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  •  ツバメさん

    治療所のある建物には毎年ツバメが家を作りにやって来ます。

    今年も建物に4つの巣が出来て、それぞれにヒナがピーピーやっています。

    でも、毎年ヒナが落ちそうで凄く気になるのです。

    いや、落ちそうでなくて、たまに落ちてます。

    落ちたばかりのヒナなら巣に戻してあげることも出来るのですが

    「もうダメ・・・」というヒナを偶然見つけた時は、ちょっと可哀想な感じです。

    でも、これも自然の摂理ですから仕方がないことなのでしょう。

    ツバメは最速200キロくらいのスピードで飛べるそうです。

    それでいてホバーリングも出来ます。小さいのに凄い身体能力です。

    また、「ツバメが低く飛ぶと雨」という諺があるそうです。

    雨が降る前は虫が低いところにいるためらしいのですが、

    昔の人の観察力って大したものです。

    ツバメと言えば、佐々木小次郎の「燕返し」。

    最速200キロのツバメを斬るなんてとんでもない技ですから、

    昔の人は観察力だけでなく、からだの使い方も凄かったのでしょう。

    「人間の能力も捨てたものじゃないな」と、ツバメを見ていて思ってしまいました。

    中谷之美

  •  実践哲学

    始めまして。黒子さんとゥパコさんの兄弟で、ホークとアニマルと申しますゥ。

    ようやく登場出来て嬉しいですゥ。

    嬉しいと言えば、サッカー日本代表がW杯出場を決めました!

    ちょっと???な審判でしたが、あれもアウェーの洗礼なのでしょうか。

    でも、勝ててヨカッタ。これからまた楽しみが増えました。

    今日は午前中に治療所で仕事をした後、天風会の講師による講演会に行ってきました。

    ワタシは会員ではありませんが、中村天風先生の著書はよく読むのでヤジウマです。

    「心身一如」「潜勢力」「感応性能」と言った言葉から、

    天風先生の宇宙観、生命観と言ったようなお話でしたが、なかなか面白いものでした。

    天風哲学は実践哲学だそうです。これは操体も同じですね。

    なんたって自分のからだを通して感じ取っていくものなんですから、やってみなければわかりません。

    「ウソかホントかやってみろ」という橋本先生の言葉は名言だと思います。

    中谷之美

  • 今日は6月6日。

    今日は6月6日。
    慣わしとして「芸事の稽古始は、6歳の6月6日にすると上達する」といわれています。
    そんなことから、今日は「楽器の日」「邦楽の日」「いけばなの日」となっているそうです。
    「楽器の日」というと、今年の春季東京操体フォーラムは「操体と発声」というテーマで
    「身体表現」という側面からボディは声を出す楽器である、という側面から操体をひもといていきました。
        ・ボディの歪みは声にも影響する。
        ・ボディは音を奏でる楽器である。
    内容については、いつも手技療法やこのサイトの中にもレポートが掲載されると思うので、そちらの方を楽しみにしていてください。
    今回は東京操体フォーラムの相談役であり超歌唱家でヒカシュウのリーダーでもある巻上公一氏を迎えて行われましたが、巻上さんは1989年から一年間、三浦先生から操体を学ばれた私たちの先輩でもあるのですが、その何年か前に声が出なくなってしまったことがあったそうです。
    自身の体験から、喉についての話として、歌もからだを動かしながら歌ったほうが良いという事から、喉と膝の裏の関係(膝をゆるめていないと喉がしまって来てしまうそうです)や喉と目の動きの関係についてもわかりやすく話していただきました。
    また、その後の懇親会でも、質問事項に対して、音階についての説明や音程がズレるということに対してどうしたら良いかという事や、自然倍音がからだに良いので倍音の出るホーメイの音とか口琴のような古い楽器の音が響き合うようにすれば良いということを話して下さいました。
    どうもありがとうございました。
    巻上さんのホームページを開いてDAIARYを見ると一番上にぼくは歌う時、いつも未完成の気分の中にいる。頂上はそこにある。だけど頂上という定点は移動する。だからいつも登っているのだ。(巻上公一とあります。さすがに私たちの先輩という感じで、深いです。

    秋の東京操体フォーラムは11月22日(日)、23日(月)の2日間の予定となっております。

    今日6月6日は楽器の日という事で、先日行われた東京操体フォーラムについて少しだけ書かせていただきましたが、楽器の日の元になっているのは、「芸事の稽古始は、6歳の6月6日にすると上達する」という慣わしからきているということでして、芸事に共通することと言ったら、からだの使い方、動かし方です。
    からだの使い方、動かし方にも法則が存在します。
    橋本敬三先生は「お経のように、からだの使い方、動かし方にも法則があるんだ」と言っておられたそうです。
    この身体運動の法則を解説した「般若身経」には、健康の基を正し、自然体(健康体)としての、あるべき姿を問いかけ、それが成り立つ理と約束ごとが示されています。
    橋本敬三先生も著書の中で「武芸であろうと、茶の湯、お華、あるいは座禅であろうと、皆この丹田に重心が安定しないことにはものにならない。力の出入が丹田に収約されることが理想である。あらゆる修行というものはこのバランス安定に尽きるといってよい。このためには、あらゆる動作は、手は小指に、足は母趾に、力が入るようにもってゆかなければならない。」と書いておられます。
    今日を、あらゆるものの根本になっているものを学び始める日に、または更に深く探求してみる日にしてみるのも良いのではと思います。

    一週間お付き合いいただき、ありがとうございました。
    来週は中谷さんです。
    前回はメンコの秘蔵コレクションを見せてくれましたね。
    スーパーヨーヨーも・・・やったわやった(熱中時代の水谷豊ふうに)
    来週もどうぞよろしくおねがいします。

    友松 誠。

  • 6月5日。

    橋本敬三先生の著書のなかの文章を少し抜粋します。
    親は子を生んで育て、子は親に産まれて育てられる。自然は人を生み、人は自然に育てられる。親心もわからずに屁理屈言ってもはじまらない。親心、それは自然法則以外の何者でもない。自然環境のなかで生命体がそれに適応することが生命の使命なのだ。生命エネルギーの収支のバランスをいかに調節させてゆくか。調和させてゆく営み方があるはずだ。その営みは複雑に見えても、必須の項目をしぼってゆけば呼吸・飲食・身体運動・精神活動になる。これ以下には詰められない。そしてそれには、それぞれに自然法則があり、しかも同時相関相補性になっている。精神活動が法則に背反すれば環境破壊もする。

    今日6月5日は環境の日
    近年は地球温暖化防止ということがクローズアップされ、日本では温室効果ガスの排出を1990年に比べて6パーセント削減しようという活動が色々と進められています。
    人類が繁栄した結果、地球の大気中にCO2などの温室効果ガスが増えて熱がこもり、地球の平均気温は最近の100年間で0.74度上がり、人間に例えると平熱36.5度の人が37.2度となり微熱を出している状態で、これからもその温度は上昇してしまうと考えられています。
    地球の気温が上がってくると、氷で覆われている部分は溶け出し、海水面は上昇し海に覆われてしまう地域がでてきたり、温暖化が原因とみられる様々な異常気象が起こってくるようです。
    日本の場合は勢力の強い台風が勢力を弱める事なく、幾つもやってくる状況になり、他の国や地域では逆に干ばつや熱波が発生したり、乾燥による森林の破壊も起こってくるようです。
    直接的は災害も怖いですが、異常気象による作物の不作からの食糧不足、森林が破壊されれば益々大気のバランスは崩れ、呼吸にも影響してきてしまいます。
    このような問題を誰が作ったかといったら人間です。
    人間の何が作り出したかというば、欲望とありがたみを忘れてしまった精神活動がそうしてしまったのかもしれません。
    自分達のイノチは母体である地球があってのイノチであり、生かされているイノチであり、母体の親心とは自然法則であり、その親心である自然法則に委ね従うことが、地球にやさしい、環境にやさしいということに繋がってくるのでは思います。
    世界的に自然環境のことを論ずれば、様々な難題が立ちはだかってきます。それらをクリアするための世界基準の法律ができたとしても、時の移ろいとともに反故にされかねません。
    やはり地球の表面で生かされている一人一人が、自然法則に委ね従い、地球にやさしい、環境にやさしいということに繋がってくれば、現象は変わってくるのではないでしょうか。
    これは自然環境のみならず、人為的環境、社会的環境にもあてはまると思います。
    6月5日もあと少し、残すところ何十分ぐらいとなってしまいましたが、そんなことを思いました。

    友松 誠。

  • 今日から歯の衛生週間。

    今日から歯の衛生週間がはじまります。
    はじめは6月4日、6(ム)4(シ)ということで虫歯予防デーとなっていたみたいですが今は6月4日からの
    一週間を歯の衛生週間としているようです。
    日本歯科医師会のホームページを見ると、歯の衛生に関する正しい知識を国民に対して普及啓発するとともに歯科疾患の予防に関する適切な習慣の定着を図り、併せてその早期発見及び早期治療等を徹底することにより歯の寿命を延ばし、もって国民の健康の保持増進に寄与することを目的としているそうです。
    そして今年のスローガンは「かみしめる 生きる喜び 歯とともに」で、小さな子供からお年寄りまで家族全員で歯を磨いているポスターになっています。
    このスローガンなんだか良いと思います。
    「かみしめる」という言葉の意味は、①力をいれてかむ。②よくかんで味わう。③物事の味わい、深い意味まで十分に感じ取る。 ということですが漢字にせず、ひらがなにしたことで、なんだかここに上げた全ての意味を含むようでまた良いです。

    虫歯予防で歯磨きを奨励するのも良いですが、この良く噛むということも大切だと思います。
    良く噛んで食べていると、唾液の分泌が促進されてきます。
    虫歯になるメカニズムは簡単に言うと、口の中の細菌が糖を材料にして歯垢を作り、その作られた歯垢のなかに棲む細菌がまた入ってきた糖を分解して酸を作り、その歯垢内のphを低下させます。→歯の表面を覆うエナメル質はリン酸カルシウムからできていてこれはphが5.5以下になると溶け出すようで、だから歯垢のついているところが酸に溶かされて(脱灰)、その部分が虫歯になるようです。
    しかし、唾液を分泌すれば唾液の成分(重炭酸塩など)で歯垢の酸は中和されphも上昇し、歯から溶け出して歯垢の中にあったリン酸カルシウムは歯の表面に再び沈着し、歯の修復(再石灰化)が成されます。そして更に唾液もリン酸カルシウムを含んでいますから、これらも歯の表面に沈着して修復に加わるようです。
    唾液の中には、でんぷんを(酸をつくる)糖に変えてしまうアミラーゼもあり、ここだけで見ればphも下がって虫歯になりやすいと思われてしまうかもしれませんが、同時にそれを中和させphを上昇させ、修復させる成分や殺菌作用もあるわけですから、良く噛んで唾液を出し、甘く、おいしくなった感じを十分に味わえば良いのだと思います。
    よく虫歯になってしまう人もいれば、まったく虫歯にならない人もいるというのも、この良く噛んで唾液を出して咀嚼しているかどうかというところに秘密があるのではと思います。
    噛むためには、顎がなければ噛めない。
    顎がなければ、呼吸や言葉を話すこともできない。
    かまない子は精神状態が不安定とも言われます。
    幼児期に良く噛まないと下顎の発育が不十分となり、噛み合せも悪くなりますし
    毎食、毎食のことですから、不自然な動かし方は、からだ全体の歪みにも通じてきてしまいます。
    小児では、ゆっくり良く噛んで咀嚼することによって脳の発育の活性化や口や顎の正常な
    発育が促されるようです。
    ですから、乳歯の生えそろう3歳ぐらいから、食を通しての躾、食による人間形成が重要になってきます。
    この「食を通しての躾」ということに関しては2006年の春季操体フォーラムでも理事長の講演の中に出てきました。この東京操体フォーラムのサイトの中にアーカイブスというページがあり、その時の内容をまとめたレポートが載っていますので見てみてください。また2006年の秋季操体フォーラムでは「食文化と食快」という福田副実行委員長の発表の中でも歯の種類と本数の話が入っていますので、こちらもレポートが載っていますので見てみてください。
    今年の歯の衛生週間のスローガンが「かみしめる 生きる喜び 歯とともに」ということから、良く噛むということについて少し書かせてもらいましたが、この良く噛むということの効能はまだまだたくさんあって書ききれないぐらいです。
    そして何よりも、食べなければ自分の生命が保っていけない。
    だから他の生き物のイノチをいただいている訳ですから、謹みをもって良くかみしめながら、ありがたくいただくということが大切だと思います。
    それを継続することによって何かが変わってくると思います。

    友松 誠。

  • 動画を載せてみました。

    動画の載せ方を覚えたので、今日は動画を載せてみます。

    矢沢永吉布袋寅泰のセッションです。

    10年以上前の曲なのですが、2年ぐらい前にNHKの番組でやってたものです。
    曲名は「もうひとりの俺」。
    詩の内容は、受け止め方によってそれぞれ違ってくると思います。
    誰でも過去を思い出して悔いることがあるかもしれませんが、「自分を俺は悔やまないけれど〜」とまた一日一日積み上げていきましょう。
    それと、もうひとりの自分に会いに行く光の道というのはどんな道なのだろうかという興味も湧いてきます。
    この動画は演奏後の楽屋での布袋寅泰のコメントも入っています。
    音の調子で聞き取りにくい部分もありますが、その中で「こうあるべきものをそのまんまそのかたちでやるというよりは、どっかそこで壊していくもの、そのスピリットがロックンロールだしそれがやっぱ矢沢永吉のスピリットだと思うんですよね、wellcomeだし」と言っていますが、この部分はロックンロールや矢沢永吉でなくとも色々なことに当てはまるのではないでしょうか。
    まったく同じものを見たり聞いたりするのだったら、テープレコーダーやビデオに任せておけばいいですもんね。
    しかし、人間がやる以上その場面、状況で最高のものを提供しようとすれば、量的に同じものでも質的にはより良いものになってきます。
    より良いもの、その時の最高を求めれば、それまで積み上げてきたものも壊す必要性も出てくるし、更にもっと掘り下げる必要性も出てきます。
    掘り下げて、積み上げて、壊す、また掘り下げて、積み上げて、壊す。
    なんだか土を耕す時と似てるような気がします。

    この曲は元々バラードだと思いましたが・・・
    まあ なんにしても見た人がスカッとした気分になって前向きになることを祈ります。

    矢沢永吉さんは1949年9月14日生まれですから団塊の世代です。
    いや〜しかし、団塊の世代の人達というのはパワーがあります。
    単に自分だけパワフルとかエネルギッシュなだけでなく、みんなも元気にしたり、勇気づけてくれる力があるようです。
    三軒茶屋に行くといつもそう感じます。
    いつもありがとうございます。

    友松 誠。

  • 腹の調子が・・・

    なんだか、腹が痛む。
    理由は解っている。
    何日か前に自分の臍はどんな感じだろうかと思って、覗き込むと臍のゴマが気になったのでそのまま手でとっていたら、臍のまわりがシクシクし出してきてしまった。
    子供の時にも臍のゴマをとっていて腹が痛くなったことがあったが、その時と同じ様な気がする。
    臍の掃除をする時は、横着せずオイルを含ませた脱脂綿をつけて臍のゴマをふやけさせてから、綿棒かなにかでやさしくとってあげるのが良いようで、くれぐれも爪で引っ掻いたりしないように注意しましょう。

    しかし、とった臍のゴマを見ていると、なんだかそのまま捨てるのが惜しくなってきてしまうから不思議だ。
    なぜだろう?そのままサッサと捨ててしまえばいいものを指先でクリクリしてみたり、少し潰して中を確認したり、匂いを嗅いでみたりなんかしている。その匂いは決して良い匂いとは言えないが、でもしばし嗅いでしまう。
    本当に不快はものだったら、すぐに捨ててしまうだろうが、臭いと思いつつもなんだか無下には捨てられない気分になってくる。
    なぜなんだろう? 
    みなさんはこんな経験ないですか?
    いや けっこうあると思います。
    臭いと思いながらも、自分の身から出てきたものには、けっこう愛着が湧くのではと思います。
    アタマでは汚いとか、こんなことをしている姿を誰かに見られたらどうしようとか思ってしまうかもしれませんが、自分の中の何処かで、この新陳代謝の産物に対して「ありがとう」とか「ごくろうさま」「おつかれさま」といった感じのものがあるのではないでしょうか。
    臍のゴマも垢の一種だそうです。
    垢というと不潔なイメージの方が先行してしまいがちですが、垢も垢になる前は一般的に知れ渡っている働き以外にも色々な面で立派にお勤めを果たして、垢となっているわけですから、もちろん後生大事に貯めこむのも良くないですが、汚いものを排除するという感覚ではなく、「今まで ありがとう」という気持ちで別れの時を迎えるのが良いと思います。
    別れ惜しくて、舐めたり食べたりしてしまうのは行き過ぎですので、キチンと区切りはつけましょう。
    今日は、風呂に入ったらあまり肌をゴシゴシ洗わず、お勤めを果たされたヒト(角層)だけ洗い落とすような気持ちでやさしく洗い、サッパリしたらサッパリした気持ち良さも味わいつつ、洗い落とされたヒト(角層)には「ありがとう」と言って別れたい。
    腹のシクシク感を感じながら、そんなことを思った昼下がりでした。

    友松 誠。

    あっ 食事前だった人、ごめんなさい。

  • 今日は6月1日。

    今日は良い天気ですね。
    今日は6月1日、衣替えの日です。
    確かそうだったよな〜と、どこかでもらった高島暦を見ると確かにそうなっている。
    しかし6月1日というのは行事や記念日が多い日で、衣替えの他には鮎釣りの解禁日
    気象記念日電波の日、写真の日、滋賀多賀大社御田植祭とある。
    他にも何かあるかな〜とwebでも調べてみると、他にはガムの日、麦茶の日、景観の日
    ネジの日、真珠の日、サモア独立記念日、マリリンモンローが生まれた日、徳川家康が亡くなった日と色々出てきた。
    私がこの中で、気になったのはネジの日でした。
    こういうのって何かが始まった日とか語呂合わせが多いのですが、語呂合わせからではないらしいし、始まった日の特定なんか出来ないだろうから、なんで6月1日がネジの日なのかと不思議に思い、ちょっと調べてみると、なんでも昭和24年6月1日のJIS法の制定に合わせて、業界におけるネジ製品の社会的責任と義務についての認識を深めると共に一般社会に対しても広く基礎部品としての貢献度をPRすることを目的に東京鋲螺協同組合が提唱し、ねじ商工連盟が制定したものとのことでした。

    考えてみれば、このネジというのは大小それぞれ、あまりにも身近にありすぎて、ありがたみが解らないというか、感じられないものの一つだと思います。
    しかしネジ一本の緩みから、大災害に発展していってしまうということはすぐに想像できます。
    例えば電車にしてもネジ一本の緩みから、大事故→大災害とならぬよう検車区では整備の人が一つ一つ ネジ(ボルト)をハンマーのようなもので叩いて音の違いを聞き分けて緩んでいないか常に点検しているそうです。
    基礎部品としての貢献度という観点から考えてみれば、様々な物の中でパーツとパーツをつなぐ、あるいは固定するジョイントするといったストレスの加わる中での重要な役目を負っており、ネジで固定された状態を矢状面、前額面の断面図でその様子を見れば螺旋の鋸が楔を打ち込むようにして食い込んでいてちょっとやそっとでは取れそうにないのが解ります。そして緩めればそのパーツとパーツに動きがつけられ分解も可能ということで様々な物に使われているのではと思います。
    しかしこの様な強固で便利な仕組みもネジとネジ穴がかみ合わなければ何にも成りません。
    だから、しっかりとした取り決めの元に規格化する必要があり、JIS法の制定に合わせてより正確に、より安全で信頼のおけるものを作っていこうと同じ日を「ネジの日」としたのではなかろうかと思います。
    今ノートパソコンでこれを書いていますが、ノートパソコンの裏側を見てみるといくつかネジ止めがされています。
    内部のコンピューターを保護、保持する為にプラスチック製の型枠(ボディ)で囲んでグラグラしないように、あるいは歪まないように、何箇所か要所要所をネジ止めしているのだと思いますが、このうちの一箇所でもネジがはずれていれば、その時は使っていて別段差し支えなくても、時が経つに伴い使っているうち型枠(ボディ)が歪んできて、隙間が出来たりしてパソコンとしては気持ちが悪くなっているだろうし、隙間からはホコリやこれからの季節だったら湿気が入ってきて、内部のパーツにも影響し機能的な異常も出てくるだろうし、放っておけば壊れて動かなくなってしまうかもしれない。

    しかしネジは締め込めば良いというものではありません。
    強く締めすぎればパーツ自体に亀裂が生じてしまったり、しめた時は良くてもちょっとした衝撃でメネジの螺旋の杭の一部(ネジ山)が壊れて逆に緩んだり使い物にならなくなってしまうこともあります。
    何ごとも、いいかげんでは困りますが、良い加減が大切です。
    よく頭のネジが緩んでいると言いますが、締めすぎるのも良くないと思います。
    私の場合、もうちょっとだけ締めたほうが良いのかもしれませんが・・・。

    衣替えについてなにか書こうと思っていましたが、なんだか全然違う話になってしまいました。

    友松 誠。

  • 5月最後の日曜日

    おはようございます。
    また一週間よろしくおねがいします。

    今日は5月最後の日曜日ということで東京競馬場ではダービーが行われます。
    私は、田舎に引っ込んでから競馬は全然やっていませんが、東京都内やその近郊に住んでいた20代の頃は良く競馬場に行ったり、場外馬券場に行って競馬をやっており、なかでもダービーは好きだったレースで、競走馬にとっては生涯でたった一度の晴れ舞台であり、その中の頂点を決める祭典である為、いやがうえにも盛り上がった雰囲気になり、これが5月のさわやかな風、包み込むような空と眩しい光、みどりあざやかな芝、広々とした東京競馬場のターフと見事なハーモニーを奏でます。
    (今日はあまり良い天気にはならないようですが)
    奏でるといえばファンファーレも陸上自衛隊が出走馬の数と同人数の音楽隊を組み、なんだか重厚な感じで頂点を目指すとか、極めるといった感じが伝わってきて気分も高まってきます。
    中山競馬場の桜満開の中での桜花賞の第4コーナー、京都競馬場の晩秋の斜陽の中での菊花賞の最後の坂も良いですが、やはり東京競馬場の大けやきの木を過ぎてからの緑に映える広々としたターフの最後の長い直線というのが競走馬のたった一度の晴れ舞台に花を添えるというか、華を引き立てる感じでなんとも良い感じです。
    あの頃のナリタブライアンは強かった、第4コーナーを周って最後の直線に向くとあの独特な低い体勢から芝を蹴る蹄が本来の大きさよりもひとまわりもふたまわりも大きく見え、あの速さ、強さはなんだか一頭だけ別次元にいるようにも見え、楽しそうにも見えました。
    競馬をやらなくなって10年以上経ち今年もやりませんが、ダービーみたいな大きなレースはテレビのニュースなどを通じて入ってくるので、あの雰囲気の記憶を楽しみたいと思います。
    やはり馬券(勝馬投票券)の当たりはずれも楽しみの一つだったかもしれませんが、あの雰囲気が好きだったのだと思います。

    馬券の買い方も自分の場合は他の人とはちょっと変わっていました。
    普通は馬の血統や実績、調教の様子などから勝ち馬を当てるというやり方や、その馬のファンだからという理由で馬券を買う人が多いと思いますが、自分の場合はあてずっぽうというかデータに頼らないやり方でした。
    例えば、スポーツ新聞の日付の欄に友引とあったら、出馬表をパッと見てメジロパーマーとメジロマックイーンの馬連を買うとか、1枠1番の白い枠にホワイトストーンが入っていたら単勝を買うとか、セキテイリュオーが5枠5番(子、丑、寅、卯、辰と一番から数える)に入っているから買う、騎手の場と田が同じ枠に入っているから的中するのではと買う、前走が12着の馬が12番に入っているので今度は1着になるかもと買ってみるといった具合でほとんど出鱈目。そして2点も3点も買わない。
    それでもたまに当たってしまうから不思議で、少なくともここに上げたものは当ったことを覚えているものです。
    しかし出鱈目な中にも欲が出てくるもので、パッと見て直感でピンときて買うというのは難しく、ほとんどが当たった時のことに味をしめて同じ様なケースはないかな〜といった目で見て、頭の中でこじつけて、当てるのに執着して、何点も買ってしまうからダメなようで、相当数のハズレもありました。
    ホワイトストーンは1枠の白い帽子でなくとも勝つし、2枠2番の騎手が黒い帽子をかぶったブラックホークもこない時はこないし、場と田で的中しない時もあり場と舘でも的中しない時は的中しないですもんね。
    パターンにあてはめて見ても、そこに当たりがあるとは限らない。
    歌の文句じゃないけれど「歌舞伎座は歌舞伎町には〜ない〜」といったところでしょうか。
    パッと見て、パッと買って、パッと帰ってくる。このやり方の良さは後腐れがないこと。
    レースが終わった後、あそこでああなってればな〜とか、あんなに買わなきゃ良かったと
    グチグチ後悔するのは精神的にも、からだにも良くありませんし、まわりの人にも迷惑となってしまいます。
    当たったら楽しさが拡がる。はずれても楽しめたで一区切りスパッと切って引きずらない。
    楽しみ方も色々で、なにも馬券を買わなくても入場料を払って、芝生の上でボ〜としながら花より団子ならぬ馬よりビールと洒落込むのもいいし、あくまでも自分の楽しめる範囲内で楽しめれば良いのではと思います。

    テレビで勝利ジョッキーインタビューを見るのも好きでした。
    自分が乗っていたから勝ったんだという感じの言い方をするジョッキーは見たことがありません。
    皆、口々に「馬が良くやってくれました」「馬が良く走ってくれました」と言う。
    主役は馬であり自分達は最高のパフォーマンスが出来るようお手伝いしているだけなんだという補佐役の誇りみたいなものを感じる。
    レポーターから「3コーナーで内にささったりしていましたが良くたてなおしましたね〜」
    と振られても「馬があそこで良く踏ん張ってくれました」と言う。
    決して自分の技術、テクニックで上手く馬を誘導したんだといった事は言わない。
    言わないが、日々の騎乗法の研鑽、精進に怠りはない。
    何ごとにも当てはまるのではと思います。

    そして今日は東京操体フォーラムの相談役、平直行さんのチャリティーイベントが行われます。
    時間や場所などの詳細は、平さんのブログの最終日に載っていますので御確認の上、是非出かけてみてください。 

    友松 誠。

  • 音楽療法

    おはようございます。
    鹿児島での朝を迎えました。
    幸い天気もよく、桜島を眺めつつの第二弾。

    音楽と発声についてというと、
    研究している分野もあるだろうと思い調べてみました。
    まず思い当たるのは一つ。音楽療法です。
    図書館でも書店でも、音楽コーナーでは見かけますね。

    まず定義として、
    音楽療法では、セラピストが音楽、音楽活動のいろいろな機能を意図的に使って、非音楽的な目標を達成することに主眼がおかれる。音楽はあくまで媒介、きっかけとして使われるのである。

    理論書ということもあって、フォーラムでやったような一音ごとのききわけというのは載ってなかったのですが、たとえば

    音楽療法において、自分の好きな音楽が与えられるとき、聴く音楽の種類を問わず、常に末梢血管の拡張と緊張低下が引き起こされることが明らかにされている。
    (中略)これらは快感情にもとづく生理的反応だと考えられている。

    音楽を聴くことによって、さまざまな心理的反応すなわち感情反応が起こる。(中略)一番深いところには生命的感情があり、次には快・不快の感情がある。

    音を用いて何を表現しようとしているか

    器楽による演奏、鑑賞や歌唱によって心身の回復をはかる。
    近い形とすれば、歌唱のほうですね。

    歌唱の目的、効能
    1発語の矯正、回復
    2強力な発散と身体的快感
    3自信の回復
    4体験世界の拡大

    歌唱は身体アクティヴィティであることと、意味のある音声(言葉)が伴われることを特徴とする。つまり、歌では、旋律を歌うことと歌詞(言葉)を表現することが一つのものとして合体している。

    器楽の場合は、
    良い音を出すことと、正確な音程をとれることが必要になる。

    対して、
    歌は、自分という楽器を使って、いかに歌詞(言葉)を表現するかが最重要課題になる。

    つまり、音楽療法における歌唱は、音程よりも発声の方が優先されるようです。
    ただ、重要視されているのは、快適感覚を味わえるかどうかということです。

    別の本によると、
    言語の音を区別して、別の音とするのは、音自身のもっている性質というよりは、その音を聴き、あるいは使う人の心の中での心理的のはたらきであります。
    ということです。

    研究の余地が大ですね。
    詳細はいずれまた。

    辻知喜

    主な参考図書:

    「標準 音楽療法入門」  日野原重明監修

    「古代国語の音韻に就いて」  橋本進吉