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  • 何故操体は「自分で動く」「きもちよく動く」(だけ)ではいけないのか?「きもちよさが出てくる」ではないのか?

    たまに雑誌の取材などを受けますが、記者やライターの方が結構勘違いをしていることがあります。
    それは操体を「きもちよく動く」という認識をおられるということです。

    以前、『秘伝』のライターの方と話をしましたが、普段『気持ちよく動く』と言われている、河野智聖氏の「快気法」になじんでいるせいか(河野氏は三浦先生の教え子でもあり、操体野口整体を混ぜて「快気法」を作られました)、また、河野氏が『気持ちよさを探す』とよく書かれているせいか、操体法と混同している傾向がありました。(ちなみに私は河野氏と交流があります。違いが分かっているからです)

    快気法:きもちよく動く、気持ちよさを探す、気持ちよさの比較対照をする
    操体法:ゆっくり動く、きもちのよさをききわける、きもちのよさは比較対照せず、一極微で分析する

    このような違いがあります。

    ここではた、と思い出しました。数年前教えていたある受講生に『操体を簡単に説明してごらん』と聞いたところ
    『自分で動く』と答えました。その後私はその人にみっちり操体の「いろは」を教えたのですが、なまじっか運動神経に自信があり、武術系の方だったのであまり私の話を聞いてはいないようでした。逆に『操体はきもちよさを色々探してもいい、そんな操体があってもいいじゃないですか』と反論されたりしました。その時の言葉が『いろんな操体があってもいいじゃないですか』という言葉です。

    この言葉は都合がいいように使われることがあります。「感覚をききわけ、味わう」過程は人それぞれであり、一人ひとり違います。それが個人というものです。百人いれば百通りの感受性があるからです。しかし、それを 『自分の勝手な解釈で、どうアレンジしてもいい』と、受け止め、「いろんな操体があってもいいじゃないですか」、というのはちょっと違うのではないでしょうか。

    私が動診と操法の違いを説いて、『きもちよさを探して色々動いてみる』というのは動診と操法の行程を混同しているということで、「快適感覚をききわけ(診断:動診)、味わう(治療:操法)」という、操体の行程から外れると言ってもダメでした。

    残念ながら今現在お付き合いはありません。仕方のないことです。

    ★元々、動ける方は『きもちよく動けてしまう』のです。しかし、どこかに症状疾患を抱えていらっしゃる方々はそれができないから操体の専門家のところに来るのです。自分が出来るからと言って、「きもちいい動き」を患者様に強要するのは不親切この上ありません。

    ★★私はいつも、東京操体フォーラム実行委員の面々にも言います。
    『自分がきもちよく動けるからと言って、症状疾患を抱えたクライアントがそうだとは思ってはならぬ』

    東京操体フォーラム実行委員の中にも、カルチャーや地方自治体の教室、道場などで指導しているメンバーがいますが、それはちゃんとわきまえて指導にあたっているのです。

    臨床として、クライアントなり患者様と相(あい)対して向きあう場合カルチャーや健康教室、道場やセミナーなどで、不特定多数と向き合う場合、

    これらは皆違うのです。シチュエーション、相手に応じ臨機応変に挑むのです。

    ★武術の練習に来るような方々だったら、そこそこ「きもちよく動け」と言われて動くかもしれませんし、そういう方々は『身体能力が高い』という自負心があるので、まず『きもちよく動けません』とは言わないのです。
    なので、元気な身体能力が高い(自称含む)方を相手にしていればこれでも済むのです。

    ああすいません、テンションが上がってきました(笑)

    その方は、三浦先生の講習も受講されていたのですが、三浦先生が『きもちよさを探して動くのではないのだよ』と説いてもやはりダメでした。

    私のみならず、三浦先生の話を聞いてもダメだったのです(汗)
    もうこうなったら操体ではなく『○○式何とか法』にすればいいのに、と思うのですが、今現在、『操体』の看板を掲げてやってらっしゃいます。操体、という名前は美味しいのです。
    「三浦先生の講習を修了した」という修了書を、ホームページに掲げておられます。先生の教えを無視している割には修了書だけ飾るというのは
    なんとも不思議でなりませんが、その方にとって、「修了証」というのは、単なる宣伝ツールで領収書でしかないのかもしれません。

    あああああああ。またテンションが上がりそうですが、押さえておきます(笑)

    知らない方はHPを見て『ああ、三浦先生のところで講習を受けたんですね』と思って行かれるわけですが、

    ああああああああああああ。やめておきます(笑)

    で、私や東京操体フォーラムの実行委員に迷惑がかからなければいいのですが、

    クライアントの中には『きもちよさをさがしてうごく派』のところに行かれて、『きもちよさを探して色々動いて〜』とか『ここを揺らすからきもちよさを探して〜』と言われて、

    ・なんだかわかりませんでした
    ・きもちよくありませんでした

    と、我々のところにいらっしゃることもあるのです。結局は筋を勝手に曲げて結果が出ず、クライアントや患者様は『操体ってこんなものなの?』と不信感を抱くか『なんだ、たいしたことないじゃん』ということになるのです。

    はあはあ。ぜいぜい。
    血圧が上がりそうです。。。

    気を取り直して、

    「なぜ、きもちよく動く」(だけ)ではいけないか。

    「動診と操法の区別をつけよう」でも書きました。

    最初にも書きましたが、操体は『快適感覚をききわけ(診断:動診)、味わう(治療:操法)』なのです。

    本人にしかわからない感覚をききわけるために、ある動きを試してみるわけです。これが診断にあたる動診です。
    ある動きというのは、例えば手関節を外旋させて、それに伴って全身が連動するような目的がある動きです。
    これで快適感覚が「ききわけられたら」それが診断になるのです。

    ここで、快適感覚がききわけられていないのに、「きもちよく動く」と言っても無理なのです。
    そこで多くの方はよくわからないまま、色々からだを動かしてみたりします。
    この場合、感覚をききわけるのであるから『ゆっくり動く』なのです。

    快適感覚がききわけられたら、からだがそのきもちよさを味わってみたいという要求を満たしていたら
    そこからが「操法」すなわち治療です。

    快適感覚(きもちよさ)がききわけられており、そのきもちよさを味わってみたいというからだの要求を満たしているのだから、今度は『きもちよさにゆだねて』とか『一番きもちのいいようにからだのツクリを操って』という指導をしてもいいし、クライアント(患者様)は、きもちよさにゆだねてタコ踊りをしようがバク転しようが、泣こうが笑おうが無意識の動きを表現しようが、それはそれでいいのです。

    ★ご参考までに、「無意識の動き」はきもちいいものです。快適感覚を味わっているとからだが勝手に無意識の動きをつけてくる場合があります。これが「きもちよさに委ねる」ということなのです。

    なので、操者は動診時には『きもちよく動いて』のではなく『ゆっくり動いて』という指示を与えるのです。

    「きもちよさがでてくる」

    以前、操体法東京研究会の講習で、何気にこの言葉を使っている受講生がいました。
    私は即、厳重注意しました。

    放っておくのも一つの手で、その後その人が実際の臨床に立つ際、
    恥をかくのもその後上達しないのをそのままにしておく。
    しかし、そういう事はしたくありません(笑)折角学びにきておられるのだから、やはりきちんと学んで欲しいのです。

    私から注意され、何でこんな些細なことをいちいち、と思ったと思います。小うるさいヤツだ、と(笑)しかし、操体指導者の未来のため、その方の為、将来を思って指導しているのですから、その気持ちは分かって下さいね(笑)

    何故、「きもちのよさをききわける」は良くて、「きもちよさがでてくる」ダメなのでしょう?

    考えてみてください。この二つの文章に主語をつけるとしたらどうします?

    「きもちのよさをききわける」に主語をつけるとしたら『からだ』なのです。『からだが、きもちのよさをききわける』のです。一方「きもちよさがでてくる」はどうでしょう。主語を想定しにくいですね。更に深掘りしてみると『きもちよさがでてくる』のを確認して感じているのは『私』なのです。

    つまり、「ききわける」のは『からだ』で、「でてくる」のを感じるのは『私』。

    操体で大切にしているのは
    Don’t Think, Feel!(アタマで考えるな、からだで感じろ!)という言葉です。
    (これは、「燃えよドラゴン」のブルース・リーの有名な台詞です。「皮膚で感じろ!」という訳もあり、それもいいなと)

    本人はそこまで考えていないのでしょうが、その言葉の指向性によってアタマで考えてしまっているのです。

    またアタマで考えているので
    「出てこない、出てこない・・・じゃあ色々動いて探してみよう」と、なってしまうのです。色々動いて探す・・・・先程出てきた言葉ですね。

    私が『操体NGワード』として決めた言葉です(今決めました!)

    ほんの僅かな違いですが、言葉の指向性というのはすごいものなのです。

    私達が操体臨床における言葉の誘導は、言葉を大切に選んでいるのです。

    言葉には魂がこもります。言霊(コトダマ)です。
    (外国語ではどうする、というご意見もありますが、外国語でも同じです)

    『きもちのよさをききわけ、味わう』この言葉に奥義が含まれているのです。

    Hiromi Hatakeyama 畠山裕美

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  • 足関節の背屈操法の回数について

    膝の裏に手を差し入れて触診すると、患者さんは『いててててて〜っ』と痛がってジタバタする。
    『ここが悪くなってんだな』
    『首さ痛でぇのに何でここが痛でぇんだろなぁ』
    『痛いですぅ』
    『それじゃ、つま先をすぅ〜っとスネの方さ挙げてみて』
    『はい、ポタッ』
    『ほれ、痛でくねぇ』(膝裏の裏ぐりぐり)
    (以上東北弁は1900年生まれ、橋本敬三先生とほぼ同年代で宮城県人の畠山の祖父、畠山三左ェ門を思い出しつつ。。ビデオやラジオで聞く橋本敬三先生の声って、何だか祖父を思い出したりします。)

    おなじみの『足関節の背屈』(私は大昔、膝窩の圧痛硬結を取る操法なので、『ひかがみ操法』と習ったことがあります。。。。今ではそんな言い方はしてません)。

    膝の裏の痛い圧痛硬結が、つま先を挙げてポタンと落とすとあら不思議!痛くないし膝の裏側がつきたてのお餅のようにやわらかくなって、あら?腰が痛いのも良くなった!

    な〜んていう、風景です。

    この操法には動診というものはありません。膝の裏を触診して、圧痛硬結をキャッチします。動かさないで触診して即操法にすすめるわけですからね。そして足首を背屈させて、その足背に抵抗をかけ、脱力させます。

    本などを読むと、まるで一回でウソみたいに膝の裏の圧痛硬結が失せるように書いてあります。勿論、そういうこともあるのですが、それにはそうなる道理があるのです。その道理を知っているのが名人達人というわけです。該当者は少ないのです。なので、誰がやっても同じ、というわけにはいきません。

    さて、ここで、万病を治せる妙療法・操体法 (健康双書)
    など、主に農文協の『健康叢書』から出版されている操体法シリーズを見てみると「操法の回数は2回から3回」とか「2回から5回」と書かれています。
    実は私が10年前に出した『ふわ、くにゃ、すとん 操体法』にもそう書いてあります。
    何故かというと、そう習ったからです(笑)
    勿論今は、からだの要求感覚に委ねた脱力を導いているのでそういうことはしていません。
    (本の訂正箇所は、サイトに掲載してあるので、そちらをご覧下さい)

    なお、快適感覚をききわけ、味わうとういう『第二分析』で行くと、操法の回数の要求(からだの要求ですよ)は、多くありません。

    操法の回数と「きもちよさ」は反比例するのです。
    つまり、うんと快適感覚を味わうような操法を十分味わえば、一度で十分なのです。しかし、例えば上のつま先をすねの方に持ち上げて、ストンと落とす場合、不快な感じはしないと思いますが、「からだが味わってみたいきもちよさなのか」と、といかけてみても「?」「わかんない。。。」というケースが多いのです。そのような場合や、単に『楽で何ともない』という場合には回数でこなすことになってしまいます。

    それはさておき、世の中には橋本敬三伝説』というようなものがあります。例えば『橋本先生は操法を一度しかやらなかった』というものとか『一発で治った』というものです。

    ★この『足関節の背屈』に関して、橋本敬三先生は操法を一回しかやらなかった、という話を聞きました。(昨年の仙台での全国操体バランス運動研究会です)

    しかし、そんなことはありません。昨年春のフォーラムで公開した、『よみがえる映像』でも紹介させていただきました。これは、70年代に虎ノ門ホテルオークラの「平安の間」で橋本先生がセミナーをされた時の映像です。

    会場に集まった方々に声をかけて、確か『腕が上がらない人』だったと思います。勿論、腕が上がらない方だといって腕に触ったりはしません(さすが『症状疾患にとらわれない』ということを実践しているのです)。『何で腕が上がらないのに足をひねったりするんだ??』というオーディエンスの表情が面白くもあります。そこからいくつか動診操法をとおしてゆきますが、いわゆる『第一分析』。楽か辛いかの比較対照の分析をしてから、辛いほうから楽な方に動きをとらせます。この時『静かに、静かに』と誘導されていたのが印象的でした。
    おそらく、長年の経験から『ゆっくり動いて』というよりも『静かに、静かに』と誘導した方が、初めての方や慣れない患者さんにとって分かりやすいということをご存じだったのではないかと思います(実際は『すんずかに、すんづかに』と聞こえます。懐かしい東北のおじいちゃんのしゃべり方なのです)。

    肝心の『足関節背屈』、モデルは初老の男性ですが、なかなか脱力が上手く出来ません。橋本先生(熟練しておられる橋本先生がですよ)も何度かやり直しをさせて、4回目かそれくらいでやっと先生が納得できるような『瞬間急速脱力』に導けたのです。

    ★仙台の操体バランス運動研究会で『橋本先生は足関節の背屈の操法は一度しかやらなかった』という意見に対しては、三浦先生が挙手し、その映像のお話をされました。

    橋本先生も一度しかされていなかったわけではない、ということをです。患者さんに操者が思ったとおりの急速瞬間脱力を導くのは大変なことなのです。

    この映像はDVDに落としてもらい、完成品とノートパソコンを抱えて、三浦先生と一緒に見たのです。丁度このシーンは最後の方に入っているのですが、見終わってから三浦先生が少し考え込み、
    『おい、見たか?橋本先生が何度も何度も患者に脱力させてたな』
    と、つぶやきました。
    『そうですね。橋本先生でも慣れない患者への瞬間脱力は苦労されてたんですね』と答えました。

    操体というのは、見た目は非常に簡単に見えます。動かして瞬間脱力させればいいから(笑)
    しかし、実は他人に自分がしてもらいたい、希望通りの動きをしていただくというのは非常に難しいことなのです。
    操体を勉強しはじめた方々がまず直面するのは『患者さんが思い通りに動いてくれない』という問題なのです。

    ここで改めて考えてみると、何故昔(第一分析時代)は、操法の回数を2回から3回、あるいは2回から5回としていたのか、分かってきます。

    ・瞬間脱力に導くのは操者にとって口で言うのは簡単だが、患者にとっては難しい
    ・なので一度でちゃんとできることはあまりない(だから2回から3回やっておけば何とかなるだろう?)

    ということなのでしょう。

    あと、もう一つの秘密ですが、きもちよさがあれば回数は一度(多くても二回)で十分なのです。なので、当時は「楽」をききわけさせる動診・操法をやっていたことが理解できます。

    Hiromi Hatakeyama 畠山裕美

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  • なぜ、『一人操体』『二人操体』とは言わないのか

    我々東京操体フォーラム実行委員のメンバーには、ちょっとしたこだわりがあります。
    こだわりと言っても、橋本敬三生の哲学にならっているだけなんですけどね。

    一般的には「一人操体」「二人操体」という言葉を聞くことがあります。
    話を聞いてみると、「一人でやるから『一人操体』で二人でやれば『二人操体』じゃないですか」と言われます。それももっともと言えばもっともなのですが、どうやらこの言葉のルーツは、神戸の中川重雄氏の本『すぐできる 一人操体』と『ふれあいの 二人操体』から来ているのかなと思います。

    ★書籍のタイトルっていうのは、やはり売り物ですから売れるようにつけるわけです。私の最初の本はサブタイトルが『辛い、痛いを自分で治す!』でした。橋本先生の『万病を治せる妙療法』も

    確かに一人でやれば一人操体で、二人でやれば二人操体じゃん!というのも分かりますがまあ、私の話も聞いて下さい(笑)

    操体は基本的に『自力自療』(自らの力で自らを療す)です。しかしこの自力自療という言葉がちょっと取り違えられているケースが多いのです。

    自力自療、というのは『自分で自分を治す』そっか、それじゃ一人操体じゃん、と思うのは早計です。

    自力自療≠一人操体

    (自力自療は一人操体ではない)

    一人でやるから≠一人操体
    二人でやるから≠二人操体
    三人でやるから≠三人操体

    なのです。

    操体で言う自力自療とは『本人にしかわからない感覚をききわけ(自力で診断・分析)、味わう(自力で治療)』という
    ことなのです。操体は『目的がある動き』(例えば仰向け膝二分の一屈曲位で膝を右に倒すとか)を試し、それに快適感覚がききわけられるのか感覚の分析を行い、快適感覚があったらそれをからだが納得するまで味わうというものです。

    感覚のききわけを行うのは『本人』しかいませんから、基本的には一人でやろうが介助者あるいは操者がいて、二人でやろうが、体育館などで指導者が言葉の誘導だけで動きを指導しようが、全部自力自療なのです。

    なので一人でやるから「一人操体」、二人でやるから「二人操体」ではないのです。

    ★三人でやったら(三人でもできますよ)、十人でやったら。。

    例えば、家で自分でからだのメンテナンスをする場合には『自力自動の動診と操法』という言い方をします。

    操体法治療室―からだの感覚にゆだねる

    操体法の治療と予防

    上記二冊の本は、「自力自動」の操体法が載っています。「操体法治療室」は巻末にポジション別に、「操体法の治療と予防」はやはり全編ポジション別に載っています。これも面白いのですが、初診の方が本を持ってこられて、『自分でやってみたんですが、よく分かりません』という方が多いのです。なので『どんな風にやってらっしゃいますか』とチェックさせていただくと、動きが早く、感覚をききわけていないとか、単にその関節しか動かしておらず、末端が動いてからだの中心腰が動いて、首が動いて全身が動く、という連動が表現されていないのです。
    こういう場合、何度か学習を積んでいただきます。最初からうまく行く場合もありますが、感覚をききわけながらゆっくりとからだを操る、ということに慣れていない方が多いのです。

    学習を積んでいくと、「快適感覚をききわけ、味わう」という意味を、からだをとおして納得していただけるようになります。そうすれば、指一本、腕一本動かしてもきもちよさをききわけることができ(診断)味わう(治療)ことができるようになります。そうなったら大したもんだ!!

    Hiromi Hatakeyama 畠山裕美

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  • 何故『基本操体』「とは言わないのか?

    たまに聞くと思いますが『基本操体』という言葉。今日は何故私が『基本操体』という言葉を使わないのか、お話しましょう。

    ★そんなのどうだっていいじゃん、という方もおられましたが、操体を深く深く勉強していくと、言葉の持つ深い意味に突き当たります。そうすると、迂闊に使えなくなってしまうのです。これは私なりのこだわりでもあるのですが。最初に言うと、操体法の創始者、橋本敬三先生ご自身も「基本操体」とは言われてないのです。

    私が最初に操体を学んだ時の事を思い出します。三浦理事長の受講生のそのまた受講生のK先生でした。勉強熱心なK先生ですから、現在もし操体をやっておられるなら(残念ながら行方がわかりません)、進化した操体をされていると思います。是非再会したいと思っているのですが・・・・・。

    それはさておき、私も最初は「基本操体」というものがあるのだと習っていました。
    おそらく今だにそういう方も多いのではと思うのですが、何故基本操体なのでしょう。

    そして、何故私は『基本操体』とは言わなくなったのでしょう。

    師匠三浦寛先生のお話を伺う機会があります。18歳という若い時分から5年間、内弟子として橋本敬三先生の側で過ごしたという実体験は、後に私達が本や映像、細切れに伝わってくる話をつなぎ合わせたものよりもずっと説得力があるのです。また、純粋な内弟子というのは三浦先生の他にはほんの数人しかいないのです。

    温古堂には色々な方が集まっていたようですが、いわゆる「ファン」であり、弟子ではないのです。ファンは好きな時にやってきて、好きな時にふらりと帰りますが、弟子は早朝診療の用意をしたり、掃除をしたり、火鉢の火をおこしたり、診療所の前の雪かきをしたり、橋本先生のお孫さんに忘れ物のお弁当を届けたり、傘を届けたりと、立場が少し違うのです。(橋本先生も『ファン』と『弟子』の違いははっきりと区別されていたようです)

    内弟子時代の話を伺うと結構面白いのですが、操体法治療室―からだの感覚にゆだねる
    の『温古堂ものがたり』で今昭宏先生が書いておられるような、優しいおじいちゃん先生という感じとはちょっと違います。そこから私が感じられるものは『孤高の求道者・臨床家』というイメージです。

    私が三浦先生の治療所に伺う度に、ついつい立ち止まって見てしまうものがあります。
    大判の色紙に書かれた言葉です『愛弟、三浦寛君へ』と、書かれています。『愛弟』と呼べる弟子を持つのはどんなに素晴らしいことなのか、最近よく分かるようになりました。

    それはさておき、何故『基本操体』と言わないのかお話することにしましょう。

    一般的に操体、あるいは操体法がブレイクしたのは昭和50年代です。NHKのドキュメンタリーが放映されたのが、橋本先生が79歳の時ですから、昭和50年代の初めになります。

    ここで改めて、認識しなければならないのは、操体、あるいは橋本敬三という医師が世間に認められ、一世風靡したのは、80歳を過ぎてからなのです。それまで医学誌などに寄稿しても無視され続けるという状態で、絶筆宣言をしてからすぐに操体がブレイクしたという皮肉なところもあります。

    ※1)三浦先生が橋本先生に弟子入りされた当時、橋本先生は70歳。バリバリの現役です。聞くところによると、本当にからだを使って、色々な動診と操法を試されていたのだそうです。「操体」という名称がつく前に「ボデーパイロット」とか、なにやらアクロバティックな感じの呼び方をされることもあったようですが、
    とにかく色々試されていたそうです。また橋本先生は、患者さんが激しく動いて肋骨にヒビが入るような骨折を二回はされているそうです。その話からも、色々されたのだなあ、ということが推測できます。

    ★私達実行委員は『実行委員勉強会』で、橋本先生が現役バリバリ時代にされていた操法の再現を三浦先生に見せていただくことがありますが『おじいちゃんが、こんな激しい動きを?!』と驚くことがあります。

    そして操体が一般的に知られるようになり、仙台の温古堂には日本中から患者さんが押しかけたわけですが、そうなると一人一人じっくりと時間をかけて診ることは不可能になってきます。ある程度パターン化も必要になります。(三浦先生は、この時の橋本先生にはもっとじっくりと臨床をする時間を持たせてあげたかったとのことです)

    また、お年を召すとどうしてもやる操法は限られてきます。そして、慣れていて名人の域に達していると、難しいことをいとも簡単にこなすように見えるものなのです。

    そこで、有名になったのが
    ・仰臥膝二分の一屈曲位で足関節の背屈(つま先をすねに向かって反らして脱力)
    ・仰臥膝二分の一屈曲位で膝の左右傾倒(膝を左右どちらかに倒し、倒しやすい方に動かして脱
    力)
    ・伏臥位で、膝関節の腋窩挙上(うつぶせで、膝を腋の方に引き上げ、操者は引き上げた足に抵抗を与え脱力)
    ・仰臥下肢伸展位での下肢の押し込み

    あたりなのではないでしょうか。
    私のつたない経験から考えても、名人達人だったら、これくらいで間に合ってしまうものなのです。
    おそらく、橋本先生はこの3つとプラスアルファで間に合わせておられたのではないでしょうか。

    そしていつの間にかこれらの操法が有名になり、操体を言えば『ああ、足首曲げて力を抜くやつね』とか『ああ、膝二分の一屈曲位で膝を左右に倒すヤツね』とか、『ああ、うつ伏せでカエルみたいな格好するやつね』とか『ああ、仰向けでカカトを突き出すヤツね』となり、これが『基本操体』という名前をつけられたのでは
    ないでしょうか。

    なので、これらの操法はお年を召された橋本先生がされていたというだけであり、お若い頃からそうだったわけではありません。(※1参照)だから私はこれをひとくくりにして『基本操体』とは言えないのです。

    むしろ『基本』というならば、『身体運動の法則』(重心安定の法則、重心移動の法則、連動の法則)が基本なのではと思います。実際臨床をやるにせよ、操者自身がこの3法則を体得していなければならないからです。
    これは本にも『基本運動』として書かれています。

    あと、『基本操体』で思い出すことがあります。
    10年程前でしょうか。ある方から電話をいただきました。手技療法をされている方のようでしたが、『基本操体は効かないから、応用操体を教えてくれ』という内容でした。この方の口ぶりから言うと、この『基本操体』というのは、上に上げた4つ位ではないでしょうか。

    私もその頃操体を勉強しはじめてから7年程経っていました。最初に書いたとおりに私も「基本操体」という言い方を習っていたのです。また、やっていたのは『第一分析』の動診でした。(第一分析へのリンクを張っています。ご覧下さい)

    そして、特に
    ・仰臥膝二分の一屈曲位で足関節の背屈(つま先をすねに向かって反らして脱力)
    ・仰臥膝二分の一屈曲位で膝の左右傾倒(膝を左右どちらかに倒し、倒しやすい方に動かして脱力)この二つはとても難しい、いわゆるテクニックが必要な操法だということが分かっていました。

    勿論当時やっていたのは、『第一分析』でした。当時既に何名かの受講生に稽古をつけていましたが、この二つは簡単そうに見えるのですが、実は非常に難しいのです。

    ・仰臥膝二分の一屈曲位で足関節の背屈(つま先をすねに向かって反らして脱力)

    これは最初にひかがみの圧痛硬結を触診するのですが、まず殆ど皆これが出来ないのです。そして、瞬間脱力を言葉で誘導するのと、足背(そくはい)に抵抗を与える微妙なニュアンスが難しい。単に上から押すとか力ませてはいけないのです。

    ★この微妙な圧を無視して、『上から押してるから我慢して〜』という指導をきいたことがありますが、我慢大会ようで、操体らしくありません。また患者さんが力んでしまうのです。これでは操体ではありません。

    ・仰臥膝二分の一屈曲位で膝の左右傾倒(膝を左右どちらかに倒し、倒しやすい方に動かして脱力)

    これは、瞬間脱力させた後の介助について、橋本先生の書籍にも明記されていません。なので、手をぱっと離してしまうようにやっているところとか(これは患者さんにとっては危険だと思うのですが)、介助を入れて膝が床に落ちないようにしているところとか、色々あります。私はやはり、手をぱっと離すような危ないことはできないので、膝がバタンと倒れないよう介助をしていました。

    膝が倒れるということは、骨盤が捻転してくるということでもあります。また、三浦先生の『腰痛の治療と予防』(現在は改訂され『操体法の治療と予防』たにぐち書店)に、膝二分の一屈曲位で、膝を倒すと、骨盤が同じ方向に捻転し、首は膝と反対に捻転してくる、という連動の法則を少し勉強していたのです。
    腰の具合が悪い人は、そんなに膝を左右に傾倒することができません。そういう方を診る時、膝を倒すのではなく、骨盤の捻転から考えたり色々試していましたが。非常に奥が深いものだと研究しているところでした。

    そういうこともあり、「基本操体」と言われているものは、実はとても高度なテクニックがいるものなのだと確信していました。

    なので『基本ができない』つまり「基本で結果を出せない人に、応用は教えられない」という決断をしました。

    ★話が少し脱線しましたが、私が

    ・仰臥膝二分の一屈曲位で足関節の背屈(つま先をすねに向かって反らして脱力)
    ・仰臥膝二分の一屈曲位で膝の左右傾倒(膝を左右どちらかに倒し、倒しやすい方に動かして脱力)
    ・伏臥位で、膝関節の腋窩挙上(うつぶせで、膝を腋の方に引き上げ、操者は引き上げた足に抵抗を与え脱力)
    ・仰臥下肢伸展位での下肢の押し込み

    を、基本操体、と言わないのはこういう理由があるのです。

    Hiromi Hatakeyama 畠山裕美

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  • 動診と操法の区別をつけよう!

    皆さんは「動診」と「操法」の区別をつけておられるでしょうか?

    実は「動診」「操法」の区別、というか違いを認識するということは、操体を理解する上でとても重要な事なのです。特に「快適感覚」を舵手として操法をすすめるには、これが本当に重要ポイントとなります。

    操体の一連の流れを書いてみると
    ・問診、視診、触診(どのような治療法でもこの辺りはやります)
    ・動診
    操法
    ・脱力
    ・回数の要求の確認

    快適感覚をききわけ(診断:動診)、味わう(治療:操法、この関係をよく覚えておいて下さい。

    ◆◇動診◆◇

    (1)操者は受け手に対して、『動きの安定』『運動充実感』『連動を促す』『感覚のききわけを促す』ために、受け手のからだに介助をかけます。場合によっては補助も与えます。基本的には、手関節、足関節など、末端関節です。また、操者の頭の中には、連動の仕組みが入っているので、操者はちゃんと手順を追って受け手に動きを指示することができます。その適切な介助と補助、言葉の誘導によって、受け手は感覚のききわけに集中しながら(からだの動きを)表現することができます。

    (2)操者は「ゆっくり」というキーワードを用います。何故なら、動診の目的は『ゆっくり動いて感覚をききわける』ことだからです。この『感覚のききわけ』が、『診断』にあたります。つまり、 『ある動きをゆっくりためしてみて、快適感覚があるのかないのか、からだにききわける』のが動診なのです。
    動診というのは、「快適感覚のききわけ」をするので、操者が指示する動きには目的があります。例えば左の手関節の外旋に
    伴って全身形態が連動していきますが、初めての方や慣れない方ははっきり言ってなかなか動けません。
    そこで、動きを知っている操者の介助や補助、言葉の誘導が必要なのです。

    ★いつも言っていますが『きもちよく動く』のは動診ではありません。『きもちよく動く』のは、操法に入ってからなのです★

    (3)私は『きもちのよさがききわけられたら、教えて下さい』などと指導します。また、きもちよさがききわけられている時『はい、あります』と言ったりすると、きもちよさが消える場合もあるし、口をききたくない場合もあります。そういう時は『きもちよさがききわけらたら、左手でマルを作って教えて』というようにお願いすることもあります。

    ★ここで、きもちよさがききわけられたら、やっと操法にはいることができます。ききわけていないのに「きもちよく動いて、きもちよさを味わって」というのは動診と操法の区別がついていないのです。操体指導がどうも上手くいかない、という場合がありますが、この区別をしっかりつけていないことが大きな原因の一つでもあります。

    ★★★この区別がつかないとどうなるのでしょう。操体だけでは足りなくなるのです。

    ★さて、きもちよさがききわけられました。しかし、きもちよさにもピンからキリまであります。
    私達はきもちよさ、というものをもう少し細かく分けてみました。
    それは『そのきもちよさは、味わってみたい要求があるのか』『ないのか』ということです。
    同じ「きもちよさ」でもきもちよさなら何でもいいわけではなく、からだが味わってみたいという要求を満たすような、質の高いきもちよさを選択していただくのです。

    ここで大事なキーワードが『からだにききわけて』という言葉です。

    『そのきもちよさ、味わってみたいという要求がありますか?からだにききわけて』と持ってくるのです。『からだにききわけて』、という大事なキーワードです。

    ★ここで『はい、あります』という確認ができました。あるいは、きもちいいけど味わってみたい程ではない場合もあります。そのような場合はやめていいのです。

    はい、快適感覚、それも味わってみたいというからだの要求を満たす快適感覚です。

    ◎◎◎ここから、操法です◎◎◎

    ◆◇操法◆◇

    (1)さて、からだはきもちよさをききわけました。そして、「このきもちよさ、味わってみたい!」と言っています。そうしたら、すでにきもちいい、ということを確認しているのですから

    (2)「きもちよさに委ねて」「きもちよさを十分味わって」「一番きもちがいいようにからだのツクリを操って」というように、「きもちよさに委ねていいんだよ」と伝えます。これが「快適感覚を味わう」という『治療』なのです。
    委ねていいので、どんな動きをとっても構いません。というか、本当に委ねていると、無意識の動きが起こったりします。無意識の動きというのは、通常想像できるような「運動的」な動きとはちょっと違います。
    これも反応は人それぞれです。長い方は数十分も快適感覚を味わっています。

    また、からだが要求している快適感覚なので、いくら味わっても大丈夫だし、飽きることはないのです。

    ◆◇脱力◆◇

    (1)脱力の方法ですが、昔(第一分析)の時代は、呼気とともに瞬間急速脱力を指導していました。しかし快適感覚にゆだねた動診と操法の行程を踏んできもちよさを味わってからだと瞬間的には抜けません。
    この場合も『からだが要求してくる脱力の仕方で結構です』というようにお願いすると、大抵はふわっと緩やかにそしてきもちよく、からだは脱力をつけてきます。呼吸を意識しすぎると、感覚のききわけの妨げになることがあるので、呼吸は自然呼吸でいいのです。

    また、脱力すると「ぴょん」と戻る方がいらっしゃいますが、脱力したら脱力したままでいいのです。

    ★最高のきもちよさを味わっている時に、瞬間的に脱力させるのは、乱暴な感じです。うとうととたゆたっている時に、無理矢理起こされるような。

    (2)瞬間急速脱力でもきもちよさがある場合があります。それは何かというと、筋肉を緊張させた後、一気に緩めると『脱力した後がきもちいい』のです。これもきもちよさのうちに入れてもいいかもしれませんが、これは本筋ではありません。世の中にはこれが操体のきもちよさだ、と言う方もおられますが、どちらかというと
    操体ではなく『正体術』的な感じです。

    しかし、ふわりときもちよく脱力した後には大抵脱力後の爽快感があります。筋緊張を「どすん」とほどいた後の脱力感とは少し違います。が、これもからだにききわけて、味わってみたい要求があれば『脱力後の爽快感も味わって』ということになります。

    ◆◇回数の確認◆◇

    (1)「落ち着いたらもとに帰ってください」など、元のポジションに戻ります。そこで、回数の要求を確認します。簡単に言えば『今のきもちよさ、もう一度味わってみたいのかみたくないのかからだにききわけて、教えて下さい』ということです。ここでも「からだにききわけて」という言
    葉が大切です。

    何故かというと、人間「アタマ」で考えるからです。
    例えば『この操法、もう一度やってみたいですか?』と、聞くとアタマで考えるので『回数を多くやった方が効果があるのでは』と
    考えたりします。また、からだの要求感覚がなければ、対になった動きを比較して『右をやったから左もやらなきゃ』と思い、つまり
    アタマで考え『左をやったから右をやったほうがいいんじゃないでしょうか』と考えることになります。

    ここで『からだにききわけて』というキーワードを使うと、面白いことに『からだ』が反応します。
    また、本当に快適感覚を味わった後は、考え込む時間もなく『あ、ありません、大丈夫です』という答えが返ってきたりするのです。

    今日は動診と操法の区別ということを時系列に沿って書いてみました。動診、操法の違いを理解すれば、『きもちよさを探して動いて』という指導が適切ではないことが分かります。

    主語は「からだ」なのです。ある動きをためしてみて、その動きにきもちよさがあるのか、ないのかからだにききわけるのは「からだ」なのです。

    『きもちよさを探して動いて』という言葉でアクションを起こすのは『アタマで考えている私』なのです。

    フォーラムでも何度かこの話をさせていただきましたが、何故『きもちよさを探して』という言い方がダメなのか分からない、という方に話を聞くと、やはり『アタマで考えている』ケースが多いように感じました。しかし、それはおそらく机上の理論ということで私の話を聞いて下さっているからであって、適切な介助補助、言葉の誘導があれば、『きもちよさを探して動く』のではなく『きもちのよさをききわける』ということは理解していただけると信じています。

    実際、私のところに来ていただいて、『なるほど、分かりました』と殆どの方はこの大きな違いを理解して下さいます。

    蛇足ではありますが、操体臨床が上手くいかない大きな理由は、今日お話した
    ■動診と操法の区別がついていない
    ■楽ときもちよさの区別がついていない
    の2点です。これは全般的に「言葉の理解」と「言葉の誘導」にもつながってくるのですが、「きもちよさを探して」とか「どちらがきもちいいですか」という問いかけをしている操体指導者は、
    余程の経験あるテクニシャンか、勉強不足のどちらかです。

    最後は【断言】風になってしまいましたが、操体を勉強しておられる、あるいは勉強したいと思っている方々に、最初から道を踏み外して欲しくないのです。道を踏み外すと、元に戻るには大変な労力が入りますから。

    操体を学んでいるちょっと先輩からのアドバイスからだと思って、素直に聞いていただければと思います。

    フォーラムの席で上記二点に関してご質問があれば是非お寄せ下さい。懇親会の席だったらなおいいです(笑)

    Hiromi Hatakeyama 畠山裕美

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  • なぜ、操法に名称をつけないのか??

    お久しぶりです。畠山裕美です。

    この前フォーラム実行委員ブログを担当したのが丁度9月の初秋の頃でした。あれから新しい年を迎え、今日から2月です。まだまだ寒いですが、春と春のフォーラムが待ち遠しい今日この頃です。

    今回はたまに私が受ける操体についての疑問に関して答えていこうと思います。

    操体あるいは操体法をされている方で、操法に対して名前をつけて呼んでいることがあります。有名なところでは「カエル足」とか「膝倒し」とか「つま先上げ」とか。他に私が聞いたところでは
    「ヤモリの操法」とかいうのもあります。足趾の操法のことを「指チョンチョン」というのも聞いたことがあります。

    ちなみに、私も最初の頃は「カエル足」とか(カエルさん、とか)「膝倒し」とか「つま先上げ」と言っていました。何故かと言えば
    周りの人がそう言っていたからなのです。更にもう少し難易度が高いものを習ったときには『大腰筋の操法』とか『○○筋の操法』というように、ターゲットとする筋肉の名前がついたものを覚えていました。

    しかし、あるとき気がついたのが『橋本先生のには○○操法とか書いてない!操体1とか操体2とか書いてあるだけで、具体的な名前はつけられてないけど、どうしてだろう???』ということでした。

    例えば「カエル足」という言い方は、伏臥位で足を腋のほうに引き上げる格好が「カエル」に似ているように見えたわけで、おそらく「通称」だったものが『カエル足』という言い方になったものだと思われます。まあ、通称で患者さんに説明する場合などに使われたのかな、それが愛称あるいは通称として定着したのでしょう。

    そして、その「どうして?」というナゾが解けたのは三浦先生(理事長)のお陰でした。特に『カエル足』とか『膝倒し』という言い方に違和感が無かった私でしたが、三浦先生の講習では『カエルさん』とか『カエル足』とは言いません(いえ、三浦先生が『カエルさん操法』とか真顔で言うのは想像できませんが・・)。

    何と言うかと言えば『伏臥膝関節の腋窩(えきか)挙上』というのです。何だか難しそうな漢字ですがこれを見ると字のごとく、うつ伏せに休み、膝を腋の下に向かって引き上げる、という動きがわかるのです。また実はこの動き、単にうつ伏せに寝て、膝を腋のほうに引き上げるという動作だけなのではありません。

    (勿論、患者さんにはこういう言い方はしませんよ。動診の際はちゃんと手順を説明し、介助し、言葉の誘導をかけながらやっていただくのです)

    人間の動きは8つあります。
    手関節だったら、外旋、内旋、橈屈、尺屈、背屈、掌屈、圧迫(おしこみ)、牽引(引き込み)足だったら、外転、内転、外反、内反、背屈、底屈、圧迫、牽引です。実はこの『伏臥膝関節の腋窩挙上』、足関節(そくかんせつ)の外転から作られる動きなのです。

    操体では、基本的に末端関節からアプローチします。例えば、全身形態の連動を促すには、からだの中心腰から動くよりも、手関節、足関節など、末端関節から動かしてみるほうが、感覚のききわけをとらせやすいのです。これを「順連動」と言います。しかし、ボディに歪みがあるとか、何らかの理由で末端から動かしても感覚のききわけができない患者さん(クライアント)もいらっしゃいます。そういう場合は、末端からではなく、逆にからだの中心、腰から動きをとっていただき、感覚をききわけていただく、ということをやります。これが「逆連動」です。

    足関節の外転に話を戻しますが、伏臥位で左足を二分の一屈曲位にとります。この状態から、左足関節を外転(かかとは内側、つま先は外側に回転させる)させてゆくと、左の膝は、左足関節の外転に伴って、腋の下のほうに向かって上がっていきます。足首は、外転するに従って、床に近づいてゆきます。この動きを続けていくと、いわゆる『カエル足』になるわけですが、『カエル足』と言ったのではその「おおもと」の動き(動きの源泉)が分かりません。

    単にがばっとうつ伏せに寝て、平泳ぎのカエルよろしく足をひょこひょこ上下させるのでは、動きの意味が分からないのです。
    しかし、足関節が外転するに従って、膝が腋のほうに上がってゆき、腰が上がっていく足の反対方向に捻転してゆきます。また、連動の法則というものがあり、首は上がってくる膝の方向に向けたほうが向けやすいのです。
    なので、『足関節の腋窩挙上』と言うのです。

    というのは、操者が『カエルみたいな動きをさせりゃいいじゃん』と思って介助するのと、足関節の外転に従って、膝関節が腋窩挙上する、と動きの流れをイメージするのとでは、患者さん(クライアント)の動きが全然違うからです。中には「カエル」に余りいいイメージを持たない方もいるでしょうし。私は「カエルみたいな格好してぇ〜」と、言われたらちょっとイヤですね(笑)

    勿論私もクライアントに指導する場合は『膝関節の腋窩挙上』とは言わず、
    『足関節を外側に回す』と言います(カエル足とは言いたくない!)。

    このように、「動きの源泉、源流」ということを考えると、師匠三浦先生が、何故「膝関節の腋窩挙上」と言われるのか、よく分かるのです。

    お持ちでしたら橋本敬三先生の著書を開いてみて下さい。操法が紹介されているものがあると思いますが、いずれも「操体1」とか「操体A」となっており、操法には具体的な名称がついていないのです。

    これは、三浦理事長から伺った話です。
    三浦理事長が橋本先生のところで修行中の頃だそうですが、当時まだ『操体』『操体法』という言葉はありませんでした。なので『先生がやっておられるのは何と言うものですか?』と尋ねたところ
    『名称などどうでもいい、真理こそが大切なのだよ』と言われたそうです。

    橋本先生が操法に名前をつけなかった理由も何となく分かる気がします。
    操体、という言葉にせよNHKに出るので何か名前をつけなきゃならないということで、『体操の反対だから』『体操じゃないから』(諸説ありますが)『操体』という名前にしたという話も聞いたことがあります。

    ところで、私が『カエルさん』とか『バッタさん』とか言うのを聞くと思い出すのがヨガです。
    ヨガのポーズはその完成形に名前がついているようです。私も少しだけヨガをやったことがありますが、ヨガは順番があって、最後に完成ポーズをとり、そこで動きを停止(ポーズ)します。その時の姿形が動物に似ていたり、シンボリックな形をとっているのです。このあたりは日下実行委員に聞いてみて後々ご報告します。

    一方、操体には『完成ポーズ』というものはありません。

    あくまでも『動かして感覚をききわける』という行程が大切だからなのです。動かしていくそのプロセスで感覚のききわけ(快適感覚がききわけられるのか、ききわけられないのか)を行うのが操体であり、『カエルさんのような格好』をして、ストンと全身を瞬間急速脱力させることではないのです。

    このように考えてみると、何故師匠(三浦先生)が『操法に名称をつけないのか』という意味が分かってきます。
    ・動きの源流を見失わないため
    橋本敬三先生も操法には名称をつけられていなかったため

    なのです。

    というわけで、私達は操法に名称をつけずに、動診で呼ぶことが多いのです。

    Hiromi Hatakeyama

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  • 昼と夜

    この季節の雨は本当に冷たくていやなのですが、少し早く目が覚めたので
    傘を片手にちょっと散歩しました。

    朝と夜どちらが良いのかなって思って。

    いつもとは違うコースを歩き、ファーストフードのコーヒをすすりました。
    夜歩くのを、朝歩くだけでも違うのですが、コースを変えると更に新鮮ですね。

    いつもは見えない景色や、車の交通量も違うし・・・行き交う人の速度さえ違う・・・おもしろいですね。
    またさっき歩いてきました。

    結果的に空気の鮮度もちがうし景色も落ち着くし!!
    そして雑念無く心と対話できます!!
    という事で僕はやはり夜の散歩が適しているとなりました。
    皆様はどちらがお好きですかね。

    なんか、このブログを書く順番になるといろいろな事がおこるのです、良い事も悪い事も含めて。きっと気付きの機会なのでしょうね。

    周りの人への感謝に気付く事が本当に多いです。
    基本的に日記等つけていなかったのですが、気付きに『気付く』為に日記もどきでもつけようかと思いました。大切な人との話や時間を忘れない為にも、
    いろんな事への感謝を忘れない為にも。

    師匠の日記の習慣を見習うべきですね。

    あ、今日で最後です。相変わらずの文章の進歩のなさに自分もビックリです。(反省!? 笑)それでも読んで頂いた方々ありがとうございました。

    明日からは畠山さんです。

    西田尚史

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  • いつでも素直な・・・

    こんばんは、今帰りです。

    今日は仕事が遅かったので、帰りに遠回りして歩いてきました。
    ふと頭に浮かんだ事を書こうかなとおもいます。

    相手を思う事って、ただ気持ちを満たす事だけではないのだなって、それは、相手を思うが故に伝えられない事、実行できない事もあるのだってこと。

    それに気付かないと勘違いで終わってしまう事もあるし。
    でも、それに気付いた時それは、何ともいえない感謝にも愛情にも感じる事ができるのだなって・・・そして、そのとき今迄以上に相手の想いが理解できる。

    そう思える相手ってなかなかいないですがね。そういう人ってひょっとしたら
    気が合うとかだけでは無いのかもしれないですね。

    上手くいえないですが、前世からの戦友だったかもしれないし、恋人だったかもしれないし、親子だったかもしれないし・・・

    そういう人との関係って、どんな事があっても決して切れない絆で結ばれているのでしょうかね、そう思うと常に前を向いて行けそうです。
    何でも正直に、素直に伝えるって凄い事ですもんね、それを理解できる相手だからなのですよね、きっと。

    僕にも思い当たる人がいて、その人とはちょっと特別なものを感じたりもします。へんな関係じゃないですよ〜(笑)

    あった時には、缶コーヒ一本で心地良い雰囲気に包まれ時間さえも忘れてしまう事もあります。時には朝迄語る事もあります。時にはどうでも良い事で、笑いあう事ができたり・・・。
    それに常に、何かあればいつでも飛んで行けるって思っています。
    ちょっとクサイですか?(笑)でも、本当です。
    半端な想いではないです!!(笑)

    それが、親友だったり、恋人だったり、夫婦だったりするのでしょうか・・・
    喜びも悲しみも、すべて共有できるって感じがします。
    もっと書きたい事はあるのですが、この辺で・・・

    夜中に書く文章はいろんな想いがあふれてきますね、少し自分らしくないですかね(笑)

    まあたまには・・・

    西田尚史

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  • 大切な・・・

    ちょっとさぼってしましました。

    今日は、大切な・・・ってことに関して少しだけ書きますね。
    僕はアクセサリーとかも好きなのですがその内の一つを紹介します。

    これピアスなのですが、頂き物なのです。よいでしょ!!
    これは、別に僕が「これ頂戴って」いったわけでもなく、趣味を知っている訳でなく選んでくれたものだったのですが、見た瞬間に『なんでわかったのかな』って思いました。そう!以前から欲しかったものだったから。

    もちろんそのお店には一緒にいった事なかったので知る由もないと思いますしね。
    人の見る目や想いってすごいですね。
    信頼でき、これからもなんでも話せる奴だろうなって・・・だからわかるのかな。

    もちろん、そのものも気に入っていますが、そんな奴が選んだ、気持ちが入ったアイテムだからより大切な物なのです。

    少し話がそれましたが、大切な・・・って
    単に価格としての価値のある物だけでなく、どんな物にもその時の『頑張ろう』って自分を応援するつもりで手に入れたものなど、気持ちが入ったものですよね。

    操体の勉強も表向きの技術だけでなく、本当に心のはいったものを相手に伝えていけたらな!なんて思います。かなり強引な結びですね(笑)

    でも、それが相手にとっても大切な時であり大切な感覚になると思いますから!!

    西田尚史

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  • まだまだ発展途上

    先日、公園にタイヤがころがっていた。そのタイヤはもう使命をまっとうした感じだったけど、その後も遊具として転がったりして子供達と遊ぶのだなって感心しました。

    今、臨床家の卵の僕が人の為に、そして人の役に立つのはいつなのかな・・・
    常日頃から、人の為にとか思いつつどこかで、見返りを気にしてしまう自分いたりしていて、まだまだだなって・・・

    見返りを期待せずに無意識に人の役にたてる時って何時なのだろう。いまは、いろんな人に出会い、何事も楽しむという事の大切さを教わったり、生かされている命に対しての感謝を学んだり、まだまだ僕は発展途上です。

    想を落ち着かせ、正しい気付きを伝えられる臨床家になりたい!!そんな
    事を、散歩の途中で思いました。

    早い時間ですが、睡魔が襲ってきました(笑)
    おやすみなさい。

    西田尚史

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