カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 自分達の理屈ではなく。

    おはようございます。

    江戸時代の国学者、医師であった本居宣長は、若くして儒学を学んでいながら、後に儒学をはじめとする中国から入った思想や理論を、日本古来の「 真心 」を乱すものとして目の敵にするようになったという。
    その一方で、儒家の始祖とされる孔子は尊敬していたという。

    宣長孔子以外の儒家を目の敵にした理由。
    その一つには、物事( 自然現象 )を代々受け継がれてきた教えによる自分達の道理によって理解し、その道理の理屈に合わないことは無視して、自分達の理論体系や思想に物事を当てはめようとする、そういったはからいの多い態度に警笛を鳴らしていたのだと思う。

    操体法創始者橋本敬三先生の頃から、常に見直しと改良がされてきました。
    自分達が治しているのではなく「 治すのは、からだ 」であり、からだや自然は自分達の理屈に向いているわけではないからです。
    それ故、からだや自然から素直に学ぶ姿勢を大切にしています。

    また、操体創始者が成してきた事をそのまま受け継ぐだけでなく、成さんとしてきた事を学ぶ学問でもあります。
    ですから、改めて創始者の真意を見つめ直し、より良くしていくものなのです。

    2019年春季東京操体フォーラムは4月29日の開催です。
    テーマは2018年秋に引き続き「身体芸術と操体」です。

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  • 見直して再生へ。

    おはようございます。

     

    昨日紹介した橋本敬三先生の「 二宮尊徳は字に書いてない天地の書を読めと教えられたそうだが、これこそ本当の学問であろう 」という文章。

    これは、なかなか難解ですが、一つには学問という知識体系になっていないものにこそ、本当に大切な事柄が在るということなのだと思います。

     

    実際に古今東西、からだの動きについての文献などなかったですから。運動に関する書籍は多数ありますが……。

    からだの動き( 自分で行う運動ではなく )に関する事もそうですが、今の理論体系、知識体系の枠に収まらないものは、価値のないものとして切り捨ててしまう傾向がある。そうした方が合理的なのかもしれない。

    しかし、その自分達だけに向いた合理性というのは、自然からしてみれば大いに不自然なものが多いのです。

     

    現代医学にしても、画像診断の正確性は年々向上している。しかし、症状疾患をはじめとする様々な不調は、そのフレームの中だけの問題ではない。そのフレームの枠の外にも様々なつながりをもっており、枠の外のバランスの崩れの問題の方が大きい。

     

    人間の合理的思考から外れて、切り捨てているものの中には、改めて見直して磨き込む事で、本当に必要なものとして息を吹き返すものが、まだまだあると思います。

     

    橋本敬三先生は「 日本は宝の山だ。四方を海に囲まれ、ガラクタも流れてくる。磨けば光り輝くものもある。ヤジ馬ごころで磨いてみたら光だしてきたのが操体法だった。だけど、昔の人達は知っていたはずなんだ。知ってはいたけれど書きしるしたもの(文献)がどこにもない。だから苦労した。だからネ、からだの動き1つとっても、動きが8つきりしかないことがわかったのも、老いぼれてからのことなんだ。とにかく、書きしるされたものがなかった。もう、儂には時間がない…… 」と言い残していたという。

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    2019年春季東京操体フォーラムは4月29日の開催です。
    テーマは2018年秋に引き続き「身体芸術と操体」です。

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  • 見直しから観直しへ。

    おはようございます。

     

    今回のテーマは「 改めて見直してみる 」ですが、私は以前から何か文章を書く時、通常は「 見る 」と書くところを「 観る 」と書きたくなる衝動に駆られることがありました。

     

    通常、「 見る 」は物の形や色を目で感じる、判断するの意であり「 外を見る 」「 新聞を見る 」「 湯加減を見る 」などで使う。

    「 観る 」は見物する、眺める、鑑賞するの意で「 桜を観に行く 」「 芝居を観る 」などで使う事が多いという。

     

    しかし、宮本武蔵などは、目で見る「 見の目 」と心眼ともいうべき「 観の目 」を区別していたといいます。

    また、仏教では物事のうわべではなく、本質を見とおす事を「 観 」というのだという。

     

    操体治療医学に留まらず、健康でより良く生きる為の学問であります。学問といっても、文献を読んで研究するような学問ではなく、からだから学ぶ学問であります。

    橋本敬三先生は、著書の中で「 二宮尊徳は字に書いてない天地の書を読めと教えられたそうだが、これこそ本当の学問であろう 」と書いています。

    からだからの学びをとおし、見直しを重ねていくと人生観も変わり、観直しとなってくる、と感じます。

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    2019年春季東京操体フォーラムは4月29日の開催です。
    テーマは2018年秋に引き続き「身体芸術と操体」です。

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  • 改元より…2

    おはようございます。

     

    来月から元号が変わりますが、新しい元号の選定にあたっては、色々と苦労もあったと思います。

    それはいつの時代でもと思いますが、明治という元号はくじ引きで決めたというエピソードが残っているようです。

     

    この時代の元号の選定を任されたのは、幕末四賢侯の一人である松平春嶽

    松平春嶽が複数の元号候補を絞り込み、明治天皇御自ら、くじを引いて御選出されたのが明治だという。

    これは、維新政府が王政復古、祭政一致を国民に印象づけるため、あえて神託という形態をとったという見方もされている。

     

    しかし、別の見方も出来ると思う。
    春嶽も、考えに考え、見直しに次ぐ見直しを経て、元号候補を幾つかに絞り込んだと思う。
    しかし、どうしても一つには絞り切れなかった。

    絞り切れなかったというより、どれに決まってもそれぞれ良さがあり、どれに決まっても自分自身が納得いく、そこまで詰めていたのだと思います。

    そこまでやった上で「 すべてやる事はやらせていただきました、あとはすべてお任せします 」という放下の心。

     

    くじ引きで決めたというと、無責任な印象も受けるが、運を天に任すしかない時もあると思う。
    はじめから他力依存ではなく、天を尊びながら自分でやるだけやって、天に委ねる。
    そして、どんな結果だろうと納得して受け入れる。結果よりもそのプロセスが大事。

     

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    2019年春季東京操体フォーラムは4月29日の開催です。
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  • 改元より。

    おはようございます。

     

    今週は友松が担当いたします。どうぞ宜しくお願いいたします。

    今回のテーマは「 改めて見直してみる 」です。

     

    「 改めて 」という語から、すぐに連想されたのが改元ということでした。

    来月からは元号が、「 平成 」から「 令和 」に変わります。

    新しい時代の幕開けですね。

     

    「 令和 」を英訳すると「 Beatiful Harmony 」となるそうです。

    美しい調和。いい響きですね。

     

    美しい調和。それは絵画や音楽といった芸術の分野だけに限らず、人を思いやる心など、人が生きる生活の場に数多あると思います。

     

    画家のポール・ゴーギャンは「 私は、見るために目を閉じる 」と言ったそうです。

    これは、目で見るのではなく心の目で見る、と解釈される事が多い。

    しかし、心は移ろいやすいもので、情報にも左右されやすい。心の目を育む為には、相当な精進が必要になる。

    ここで見直してほしいのが、からだの感覚ということ。

    からだの感覚は、その対象を含めその場の印象を捉えています。それを抜きにして、心の目で、というのは性急過ぎる感があります。

     

    美しい調和。それを感じて感動し、新たな創造へつなげる。これは、五官からの感覚情報だけではなく、からだがききわけている感覚からの感動を、共に味わい、豊かな心を育む事ではないかと思います。

     

    日本では明治以降、時代を経るごとに、からだとの関係性、からだに対する意識というのが薄れてきたように思います。

    新しい時代に入る今こそ、からだのことを見直す時なのではないでしょうか。

     

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    2019年春季東京操体フォーラムは4月29日の開催です。
    テーマは2018年秋に引き続き「身体芸術と操体」です。

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  • 憶の快を想う。

    おはようございます。

     

    昨日、第3分析(D3)、渦状波®について少し書きましたが、実際に臨床で被験者(患者)の方の皮膚に接触し、そこから感じとれるものからは、メカニズム的に言い表せるものではなく、生命そのものの生といった印象を受けます。

    そして、操者(施療者)として触れている自分自身も、思考的意識が消えていき、こちら側もその感触をただただ味わっている状態となる。

    そして、操法終了後は、こちらも何か癒された気持ちになり、心もからだも軽くなっているのを感じます。

     

    10年以上前に、三浦寛先生は「操体臨床の道しるべ」という著書の中で

    操体は、自然法則の応用貢献の場である、太極という無極無限の宇宙現象創生の中心理念に基づいて、その生かされし救いの生命観に学ぶ場である。

     操体の臨床とは、快適感覚と一体となり、快に帰すことにある。操者の存在も快に帰して無になり成り立たなばならない。患者も操者もともに快に調和していくのである。それが操体臨床の成せるところなのである」

    と書いております。

     

    この文章、テクニック的に捉えて皮膚へのアプローチを行っている人ではなく、渦状波®または渦状波®から応用して皮膚へのアプローチを行っている人は理解できると思います。

    接触する指先にだって相応の意味がありますものね。

    そして、今回のテーマであった「憶の快」につうじるものがあると思います。

    これは、自分の立場から現象を考えるのではなく、からだの立場に立って、現象を現象とさせている実相に想いを馳せることが必要だと思います。

    実相とは何ぞや?

    それは、からだがしっている。「憶の快」とはからだの無意識が常に触れているものかも?・・・。

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。

    明日からは畠山裕美先生の担当となります。

    来週も東京操体フォーラム実行委員ブログ、よろしくお願いいたします。

      

    友松 誠。

  • からだがききわけてくる快。

    おはようございます。

     

    これまで、操体臨床の第1分析(D1)、第2分析(D2)について書いてきましたが、どちらも、被験者本人(患者)の意識関与が多分に関わっています。

    しかし、第3分析以降では、被験者本人の意識関与は遠ざけ、治しをつけてくるからだそのものに対する診断法に変わってきていると感じています。

     

    第3分析(D3)は、皮膚へのアプローチ、渦状波®となります。

    皮膚はからだをすっぽりと包み、外部との境界をなしていることから、一般的にはバリアー機能について語られることが多いようです。

    しかし、内部、精神との連関も密であり、第2の脳とか第3の脳とも呼ばれます。事実、臨床上最も重視している皮膚の表皮は、発生学的には脳と同じ外肺葉由来であるという。

     

    皮膚に関しての著書の多い傳田光洋氏は、著書の中で、

    「絶え間なく変化する環境の中で生きる存在にとって、その境界たる皮膚の方が、生命機能維持のみを考えた場合、脳より上位と言うことも可能かもしれません」

    と書いています。

    この文章から察するに、頭の脳と同じように、皮膚も様々な情報を処理して統合していると考えれば、頭の脳は思考優位の意識領域での働き、皮膚の方は無意識の領域で生命機能維持の為の働きをしていると感じます。

    そして、それぞれ特有の記憶を有しているのではないかと思えるのです。

     

    渦状波®を行っている時、その時空で被験者本人は、快のみをききわけているわけではないようです。

    時折、辛そうな表情を浮かべたりします。しかし、その表情は一時的なもので、次には満ち足りた表情にもなります。

    この時空というのは、からだが本人の生き方(意識)に合わせている状態から解放され、生命の本源と向き合う状態(無意識)になり、生命体としての記憶を整理しながら、バランス制御に向かっているのではないか?と感じます。

    操法後に、昔どこかを痛めた時のことを話してくれ、そこを触ったり動かしたりして確認して、こっちも良くなっていると仰ってくれる人もいますが、からだだって現在の症状が治まるバランス状態となるだけでなく、より根本から良くなるバランス状態となる事を望んでいるのだと思います。

    この場合は、からだがききわけてくる快、となるのではないか?と思います。

  • からだに快の質をききわける。

    おはようございます。

     

    一つ一つの動きから、からだに、気持ちよさをききわける第2分析(D2)において、大事なのは快感度の質をからだにききわけるということです。

     

    操体の病に対する捉え方は、

    からだが本来のバランスを保てず、不快な動きの方向に歪むと、
    気持ちが悪くなり(感覚異常)① → 動きも悪くなり(機能異常)①’+② → 壊れてくる(異質異常、破壊)①’’+②’+③というプロセスとなります。

    数字と数字の記号は、異常が進んでいくと、先にあらわれた異常も増幅されていくという事を表しています。エントロピーが増大すれば、それだけ痛みや辛さの不快感覚も増すということでもあります。

    ですが、このプロセスは有難いことに可逆性にもなっております。

    これを、第2分析(D2)に当てはめますと、

    からだにききわけた快適感覚を味わう事によって、からだがバランス制御に向けば、①の気持ち悪さが軽減、消失に向かい → ②の動きもよくなり → ③も回復の可能性が高くなる。

    この可逆性を可能とするのに重要となるのが、快感度の質という事になります。

     

    快のききわけも、どんな感じで気持ちが良いのか、その気持ちよさはからだの要求感覚を満たしているのか、といった快の質をききわけることが重要です。

    そして、からだの要求感覚を満たした快の質を味わう時空によって、その人特有の歪み、病へのプロセスを、からだが可逆変化させる為のバランス制御に向かうのです。

     

    快に問いかける診断法が体系化されてから、随分と年月が経ちますが、まだまだ一般的には気持ちよさで治る、良くなるという真実が、体験していただくまで判ってもらえない事が多いです。

    しかし、様々な病回復の可能性を高める為にも、ただ気持ちがいいだけでなく、どう気持ちが良いのかを、からだにききわけるという事は必要なことなのです。

     

  • まずは楽との袂別から-2

    おはようございます。

     

    操体法も初期の頃は、正體術をヒントに客観的に骨格、関節の構造を診て、運動系の歪みを修正する方法がとられてきた。 

    この、客観的に診るとは、本来は凄く熟練を要する事なのです。

    二者択一的に対なる動きを選択し、楽か辛いかの運動感覚差をききわけると言ったって、その二者択一的な動きをどう選択すればいいのか、客観的見地から行うとなると、とても奥が深いものなのです。

    機能解剖学的に局所の関節運動の知識はあっても、その動きがどう全体と関わって、全身に連動するのかという事になると、正確なことは判らなくなるし、それまで書物にもなっていない。長年の経験によるところが大きくなる。

     

    だから、操体法が一般に広まった時に、パターン化、マニュアル化という事も起こってきた。

    例えば、肩凝りであれば最初に、この動きを選択して二者択一的に楽か辛いか運動感覚差を分析し、同じように次はこの動きで二者択一的に分析し、次にこの動きを二者択一的に分析して、それぞれ楽な方に動かして→動きをタワメて→瞬間急速脱力するといったことを、2~3回行っていけば、大抵は良くなる、といった具合だ。

    これも客観的と言えば客観的なのかもしれない。客観的の意味には、みんなに共通したもの、みんなに共通して当てはまる、という意味もある。

     

    しかし、本来の運動系の歪みを修正する為の客観的診立てではなく、質はともかくとして、みんな誰でも簡単に行えるマニュアル化したやり方が先に広まってしまった。

    このマニュアル化したやり方は、みんな誰でもそこそこ成果をあげられるようにはなっているが、柳の下にいつもドジョウがいるとは限らないが如く、いい加減に行っていれば、いい加減な結果につながる。

    だから、効果を高めたければ、しっかり研鑽を積んでいく必要がある。

     

    研鑽を積むと言っても、局所関節、筋肉の客観的メカニズムや自分の知識、考えばかりを優先させた押しつけの臨床経験を積んでも意味がない。

    知識を豊富にする事は大事だが、客観的に診る事を突き詰めていけば、自然体からみてということであり、これは身体運動の自然法則を説いた般若身経と真摯に向き合い、まずは自分自身で自然法則に則った動きを体感する事。

    自然法則に則った全身が調和に向かう動きを体感し、それによって身体がどのように変化するのかを身をもって学んだうえで、相手がどうような法則違反をしてボディに歪みを生じさせているのか、その歪んだボディからはどのような動きが一番辛いのか、相手の身になって辛い動きの反対である整復復元コースを感じとっていく。

     

    そうやって感じとる研鑽を積んでいき、どの動きを選択して二者択一的に分析するかが判ってくれば、果たして二者択一的に辛い方にも動かす必要があるのだろうか?という疑問も湧いてくると思う。

    また、辛い動きの反対である、楽でスムースな動きの可動極限でタワメて、2~3秒後に瞬間急速脱力に導くという方法も、ツクリだけでなくツクリを構成させる内側の動きとの関連を考えれば、瞬間急速脱力できない人もいて当然であり、もっと安全でバランス制御に向く本質的な事柄に目を向ける必要がでてくると思うだろう。

     

    バランス制御に向く本質に目を向けた時、それを行うのは?

    それは操者(施療者)ではなく、バランスを崩す生き方をしてきた被験者(患者)でもない。

    それは、被験者の「からだ」なのだ。

    そして、からだには楽という選択肢はない。からだは快、不快という原始感覚を羅針盤として生命現象、バランス現象を展開しているのだ。

    このバランス制御に向く本質に気付いた時、従来の正體術の手法からヒントを得たやり方の決まり事を見直し、操体は自立への道を開くこととなる。

     

    明日につづく。

  • まずは楽との袂別から。

    おはようございます。

     

    東京操体フォーラム実行委員ブログ、今週は友松の担当となります。

    一週間どうぞよろしくお願いいたします。

     

    今回のテーマは「憶の快」となります。

    憶の快。この憶の快という言葉は、まだ操体関連の書籍にも載ってない新しい言葉です。新しいといっても、操体の深化に伴なった進化により、必然性をもって生まれた言葉ですから、まずはその経緯を知ることが肝要と思います。

     

    操体操体法創始者である橋本敬三先生の時代から随分と進化しておりますが、その進化の大きな要因として、「楽」から「快」へのシフトチェンジが挙げられます。

    楽から快へシフトチェンジした事で、はじめて操体操体法のヒントとなった正體術から自立していく事となる。

     

    創始者は、医師でありながらも様々な民間療法とも交流しながら、それらを自らの臨床に活用していた。そんななか、正體術との出会いもあった。

    そして、正體術の手法をヒントに、どちらが辛い動きで、どちらが楽な動きか、本人に運動感覚差を確認させ、楽な方へ動いてもらい、瞬間急速脱力するという臨床のとおし方を行うようになる。

     

    この臨床のとおし方(第1分析、D1)の目的は、ボディ(横紋筋系運動系)の歪みを正す事にあった。当時は、楽な動きでボディの歪みを正せば、おのずとバランスがとれて様々な症状、疾患に効果があると考えられていた。

    また、当時は人々の生活様式や暮らしぶりが、近年とはずいぶんと違っていたので、この臨床のとおし方でも十分に効果はあげられた。

     

    しかし、時代が進みにつれ、人々の抱えるストレスも多様化して増え、骨格を基礎とする横紋筋系運動系の歪みを正すだけでは対応しきれないケースも増えてきた。

    横紋筋系運動系を楽な方向に動かして歪みを正せば、おのずとバランスがとれて回復改善に向かう、では不十分。

    もっと緻密にバランスがとれるまでの経緯を、掘り下げて究明する必要がでてきた。肉体は横紋筋系(随意筋系)だけで成り立っているわけではなく、平滑筋(不随意筋系)もあり、それぞれ神経系統も違う。自分が楽と思う随意的な動きに、不随意筋系が常に協調してくれるとは限らないだろう。

    客観的に見て、ボディの見てくれがよくなっても、それが内部との調和に向いていなければ、本来のバランスがとれたとは言えないのではないだろうか。
    事実、それだけではボディの歪みの修正も一時的なものとなりやすい。

    時代が進み、ストレスの度合いも、精神的ストレス、内臓ストレスの占める割合いが大きくなってくれば、尚更だと思う。

    「楽」では、もう古い。
     

    明日へ続く、