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  • そうなってんだ おまけ

    橋本先生は操体法の効果に対して、

    「(自然の法則で)そうなってんだ。オレが考えたんじゃねぇんだ」

    なんて言われていたそうです。

    今回のお題目は「自分にとって操体とは」でしたが、

    ワタシにとっての操体とは、その「そうなってんだ」をどんどんヤジウマし、

    できれば吸収し、更にできればそのわけがわかるようにしていくことです。

    「そうなってんだ」はいろんなところにあると思います。

    きっとワタシたちは「そうなってんだ」の中で生かされているんでしょうから。

    例えば、こんなハナシをどこかで聴いた覚えがあります。

    仰山慧寂という中国の禅僧がまだ若い頃、

    「おまえは師を決めた沙弥(見習い僧)か」と問われたそうです。

    すると仰山は「師を決めた沙弥です」と答えたそうです。

    そこで更に「おまえの師はどこにいるのか?」と問われたとき、

    西の方角に歩いて立ち止まり、東の方角に歩いて立ち止まったそうです。

    それは、ありとあらゆるものが師であり、真理であるということらしいです。

    う〜ん、カッコイイですなぁ。

    まぁ、高名な禅僧とワタシなんかとでは、

    シロナガスクジラとアリンコくらいスケールが違うかもしれませんが、

    (え?もっと違うですって?)

    そんな感じでモノゴトと向き合っていけたらきっと愉しいかもしれませんネ。

    ということで一週間ありがとうございました。

    来週は畠山先生です。

    中谷之美

  • そうなってんだ その6

    『からだの設計にミスはない』という橋本先生の著書があります。

    う〜む、なるほど。ミスはないなんてスゴイことです。

    しかし、この「ミスのないからだ」って、どんなからだのことなんでしょうかねぇ。

    からだにもいろいろとあるようじゃないですか。

    肉体だけじゃなくて、〇〇体とか△△体とか。

    ワタシは詳しいところは知りませんが、

    きっと目に見えるものだけじゃないってことなんでしょう。

    もしかしたら「ミスのないからだ」ってのは、

    こうした目に見えないからだのことなのかもしれませんヨ。

    まぁ、目に見える肉体が「この世のからだ」なら

    「あの世のからだ」ってところかしら。

    どっちが本物なのかは知りませんが、

    肉体はいつかなくなっちゃうってことを考えれば、

    「あの世のからだ」のほうが親分なのかもしれませんネ。

    親分と子分は一心同体、でも親分は見えない。

    見えないものはどうするかって言えば、それはもう感じるしかありません。

    そして、その一つの手立てが、

    もしかしたら「からだにききわける」ってことなのかもしれません。

    気持ちがいいってことは、きっと親分と繋がってるんですヨ。

    親分と子分でバロムクロスしちゃったんです。

    (わからない方はフォーラムで某実行委員長に訊いて下さい)

    そして、親分はたぶん面倒見がいいんでしょう。

    繋がればちゃんと子分を癒してくれる。

    からだの内にある気持ちのよさをききわけると親分と繋がれる。

    そしたら癒される。だから気持ちのよさで治る。

    う〜む、いろいろ妄想すると愉しいですな。

    まぁ、ワタシが勝手に想ってることですからねぇ。

    もっとちゃんとしたハナシを聴きたい方は、

    三軒茶屋にイイ先生がいらっしゃいますので、ご紹介します(笑)

    中谷之美

  • そうなってんだ その5

    操体を体系づけた橋本先生・・・

    一体何をみて、何を感じ、何を想ってたんでしょうか?

    興味ありますよねぇ。えっ?ないですって?そうですか・・・シュン。

    まぁ、そんなことは置いといて、

    そもそも橋本先生が言われる「気持ちのよさ」って一体何なんでしょうネ?

    「気持ちのよさ?ふん!そんなの操体じゃなくたって

    指圧でもマッサージでも凄く気持ちいいわい!」

    もちろんそうですヨ。

    ワタシだって一応指圧師ですから、気持ちいいの知ってます。

    でも、橋本先生の言われる気持ちのよさは、ちょっと違うような気もするんです。

    だって、「気持ちのよさはからだにききわけろ」って言うんですヨ。

    どういうことでしょうか?ききわけろって?

    しかも、「他力は使うなぁ!」ってことも言われたことがあるそうです。

    他力ってのはいわゆる一般的な手技療法のことですよネ。

    それじゃ、「他力じゃない気持ちのよさって一体なんじゃ〜?」って

    いうふうになりませんか?

    これについてはいろんなヒトのいろんな見方があるかもしれませんが、

    ワタシは何となく「あ〜そうなんだ」って想ったことがあるんです。

    それは橋本先生のあの世のハナシ。

    橋本先生はあの世について「みんな行くところだから気持ちいいとこだんべ」って

    言われていたそうなんですヨ。面白いですよねぇ。確かにみんな行きます。

    で、もしあの世とこの世があるならば、

    ワタシたちはあの世から来て、あの世にまた帰っていくわけです。

    それについて橋本先生は「一番気持ちいいところから生まれて、

    一番気持ちいいところへ帰るんだ」って言われています。

    ということは、一番気持ちいいところから生まれてきたワタシたちは

    既にその気持ちよさを知ってるはずなんです。

    誰が知ってるのかと言えば、

    それはこの世の頭の知識ではなく「からだそのもの」です。

    まぁ、命でも、細胞でも、魂でも、何でもいいんでしょうけどネ。

    だから、その気持ちのよさはからだにききわける。

    外から与えられた刺激ではなく、

    既にからだの内にある気持ちのよさをききわける。

    すると・・・むむむ、どうなるんでしょう?

    ここらでオツムの限界がきたようですので、続きはCMの後で。

    中谷之美

  • そうなってんだ その4

    操体で忘れてはならない大事なもの。

    それはもちろん「快」(気持ちのよさ)ですヨ。

    気持ちのよさで治る。これって不思議なことですぜ。

    まぁ、今はからだについていろんなことがわかってきてるようですので、

    そんな不思議なことも少しずつその理由が解明されてきているようです。

    でもねえ、ワタシは想うんですヨ。

    橋本先生は操体を体系づけるまでに、

    いろんなことを試行錯誤してきたそうなんです。

    まぁ、お医者さんですからネ。

    西洋医学だけでなく、鍼でも、指圧でも、

    矯正でも、何でもできるんですから。

    そうやっていろいろなことを試して、

    からだの動きや原理を理解して、手技療法として操体法を体系づけた。

    そういった先生が最終的に出した結論が

    「気持ちのよさをききわければいいんだ。気持ちのよさで治るんだからな」ですヨ。

    普通だったらきっと「脱力の仕方」とか、「動かし方」とか、「矯正のやり方」とか、

    そういった技術・テクニック的なことに目が向きがちじゃないですか。

    でも違う。「気持ちのよさだ!」。何で?

    たぶん「みてるもの」が違うんじゃないかと思います。

    ワタシを含めて大概のヒトは現象に目がいっちゃうものです。

    治療で例えれば、「痛いところを何とかしたい」「ゆがんだ形を何とかしたい」ってネ。

    しかし、きっと橋本先生は違うところをみてたんじゃないかと思うんです。

    えっ!それはどこかって?

    そんなのヒヨコちゃんのワタシにはわかりませんヨ〜。

    でも、「営みを法則に順(したが)わせれば健康になる」って言われてますから。

    その(自然)法則をみてたんじゃないですかねぇ・・・。

    中谷之美

  • そうなってんだ その3

    からだのルールなんてことを書きましたが、

    じゃ一体どんなルールがあるんでしょう?

    橋本先生は『生体の歪みを正す』の中で、

    「健康とは、全体のバランスがとれている状態であって、

    それはすべての営みの結果であるから、

    営みを法則に順(したが)わせれば健康となる」と書かれております。

    そして、「その営みを必要最小限に絞ってみると、

    呼吸、飲食、身体運動、精神活動の四つとなり、

    これらは他人に代わってやってもらうことのできない

    自らの責任においてやらねばならない営みである」とも書かれております。

    まぁ、ちょっとムズカシイ感じですが、

    呼吸すること、食べること、からだを動かすこと、思いめぐらすことには、

    それぞれの法則(ルール)があるってことです。

    そして、これらの営み方がルールから外れてくるとバランスが崩れて、

    からだの調子が悪くなるってこと。

    つまり、これらが操体でいう必要最小限のからだのルールってことですネ。

    そのそれぞれのルールの内容については、

    他の優秀な実行委員の方々のブログを参考にして下さ〜い(手抜き?)。

    でもねぇ、ワタシはちょっと思うんですけど、

    「法則」とか「ルール」って聞くと何となく堅苦しくないですか?

    「健康のためには、それをキチンと守らなければいけないのヨ!」

    みたいな感じもしちゃいますし。

    もちろん、イイコトならば守ったほうがより良いとは思いますヨ。

    でも、あんまりそれに縛られてもねぇ。

    シバル、ガンバル、ヨクバル・・・バルってのは案外とからだに悪いもんですぜ。

    はい、ここからが操体(橋本哲学)の本領発揮です。

    橋本先生は、言うべきことは言うんです。

    「本当はこうなんだよ」と。

    だけどこうも言われるんです。

    「間に合ってりゃいいんだ」「60点でいいんだ」って。

    むむ、これは何だかちょっとホッとするようなお言葉ですぜ。

    ここで、これらをちょっと整理してみると・・・

    ルールはちゃんとあるんだから知ったおいたほうが得だし、

    健やかに生きたいなら実践したほうが良い。

    でも、ハンドルに遊びがあるようにあんまりキッチリじゃ運転しづらいんだ。

    だから60点くらいでいいんだヨ。

    落第点を取らなきゃいいんだ、間に合ってりゃいいんだ。

    う〜む、きっとこんな感じになるんですかねぇ。

    これだったらそれほどストレスにならずに、からだと向き合っていけそうです。

    ワタシはこの辺が操体の考え方のイイとこじゃないかと思っておりますが、

    操体と言えば忘れてならないものが更にもう一つあるんです。

    中谷之美

  • そうなってんだ その2

    ウチのお坊ちゃまは去年から野球を始めております。

    ワタシなどは野球のやの字も知らないようなヒトなのに、

    どうしてウチのお坊ちゃまが野球なのかはわかりませんが、

    まぁ、愉しそうにやってるのでOKということなんでしょう。

    たまに練習などをみておりますと、野球にもいろんなルールがあるんですねぇ。

    (当たり前か・・・)

    いや、いくらワタシだってアウトを3つとればチェンジで、

    阪神の助っ人はバースだってことぐらいは知っておりますぜ(古い?)。

    でも、その他にもいろんなルールがあって、

    そのルールに則って行うから、きっと試合も上手く運ぶんですよネ。

    でも、それは野球に限ったことじゃありません。

    サッカーにも、将棋にも、ジャンケンにも、それぞれのルールがあって、

    そのルールの中で行うから上手くいくんでしょうし、

    愉しさを味わえるんじゃないかと思います。

    一般社会にも、いろんなルールがありますヨ。

    例えば交通ルール。

    これを守らなければ事故って痛い目をみますし、

    車だってハンドルを右にきれば右に曲がるっていう

    ルールに則って作られてるから安心して運転出来るんですぜ。

    こんなことはごく当たり前のことなんですが、

    でもその当たり前のことを知らなければ、

    事故も起こしやすいですし、車も運転出来ません。

    そんなことを少し考えていくと、

    じゃぁ、もしかしたら私たちが生きていく上でも生き方のルールがあるんじゃないか?

    からだを動かしたり、食べ物を食べたり、そういったことにもルールがあるんじゃないか?

    そのルールを知らないから、病気という事故を起こしやすくなるんじゃないか?

    そんな感じが何となくしてきませんか?

    もし、そんな気がしてきたら、それはもう操体の扉の入り口ですぜ。

    中谷之美

  • そうなってんだ その1

    今週は実行委員の未熟なヒヨコちゃんこと中谷の担当でございます。

    一週間よろしくお願い致します。

    今回のブログのテーマは「自分にとって操体とは」ですヨ。

    う〜む、今回も強敵ですなぁ。

    他の実行委員の皆さまは流石にイイコト書かれていますが、

    オツムの弱いワタシなどは初日からノックアウト寸前ですぜ。

    でも、「自分にとって・・・」何て考える前に、そもそも操体って一体何なんでしょう?

    例えば、この実行委員ブログにも時々でてきますよねぇ。

    操体は自然法則の応用・貢献であ〜る!」って。

    じゃ、自然法則の応用・貢献って一体何なんですか?ってことなんですヨ。

    これをいきなり聞いてもアタマの良いヒトは別にして、

    ワタシのようなオツムがエンストぎみの人間にはよくわかりません。

    そこで、ちょいと辞書で調べたら

    応用・・・原理や知識を実際の事柄に当てはめて用いること

    貢献・・・ある物事や社会のために役立つように尽力すること

    ということだそうです。

    何だか更にわからなくなっちゃった感じですが、

    まぁ、「操体は自然法則をいろいろと役立ててます」ってところでしょうか。

    じゃ今度は自然法則って一体何なんですか?ってことになりますよねぇ。

    そこで、これもちょいと調べたら

    自然法則・・・自然における出来事や存在などの諸事実の間で成立している一般的、

    必然的な関係を表した法則

    むむ、さっぱりわけがわりませんが自然の法則ということなんですから、

    人間が手を加えていない万物のルールってところでしょうか。

    となると万物ってのは「宇宙に存在するすべてのもの」ですから、

    操体はそのそれぞれのルールをいろいろなことに役立ててるってことになります。

    そうなると今度は、

    じゃ万物のルールって一体何なんですか?ってことになりますよねぇ(しつこい?)。

    そんなの全部知ってるヒトはいるのかいないのかわかりませんが、

    操体を学んでるヒトは、きっとそのルールを知りたくて操体をやってるんですヨ。

    まぁ、少なくとも三軒茶屋に集まる奇人変人はみんなそうだと思います(笑)。

    何故かと言えば、そのルールを臨床に、そして、より良い生き方に役立てたいから。

    自然のルールを知って、それをそれぞれがそのヒトなりに上手に役立てて、

    健やかで幸せな生き方ができるように学ぶのが操体です。

    だからきっと自然法則の応用・貢献なんですネ。

    中谷之美

  • 自分にとって操体とは。・・・まずは、やってみること。

    おはようございます。
    立春をすぎて、かれこれ一週間経ちますが、昼の日差しは幾分暖かくなっても、朝はまだまだ冷えますね。
    朝、雑巾がけをした後は、思わずストーブのところに行き、背中を丸め、ハエが手を擦る足を擦る状態になってしまいます。そして、手を擦り擦りしている自分のからだの状態を、感覚をとおして、知らず知らずに、ききわけている自分がいます。
    「うん?今日は随分と肩甲骨と背中が、かみ合っている感じがするなぁ」
    「う〜ん、いいじゃないか」
    「擦り擦りする手をもう少し、小指側側を利かせてみようか」
    「おっ、そうするともっと母趾球に重心がかかっている感じがききわけられる」
    「うん、いいんでないかい」
    こんな感じで、毎日からだと向き合っています。そして、この後は、般若身経を行うことになる。

    朝は良い。朝は有り難い気持ちで、からだと向き合える。何故なら、夜寝ている間に、からだが色々と調整してくれているからだ。その、からだの無意識による、有り難い働きを実感するには朝が良い。
     このところパソコンに向かって作業することが多かったせいか、昨晩あたりは目が充血し、首のつけねが痛かったが、今朝には目の充血も、首の痛みもなくなっていた。寝ている間に、からだが賢命に全体を調和させながら、ストレスを生じさせている箇所を、修復してくれたお陰だ。有り難いと感じる。自分だけで生きている訳ではないのだ。からだの無意識の有り難い働きにも生かされて、そして生きている。 その、からだの無意識をより活性化させるのは「快」なのだ。つまり「気持ちよさ」。
    橋本敬三先生はNHKラジオ放送に出演した時『「想う」ってのは、気持ちのいいことを想えばいい。厭なことは想いたくないですよ。だから一番気持ちのいいことを考えればいいんで、一番気持ちのいいことは、やっぱり有り難いって思ったときじゃないですか』と仰っている。
    夜寝る前に、その日一日、自分に付き合ってくれた、からだに対して感謝の念が湧いたなら、素直に「有り難う御座いました」と感謝の言葉をとおしてあげれば良いと思う。そうすれば、からだも気持ちが良いのだ。気持ちの良い言葉で、心とからだが調和してくれば、からだはより活性化して、調和へと向かう。否定してはいけない。翌朝、思うような効果が感じられなくとも肯定して、満足すること。想いが我欲を多分に含んでいれば、どんなにからだが尽くしてくれていても、決して満足は得られない。からだが生かしてくれている、ということは紛れもない事実だ。結果よりもまずは、やってみること。
     操体とは、まずは「やってみること」。そして、からだで体感すること、からだから学ぶこと、だと思う。これは、自分の健康管理、自己生成という面だけではなく、臨床にもつうじることだ。何故、操体は臨床効果が高いかといえば、被験者自身がやってみて、「快」を味わうことにより、からだから学んでいるからだ。単にかたちが整う、刺激でバランスがとれる、のとは訳が違うのだ。まずは「やってみる」。自然法則を識り、それに合わせて「やってみること」。

    今回は「自分にとって操体とは」というテーマで、書かせていただきました。
    一週間のお付き合い、有り難う御座いました。

    来週は中谷さんの担当となります。
    来週もどうぞ宜しくお願い致します。

    友松 誠。

  • 自分にとって操体とは。〜個性(個の神性)を尊重し、調和を創造していくこと。・・・4

    おはようございます。

    操体といえば橋本哲学、その「神人合一」の救いの生命観、未病医学を基とした捉え方なくしては、成り立たないと感じます。操体の臨床的な部分である操体法も、やはり橋本哲学なしには成立しません。初期の操体法は、動かしてみて「楽」か「ツライ」かの運動感覚差を確認する、二極対比の分析法でした。しかし、1982年、「気持ちよさをききわければ良いのだ、気持ちよさで治るのだからな」という橋本敬三先生の言葉により、「快」へのシフトチェンジが行われました。この頃の橋本先生は盛んに「気持ちよさ」という言葉を口にされていたと聞きます。
     このシフトチェンジする前の頃に想いをはせると、橋本先生はそれまで臨床では「楽」か「ツライ」かの二極対比の分析法を行ってはいたが、常に「これで良いのか、これで良いのか」と自問自答しながら、自然法則の究明に励んでいたのだと思います。
    この自然法則の究明という事は並みのことではない。橋本先生自身も、昭和54年頃の講演の中で「からだがネ、8つきりしか動かないなんて、そんなことに気づいたのは、よっぽど年とってからですよ、若い時は、わからなかった。ともかく、ゴチャ、ゴチャ、動いていればいい、と思っていた。ところが、考えてみれば8つきりしかない。その動きに、やはり大事なルールがあるんですよ。大事なルール、約束事がね」と話されているように、からだの動きの自然法則の究明だけでも、並みの事ではない。ある一定の研究分野からの見解だけで納得できれば苦労はしないと思うが、「健康体としてのあるべき人間の姿」からの動き、となると途方もないことなのだ。並みの人間だったら、確実に途中で放り出していたと思う。しかし、橋本先生は何年も何年も追求し、更新に更新を重ねながら、からだの動きのルール、約束事に気づいた。その精進の基となったのが「神人合一」の生命観だと思える。求学備忘録の最後の方に「人が正しきにおれば容姿はおのずから端正となり、骨格は整い、筋肉も拘緊するところなく、内臓もその地位に安んじ、機能は互いに相調和して、健康である。」とあるが、「神人合一」の生命観から健康体とはこの様なことを指すのだ、と悟られたのだと感じる。そして、この様な健康体には、からだの使い方・動かし方のルール、つまり重心安定、重心移動の自然法則が自在すると気づかれた。その自然法則に合わせて、からだを動かせば8つしかないということになってくる。
    橋本先生は確かに臨床では、正体術を基に、二極対比の「楽」か「ツライ」かの分析法を行っていた。しかし、同時に、文献でも明らかなように、重心安定、重心移動、連動の法則を説いている。つまり、動かして診るという臨床を重ねる中で、これらの自然法則が自在することをつきとめた。そしてまた、その自然法則を基に動かして診るという、自然法則の更なる究明の中で、観えてきたものがあった。それは、人間を人間の像たらしめているものが何であるかということだった。それがあるから、歪体から健康体へ逆転する自然良能作用がいかんなく発揮される。それに気づいた後も「これでいいのか、これでいいのか」と更に検証を重ね、「間違いのないもの」との確信に至った。それが1982年だったのだ。その確信による言葉が「きもちよさをききわければいいんだ、きもちのよさでなおるのだからな」だったのだと感じる。そして、そこまでの自然法則の究明と精進の原動力となっていたのが、人間一人一人には「神性相続権」が宿るという、救いの生命観と「生命現象創生の中心理念」だったのではないかと思う。
    しかし、この時すでに橋本先生は85歳、手の震えも発症されていたと聞く。70代の頃の様に、その臨床をとおして自分が更に更新してきたことを、みせられる状態ではなかったのではないかと思える。時が間に合わなかったのか、それとも自分のもとで、臨床だけでなく自分の人生哲学を元からしっかり学んだ人達にしか伝わらない運命だったのか。
    今から10年ほど前の平成11年に「哲学する操体 快からのメッセージ」という本が出版されました。その中に、故・橋本敬三先生の教えという項目がありますので、紹介します。
     今から30年も前のこと。私は学生時代、操体法の創始者である故・橋本敬三先生より「生命現象創生の中心理念」、つまり「宇宙生命論」を学ばせていただきました。
     それは、ワラ判紙に波状の輪を描き、「この世界は有機(化合物)より成りて・・・・・ウンヌン」、さらに「この現象の元なるエネルギーは二つの異質なるものの存在より成る。つまりは陰と陽の二極である。・・・・・ウンヌン」、そして「この二極の元なる起源は陰、陽未分の一なるものの存在、つまり太極である・・・・・」というような内容で、当時18か19歳の私には暗記程度にとどめるだけで、深く洞察するといった余裕はありませんでしたが、たびたび説明を受けることで、何か重要なことなのだろうということだけは心に止めていたのです。
     また、それと同じくして、師は科学最高の指導原理とよばれる弁証法や古代文字(ホツマ伝え、相似像)、日本神話、キリスト教の教え(特に救いと報い)などについても学ばせてくださったのでした。
    ―あれから31年。当時学ばせていただいたことが、年とともに輝き出してきたのです。それは“深く洞察して思考していく”という輝きであり、私や人間を知るうえで、あるいはイノチに宿る英知について少しでも学ぶうえで、とても大切だと思えてきたのです。
                       〜三浦寛先生著「哲学する操体 快からのメッセージより。 

    操体法を橋本哲学ぬきで、単に臨床効果が高い、技術、テクニックとして捉えてしまうと本当にもったいないと思います。

    友松 誠。

  • 自分にとって操体とは。〜個性(個の神性)を尊重し、調和を創造していくこと。・・・3

    おはようございます。

    操体法の初期は橋本敬三先生が正体術からヒントを得て、治療法として行われていました。しかし、橋本先生は症状疾患に対する方法論として、操体法を体系づけてきたわけではありません。橋本先生の著書には必ず、人体を四つんばいの獣物動物の図で示し、「人間―この動く建物」と題した診断と治療の原理が載っています。これを見た方なら症状疾患に対する方法論ではないことがお解かりいただけると思います。
    症状疾患は、元々の正体が健康傾斜の歪体化のプロセスを経て、バランスを崩すうちに、現れてきた現象だ。

    そのプロセスは以下のようになる。
    環境の苛烈や自己最小限の責任生活必須条件である「息、食、動、想」の自然法則への背反がストレッサーとなり、心とからだにとってのストレスとなる。そのストレスの度合いによって、健康傾斜の歪体化が起こり、からだは運動系の構造と動きに歪みを生じさせて対処せざるを得なくなってくる。うまく対処できて、間にあっていれば良いのだが、からだの歪みそのものが生体にとってストレスとなり、感覚的バランスを崩してくると問題だ。
             からだの歪みにより感覚的バランスを崩すと
                 ↓      
              感覚異常の発生(A)
                 ↓
              機能異常の発生(A‘)+(B)
                 ↓
              器質異常破壊の発生(A“)+(B‘)+(C)             
         となってくる。

    つまり、症状疾患という病名診断が下されるまでには、プロセスの積み重ねがあるということ。
    現代医学では、感覚異常、機能異常の段階でも症状疾患名をつける人はいるが、統一見解はなく器質異常破壊の段階になってハッキリした診断名と治療方針が決定されていると思われる。そして、このプロセス、特にからだの歪みが原因となっていることは認めていない。からだの歪みというと、他の手技療法家でも運動系の静力学的な構造の歪みには着目しているだろうが、動きという動力学的な面は見過ごされているのではないだろうか。しかし、正体の健康傾斜の歪体化のプロセスは、生体がストレスによって、運動系の構造と動きに歪みを生じさせ、感覚的なバランスを崩すことから始まる。そして、そこから不定愁訴・微症状という感覚異常 → 内部機関の機能的バランスが崩れ、精密検査を必要とする段階の機能異常+(感覚異常の継続) → 病理学的変化つまり内臓の器質的なバランスを崩す、器質異常・破壊+(感覚異常、機能異常の継続) と進行してしまうのだ。
     このプロセスは有り難いことに可逆性となっている。可逆性であるから健康回復のプロセスは、 運動系の構造と動きの歪みを整調復原することにより、第一に感覚異常が消失し、次に機能の働きが正常化され、最終消失として 器質異常変化や破壊も、その程度にもよるが再生、回復の可能性が出てくるのだ。
     この正体の歪体化と健康傾斜の可逆的プロセスの原理は、人間すべてに当てはまると思う。ただ、戦争で銃弾を受けたり、交通事故などで、いきなり器質異常・破壊に向かい、すぐに応急処置をしなければならない様な場合は通用しないかもしれない。しかし、その時点ではお手上げでも、リハビリの分野では大いに貢献できると思うし、社会の理解が今以上に深まれば、もっと早い段階から、運動系の構造と動きの歪みに着目し、バランスを回復させ、健康回復のプロセスをスムーズにしていくことが可能だと思える。実際に橋本敬三先生は、そのような観点から臨床に望まれていたと感じるし、高弟の三浦寛先生は一般的にはお手上げと思われる範囲を狭めるべく、動けない人でも「快」によって調和が成され、バランスを回復させる様、「皮膚へのアプローチ」を体系づけておられる。
     運動系の歪みへの着目は、様々な可能性を秘めている。しかし、運動系の構造だけ診てなんとかしても、時間・空間のかかわりのうち、再度歪んだ状態に戻る頻度は高くなる。また他力暴力的矯正にはリスクが必ず伴うということ。人体は構造があって、まぎれもなく動いているわけであるから、その運動系の構造を動かして診るということは必然であり、理に適ったことなのだ。しかし、もっと重要なのは運動系の自然法則を理解し、感覚をききわけさせるということ。動かして診るにしても、単に動けば良いというものではないし、「痛い」「ツライ」と警報が出ている動きを、そのまま継続させれば壊してしまう。
      人間一人一人は、皆違うし、生活してきた過程も違う。からだの歪みや、それに伴う健康傾斜の歪体度も違う。この症状だから、こうするといったパターンを、とおすやり方では、限られた範囲でしか貢献できないのではないだろうか。このような時代だからこそ、一人一人の神性を尊重し、歪体からの可逆的な健康回復のプロセスがスムーズに進むよう、一人一人に合った臨床が求められるのではないだろうか。運動系の自然法則に則り、動かして診て、本人にしかわからない感覚をききわけてもらい、その「快適感覚」に従うという臨床が、ますます必要とされてくると思う。

    友松 誠。