カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • テーマ山・・・4

    おはようございます。

    まわりの、なだらかな山々を見渡すと、鉄塔や送電線が増えたと感じる。

    スマホも5Gの時代だというし、自動車だって電気自動車が増えてきているし、電波や電力の供給の為には、それだけ必要なのかもしれない。

     

    山の景色を写真に撮ったりする場合は、鉄塔や送電線は邪魔に感じるが、案外、地域の風景には溶け込んできている感じもする。

    あまり乱立するのはいただけないが、目印になるとか、人間の手が入っている安心感のようなものはある。

     

    低山といえども、舐めてかかるとえらい事になる。

    奥に分け入れば、方向が分からなくなって、迷ってしまう事もある。

    事実、迷って歩き回っているうちに、足を滑らせて滑落して動けなくなってしまい、そのまま何日も発見されないという事故が、度々起きている。

     

    手つかずの自然の中では、一人の人間など無力なもので、今の時季は陽の傾くのも早く、道に迷えば大の大人だって心細くなってしまうのだ。

    そんな時、鉄塔なり道標なり人の手が加わったものや場所に着けば、ほっと胸を撫で下ろせる。

    また、助けを呼ぶにしても、鉄塔に記してある情報は役に立つ。

     

    乱開発による自然破壊はいただけないが、自然の立場を尊重し、自然から学ぶ。
    そして、自然と共存共生する為の智慧を出し、自然に手を加えるのは必要な事だと思う。

  • テーマ山・・・3

    おはようございます。

    先月までは青く見えていた浅間山も、暦が進んで霜の降りる時季になれば白くなり、青い空のなかで一際その存在感をはなっています。
    浅間山(wikipedia)

    傍で、ぽつんと浮かぶ白い雲はご愛敬。

    まわりの低山も少しづつ紅葉が始まり、素晴らしいコントラストです。

     

    たまには写真でも撮ろうかと構図を考える。

    そこで、どうしても気になってしまうのが、山に立つ鉄塔と横切る送電線。

    最近やたらと増えたように感じる。

    そのまま風景を生で見ている分には気にならないのだが、写真に撮って素晴らしい景色を見せたいと思うと邪魔に思えてくる。

     

    目的意識によって、そこにあっても気にならないものも、排除の対象となってしまう。

    これは、考え方によっては怖ろしい事でもある。

    昨今の世界情勢も、何か危うさを感じる。

    目的意識が覇権主義に向かぬよう願うばかりである。

     

    また、人様を診させていただく時も、診る側の目的意識によっては、バランスを崩す要因となっている歪みも、何か必要あっての歪みも、診たて方が変わってきてしまう。

    からだにとっての、正しい目的意識を持つという事は、大切だと思う。

  • テーマ山・・・2

    おはようございます。

    ふと、遠くを眺めれば、そこに山々があった。

    遠くの山々は高く青く、空の青とも上手く調和しながら、その輪郭は何か神々しさがあるようにも感じられる。

     

    遠くの山が青く見えるのは、空気と光が関係しているという。

    山との距離が遠くなるほど、その間にある空気の中の微粒子も含めて見ることになるが、その空気の中で微粒子が波長の短い青い光を四方八方に反射しているからだという。

    これは、レイリー錯乱と呼ばれているそうだ。

     

    そう聞けば「へ~、そうなんだ」と頭の知識欲が満たされた気分になる。

    しかし、それで終わりにしてしまっては、何か自分の思考本位なだけのようで、もったいない気がする。

     

    自分が、遠くの山を見て神々しく感じた、その感覚から生じる感情や想念も大事だと思う。

    この風景は、気候、風土、植物の呼吸が幾重にも重なって醸し出している。

    その絶妙のハーモニーに触れた時に感じる自然の幻想的な美しさ。

     

    その美しさは、自分を生かしてくれているものの美しさでもある。

    普段は気にかける事もないが、確かに自分を生かしてくれている存在たちのハーモニー。

    そのハーモニーに触れた時、なんだか有難いという気持ちが満ちてくる。

    自分本位で頭を働かせて、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりしている自分にとって、そのハーモニーとの触れ合いは癒しであり、気づきの場面でもあると思う。

  • テーマ山・・・1

    おはようございます。

    実行委員リレーブログ、今週は友松の担当となります。
    どうぞ、よろしくお願い致します。

    今回のテーマは「山」ということでリレーしております。

     

    私の住むところは、関東平野の端の方に位置していまして、四方を眺めれば必ず大なり小なりの山があります。

    そして、その山々は、すべて違う表情をしています。

     

    近くのなだらかな山々は、木々の様子がよく分かり、そろそろと紅葉が進んできている様子。

    遠くの山々は高く青く、空の青とも上手く調和しながら、その輪郭は何か神々しさがあるようにも感じられる。

     

    これからの季節、近くの里山に分け入り、落ち葉をサクサク踏みながら、紅葉を愉しむのも良い。

    それも良いのだが、それでは目的意識が山ではなく、紅葉狩りに向いてしまう。

    山に入る者は山を見ずという言葉があるが、それでは山の一部、山の持つ一面しか分からなくなってしまう。

     

    内部に分け入って、細かくみようとするのも大事だが、いったん離れて遠くから全体像をみるという観点も必要。

    これは、からだを診させていただく、ひいては操体の学びにもつうじる事だと思うのです。

  • テーマ「海」・・・7

    おはようございます。

     

    海は地球の表面の70%を占めているという。

    数字でみても、海は広い。

     

    しかし、この数字は地球の表面積に対する海の割合であり、質量となると地球に対しての海水の割合は0.02%くらいになってしまうという。

     

    陸で生活を営む小さな私たちからすれば、海はとても大きな存在だが、それでも貴重な存在なのだと感じさせられる。

     

    46億年前に誕生したという地球。
    その地球が、大気とともに何億年もかけて海をつくり、成分をより良く調和させながら、ずっと保ち続けてくれている水分。

    その御蔭で、様々な生物の繫栄につながった。

    勿論、私たち80億人も恩恵を受けているし、地球の無償の愛というか、地球と生物の結びというか、その0.02%が無ければ生存すらしていないであろう。

     

    目に映る大海原は、無尽蔵のようにも見えるが、汚したり無駄に出来ない貴重なもの。

    70%でもあるが、0.02%でもある。

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。
    来週は畠山裕美先生の担当となります。
    どうぞ、おたのしみに。

    友松 誠。

  • テーマ「海」・・・6

    おはようございます。

     

    海は大きく、広く、そして深い。

    陸から見ているだけでは、その大きさや広さはわかっても、深さは潜ってみなければわからない。

     

    私はスキューバダイビングをやった事は無いが、話を聞くと陸の世界にはない素晴らしさがあるという。

    しかし、その素晴らしい世界も海の深さからしたら、表層のごく僅かに過ぎない。

     

    海も水深200mより深くなると深海と呼ぶという。

    水深1万mを超える海溝もある中で、この水深200mより先の深海の世界は、よくわかっていない謎めいた世界だという。

    人類は、50年前にはアポロ11号で大気圏を超え、38万km先の月に到達しているというのに。
    自分たちが生活している地球の、それも目の前にある海の200mから先の深い世界がわかっていない。

    大変興味深く、面白いことだと思う。

     

    これは、人間にも当てはまるのではないかと思う。

    人間も、うわべの自分のことはよく知っているが、ちょっと奥を深堀りすると途端にわからない事が多くなる。

    自分のからだや、心の奥底に関してもそうだと思う。

    常識としての知識だけで、表面的に解ったつもりでいても、そこから更に掘り下げてみると、わかっていない事が多いことに気づく。

    それでも生きていられる。

    それでも、生かされて生きているのだから、感謝するしかないのだと思う。

  • テーマ「海」・・・5

    おはようございます。

     

    波動という言葉がある。

    これを、辞書にあるような物質の物理的現象としてではなく、物質が物質として成り立つ為のエネルギーの元という捉え方をしてみる。

     

    橋本敬三先生の、創健会における講演録には、以下のような記述がある。

    「波動は、プラス(+)とマイナス(-)という二つの異質なものが存在することによって、その引き合いや跳ね返しにより、そこに動きの波ができる、これがエネルギーとなるわけです」

    こう話す前に、以下のようにも話されている。

    「生命現象は有機の世界で行われますが、有機のもとは無機であって、原子の世界であります。原子のもとが素粒子だとか中間子、電子だとか言われますが、これはエネルギーから発生するものだそうで、エネルギーは波動から生まれます」

     

    生命現象はじめ、森羅万象あらゆるものには、元の元の起源がある。

    この元の元を辿っていくと、必ず異質なものどうしが親和したり反発したりしながら調和し、エネルギーを生み出していくという過程がある。

     

    それを想えば、自分の思い通りにいかない事があるのは当然と思える。

    自分と反対意見があって良い、あって当然。

    波風の無い方がおかしいのだ。

     

    此の世を創造した無極無限の創造主は、愛と調和の意志でプラス(+)とマイナス(-)を設定したという。

    波風が立っても、より良い調和の方向性は必ずある筈であり、そこからまた進化、発展への展望が開ける。

    海は、そうした事も教えてくれているようにも感じる。

  • テーマ「海」・・・4

    おはようございます。

     

    「情報の海」という言葉を聞くようになって久しい。

    私が子供の頃の昭和4、50年代というのは、インターネットなどなく一家に一台テレビがあるくらいで、その他に詳しく情報を得ようとすれば新聞や雑誌、専門誌を購入するしかなかった。

    しかし、今はスマホ一つあれば大抵の情報が得られる。

     

    随分と便利になったと感じるが、あまりにも情報が膨大になりすぎて、その情報の海に溺れていると感じる時もある。

    何か資料を探している時など、直ぐに「これ」というものにたどり着けずに、さんざん読んだ挙句に探している内容とは別物と気づく、それを何度も繰り返していると随分と消耗させられた気分になる。

    また、ネットの情報にはフェイクなものもあり、真贋の見極めが大切。

     

    その真贋に見極めは、頭の知識や思考だけでは不十分だと思う。

    誰もが考えるだけで生きているのではなく、感じて生きているという土台があって考えが成り立っているのだから。

    からだの感覚というのは無視できない。

    これは、骨董品などの目利きにもつうじると思うが、鑑定人というのは目を含め感覚器がそれに触れた瞬間に、企みがあるものは違和感を感じていると思う。

    それの理屈なり説明は、後から本物と比較対象した考えなのであり、最初に受けた感覚の方が優先されていると思う。

    しかし、まわりで見ている人からすれば、理屈のウンチクの方が興味をそそられる。

    興味をそそられて、知識だけで同じような事をしようとすれば失敗する。
    そんな単純で生易しいものではない。

     

    しかし、単純で生易しいものでなくとも、シンプルではある。

    自分が受けたからだの感覚を受け入れるか、受け入れないかだけなのだから。

    もっと、からだというものを尊重して良いし、もっと信頼すべきだと思う。

    からだには、無意識の状態でも生命を生かす力、活かす力が宿っている。
    また、人類共通の良心につうじるものも宿っているようにも感じる。

     

    ネットの情報には、フェイクや自己利益に向けて他人を騙そうとするものもある。

    頭の知識の独断ではなく、からだ(良心)にききわけ、真贋を確認するのも大切だと思う。

    情報の海を航海する羅針盤にも、からだにききわけるという姿勢が必要。

     

  • テーマ「海」・・・3

    おはようございます。

     

    先日、コンビニでトイレを借りようとしたところ、先客があったので近くにあった雑誌をパラパラとめくっていました。

    すると「昭和の夏休み」と題した写真の特集があり、当時の海水浴の状況が写し出されていました。

    子供から若者、中高年の皆さんまで、とにかく楽しそう。

    そして、密、密、密のイモ洗い状態。

    今のコロナ禍の状況からは、考えられないような混雑と盛況。

     

    思い返せば、私が子供の頃の昭和4、50年代というのは、一億総中流と呼ばれた時代であり、衣食住の暮らしの水準がみんなと同じでなければ嫌だ、同じようだけどちょっとだけ優越感を持ちたい、みんながそういう意識を持っていた時代だったように思う。

    車にしても、どこの家でも持つようになれば、うちも持たなければならない、どうせ持つなら付加価値の付いたものがいい。
    当時、車の窓ガラスは手動式が多かったが、どうせ買うならパワーウィンドウの付いたのがいいとか。

     

    レジャーにしても「夏と言えば海」というのが、決まり文句のようであった。

    軽井沢などに別荘を持って山の方に避暑に行く人は対象外で、ほとんどが「○○さんちが海に行って来たみたいだから」と、海に行って何をしたいかではなく、とにかく「海に行く」その事を主目的としていたように思う。

    そして、○○さんちが三浦海岸だったから、うちは湘南まで行ってみたとか、距離的に遠くまで行った方が何か自慢げだったりした。

     

    それでも、海に行ってしまえば非日常的な解放感を感じて、子供たちは大はじゃぎ。イモ洗い状態の混雑もなんのその。

    一方、引率のお父さんはぐったり。砂浜にビニールシートを広げて「面倒くせえなぁ」と思いつつ日光浴。

    それでも、自然の中に肌を晒すという非日常的な時間を過ごすうち、知らず知らずに海に癒され、元気が出てきて、帰る頃には遊び疲れた子供たちに向かって「また来ような~」とか言っちゃったりして。

    海には、そんな魅力もある。

  • テーマ「海」・・・2

    おはようございます。

     

    私は、海なし県の内陸に生まれ育ち、子供の頃は海とはあまり縁がなかった。

    それでも、20代後半の頃、横浜に住んでいた時はバイクでよく海を見に行っていた記憶がある。

    横浜から国道16号を横須賀まで進み、観音崎手前の馬堀海岸の堤防でよく海を眺めていた気がする。

     

    当時は、今の仕事ではなく会社勤めをしており、中間管理職の立場にあったので、とにかく人間関係での精神的ストレスを感じる事が多かった。

    他の人からすれば「そんな事で?」というような事柄も、当時の自分としてはプレッシャーであり、ストレスだったと思う。

    そのストレスは酒を飲んだりしても解消されず、酔いが醒めれば増幅されるような感じだった。

     

    そういう時、海を見ていると何だか安らいだ。

    ただただ30分くらい、潮風にあたり波の音をききながら、ぼんやり海を眺める。

    その間も嫌な事が思い浮かんでくる。

    しかし、思い浮かんでは来るが、嫌さ加減が少しづつ軽減されていくのを感じた。

    何か、からだをつうじて「許す」という感情が心の大勢を占めてくるようにも感じた。

    やはり、許せないという気持ちが続くと、自分自身もツラクなるのだと思う。

     

    たまには大きな海を見て、自然の大らかさを感じ、自分の心の小ささを鑑みることも大切だと思う。