カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 何を学んでいるのか・・・6

    おはようございます。

     

    朝、テレビ番組のニュースを見ていると、最近はAIによる自動音声でニュ―スを伝える場面が多くなったように感じる。

    人間のアナウンサーが端と端に2人いるのに、わざわざAIによる自動音声でニュ―スを伝えている。

    数年前ならば、自動音声というと何かロボットじみた喋り方で違和感があったが、最近のはテロップの説明がなければ、人間が喋っているようにも聞こえる。

    AIの学習能力に感心しつつも、アナウンサーがいるのにAIにやらせている事に対して、「アナウンサーはちゃんと仕事しろ、受信料払わんぞ」と、どこかのオジサンからクレームが入らないのかと少し心配にもなってしまう。

     

    AIによる自動音声でニュ―スを伝えるメリットには、番組の時間尺どおりにニュースを読み上げられる事があるという。

    そして、アナウンサーもただ原稿を読むだけが仕事ではなく、その前には番組制作の為の打ち合わせや現場取材もしなければならない。

    一部のニュースをAIに任せることで、様々なメリットがあるという。

    なにしろニュースの制作担当者一人とパソコンがあれば出来てしまうというのだから、業務の効率性は高い。

     

    AIアナウンスの質は向上しているが、それでも人間にしか出来ないアナウンスは多いという。

    突然入ってきたニュースへの対応、刻一刻と状況の変わる災害情報への対応、個人的な感想を述べたり、専門家の話を聞きながらの進行など。

    まわりの環境変化を感覚的に捉えて、上手く適応しようとする事。

    デジタル的ではなく合理的でもなく映っても、人間味が感じられ、その人間味ゆえに記憶に深く刻まれる事も多い。

     

    人工知能にはない、生身のからだを持つ人間にしか出来ない事を高める。

    操体も勿論そうだが、どう時代が変わっていこうとも、人間である限り人間にしか出来ない事を高める学びは必要だと思う。

     

     

  • 何を学んでいるのか・・・5

    おはようございます。

     

    誰でも自我がある。

    自我があるから人間なのだという人もいるだろう。

     

    自我については様々な捉え方がされるが、他者や外界から区別して意識される自分という意味で捉えてみる。

    そうすると、自我というのは自分が自立する為に必要なものではあるが、本来の目には見えないけれども大切なつながりというものを、なにか遮断してしまう作用があるのでは、と感じてしまう。

     

    このつながりの遮断というのは、生命の存在や、その存在がいかにして健康でより良く生きていけるか、を学ぶ上では障壁となってしまうように思う。

    自分ひとりで生きているわけではない。

    自分ひとりで生きているつもりでも、それは自我の世界であり、本当は他人様はおろか、ありとあらゆるものから生命エネルギーをいただき、生かされて生きている。

     

    ありとあらゆるものから、どう有難く生かされている生命なのか。

    ありとあらゆるものから、頂いているものをどう有効活用している生命なのか。

    その活用を最大限に高め、生命エネルギーの収支バランスをとっていくには何に着目するべきなのか。

    何がバランス制御の原動力となっているのか。

     

    こうした学びを続けていると、自分の我というものはいわゆる二の次にした方が良いように思えてくる。

    素直な感覚が重要なのであり、有難いと素直に感じられた事というのは、自分も共感、共鳴している訳なのであり、自分の主義主張もそこに寄せていくべきなのだと思う。

    天に唾して生きてはいけないのだから。

  • 何を学んでいるのか・・・4

    おはようございます。

     

    操体の創始者、橋本敬三先生の遺された色紙の数々には、「調和を探る」という言葉がよく使われているように感じる。

    操体の学びは、「病をやっつける」というような、相対対立して病という悪者を攻撃するやり方を学ぶものではない。

    病はバランスの崩れの表れなのであり、バランスの崩れをいかにして調和に導けるかを、学ぶべきなのである。

     

    痛い方から痛くない楽な方に動かして診る第一分析から、動かして気持ちよさをききわける第二分析へのシフトアップ。

    このシフトアップは、単に言葉が変わっただけのものではない。

    調和という観点から捉えれば、より全体的となり調和の範囲は広がり、質も密になっているのだ。

     

    動かして気持ちよさをききわける第二分析が公開されて、二〇数年が経つ。

    この二〇数年の間にも、三浦寛先生によって診断分析法は進化してきた。

    そして現在では、新重心理論が提唱されている。

    新重心理論によって、調和の範囲は更に広がり、広がるだけでなく質もより密な結びつきになると感じる。

    その調和は、個としての全体的調和の範囲を優に超え、時間、空間との関わりにも及ぶ。

    これは、何を意味するかというと、真に健康で長生き出来る事につながるという事。

     

  • 何を学んでいるのか・・・3

    おはようございます。

     

    治すのは、あくまでからだである。

    バランスを崩し、不快症状が生じている状態でも、からだは本来のバランスに戻ろうと働いている。

    イタイ、ツライをはじめとする気持ち悪い感覚も、本人にバランスの崩れに気づいてほしくて、協力してほしくて発しているサインでもある。

    そのサインに早めに気づき、不快なバランス状態から、からだの悦ぶ気持ちの良いバランス状態にしていける程、病からは無縁でいられる。

     

    操体の創始者である橋本敬三先生は、晩年に「気持ちよさを(からだに)ききわければいいんだ、気持ちよさで治るんだからな」という言葉を遺している。

    橋本先生の現役時代に行っていた、痛い方から痛くない方に動かして診る操体法も、ボディの歪みに着目して、神経系や循環系の圧迫を単に取り除くだけでなく、動かして診る事で系統的にも生命エネルギーの流れをスムースにし、効果を高めていた。

    そして橋本先生は、そこに満足することなく、より全体的な調和に導けるよう、現役を退いても学びと研究を続けていた。

    そして、学びと研究を続けた最晩年になって、上記のような「気持ちよさで治る」という言葉を発した。

     

    しかし、橋本先生には「気持ちよさで治る」という操体法の体系化までの時間(寿命)が残されていなかった。

    橋本先生の遺志を受け継いだのが、私たちの師である三浦寛先生であった。

    三浦先生は、からだの動きを分類し、オクタント(極限安定率)を満たすからだの全体的な動きを研究し、そのからだの動きにより身体全体が調和に導かれる中で、気持ちよさがききわけられ、気持ちよさの質によって、バランス制御が可能となる事を究明した。

    つまり、より質の高い気持ちよさをききわけ、その気持ちよさを十分に味わう事で、不快な症状、疾患からの改善が可能という事。

     

    これは、全体的な調和がより密になるという事でもある。

    橋本先生が現役時代に行っていた、痛い方から痛みのない楽な方に動かして診る操体法では、全体的な調和の粗いところがあった。

    その調和の主体は横紋筋系骨格関節系であり、不随意筋まで含めた調和はなかなか成り立ち難かった。

    例えば、内臓疾患を抱えた腰痛などの場合は、横紋筋系、不随意筋系どちらも良くなるようなバランスとは成り難かったと聞く。

    しかし、気持ち良さの質の高さをバランス制御の基準とする事により、調和は成り立ち、どちらも改善がみられるようになった。

    調和の和は広がり、質的にも粗い結びつきではなく密な結びつきになったという事。

     

    「からだにききわけた気持ちよさで治る」これは、今の社会通念に照らし合わすと、解りづらいかもしれない。

    しかし、生命の生存にとって「快に従う」という事は、切っても切れないものなのであり、そうなっているという事は救いなのである。

    不快に従って生きろというのであれば、此の世は生き地獄であろう。

    生命の仕組みが、有難くそうなっているという事からどう学ぶか。
    大切な事だと思う。

  • 何を学んでいるのか・・・2

    おはようございます。

     

    私も本格的に操体を学ぶ前に、操体法に関する本をいくつも読んでいた。

    そして、その中に載っている症状、疾患に対する操体法も注意深く読んでいた。

    読んでいて、不思議に感じたのが同じ症状、疾患でも全く違う事を行っていたり、同じやり方で違う症状、疾患にも対応して、その効果を謳っている事。

    症状、疾患を何とかしたいとか、治したいといった人には、妙な療法に映ると思う。

    本を読むだけでは、なかなか理解が追いつかない。

     

    疑問点を抱えつつ講習に参加していたが、ある時「操体には症状、疾患を治すという発想がない」といった旨の話を師がして下さった。

    そうなのだ。師がそう断言して下さったお陰でモヤモヤが晴れた。

    それまでの、痛い方から痛くない方に動かして、2,3秒間動きをたわめて脱力するという第一分析に於いても、より身体全体を調和に導く事ができれば、どんな症状、疾患にも対応可能なのだ(熟練は要するが)。

    痛い方に動かすよりも、痛くない方に動かすほうが、より身体全体を調和に導きやすくなるのは自明の理であろう。

    大事なのは、どの動きがその症状、疾患に効果があるという事ではなく、身体全体を調和に導き、からだのバランス制御に向けた働きが発揮できるかどうかである。

    だから、操体の創始者である橋本敬三先生も、晩年は第一分析を用いつつも、動きを2,3秒間たわめるとか、瞬間急速脱力に導くといったそれまでの第一分析の決めごとを撤廃して、たわめの間も脱力の仕方もからだに委ねるというふうに、調和に向くからだ本位のやり方に変えていったのだと思う。

     

    身体全体が調和に向き、からだがバランス制御に向けば、自ずと症状疾患も治まってくる。
    からだがバランス制御に向き健康が回復する過程に於いて、症状疾患も解消されるという事でもある。

    治すのは、あくまでからだであり、施術者ではない。

    施術者が治し方をいくら学んでも、からだが応えてくれなければ、どうにもならない。

    施術者は、からだがより良くバランス制御に向くようにお手伝い、サポートをする立場である。

    どう、より良くサポートしていくか。そうした学びは本当に大切だと思う。

  • 何を学んでいるのか・・・1

    おはようございます。

     

    私は、本格的に操体を学びはじめて20数年となる。

    学びはじめの頃、「何を学んでいるのか」と考える事が多かった。

    自分自身に対する疑問形の問いかけであり、治療技術が学びたくて入門したのに「こういう症状にはこうする」といったことは教えてもらえない。

    しかし、教えていただいたとおりに行ってみると効果は高い。

    なぜ、効果が高いのか?

    自分のそれまでの治療に対する考え方からでは、捉えきれない世界。

     

    その捉えきれない世界は、生命からすれば当たり前の世界でもある。

    生命からすれば当たり前でも、その当たり前になかなか気づけない。

    大空を舞う鳥や水の中を泳ぐ魚のほうが、その当たり前を知っており、それだけ自由に生きているようにも感じられる。

     

    何か、人間それも社会の枠組みに浸かった大人ほど、生命からすれば当たり前の事が分かりづらくなっているように思える。

    そして、何か不自由な生き方となり、バランスを崩して病を抱え、それでも人間社会の枠組みの中での考え方に価値を求め、その小さな枠組みの中に最良を求め、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりを繰り返している。

    観点を変える必要がある。

     

    大自然の申し子である生命からすれば、人間の「ああすれば、こうなる」というような決めつけは、滑稽にも映るであろう。

    小さな枠に囚われずに、もっと大きな視野を持つ事は大事だと思う。

    人間社会の考え方はどうでも、生命には元々救いが貫通しており、生きている限り生かされて生きているのだから、有難く生かされている事実にも目を向けてみる。

    有難く生かされている事実に目を向け、その有難く出来ている理り大自然の理を学ぶ。

    そこに、人間社会の枠の中で矮小化した常識を超える治癒力、回復力、真の健康への導きがあると思う。

  • はじめての操体法・・・7

    おはようございます。

     

    はじめての操体法。
    はじめて操体法を学ぶ人に知っておいてほしい事というと、やはり操体法は創始者、橋本敬三先生の思想、哲学、生命観である操体の臨床での応用という事。

    操体あっての操体法。

    手っ取り早く技術だけ教わって、哲学はそっちのけというのは良くない。

    何らかの療法に携わる人、医療関係者であれば尚の事、解剖、生理学をはじめとする医学的な知識が豊富であろう。

    しかし、その知識は局所的な知識の寄せ集めになっている場合が多く、からだ全体としてのつながりに関しては等閑視している場合が多い。

     

    局所的に診て、標準と隔たりがあるから異常と決めつけ、施術者がその標準に合わせようとする。

    しかし異常と決めつけたその部位は、他の部位や器官の働きを補う為、あるいは不自然な全体的なストレスを受けて、あえてそのようになっている場合が多い。

    そのような場合、局所的に整えても、その時は良くとも初めに診た状態に戻るのも早い。

    局所的に整っても、他との相関相補性が上手くいかなければ、からだは整える前の状態に戻ろうとするのは自明の理であろう。

     

    操体法は、快適感覚によりからだ全体の調和の質を高め、本来のからだのバランス制御の働きを引き出していくことで、結果的に局所も良くなっていく。

    操体法を受けた被験者の感想として「痛いところを一度も触っていないのに良くなってしまった」という声が多いのも頷ける事だと思う。

     

    全体の調和。
    これを理解していくには、技術テクニックだけ教わればいいと考え方では無理があり、哲学も深めていく必要がある。

    哲学を深めていくには、本だけ読んでいても無理がある。

    それだけ一般的な考え方と真理を追究する操体には、まだまだ隔たりがあるし、文字にして一般的意味合いに合わせてしまうと、読んだ人によっては真理が霞んでしまう場合もある。

    また、文字からの頭の知識だけではなく実際に「そうなっているんだ」という事を、からだで学習していく必要もある。

    良き師と御縁を持ち、学ぶことが最良と思う。

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。
    来週は畠山裕美先生の担当となります。
    どうぞ、おたのしみに。

    友松 誠。

  • はじめての操体法・・・6

    おはようございます。

     

    はじめての操体法。
    はじめて操体法を知るにあたって、操体法って何か変わった名前だなと思う人もいるのではないかと思う。

    操体法という名称は、橋本敬三先生がNHKのラジオ放送に出演する際、名称が無ければ紹介しづらいということで、ついたとも聞く。

    それまでは名称など無く、長年直弟子として側で仕える事になる三浦寛先生が名称がない事について質問すると「名称なんかどうでもいい真理が大切なんだ」と意に介さなかったという。

     

    真理。
    橋本先生の追及していたのは、絶対的な真理だと思う。

    対象を限定した上での真理や条件をつけた上での真理は相対的な真理であり、その枠の中では真理として通用しても、枠を越えれば誤謬となってしまうようなものを追求していたとは思えない。

     

    現代医学というのは、高度に細分化している。
    高度に細分化した治療の枠の中では、その枠では理論的にも筋が通るが、枠を越えれば筋が通らなくなる事柄も少なくないのではと思う。

    また、理論を通すために捨象してきてしまった細かな事実もあるように思える。

    そうした医学会の現実に異を唱え、生命現象の根本から真理を見つめ直し、その真理を追求し続けたのが、当の医師であった橋本先生だった。

    それは、「息」「食」「動」「想」と「環境」の生命エネルギーの入出力のバランスの乱れから、元々の健康体に歪みが生じ、からだのバランス制御の働きが十分に発揮できなくなり、器質的な病理変化にも至るという、病の捉え方にも見てとれる。

    ウィルヒョウの病理学に代表されるような、病に対する考え方とは違うのだ。

  • はじめての操体法・・・5

    おはようございます。

     

    はじめての操体法。
    はじめて操体法の第3分析である皮膚へのアプローチを受けると、意識飛びの眠ったような状態になる人が多い。

    そして、意識飛びの状態から醒めた後、驚きと戸惑いの表情を浮かべる。

    勿論、良い意味での驚きと戸惑いだ。

    なかには、起き上がって両手を合わせ、何かに感謝するような仕草をするような人もいる。

    からだがききわけてくる気持ちよさによるバランス制御。
    これを内部感覚をつうじて感じた時、日常生活では感じた事のない有難さに気づくのかもしれない。

     

    第3分析である皮膚へのアプローチは、三浦寛先生の著書「快からのメッセージ」の中で公開されてから、既に20年以上が経過している。

    その間に、操体法は第5分析まで進化している。

    だからといって、第3分析はもう古いというものではない。

     

    皮膚へのアプローチは、シンプル故に操者(施術者)のからだとの向き合い方が、その効果に表れるものである。

    だから、古くからのもの、つまり創始者・橋本敬三先生の生命観からも学び、そして新しいものである第5分析からも学んだ方が、より一層の効果が期待できると思う。

    第5分析、つまり三浦寛先生が新たに提唱している新重心理論によるからだの正当な使い方を学び、身につけてた方が被験者のからだも受け入れてくれやすくなるし、操者自身も疲労する事なく、気持ち良さを共有しながら施術を行うことが出来ると思う。

  • はじめての操体法・・・4

    おはようございます。

     

    はじめての操体法。
    操体法は、第1分析にしても第2分析にしても「動かして診る」という事に主眼が置かれている。

    この事から、操体法をこれから学びたいという人にとって、大抵はじめに思い浮かぶ疑問があると思う。

    「では、動けない人はどうするんだ?」

    至極真っ当な疑問だと思う。

     

    確かに、動けない人もいる。

    特にギックリ腰の急性期の人など、ウ~ウ~と唸りながら、こごまって痛みを堪えている状態の人に動けと言ったって、動けるわけがない。

    これでは、動いて気持ちよさをききわけるといっても無理がある。

    ましてや、このような状態の人が動きをたわめて、瞬間急速脱力など出来よう筈もない。

     

    また、動けない人、動かしようがない人の他に、動きの感覚のききわけが困難という人もいる。

    これらのケースは、動かして診るという事に主眼を置く操体法の盲点である。

    しかし、この盲点は既に克服されている。

     

    この盲点がある事を認め、第3分析である皮膚へのアプローチを体系化して、盲点を克服したのも三浦寛先生だった。

    皮膚へのアプローチは、一般の人が傍から見れば、こんなことで良くなるのか?というくらいにシンプルで静的なものである。

    しかし、その効果には目を見張るものがある。

     

    この盲点克服も、橋本敬三先生のそばで長年学び、橋本先生が成そうとしていた気持ちよさに対する操体法の体系化を成してきた三浦先生だから出来たのではないかと思う。

    そこには、気持ち良さという快適感覚によって、からだがどのようにバランス制御に働くか長年観察し、気持ち良さをききわけるという本人の意識介入がなくとも、からだに直接気持ちよさを問いかける方法を研究してきた三浦先生の尽力の賜物がある。