更新されてきました。

    しかし、どんなに良いものとなっていったとしても感覚は無視できない。

     

    特にボディの歪みが顕著な場合、本人が法則どおりに身体を使い、動かしているつもりでも、不自然な動きとなっている場合が多い。

    感覚をききわけずに、無理して不自然な動きをとおしていれば、更なる歪みを生じさせるし、ケガにもつながりやすい。

     

    これは自力自療の意味にもつうじるが、よくある健康体操の謳い文句にあるような「このような運動を行っていれば、健康でいられる」というものではない。

    動きの感覚をききわける事が大事。気持ちよいという感覚で良くなり、結果的に健康の回復、維持、増進につながるのだから。

    身体運動の法則を知るのは大切だが、それよりも感覚の方が大切。

     

    操体臨床の第2分析に於いても、身体運動の法則に基づいた動きを念頭に動いてもらうが、動きというのは、自分で意識してのものだけでなく、無意識的にも部分部分が相関相補しながら一つの全体的な動きが表現されている。

    全体的な動きの流れが、自分の意識した動きだけで成り立っているのなら、感覚のききわけは必要ないかもしれません。

    しかし、それは違います。

    自分の意識できている動きなぞ、無意識のからだの動きからすれば、ほんの一握りに過ぎません。

    だから、からだにききわけるのです。そして、感覚によってからだは動く。

    不快であれば動きの流れを堰き止めようとするし、警報としてのサインを感覚をとおして自分におくってくれます。

    快の質が高ければ、動きの流れは循環し、全体的な調和は密になっていき、バランス制御に働きかける。その感覚を味わう時空は至福であり、からだだけでなく心も満たされていく。

    本当に有難く出来ているのだと思います。

    また、生きているという事は「からだにも生かされて生きているんだな」と感じます。

     

    生き方の自然法則は、どちらかといったら相対的であり「自分が、こうしなければ、こうなってしまうよ」といったニュアンスがあります。

    これは自己啓発を促すには良いです。

    しかし、自分という存在はからだに生かされている。そして、からだは大自然によって生かされている。

    「生かされて、生きている」これは絶対的な事実であり、この絶対的事実の有難さを感じる事も大切です。

     

    自然法則というのも、人間の生き方に向いたものとして捉えるだけではなく、他の有難く生かしてくれているイノチともより良く調和し、生かされて生きる為の法則という捉え方も必要なのです。

    人間は、様々な要因、お陰で、有難く生かされている。そしてその上で、生きている。

    その有難く生かされている様々な要因や、その起因についての真理を学び、学問としているのも操体です。

    ですから、操体の学びというのは幅広く、そして奥が深いのです。

     

  • 操体の説明・・・4

    おはようございます。

     

    「気持ちよさをききわければいいんだ、気持ちよさで治るんだからな」

    この真理は、操体法の法を治療テクニックの方法論として捉えてしまう人には、理解しがたいことだと思います。

    しかし、生命現象の根底には「イノチあるものの存在は快の方向性にむく」という大原則があり、その為の快の方向性に向けた自然の法則を究明、応用するという意味で、操体法の法を捉える必要があります。

     

    操体創始者橋本敬三先生は、元々の身体の設計にミスはなく、人それぞれ個性はあれど、誰もが気持ちよく満足して一生をおくれるようになっているのに、なぜ病気になって苦しまなければならないのか? と考えました。

    そうなってしまうのは、個々の生き方に何か間違いがあるのではないだろうか?

    生き方の間違いとは?

    人間は、元々は大自然より生じ、大自然と関わりながら気持ちよく生かされ、そして生きるべきなのに、わざわざ不快な方向性に向く生き方をしてしまうところにある。

    元々備わる原始感覚を鋭敏にする必要があるのは勿論だが、大自然と関わりながら気持ちよく生きるための法則が自ら在り、その法則に背反するから気持ちよく生きられずに病気になってしまう、という事なのです。

     

    生き方の自然法則を知る必要がある。

    では、生きている人間すべてに当てはまり、自らそれをしなければ生きていけない生命活動の営みとは何なのだろうか?

    突き詰めて絞っていけば「呼吸」「飲食」「身体運動」「想念」となる。

    この4つは他人に変わってもらう事のできない、自己必要最小限の生命活動の営みである。

    そして、そこに自然法則が在るということは、その法則に自分で合わせていく責任があるという事であり、責任転嫁はできないし、無責任であれば不快な方向性に向いて、やがて病気になってしまうのです。

     

    その自然法則を長年探究、究明してきたのが操体であり、究明した自然法則に合わせるようにしてもらえば、気持ちよく生きる事につながり、未病つまり病気にならないように予防できるのです。

    そして、その究明した自然法則を応用してきたのが操体の臨床部分である操体法なのです。

    気持ちよさのききわけに対する臨床である第2分析も、究明してきた「身体運動」の自然法則を応用して、気持ちよさのききわけにつなげているのです。

    気持ちよく生きるための自然法則を応用している限り、わざわざ第1分析のように辛い動きを確認する必要は無く、また操者(施療者)が介助の仕方を含め動きの自然法則に精通するほど、被験者に不快感覚を生じさせることはなくなり、快適感覚に焦点を絞った臨床をとおすことができるという事なのです。

  • 操体の説明・・・3

    おはようございます。

     

    操体創始者橋本敬三先生が長年の研究と研鑽を重ねた末に辿り着いた

    「気持ちよさをききわければいいんだ、気持ちよさで治るんだからな」

    という真理。

    この真理に対して、臨床で気持ちよさをききわけさせる為にどうすれば良いか、という事に関しての体系づけは、橋本先生の存命中は成すことが叶わなかった。

    その成さんとした意志を引き継ぎ、気持ちよさに対する臨床を体系づけたのは三浦寛先生でした。

     

    三浦先生は、橋本先生の側で一番長く、そして内容も幅広く深く学んだ人です。

    操体の臨床部分である操体法のやり方だけ学んでいたのではなく、内弟子として側に仕え、橋本先生の想念、哲学、生命観も直に教えを受けて学んでいた。

    だからこそ、楽と快(気持ちよさ)を識別して、動きから気持ちよさをききわけてもらう第2分析を体系づける事が出来た。

     

    気もちよさをききわける。

    何に気もちのよさをききわける?

    それは、自分のからだに感覚をとおして、ききわけるのです。

     

    治すのは自分のからだであり、元々の身体の設計にミスはなく、人それぞれ個性はあれど、誰もが気持ちよく満足して一生をおくれるようになっており、気持ちよさがからだの治癒能力の原動力になっているからです。

    元々この自然界に存在する生命は、こうした有難さに基づいている。それが橋本先生の悟った真理であり、まさに救いの生命観なのです。

     

    そして、生命現象というのはバランス現象であり、気持ちよさがからだの治癒能力の原動力というのは、気持ちいいという感覚こそが、からだのバランス制御に働きかけるからです。

    ですが、気持ちよさにもからだが要求する気持ちよさと、そうでなく単に気持ちよく感じるだけのものと質的な違いがある。

    だから、バランス制御に向くからだの要求に則した気持ちよさを、ききわけることが肝要という事なのです。

     

    気持ちよさで治る。これは頭の思考だけでは理解しずらいことだと思います。

    しかし、自分のからだを構成している70兆あるといわれる細胞も、嫌や嫌や結びついて互いに相関し、相補し合っているとは思えないのです。

    人にはそれぞれ個性があり、境遇も違います。目に写る世界だけで考えると他の人を羨んだり嫉妬することもあるでしょう。しかし、目に見えないところに観を向ければ、70兆ある自分の構成要因は快の方向性を持ち、自分を生かしてくれている、という事に気づけるのです。

    「気持ちよさをききわければいいんだ、気持ちよさで治るんだからな」

    これは、思考を超えた真理だと思います。

  • 操体の説明・・・2

    おはようございます。

     

    「イノチあるものの存在は快の方向性にむく」という大原則。

    そして、イノチあるものには元々、快か不快かを識別する能力である原始感覚が備わるという事実。

     

    この大原則と事実を無視したのでは操体にはならないし、操体法とも呼べない。

    操体は、それだけ感覚というものを重視しているのです。

     

    操体創始者である橋本敬三先生は、医師でありましたから医学的知識も勿論もっていました。

    そして、本人が様々な著書で書いているように、医者になりたての頃は特に整形外科方面の治療が苦手で、按摩、鍼、灸、骨接ぎと様々な療法の人達に代わりにやってもらったり、やり方を教えてもらったりしていたそうですから、現代医学以外の療法の知識も豊富です。

    ですが、それでも感覚が重要とし、自らの臨床で実践していました。

     

    そうなるきっかけは正體術との出会いにあったようです。

    それまで様々な民間療法をみてきて、橋本先生は「みんな上手く刺激を与えてバランスを取って良くしている」ことに気が付いたといいます。

    しかし、刺激を与えずとも良くする人にも出会った。正體術を行っているその人は、痛くないように身体を動かして良くしていたという。

    橋本先生は「痛いことをしなくとも治るんだな、痛くないほうがいいわな」と深く感銘を受けたという。しかし、何をやっているのか説明を求めたが、その人も説明できなかったという。

    それでも、やってみると良くなるので、その人が説明できなかったところは客観的な骨格、関節の構造の診方に求め、次第に「辛い方から楽な方に動きを操つり、脱力する」というやり方になっていったようです。

     

    しかし、研究と研鑽を長い間かさねるうち、からだの動きは8つきりしかなく、そのボディ(運動系)は快か不快かの感覚によって、バランスが良くなったり悪くなったり、可逆的に変化するものだという事がわかってきた。

    この事がわかってくると、客観的にみた動きよりも、本人の主観的な感覚の方が重要であるというようになっていった。

    事実、晩年の橋本先生はNHKラジオに出演した時も、しきりに「気持ちよさ」ということを主張しているし、臨床の指導現場では従来のやり方に囚われずに、患者には気持ちよさだけを指導しろ、とも言われていたようです。

    そして、時には自ら被験者となり、気持ちがいいという感覚で、からだが動くという事実を体現して見せて下さった事もあったと聞きます。

     

    しかし、御高齢になられていた橋本先生は、気持ちよさに対する臨床を体系づけるには時間的に間に合わなかった。