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  • 操体との出会い

    こんばんは。
    今日から一週間よろしくお願いします。

    テーマは私にとって操体とはです。

    手技療法をやっている方にとって、操体を知らないという人はおそらくいないんじゃないかと思います。
    柔整の学校でも針灸の学校でも整体の学校でも操体の実習の時間があるようです。
    そのことを考えれば、操体を行える臨床家が多くいてもよさそうなものですが、そうもいかないのが現実のようです。

    僕の操体との出会いは10年ほど前に遡るのですが、やはり授業の一環で、楽か辛いかをききわけるものでした。
    今思えば、原始的な操法で、幸いにも変な教わり方をしていなかったのがよかったのか、操体の世界に携わるようになりました。
    興味を持ったきっかけは、自分自身のケアが可能だということでした。
    プロの手技療法家でも、他人のからだは治せても自分のからだはもて余すということが意外とあるように思います。

    操体の最大の特長は、他力ではなく、自分自身の感覚を指針にする自力自療であるという点です。

    今年の春の操体フォーラムでは、初期の操法である第一分析を徹底的に解説します。
    詳細は決まり次第お知らせしますのでお楽しみに。

  • 私にとって操体とは検証である(最終日)

    症状・疾患に捉われないというのが操体のスタイルであるが、最終日はこういった「病気」について検証してみる。
    パソロジーという言葉がある。これはギリシャ語のパトスとロゴスからできた病を論ずる学問のことで、すなわち病理学という意味になる。そして普遍的な現象としての病気について膨大な研究を扱う医学は、それぞれの病気をその特徴に従って分類し、説明を試みることになるが、これを臨床病理学と言う。
    健康というのは、からだのごくあたりまえの状態を意味するものだが、その状態が変わることによって病気という名が与えられる。病気になると、原因や組織に与えた障害、そして症状や経過などに従っていろいろな異なった特徴を現す。そこで臨床病理学では、病気を「炎症性疾患」、「変性疾患」、「代謝性疾患」、「内分泌性疾患」等に分類している。
    この健康というのは、大宇宙によってすべての生き物に与えられた天与の権利であるが、それには自然の法則に従うという解除条件付の健康契約をしているということになる。ようするに自然の法則に従わなくなると、健康が白紙解除されるということだ。野生の動物などは肥満や動脈硬化で悩んだりすることがなく、かなりの傷を負ったライオンですら、ほとんど炎症も起こさず、消毒剤や抗生物質、それに傷口をぬうドクターもないのに早く回復してしまう。何故なら野生動物は本能によって自然の法則に従うからであり、我々人間はそれをしないので病気との親交がますます深くなっていくのである。解除条件こそついているものの生まれながらにして健康という契約が既に成立しているのにもかかわらず、自然の法則を無視することによって契約不履行を原因として、健康契約の白紙撤回解除を行使される羽目になる。
    すべての病気には、「人工的な環境」と「不健全な生活様式」と「精神的な不調和」というこれらの要因が絶えず働いているところで起こっている。このような共通要因からすべての病気には共通した特徴がある。からだの使い方や動かし方といった不健全な生活様式で人工的な環境は、種々の病原菌をはびこらせる下地を作り、突発的な炎症の原因も増加させてしまう。
    一度炎症が起こると、からだはその炎症の原因を取り除こうとして生体エネルギーを集中させるが、不自然な生活のために、そのエネルギーが低下しているので、炎症は慢性化し、その組織器官は変性に向かっていく。この器官の変性は有機生命体の活性低下を意味し、からだは全般的に弱くなっていろいろな病気にかかりやすくなる。内分泌腺はこうしたからだのアンバランス状態を修正しようとして過度の力仕事に精を出し、やがては疲れ果てて、そのつけが再び活性低下を助長する。こうして追い込まれたからだにさらなる炎症が加わるといよいよ一巻の終わりとなるのである。
    このような病気に対する健康について、最近多くのことが言われているが、健康の意味や健康を達成する方法については、かってないほど大きく混乱しているように思われる。しかし健康は、常識的に考えられているのとは逆に、実際には健康は我々が為しうるものではない。健康とは、我々がどんなこともしていないとき、我々が完全に無為自然な境地にあるときに自然発生的に起こるものである。これはどういうことかというと、自然の法則に適った生き方をしているということだ。
    我々が「健康になる」と言うとき、それは健康が起こりうる状況をおそらくつくれるだろう何かの健康法や治療法を行なっているということである。けれども、いかなる技法も薬も健康になる方法そのものではない。それはただ単に自然発生的に起こりうる状況をつくり出すだけのものである。一口に健康法や治療法といっても、種類がたくさんあるので混乱してしまうのが現実だ。
    例えば西洋医学の医術、東洋医学の漢方や種々療法など・・・・・・。それらはそれぞれ独自の技法を持っている。しかし自分にふさわしい技法の決め手は、ただ試してみるほかはない。それは、その技法の何かが自分にぴったり感じられたり、何かが自分にとって効き目があったり、その時にはおのずと見分けがつくものだ。だがそうなってくると、かたっぱしから実践していかなければならなくなる。早い時期にめぐり会えばよいが、そうでないと、無数といっていいほど多くの技法がある中では、時間切れになってしまい、病魔にのみ込まれ、生体はもうジエンドということになりかねない。
    そこで万人が適う共通の健康法や治療法というものがもし、存在するなら願ってもないことだが、果たしてそんなものがあるのだろうか、あるにはある。未病医学や治療医学として自然法則を根拠にしたSOTAIなるものがそれだ。健康のことや治療のことを考えずとも、自然なからだの使い方・動かし方や自然な心の在り方から不健康を消滅させることなく、それを健康に錬金させることができる妙法である。
    やはり私にとって操体とは終わることのない永遠の検証であることに想いを検めた。

  • 私にとって操体とは検証である(六日目)

    昨日の検証で、人間機械のために必要な燃料として、燃える成分である「食」を語ったが、同時にもう一つ別の要素が燃料を燃やす成分としての「酸素」である。六日目はその酸素について検証する。
    燃やす成分の酸素(O2)は、燃える成分である炭素(C)と密接に連携することではじめて生物界におけるサイクルが完成する物質である。このサイクルというのは、可燃物と酸素の合成という捉え方をすると、植物は地中にある水素原子2個(H2)と酸素原子1個(O)が結合し、水分(H2O)を吸い上げ、緑葉に存在するクロロフィルという光合成器官の上で空気中の炭酸ガス(CO2)と反応させて種々の炭水化物を作り、酸素を放出する。
    人間や動物のからだでは、植物の放出した酸素を肺から取り込んで炭水化物を分解し、炭酸ガスと水を作る。こうしてできた炭酸ガスは、肺を通じて再び大気に戻され、植物がまた利用することになる。からだが取り込んだ酸素を炭酸ガスとして再び大気に戻す、こういった流れを呼吸作用というが、実は、肺による呼吸ともう一つ細胞による呼吸がある。そしてこの細胞呼吸こそが生物体の命にかかわる大切な化学反応に携わっているのである。
    肺呼吸において食物という可燃物を燃やす場合に通気を良くするには、酸素消費を増やすことと、可燃物である食物を少なくすることの二つの方法がある。食物の摂取を増やすと多くの酸素が要求され、酸素消費も増えるということは、呼吸活動もそれにつれて激しくなってくる。これは基礎代謝量が異常に増加することを意味し、エネルギー消費の悪循環の原因が作られてしまうことになる。逆に言うと、代謝による燃焼の炎を小さくすることで通気の必要量を少なくすることができる。ということは無駄な酸素消費と炭酸ガス生成がともに減少するので、呼吸活動は少なくてすみ、からだの健康状態は全面的に驚くほど改善されることになる。
    このような肺呼吸は酸素20%、窒素70%、その他の各種気体成分10%からなる空気を呼吸しているのである。しかし細胞呼吸ではそういった気体の他に光や音、色、紫外線、赤外線、α線β線γ線、といったさまざまなものを呼吸しているのだ。我々をとりまく外気には実におびただしい種類の電磁波が充満し、それぞれ異なった波長で人間にも作用を及ぼしている。
    この電磁波は大気を貫通して地上に現れるのであるが、大気そのものに所属しているわけではない。いわば宇宙エネルギーがいろいろな形をとって表現されたものである。だが、このような大気を呼吸しても、その中に隠されている驚異の創造物を直感によって感知することができないのが普通である。それでも人間は限りない種類の香りや光、色、音、調和のとれた各種放射線などの真っただ中で生活している。通常の感覚器官ではそのうちほんの一部分を感知しているに過ぎないのである。何故なら肺呼吸のみに捉われているため、酸素の追求という悪循環に陥ってしまっているからだ。
    こうした悪循環に逆行して、燃やし方をより少なくする方向へと転換をはからなくてはならないが、それには操体操法における快感覚を味わうということによって、細胞呼吸の電磁波を感知することができる。快の極みにおいては、自然呼吸の中で吸う息とともに宇宙エネルギーが肺の中に入ってくるのをからだが感知する。すると、体内の燃焼を極力低下させ、精神・肉体の休息状態を形作ることに大いに貢献するのである。

  • 私にとって操体とは検証である(五日目)

    五日目は「食」の検証である。
    自然界には、生物学的な一大サイクルが働いていて、その中でいくつかの化学元素が単純な物質から複雑な物質へと次つぎに変化していき、再び単純な物質の形にもどる。その際、エネルギーの形態変化が必ず伴っているのであるが、この一大サイクルは二つの過程、すなわち植物が受け持つ過程と動物が受け持つ過程からなっている。
    植物の過程では、葉緑素に富んだ緑色植物が二種またはそれ以上の無機物から有機物を化学合成し、同時にその有機物の中にエネルギーを貯える。それに対して動物は、植物界から摂取したこの複雑な有機物を元の単純な物質へと分解し、同時に貯えられていたエネルギーを解放して自然界へと戻す。すなわち、緑色植物は太陽の輻射エネルギーを潜在エネルギーに変換し、同時に合成した複雑な有機物の中へ化学エネルギーとしてそれを貯えこむことになる。
    一方、動物は、この潜在エネルギーを再び熱とか運動とか電気といった、現実的な形態のエネルギーに変換する。このように見ると、人間のからだは一種のエネルギー変換器であり、自動車のエンジンと同じ内燃機関のように働く機械的な法則に従う側面もある。こういった内燃機関であるならば、可燃物と酸素を必要とする。これを人間のからだにあてはめると、呼吸によって取り入れられる酸素とともに可燃物は植物・動物界から得た種々雑多な食物が調理され、口から入って噛み、呑みこまれて供給される。こうして食物は胃腸に達し、複雑な化学的変化を受けるが、西洋医学ではこれを代謝と呼んでいる。
    食物の中に含まれていた潜在エネルギーが、熱エネルギーや機械的エネルギーや電気的エネルギーといった活動的なエネルギーに変換する過程がいわゆるエネルギー代謝であり、食物中の栄養物質が細胞を構成する物質、つまりからだのいろいろな細胞や組織にとって必要な有機物質にくみ上げられていく過程がいわゆる物質代謝である。
    この食物について橋本敬三医師は、歯型から見ると肉食用の犬歯が七分の一しかないのは、我々人間にとって植物食こそが適当なものであると言っておられる。これについて検証を加えると、すべての食物には炭水化物、脂質、蛋白質等、種々の化学物質が含まれているが、これらの物質のどんな種類がどれだけ含まれているかといったことは、食物によってそれぞれ違ってくる。
    だが、体内において炭水化物、脂質、蛋白質はいずれも可燃物質であり、酸化分解の過程で量的な違いはあってもエネルギーを放出する。人間の生理学では、この放出されるエネルギーは、これらの可燃物を酸化するのに消費した酸素の量から計算することができる。生成した炭酸ガスと消費した酸素の比は「RQ」と呼ばれているが、このRQ値は我々が食べる食物の中の化学物質が保持している潜在エネルギーの量を正確に反映してくれる。たとえば、炭水化物は一、脂質は〇・七、蛋白質は〇・八がRQ値であるが、その意味は肉類のように蛋白質や脂質に富んだ食物は、完全には燃焼せず、一部分は煙のような燃えカスになって残ってしまうことを証明している。
    このエネルギーにならない無駄な部分はからだから取り除かなければならないわけであるが、蛋白質や脂質が燃焼した後、これらの燃えカスは血液中に残り、次いでもっぱら腎臓の働きで尿の成分となってからだから排出されるのである。しかし、人間一生のスパンを通して見ると、腎臓に相当の負担をかけることになり、いわゆる代謝異常に陥る。この代謝異常と呼ばれる病気の多くは、腎臓が疲労するか、腎臓自身の病気のため、もはや除去しきれなくなった物質が血液中に次第に蓄積して起こるのである。動脈硬化など、血液循環系の病気において動脈に現れる障害は、間違いなく肉や動物性脂肪に富んだ食事に深い関係がある。つまり病気に導く食物であるということだ。
    だからといって誤解しないでほしいのは、何もベジタブル食以外の肉や魚がダメだ! というのではなく、摂り方に問題があるということだ。食物全体の一割ぐらいなら、かえって食するほうがいいくらいである。

  • 私にとって操体とは検証である(四日目)

    人間のからだの中には生理的、心理的な力となって流れるエネルギーがある。四日目は、このからだの中を流れる生体エネルギーについて検証してみる。
    まずエネルギーとは一体何なのか? 物理の本を開いてみると、仕事をなそうとする系の状態で、その仕事が実際になされているときは力学的エネルギーであり、状態がまだ運動に変じていないうちは潜在エネルギーとなる、といった定義が見つかる。この定義に従えば、エネルギーは運動と同じものである。宇宙の現象はすべてエネルギーの産物であるから、万物はことごとく運動し振動していることになる。
    我々はこの法則を、現代物理学の波動力学やマックス・プランクのエネルギー量子説によって教えられている。この波動としてのエネルギーは宇宙全体にみなぎり、物質の中の原子、陽子、光子の運動として見出される。この物質が何であるのかと言えば、アインシュタインなら「宇宙空間の中で圧縮されたエネルギーの特殊状態にすぎない」と答えるだろう。すなわちエネルギーは質量と光速の二倍をかけたものに等しいということになる(E=mc2)。
    生物は物質の特殊な一現象であって、生物特有の性質が与えられているが、物質とエネルギーと運動は同じものだという宇宙の大法則から決して逃れられない。事実、生物体の中のすべてのものは振動している。地球上に生息する全生物の細胞の一つひとつは、それぞれ一個の小宇宙をなしていると言っていい、そこでは超ミニサイズながら大宇宙の諸現象がすべて再現されている。
    操体操法における感覚の初歩的段階でも、自分のからだの中に全宇宙を支配している振動と同じものを直接感じとれるようになる。すなわち、被験者がからだの末端からの動きを通して全身に連動させることができたなら、からだ全体にそって振動の波が走るのを感じることができる。それはまるで、からだに低電圧で電気を流されたような感覚である。筋肉の一つひとつが、からだのあらゆる部分に微妙な振動を受けることになって、それは最大の快さをさそう快感の一つである。
    創造の世界にあるすべてのものがエネルギーの表現形であり、さまざまな振動率を持っている。我々自身、からだも心も宇宙エネルギーが特定の形になって表れて来たものにほかならない。この宇宙エネルギーは未分化の原子エネルギー形態によってその姿を現す。たとえば物質の物理現象、いわゆる状態変化として、一定の形と、体積のある状態、すなわち濃密な状態にまで凍結した「固体」、固体と同じように体積はあるが、一定の形のない遷移状態の「液体」、そして体積も一定の形もない原子状態の純粋エネルギーに戻る寸前の状態である「気体」という三種類の異なった形をとっている。が、これらは同じ数の同一分子の集合体がただ形を変えているにすぎないのである。
    そんな物質の状態変化の中で、固体が気体に変わることと、逆に気体が固体に変容する物理現象も共に「昇華」という。また精神が高揚することも同じように「昇華」と言っている。これは固体としての肉体が微妙な振動によって振動率の高い蒸気エネルギーのような物質状態にいたることで、これが操体で言う、いわゆる「快適感覚」なのである。

  • 私にとって操体とは検証である(三日目)

    操体の「動診」というものに接してみて、からだの動き、とりわけ筋肉活動に考察を思いめぐらすようになった。その筋肉活動をこなしていくにはそれなりの熱量、すなわちエネルギーが必要になるわけであるが、からだが消費する全熱量の三分の二以上が筋肉を働かすために費やされることになる。この筋肉は手足を動かしたりする横紋筋のように大脳の働きによる意志の力で支配されていることから随意筋と呼ばれる。また外部環境と交渉できるので、外部関連神経系に属する筋肉でもある、この筋肉活動に関係する動診が三日目の検証だ。
    筋肉は随意筋だけではなく、内臓や消化管、血管などの構造を作っている筋肉郡が別にある。これらの筋肉は、本人の意志が及ばない、まったくの自力作動をしているので不随意筋と呼ばれている。そして内臓の筋肉等は自律神経系に属するものであり、随意筋よりその数はむしろ多い。
    操体の動診はこういった筋肉郡に働きかけるのであるが、筋肉の生理的特長は、その収縮能力にある。この筋肉を構成しているミオシンという蛋白質自身の性質が収縮能を持っている。しかし、随意筋と不随意筋とでは、筋収縮の特徴が若干異なっている。随意筋は多数の筋線維からできており、それぞれが収縮部と運動終板と呼ばれる二つの部分を含んでいる。このうち運動終板は、筋肉と神経物質からなっており、神経線維と筋線維との接合部に位置している。
    随意神経のインパルスが運動終板に達すると、終板と収縮部との間に電位差を生じ、その結果収縮部が収縮する。こうした電位差の変化はアセチルコリンという物質が関与しており、ごく僅かな量で働く生物学的なエネルギー量子のことで神経線維の末端に濃縮して存在している。
    操体の動診において、被験者が動きを通すのに際して、操者が介助の動作を決める。そこで被験者はまず、動きのイメージを行なうことになるが、これは生物的エネルギーを神経線維に伝える。そうすると、生体電気化学的なインパルスとして認識され、アセチルコリンに働きかけることができる。このとき、操者が介助抵抗を与えているので、筋肉はアイソメトリックな緊張の収縮状態になっている。つまり筋肉の両端ともしっかり押さえられており、自由に収縮させることができない。ここで筋肉の両端のうち一方が自由に動かせる状態に抵抗を緩和させて筋肉の収縮を可能ならしめるのである。いわゆるアイソトニックな筋肉収縮の状態にすることでからだの動きを誘導していくことになる。
    このように筋肉は緊張から収縮へと滑らかに移行させていくと、筋肉活動は全身に連動し、筋肉、骨、感覚器、体表をおおう皮膚の隅々まで伝わってくる。それらすべての神経線維が順にまとまって末梢知覚神経になり、背骨から脊髄に入って、そこから上昇して脳の感覚領域に達する。こうした一連の流れは快・不快という感覚の選択を経たのち、快に身を委ねるという自然法則に従うことができるようになる。
    ところで、「アイソトニック」と「アイソメトリック」の違いについてであるが、アスレチック・トレーナーたちの間では良く使われる言葉だ。語源で見ると、「アイソ」はアイソトープと同じ「等しい」という意味で「トーン」は調子、アイソトニックは「調子が等しい」の意味になり、筋肉の自由な伸び縮みが許される無理のない調子が維持できることを示している。つまり楽に筋肉が動ける状態のことを言っている。これに対してアイソメトリックの「メトリック」というのは、計量のメートルに関係した言葉で、筋肉の長さが常に等しく維持されることを示している。縮もうとする力が働くのに、二つの支点で頑張って縮まないようにするのであるから、筋肉には最大の張力がかけられる。このような要素をおり込みながら、それにとどまることなく、それ以上の目的に対する綿密な技法を加えたものが操体の動診である。
    動診というのは、きわめて徹底した技法で心身の向上を目指し、からだの自力自療につなげるこういった一大体系が、操体という日本医学に存在していることには、実に驚嘆すべきものがある。

  • 私にとって操体とは検証である(二日目)

    操体臨床において、クライエントの症状・疾患というものについて診方、感じ方に変化が起こったのは一年ほど前からである。この頃からクライエント自身が訴える症状・疾患の内容を聞くことよりも、クライエント自身が自分のからだに起こっていることをどのように捉えているのか、ということに興味を覚えるようになってきた。二日目はこういった「観念」の検証である。
    例えば、からだのどこかに痛みがあるとする、自分の中に痛みが起こるためには、一体どんな観念を携えていなければならないのか。これらの人に共通しているのは必ず否定的な感情を持っているということに気がついた。疾患が元の健常な状態に戻るためには、からだ自身が治しをつけてくるからにほかならない。しかしこういった良能作用がうまく働かないとすれば、その疾患に対処できないと、自分の頭の中で決めつけた定義づけが、からだの良能作用に抵抗しているからである。自分の良能作用の力の方が疾患を引き起こしている力よりも低いと思い込んでいるということだ。こうなると他力的な治療を施しても治癒につなげるのは難しい。治ろうとする力と疾患の力の間に摩擦が起きているからである。これら二つの力が、もし対等だったなら拮抗することはないはずである。
    そもそも良能作用という独占的な治癒力のみで治しをつけることはない。治療は疾患の力とからだが持つ治癒力との相乗効果によってその役割を果たすことになる。そのためには疾患の持つエネルギーを認識し、その力を治癒力へと向かわせる必要がある。何故なら、治癒力のエネルギーと疾患のエネルギーは異なるものではなく、同一のエネルギーであり、治しをつけるために、この二つは必要不可欠なものだ。疾患を否定することなく、それを認めて、その力を受け入れるというのは、肯定的な感情を持つということになり、治しの定義づけを変えたことになる。
    このような観念を携えるために、操体ではある答えを持っている。それが、「快感覚」を味わうということであり、それは不快から逃れることでも、快を探すことでもない、不快を否定しないで自分のものにすれば、やがて不快の持つ「快」が吸収され始める。快を味わうことは、自分が快を選んで体験しているということであり、意識的に選んで、自分の現実を選択しているということだ。その現実の中で症状・疾患があり、苦痛が存在していても、「状況」というのは常に中立的な立場にある。それだけではまだ何の意味もなく、悪い状況だと捉える必要もない。何故なら現実はいつも自動的なフィードバックシステムとして働いているからだ。
    快の理論は哲学や心理学ではない、力学、物理学という自然の法則に基づいている。三浦寛師の講話の中で『患者を悪いからだとして診ない』、『もともとは良いからだであるから治るのだ』と、いう話を記憶している。これは患者を病んでいる弱い存在として見ないということであり、慈悲の心を持って接してはならないと、戒めているのだ。でないと、その病んでいる状態をより強調することになってしまう。患者が病んでいるといった診方をせずに、自力自療で回復するということを完全に信頼してあげるのが操者の心のあり方なのである。
    私にとって臨床というものが、如何にして「協力者」としての自覚を持ち、その意味を理解し、中立的な状況に向き合っていくのかということが大きなテーマになっている。

  • 私にとって操体とは検証である

    操体は我々の健康や病気、からだや精神の衛生といった日常問題を考えることにおいて、感覚医学とでも言うべき原子論的な自然法則を意識的にみるきっかけを持つことが出来るように思う。そして私にとって強烈な操体用語「からだの無意識」というのが初日の検証だ。
    「意識」とか「無意識」といった言葉の意味について、現代心理学に沿った考え方を手短に論じてみる。我々は自分自身のことを「僕」とか「私」という言葉を使うが、その心理は、自分が他人とはどこか違った人間であるという意識を表明していることになる。まず、この意識というのは、「心」の働きの結果として現れてくる。しかし、この心の性質についてこれまでに多数の心理学者たちが諸説を出してはいるが、その見解が一致したためしがないのである。
    ブライアンという学者の説では、我々は心を脳内にセットされた絶妙な電気エネルギー器官であると言っている。この説を考察すると、電気エネルギー器官から神経を伝わって筋肉や内臓器官へと絶え間なく流れているすべての生体電気的エネルギーは、この動力源によって発生するエネルギーであると説明することが出来る。そして、やがては死ぬ時期を迎えることになるのであるが、このとき、心はエネルギーとして肉体を離れる。その肉体から離れる瞬間の意識の状態に従って、自分自身を幽体として認識し、これが魂といわれるものである。ギリシャ語が語源である「サイキ」という言葉は「心」と「魂」の両方を意味し、「サイコロジー」はこのサイキにロゴスがついてできた言葉で「心理学」という意味である。
    我々の心は、触れてみることもできなければ解剖所見を求めることも出来ない、つまり脳は解剖できるが、心は解剖できないしろものだ。それでも心は現存しており、心の内容は心理として調べることが出来る。その点は内臓器官とまったく同じである。心理学で言う心の問題は、いわゆる意識的な心のことであって、この部分には我々の感覚的なイメージ、記憶等を通じて集積された概念のデーターが保存されている。
    我々の行動というのは、こうした概念データーから引き出されてくる。そして心とからだは相互作用に基づいて性格や自我といった機能的な単位を形成するのである。しかしこういった意識的な心は、潜在的な心全体のうちのごく僅かな部分を占めているにすぎない。心理学者カール・ユングは分析心理学の中で「意識的な心とは無意識という大海にちょっとだけ頭を出した小さな島影にすぎない存在」だと言っている。
    「からだの無意識に問いかける」という操体操法の体験によって大いなるヒントを得た私は、無意識とは一体何なのか? と、探究心を刺激されてますます意識の研究に没頭することになる。我々は自分のからだの内部環境を意識することはできないが、それには「からだの無意識」というものが支配しているものと気づかされた始まりであった。無意識とは心の大部分を占め、そこに保存されたデーターが決して意識に上ることができない、あるいは意識によって抑えられている、そういった部分であると定義できる。
    しかし操体でいう「からだの無意識」というのは、潜在的な無意識ではない。ユングの学説に従えば、無意識を潜在意識として残す「個人的無意識」と意識よりはるかに古い時代からのいわば種の無意識とも言える「集合的無意識」の二つに分けることができる。赤ん坊はこの種の無意識をすでに精神的財産として持って生まれてくるのである。他の動物の心も、このような共通した無意識が支配しているものと思われる。操体で行なわれる「からだの無意識に問いかける」というのも、すべての人間に共通で、各人の精神構造の土台をなす集合的無意識に問いかけるものであると、確信している。
    このようにからだの無意識というものが私にとって探求心の止むことのない題材となっている。

  • 操体は“自然法則の応用・貢献”

    今日は「息」と「食」についてお話ししたいと思います。

    まず「息」について。ふだん呼吸について意識することはないと思います。
    呼吸法というものはありますし、それを実践している方もいらっしゃるでしょうが、
    それは一定の時間取り組むものであり、一日中それを行うわけではありません。
    操体でいう「息」とはふだんから特に意識せずにしている自然な呼吸のことです。
    からだが自然につけてくる呼吸です。その呼吸にときどきでも意識を向けてみると、
    呼吸できていることが不思議な感じがしてきます。呼吸ができていること、
    これはこの地球(宇宙)に呼吸させてもらっているということでもあります。
    呼吸ができなければ、私たちは生きていくことができません。何か食べたり、
    飲んだりする前に、呼吸ができていることのありがたさに改めて気が付きます。

    次に「食」について。私が意識しているのは「食べ過ぎない」ことです。
    食べ過ぎると、当たり前ですが、苦しいですよね。食べることでからだに負担を
    かけているのでは本末転倒です。たくさん食べたかったのは私であり、
    あなたであり、からだの方はそんなに欲していなかったということもあります。
    食べる際にはからだにお伺いを立ててからにしましょう。からだは必要な分だけ
    あれば、あとはそんなにいらないよと言っているかもしれません。

    私は胃腸が丈夫ではなく、今までに胃カメラを2回飲みましたし(その際、
    胃潰瘍ができて治った跡が見つかることもありました)、胃もたれや胸やけを
    することも多くありました。もうちょっと何か食べたいという時に選んだものが
    「これじゃなかった・・・」ということも結構ありました。それが、操体を学ぶ
    ようになり、「食」への意識だけでなく他の三要素(「息」・「動」・「想」)
    からのフィードバックもあるのでしょうが、間食はほとんどしなくなりましたし、
    それに、食べたいと思ったものがちゃんと食べたいと思ったものであること、
    つまり、自分が食べたいものがちゃんと当たるようにもなりました。
    そして一番の変化は、胃もたれや胸やけをしなくなったことです。

    何か行動を起こすのではなく、意識を向けることで変化していくのは面白い体験です。
    ここで言えば、胃もたれしやすい食べ物を制限しようとしたのではなく、食べる際、
    からだに聞き分けることで結果としてそういったものを控えていたということでしょうか。
    自分では、そういったものを控えたという意識は全くありません。「そういえば、
    控えてるかも」といった意識すらありません。もっと言えば、このブログを書くまで
    胃もたれや胸やけをしなくなったことに気付かなかったほどです。「じゃあ、
    前もそんな大したことなかったんじゃないの?」なんて声が聞こえてきそうですが、
    そんなことはなかったんですよ(笑)

    操体は、学んでいき、少しずつでも身に付いてくると、それが以前から
    自分の中にあったもののように感じられるから不思議なものです。
    操体を学ぶことは、もともとこの世界にあるものに気付いていくという
    ことでもあります。操体は“自然法則の応用・貢献”なのです。

    1週間お付き合い、ありがとうございました。
    来週からは「博覧強記」、日下さんの登場です。お楽しみに。

  • 「言葉は運命のハンドル」

    今日は「想」に関してのお話です。「想」とは精神活動のことです。
    簡単に言うと、その人がどのようにものを考えるか・捉えるかということに
    なるかと思います。橋本先生の言葉に「言葉は運命のハンドルである」と
    いうものがあります。これは、今、目の前にある現象はその人がふだん
    口にしている言葉が招いているという意味です。たとえば、否定的な言葉を
    口にすることが多い人は、マイナスなものを招いてしまいます。
    他人の悪口ばかり言っている人は、やはり他人からも自分の悪口を言われている
    であろうことは、みなさんも想像に難くないと思います。逆に他人を褒めること
    が多い人は、他人からも喜ばれ、それにより自分もまた楽しい気分なります。

    私は「想」の概念を学んでから、自分の言葉よりもまず、他人の言葉が気になるように
    なりました。否定的な言葉を口にする人と一緒にいると、以前まで気にならなかった
    そのような言葉を聞いているのが苦痛に感じるようになってきました。

    私は月2回老人ホームでボランティアをしているのですが、「○○が痛くて」と言う方と、
    「若い人がこんな年寄りにやってくれるなんてありがたい」と言う方とがいらっしゃいます。
    その方たちから受ける印象は全く違います。前者からは少し硬い感じ、後者からは非常に
    穏やかで軟らかい感じを受けます。「僕もこの(後者の)ように年を取りたいものだ」と
    思っています。そして、それは自分が口にする言葉を意識して統制していくことで可能だ
    ということです。これは何も操体だけで言われていることではありません。「できない、
    できないって言ってると、いつまでたってもできないよ」なんて、よく耳にしますよね。

    悪いことをしたら悪いことが返ってくる。良いことをしたら良いことが返ってくる。
    当たり前のことなのです。しかし、人は自分がする行為に対してはそういった注意を
    向けても、自分が発する言葉に対してはそういった注意を向けません。
    他人に影響を及ぼすという点においては自分がする行為も、発する言葉も同じです。
    自分が口にする言葉に気を付けること、耳に入ってくる否定的な言葉に敏感に
    なること、この2つに意識を向けることで、ものの考え方・捉え方に変化が出てきます。