カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • テーマ「うらおもて」・・・7

    おはようございます。

     

    裏と表の二面性、それは白か黒かというような、どちらが良くてどちらが悪いとか、どちらが正しくて、どちらが正しくない、というような二面性ではないと思う。

    どちらも双方が良いのであり、環境や状況に合わせてどちらかが表立った活動をすれば、それをどちらかが裏方にまわり支える。

    これがスムースにいけば良いが、なかなかそうもいかない。

    これもバランス現象であり、完璧を目指そうと必要以上に頑張ったり、欲張ったり、どちらかが威張ったり、どちらかがどちらかを縛ったりすると却って良くない。

    それでは、白と黒かの関係性のように、2つのものの対立関係になってしまうように思える。

     

    元々一つのものの2面性が裏と表に表れているのだから、意見や意向が対立状態のまま分断されてしまえば、元々の一つも破滅に向かってしまう。

    白の意見と黒の意見、それぞれ捨てがたいものがあるかもしれない。

    しかし、この世界は白黒の世界ではない。色彩豊かな世界であり、考え方や意見だって多様性に富んでいる。

    他の見識も取り入れて、双方が納得したうえで、環境や状況に適応しながら個性を発揮できれば良いのではと思う。

     

    黒い髪の若い人もいれば、白髪の年配の人もいるし、黄色い肌の人もいれば、赤い肌の人もいて、それぞれ調和のとれた個性を表現している。

    色々な個性の調和があるのだから、学ぶべきもの、取り入れるべきものは沢山あると思う。

     

    最近、知った言葉で下記のようなのがある。

    この地球は祖先から譲り受けたものではなく、子孫からお借りしているものである

    この言葉は、アメリカ先住民に伝わる言葉だという。

    一般的な考え方からすると過去と未来、焦点の当て方が裏表逆転しているように思えるが、エネルギー問題にしろ、環境問題にしろ、一人一人が出来るちょっとした行いを納得して行えるような、そんな言葉のヒビキが感じられる。

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。
    来週は畠山裕美先生の担当となります。
    どうぞ、おたのしみに。

    友松 誠。

     

  • テーマ「うらおもて」・・・6

    おはようございます。

     

    「ウラかオモテか」と選択を迫られると、白か黒かというような相対するような発想になりやすいと思う。

     

    白か黒かということでいえば、師匠が黒と言ったら白いものでも黒になるというのが思い浮かぶ。

    これは一見、師匠が無理強いをしているような印象を受ける。

    しかし、そうではなく、弟子の了見の狭さに対する指摘であったりする。

     

    白いものも光が当たっているところは白く見えるが、光の当たらないところは闇と同化して黒く見えるように、環境や状況に応じて変化しているわけであり、観点が変われば白いものも黒くなる。

    自分の固定観念での決めつけで、色付けするのではなく、本質や真理と向き合えという意味もあると思う。

     

    本質と向き合う姿勢になってくると、裏と表も相対して両立しているという一見の固定的捉え方ではなく、調和した一つのものが2面性を表しているという捉え方も育めてくる。

    環境に適応しながら、どちらも陰になり日向になり支え合っている。

    これは心とからだの関係性にも当てはまり、そうあるべきだと思うが、大抵は心の自分本位となっているのではないだろうか。

    そういう意味でも、操体で昔から重視している、からだにききわけるという事は大事であると思う。

  • テーマ「うらおもて」・・・5

    おはようございます。

     

    私たちの身体は、60~70兆個の細胞から成り立っているという。

    その細胞一つ一つも、細かく突き詰めていけば、その成分は分子の集合体であり、ここまでくると生物と非生物の区別もなくなってくる。

     

    そして、分子は原子から成っている。
    この原子の世界まで細かく突き詰めれば、生物と非生物の区別はもとより身の回りにある全てのものと自分自身も区別がなくなってくる。

     

    その原子は、陽子と中性子からなる原子核と、その周りに雲のように散らばる電子からなっているという。

    この構造は、ものすごく細かく小さいけれど、スケールはもの凄く大きい。

    そのスケール感は、仮に直径10cmのリンゴを原子核だとすると電子の周っている直径は10㎞の洞爺湖くらいとなり、その大部分が空間になっているという。

     

    私たちをはじめ、身の回りの見て触って実感できる物も、全てが、元を辿れば大部分が空間になっている原子から成り立っている。
    そう聞くと、普段の日常生活での実感とは裏と表が逆転しているようにも思える。

     

    しかし、空間が無ければ力もエネルギーも用を成さなくなるようにも思える。

    例えば、陽子と中性子をくっつける強い力というのは、ある程度の距離がないと力を発揮できないという。

    原子の中の空間。これは虚無ではなく、力やエネルギーの場の生成を可能とする空間であり、無限の可能性を秘めた空間でもあるように感じられる。

     

    では、その無限の可能性を秘める空間、あるいは場を提供しているのは誰なのかというと、神仏とか人智を超越した存在になってくるのではないだろうか。

    神は無極無限であり「愛と調和」という意志でもって、万物、宇宙現象を創世したと橋本敬三先生は説いている。

    空間には「愛と調和」が満ちているから、無限の可能性が広がっているのではないだろうか。

    また、私たち含め此の世の全てに「愛と調和」の意志は、貫通していると思えるのです。

  • テーマ「うらおもて」・・・4

    おはようございます。

     

    唯物論的な考え方が優位であれば、私たちの身体も単なる肉体になり下がってしまう。

    その肉体は、60~70兆個の細胞から成り立っている。

    あまりの数ゆえ、この事実は漠然とした数字として受け止めがちである。

     

    しかし、改めて考えてみれば凄い事なのだと思う。

    これだけの数が、調和に向けて常に結びついている。

    その目に見えない結びがあるから、人間として個を保っていられる。

    目に見える(確認できる)表面的なものだけが全てではない。

     

    肉体を構成する一つ一つの目に見えるものも大事だが、目に見えない結びもそれ以上に大事だと思う。

    では、その結びは誰が定めたのか?

    そう定めたのは、当の人間ではない筈。

    人間を超越した存在が自在しているからなのではないだろうか。

     

    橋本敬三先生の「この生命の源となる神仏から隔絶して自己をとらえてはならない」という言葉も、そうやって考えていくと腑に落ちてくる。

    操体を学ぶ私たちが、身体と漢字で書かずに、からだとひらがなで表現したくなるのも、物体的なものだけでなく、それを陰で支える結びやその法則性といったものを重視し、そこに神性を感じているからなのだと思う。

  • テーマ「うらおもて」・・・3

    おはようございます。

     

    今回のテーマは「うらおもて」ですが、このテーマをはじめに聞いた時に脳裏に浮かんだのが、橋本敬三先生の唯心的な生命観、世界観でした。

    この独特な生命観、世界観は、三浦寛先生が修行時代に、折に触れてよく話されていた事なのだと聞く。

    操体法~生かされし救いの生命観~という本の中から、その一部を抜粋します。

    肉体を自我だと思い込み、あるように見える現象や、現象として写し出される存在のみが実在だと信じている限り常に自己防衛の恐怖から逃れることはできない。

    五感に映る肉体のみを生命と思い込んではならないのである。

    この生命の源となる神仏から隔絶して自己をとらえてはならない。

    神仏と一体になれることは無限の富の後継者なのである。

    神は自分の像(似姿)のごとく人間を創りたまえけりとある。

    つまり見返りを求めることなく無条件の愛のもとに神の喜びとして創造した生命だというのである。

    神と人間は神人合一の立場にあるのだ。

    新約聖書エペソ伝第二章に、世の創の前より我らをキリストのうちに選び、愛をもって我が子となさんことを定めたまえり、とある。

    このことは、この生命は天地創造より前から生命そのものである、ということを宣言しているのだ。

    人間の生命そのものは生まれる前から救いが完成されている命である。

    この救いとは絶対であり、絶対の無罪宣告であり、神性相続権である。

    唯物論的な考え方が主体の今の時代では、橋本先生の上記のような生命観、世界観というのは理解しがたいかもしれません。

    一般的な認識の表と裏が逆転している訳ですから。

    しかし、理屈でどうこう言うよりも、人間の尊厳とか、人間としての自信とか自己肯定感とか、唯物論的考え方よりも唯心的な橋本先生の哲学の方が、幸福な生き方にとって有用と思えるのです。

  • テーマ「うらおもて」・・・2

    おはようございます。

     

    お正月にあたり、誰もが年神様を快く迎え入れている事と思います。

    暮らしの様式が変わり、昔のような風習が見られなくなっても、お正月や年神様を祝う気持ちは変わっていないのではと思います。

     

    正月を祝う気持ちがあれば、年神様は一緒に祝ってくれるし、立派は門松を飾らなければきてくれないというものではないであろう。

    年神様が門松の立派さや鏡餅の大小で、行く行かないを判断しているようには思えない。

    そんな裏の腹黒さはあろうはずがない。

     

    ただ、年神様が来やすいようにする気づかいや優しい気持ちは大切だと思う。

    自分の出来る範囲で、心を込めて気づかいを形にすれば良いのだと思う。

     

    また、神様が見返りによって、御利益のさじ加減を変えるなどという事もない筈。

     

    そもそも神様の御利益は、此の世に生存しているという時点で十分にいただいているのではないだろうか。

    それを人間は、まだ上手く活用できていないのであり、それを健康や幸福という観点から成さんとしてきたのが橋本敬三先生であり、操体なのです。

     

    操体は、橋本敬三先生の意志を継ぎながら進化してきました。

    その進化の中心となって進めてきたのが、橋本先生の遺志を継いだ三浦寛先生であります。

    三浦寛先生が今、提唱しているのが「新重心理論」ですが、これによって有難くいただいているものを、しっかり活用できるように成ると感じます。

    それが本来の健康や幸福につうじ、本来の健康になっていく過程で必然的に症状、疾患からの回復、改善があるのです。

  • テーマ「うらおもて」・・・1

    明けましておめでとうございます。

    本年も東京操体フォーラム実行委員リレーブログをどうぞ宜しくお願い致します。

     

    今週は友松の担当となります。

    テーマは「うらおもて」ということでリレーしています。

     

    今日は元旦。

    元旦は一年のはじまりであり、一年のはじまりには年神様を向かい入れる風習がある。

    年神様を向かい入れるために、門松やしめ縄、鏡餅、正月飾りを飾ったりする。

    こうした飾りには、シダ類の細かい葉っぱが無数についた裏白というのがついている。

     

    裏白は、その名の通り、葉っぱの裏側が白くなっているから裏白。

    裏白を一緒に飾るのは、心に裏表がない清廉潔白、裏を返しても心は白いということを表しているのだという。

     

    しかし、そのまた裏を返せば、人間の心には裏表があるという事を示唆しているようにも思える。

    心の裏、裏の心とは何なのだろうか。

    その一つには、何かをしようとする裏で対価や見返りを求める心があるという事。

    これは、確かに誰にでもあるし、なければ人間社会、特にビジネスなどは成り立たないであろう。

    しかし、見返りばかり求めたり、対価の比較ばかりしていると、自分の気持ちよい行いも気持ちよくなくなってしまったり、素晴らしい生き方をしていても素晴らしさが霞んでしまう。

     

    見返りを求めるとか、対価の比較が悪いというのではなく、そこに囚われてしまうのが良くないという事。

    本来的には、生きているだけで素晴らしい事であり有難い事なのだから、そこに心を向けてみる。

    どんな状態、状況であれ年を越して新年を迎えられた事は確かなのであり、この根本的事実には裏も表もない。

    そこにあるのは、生かされて生きているという感謝と、その事実に基づく自信と満足。

     

    真っ新であり、明けましてであり、誰もが年神様とともに祝える御目出度うのハーモニーなのだと思います。

  • テーマ山・・・7

    おはようございます。

    日本は四方を海に囲まれた島国であり、その国土の大半を占めるのが大小の山々。

    そして、大小の山々それぞれが宝の山。

     

    宝の山といっても、そこに埋蔵金が埋まっているわけではない。
    (埋まっているかもしれないが)

    山は、その気候風土に相俟った植物、森林を携え、川を生じさせ、清らかな空気や水を育んでいる。

    そこから受ける恩恵は、埋蔵金の比ではない。

     

    森林と一体化した山、そこに生じる生態系からの採集、狩猟は、いにしえの人達にとって貴重な食料源であったであろう。

    いにしえの人達は、やがて稲作をはじめるが、稲作にとって重要なのが水の確保。

     

    水にしても、雨や雪を山が一旦蓄え、土の中で浄化させているから清らかでおいしい湧き水となる。

    湧き水は、山の傾斜により所々より湧き、それが川を生じさせる。

    そうして出来ている川であるから、川は平地で大きくなっても水の流れが保てている。

    その御蔭で、稲作も盛んになっていった。

     

    そして、時代が進むにつれて稲作だけでなく、平地での水の流れは物流の流れを生じさせ、様々な産業の発展にも寄与していった。

    そうした発展も、元々をたどっていけば豊かな山々となる。

    また、世界の文明の発祥には大河あり、とよく言われるが、その大河も山々がなければ生じない。

     

    こうして考えていくと、山の恩恵はすそ野が広がるように広く、大きなものに思える。

    日本には、山に感謝する風習が地域ごとにそれぞれあるが、素晴らしい事だと思う。

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。
    来週は畠山裕美先生の担当となります。
    どうぞ、おたのしみに。

    友松 誠。

     

  • テーマ山・・・6

    おはようございます。

    私は、月に何度か湘南新宿ラインを利用して、東京まで出かけている。

    大抵は日曜日で、朝の7時10分ぐらいに新宿駅で3分ぐらい停車してから渋谷方面に向かう電車を利用している。

     

    新宿駅でよく見かけるのが、登山服姿のシニア世代の人達。

    けっこう登山服がきまっている。

    高尾山にでも行くのだろうか?

    高尾山 – Wikipedia

    高尾山だったら京王線で1時間くらいだろうか?

    東京都といっても山はある。

    銀座に山を買おうとしても山は無いが、都心を離れ西の方に行けば風光明媚なところは沢山ある。

    高尾山もそのひとつであり、高さはそれ程でもないが、頂上まで行けば色んな風景を見ることができる。

    今の時季であれば、晴れていれば空高く空気も澄み、富士山も良く見えるだろうし、都心のビル群も綺麗に見えるだろう。

     

    生で見て、味わうという事は必要な事だと思う。

    その景色と、一体化してつながっている空気を、網膜、皮膚をはじめ全ての感覚器で触れて、味わう。

    心の奥底に、優しくヒビクなにかがある筈だ。

    これは、デジタルデータの光の点滅画面を見るのとは、違う筈なのだ。

     

    電車に乗っていた登山服の人達は、新宿駅に着くまで、にこやかに窓の外を眺めており、スマホを見ている人はおらず、これから味わう風景に期待を膨らませているようでもあった。

    しかし、それ以外の車内の大抵の人達は、スマホの2次元の世界に夢中になっている。

    どちらが、心の豊かさにつながるのだろうか?

     

  • テーマ山・・・5

    おはようございます。

    日本三大奇景の一つとされている妙義山は、今日もゴツゴツとした岩肌をさらしつつも、やさしく周囲を見渡しているように感じられる。

    妙義山 – Wikipedia

    以前、操体の学びの同志の方が、こちらに尋ねてこられたことがあった。

    その時に妙義山を見て、鋸のような山と形容していたのが印象的だった。

    確かに、山のてっぺんがギザギザしている。

    それが、ちょうど私の家の方から見ると、ギザギザの高さが平均して鋸のように見えるのだ。

     

    実際には、いくつもある山のてっぺんは均一ではなく、見る角度が違えば随分と違ってくる。

    実際の高さはそれぞれ違うのだけれど、私の家の方からは平均して鋸のように見える。
    そう見せてもらっている事に、何かを教えてもらっているようにも感じる。

     

    鋸は、歯が一つでも欠ければ、他が切れ味鋭くとも、途端に切れ味が無くなってしまう。

    また、ギザギザした歯が均一ではなく、高さを主張したり、小さく萎縮したが歯があれば、鋸の用は成さなくなってしまう。

    人間組織もそうだと思う。

    個人それぞれは個性があって良いが、何か目標や目的があるならば、個性の良い面や悪い面を互いに尊重して補い合い、全体が調和しながら合目的となれば、より良い成果がもたらされる。

    また、縁あって同じ目標を持ったのだから、欠ける事のないようにしなくてはならない。

    鋸のようにギザギザに見える山は、そう教えてくれているようにも感じる。

    そう気づかせてくれた同志の方にも、感謝であります。