カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • からだからのメッセージ・・・5

    おはようございます。

     

    私達のからだには、この地球で生命が誕生して以来の進化の歴史が、生命記憶として埋め込まれ受け継がれているといわれる。

    この事一つとっても、からだというのは凄いと感じる。

     

    高度に発展した文明の中で生きる現代人が忘れてしまっているもの、それはからだへの想いであり、それが物質的には豊かなのだけど、何か不安を抱えやすく、ストレスと手を組みやすい状況をつくっているように思える。

     

    キリスト教では、からだは精霊の宿る神殿だと説かれているという。

     

    聖書の中の有名な一文がある。

    主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。
    人はこうして生きる者となった。
    (創世記2章7節)

    この一文からも、からだは物質的な単なる肉塊ではなく、神から命の息を吹き入れられた霊的な存在であり、その上で私達の存在もあるという捉え方もできると思う。

    霊的な存在とは、単なる物質とは異なり、神や天といったものとの交わりを持つことが可能という事であり、メッセージの送受信を行っているのではないだろうか?

     

    そうだとしたら、自分がからだに対して痛めつける様な事をしていたり、言葉を吐いていれば、それが神にも伝わる事となってしまう。

    それならば、からだをいたわり、優しい言葉、感謝の言葉をかけてあげる方が良いのではないか。

    実際、そうした方が、心は安らぎ、不安やストレスの解消につながると思うし、自分だけでなく、周囲にも良い影響を与えると思う。

     

  • からだからのメッセージ・・・4

    おはようございます。

     

    からだは、言葉に反応する。

    頭で言葉を理解して、それがからだの反応となるように考えている人もいるだろうが、頭が先ではなく、無意識の内にもからだが先に反応している。

    頭で理解できていない言葉にも反応してくれている。

    からだは、言語理解というよりも、もっと崇高な理解の仕方をしているのではないかと思える。

     

    人間をはじめ全ての動物のからだには、この地球で生命が誕生して以来の進化の歴史が、生命記憶として埋め込まれ受け継がれていると説く人もいる。

    私たちは、胎児として母親の胎内に宿ってから出産までの間に、単細胞生物から多細胞生物、脊椎動物、魚類、両生類、爬虫類、哺乳類と生物の進化の過程を再現しながら産まれてくるのだという。

    自分の頭の中には、そうした記憶は残っている感じはしないが、からだにはそうした生命記憶が残っている。

    残っているから、生きていられるのだと思う。

     

    地球で生命が誕生したのが30億年くらい前とされているので、その生命記憶とは想像を絶するものであろう。

    人工的につくりだされたAIなど足元にも及ばないであろう。

    そうしたからだと常に一緒に居られ、必要なサインやメッセージも送ってもらえる。

    からだと一緒に存在できているだけで、生きてるだけでも凄い事なのだと感じる。

     

  • からだからのメッセージ・・・3

    おはようございます。

     

    今回のブログのテーマは「からだからのメッセージ」だが、このテーマと決めた人は、からだからのメッセージ、はたまた天からのメッセージというのを受取ったのではと感じる。

     

    今の日本人の7,8割は、日常生活を左脳優位で営んでいるというデータがあるという。

    左脳が悪いというつもりは毛頭ないが、左脳優位が行き過ぎれば様々な問題を孕んでくると思う。

    その最たるものの一つは健康問題であろう。

     

    左脳優位ばかりの日常生活は、重心の不正を生じさせやすくなる。

    重心の不正は、本来のからだの正当な使い方を隅に追いやり、様々な不調の原因となってしまう。

    これは、身体的な面だけでなく精神面にも影響し、生命活動のバランスを崩し、次第に健康を害した状態となってしまう。

    特に、現れている症状、疾患に対する治療だけでは、思うような結果が得られなかったという人には、そうした傾向があるように感じられる。

     

    目線のとおし方、呼吸のとおし方、からだの正当な使い方、そして重心の適正をかなえる。

    私達は、操体スーパーバイザーである師から、そうした人達にも対応できる教えをいただいているのは、有難い事だと思う。

    有難いと思うと同時に、教えを応用貢献できるよう精進しなければとも思う。

    臨床経験50年以上という長きに渡りからだを診てきた師は、随分前から今日の状況を、からだからのメッセージをとおして見通されていたように思う。

    師が新たに提唱する重心理論は、これから未来に向けて欠かせないものとなっていくと感じる。

  • からだからのメッセージ・・・2

    おはようございます。

     

    私たちの脳は、大きく分ければ右脳と左脳に分けられるという。

    右脳と左脳の特性から考えれば、からだからメッセージを受取る時というのは右脳優位になっていると思う。

    そして、右脳だけでなく左脳とも連携することで、単なる夢想で終わる事なく、より現実的なメッセージとなるのではないかと思う。

     

    人間は出生して間もなくは右脳で行動し、3歳くらいから左脳が発達しはじめ、理論的な思考が出来るようになるという。

    そして、今の日本人の7、8割は左脳優位で、日常生活を送っているといわれる。

     

    左脳優位とは、論理的思考に優れ、言語能力や計算能力も高く、真面目で几帳面といった面があるという。

    その一方で、記憶容量は少なく、左脳の働きばかりに偏ると、理論ばかりで物事が進まない、人の気持ちがわからない、応用がきかない、頑固、物事に感動しなくなるといった面もあるといわれる。

    やはり、右脳との連携が上手くいっていれば、良さが活きてくるし、左脳ばかり頑張っている状態であれば、様々な問題が出てくる、または問題をつくり出してしまうと思われる。

     

    ともあれ、今の日本人の7,8割が左脳優位に日常生活を営んでいるというデータがあるというのには驚きである。

    それだけ子供の頃からの詰め込み教育と、人間のつくる社会ルールに沿った生き方が、求められてきたからなのだろうか。

    そうした生き方も大事だと思うが、それによってストレスを抱え込んでしまっていないだろうか?

    人間らしく、自分らしく生きていけているだろうか?

    脳のバランスという観点からも、自然の理を識るからだに心を向け、からだからのメッセージを受取れるようにしていくことも大事だと感じる。

  • からだからのメッセージ・・・1

    おはようございます。

     

    実行委員リレーブログ、今週は友松の担当となります

    どうぞ、よろしくお願いいたします。

     

    今回のテーマは「からだからのメッセージ」ということでリレーしております。

    からだからのメッセージ。

    私たちは、何かしらからだからメッセージを受取っている。

     

    そのメッセージを上手く受け取れるかは自分次第であり、自分の心の持ち方、意識の向け方が問題。

    ラジオだって、いくらラジオ局がいい電波を送っていても、チューニングが合っていなければ、ノイズだらけで聞こえない。

    関心がなければ、からだがいくらメッセージを送っていても、無用の長物となってしまう。

     

    しかし、からだはそれでもメッセージを送ってくれる。

    からだだって、本人と共により良く生きていきたいのだから。

     

    操体の創始者である橋本敬三先生は、「痛い、ツライはからだのサインなのだ」というようなことを仰っていたという。

    これは、からだを壊してほしくなくて、メッセージにチューニングが合っていない状態でも、関心を向かせる為のからだの配慮でもある。

    それでも無関心であれば、どこかしら壊すし、アンバランスな気持ちの悪い不快な状態を引きずる事となる。

     

    からだだって不快ではなく、より良く生きたい。

    本人と一緒になって、快適に満足して生を全うしたい。

    サインには、その為のメッセージが潜んでいる。

    より良く生きる為には、快、不快のサインだけではなく、そこに潜むメッセージも受取れるようにしていきたい。

     

    そのメッセージの受け取りは、はじめはあやふやな感じでも、自分とからだのバランスが良くなって信頼とからだからの学びが深まるほど、ことばが言葉へと変換されてくるもののように感じる。

  • まるごと操体・・・7

    おはようございます。

     

    操体を語る上で忘れてならないのが、創始者、橋本敬三先生の生命観であろう。

    橋本先生は、その生命観を基に、健康に関しても以下のような文章を残している。

    神その像(かたち)の如くに人を創造りたまえり

    人は神の像なのである。神の像なる人間がなぜ病気をしたり死んだりせねばならないか。

    これは医学の範囲外ではあるが、重要な関係がある。

    人が神性を自己に発見し、よくよくこれを思い、全く神人合一した状態においては、病も死も問題の外に置かれる。

    そして、その神性が発揮されればされるほど人は健康である。

    神に病や死がないと同様に、その像である人にも、その通りであるべきはずである。

    神と人とが同じ像であるという信念から離れるほど完全な像から遠ざかってくるのは当然のことである。

    これを迷いというのであろう。

    迷いが深まるほど、人の生活は神性顕現から遠ざかる故に、健康を害する因子を積み蓄えることとなる。

    像も歪んで(ひずんで)来たらざるを得ないわけである。

    「生体の歪みを正す」 力学的医学の構想ー求学備忘録の冒頭より抜粋

    ここに書いている神とは、高額の壺を買わなければ災いが起こる、御利益がないとしているような見返りを求める神、いわゆる人間のつくりだした報いの神ではない。

    此の世を創造した絶対的な救いの神のことである。

     

    人間はじめ此の世の存在全ては、本然の救いの神を発祥としているという。

    神が何も無い無極無限の世界に、愛と調和という意志でもって陰(-)と陽(+)を設定したから、そこに波動が起き、そのエネルギーから物質の素が出来、原子、分子と物質になっていき、宇宙はじめ大自然が出来、そして人間という生命も生まれてきた。

    この成り立ちの全てに、愛と調和という神の意志がかかわっている。

    私達の身体も60兆という細胞からなっているが、その細胞一つ一つにも愛と調和という意志による成り立ちがあり、愛と調和という意志が貫通しているから、からだとして機能して存在している。

    元々は神性を相続しているという事。

    此の世に生まれてきただけで、素晴らしい事なのであり、此の世に生きているという事は、もうすでに有難く救いが成立しているから生きていられるという事。

     

    しかし、人間はいつの間にか、神人合一の信念から離れた生命活動を営むようになってしまった。

    そして、どのような状態が健康な像なのかも解らず、迷いに陥っている。

    それは、からだを不正当に使い、不自然な飲食、上手く活用できていない呼吸にもつながってしまっている。

    だから、橋本敬三先生は「息」「食」「動」「想」と「環境」とのバランス現象に着目し、誰でも真の健康を蘇らせて神人合一が叶うような自然の法則の究明に、その生涯を捧げたのだと思う。

     

    橋本敬三先生の成さんとしていた事、それは寿命の都合もあり生前は成されなかった。

    しかし、橋本先生の下で長年学んできた三浦寛先生に、その意志は引き継がれた。

    三浦先生により、操体は橋本先生の意志を引き継ぎつつ、進化してきた。

    そして、三浦先生は今新たに新重心理論を提唱している。

    学ばせていただいて感じるのは、従来にはない新しい理論ではあるが、橋本先生の求めていた真の健康像の提示なのではないかという事。

    あとは自分の生き方次第であり、有難みを忘れずにからだと向き合い、愉しみながら心も成長させていければ良いのだと思う。

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。
    来週は畠山裕美先生の担当となります。
    どうぞ、おたのしみに。

    友松 誠。

     

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  • まるごと操体・・・6

    おはようございます。

     

    操体の臨床では、今表れている症状疾患に対処するのではなく、症状疾患の原因、元となるものに着目し、そこから健康回復につながるバランス制御が成されていくにつれ、今表れている症状疾患が治まっていくのをみる。

    症状疾患の元となるものにボディの歪みが挙げられるが、そのボディの歪みは「息」「食」「動」「想」と「環境」とのバランスの崩れから生じている。

     

    いきなり症状疾患に対処しても、元を何とかしなければ治まるものも治まっていかない。

    からだからしたら、本人がバランスの崩れる様な生活を続け、迷惑を被ってきたのに、どこか悪くなれば「薬をやるから早くなんとかしろ」「関節の変位を修正してやったから早く治癒力を出せ」ではからだだってまいってしまう。

    健康が損なわれて症状疾患に陥っている程、からだは癒しを求めている。

     

    まず癒す。

    バランスを崩すような生活をしていた自分を癒すのではなく、自分のからだを癒す。

    今まで、知らず知らずのうちにもからだに負担を強いてきた自分の「想」、自分の我は引っ込んでいた方がいい。

    それまでの自分の「想」からの、「息」「食」「動」でバランスを崩しているのだから。

     

    自分の「想」は一旦放下して、からだの求める生命活動に委ねた方がいい。

    それが癒しにつながる。

    からだにききわけた一番寛げる体勢で休み、心とからだを解放させてあげる。

    これは臨床の場でも大切な事。

     

    臨床の場で、皮膚へのアプロ―チを行っていると、よく意識飛びの現象が起こるが、これも心とからだを解放させて自然とともに癒され、そこから「息」「動」が無意識的に変わっていき、バランス制御に向かうのが感じられる。

    癒しの方が先決。

     

    自力自療の取り組みでも、癒しにつながるような、からだへの「想」は大切。

    夜、睡眠に入る時も、一番寛げる体勢をからだにききわけ、そして「今日も一日ありがとう」と、その日がどんな一日だったとしても、からだと自然にいたわりと感謝の気持ちを向けて、言葉掛けをしてあげる。

    これだけでも続けていけば、現象は変わっていくと思う。

     

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  • まるごと操体・・・5

    おはようございます。

     

    「息」「食」「動」「想」と「環境」とのバランス。
    このバランス現象からは、生きている限り逃れる事はできない。

    どんな人も、このバランス現象を基として生かされて生きている。

    ここに注目し、誰もが自分自身で健康の基から正していけるというのが、操体の提唱する健康学なのである。

     

    生きている限り、他人に代ってもらう事のできない最小限の生命活動である「息」「食」「動」「想」。

    この「息」「食」「動」「想」の営みは「環境」と関わり合いながら、同時相関相補性になっている。

    同時相関相補性とは、ある営みが悪くなればバランスの崩れとともに他の営みも悪くなり、ある営みが良くなれば他の営みもバランスの向上とともに良くなる性質をいう。

     

    そして「息」「食」「動」「想」の4つの営みは、常に行っていなければならない営みとそうでない営みがある。

    「息」は常に営んでいなければ生存に係るし、「動」も無意識に行っている動きも含めれば、寝ている間にも生じている常の営みである。

    この「息」と「動」が、自然の理に沿うようにバランス向上に向かえば、自ずと「食」も「想」も「環境」に適応するよう営み方がより良く変わってくる。

    実際に「息」と「動」が変われば、「食」の質や量も変わり、「想」も変化してくる。

    同時進行するように、からだのツクリ、形態も不自然さが解消されて、変わってくる。

    からだの内も外もより良く変わってくるという事であり、その間に働いているのは自然良能作用、自然治癒力といったものであり、からだや自然のバランス制御の働きかけである。

     

    大切なのは、からだや自然のバランス制御に働きかけが成されているかであり、それなくして一つの営みが良くなれば他の営みも良くなるという性質を、充分に活用する事は出来ない。

    「息」にしても、世間には呼吸法に関して様々あるが、呼吸法を実践する当人のからだが不自然な方向性に傾いた状態であれば、充分な呼吸法とはならないであろう。

    それよりも、「動」のからだの正当な使い方を識り、動きとともに呼吸も自然の理に沿ったものに変わっていければ、不自然な方向性に傾いたからだのツクリも変わって「息」も深く、長くといった事が可能となってくる。

     

    からだや自然本来の良能作用というのは、本当に素晴らしいものがあると思う。

    からだや自然のバランス制御への働きかけ。

    ここに接するには、痛い、ツライといった不快な感覚からではなく、からだにききわけた快適感覚、からだがききわけている快適感覚であるという事が、生命体に対する自然の恩恵であるように感じる。

     

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  • まるごと操体・・・4

    おはようございます。

     

    健康を基から調えていく。

    今、健康だと思えている状態を保つだけではなく、誰もが積極的に健康の基から調整して健康増進へも、つなげていける。

    それが可能なのも真の健康学であり、操体。

     

    みんなそれぞれ個性の差というものがある。

    何かしらの持病がある、それも個性であろう。

    今、巷にあふれる健康法、健康食品というものは、その効果もうたうが個人差がある事や、何か異常があった場合は医師に相談して下さいという説明も付け加えられる。

    誰にでも効果があるものというのはない。

     

    なぜ無いのか。

    それは、生命体としての生存に於ける必須条件についての考察がないからであろう。

    人間、この生命体は誰もが環境の中で、息をし、飲食し、動き、想う、という活動を営みながら生命エネルギーの入出力を行って生きている。

    個性の差を考慮する前に、誰にでも共通するこの生命体として必須の生命活動を、どうすればバランスのとれたものにしていけるかを考えてみる必要がある。

    環境の中での生命エネルギーのバランス収支がとれているほど健康なのだから。

    その上で、真の自分の個性を発揮していく。

     

    「息」「食」「動」「想」と「環境」とのバランス。このバランス現象からは、生きている限り逃れる事はできない。

    どんな人も、このバランス現象を基として生かされて生きている。

    ここに注目し、誰もが自分自身で積極的に健康の基から正していけるというのが、操体の提唱する健康学なのである。

     

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  • まるごと操体・・・3

    おはようございます。

     

    健康とは自分自身で創造していくものである。

    創造、つまり健康は人から与えられるものではなく、自分自身で新たな気づきを得ながら、それを愉しみながらつくりだしていくものだと思う。

    自力自療が適う。
    それが真の健康学だと思う。

     

    これは、保健、つまり健康を守り保つ事を目標に掲げる行政指導型の健康に対する考え方とは異なる。

    保健からの考え方も必要だが、それだけでは間に合わなくなってきているのも事実だと思う。

    病原排除の公衆衛生など、個人の力だけではどうにもならない事柄に対しては、行政指導型の保健の考え方は有効だと思う。

    しかし、健康学に必要なのは、みんなが羅患しない様にするにはどうしたらいいかではなく、個人個人が健康の基礎からの底上げをはかり、誰もが病を寄せ付けないようになっていく事である。

     

    病原排除の公衆衛生も、いき過ぎれば抵抗力、免疫力を弱くしてしまう。

    また、排除したつもりでいた病原菌が、更に強力になって舞い戻ってくるというケースも多くなってきている。

    病原排除で、まわりの環境が人為的に清潔になっても、やはり自然の方が人為を上まわってしまう。

    健康を、行政や学者に任せきりではいけない。

    自分の生命、自分の人生なのだから、自分で自然の理と向き合うようにする。

     

    その自分というのは、からだがあっての生命体なのであり、この生命体は最小限、息をし、飲食し、動き、想う、という活動を、環境の中で営まなければ、生命を維持できない。

    生命体としての基礎的活動である「息」「食」「動」「想」の4つの営みと「環境」とのバランス、これをどんな環境の中でも自然の理に合わせられるようにして、環境適応できるよう底上げし、間に合うようにしていく。

    そうした、日々生まれ変わり、日々つくり出していく健康への自分自身の取り組みのバイブルとなるのが、真の健康学なのだと思う。

    日々、まるごと操体。

     

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