カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • フリー(free)・・・4

    おはようございます。

     

    操体には、4つのバルの戒めというのがある。

    「頑張るな」「欲張るな」「威張るな」「縛るな」の4つ。

    漢字で書くと分かりずらいが、声に出してみれば皆「バル」がついている。

     

    この中の「縛るな」。

    「縛る」というのは、自由にとって大敵と思える。

    わかりやすい例として、昔の奴隷制度のような縛りは、本当に自由を奪っていると思う。

    そして、そういうのは良くない事だと、誰でも思う筈。

     

    しかし、自分でも知らないうちに、相手を縛ってしまっているという事もあるのではないかと思う。

    特に、愛情が強い程、良くなってもらいたいという想いが強い程、過干渉になり、それが縛りにつながり、相手を委縮させてしまったり、気持ちよく生きられない様にしてしまっているケースもあると思う。

     

    私の子供時代には、「教育ママゴン」という、子供からしたら怪獣のような母親が、結構多く居た。

    この時代は、いい高校、いい大学に進学して、いい会社に就職すれば、幸福な人生が送れるといった考え方が多かった。

    それだからか、自分の子供に少しでも幸せになってもらいたくて、「勉強しなさい!!」と、口を開けば捲し立てていたのかもしれない。

    当時は、いわゆる詰め込み教育と呼ばれるものが全盛であり、遊ぶ暇があったら少しでも頭に知識を詰め込めばいい、という考え方もあった。

     

    私も、友達と遊んでいて、その友達の母親が「あんな子と遊んでないで、勉強しなさい!!」と強い口調で言っている場面に遭遇した事があった。

    悪気があって「あんな子」とか言ったわけではないと思うが、「すっげえ母ちゃんだな」とビックリしたのと、友達が申し訳なさそうな顔をしていたのが思い返さる。

     

    近しい間柄ほど、相手にとって良かれと思ったことを、無理に押し付けてしまう事はあると思う。

    しかし、相手を縛って、自分に隷属させるようにしての押し付けは、後々なにか問題を孕んでくる。

    親しき中にも礼儀ありというが、個の尊重もあった上での間柄、間のとり方というのは大事だと思う。

     

  • フリー(free)・・・3

    おはようございます。

     

    フリーダムということから、昨日は1960年代後期のアメリカ映画「イージーライダー」が思い浮かび、少し書いた。

    この映画の主要人物である、キャプテンアメリカことワイアットとビリー。

    2人とも、当時の保守的な人達とは違い、定職に就かず髪や髭を伸ばし、住処も捨ててバイクで開放的に旅し、ドラッグやフリーセックスに価値を見い出すような、享楽的生き方をしている。

    誰からも束縛されずに、自分の好きに生きる、自由といえば自由だ。

    しかし、この映画はそうしたことだけを、フリーダムとしているのではないと思える。

     

    例えば、旅先の農夫の家で、昼食を共にしている場面。

    キャプテンアメリカことワイアットと、農夫が会話を交わしているが、農夫は都会に憧れを抱いてはいるが、典型的な保守的な人。

    妻や家族を愛し、決して裕福な生活ではないが、満足して幸福に暮らしている。

    ワイアットとは、まるで正反対な生き方だが、ピーター・フォンダ演じるワイアットは、少し角度のついた淡いサングラスの奥から羨望のまなざしを向け、リスペクトしながら農夫の幸福に理解を示している。

    そうした生き方にも、そこに自由があると肯定するように。

     

    自由とは、自分の欲望の赴くままに行動する事ではなく、足るを知り、否定なく、相手や周りを束縛する事なく、幸福に導くものでもあると思う。

     

  • フリー(free)・・・2

    おはようございます。

     

    フリーとかフリーダム、特にフリーダムと聞くと60年代のアメリカ映画「イージーライダー」が思い浮かぶ。

    この映画は、当時の聞き覚えのある曲と、チョッパーというカスタムが施されたハーレーダビッドソンのバイクに関心が向きやすいが、自由への問いかけがされている作品のように感じる。

     

    ワイアットとビリーの2人の若者が、違法薬物の売買で大金を得、ハーレーに跨り、身につけていた時計を放り投げアメリカ大陸横断の旅に出かけるところからはじまり、様々な出会いや出来事を経て、最後は2人とも射殺され、乗っていたバイクも炎上してエンディングとなる。

     

    様々な出来事で多いのが、自由を求めて、やりたいようにやる2人と、地域社会の人達の拒絶や軋轢。

    途中、留置場で出会った酔いどれ弁護士のジョージ・ハンセンが加わり3人旅となるが、このジョージが2人に言った次のような言葉が印象的であり、当時のアメリカ社会を象徴しているようにも思える。

    アメリカ人は自由を証明するためなら殺人も平気だ。

    個人の自由についてはいくらでも喋る。

    しかし、自由なやつを見るのは怖い。

    この言葉が表すように、ジョージも途中で一般の自警団の人に殺されてしまうし、エンディングでは残った2人も、長髪と奇抜な服装をしているというだけで銃を向けられ、それに対して中指を立てただけで発砲され、殺されてしまう。

     

    自分のやりたいように自由にやろうとする若者と、それを恐れ、自分たちの自由を脅かす者として、自由を守る権利として、殺害をも自由とする人達。

    この構図は怖ろしく感じるし、地獄のようだとも思える。

    自由も、我欲の世界観で捉えようとすると、おかしくなってくるように感じる。

     

  • フリー(free)・・・1

    おはようございます。

     

    実行委員リレーブログ、今週は友松の担当となります。

    どうぞ、よろしくお願いいたします。

    今回のテーマは「フリー(free)」ということでリレーしております。

     

    フリー(free)とは、自由であること、何かに束縛されていない状態などを意味するという。

    自由というと、何をやってもいいと解釈する向きもある。

    何をやってもいいかもしれないが、自由には責任が伴う。

     

    やればやっただけの報いがあるのだから、好き勝手し放題では破滅に向かう。

    誰もが心得ている事であり、対外的にはコミュニティの常識に合わせたり、法律に合わせたりしながら、欲望はあれどモラルも考えて生きている。

    その中で、自分が良いだけでなく、他人様にもよろこんでもらう。
    よろこんでもらえる自分の幸福感も味わいながら生きている。

     

    しかし、対内的、つまり心とからだの関係についてはどうだろうか?

    自分のからだに対して責任がある。
    そうした捉え方をしている人はなかなか居ないように思われる。

    やればやっただけの報いがある。
    これはからだに対しても同じ事。

    好き勝手にからだを痛めつける事ばかりしていれば、からだは不調に陥ってしまう。

    からだによろこんでもらう。
    よろこんでもらえる自分である事が、自分のからだへの責任でもあるように思う。

     

    そうした責任の果たし方をしていくなかで、自分も気持ちよく健康に生きられるようになる。

    自由も、破滅に向く自分勝手な自由ではなく、調和に向く自由が拡がっていく。

     

  • 臨床と生活にいかす操体法・・・7

    おはようございます。

     

    桜の花が散っている。

    花が散って、道路の側溝に、茶色身を帯びて溜まっている。

    車が通ると、花びらは踏まれて、かたちを留めなくなっていく。

    無情にも感じる。

     

    しかし、見上げれば桜の木の枝には、新しく瑞々しい葉っぱがついている。

    変化は常であり、良い意味で無常。

    より良く変化していれば、来年はもっと大きく、多数の美しい花を咲かせているだろう。

     

    変化を受け入れる。

    受け入れた上で、より良く生きる。

    日常生活は常ではなく、日々生まれ変わり。

     

    より良く生まれ変わる為のサポートをするのが、操体の臨床であり、臨生でもあると思う。

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。
    来週は畠山裕美先生の担当となります。
    どうぞ、おたのしみに。

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  • 臨床と生活にいかす操体法・・・6

    おはようございます。

     

    遅咲きの今年の桜も、散り際を迎えている。

    先週までは、美しく満開に咲き誇り、春の主役として親しまれていたのに…。

    名残惜しい。

    桜は美しさと儚さを併せ持つ。

    美しく価値あるものだから、散り際は儚く感じてしまうのだと思う。

     

    誰でも自分の人生があり、その人生は美しい。

    美しいが、人生は有限。

    その美しい人生の主役は自分だろうが、主人公は自分自身。

    身がなければ、どうにもならない。

     

    主人公には、本当の自分という意味合いもあるという。

    本当の自分とは?

    自分が主役としてどう生きるか、という面だけで考えていても埒はあかないと思う。

     

    自分は、「どう生かされて、生きているのか」という自分自身への問いかけも必要。

    自分のからだや、からだをとおして、どう生かされているのか?
    問いかけながら学ぶ。

    この学びは、日常生活をはじめ、人生を豊かで優しく美しいものにしていくと思う。

    操体臨床も、そうしたからだからの学びなくしては、成り立たないと思う。

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  • 臨床と生活にいかす操体法・・・5

    おはようございます。

     

    健康のために歩いているという人は多い。

    特に朝の時間帯は、定年を向かえ、これからの人生をたのしく健康に過ごしたいから歩いている、という感じの人をよく見かける。

    歩く事は全身運動にもつながり、特に桜の花咲くこの時季であれば、良い気分転換にもなる。

    何もしないでいるより、良いのは確かであろう。

     

    何もしないでいるより、良いのは確かだろうが、見ていると何か危なっかしい人もいる。

    実際、転んで打撲だけならまだしも膝の皿を割ってしまって、見かけないと思ったら、何か月も入院していたという人もいる。

    また、寒い時季に頑張って歩いていて、心筋梗塞を起こして倒れてしまった、という話もよく聞く。

     

    そうした人たちに共通するのが、足腰が弱っては困るから、頑張って足腰を鍛えようという考え方。

    しかし、今までの不自然な癖のついた動きから頑張ると、無理をする事につながってしまう。
    そして、怪我もしやすくもなる。

    鍛えようとする前に、バランスを考慮する必要がある。

     

    自分の意図する行動には、必ず調和に向けたからだの動きが関わっている。

    このからだの動きに合わせるように行動出来るほど、バランス制御に向き、エントロピーの増大も防げてくる。

    逆に、からだの動きと噛み合わなくなるほど、バランスは崩れ、壊れやすくなってしまう。

    健康に良いと思って行っている行動が、消耗に向かってしまったり、怪我もしやすくなってしまう。

    そうした状態からの無理は禁物である。
    やらない方が良いというのではなく、からだにききわけながら行った方が良いという事。

     

    どの様な状態に陥っていても、バランス制御に向けたからだの動きは生じている。

    それに合わせて、全体的な流れ、循環を良くして、元々備わっている能力を十分に発揮させる。

    臨床にもつうじる事だと思う。

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  • 臨床と生活にいかす操体法・・・4

    おはようございます。

     

    操体の創始者、橋本敬三先生が昭和の始め頃に書いた書物に、以下のような文面がある。

    人が正しきにおれば容姿はおのずから端正となり、

    骨格は整い、筋肉も拘緊するところなく、

    内臓もその地位に安んじ、

    機能は互いに相調和して、健康である。

    この文面の内容を満たすには、全身体性のからだの動きと、それに相関する適正な呼吸が必要。

    また、この内容だけでも、単線的な物事の捉え方ではなく、バランスが大事であり、生命現象とはバランス現象なのだという事が理解できよう。

    バランス現象は動き、流れでもあり、同時相関相補しながら循環して像(カタチ)を成すものである。

     

    よく臨床の場で、「この動きで腰痛が治るんですか?」とか「肩凝りにはどういう動きがいいですか?」とか、○○体操の類やストレッチをするようなニュアンスで、質問を受ける事がある。

    しかし、気になる部分を単線的に何とかしても、その時は良いのだけれど、気になる症状が直ぐまたぶり返してくることは多い。
    また、無理をすれば、却ってツラクなることも多い。

    あくまで全体的な調和の元に、気になるところも良くなっていくのだから、生命としての全体のバランス制御に向くからだの動きを導き出す事が肝要。

     

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  • 臨床と生活にいかす操体法・・・3

    おはようございます。

     

    症状、疾患にとらわれる事なく、健康の回復、維持、増進を目的とするのが操体。

    これは臨床でも、普段の生活でも同じ事。

    何故、それが可能なのか。

    それは、操体法が感覚をききわけた自力自療を旨としているから。

     

    自力自療を適えるには、これを自力で行わなければ生存が保てないといった、誰もが行っている生存必須条件の生命活動に着目する。

    生命体として、動きと呼吸は必須であり、無意識下でも、からだがエントロピーを増大させないようバランスをとりながら営んでくれている。

    そうした、からだ(生命)の叡智を畏敬し、からだの本音を尊重する。

     

    からだの本音は、エントロピー増大には決して向いておらず、気持ちよく快適に限りある生を全うしたいという事。

    それを本人にも、感覚をとおして望んでいる。

    治しをつけるのは、からだなのであり、からだの本音とその要求に忠実である事。

    だから、決して害など無く、最小エネルギーで最大の効果が期待できる。

     

    生存の必須条件である動きと呼吸が、からだの要求に適ってくれば、生命現象も根本からより良く変わっていく。

    その先にあるのは、健康の回復、維持、増進であり、その過程で症状疾患も治まりがついてくる。

     

    本来、治しは自力自療なのだが、とかく被験者本人は思惑の建前や理屈に惑わされている。

    だからか、臨床の場では「こんなことで、良くなっちゃったんですか?」といった驚きの声もよく聞く。

    しかし、治まりをつけたのは自分自身であり、本人のからだ。

    操者(施術者)は、からだの本音とその要求に忠実であるよう、サポートするだけ。

     

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  • 臨床と生活にいかす操体法・・・2

    おはようございます。

     

    臨床は臨生でもあり、新たな自分自身へ生まれ変わる場でもあると思う。

    新たに、より良く生まれ変わる為の、動きと呼吸。

     

    操体の臨床は、病んだ部分を操者(施術者)が治すという修理をするような場ではない。

    操体臨床の目的は、症状、疾患を治すのが目的ではないという事。

    今、生じている症状、疾患現象は、生活(生命活動)の間違いから起こっているのであり、その根本である動きと呼吸を正していく。

     

    正していく過程に於いて、今、生じている症状も治まりがついていく。

    治まりをつけていくのは、被験者のからだであり、からだの求める動きと呼吸がより良く導き出せるよう、操者(施術者)はお手伝いをする。

     

    被験者も、意識や感覚をとおして、からだの求める動きと呼吸により、良くなっていく過程に立ち会っている。

    他人事ではなく、自分事なのであり、そこで得たもの学んだことを、普段の生活のなかでも活用すべきであり、そうすることで再発しづらくなるのは勿論、今までよりもより健康に生まれ変わっていく事が可能となっている。

    症状疾患に囚われる事なく、健康回復、維持、増進を目的とするのが操体。
    それは臨床以外の普段の生活でも同じ事。
    結果は自ずとついてくる。

     

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