カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • まるごと操体・・・2

    おはようございます。

     

    先日、昼食をとりながらテレビをつけてみると、所信表明演説の中継がされていた。

    その中で首相が、「経済、経済、経済」と強い口調で連呼していたのが印象的だった。

     

    経済も語源を辿れば、経世済民。

    経世済民とは、世の中をよく経(おさ)めて、人々を苦しみから救う事だという。

     

    しかし、演説を聞いていると、所得税を減税し手取り所得が増えれば、昨今の物価高でも消費は促進され、お金が様々な人たちに行き渡るようになり、そうなれば国民からの支持率や人気も高まるという思惑が見え隠れしているような感があった。

     

    お金は大切だが、お金を渡せば人々を救済する事や人々の幸福につながるかといえば、必ずしもそうはならないと思う。

    お金で買えないものは沢山ある。

    一番身近で、これがなければどうにもならないというのが、自分自身の健康や健康寿命であろう。

     

    何をするにも健康あったればこそであり、これから超高齢化社会を迎えるにあたり、問題となるのが平均寿命の伸びに対して健康寿命はどうなのかという事。

    本来、健康はお金で買う事などできない。

    健康とは自分自身で創造していくものである。

     

    自分自身で健康は創造していくものであるが、その取り組みに対する世間一般の認識の仕方は非常に曖昧模糊である。

    時代は、真の健康学を求めている。

    操体は、この真の健康学にまるごと活かせるものでもある。

     

    真の健康学こそ、経世済民の済民を担うべきもの。

    何故なら、人間の本音の部分には「健康で快適に満足して充分に生きたい」という願望があるのだから。

    開催案内 | 2023年秋季東京操体フォーラム | Tokyo Sotai Forum 

  • まるごと操体・・・1

    おはようございます。

    実行委員リレーブログ、今週は友松の担当となります
    どうぞ、よろしくお願いいたします。

    今回のテーマは「まるごと操体」ということでリレーしております。

     

    「まるごと」というと、まるまるゴロゴロしたジャガイモや肉の入ったカレーライスが思い浮かんでしまった。

    秋は食べ物が美味しい季節ゆえあしからず。

     

    カレーも、肉や野菜の具が良ければいいというものではない。

    一切れ何万円もする肉を入れたから、美味しいというわけでもあるまい。

    ルーとのバランス、調和、ハーモニーがあって美味しくなる。

     

    操体の創始者である橋本敬三先生は、著書の中でよく「自分だけ良くたってしょうがない」ということを書いている。

    カレーの肉や野菜それぞれがルーの味を吸収し、ルーにも肉や野菜のそれぞれの旨味が加わり、どちらも調和しながら美味しくなっていくように、人間だってまわりの生かしてくれている環境があってこそ成長がある。

     

    環境も人為、社会的環境との関係性にばかり目が行きがちだが、大事なのは自然環境であり、自然環境を構成する要素や全てに貫通する自然の理が包含された空間と、私達は無縁ではいられないという事。

    自分一人で生きていると強がっていても、無意識のうちにもからだがそうした空間と、生きるエネルギーを受けたり渡したりしてくれているから、生きていられる。

    であるならば、自分の考え方や想いも、自分を生かしてくれているからだや自然に向けてみる必要がある。

     

    そして、からだをとおしてどうすればより良く生かされて生きていけるかを学んでいければ、まわりの様々な環境も違って見えてくるはず。

    今まで感じられなかった有難さを感じるだろうし、今まで気づけていなかったところにも目がいくだろうし、そうした事というのはより良く自分自身もまわりの環境も変わっていく事につながると思う。

     

    これも、一朝一夕に直ぐに結果が出るとは限らないが、カレーがじっくりコトコト丁寧に煮込めば美味しくなるように、じっくり丁寧に自分自身と向き合い愉しみながらからだから学んでいれば、何かが変わり何かが成される事と思う。 

     

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  • ふれる・・・7

    おはようございます。

     

    よく、自然に触れてリフレッシュするという。

    その自然とは、大抵は緑があって舗装されていない道路があって、ちょうど里山のような風景が思い起こされると思う。

    確かに、そうしたところは空気も澄んでいて、美味く、それだけでもリフレッシュした気分になる。

     

    データ的にも、森林浴や森林の中を散歩したりすることで、ストレスホルモンとして知られるコルチゾールが減少したり、交感神経活動や血圧、心拍数も落ち着かせてリラックスさせるとか、ナチュラルキラー細胞が増加して、免疫力が高まるといった効果が認められているという。

     

    確かに、そうした効果も感じられる。

    しかし、森林浴をしている時の呼吸を、からだの求める呼吸にしてみたりとか、散歩する時もからだ本来の動きに合わせる様な歩き方にしてみた方が、もっと効果的なのではと思う。

    また、呼吸も含めからだの正当な使い方を識り、都会に居ながらも、それを生活習慣に取り入れる事で、ストレスの軽減は可能だと思う。

     

    里山の方に出かけて、森林や生きた土や空気に触れるのも良いと思う。
    そこには自然の理に沿って生きる生きものや、その生の循環で生じたものがあるから。

    そうなると、人間も不自然な生き方によって生じてしまったストレスを解消する為に、里山の方に出かけるという前に、自然の理に沿った生き方をしてストレスをためないようにする事の方が先決のように思える。

    そのうえで、自然の理に沿って生きるものたちに触れた方が、より親しみも湧くし、より効果的なのではと思う。

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。
    来週は畠山裕美先生の担当となります。
    どうぞ、おたのしみに。

    友松 誠。

     

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  • ふれる・・・6

    おはようございます。

     

    最近、スキンシップという言葉をあまり聞かなくなったと思う。

    それだけ、ここ3,4年続いたコロナ禍の影響は大きいと感じる。

    コロナ禍中での、握手をはじめとした肌と肌の触れ合う機会の減少、それに反比例するように増加、普及したテレワーク。

     

    テレワークといえば、コロナ禍の最中に何度か利用させていただいた。

    しかし、どうも苦手であり、終わった後どっと疲れるのを感じた。

    片道3時間以上かけて行き来する必要もなく、楽なのだが何故か疲れる。

    これも同じ空間を共有していないが為だろうか?

    慣れてないせいもあったろうが、ダイレクトにモニター越しの顔があると、どうも落ち着かない。

    それに対して、同じ空間を共有し、いい塩梅の距離と間(マ)があると、その間を介した触れ合いみたいな安心感を感じる。

     

    間(マ)を介した触れ合い、これも一種のスキンシップなのではないだろうか。

    テレワークは、確かに便利であり、効率的でもある。

    しかし、便利さや効率ばかり求めて、触れ合いというものが少なくなってくると、何かおかしくなってくる感じもする。

     

    袖触れ合うも他生の縁と言うではないか。

    同じ空間を共有できるというのも、有難い縁であり、便利さや効率を求めるあまり、自分からその有難さを放棄するのは勿体無い事なのではと思う。

     

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  • ふれる・・・5

    おはようございます。

     

    操体の創始者である橋本敬三先生は医師であった。

    橋本敬三先生は、昭和46年に静岡で行われた武見日本医師会長の特別講演中の、健康増進に関する発言は甚だ重要であるとして、著書の中でも以下のように取り上げている。

    曰く

    「 医師会の終極の目的は健康増進であるが、誰もその内容はわかっていない。
    英国のトッドに会ったとき、聞くところによれば、”医師の誰に聞いてみても健康増進の論理に答えを得られなかった”と。

    健康増進とは、生命体が自然環境に適応することであるのだから、新しく生態学、バイオメジシンのうちにこれを探求して、適応能力を高めてゆかねばならぬ。

    医学、医療の体制は、この哲理と論理に基礎づけられなければならないのだ 」

    この中の、健康増進とは生命体が自然環境に適応することであるという言葉。

    自然環境に適応する為に、何が必要なのか。
    何をしなければならないのか。

    そうした問いかけに橋本敬三先生は、人間が自然環境に適応する為の自然法則は即に自在しており、その自然法則に合わせて生きていけば自然環境への適応能力は高まり、健康増進が可能だとした。

     

    生き方を自然法則に合わせていく。
    勿論、大事な事であるが、どう生かされているのかという観点も必要。

    人間という生命体と自然環境との境界を成しているのはどこなのか。
    何が、自然環境の中で人間としての存在を存在たらしめているのか。

    皮膚が無ければ形態を維持できないのは勿論、自然環境に常に触れているのも皮膚である。

    皮膚には、一般的な考え方からは想像できないような凄い働きがある。

    その皮膚に、健康の回復、維持、増進へ導く立場から注目したのが、橋本敬三先生の直弟子である三浦寛先生だった。

     

    皮膚に関しての研究をしている人は、まだまだ少ない。
    しかし、皮膚が無ければ生きものは生きていけないのだ。

    根源的であり、根源的であるがゆえに、その調和への働きかけは縦横無尽であり、縦横無尽、調和尽十方であるがゆえに、言葉にするのが難しい面も多々ある。

    操体の臨床の場での皮膚へのアプローチにしても、その効果は、こうすればこうなる的な枠には納まりきれないのだ。

     

    三浦寛先生は以前、「師の成してきた事を成すのではなく、成さんとしてきた事を成す」と言われていた。

    三浦寛先生の師である橋本敬三先生の成さんとした事が、真の健康増進への貢献であるならば、皮膚へのアプローチもその一つだし、新たに提唱している新重心理論もそうだと思う。

    そうした生き様にふれる事で、三浦寛先生から学ぶ私達の触れ方も、より臨床効果の高い触れ方に変わっていくような感じも受ける。

     

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  • ふれる・・・4

    おはようございます。

     

    彫刻家の高村光太郎は「触覚はいちばん幼稚な感覚だと言われているが、しかも其れだからいちばん根源的なもの」という捉え方をしていた。

    幼稚なのだが根源的な感覚。

    この感覚は、今の人為的情報過多な社会を生き、ややもすると情報に振り回され、疲弊している人達に、必要なのではないかと思う。

    しかし、当のその人達は、それに気づけていないであろうが・・・。

     

    もう20年以上前になるが、操体での治療の後、飾ってある観葉植物を見て「緑って、緑なんですね」と、少女のようなキラキラした目で呟いていた中年の女性がいた。

    これは、以前にブログか、以前は東京操体フォーラムの開催時に作成していたビジョンSという小冊子に書いたかもしれないが、今も折にふれて思い出す。

    それだけ、症状疾患にとらわれない操体の治療ならではの出来事として、初学の頃の私には印象的だった。

     

    この女性が言うには、それまで植物の緑も緑色のトタン屋根の緑も同じような感じだったという。

    それだけ自分の頭の中だけで情報処理し、決めつけで見ていたという事なのだろうか。

    しかし、今見ている植物の緑は、概念としての大雑把なものではなく、空間の光を浴びながら、葉っぱ一枚一枚、茎一本一本が違って見えるという。

    そして、そこには生命としての躍動感みたいなものがあり、見ていると自分も瑞々しくなり、元気をもらえている感じだと言われていた。

     

    頭の固定観念で見ているのか、そのものの生命感に触れて見ているのか。

    頭の中の世界観ばかりを優先させていると、心とからだのバランスは崩れやすくなり、様々な不調を呼び込む事となってしまう。

    自然環境は、様々な恩恵を生物に与えており、無意識のうちにも、からだはそれらをキャッチして、より良いバランス状態に向かおうとしている。

    そこに触れて同調してみる。

    精神的にも身体的にも大切な事だと思う。

     

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  • ふれる・・・3

    おはようございます。

     

    見るという事も、目で見て感覚するというだけではなく、そこに触れていると意識すると何か感じ方が変わるような気がする。

    何か、今現在の現象に参加して立ち会っているとか、居合わせているという感じがする。

    そして、無意識のうちにも何か調和に導かれるような、そんな感じも受ける。

     

    単に見るだけでは、見ていることは見ているのだが、何か頭の中の決めつけ、先入観といったもの主体で見ているような気がする。

    そして、そこにはからだが無いような気がする。

    今のせわしい社会で生きていれば、そうならざるを得ないような気もする。

    しかし、何か大切なものを自ら切り離しているような気にもなる。

     

    毎日見ている遠くの山でも、空気の中の微粒子と光の関係で、見え方は違う。

    その距離感のなかの、空気の微粒子の振動が光を反射し、その光に自分が触れる事で、それが風景として表現されている。

    光に触れる、ということがなければ見るという行為そのものが成り立たない。

    触れるという事は、今現在の生の現象に立ち会っている事とも言えるのではないだろうか。

     

    操体法には、この症状だからこうする、という決めつけの考え方はない。

    また、前回こうしたら効果があったから、と同じやり方をしても同じように効果が上がるとは限らない。

    現象は変化しており、バランス制御に向くからだの要求も変化している。

    からだの要求に応え、臨床効果を上げる為にも、「触れる」という行為の持つ多くの意味合いやその影響を掘り下げてみるのも良いのではと思う。

     

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  • ふれる・・・2

    おはようございます。

     

    道程という詩集で知られる高村光太郎は、彫刻家であった。

    彫刻家であった高村光太郎は、「触覚の世界」と題した随筆のなかで、こう書いている。

    私にとって此世界は触覚である。
    触覚はいちばん幼稚な感覚だと言われているが、しかも其れだからいちばん根源的なものであると言える。
    彫刻はいちばん根源的な芸術である

     

    高村光太郎は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚も触覚につうじており、殆ど全く触覚に統一せられていると説く。

    視覚に関した事柄だけでも引用すれば、以下のようなことを書いている。

    考えてみると、色彩が触覚なのは当たり前である。
    光波の震動が網膜を刺激するのは純粋に運動の原理によるであろう。
    絵画に於けるトオンの感じも、気がついてみれば触覚である。
    口ではいえないが、トオンのある絵画には、或る触覚上の玄妙がある。
    トオンを持たない画面には、指にひっかかる真綿の糸のようなものがふけ立っていたり、又はガラスの破片を踏んだ踵のような痛さがあるのである。
    色彩が触覚でなかったら、画面は永久にぺちゃんこでいるであろうと想像される。

     

    感じるという事は、何かに触れて感覚しているという捉え方。

    このような捉え方をしてみると、見るという事だけに限っても、そこには奥行きや深み、躍動感、何か自分自身に訴えてくるヒビキが伴っていると再認識させられる。

    何か心の豊かさにもつうじるものがあるように感じられる。
    また、他者からの情報に振り回される事無く、本質を見るという事にもつうじるように思える。

    操体は、感覚というものを重要視しているが、何かつうじるものがあるように思う。

     

     

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    秋季東京操体フォーラム開催決定

    2023年11月23日(勤労感謝の日)

    今季は久しぶりのルーテル市ヶ谷センターにて開催予定です。

    プログラムの詳細等は追ってお知らせ致します。

  • ふれる・・・1

    おはようございます。

    実行委員リレーブログ、今週は友松の担当となります。
    どうぞ、よろしくお願い致します。

    今回のテーマは「ふれる」ということでリレーしております。

     

    触れる。一般的にはタッチとか、手で触ってみるという事が思い浮かぶと思う。

    しかし、意識的に触れる以外にも、私たちは知らず知らずのうちに、様々なものに触れている。

    何も触れていないようでも、空気をはじめ目には見えないものに必ず触れている。

    目に見えないものに包まれ、それをみんなで共有しているから、人のやさしさをはじめ、心にも触れているのかもしれない。

     

    目に見えぬものも含め、触れて、感覚できるから有難い。

    本人の意識に昇る昇らないに関らず、からだはその感覚をキャッチしてくれている。

    その感覚は、からだの動きにつうじ、無意識のうちにも環境適応を可能なものにしてくれている。

     

    操体法は、無意識のうちにも環境適応に向き、バランス制御を可能とするからだの動きを重視している。

    そのからだの動きを有効に発動させる為には、もちろん触れ方も重視する必要がある。

    その触れ方も、何を目的としているのかという意識で、相手のからだの反応には違いが出てくる。

    目的を違えてはならない。
    その為にも、操体の生命観や哲学というのは疎かに出来ない。

     

     

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    秋季東京操体フォーラム開催決定

    2023年11月23日(勤労感謝の日)

    今季は久しぶりのルーテル市ヶ谷センターにて開催予定です。

    プログラムの詳細等は追ってお知らせ致します。

     

  • 何を学んでいるのか・・・7

    おはようございます。

     

    今回のブログ担当も最終日となりました。

    今回のテーマは「何を学んでいるのか」でした。

     

    私も本格的に操体を学び始めた頃は、疑問形で「何を学んでいるのか?」と考える事が多かった。

    それでも、その疑問形は学び続けていくうちに「本物を学んでいるのだ」という確信に変わっていった。

     

    しかし、本物の学びとか、本当の事とか真実とか真理というのは、隠れてしまいやすい。

    よっぽど、恥ずかしがり屋さんなのだろうか?

    いや、違う。自分の心が隠してしまうのだろう。

    自分の心の中にある、自分の我やエゴ。

    自分の我やエゴは、自分を常に支えてくれているからだをはじめ、自分を生かしてくれている有難い物事を、当然としてしまうところがある。

    有難さを当然として、傲慢になって勝手都合よく前に進んでいれば、必ず綻びが生じる。

    特に健康に関しては、そう言えよう。

    有難く生かされている中に真実や真理がある。

     

    そうはいっても、今の社会環境への適応ばかりに目がいき、忙しい日々を送っていると、自分の我やエゴが大きな位置を占めるようになってしまっている事もある。

    「何を学んでいるのか」と心の中で自分を叱咤し、自分の心のなかの我やエゴを自覚して懺悔する。
    そして、それでも有難く生かされている事に感謝し、激励される。

    そうした間もあって良いと思う。

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。
    来週は畠山裕美先生の担当となります。
    どうぞ、おたのしみに。

    友松 誠。