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  • 自然の法則にみる「快」と「楽」(6日目)

    『想』の快と楽について
    想念というのは心がけのことであり、病気というのはその心の歪みのことである。病気の原因は心が歪んでいるからで、その心の上にからだが乗っており、心が歪めばからだが歪み、からだが歪むと心が歪んでくることになる。これもまた「同時相関相補」の関係にあり、連動している。
    漢の時代の中国の古典、『黄帝内経』、『素問』、『霊枢』などには生活の仕方を間違うと病気になると書かれており、この古典の締めくくりには「身を修め、心を治める、これ薬源なり」という言葉が記されている。この意味は、悪いことをしないように身を修め、心を丸く穏やかに保ち、自分本位の思いを捨て、心がけを良くすることが、心を治めることであり、こういったことが治療法、健康法の薬だといっている。
    心がけが悪くなるといっても、その心の歪み方には、中国の古典に従うと、「傲慢」「冷酷」「利己」「強欲」という四つの型に分けられる。「傲慢」な人は頑固で人の意見を聞かないという特徴があり、肝臓や胆嚢が悪くなりやすくて、感謝する心というものを持ち合わせていない。「冷酷」な心の人は、他人に対して思いやる気持ちがまったくなく、心が冷たい性格でやはり感謝する心がない。このタイプは心臓や血管系統を悪くし、小腸やエネルギー代謝も悪くなるので糖尿病にもなりやすく、その上、消化器を悪くすることにも結びついてくる。「利己」の人は、苦労するのが嫌で動きたがらない怠け者だ。また我慢することを知らず、動かないで、飲み食いばかりしているから消化器が悪くなって肥満してくることになる。「強欲」な性格の人は、欲が深くて、出すのを渋り、何でも取り込み、出すのを嫌がるという潜在意識があるので便秘になって困っている。
    であれば、からだの歪みを治せば病気も治るという理屈になるが、心が歪んだままになっていると、またからだも歪んできて病気に逆戻りするのだ。先述したように血液が循環するから健康でいられるのと同じように、心にも「気」がからだの中を循環しているからこそ、精神的に健康で過ごすことができるのである。たとえば、血液の循環が内臓細胞の中で滞ることになれば、肉体的には、当然に内臓の具合が悪くなって「五臓六腑」と、精神的には、「喜怒哀楽欲」という五つの感情が乱れてくる。この表れ方は怒ると肝臓が悪くなり、腎臓が悪いと臆病者になってしまう。またクヨクヨすると消化器を悪くし、消化器が悪くなると、クヨクヨして優柔不断になるのである。心の性格を見れば病気のおおよそがつかめるということだ。
    このように心のあり方次第で、からだも連動するのであるから、健全な心がけを持たなければならない。心が楽を求めるというのは、それだけ自分本位が強いということだ。自我を弱めて、他人のために役立つ心が育ってくると、他人の喜びが自分の喜びとして感じるようにもなってくる、これが快の心だ。それには常に肯定的、積極的に物事を捉えることであり、たとえ病気をしても、その病の中で、人の心の優しさや親切の有難さに気づくことができるものである。そこから感謝の心が生まれてくることにもなるのだ。また橋本敬三医師の言葉にもあるように、自分だけの力で生きているのではなくて、「生かされている」というのは、毎日の食卓でも自覚できるはずである。自分を生かしてくれるために、野菜や魚などの食べ物が、食卓にやってきてくれたのだ。感謝の心があっても決しておかしくはない。だから合掌して「いただきます」と言って感謝の心を態度で表す作法が生きている。まるで感謝を絵に描いたような姿である。こういった我が国における礼儀作法をずっと守って生きたいと思う。
    明日は「環境」の快と楽について

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 自然の法則にみる「快」と「楽」(5日目)

    『皮膚』の快と楽について
    妙療法といわれる操体法の中には「渦状波」という妙法がある。それは皮膚に問いかけるというものであるが、なぜ皮膚なのか。それには理解されなければならないことがある。それはブログの初日にも触れたが、血液の循環を良くするためには、ボディの歪みを調整することが大切であるように、皮膚による血液循環も、まったく同等に大事な要素である。心臓から出た動脈は、進んでゆくにつれ、枝分かれて小動脈になり、やがて毛細血管に達する。この毛細血管には多数の小孔があり、動脈血はそこを通って、無数の細胞を養っている。
    その毛細血管の手前に、「グローミュー」という名の副毛細血管がある。この副毛細血管というのは、普通は毛細血管に血液を送るため閉じているのであるが、血管に異常な高圧がかかった場合に開くようになっている。いわば血管の危険高圧を防ぐ「安全弁」の役目をしている。日常動作や感情が高まった時に、血圧が上昇するが、これは生理学的に必要な血圧変化である。こういった血圧変動を安全に遂行するために副毛細血管があるのだ。これがうまくいかなくなると高血圧によって小動脈が破裂して内出血を起こすのが脳溢血である。そしてもう一つの大切な役目が毛細血管を通過した無酸素状態になった静脈血へ安全弁が開き、酸素の入った動脈血を適当に流す働きをしてくれる。すると、無酸素状態の中で発生する猛毒一酸化炭素をまったく無害な水と炭酸ガスに変えてしまうのである。
    こんな副毛細血管を健全に機能させるためには皮膚のケアーが重要だ。ケアーといっても何もエステに通えというのではない。皮膚は肺のような呼吸作用や腎臓のような排泄作用にも余念がないのである。そんな皮膚を清潔にするためには、いつも風呂に入り、からだを洗浄することで付着した汚れや毒物も洗い落とすことができる。また清潔な衣服を身に着けて、紫外線にも当てないと、ビタミンDの摂取をはじめとする体温調節や汗腺からの毒素排泄もうまくいかない。こうした正しい生活習慣を実行することで副毛細血管を健在に導くのである。
    その副毛細血管の数は、全身に51億本あり、その60%の31億本が、皮膚の層にあるといわれている。あんま、マッサージ、指圧などもこの皮膚に対する刺激を通して、内蔵の血液循環を促しているのである。そういった皮膚への刺激療法は「楽で気持いい」という言葉をよく耳にする、ようするに楽なのである。同じように皮膚に働きかけていても、渦状波はそこが違うのだ。皮膚に対して刺激を与えるのではなく、「接触」のアプローチで働きかけている。一体、何が異なるのか、この違いが快と楽の違いでもある。
    ここに被験者が、あんま・マッサージ・指圧など皮膚に対しての刺激療法を受けていると仮定する。この場合において、施術者の手が被験者の皮膚に触れているわけであるが、その施術者の指が刺激となって、この状態が施術の終了まで続くことになる。これが治療であり、「楽」の意味でもある。しかし、渦状波の接触では、操者の指が被験者の皮膚に触れられているという逆の感覚を覚えるようにもなってくる。言い方を変えると、被験者の皮膚が操者の指に触れているということだ、それが快につながるという可能性を大きくする。渦状波は治療法ではなく、感受性のレベルを格段に上げることで快につなげる。それが結果的には、からだ自身が治しをつけてくる。楽と快はここではっきりと違いが明確になる。
    たとえば、臨床においてクライエントの昔の病歴、古傷が治りを邪魔していることがある。表面上は一見すると、治っているかのように見えるが、そのときにその部分をかばうような不自然な動きの残像が見受けられる。それがボディの歪みになっていることが多い。これはその部分の見かけの皮膚が元に戻っても、自然な動きという機能が戻らないので不自然な動きからボディに歪みを作ってしまうのである。表面上は治っても、その皮膚の下にある筋肉は過度に緊張していて自然な動きが行えないというのが原因であると考えられる。渦状波における皮膚への接触は、まさにこの皮膚の下にある筋肉が反応し、その部分とは離れたからだの別の部位の皮膚に感覚がついてきたり、他の部分の筋肉が動き出したりすることが起こったりする。そういった感覚をクライエント自身がききわけることによって快・不快の予備感覚から結果的に快感覚につながってゆくのである。このように皮膚への刺激を与えないというやり方こそが、自然の法則に沿った快療法といえるものだ。
    明日は「想」の快と楽について

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 自然の法則にみる「快」と「楽」(4日目)

    『動』の快と楽について
    操体では「正しいからだの動き」とか「間違ったからだの動き」といった言葉を使わないで、「自然な動き」とか「不自然な動き」といった言葉の表現をしている。自然な動きを突き詰めていくと、からだの中心である腰から全身を協調させて支えており、末端から全身へ連動させた動きのことである。いわば自然に即した無理のない動きになっている。この自然な動きというのは本来、無意識になされる日常の起居動作に見られる。立つ、座る、歩く、道具を使う、寝るといった無理のない楽な姿勢や動きのことだ。楽な動きは苦痛のない動きではあるが、それ以上でも、それ以下でもない。ただ楽なのである。だが、「癖」という生活習慣から緊張や苦痛を伴う無理な姿勢や運動が発生してくると、それがからだにとって不自然な動きや姿勢をつくりだすことになってくる。こうなってしまうと、からだの良能作用がどのように機能するのか、ひとつはからだの歪みという形をとり、ひとつには快・不快の原始感覚をもって発信している。この内、不快は、からだが否定を訴える意思表示であり、快こそが元に戻る招待状なのである。
    これを味方につけているのが操体だ。その操体には「般若身経」という動きのエクササイズがある。これはまず立位の姿勢から入るのであるが、この二本足で立つというのは難易度の高い姿勢である。直立二足で立つということは、人類の祖先が古代の水中生物から進化の道をたどり、四足の陸上生物を経て最後にたどり着いた進化の最終段階だと言われている。地球重力に抗して立ち上がり、二本足でバランスをとりながら立つというのはかなり高度な技であるのは確かなことだ。般若身経でいう自然な立ち姿は禅の方でいう「立禅」とほぼ同じものだ。禅では立つことによって気力、体力が養われ、心とからだが充実すると伝えられている。
    この立ち方に少し触れてみると、まず、自然に楽に立ってみる。両足は腰幅程度に平行に開き、膝を緩めて背筋は頭頂部が上から釣られているように伸ばす。こうすると、目線は自然に正面の一点に据わる。このようにして立てば、自然に背筋が伸びた姿勢になり、呼吸も滑らかとなって心も落ち着いてくる。この状態はからだの中心に垂直軸を生み出し、重心が下腹部の丹田から、さらに正中線の下部に沈んでいく。このとき垂直の体軸に心をおくようにする。これに対して不自然な立ち方の場合であるが、猫背に近い姿勢になると、胸はすぼんで、背中は丸まり、お腹が張り出して、腰は後ろに引いた状態になり、目線はやや下向きに落ち、重心も踵よりにかかる。また、逆に反り身に近い姿勢では、胸が開いて腰が反り、内臓も引き上がって、腹が引き締まった姿勢になると、重心はつま先の方へかかり、目線はやや上向きになる。日本舞踊では特にこの立ち姿が重視されていて、熟達した名人になると、立ち姿それ自体が「美」になっている。「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」といわれる「立てば芍薬」とはこのことである。般若身経では、まず、はじめに立つことから教えて、それから動かし方に入っていくのは真にマトを得たやり方だ。
    たとえば立ったままの姿勢からズボンをはくときに、まず片足に重心をかけてバランスをとり、もう一方の足を上げて持っているズボンの足を通す穴に足先を入れて膝を伸ばす。次にズボンに入れた足に重心を移し、片足でバランスをとり、もう一方の片足を同じようにズボンに入れて伸ばす動きになる。こんな動きにも難なくスムースに行なえる場合と、足を引っ掛けて尻もちをついてしまうこともあるだろう。こういった日常動作の中では自然な動きと不自然な動きが必ず存在している。一度、自分の動きを意識的に捉えてみてはいかがだろうか。
    明日は「皮膚」の快と楽について

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 自然の法則にみる「快」と「楽」(3日目)

    『食』の快と楽について
    食べものはからだの組織をつくることと、活動のエネルギーを作る目的を持つ。蛋白質と脂質はからだの組織をつくり、糖質と脂質は活動エネルギーをつくる。また、ミネラル、ビタミン、酵素などは、蛋白質、脂質、糖質などを肉体にするための媒体の役目をしている。このように生命を維持し、活動するために食べ物は欠かせないものである。しかしながら、食べたからいいというものではない。食べ物が不足して病気をする人よりも、食べ過ぎて病気をする人のほうがはるかに多い。
    ある仏教経典には「人間は喰う処のものである」と戒められているがよく言ったものだ。この「食」についての楽というのは、食することの楽しみのことである。平べったく言えば、味覚を満足させる、いわば食欲という欲の楽しみである。旨い酒やおいしいものを食べているときは、楽しいが、飲みすぎや食べ過ぎになってしまうと、その後にやってくるのは二日酔いや食べ過ぎの苦しみが待っている。現代人の病気の多くは、酒の飲み過ぎや食べ過ぎが原因になっていて、飲み過ぎや食べ過ぎは血液が汚れ、免疫力が低下し、からだの冷えを招いて脳の働きも停滞させてしまうことになる。食の楽は特に節度が重要だ。
    自分の食事が適量であるかどうかを調べるひとつの方法がある。それは朝、目覚めたときに、床の中で手を握ってみることだ。もし腫れぼったく感じるようであったなら、まず食べ過ぎとみてよい。もし、からだが求めてくる食を摂取し、適量であるならば、起床の目覚めは快適で、手を握るも、指先までも力が入り、生命の息吹さえ感じるだろう。食の快というのは、朝の目覚めこそが証明してくれる。そして食べ過ぎると便が臭くなるが、良い便は臭くないものだ。からだに使い方・動かし方があるように「食べ方」というものがある。どのように食べるかというと、食べものを少しずつ口に入れてよく噛んで食べるのである。よく噛むというのは血糖値を上げ、脳の働きも良くなるだけでなく、顎の間接や顎の骨も鍛えられることになる。また細菌によって引き起こされる歯周病についても、抵抗力や免疫力が低いと感染が進行するが、よく噛むことで治りやすく、生命力も強くなる。
    よく健康本には何十回噛むとか数を数えるとか書いてあるが、そんな必要はまったくない。少しの食べものを口に入れてよく噛んでいれば自然に奥へ流れ込んで、口の中が空になる。次々と口の中にほおばるから飲み込み食いになってしまうので、そのような追っかけ食いは慎むべきである。このように少しずつ口に入れてよく噛んで食べていると少しの量でお腹が一杯になってくる。そこでやめれば食べ過ぎにならないのである。また食べものについては、野菜を主にして肉や魚などの動物食を少なくし、植物性の蛋白質を摂取するのが望ましい。そしてできれば玄米食が理想的であるが、七分づきの胚芽米や五分づきの米でも良い。白米を食べるなら麦やあわ、ひえなどを混ぜて炊けばよい。
    なぜこのようなベジタリアン的な食事形態が勧められるのかというと、我々の口や歯の形が密接に関係しており、人間の口と歯の形態は肉食に適した生物ではないというのが明らかである。肉食獣のように口の形状や歯の形とも尖ったものではない。肉食獣は口も歯も鋭く尖っており、他の動物を食するときに骨から肉を引きちぎるのに適した形状になっている。しかし、人間の口は平たくて奥歯は臼上の形になっている。食べものを前歯でちぎって、奥歯で噛んで、すり潰すように設計されているのだ。このことは穀物や野菜を中心にした草食系動物に近い食事形態が人間に適しているという証拠である。確かに人間にも犬歯があるが、肉食に適した歯ではない。あれは肉食獣の牙とはまったく用途が違うものだ。まさに「糸切り歯」というように糸を切る程度に尖っているだけのものであって、野菜などの繊維を切ることに越したものではない。人間はあくまでも菜食動物であり、肉を食べることを正当にする根拠などありはしない。
    だからといって、何も衣食を含みすべての動物を殺すことがないよう、動物製品を一切使わないヴィーガニズムや厳格なベジタリアンを推奨するものでもない。乳製品などは食べているラクト・ベジタリアンや卵なら食べるオボ・ベジタリアンのように自分の生活に合った食物を見出すべきである。
    明日は「動」の快と楽について

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 自然の法則にみる「快」と「楽」(2日目)

    『息』の快と楽について
    呼吸に関しては私の専門とするところであるが、操体では呼吸のコントロール法として腹式呼吸を提唱しているので、それに沿った内容で述べてみる。ただ、腹式呼吸は数多くの書物にも記されていることから、その方法については、あえて述べないことにする。その代わりに血液の循環系統から眺めた腹式呼吸の重要性及び呼吸の快と楽の関係について話を進めていく。
    血液はまず心臓から押し出され、その動脈の力は強いので問題はないが、逆に血液を吸い入れる力は心臓にはないということだ。この心臓に血が還ってくる理由というのは、はじめに心臓から押し出されたときに、その血液の二分の一は手、足、頭、胸等に流れていき、残りの二分の一は腹部に流れて溜まることになる。そして心臓が空になると、組織の弾力と腹に圧力があり、腹にある血管がその圧力で収縮して今度は心臓の方に血が還ってくることになる。心臓から押し出されて血管が腹の方に入った後、心臓が空の状態になったときに、腹の血管が自己弾力と腹皮と横隔膜の圧力とで収縮し、今度はその血液が他に行き所がないから、再び心臓の方に押し上げられることになる。この時にもし、腹圧が弱ければ血が腹に溜まったままになってしまう。もっとも血管壁の弾力で少しは還るが、それだけでは不十分なので心臓に充分な血液が上がらない。そこで腹式呼吸により横隔膜を下げてやることによって、はじめて充分に心臓に血が還ってくることになるのだ。
    人間のからだの血液循環は体全体の十三分の一で4.5ℓより多いことはない。ところが、その血液分配の半分以上は腹の中に入り、他の四分の一で筋肉を養い、その他の四分の一で脳とか皮膚とかの他の臓器を養っている。そうすると、脳とか皮膚とかいうのは実に哀れなものである。このように血液の分配は定まっているので横隔膜が弛緩していると、もとより組織や血管の弾力でそれを制限しているが、それ以上に血液が溜まってしまうことになる。ことに二分の一以上の血液が腹部に入ってくると、今度は全身を巡る血液が少なくなって貧血になる。こういった場合に横隔膜を下げる腹式呼吸が威力を発揮する。腹に血液が溜まっていることは腹自身にも悪い。腹に悪い循環しない血液がたくさん溜まっているから、良い血液の行きようがなくなってしまうのである。
    このようにして腹から血液を押し出しても、足の方に下がったりする心配はない。腹と足との間には静脈弁というものがあり、血液が重力によって下がるのを止めてくれるのですべて心臓の方に還ることができる。腹式呼吸によって横隔膜を下げる結果、腹は前へ出て固くなり、血液が心臓に還るのである。心臓は胸に一つあるが、胸にある心臓はただ血液を押し下げるだけの「動脈心臓」であって、押し上げる方の心臓は腹全体がもう一つの心臓だ。いわば腹は「静脈心臓」なのである。
    呼吸というものがこれほどまでに血流に影響を与えるということを解っていただけただろうか。そしてこの呼吸にも快と楽の感覚がある。内臓などの臓器は生命力を容易く実感できないのに対し、呼吸は直に生命の鼓動を実感できるものだ。そんな呼吸の中で楽な感じというのは、呼気、吸気が滑らかに行われている状態のことで、息を詰めることなく、息まないで、息を止めない、全身的な自然な呼吸のことである。この場合、楽な感覚が実感できるのは呼気においてである。また、楽に物を持ち上げようとする場合や、楽にからだを動かそうとするときも、自然に深く息を吐いているものだ。これに対して吸気では心の関与が加わってくる。呼気によって胸や腹部が緩んでくると、心が穏やかに落ち着いてきて、深くゆっくりとした吸気に変わり、心地よい快感に包まれる。このように吸気において快の感覚が生命の波動として訪れることになるわけであるが、こうなるには身心一如の次元が求められる。それに大いに貢献するのが腹式呼吸である。
    明日は「食」の快と楽について

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 自然の法則にみる「快」と「楽」

    今回は『快』と『楽』の違いというテーマであるが、常識的に言ってもその違いは一目瞭然である。昔は、東海道五十三次というように歩いて旅をしていた。今は新幹線や飛行機であっという間に着いてしまう。こういうのが『楽』という感覚である。そしてある日の昼下がりの午後、縁側に座っていると、どこからともなく、心地いいそよ風が顔の表面を撫でいってくれる。このとき、まったく時間は止まってしまい、いま、ここに、自分は在って、そよ風がからだを包み、気持ちよさだけがそこにある。そういった中で身も心もその空間に溶け込んでしまう。これこそが『快』の感覚というものだ。このように快と楽の比較は社会通念上の常識的な範囲内に納まってしまう。しかし、これではここで話が終わってしまう、そこで、操体の自然法則に快と楽の感覚論を交えてこのテーマを展開していきたい。
    操体では「同時相関相補連動性」という教えがある。その原理を健康面に応用したものが「息・食・動・想」という自然の法則である。現在ではこれに「皮膚」を加えて「息・食・動・皮膚」の肉体原理と心の原理として「想念」という身心相乗の原理に立っているのが「現代操体」と言えるものだ。
    おおよそ病気と名のつくものの原因は、血液の質の低下という血の汚れと、血液循環が停滞する血のめぐりが悪いことに尽きる。しかるに血質を上げて血循をつければ、あらゆる病患は消滅するほかはないのである。血質と血循の関係も相乗の原理に立つもので同時相関相補連動性に適うものである。
    たとえば呼吸が浅く、食物が不適切であると、血質が落ち、必ず血循も悪くなる。何故なら血が汚れて粘りっぽくなってくるからである。また、皮膚が弱く、ボディに歪みがあると、血循が落ち、必ず血質が悪くなる。これは血がよどんで腐敗するからだ。こんな状態に陥った血液にも酸素が十分に入ってくると、粘った血がたちまちサラサラとしたよい血になる。それに野菜などのアルカリ性の食べ物が加わると、黒っぽくよどんでしまった血がたちまち鮮やかな赤味を帯びた血になる。ゆえに血質を上げるには、呼吸と食事との二つを相乗させていかなければならない。
    同じように血循をよくするには、必ず皮膚とボディの歪みの調整が不可欠である。皮膚が弱くなると血の流れが悪くなり、筋肉にコリができて骨格が歪んでくると、血の流れが悪くなる。皮膚が健全だと血の流れもよくなり、またボディの歪みを整えても血の流れがよくなる。血液循環もまた皮膚とボディの歪みを整えることを相乗させなければならないのである。長期間にわたり血がよどんで滞り続けていると、癌などの腫瘍ができる。これを治すには、その部分に血循をつけることに尽きる。その腫瘍部に、皮膚からの血流と筋骨からの血流とを相乗的に喚起せねばならないということである。呼吸と食事は血の質をよくし、皮膚と筋骨の自然な使い方、動かし方は血の流れをよくする。血の質と血の流れはまさに同時相関相補連動性の関係が成立する。
    こういった血の質と血の流れを感覚的に表現すると、血の質は「快」の質に比例し、血の流れは「楽」に反比例する。言い方を変えると、快の質が高く、その感覚を味わうことが出来れば、血の質も良くなり、血の流れも良くなるということだ。一方、「楽」には節度というものが必要になってくる。調子に乗っていつも楽ばかりを求めていると、その反動で逆に「苦」を味わうことになる。「苦楽」というのは、親密な関係性におけるバランスをとっている。一方に傾くと、必ずもう一方に傾かなければならないのである。サーカスの綱渡りで左右にバランスをとっている棒のようなものだ。左側の極端にいくとき、もう一つの極端である右側にいく準備をしているのである。同じように、「楽」という名の極端に進むとき、実はもう一方の「苦」という極端に進むための準備をしているということだ。このように楽というのは、十分に心して意識的であらねばならない。これに対して快は、からだの無意識に委ねることにより、その感覚が自然の法則へと誘ってくれる。このように快感覚は自然の法則という真に理に適った在りかへと導くことができる、神秘的とも思える妙法なのである。
    巷に健康法は数多くある。しかしながら、この「息・食・動・皮膚」を正しく伝えたものはないように見える。多くの健康法を次々に実行しても一向に効果が上がらないのは、これらの原理が揃っておらず、その上、相乗の原理を把握させていないからだとしか思えてならない。

    明日からは、息・食・動・皮膚・想と環境がそれぞれ持っている快と楽について、日替わりでブログを進めたい。

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 快の共有〜次元を超えて〜

    今週もお付き合い頂きましてありがとうございます。
    あなたの大切な「からだ」と共に、感謝を感じられる今日でありますように・・・。
    生活の中で掴んだ感謝は、「からだ」の無意識に響きつつ、イノチを生かしていくことになるのですから。

      「歩歩是道場」〜禅語〜

    それでは最終日、よろしくお願いします。

    ところで、最近ちょっとしたことに「感動」してますか?
    シンプルに『きもちがいい』というのは、感動を与えてくれるものですね。

    以前に聞いた三浦理事長の話です。
    「アノネ、みせて頂いている患者で、臨床中に『ありがとうございます』と手を合わせて、
     味わった操法の後でネ、一回一回お辞儀して感謝している方がいるんだよナ・・・」
    この話を聞いてから、ワタシもいつか、そんな臨床を目の前でみてみたい!そう思っていました。

    「快」を味わった後に無意識につながる感謝とは、この上なく美しいものです。
    そういえば、橋本敬三先生の出演されたNHKの放送中にも映像として記録してありました。
    橋本先生自身、坐位での操法後に低頭して感謝している姿を見たとき、「ハッ」と、ワタシ感動しましたから。

    操体法/橋本敬三の世界[DVD]

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    このようなことに感謝できるには、やはりコツコツとつながっていく努力が必要です。
    そして、あきらめずに日々耕していくことでもあります。
    種をまけばこそ、芽も出るチャンスをつなげられるのです。
    先日惜しまれながら”一番気持ちがいいところ”に戻っていかれた(=橋本敬三生の哲学思想より)
    米アップル共同創業者故スティーブ・ジョブズ氏も語っていました。
    「目標を達成できるかどうか、それは途中であきらめないだけことだ。あきらめないこと、それだけだ」と。

    ワタシの場合も、努力は操体の学びを通して徐々に、確実に報われていることに感謝しています。

    最近では、皮膚に問いかける操法中でした(第三分析といいます)

    「教えていただけますか、今どんな感じですか?」とワタシ。

    「本当に、今感謝しているの」

    「この治療を学んでくれた先生とその先生に・・・」

    「そう、三浦先生と橋本先生に・・・この味わっている『からだ』に・・・」

    これを臨床中に聞いてしまい、芯から震えがしばらくおさまらなかったものです。
    ワタシを褒めてもらえるよりも、明らかに救われた感じがして、本当に気持ちが良かったのです。
    この方に限らず、「からだ」と向かい合っていく感動を取り戻してくれたとき『快』は共鳴します。
    日常生活も感謝を活かすことは、気持ちが良いものです。
    楽を通せば「(イライラしている時)いつものように放っていれば、そのうち済むんだから・・・」となりますが、お互いにそう思っていても、
    やっぱり”褒める”ってのはきもちがいい。
    「からだ」も褒められるのは大好きなのです。
    そのうちお互い気分良くなって、イライラしていることができないのです。
    臨床に入る前の何気ない言葉を大切にするのです。
    誰かが怒って文句を言ってきたり、イライラしているときに、褒めてあげる。
    そうすると意識も変わってきて、こっちを褒めてくれたりする(笑)

    気持のいいことは、必ず連鎖するのですね。
    いつもと同じことをしていたのでは、その場で終わり。
    こんなことも『楽』と『快』になっているように感じています。
    一見複雑でも、学ぶことでシンプルになっていくことは嬉しいことですよね。
    ありがとうございます。ホントに味わうって大切ですね。

    ・・告知事項です・・
    いよいよ来月に開催される「秋季東京操体フォーラム」ですが、今回はゲストに川崎隆章氏をお招きします。
    特別セミナーとして「天使の笑い・悪魔の笑い」という何とも魅惑的なテーマを挙げてくれました。
    前回の秋季東京操体フォーラムでは、何回か実際に臨床を受けたての三浦理事長との対談でした。
    川崎氏の語りは”愛とサービス”が中心にある用に感じます。ユーモアたっぷりに身振りを交えて感覚の表現を超えた対談でした。
    『快』を味わっているような波動は、「からだ」を通した、まさに言葉の滋味栄養となって伝わってきたのです。
    ワタシも感激!興奮しきりでした(笑)今回も楽しみです。
    そして昨年に続いて三浦理事長と畠山常任理事と福田理事がスペインに向かい、
    9月に開催された『操体フォーラムinマドリッド』のレポートもあります。
    やはり二年目ともなると、お互いの学ぶ意識を問われてくるものですね。
    そしてトリは勿論、三浦寛理事長です。
    毎年フォーラムにおいて、実行委員でさえ知らなかった!?
    最前線の操体を披露してくれるのです。
    そうです、新鮮な驚きは必然です。
    新生期の場で感激を味わうなら是非、来月に迫った東京操体フォーラムへGO!
    エッ?もうたまらなくって申し込みフォームを早く書きたいですって!!
    詳しいことはホームページを今すぐチェック!!
    そして参加する皆さんにお願いです。本当にマジメな操体を学んでください。
    今の時代に間に合うには、”何冊か本を読んだよ”では無理なのです。
    「考えるな、感じろ!!」なのです。
    その気になった皆さんを東京操体フォーラムは、いつでも待っていますヨ。

    明日からは日下実行委員の登場です、よろしくお願いします。

                                   岡村郁生

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • バランス〜『軸』を統率するもの

    地図、北極星、コンパス、ナビゲーションシステム。
    全く知らない地域も安心して動ける範囲は広がっていく。

    ただ、いつの時代においてもそれだけではない、独特の”勘”は大切にされる。
    いつものルート、いつも通りの流れには、同じところにたどり着いているようで、
    同じ経過や同じ結末になるとは限らない。むしろ異なっていることが多い。
    生物学においても、
    環境に関係なく、同じことを繰り返している、というのは結果として退化に過ぎない。

    脳は記憶と学習を反復して、それを駆使しようとするが、
    新たなことに対応しているとは限らない。
    むしろ、意識されていなければ簡略化された方法をとっている。

    例えば、目の前に全く見たことのない果物があったとしよう。
    まず味わう前に、見て、嗅いで、触れて、判断して、
    食したければ口に入れてみるのだろう。
    口に入れたものの、いつでも、常に何かを感じ続けている。

    そこで初めて、”飲み込んでみたい”という”要求”に満たされればこそ、
    嚥下はおこり消化吸収さらに排泄、という無意識に繋がっていくのである。
    それを、天然、自然の成り立ちとするならば、「快」と「怪?」の違いもわかる。

    そして違いではなく、比べられない!といってもいい、のは「快」である。
    「楽な状態」とは、特殊な環境であって永遠に続くものではない。

    「楽な状態」を当然と思っていては、危険な状態なのではないだろうか。
    便利な状態を受け入れてしまうと慣れてしまう、それはマヒしているのだ。
    「アッ!それって知ってる〜今評判だよね〜美味しいよね〜(パクッゴックン)」
    というのは「からだ」の関与しない、情報操作された脳の横暴であり、
    現代社会の生産した(安全性?)管理システムではないか。

    私たちそのものは「イノチ」の集合体である。
    本来は、歪みを生じるからこそ、自らの生命を救う鍵を握っているのである。

    子供はそもそも無理をする。
    それは学習となって、その都度勘違いを指導してもらえる機会は多い。
    しかし、大人こそ本当の無理をする。
    そこで知らなかったこと、勘違いしていたかもしれない・・と知って欲しい。

    起こってしまった下痢を、無理矢理止めるのは危険というのは、
    一般的な医学的常識でもある。
    起こってしまった歪みこそ、私たちの「からだ」にとっては、
    有り難い元に戻るチャンスなのだ。

    調和しているとき。
    これは間違いなく、きもちがいい。
    そこから何をしてもいい状態であり、なにものも受け入れるから。

    偏っていればどうか。
    まず、何をしても受け入れがたく、還流効率が悪い。
    それは、気持ち悪い。必ずわかる。これは生命の意志。

    なぜなら、イノチあるものは常にバランスを取る方向に向いていく。
    つまり、調和していくことは生命の意志でもある。

    一定の歪みが生じ「からだ」にとっては不快な状態を、
    元通りとするには『きもちのよさ』として感じられるかどうか。

    それさえ面倒にしてしまえば、『からだ』任せにした”ツケ”を自己責任で背負っていく。

    生かされし己の責任において行うこと、これは最低限度の『楽』ではなく、
    最低限で『快』くらいは、喜んで自己責任を負いなさいということ。

    ”法句経”には、こんなたとえがあります。

    「水道を作る人は水を導き、

     矢づくりは箭を矯めす。

     大工は木材を矯め、

     智者はおのれを調える」

    今日も働いた自分のご褒美にビールもいいけれど、「からだ」に感謝を忘れずに。

                                    岡村郁生

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。

  • 「報い」だけなんて、OOを入れないコーヒーみたいだ

    橋本敬三生の哲学思想の「救い」は,操体を学ぶ”醍醐味”に直結する。

    橋本敬三著『生体の歪みを正す』(p376)には、

    「わかりやすい言葉で言い表すなら、『救い』は絶対、『報い』は相対だ、ということである。
    『救い』とは絶対の無罪宣言であり、神性相続権であり、何者にも覆すことのできない久遠の事実である。
    『報い』とは現世における歩み方の努力に対する相対的評価である」とある。

    生体の歪みを正す オンデマンド版―橋本敬三論想集

    生体の歪みを正す オンデマンド版―橋本敬三論想集

    努力は、報われるかもしれない。
    しかし、報われるために努力をするのとは違う。

    イノチある私達は、明らかに元々救われている。
    なので、救われるために救ってもらう必要はない。

    「楽」は感情を動かしたりはしない。
    そして、感情を動かすために「楽」したりはしない。

    苦労は感情を生み出す。
    感情の流れとして、そこに感動はある。

    幸せにして下さいと誰かに頼んでも、感情は動かない。
    幸せとは関係ないかもしれない、努力をつなげていく。

    己の信じることしか努力は続かない。

    天地、宇宙、万物を司っているもの。
    カミは見つめているのでもなく、自在を認めてくれているのだろう。

    その努力は己のためだけじゃない。

    きもちがいい。それはやり続けていることでしか味わうことのない感情。

    認めていくことでしか味わうことのできなかった愛情。

    救われていること自体、すべてにつながっていた感動。

    それは紛れもない「快」につながっている。

    有難いことです、ありがとうございます。

                                       岡村郁生 

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。
                                 

  • 面舵一杯

    私自身は橋本敬三先生の”放言”を、この上なく好いている。

    橋本敬三著『生体の歪みを正す』〜p469〜
    「不快運動から快運動に早期に切り替えるのが治療の原点だと断言してはばからないのが、
     愚老の主張放言なのです。この放言がウソかホントか実験して、現代医学が開発した諸検査を
     フルに遂次継続して観察して、ご批判をお願いしたいのです。
     放言を許して頂いても空しいことです。現代医学の考えと医療体制は革命の時期に来ていると、
     今年も放言を続けさせて頂きます」(昭和57年1月1日)

    生体の歪みを正す オンデマンド版―橋本敬三論想集

    生体の歪みを正す オンデマンド版―橋本敬三論想集

    言いたいことを言わせて頂く、それを取るも取らねえも手前勝手、批判も肯定もご自由に。
    真剣に人類のことを、自分のことも同義として照らし合わせていけるように、調和を考えること。

    謙虚に学んで指導して、欲を削り、愚かな自分に気付いていく。
    その上で学びつなげて残ってきたこと。自然の法則に寄り添って生かされていく。

    人に聞いてばかりの人もいる。
    「楽と快の切り替えるスイッチはどこにあるんですか?」

    そんなこと、他人に聞くだけじゃ駄目。「からだ」にききわけなくちゃわからない。
    そんなスイッチ聞いただけでわかるようなら、聞かれなくてもばらまいている。

    『付和雷同』
    「楽」に慣れてしまっては、切り替えていくのはそりゃ大変なこと。
    そもそも、前例があるのなら簡単だが、そうでなければ苦労するしかない。

    しかし、苦労と勘ほど大切なこともない。
    「楽」に慣れてしまったなら、苦労してもバチはあたらない。

    「快」を理解できるように苦労しても、見返りは限りなく広がっていて有り難い。
    いつでも『原始感覚』にゆだね、『からだ』に教えてもらえばいい。

    そうすれば、
    「ありゃ、ワタシ間違っていました。ゴ・メ・ン・ナ・サ・イ」
    勝手に申し訳なくなってきて、さらにお礼まで言いたくなってくる。

    そうすると「きもちがいい」ってコトに、迷いがなくなる。
    そうか!と合点。楽していても、なんとかなっているときもあるのだ。

    そんなわけで、また一つ。
    「きもちがいい」ってことを理解できてくる。

                                  「岡村郁生」

    2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。