カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • はじめての操体法・・・3

    おはようございます。

     

    もう10年ほど経つだろうか。

    「操体法って痛いんですよね」とか

    「操体法で痛くされた」といった電話による問い合わせが、頻発していた時期があった。

    すべて遠方の方からの電話で、実際に来院されたことはなかったが、考えさせられる面があった。

     

    操体法の実施施設のほとんどは、創始者の橋本敬三先生が初期の頃に行っていたツライ方から楽な方に動かして、2~3秒間動きをたわめて、瞬間急速脱力するという第一分析を行っているであろう。

    この行程のなかで、特に瞬間急速脱力は、被験者のからだの状態や体勢によっては、危険が伴うと思う。

    それを、操体法とは、こうやるものだという考え方で強行していると、痛くされたというふうになってしまうのかもしれない。

    また、操者(施術者)が操体法を単なる歪みを正すテクニックと考え、瞬間急速脱力の時に変に角度をつけて押し込んだりしてしまうのも良くない。

     

    晩年の橋本先生がみせてくれた操体法は、それまでの2~3秒間動きをたわめるとか瞬間急速脱力といった決めつけなどなく、あくまでからだ本位、からだの要求に従ったたわめの間、脱力の仕方だったという。

    勿論、その後三浦寛先生によって体系づけられた「気持ちよさをからだにききわける」第2分析では、第一分析でみられた操者の決めつけというのは一切排除されている。

    そして、痛みや不快を伴う様な動きは勿論なく、からだの求めるオクタント(極限安定率)を満たす動きから、からだに気持ちよさ(快適感覚)の質をききわけ、気持ちよさを味わう事を重視している。

    あくまで、からだ本位。これが第2分析だけでなく、後の診断分析法へのシフトアップにつながっていく。

  • はじめての操体法・・・2

    おはようございます。

     

    私が本格的に操体法を学び始めた頃には、すでに「ツライ動きの方向から痛くない楽な方向に動いてもらう」という診断分析法から「動きによる気持ちよさをききわける」という診断分析法に、操体法はシフトアップしていた。

     

    第一分析から第2分析へのシフトアップであり、これにより操体法が操体法らしいというか、創始者・橋本敬三先生の哲学、生命観を、臨床で応用するという本来のスタイルになってきたように思える。

    第一分析には、橋本先生が正體術からヒントを得て、有難くお借りしながら改良を加え、独自に発展させてきた経緯がある。

    その為、操者(施術者)主体の療法の側面が、まだ色濃く残っているように感じられる。

     

    これは、楽な動きの可動極限でたわめの間を設定する事然り、2~3秒動きをたわめたのち瞬間急速脱力に導く事然り、2~3回行うという回数の決めつけ然り、操者(施術者)の指示に被験者を従わせるかたちになっているのをみても分かるとおりである。

    治療家、医療関係者であれば、そんなことは気にも留めずに当然と思うかもしれない。

    しかし、橋本先生や、後に気持ちよさをからだにききわける診断分析法を体系化した三浦寛先生は、施術者が被験者を従えて、被験者は被験者のからだを従えようとする、その図式を嫌った。

    そこには、生命に対する尊重や大きな感謝をはじめとする想いがあった。
    そうした生命への想いは、橋本先生、三浦先生から、三浦先生に学ぶ私たちにも受け継がれている。

    施術者が治すのではなく、治るのはからだの元々持っている本来の健康状態に戻ろうとする力で治る。

    そこをはき違えて、施術者が「自分が治している」と思ってしまうと、おかしな事になってくる。

    操者(施術者)は、からだが持っている治癒能力を十分に発揮できるよう、その仕組みを真摯に学び、からだのお手伝いをする立場なのだ。

  • はじめての操体法・・・1

    おはようございます。

    実行委員リレーブログ、今週は友松の担当となります。

    どうぞ、よろしくお願い致します。

    今回のテーマは「はじめての操体法」ということでリレーしております。

     

    はじめての操体法。

    私がはじめて操体法を知ったのは、20年以上前になります。

    確か、まだ整体の専門学校に通っていた時であり、その時に聞いた「痛くない方に動かせば良くなる療法がある」という噂話程度の話に、いたく興味をそそられたのを覚えている。

     

    当時の私は、脊柱の配列異常で可動制限のかかった椎骨を矯正したり、局所的な筋肉を緩めたりといった施術者主体の手技療法を学んでいた。

    そんな私にとって、被験者自身が痛くない方に動いて、腰痛はじめ様々な症状を改善させるという考え方自体が信じられないものだった。

     

    当時、学生どうしで矯正の手技の練習をしていて、痛くされたり痛くしてしまったりというのは茶飯事であり、技術の未熟さはさておき、治療には多少の痛みはつきものという考えがあった。

    しかし、学生どうしならともかく、他の人に施すとなるとそうもいかなくなってくる。

    学生の練習に付き合ってくれる人となると限られてくるし、誰だって痛くされるのは嫌だろう。

    また、学校を卒業して技術を磨こうにも、経験のない者に直ぐに施術に入らせるような治療院もないだろう。

     

    手技療法の世界は、人様の役に立ちたいという志は高くとも、技術の習得には時間がかかるし、その習得の為の環境に恵まれている人も僅かだと思う。

    しかし、動きに着目し、痛みのある動きはその時点では、まだからだがやってほしくない動きと受け止め、痛くない方向に全身を操って動かせば、症状、疾患が良くなる療法がある。

    それが操体法だったのだが、随分と心惹かれたのが思い返される。

  • テーマ、健康と寿命・・・7

    おはようございます。

     

    先月お亡くなりになった松本零士氏の作品の中に「銀河鉄道999」,という漫画がある。

    この漫画は、主人公の鉄郎という少年が機械の身体をもらうために、メーテルという謎の女性と共に銀河鉄道の999号に乗って、銀河を旅する物語となっている。

     

    鉄郎は永遠の命を得る為に、機械の身体がほしいと望んでいた。

    しかし、機械の身体を提供してくれる星に到着し、実際に機械の身体となった人間を見て、愕然としてしまう。

     

    そこには、機械の身体を手に入れ、永遠の命をもったが為に、生きる目的や意義を失い、自堕落した生活に陥った人々や、時間を持て余す事に悲観して自殺してしまう人の姿があった。

    それを目の当たりにした鉄郎は、機械の身体で永遠の命となるより、限りある命を精一杯生きる方が幸せなのではないか、と考え方を改めるようになる。

     

    このシーンを、テレビアニメで観ていたのは、小学生の頃だったが凄く心に突き刺さるような感じがしたのを覚えている。

    このテレビ放送は、1970年代だったが何か令和の今の時代への問いかけのようなものを感じる。

     

    1970年代に比べて、今は平均寿命が随分と伸びている。

    また再生医療も進歩し、将来は機械の身体などではなく生身の身体で、永遠の命を手にする事も可能となるかもしれない。

    しかし、それが幸福な事かといったら、一概にはそう決めつけられないと思う。

    肉体が永遠となれば、生命も永遠であり幸福というものでもあるまい。
    心というものがあるのだから。

    この肉体を、自分のものとしている自我だけが心なのではない。

     

    自我を取っ払ってしまえば、この肉体は大自然から、有難くお借りしているものなのである。

    十分に生きて、いつか大自然にお返しするものなのである。

    そして、此の世を十分に生きたなら、彼の世に帰っていくのであり永遠のいのちなのである。

    だから、十分に生きるために、生かされし自然の理から学び、健康で愉、快に、少しでも長持ちさせて生きていく必要があるのだと思う。

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。
    来週は畠山裕美先生の担当となります。
    どうぞ、おたのしみに。

    友松 誠。

  • テーマ、健康と寿命・・・6

    おはようございます。

     先月、テレビのニュース番組を見ていて漫画家の松本零士氏の訃報を知った。

    番組では10分くらいの特集を組んでいて、松本氏の作品である「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」の紹介や、生前のトークショーの時の模様などが放映されていた。

    番組の最後では、後世に何を残していくべきなのかとして、以下のような直筆の色紙のメッセージが添えられていた。

    人は死ぬために生まれてくるのではない、生きるために生まれてくるのだ

    松本氏の子供時代には戦争があり、父は戦闘機のパイロットをしていたので、戦争の悲惨さをよく聞かされていたという。

    だから、この言葉には命の大切さや平和の尊さ、平和への願いが込められているという。

     

    そうした平和への願いの他にも、この言葉には、どう生きるかという問いかけが、含まれているようにも感じる。

    人は生まれてきたからには、いつかは死なねばならない。

    これは変えようもない事実である。

    この変えようもない事実から、どうせ死ぬのに何で毎日毎日生きなければならないのか?と疑問を持つ人も少なからずいるという。

     

    それだけ生きるのを辛く感じているのかもしれないが、あまりにも短略的すぎる感はある。

    生きていれば辛い事、悲しい事、不満、不公平感、自分を苦悩させる様々な事がある。

    それでも、現に生きて自分自身が存在している。

    苦悩していても、現に生きているという事は、それだけ生かされているという事でもある。

     

    自分で生きているという想いばかりでは、理想と現実のギャップに苛まれる。

    その苛まれる理由は、人為社会的環境に於いての自分を主体として想うからであろう。

    しかし、空間に在る自然環境の構成要素と自分のからだは、自分の想いがどんなでも全肯定して生かしてくれている。

    心の目を向けるべきは、そちらであり、これほど生きる自信につながるものはないのではないだろうか。

     

    人為、社会的環境というのは、どうしても比較対象を生み、その比較対象から自信をなくしたり、不平不満に苛まれたり、生きるのが辛くなったりする事もあるだろう。

    しかし、それでも有難く生かされている。

    橋本敬三先生の言葉をお借りすれば、元々救いの完成されている生命なのだから。

    そちらに目を向け、感じてみる。

    これは、健康、長寿の大敵である心的なからだへのストレス、息(生き)苦しさを無くしていくことにもつうじると思う。

  • テーマ健康と寿命・・・5

    おはようございます。

     

    来院していただいている被験者の方たちのなかに、健康の為に様々なエクササイズをしている人もいる。

    健康になりたくて取り組んでいる○○というエクササイズなのに、なかなか身心の不調が解消されないという。

    なぜ身心の不調が解消されないか。

    それは、生命エネルギー収支のバランスに適った事をやっていないからであろう。

     

    運動は健康に良いと昔から言われていて、運動そのものについての研究は各分野で細かくされている。

    しかし、その「動」が、この「環境」のなかで「息」にどう影響し、「動」と「息」によって生じる動きの流れが、感覚をとおして「想」にどう影響し、心とからだの関係に影響を与えるか。

    また、「動」と「息」によって生じる動きの流れの循環が、「食」からの消化、吸収、排泄にどう影響し、身体のつくりに影響していくか。

    そうような、からだの生命活動への影響まで考えているのだろうか。

     

    上記のからだへの影響は一例に過ぎないが、「息」「食」「動」「想」は同時相関相補性になっているので、「動」が自然環境に適応したものとなっていけば、他の「息」「動」「想」も、より良く変わっていき、生命エネルギーの収支バランスはとれてくる。

    すなわち健康につながるという事であり、健康が回復していく過程に於いて様々な不調は解消されてくる。

     

    バランスが大事なのであり、自然環境への適応抜きに「動」だけ自分本位に特出させようとすれば、バランスは崩れやすくなってしまう。

    「動」も、絶えず自然環境の間で行われている「息」との相関性が希薄になってしまい、動きの流れにも滞りが出来て、スムースにいかなくなり、身体を窮屈に使うようになってしまう。

    身体を正当に使えなくなってしまうという事であり、無理をすれば怪我もしやすくなる。

    運動や体操が健康に良いと言われるようになって久しいが、からだの動きと呼吸の相関性だけでも念頭に置いておく必要があると思う。

  • テーマ健康と寿命・・・4

    おはようございます。

     

    生命エネルギー収支のバランスをとり、いかに良く環境に適応するかが、健康の鍵となる。

     

    そこで橋本敬三先生は、自分自身で責任もって営まねばならぬ最小限の生命活動の営みである「息」「食」「動」「想」に注目し、それぞれの自然法則を究明し、その自然法則に合わせていくことで、誰もが健康で満足した人生が送れると説いた。

     

    究明した自然法則は『般若身経(健康の自然法則)』と銘打ち、ビラを刷って一般の人に配っていたこともあったという。

    その想いは「動」の身体の使い方、動かし方にしても、名人達人の域にならなくてもいいから、せめて間に合うように及第点を会得してほしいというものだった。

     

    「動」の身体の使い方、動かし方にしても、これをすれば○○病に効果があるといった一時期話題になるだけの○○病体操のようなものではない。

    重要なのは、「息」「食」「動」「想」のバランスと「環境」とが調和して、本来の健康体としての自分自身を取り戻していく事。

    そのバランス制御をするのは、自分のからだであり、自分の目論みだけでどうにかなるものではない。

    しかし、からだのバランス制御のサポートは、自分で出来る。

     

    そして、からだのバランス制御が十分に成されれば、自然環境に自在する生命エネルギーの素と生命活動の調和は密になり、生命エネルギー収支のバランスがとれ、本来の健康体を取り戻していく。

    ○○病への効果というのも、健康を取り戻す過程に於いて成されてくるものである。

     

    橋本先生が一般の人にビラを刷って渡したのも、からだのバランス制御のサポートをする為に、日々の生活の中で出来る範囲で構わないから、行ってみてくれという願いが込められていたと思う。

    「息」「食」「動」「想」は同時相関相補性になっているので、「動」が自然環境への適応に向いて変わってくれば、他の「息」「食」「想」も変わりながらバランスがとれてくる。

    「動」の身体の使い方、動かし方にしても、奥は深く追求していけばその効果の程は果てしないが、ビラに書いた事柄をやってみるだけでも、効果こそあれ損はないのだから、とにかくやじ馬根性を出してやってみてくれという想いだったと思う。

  • テーマ健康と寿命・・・3

    おはようございます。

     

    病気をしない事、イコール健康という考え方の人もいるだろう。

    しかし、実際はそんな二者択一的なものではない。

     

    健康な状態から病気に至るまでには、「息」「食」「動」「想」と「環境」とのバランスが乱れ、歪み(ヒズミ)が生じ、なんだか気持ちが悪い状態が続き、内臓含めからだの働きが悪くなる。
    そして、目に見えるかたちで器質的異常が確認されれば、病気の診断が下される。

     

    いきなり病気になるのではなく、病気にならない為にからだが感覚をとおして『生命エネルギーのバランス収支が「間」に合わなくなっているよ』とサインを送ってくれている間がある。

    そのサインに気づけないと、感覚的に気持ち悪くなり、気持ち悪さは次第に痛みを伴う警告へと変わってくる。

    この警告は、バランス収支が間に合わなくなるほど強くなっていく。

    こうした、からだからの感覚的な警告警報期を経て、病気に至る。

     

    だから、病気になってから、その病気に対しての治療行為を行うよりも、からだの発する感覚に早い段階から対応して、バランス制御に向くからだの求めに応じた事を行っていくのが、健康を保つうえで重要となってくる。

     

  • テーマ健康と寿命・・・2

    おはようございます。

     

    操体の創始者である橋本敬三先生の著書の中に「健康とは、個体の生命エネルギー収支のバランスがとれていて環境に適応する状態を言う」との一文がある。

     

    健康について、生命エネルギー収支のバランスの大事さは理解できても、環境に適応する事が健康につながると言われても、ピンとこない人もいると思う。

    それだけ自然環境と自分のからだとが、自分を生かしてくれているという事に、関心が向いていないのだと思う。

     

    この自然環境が在るから、自分が意識していなくとも、からだが息をつけてくれる。

    この事実一つとっても、有難く生かされていると言えるのではないだろうか。

    しかし、自分の頭の回路は、そんなの当然の事と処理して、社会コミュニティや暮らしの状況、経済状況といった社会的な環境の方に、関心が向いてしまうのが実情といった感がある。

     

    社会的環境に合わせるようにするのも必要な事だが、そればかりが先行するとストレスにつながってしまう。

    大抵は、そのストレスで生命エネルギー収支のバランスを崩し、健康を害しているのではないだろうか。

    元々の生命体の設計にミスはなく、からだは自然環境に適応するように有難く出来ている。

    有難く出来ている事を当然とせずに、有難く出来ている事を更により良く、無駄のないエネルギー循環のバランスに更新させていく。

    そこに、健康で充実した日々を送れる道筋があり、その上で寿命も長くなる。

     

    自然の理というのは、人間がどうこう出来るものではない。

    対して、人間がつくった人為、社会的環境というのは変えられるし、より良く変えていく必要がある。

    健康の為により良く変えていくのであれば、自然環境とからだの関係性からの学びを基に変えていくのが良いと思う。

    また、人為、社会的環境がどうしても自分自身に合わずにストレスであるならば、間をはかって距離を置いてみる、場合によったら逃げてもいい。

    生きているという事は、生かされている事でもあるのだから、それを忘れずにいるならば何とかなると思うし、もっと良くなっているかもしれない。

    自然環境と自然の理だけは、どこに行ってもそこに在るのだから。

  • テーマ健康と寿命・・・1

    おはようございます。

    実行委員リレーブログ、今週は友松の担当となります。

    どうぞ、よろしくお願いいたします。

    今回のテーマは「健康と寿命」ということでリレーしております。

     

    そもそも健康とは、どのような状態なのでしょうか?

    人それぞれ健康についての考え方、捉え方は違うと思いますが、操体の創始者である橋本敬三先生は、健康についてこう書いています。

    健康とは、個体の生命エネルギー収支のバランスがとれていて環境に適応する状態を言う。

    生命エネルギー収支のバランスとは、「息」「食」「動」「想」のバランスのことであり、元々の生命体としての設計にミスはなく、様々な環境にも適応していけるのだけれども、「息」「食」「動」「想」の営みのバランスが崩れれば、環境にも上手く適応できなくなり、様々な病気を誘発させる事となってしまう。

     

    生命体としての元々の設計にミスはなく、本来は自然環境に適応して、病気などせずに健康で満足した幸福な人生が送れるようにつくられている。

    しかし、人間の場合は人為的環境をつくり出すすべを得、集団による社会環境を形成して、他の生物には無い快適性や満足を得ようとしてきた歴史が続いている。

    その御蔭で私たちは今、便利な生活を営めているのは確かだが、その反面、自然環境への適応をとおした生命体としてのバランスの気持ちよさ、快適感、幸福感というのがわかりずらくなってしまっている感がある。

     

    社会の一員としての自分も大事だが、健康に関して考えるならば、生命体としてどのように生かされて生きている自分自身なのかという観点も必要。

    そうした観点に立てば「息」「食」「動」「想」のバランスが自然環境に適応する事が、いかに大事かが腑に落ちてくる。

    その上で、様々な環境に適応できるようにしていく。または、そうした観点からより良い人為、社会的環境をつくっていく事も肝要。

    健康で長生きするためには、人任せではなく、自ら創造していく姿勢も大切だと思う。