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  • 操体を学ぶと。

    佐伯さんからバトンを受けた 平直行です。
    年末年始のこの時期1週間お付き合いください。

    早い物で来年の2月で操体を学び始めて5年になります。

    感想は 面白くて凄いな。
    簡単すぎますか。

    本当にそうなんですよね。

    操体を学ぶと本当に日々が豊かになるんです。
    身体が元気に楽しく、それだけじゃないんですよ。
    もっと沢山の楽しさを僕は頂いてるんです。

    操体を学ぶと、痛みはありがたいサインだなって感じます。

    痛みがないとそのままほっといて、もっと酷い事になっちゃう。
    だから痛みはありがたいサインなんですね。

    操体を学ぶと痛みがあれば
    その他に気持ち良さもあるって分かるんです。

    その気持ち良さを聞き分けると。
    気持ち良さに従って身体を任せれば。
    身体は元の元気に戻っていく。

    痛みがあるからそれ以上悪くならないし、
    そのサインを感じたら気持ち良さのサインもあるから
    身体は元気になる。

    これって凄い面白いんです。
    それが分かってくるとありがたいなって感じます。

    そうやって日々を過ごしてると面白い事に気が付くんです。

    もしかしたら身体の事だけじゃないな。

    生きるって身体を動かす事でもあるから。
    身体を使って過ごす日々の暮らしも同じかな。
    僕はそんな風に感じて面白いんです。

    先日大事件があったんです。

    武術界の大先生に失礼をしてしまいまして、
    もう普通ならパニック状態になる位の
    ミスをしてしまったんです。

    ホンの一瞬焦って(笑)

    僕はお気楽に、こんな事を考えてました。

    あーやっちゃったな、これはまずいぞ。

    ウシシこれだけ困った事があるって事は。

    きっと上手く行く道筋があるって事だな。
    これは面白いぞ、良いなこれは。

    こんな変な感覚は、僕の中で当たり前になって来てるんです。

    困った事の道の、違った道を見つければ凄い良い事が来る。

    困った事は良い事を教えてくれる、運んでくれる。
    ありがたいサインなんです。

    操体を学んで僕はこんな事も覚えちゃいました。

    まずは困った状況から逃げないで味わう。
    そうしてると見えてくるんです、気持ちの良い道筋が。
    焦って動かない、じっくりと聞き分けながら行動する。

    操体みたいなんですよ、身体を使って生きてるんだから
    同じように僕は味わいながら聞き分ける事が
    面白いって感じるようになってきたんです。

    結局、その先生は笑顔で接してくださって。
    許してくれるどころか、色んな武術の
    お話を聞かせてくださって。

    凄いコツを僕に教えてくださったんです。

    多分普通には教えて頂けないような事を
    僕は何故か教えて頂いて。

    来年は先生の所にお邪魔させていただく事になったんです。

    凄く優しく僕に接してくれて。
    僕は凄く嬉しくありがたい気分でした。

    何でも困った事は起きない、それが生まれてきた意味。
    僕は操体を学んでそんな事を学んでます。

    普通は困るような事も僕にとってはありがたいサイン。

    それ以上やらないで注意して、味わってみれば
    必ず良い道を教えてくれる。

    だから何かあればそこには良い道、素敵な道が待ってる。

    そんな風に心から思えるように、
    操体を学んで変わってきたんです。

    生まれてきたって凄くありがたいな。
    そう感じて日々を過ごす。

    こんな時間って凄く楽しくて面白い時間ですよね。

    凄く楽しくて面白い時間の過ごし方を
    僕は操体を学んで頂いたんです。

    操体って施術だけだともったいない。
    施術だけを学んでも施術は上手く出来ない。

    僕はそんな風に感じます。

    1週間お気楽な僕のお気楽な文章にお付き合いください。

    平直行

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  • 操体庵ゆかいや物語(17)

             操体庵ゆかいや物語(17)
                 受験
                           佐伯惟弘

    私が初めてカルチャーショックを受けたのは、中学校2年、両親と弟、4人で高知県にいった時。

    私は、四国の愛媛生まれ。
    瀬戸内海に面した愛媛は温暖な気候で、喋り方もおっとりしています。

    「おまえ、なんしよ〜んぞ。そんなことしたら、いくまいが〜。」

    と、ゆっくり忠告します。

    「ほ〜かの〜。」

    ゆっくり答えます。

    まあ〜こんな会話に慣れていた純朴な中学生が、険しい四国山脈石鎚山は西日本で一番高い山)を背に、広大な太平洋を見渡す高知市へ。

    そこで、聞く初めての土佐弁。元気なおばさんが大声で、荒々しくしかも早口で、、、、何を言っているのかよく分かりません。
    ただ、呆然と突っ立っていた私。

    帰路の車の中で、全く会話が出来なかったことを良く覚えています。

    二番目のカルチャーショック。
    今週のブログ初日(主将の一言)で紹介した、松山東高等学校。

    私は、田舎の中学校では、1,2番の成績。まあ〜優等生のつもりでした。
    ところが、県内有数の進学校に入学して驚きました。頭脳の質が全く違うのです!!!

    遊びながら、余り勉強しないのに優秀な成績を修める人種と、学問を楽しむ人種の集合体でした。

    私は、そのどちらにも当てはまらない人種であることを骨の髄まで知らされ、彼らと競争することが無意味だと諦観してしまいました。
    今考えると、自分の器を知るありがたいカルチャーショックだと感謝しています。

    そこで取った対策は、勉強放棄(赤点を取らない程度の勉強)と、クラブ活動を満喫すること。

    そのため、高校3年間は、この世の春。楽しくて仕方がありませんでした。

    (野球部同期の似顔絵)

    悩み事が全くない人生、、、、悩んでいる人をみると、

    「何で、悩むことがあるんじゃろ?こんなに人生楽しいのに!」

    と不思議に思っていました。実に軽薄!

    他人が受験勉強をしているので、「そうか、オレもせにゃいかん」とただ流されるままに受験。
    何とか東京の私立大学に入学しますが、選んだ学部が経営学部。
    私に全く縁のない世界でした。
    このころから、少しずつ、人生について考えるようになり、人並みの悩みも持つことができるようになってきました。

    その後、紆余曲折あり(この時のエピソードも結構面白いのですが、、、今回は省略)、結局、筑波大学芸術専門学群を目指すことにしたのです。

    ところが、勉強はさっぱり。
    絶対的な自信を持っていたデッサン力も目を覆うばかりの実力。

    そこで、2年の浪人生活を決意してしまいます。
    そして、あれだけ楽しい高校生活を送ったのだから、ストイックな生活を送ってみたいという、妙なバランス感覚が生まれてきました。

    それからというものは、年間スケジュール、月間スケジュール、毎日のスケジュールを作り、5教科とデッサンの勉強に励むことになりました。

    何故か、成績もデッサン力も必ず向上するという自信があり、不安は全くありませんでした。

    デッサン力は、半年程たってから突然、学科は2年目の夏からは、悠々の合格ラインになりました。

    そして、合格。めでたし、めでたし、、、まあ〜よくある話です。

    今思うと、最も現実的な“行もどき”のようなものが出来た時期と言えます。
    特に最後の1年を「誰とも会わない」時期と決め、自分だけの時間を大切にすることができました。これも、家族の支えがあってこそ、、、ホントに感謝しています。

    しかし、なぜ今の時期に、30年以上前の受験時代のことを書いているか?というと、、、、、私、、、、、今年54才、3年後に国家試験を受ける身になってしまったからです。

    操体とは、ご存じの通り「自然法則の応用・貢献」。

    つまり、自然法則という神の知恵を有難く戴き、その知恵を正しく伝えることで、人類の幸せ、平和に貢献する使命を持つ教えであります。

    具体的には快か不快かという原始感覚を羅針盤とし、快の方向にからだを委ねることで、からだの歪みを正し、しいては生活習慣、生き方をも正していくという教えであります。

    つまり、施術者はあくまで指導者であり、治療するのは、被験者のからだということになります。ですから、操体の施術者は、「治療者という肩書き」を実際には必要としません。

    しかし、操体の教えを実践し、被験者のからだが良くなっていく事実を目の当たりにすると、操体の理念を知らない人には、単なる治療者と映ります。

    そこで、「治療者という肩書き」が便宜上、都合が良いということに、、、、まあ〜理屈をこねれば、こうなります。

    そんな訳で、来年の4月から都内の専門学校・鍼灸科に入学するため、長年住み慣れた京都の山奥・美山町から、東京のど真ん中・世田谷区世田谷に引っ越すことになりました。

    カルチャーショックには随分なれてきた私ですが、生活するとなると、多少のショックはあると思います。
    もっとも、元々怠慢な私にとって、カルチャーショックは、お尻に火を付ける良い起爆剤なのかもしれませんが、、、、、

    今回は、30数年前の受験生活と、ひと味違った3年間になると思います。まあ〜「行」だと思い楽しみながら過ごすつもりです。

    ただ、今まで施術を受けておられたクライアントの方々との別れを本当に心苦しく思います。

    同門で、西宮在住の日下和夫先生に、しっかりとバトンタッチをし、クライアントの方々が、施術継続可能になるよう努力致しております。

    また、3月下旬には下記の住所になります。

    屋号:操体庵ゆかいや
    東京都世田谷区世田谷3−16−4 忍田荘106ケイタイ:09069387759

    午後2時〜9時まで、出張操体をします。
    施術料:5000円(但し、交通費1000円以上の場合、交通費を戴きます)

    次回のブログでは、医療専門学校の様子を「操体庵ゆかいや物語」の東京編としてお伝えしようと思います。お楽しみに!

    1週間のおつきあい誠に有り難うございました。
    来週からは、おまちかね平直行相談役の登場です。
    年末年始をはさんでの大忙し。お楽しみに!!

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  • ボクの「とうちゃん」

             ボクの「とうちゃん」
                           佐伯惟弘

    今日は、12月10日(文章を書くのが遅い私は、早めに書いています)、父・佐伯清明の誕生日です。生きておれば、80才。
    12年前の5月10日にあっけなく亡くなりました。
    余りにも早すぎる死、、、、、、

    ここまで書いて、全く言葉が出なくなりました、、、というより、様々な父への思いが渦のように浮かび上がっては消えていくため、まとまりません。

    きっと、12月10日は静かに父の霊を感じ入るだけで良いのだと思います。

    ですから、、、今日は、ただ浮かび上がったイメージや言葉をなるべく忠実に残していくだけにしましょう。

    私は父のことを、中学まで「とうちゃん」と呼んでいました。高校になって家を出て下宿生活をしたため、「おやじ」と呼ぶ機会を失い、今でも遺影にしゃべり掛けるときは、「とうちゃん」です。

    「とうちゃん」とうちゃんが、あちらの世界に行くとき、あいさつに来てくれたんよねえ。

    丁度、マギー(前の妻)と布団で愛撫をしている時、
    突然、空虚な時空がからだを突き抜けたことを今でもはっきり覚えとるよ。
    その瞬間、マギーが泣き出し、ボクはその意味することを、はっきり理解し、このことを言葉にしてはいけないとお互い悟った。

    それにしても、「とうちゃん」絶妙のタイミングで来てくれたよね、、、、あの状態でないとお互いが悟ることは出来なかったもの。

    「とうちゃんはのう、ホントは船乗りになりたかったんよ。世界中、色々なとこへ行けて、良かろがえ〜。」

    庭にある池の水を抜いて、鯉を穫ってるとき、「とうちゃん」は、ニコニコしながら喋ってくれたよね。
    泥まみれになって、ついつい本音が出たんじゃねえ。
    丁度、ボクが10才ころのことじゃった。ボクはよう覚えとる。

    「とうちゃん」の実家は、佐伯家より古い神社の野口家。その7人兄弟の末っ子じゃったけん、ホントは船乗りになれたかもしれん。
    けど、うちのばあちゃんが、目を付けて5人姉妹の長女のかあちゃんとお見合いさせられたんよなあ。
    20才で三つ編みのお下げ髪、おでこにニキビのかあちゃん。
    実は、一目惚れしたんじゃろ!

    ボクは聞いたことがある、
    お宮の5人姉妹は美人で評判だったということを。

    かあちゃんは、テレビを見とる時、ボーと、顎をつき出す癖がある。それをボクがからこうたら、(からかうと)

    「ひろむ、何言よんぞ、かあちゃんは、ワシの嫁ぞ!
    かあちゃんは、ギリシャ彫刻みたいな顔しとるじゃろが。あれで、算数もようでけるんぞ。」

    真顔で、ボクに言うてたなあ。
    かあちゃんは、嬉しそうにニコニコしとった。

    「結婚したとき、おとうさんは、カラスと生活しよったんよ。面白い人じゃと思った。そしてな、カラスが死んだとき、ポロポロ涙を流して、、、優しい人じゃと思うたわい。」

    かあちゃんが、ボクにそっと教えてくれたんよ。

    ボクは、「とうちゃん」と、日曜日の朝、鳥を見るのが一番好きじゃった。
    「とうちゃん」は紺色の着物に下駄を履いて、腕組みをしてた。
    ボクも腕組みをして、「とうちゃん」の真似。

    ジュウシマツの家族が嬉しそうに寄り添ってお喋りばっかりしてた。

    セキセイインコは、ルーシーショウのルーシーみたいに、ギャーギャー言うてうるさいし、、、

    カナリヤはこちらの様子を伺いながら、突然、オペラ歌手になるし、、、、

    あのまま、ずーとずーと「とうちゃん」と一緒にいたかった。

    「とうちゃん」のお通夜の日、ボクは枕元にズーとおったんよ。
    突然、

    「あの〜、お話して宜しいですか。」

    と若い男性が話し掛けてきた。

    「我々は、清明会という会を月に一度もって、教育について語っているんです。
    清明先生が校長の頃、ホントに楽しかった。
    先生は、
    “何でも、思ったことを一所懸命やってみろ。その前に、ワシに内容を話してくれ、結果は気にするな、責任は全てワシが取る。”
    とおっしゃってくれました。だから、ノビノビと思いっきりやれました。」

    男性は、静かに淡々とまるで、ボクが清明先生であるかのように語ってくれたんよ。

    「とうちゃん」は清明先生いうて、慕われとったんじゃね。

    お葬式のときは、800人もの人が来てくれたんよ。
    そして、みんながみんな、「とうちゃん」の突然の死を悲しんどった。

    かあちゃんが、野口のおばちゃんを見たとき、今まで堪(こら)えとった涙が堰を切ったようにあふれ出し、震えながら、

    清明さんは、佐伯に来てくれて、本当に一所懸命にやってくれました。佐伯を実家のように思って、尽くしてくれました。ホントにホントにありがとうございました。」

    精一杯、かあちゃんの本心を伝えよったよ。

    「とうちゃん」見事な生き様を、ありがとう。ボクは「とうちゃん」を誇りに思う。

    けど、手帳に書き込んだ退院後の沢山のスケジュール。何一つ出来ないまま、この世から去るなんて、心残りじゃったろう。

    「とうちゃん」ボクが、代わりにしてあげる。
    一所懸命生きて、「とうちゃん」の代わりをしてあげる。
    じゃけん、心配せんといて。そして、ボクをしっかり見守っててや。
    ボクが「とうちゃん」とゆっくりお酒を飲み交わすまで、見守っててや。

    そして、ボクが、もう一度生まれてくるときは、絶対「とうちゃん」とかあちゃんの子供になるけんな。

    ええじゃろう?ボクの「とうちゃん」

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  • 操体庵ゆかいや物語(16)

         操体庵ゆかいや物語 (16)
           「カメや!」
                    佐伯惟弘

    前回のブログ週間(8月3日〜8月9日)の操体庵ゆかいや物語(13)で、地元の小学生に絵本を読むシーンを覚えている方が、いらっしゃるかもしれません。

    これは、毎週水曜日の午前8時30分から15分程度、地域の有志が絵本の読み語りをするという活動です。

    そのなかで、隣りのウベさん(ドイツ人パフォーマー)が読んでいるトランキラ・トランペルトロイというカメのお話が面白いと評判になりました。
    そこで、この話を劇にして、地域の文化祭で発表することになったのです。


    (鹿防御ネットの仕事を集落の人々とするウベ・ワルタさん)

    絵本の読み手は30才から40才位の幼児を抱えた主婦が大半。
    その中で、私より年輩で小さなからだにもかかわらず、お腹から浪花節のような大きな声を出すとても元気な女性がいます。

    大阪から10数年前に越してきて、ログハウスで民宿を経営している田中さん(民宿名が、ボリジなので、ボリジさんと呼びましょう)。
    そのボリジさんこそが、絵本の読み聞かせや、劇の仕掛け人なのです。

    「あんな、佐伯さん。劇の主役のカメな、佐伯さんしてくれへん?ひまそうで、プランプランしてる人いうたら、
    佐伯さんしかおらへんちゅうことになってな〜。どう思う?」

                        
    「ちょ、ちょと待って!オレかて、忙しい時も、あるしな、、、、、いつ、その文化祭?」

    突然のオファーにうろたえる私でありました。

    「11月の30日」
    「え〜と〜、、、、、、あかん、あかん。残念ながら、その日な、東京へ行く日や!!!」

    と、胸をなで下ろすも、少し寂しい気がする私。

    「ほな、どうしょう??みんなな〜佐伯さんがカメということで、イメージ固めてもうててん(固めてしまったのよ)、、、、」

    カメの甲羅をかぶり緑色の顔をした私が、仰向きで
    足バタバタ、、、、こんなイメージが浮かんでしまいました。
    結構面白いかも、、、などと思いつつも、

    「、、、うううん、、、カメは作ってもうたら(作ってしまったら)?
    ほんで、誰かが、脇で台本読んだらええやん、、、」

    いい加減な答えです。

    「そうか、、、、そうする!ほな、佐伯さん、カメ作って。ついでに、舞台美術やってくれへん?」

    ということで私は美術の担当になりました。
    しかし、美術以前にこのストーリーを知らなくてなりません。そこで簡単に説明いたします。

           トランキラ・トランペルトロイ

             ーがんばりやのかめー

         ミハエル・エンデ(1929〜1995)作        

    主人公のカメ・トランキラは、偉大なるライオン・レオ28世が結婚式を挙げるという話を鳩の夫婦から聞きました。

    「偉大なるレオ28世なら、全ての動物を招待するであろう。」

    という鳩の言葉を信じたカメ・トランキラは、
    鳩でさえやっとたどり着くであろうという遠いライオンの洞穴まで、歩くことにしました。

    その道中、クモ、カタツムリ、トカゲ、カラスに出会い結婚式などとっくに終わってしまったと言われ馬鹿にされます。

    しかし、それでも結婚式があると信じたカメ・トランキラは歩き続け、やっと目的の洞穴に着きました。

    そこでは、レオ28世の息子レオ29世の結婚式が盛大に行われており、カメ・トランキラは、招待客の真ん中に招かれました。めでたし、めでたし。
    というストーリーです。

    数日後にうち合わせがあり、登場する動物達の衣装決めをすることになりました。

    この演出はウベさん。10名程の女性が演ずるわけですが、登場するのが全て動物なので、衣装はかなり重要になってきます。

    私は、動物の特徴を捉えて、形や素材のアドバイスをすることは得意です。
    役者の女性陣は、私の意見をしっかり聞いてくれ、また逆に自らの意見もしっかり話してくれます。
    非常に和やかで、楽しい時間を過ごすことが出来ました。

    それから、数週間たち、稽古の様子を見に行きました。

    すると、「佐伯のアドバイスなど、知ったことか!」という雰囲気。彼女達は、見事にオリジナルの衣装を作り上げ、演じているのです。

    「あとは、カメとライオン。佐伯さん、頼んだよ!」
    ボリジさん。

    「まかしといて!」

    と言ってはみたものの、カメをどうするか全く考えていません。
    ライオンが登場するのは最後のシーン。
    校長先生と教頭先生にかぶって戴くお面を描けば良いので、半日あれば作れます。

    しかし、問題は、カメです。
    主人公でありながら、舞台のそでを数メートルゆっくり動くだけです。
    板に滑車をつけ、カメを載せヒモで引っ張ることまでは、考えていますが、カメをどのように作るか全く考えていません。

    カメは主人公ではありますが、張り子のように作り物にすると、役者の邪魔になり、虚構の世界が前面に出てきてしまいがちになります。

    そこで、カメに似せた“石”を台の上に載せてみることを思いつきました。

    石は作り物ではなく本物。

    しかも、カメの甲羅のようでもあり、台に載せ動くと、カメと見なすことができる。
    また、本物の動かない石と役者の動きとが対比され、お互いのバランスがとれる。

    そして、虚構の芝居に“石”という“普遍の象徴”を置くことで、カメ・トランキラの“不屈の意志”および“他の動物とは違った時間軸”を表現できると考えました。

    (まあ〜、、、なんと理屈っぽい、、、)

    そう思いついて、庭を見渡すと石だらけ。
    早速、カメに似たおおきな石を見つけ、隣りのウベさんところへ、走りました。

    「なるほど、、、、それはオモロイ!」

    早速、ウベさんとこの大きな石を体育館へ運ぶことに。
    何とか、体育館のフロアーは台車で運べたのですが、それからがいけません。

    ステージとフロアーの段差は1m20cm程。
    石の重さは70〜80kgはありそうです。その上、ステージまでの階段は狭く、急勾配。

    とても、担ぎ上げることなどできません。
    その日は、フロアーと同じ高さの控え室に石を置き、後日対策を練ることにしました。

    その数日後、いやな予感。

    今から20年程前のちょっと間抜けな経験を思い出してしまいました。

    あれは、確か芦屋(兵庫県)の地下ホール。
    「地球という自らの肉体について」というまさに、操体的なタイトルのパフォーマンスを岩下徹氏(舞踏集団・山海塾)と慧奏氏(音楽家)で行った時のことです。

    私はステージデザインとパフォーマンスを任され、かなり実験的な試みを行いました。

    まず、ステージを入り口側に作り、入場者は必ずステージを通るようにしました。そのため、かなり遅く入場して来たお客は、入った瞬間、自分が役者になったような錯覚を感じ、驚きの表情を示します。
    まあ〜その面白いこと!!

    しかも、会場を埋めているのは、石、丸太、麦わら、砂など、観客の席は、大きな石の上に丸太を載せたベンチ。

    まあ〜森の中の舞踏会、、、、と言った雰囲気でなかなかのものでした。

    ところが、、、、その会場をパフォーマンス終了後、1時間で撤退しなければならなかったのです。

    つまり、数トンもある、自然素材をスタッフだけで、運び出す!
    そのことを知ったのは、当日。

    私は、気を失いそうになりました。
    「どうしょう?どうしょう?、、、、、しゃない、こうなったら、お客さんにお願いしょ!!」

    ということで、搬出自体をパフォーマンスにして、全員で運びきりました!!!実は、この搬出の方が、結構面白かったのです、、、めでたし、めでたし。

    う〜ん、今回の大きな石。
    このままでは、めでたく治まらない予感がします。あの時以上に気を失いそうなことが起こる不吉なものを感じました。

    その瞬間、

    「川へ行こう!川にカメがいる。」

    私は、車を走らせ、一目さんに川へ行きました。
    川に着き、ものの5分。
    イメージ通りの石は、私が来るのを待っていました。胴体、頭、足4本、尻尾と5m以内にゴロゴロ。

    喜び勇んでそれらを車にのせ、小学校の体育館へ。
    神様は粋な演出をしてくれます。その道中、ボリジさんの車と遭遇。

    「カメおるで、、、、カメ。」
    「ワタシ、今まで小学校におってんで!」
    会話になっていません。

    「カメやちゅうに!」
    私は、バラバラになっている石をカメに並び変えました。
    しばらく様子を見ていたボリジさん、一呼吸置いて、

    「カメや!」

    それを聞いたカメがボリジさんの方へ、ゆっくり歩いてきたそうな、、、、めでたし、めでたし。

    何で、こんなオチになってしまったの?これは“come here⇒カム ヒヤー⇒カメや”を掛けた、、、
    まあ〜その〜おやじギャグ!すみませんm( _ _ )m

    てなことで、何とかカメの準備も出来ました。

    11月30日の夜、東京からボリジさんに電話をしてみると、打ち上げパーテイーで盛り上がっている様子。

    「あ〜あ、佐伯さん。よかったで!特にライオンは迫力あった!」
    とのことで、一安心。

    それから数日後。
    劇の反省会があると連絡が入っていたのに、すっかり忘れてボーっとしておりますと、劇のメンバーにであいました。

    「佐伯さん、反省会やってるよ。私は仕事だから抜け出したけど、、、」と東京言葉(彼女は、東京からのIターン)。

    「あちゃ〜〜、忘れとった!」

    大慌てで、小学校へ。

    「あ〜佐伯さん、、、、ええ時に来た!」

    ボリジさん。
    他のメンバーもニコニコ顔で迎えてくれました。

    「今度の1月31日、平屋(隣りの地区)で文化祭があってな、劇することになってん。
    でな、あのカメ、小さすぎて見えにくかったんやわ〜。
    それで、佐伯さんがカメになるか、カメ作るということで話がまとまてん。1月31日出来る?」

    あれだけ考えあぐね、作ったカメを一刀両断。
    そして、遅れていった手前、全体の流れも知らないまま、

    「え〜と、今度は出来る!」

    というのが精一杯。
    何だか訳がわからないうちに、私のカメは、年を越して、来月末まで、続くのでありました。めでたくもあり、つらくもありの、、、めでたし、めでたし。

    ちょっと、ちょっとまった!

    これでは、私の意見も主張も何一つ通っておりません。
    照明の当て方だけでカメが全く違ったものになります。どのような劇になったのか?一度ビデオを見てから考えることにしましょう!

    あ〜あ〜どうもこれから、また一波乱ありそうな予感です。

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  • 操体庵ゆかいや物語(15)

            操体庵ゆかいや物語 (15)
       

             年忘れ寄席(落語会) 
                           佐伯惟弘

    さて、久しぶりに本日は「操体庵ゆかいや物語」の看板で、ブログを進めたいと思います。

    気楽にお読み下さい。

    以前にも何度かふれましたが、京都の山奥・美山町のそのまた奥の田歌という集落に私は住んでおります。

    今、窓越しに見える蔵のある大きな家、、、もう10年程前から空き家です。
    その隣りの家には、ドイツ人の音楽家でパフォーマーのウベ・ワルタさん一家が住んでいます。
    長男は、ドイツの大学で宇宙物理学という難しい勉強をしています。

    私がこちらへ移り住んでから、もう18年。
    その後に、ウベ・ワルタさん一家が移り住み、新住民がこの田歌集落に少しずつ住み始めた頃、我々一家はアメリカへ移住。2000年の夏でした。

    東京で操体を学んだ私は、2003年に再びこの集落にたった一人で戻ることになりました。
    私がいない間に、一気に新住民が増え、新住民でいることの不自由さが全く無くなっていました。

    そんな新住民の中に、毎日3時間かけて西宮(兵庫県)まで通っている豪傑がいます。
    名刺には、「美山育造(みやまいくぞう)」のペンネーム。美山に移住し、美山を育て造り上げる!という大きな志を持った方です。

    その育造さん、3年がかりで、ログハウスを建て、現在は、もう一軒大きなツーバイフォーというアメリカ式の住宅をコツコツと建てています。
    その間、二本の指を切り落としたのですが、余り気に掛けていないようです。

    育造さんは、多趣味ですが、一番の趣味はお酒。
    飲んだら目がすわり、短くなった指に挟んだタバコを吹かしながら様々な講釈が始まります。
    その語りの滑らかなこと、、、まるで落語家のごとし!

    そうなんです。実はこれが言いたかったのです。
    育造さんの素晴らしい講釈は天性のものではありますが、長年の“寄席通い”からくるところも多いようです。

    これからは、私の勝手な推測。
    寄席を見終わった後、

    「桂三〇師匠。わて、師匠の大フアンですねん。ちょっと、お付き合いして戴けまへんやろか?おごりますさかい。」

    「そうでっか?ほな!」

    ・・・・・・・・

    「、、、で、師匠。わて、美山ちゅうとこに住んでますねん。
    これが、またオモロイとこで、、、、鹿が出て来ては、

    “クーチュクレー、クーチュクレー(喰うてくれ、喰うてくれ)”

    ちゅうて、うるそうて、うるそうてカナイまへん。
    そこまで、言うんやったら、、、、

    しゃない!喰うたる、ちゅうて〜、毎晩喰うてますねん。
    師匠。何やったら、喰いに来はりまっか?」

    「ほうか?何や、、、喰うてやらんと、かわいそうやなあ〜」

    「そうでっしゃろ?ついでに落語でも、してもろたらええこっちゃあし(してもらうと良い事ですし)。鹿が笑いながら成仏しまっせ!」

    まあ〜こんなノリでいつしか、田歌公民館のクリスマス恒例行事になってしまいました。

    今年で、7回目になります。噂が噂を呼び今回は、我が家の上(山側)にある洞雲寺というお寺で行うことになりました。
    田歌ばかりでなく、他の集落からもお客さんが来るようになり、大広間が必要となったからです。

    木戸銭が500円と破格の上、今回は桂三風さん・旭堂南湖さん・月亭遊方さん・笑福亭たまさん・桂あやめさん・桂三金さんと超デラックスなメンバー。嘘みたいなはなしでしょう?


    (毎年参加して下さる桂三風さん)


    (若手のホープ笑福亭たまさん)

    古典落語創作落語、講壇ありの大爆笑!!
    あっという間に2時間が過ぎていきました。

    今度は、場所を田歌公民館に移し、忘年会を兼ねた大宴会。
    ここで、活躍したのが、新住民・藤原誉(ほまる)さん。
    http://www.cans.zaq.ne.jp/fuajs500/tauta/tauta.html
    藤原さんの活動は、このホームページにぎっしり載っていますので、紹介は省きます。とにかく行動力のある頼もしい方です。
    藤原さんが穫った鹿を、奥様が料理。これがまた上手い!!!!

    こうして、笑い納め、鹿食い納めで天皇陛下の誕生日をお祝いし、クリスマスを迎えるという、贅沢な田舎生活でした。めでたし、めでたし。

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  • 球心機動

    球心機動
                    佐伯惟弘

    それにしても、大胆な試みをしてしまったものです。

    俳句の世界を全く知らない者が、俳人・松根東洋城と幼い時に交流があったという理由だけで俳句の本質を語る。


    (上は、佐伯一家。東洋城先生に買って戴いた赤胴鈴之助を着る私。東洋城先生の写真と、私宛の手紙)

    これは、所詮無理があります。ですから、特に俳句をなさっている方は、あまりムキになってお読みにならないで下さい。

    何故、私が俳人・松根東洋城の球心機動を書くようになったかというと、遠い存在であった祖父・佐伯巨星塔が、生涯追求したのが、球心機動。

    孫として、祖父の歩んだ道を訪ねてみたい、少しでも祖父に近づきたいという思いがあったからです。

    とはいえ、何とも、、、、ドンキホーテ、、、

    それでは、少々無謀な旅を始めたいと思います。

    東洋城は、

    麦蒔(むぎまく)やたばね上げたる桑の枝

    五月雨(さみだれ)や大河を前に家二軒

    雲雀(ひばり)より上にやすらう峠かな

    この三句を解説しています(漢詩調の文章なので、口語文に出来るだけ訳してみます)。

    最初の二句は、構図が実にはっきりしており、第三句のみが、漠然としています。

    そして、雲雀より上・やすらむ・峠に至っては第一に、そのやすらむのは自分だか他人だかハッキリせず、やすらう峠と続くことで、やすらう人の動作と地形の峠との相関がピンぼけになっています。

    雲雀に関していうと、雲雀より上という表現で、雲雀から脱離し雲雀の外を意味することになっています。

    実際には、ある人間が確かに休んでおり、その投げ出した足の先よりも低い空中に雲雀は飛ぶ。
    その人の位置は、山の峠の高い所に違いありません。

    しかし、一句の表現だけでは、非常に漠然としています。強いていえば、高く飛ぶ雲雀より上の空の高い所ということがこの句の究極になります。

    つまり、大空の一点にその人の存在地点があり、その空間の一点に身を置くことになります。

    その空間の一点に身を置くということはどうなのかというと、「前後上下四方八方を自己の環境にすること、即ち立体の中、その芯に自己を置くこと」であります。

    これは、外向きには、全宇宙。
    内向きには、全身全霊。つまり、外にも内にも浸透し、融通無碍(ゆうづうむげ)なるあらゆる広がりを持つことになります。

    そして、夏目漱石の言葉・則天去私に始まり、八面玲瓏(はちめんれいろう)=“完全に透き通った状態”に到ることを意味します。

    ところが、第一句は、平面的な描写の小品で、壁に掛けられた画面と額縁を同時に鑑賞するようなもの。
    第二句は、同じ平面でも画面の輪郭は額縁を超え外にまで氾濫しています。

    第三句にいたっては、平面ではなく立体で、しかも、作者及び読者が、立体の中心に立ち、その中心が立体そのものを構成し、保持しそれに充実するかの状況であります。

    また更に、その句の成立過程に大いなる違いを見いだすことが出来ます。

    第一句は、子供が一度見ては一点を、又見ては一線をと克明に筆を運ぶ絵画制作のようであり、第二句は、同じ絵画でも才気あふれる画家が、陶酔した状態で筆を走らせその芸術欲を満足させています。

    しかし、第三句に到っては、もう絵画ではなく、コツコツと功を積み、力を事に当たって極め、至誠を尽くし天に祈願した修行精進そのものであります。
    この第一句・子規、第二句・蕪村、第三句・芭蕉

    松根東洋城は、このように、三句を比較し松尾芭蕉の俳句に対する姿勢の素晴らしさを解いています。

    この芭蕉の姿勢を東洋城は“球心機動”という造語で説明しています。

    “球心”とは、文字通り球の中心という意味です。
    そして、一つの点です。
    点とは、位置があって形のないものです。
    位置があって形がないという事が俳諧の生命の宿る所なのです。

    (中略)

    外から見る事は出来なくても確かに球の中心はある。
    考えたのでは分からない、ただ頭の中で感じるだけの問題です。これが、“球心”です。

    “機動”とは、“機に臨み変に応じて変動自在、変通自在であるという意味です”。

    東洋城は俳句の本質は、球心と機動を兼ね備えたもの、つまり、
    “機に臨み変に応じて変動自在に生命の宿る場所(東洋城は、これを−魂の位置−とも言っています)を感じとること。”
    としたのです。

    そして、東洋城が若いときに作った句は、無意識ながらも一句一句が、球心機動へ行き出来た句である事を後になって発見したと言っています。

    また、芭蕉の句は全て球心機動であるが、読み手の態度も球心機動でなければ、出来たものを受け取ることは出来ないとも諭しています。

    芭蕉は、“俳諧は無分別の所に在る”といいましたが、

    “無分別”とは意識的に科学的に分かるのではなく、心の置き方を“球心機動”にすえること、つまり、心を宙に浮かし無意識に感じることを説いたのです。

    (ここまで読んで、操体臨床を行っている同志には、ピーンとくるところが多々あると思います。しかし、今回は、敢えてそれらのことには触れないで進みたいと思います。)

    東洋城は、球心機動とは別に俳諧修行をする上での心構えを、

    “志は絶大に大きく、気は猛く強く、情は心の中で深く豊かに溢れこぼれる程持ちはするが、表現には極めて微(かす)か”

    と述べています。

    また、この教えは俳諧に縁のない人々も、日常、飯を食うこと、子供を育てること、炊事をすること、外で働くこと、そうした日常の生活において人は、

    “志は大、気は豪、情は微か”

    で処していけば大抵の事は間違いないとしています。

    ここで、東洋城の教えを実践していった祖父・巨星塔との生活を思い起こしてみようと思います。


    (東洋城先生が命名した一畳庵は、祖父・巨星塔の書斎)

    着物姿で正座し、書斎で俳句と書をたしなんでいる祖父。
    そこへ、小学生の私が帰ってきます。

    「ただいま、じいちゃん。あんなあ、ボク、、、、きょう学校でおこられたんよ。」

    「おおう、そうか、なにしたんぞ」

    「また、忘れもんしてしもうたんよ。」

    「おおう、そうか。」

    「ほじゃけん、また、廊下に立たされたんよ。」

    「おおう、そうか。」

    だいたい、このような会話だったと思います。私が一方的に話かけ、祖父が聞くだけというパターンでした。
    しかし、ただそれだけで、私の心は落ち着き、安心するのでした。

    そんな祖父との会話で、強烈に脳裏に焼き付いている言葉がいくらか在ります。

    「ひろむ、日本という国は、素晴らしいんぞ。日の丸の旗は太陽なんぞ。他の国の人がうらやむ位の旗じゃ。」

    「こんな田舎じゃからこそ、俳句という文化が必要なんぞ。俳句はのう、世界で一番短い詩なんぞ。」

    「弘という漢字は、“ものごとをひろめる”という意味があるんぞ。」

    これらの言葉には“志は大、気は豪、情は微か”という教えがしっかりと入っています。

    敗戦国として、国全体が自信を無くしている時、地域の人々に、壮大なスケールの世界一短い詩を教えることを使命と感じた祖父。

    人々に勇気を与え、自信を取り戻すという仕事を祖父は地道にやり通し、その生き様を私に示してくれました。

    そして、“機に臨み変に応じて変動自在に魂の位置を感じとる”という球心機動そのものを目の当たりにしたのは、祖父が亡くなる前日でした。

    意識が無くなり、昏々と眠っている祖父の周りを、親族一同が見守っていました。
    そして、私が祖父の右足をゆっくりと揉んでいる時のこと。

    突然、祖父の上体が、静かに浮かび上がるように起きあがってきたのです。
    その場にいた全ての人々は、ありえないこの事実に目を疑い、この世とも、あの世ともいえない世界に引きずり込まれました。

    祖父は右手をゆっくりと顔の横までもっていき、時計回りに一人一人と目を合わせ、最後の挨拶をしていったのです。
    誰かの「おじいちゃん、おじいちゃん、、、、」とひきつるような言葉。
    そして、「おじいちゃん、ありがとうございます。」
    後は、嗚咽の声。

    私は、吸い込まれるように、だだ祖父を見入るだけでした。
    挨拶を終えた祖父は、静かに床に付き、満足した寝顔。

    私は、堰を切ったように泣きだし、嗚咽の波が部屋中を駆けめぐり、天空へと舞い上がります。
    それから祖父が動くことはありませんでした。

    祖父の魂が高天原神道におけるあの世)に行く状態になったとき、祖父の肉体を通して無意識の動き誘い操ったのだと思います。

    もうこれは、意識のレベルではありません。日常における“行”の集大成が、あの祖父の“最後の挨拶”だったのです。
    そして、それこそが求心機動だったのです。

    “じいちゃん、ほんとうにありがとうございました。”

               (完)

    明日からは、操体庵ゆかいや物語をスタートします。
    では また明日!

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  • 私の祖父・佐伯惟揚(さいきこれあき)は1898年・明治31年生まれ。操体創始者の橋本敬三先生と同世代です。

    祖父は8才の時から俳句を作り続け、86才で生涯を終えました。若くして小学校や中学校の校長を歴任し、1953年(昭和28年)に退職。その後は俳人としての人生を歩みました。

    私が生まれたのが、1954年(昭和29年)ですから、物心が付いた頃から、俳人・巨星塔の生き様を目の当たりにしていた事になります。

    祖父の生活はいたってシンプル。
    起床後、白装束に着替え、神社で太鼓を打ち、地域の人々の幸を思い祝詞を上げます。


    (宮司・佐伯惟揚、お祭りの時の装束)

    それからは、夕方に祝詞を上げるまで、俳句三昧。
    前日紹介した松根東洋城先生主催「渋柿」の同人になっていた巨星塔は、7句会で俳句指導に当たっていました。

    仮に弟子1人が10句詠み、1句会20人で200句。200句×7=1400句

    単純計算で毎月1400句近くの俳句添削を行っていたようです(実際には、総勢180名の弟子)。
    これらの作業以外に自らの俳句を詠んでいたのですから、俳句三昧に成らざるを得ませんでした。

    「ひろむ、おいで。」

    と書斎に呼ばれ、孫の私は、分厚い手紙の束を近所の郵便ポストまで運ぶのが仕事でした。
    今思うと、あの手紙の束がお弟子さん達への、添削用紙だったようです。

    読書嫌いの私にとって、祖父の文字は難解で読みづらくは、ありましたが、大好きでした。
    凛と正座をした祖父の手から、流れ刻まれていく書体の妙。そこには、祖父の生き様が表れていました。

    しかし、それと裏腹にあまりにも高尚で近寄りがたい波動が、これからの長い人生の深遠さを幼い心に植え付けていきました。

    「ぼくは、じいちゃんみたいに、ゼッタイなれん。俳句みたいな、むつかしいことはやめとこ!」

    読書コンプレックスの私が思い込むのは、当然のことで、祖父の様になりたいという憧れを持つ、勇気は持ち合わせていませんでした。

    きっと、この経験を通して、書に対しては心地よい正の反応。
    俳句のような言葉による表現・文学作品には逆に、負の反応を示すようになっていったのだと思います。

    俳人・巨星塔の元には、様々な人々が訪ねて来ます。
    ある日のこと、ボロボロの作業着の上に、真綿を入れたツギハギだらけのちゃんちゃんこ(地元では、デンチといっていました)を羽織った老人がやって来ました。

    「巨星塔先生は、おられますかいのう(いらっしゃいますか)」

    お酒が入って赤ら顔の老人は、いきなり玄関に座り込み長居を決め、手には、自作の句を書いた短冊を数枚持っています。

    あわてて祖父を呼びにいくと、

    「おう、、バイコウさん、、、ようこられましたのう」

    と、おっとりとした態度の祖父は、嬉しそうに微笑んでいます。

    俳句を学ぶ人は、それぞれの俳号を持っています。
    俳句三昧の生活を送っている祖父は、近所づきあいをしている知人でも、常に俳号で呼び、日常の会話で飛び交う人の名の多くは俳号でした。

    まさに、句会の延長が日常だったといえます。
    バイコウさんも、そんな中の一人でした。

    長々と俳句の話しをしているのは分かりましたが、
    どんなことを話しているか、私には見当がつきません。

    ただ、祖父の

    「あの人は、あんな格好をして、お酒を飲んでくるけど、ええ句作るんぞ。」

    という言葉がいつまでも心の中に残っています。
    祖父は、自由人であるバイコウさんの生き方を認め、私には、

    「人を見てくれで判断しては、いけんぞ。」

    というメッセージを投げかけてくれました。
    また、俳句のもつ自由さ、深遠さをバイコウさんの容姿、態度から感じとることはできました。

    しかし、俳句に関心を持つことがなかった私にとって、俳句を通して祖父を語ることは、この程度しか出来ません。
    私にとって俳人・巨星塔は、あまりにも遠い存在なのです。

    そこで、祖父が80才の時に自費出版した「黛石」という本の中から、祖父の生き方を紹介したいと思います。


    (黛を濃いうせよ草はかんばしき という東洋城の代表句から命名)

    まず、これほどまで長年の間、俳句を続けていたのに、何故たった一冊の本しか出版していないのか、、、しかも、弟子の勧めでやっと、、、という素朴な思いが生まれます。

    それは、この本を読んで行くうちにぼんやりと分かるようになってきました。一言でいえば、「俳句とは行(修行)」だからなのだと思います。

    一節を抜粋します。

    私が近頃、貴方達に向かって、頻りに「一句は一悟なり」を提唱するのは、次の如き私の体験に基づいてのことである。

    私は少年時代からよく不眠に苦しんだりする生来の
    神経質で範窓(師範学校)を二年休学し、教職中でも一年休職の止むなきに到った。

    私は悲愴な覚悟を以て単独上京し、森田正馬医博の門を叩き、その診療に身を委ねた。

    全く背水の陣を敷いての斗病である。
    小石川の森田邸に住み込み、満五十日、一服の薬も、一本の注射も受けず、朝から晩まで息もつがせぬ作業療法で、十有余年にわたる宿痾を雲散霧消させることが出来た。

    “石ころは石ころである麗かな”

    の一句はその時の悦びを詠った諦観の境涯句なのである。
    博士への礼状へ此の句を書き添えたところ、
    博士より、禅語にも比すべき佳吟として褒められた。私は、学界の権威者から褒められたので一人嬉しく思うた。

    とありますが、祖父はその行と句を対比して、次のように述べています。

    虎穴に入って虎児を獲たにも等しい苦行と、それによって得た、石ころの句といづれが尊いかと自問して、如何に当代の碩学から褒められたとはいえ、石ころの句の方が尊いとは自答し得なかったのでる。

    とあります。俳句そのものより、それに取り組む姿勢、生き方が尊く、それが悟りへの道であると言っています。

    先日の塾操体操体臨床家の勉強会)で、三浦先生が重そうなもの入れた風呂敷包みを持って来られました。

    その中には、この一年間の日記。

    しかし、これはただの日記ではありません。
    操体全般における、新たな気づきを図解入りで記載した宝の山でした。一冊が1.5センチから2センチ位に膨れあがった厚さの日記が12冊以上。

    この宝の山そのものも、凄いのですが、それ以上に早朝から施術の合間を縫って、コツコツとかき続けられたその“行”にこそ、我々が平伏してしまう求心力があるのです。

    そして、三浦先生は、
    「これは、君たちのものだ。どうぞ、勉強して下さい。」
    とまでおっしゃり頭を下げられたのです。放下そのものです。

    何という見事な生き方でしょう!
    三浦先生の操体に取り組む姿勢こそ、私のお手本であると改めて確信できました。
    そして、俳人・巨星塔の歩んできた道を、操体という道を通して追体験できると思えるようになりました。

    こんな師の周りには、同じ様な波動を感じる若く才能のある人々が、渦巻きに吸い込まれる様に集まってきています。

    地球の反対側からもそんな動きが始まっているようです。
    先日、全く見ず知らずのフランス人から、操体を習いたいが何かいい方法はないか?とメールがありました。

    三浦先生のことを簡単に紹介し、本人のやる気を伺うメールを送りました。
    帰ってきたメールによると、本人は指圧を勉強し、操体は本でしか知らないけれども、興味があるということでした。今後とも連絡を取り合ってみようと思います。

    祖父が生きた頃には、その行から発する波動の広がりは、愛媛の中予(松山文化圏)止まりでしたが、想像を超えた情報網の発達によって、今や三浦先生の成されている行は、瞬く間に地球を一周しようとしています。

    しかし、情報として伝わる操体には限界があり、正確に伝わらないという危険因子を含んでいます。

    このような状況の中、三浦先生の弟子として、また俳人・巨星塔の孫として、私のすべきことがぼんやりと見えてきたような気がします。
    祖父が俳句三昧の生活を始めたのが、55才。私は来年55才になります。どうやら、私も“行”を意識する時期になってきたようです。

    明日は、祖父の師・松根東洋城の球心機動について話したいと思います。

    佐伯惟弘

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  • 主将の一言

    今先生からバトンを受け、これから一週間
    担当致します佐伯惟弘です。お付き合いの程、ヨロシクお願い致します。

             主将の一言 
                    佐伯惟弘

    ブログの世話人・辻実行委員から、「佐伯さんのブログは長い!」とよく突っこまれます。何も好きこのんで長く書いているつもりはないのですが、収集がつかなくなり、気が付いてみると、、、、長い!

    これは、言葉の表現に対するコンプレックスからくるものだと思います。
    私は、小学校の頃から、国語の成績が良くありませんでした。漢字を憶えることは、出来るのですが、読解力がないのです。

    そんな私を心配して、父親が少年少女世界名作全集や、シートン動物記、ファーブル昆虫記などを買ってきて読むように勧めてくれました。

    私は、さし絵の大きく美しいものから何とか読み始めます。
    「日向が丘の少女」このさし絵は、抜群に美しい。
    私は、麦わら帽子をかぶり、ドレスをきたアン・ルイスのような少女に一目惚れ。
    時間をかけてゆっくりと読んだものです(というか、、、読解力の無い少年は、早く読むことが出来なかったのです!)。

    どうやら、この時に嫁さんがアメリカ人となる(結婚生活は10年間でした)という布石を父親が作ってしまったようです。

    シートン動物記では、「オオカミ王ロボ」「灰色グマの一生」等を感動の涙を流しながら読み切りました。しかし、これもさし絵がなんとか宿場町となって、読書という旅道中を支えてくれました。

    ところが、ファーブル昆虫記となると、もう付いていけません。
    まず文字が小さい。そしてさし絵が少ない。
    この二つの条件が重なると、本という空間に私の心とからだがとけ込まなくなります。そして、本以外の空間からお誘いが次から次へと、やって来るのです。
    もうこうなると、いけません。

    笠も合羽(かっぱ)も草鞋(わらじ)も捨てて、神社の境内で遊び回っていました。

    私の読書に対する興味のなさを、察知した父親が次にとった作戦は、「小さな目」。

    これは、小学生が作った詩を大きな文字と元気のいいイラストで綴った詩集です。
    教師をしている父親らしいアイデアに、まんまとはまりました。

    「子供の視線って、すごく面白い!」とワクワク納得しながら読み耽っていました。

    読書嫌いの子供がその面白さを体験することが出来た貴重な本です。
    ところが、それ以降がいけません。

    やはり、気が付いてみると境内で遊び回っていました。

    こんな調子で大人になってしまった私は、文章を書くなどということは、全くの他人事。
    根深いコンプレックスを持ったまま、現在に至っています。
    そのため、未だにブログは、一ヶ月も前から書き始めて、準備しなければならないのです。

    そんな私が、今以上に文章を書くことが出来なかった、というより、全く文章を書く習慣がなかった9年程前、大学の先輩から電話がありました。

    「野球部創設25周年記念で、各学年から2〜3人、寄稿を募ってるんだが、、、、佐伯、頼む!」

    1学年先輩で、当時主将をしていた小板橋さんから絞り出すような声。

    三人の子供のため、遅くまで残業をし、早朝に出勤の生活をしていた私にとって、非常に重い課題でした。いつの間にか、忙しさのため、その課題の存在さえ忘れる始末です。

    一ヶ月程して、再び小板橋さんから連絡がありました。私以外のOBから原稿が集まり、これから編集の作業に入るとのこと。

    受話器の向こうから、僅かな希望をいだきつつも、私の原稿を諦めて沈んだ表情の小板橋さんが浮かび上がってきました。
    野武士を彷彿とさせる小板橋主将の眼光が、やけに弱々しく放たれていました。

    「無理なことを頼んで、申し訳なかったな、、、」

    この一言で、やっとお尻に火がつきました。
    「こりゃ〜大変なことをしてしまった。何とかせにゃいかん!!」と、火事場の馬鹿力。
    その結果、何とか出来た「エッセイもどき」が下記の「神社の境内」というものでした。

               神社の境内

    私の出身高校は愛媛県立松山東高等学校、旧制松山中学校。

    松山中学校は、夏目漱石が英語教師として赴任し、小説「坊ちゃん」の舞台となったところである。

    この漱石の教え子に、近代俳句の創始者正岡子規を始め、高浜虚子河東碧梧桐ら数多くの俳人がいた。
    のちに子規は、アメリカから伝わったベースボールを松山に紹介し、近代俳句王国・野球王国愛媛の草分けと唱われるようになった。

    その子規から俳句を教わった友人に、宇和島伊達藩家老の父(松根図書)を持つ松根東洋城という俳人がいた。

    東洋城は夏目漱石を人生の師と仰ぎ、京都帝国大学を卒業。
    その後、宮内庁の官僚を歴任。
    第二の人生を俳句活動に捧げた人物である。
    東洋城は一生涯を独身で通し、東京を生活の場としていた。

    そして、松尾芭蕉の壮大な宇宙観こそ、俳句の王道と考え、“球心機動”という造語を直感的に生み出した。

    これは、俳句を生み出す時の境地であり、「この状態でなければ、本質を捉えた俳句が生まれない」と東洋城は、言い切っている。
    この王道を伝えるべく、東洋城は愛媛各地を行脚していった。


    (東洋城が、百日桜と命名した桜と社務所)

    そんな折り東洋城は、いたく居心地の良い茅葺き民家を見つけだす。
    その民家は、樹齢千年近くのウラジロガシを御神木とする神社の社務所であり、宮司の生活の場でもあった。

    火成岩でできた鳥居をくぐると小高い階段がある。
    その階段を上ると、乾いた細かい土の境内。その後方には、左から徐々に右上がりになってゆく石垣。
    それは中央から右にかけて7メートル程の高さを保ち、落ち着きをもった明るい境内を見守っている。

    その石垣の上に茅葺きの社務所がある。
    東洋城はこの社務所から見下ろす絵巻物のような風景に一目惚れをしたらしい。

    川向こうの山屏風には、波打つような棚田。
    点在する民家からは夕餉の煙が立ち上り、手前にある杉巨木の天辺では、カラスが鳴く。

    そして、足元の境内では子供達の笑い声がこだまする。
    一生を独身で過ごそうと決心した東洋城には、桃源郷と思えたに違いない。
    言うまでもなく、東洋城はここで長居をすることになる。昭和25年の秋のことであった。

    東洋城の世界とは全く関係なく、子供達は流行りの遊び・野球に夢中である。
    境内が野球場、高い石垣はフェンス、社務所の茅葺き屋根はバックスクリーンである。社務所にいる“変なおっさん”の所まで誰がボールを打ち上げるかが一番の関心事である。

    「ワシが打ちゃるけんの、見とれや。」
    「なんしよんぞ、空振りぎりして、下手くそじゃのう。」
    「じゃかましいわい、見とれよ。あのおっさんのなあ、メガネ割っちゃるけんの。」

    こんな調子の元気なやりとりがあったに違いない。

    正岡子規によって松山に紹介された野球が、瞬く間に子供たちの遊びとなり広がってゆき、また子規から俳句を学んだ東洋城が、俳句指導のため片田舎の社務所に逗留することになる。

    明治の動乱期を突っ走った子規の情熱が、東温市(旧川内町)河之内にある惣河内神社(そうこうちじんじゃ)に息づき、新たな展開をしていったのである。

    その中で最も感化を受けたのは、社務所の宮司佐伯惟揚(俳号・巨星塔)私の祖父であった。
    東洋城の二度に渡る約一年半の滞在(東洋城は座敷横の一畳半間を“一畳庵”と称し生活の場とした)の後、祖父が東洋城に代わり俳句の普及に努めた。

    社務所では月に何度も句会が設けられ、年に一度“ドジョウ汁句会”と呼ばれるドジョウ汁を食しながら俳句を詠む会が催された。
    現在でも、この句会は場を川内中央公民館に移し、八月の第一日曜日に行われている。

    社務所での事などつゆ知らず、境内はクモの巣をつついたように子供たちで溢れ、ボール遊びに興じている。
    そして、細い丸太を削り込んだバットを振り回し、茅葺き屋根のバックスクリーン目がけてホームランをねらうのである。

    たまたまボールが真芯に当たると、茅葺き屋根に吸い込まれる様にボールが小さくなってゆく。この瞬間、身体中がこみ上げる歓喜の渦に舞い上がる。

    その後は、祖父の
    「コラッ、誰ぞ。ここまでボールを飛ばしたんは。」

    と、お褒めとも、お咎めとも取れない大きな声が待っていた。
    「エヘヘ、、、ぼく。」

    何とも言えない満足感にひたっているのである。
    この様な原体験を持っている少年は、大学に入っても身体のどこかにその記憶がある。

    生まれて初めてホームランを打ったのは、明治学院大学のグラウンドであった。

    (おっと、、これは、ファールチップ。捕手の頭上に注目!)

    その時に見た打球は、茅葺き屋根に吸い込まれるボールであり、小板橋主将の「でけえー。」という大声は、近所の子供達の歓声であった。
    ベースを回っている時は、祖父の

    「コラッ、誰ぞ。ここまでボールを飛ばしたんは。」
    という声が聞こえていたのかもしれない。

    私の野球の原点は、境内でのボール遊びであり、境内での様々な遊びが私の芸術活動の原点である。

    輪切りにした木や、石ころ貝殻などで、立体作品や平面作品を子供達とともに作る“積み木” という活動を二十年間行った。

    平成七年に、ニューヨークのバファロー市にあるアンダーソン・ギャラリーで行った個展では、原木輪切りを五十センチから三メートルまでの高さに積み上げ、鎮守の杜を作り、綺麗な落ち葉を敷き詰め、お供え物とした。

    また、長い階段を作り、下った先には大きな砂場を境内として設置。そこでは子供達が自由に遊び回っていた。
    これはまさしく少年期の境内での遊びそのものである。

    私にとって、野球も芸術活動も少年期の境内での遊びを原点として、うず巻状に拡散してゆく流れに位置する。

    その原点にボール遊びを持ち込んだ正岡子規のお陰で、今の私がある。私は祖父が俳句に打ち込んでいる姿を見て育ち、安心して思いっきり遊ぶことができたように思う。
    そんな私を育んでくれた神社の境内にこころから感謝をするのである。

    筑波大学硬式野球部二十五周年記念誌 -なせばなるー
    寄稿文(一部修正)

    火事場の馬鹿力で一気に書き上げたこの「エッセイもどき」、幼い頃のイメージと大学でのイメージを重ね合わせて、絵画技法・コラージュのように表現してみたのです。

    「あれ?出来た!、、、結構おもしろい。」
    この過程で感じた、快の予感と出来上がったときの気持ちよさ(快適感覚)が、長年私を縛り付けたコンプレックスというものを、多少は払いのけてくれました。

    この「エッセイもどき」以来、言葉で表現することに快の予感を見いだし(依然として言葉へのコンプレックスは持ち続けているため、快の予感が無ければ、ただの苦痛です)、言葉を通して自分と向き合うことの大切さを学ぶことが出来ました。

    あの時の小板橋主将からの一言のおかげで、遠い存在の俳人であった祖父の世界を、ほんの少し、垣間見ることが出来たように思います。

    そして、言葉はどのような人にも時代を超えて分け隔てなく響きわたっていき、同時に「誰でも、言葉の鐘を自由にうち鳴らせる事が出来る!」と実感しました。

    この気づきを与えて下さった小板橋主将に改めて感謝いたします。             

    (完)

    明日は、祖父佐伯巨星塔について話したいと思います。では また!
    (辻さん!やっぱり長くなりました、、、)

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  • おねしょのさきちゃん2

    おねしょのさきちゃん2
                     今 昭宏

    今度は、さきちゃんにひとりでもできる操法を覚えてもらうことに
    しました。

    うつ伏せで膝を伸ばした状態で片足ずつ脚を天井の方に上げてみて
    上げやすい方を上げる操法です。
    左右で比べてみてもらうとさきちゃんは、右脚が上げやすいといいました。

    「上げにくいほうは上げなくていいから、上げやすい方を上げると
    いいんだよ」

    「こっちでいいの?」

    「そうそう右脚を気持ちいいなーっていう所まで上げてー、
    やめたくなったらやめればいいからねー、いい気持ちだなーって
    所まででいいんだよ。がんばらなくてもいいからね。」
    私はそばでへらへら言うだけ。

    さきちゃんは右脚を上げて首もそらして気持ちよさそうです。
    完全に遊んでいるだけのさきちゃん。
    でもお母さんはまじめに見ていました。

    10秒程したらさきちゃんは脚をゆっくりおろしました。
    「はいひと休みしてー」

    「もっとやってみたい?」

    「うん!」

    「じゃあもう一回やってみよう」

    ひゅーっと右脚を上げるさきちゃん。

    「いい気持ちだなーって味わってよー」
    「やめたくなったらやめてよー」

    さきちゃんは15秒位脚を上げて、ゆっくりおろしました。

    「はいひと休みー」
    今度はさっき上げにくかった左脚を上げてみようか」

    ひひゅーっ。脚がさっきより高く上がります。
    「おおっ!」とびっくりするお母さん。

    「さっきより上げやすいかな?」
    「うん!」とニコニコびっくりのさきちゃん。

    「家でもこんな風にやってみるといいよ」

    「こっちは何回すればいいの?」と、さきちゃん。

    「好きなだけやっていいんだけど、いい気持ちがなくなったら
    やめればいいよ」
    「上げにくい方をがんばって上げるようにしないで、
    上げやすい方を上げると、上げにくかった方が良くなる
    んだよ。おもしろいでしょう」

    「うん」

    「どっちもすいすい楽に上がればそれでいいんだよ」

    「わかったぁ!」

    「それじゃあもうひとつあるんだけどどうするかな?」
    「もうやめようか?」

    「やるやるぅー!」

    「よーし、とくべつだぞー」

    「じゃあ今度は仰向けになってみようかぁ」

    くるりっ。
    やる気まんまんのさきちゃん。

    「膝を立ててー、お尻をひゅーっとお空の方に上げてみようか」
    ひゅーっと軽々上がるお尻。
    少しして「はいおろしてー」

    「これはどんなきもちかなー、いいかなー、よくないかなー?」

    「いいきもちー!」

    「じゃあやってみよう」
    「いい気持ちに上げてー、やめたくなったらやめるー」

    10秒位上げてゆっくりと心地よさそうにおろすさきちゃん。

    うまいなーとおもったのですが、ここであまりほめるとその気に
    なってやりたくないのに「やるー!」とかいい出しそうなので
    ほめない私。

    「もっとやってみたいかな?」

    「うん」

    「じゃあやってみよう」
    「脚とか背中とかぜーんぶいい気持ちになるようにお尻を上げるんだよー」
    「おとしたくなったらおとしてー」

    10秒程でゆっくりとおろすさきちゃん。

    「どうだったかな、いい気持ちだったかな?」

    「うん」

    「さあ、もっとやってみたいかな?」

    「もうやってみたくない」

    「よーしそういうときはもうおしまいでーす」

    すごく上手だから家でも時々やってみなよ。

    「うん」

    すると突然「このベットいいなー、ほしいなー」とベットをさする
    さきちゃん。

    「もっていってもいいけど車に入らないんじゃないかな?」と私。

    「ほしいなー」
    と完全に治療用のベットだとは思っていないさきちゃん。
    きっと心地よかったんでしょうね。

    ここで「そろそろ帰るよ」と、お母さんの強いひとこと。

    一瞬にしてさきちゃんの気持ちはお帰りモードに。
    さすがかあちゃん。

    帰り支度をしながら今度は「公園に行きたいなー!」とさきちゃん。

    「ここから100メートル位の所にあるから帰りに寄って遊んで
    いったらいいや」と地図を書いて教える私。

    二人は車で公園の方に曲がって行きました。

    おわり
    。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

    読者のみなさん一週間ありがとうございました。

    来週は、みなさんお待ちかね佐伯さんの登場です。
    とても楽しみです。

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  • おねしょのさきちゃん1

    おねしょのさきちゃん1

                     今 昭宏

    五歳の女の子(さきちゃん)が夜尿症らしく、元患者さんの
    お母さんと一緒に治療を受けに来ました。
    お母さんの希望で、おもらしの治療を受けるとなると本人も
    気にするといけないので、できればわからないように治療を
    してほしいとのことでの予約でした。

    そして当日です。
    ピンポーン。
    「こんにちはー」
    さきちゃんは完全にお母さんのお友達の家に遊びに来た感覚の
    顔で治療室に入ってきました。
    私も普段着のままなので、さきちゃんは治療を受けると
    いった不安そうな表情はまったくありませんでした。

    私はさきちゃんに受付用紙とペンを手渡して、「ここに名前を
    書けるかなー?」と名前の覧を指差してにこにこ言いました。
    さきちゃんは幼稚園で練習をしているのでしょう。
    その成果を見せようとして、ベットを机にして一生懸命に
    ゆっくりとひらがなで名前を書いてくれました。

    「うまいなー!」
    しっかりと書いてくれた気持ちが嬉しくて私はそう言いました。
    この一言が今日の運命の分かれ道でした。

    その後さきちゃんは急に嬉しくなったみたいで、自分のカバン
    からクレヨンを出してきて、枕の上に敷く半紙にお絵かきを始
    めました。
    お絵描き授業の始まりでした。

    何色ものクレヨンを使って色鮮やかなきれいなお人形さんみたいな
    絵を描いてくれたのでした。
    これです。

    「うまいなー!」

    私はついまた言ってしまいました。

    そしたら予想通りに、今度は貼り絵の授業が始まりました。

    さきちゃんは半紙をふたつに折って、自分のちっちゃい手をそこに置いて
    手形をクレヨンでなぞって色をぬって、「はさみある?」と私に言いました。

    「はいこれでいいですか?」
    「はい」
    さきちゃんは手形をはさみでゆっくりと切り取りました。
    二枚に重なっているので切り取るとふたつの手が出来上がります。

    「すごいなー!」

    それを今度は別の半紙にセロテープで貼り付けるのです。

    そして出来たのがこれです。

    「たいしたもんだー!」

    かわいいちっちゃい手で一生懸命作ってくれたので私はそう言いました。

    そしたら今度はトランプの授業が始まりました。
    さきちゃんはカバンからお人形さんみたいな絵が描いてあるきれいな
    トランプを出してきました。
    ひみつのアッコちゃんかな?と思ったのですが違っていました。

    今日はさきちゃんの得意な七並べと神経すいじゃくの授業でした。
    ふたりで一回ずつやって、どっちも私の負けでした。

    これでトランプの授業が終わりました。
    私が勝っていたらまだまだ続いたと思います。
    さきちゃんは負けず嫌いな感じでした。

    ここまてでもう30分位経ったでしょうか。
    腰掛けて見ていたお母さんも私とさきちゃんが遊んでばかりいるので
    少し心配になってきた様子です。
    お母さんはゆっくり歩いてベットに腰掛けて、「最近肩が凝って頭の方
    まで痛くなったりするんです」と言いました。

    私はお母さんの肩の痛そうなコリを押してみたりして、からだを
    ねじってもらったり、肩を上げてもらって上から抵抗をかけたりして
    操法を少しやってみました。

    そうしたらさきちゃんがベットの上でごろごろ遊び始めたのです。
    私は丁度いいのでさきちゃんの背中をさすったりしてみました。
    さきちゃんは心地よさそうにうつぶせになって味わっています。

    さきちゃんは背中のあたりをくすぐられてもそれほどくすぐったく
    ないみたいでした。
    私のカンはよくハズレます。

    足に触れてみるととても冷たかったので手を当てて暖かくして
    「どうかなー暖かくていい気持ちですか?」と聞いてみました。

    「気持ちいい!」と、うつ伏せでくつろぐさきちゃん。

    少しして、なんとなくお尻の所を手根部で左右一緒に軽く
    くすぐってみました。
    さきちゃんはここがくすぐったいようでした。
    軽くちょこちょこくすぐって1分位キャーキャー動いてもらいました。

    「お尻のあたりが凝っていたみたいですねー」
    私はお母さんに言いました。

    「くすぐるんだったら、こんな感じにしてあげればいいです」

    「はい」

    つづく

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