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  • 日常生活における「動」

    今日は「動」に関して、操体を学んでから変化したこと、
    意識するようになったことなどについて話していきたいと思います。

    操体では、正しいからだの使い方(身体運動の法則)を説いています。
    1つは、重心安定の法則。これは、骨盤を要としたからだの使い方のことで、
    手は小指(尺骨側)を、足は第一趾を効かせるというものです。
    もう1つは、重心移動の法則。これは、からだの動かし方のルールであり、
    8つの動き(前屈・後屈・右側屈・左側屈・右捻転・左捻転・牽引・圧迫)、
    そのそれぞれの動きが骨盤を介して、全身へと連動していくのに必要なものです。
    そして、この2つの法則をグッと集約したものが「般若身経」です
    (これは、橋本先生が、仏意を集約した一番短い経典である『般若心経』に
    なぞらえて命名されたものです)。8つの動きを立位の状態でからだに通し、
    本来の動きをからだに学習させます。その際、注意すべきは、末端(足)から
    動作を開始するということです(動きを通す前にまず、基本となるポジションを取ります:
    両足の内側の幅が骨盤の幅と同じになるように開き、右利きであれば左足を半歩前に出し、
    やや内側に向ける。それから骨盤が正面を向くように修正し、膝を軽くゆるめる)。
    般若身経は、運動する以前のからだの使い方であり、これをもとに私たちは運動をすることになります。
    身体運動の法則に従ったからだの使い方が身に付くと、動きが綺麗になる、
    運動をしても疲れにくくなるなどいいことが盛りだくさんです。

    私も般若身経を学んでから、鏡を見ながら綺麗でスムーズな動きになるまで毎日からだに通しました。
    今でも、時々鏡を見ながらチェックをしています。8つの動きが全て入っているので、
    普段の生活でも意識することができます。例えば、高い所に手を伸ばすとき、
    落ちているものを拾うとき、車をバックさせるのに後方を確認するとき(女性が
    グっとくる男性の仕草でよく言われる、助手席の背もたれに手を回すあれです)など。

    また般若身経だけでなく、モノに手を伸ばし掴むときは小指(尺骨側)を意識したり、
    力を入れるときは足の第一趾の付け根(MP関節)に重心を落としたり、といった意識も
    自然と生まれるようになりました。すると、からだの方も変わってくるもので、操体
    学び始めてから身長が1cmほど伸びました。もう30も半ばなので実際に身長が伸びたわけではなく、
    姿勢が良くなっただけなのですが。もともと猫背だったので、それが改善されたんですね。
    今でもやや猫背気味なので、もうちょっと身長が高くなるかと期待しています。
    とは言っても、もはや夢の180cm超えは叶いませんが・・・。

  • 臨床はテクニックだけで成り立つ?

    私たちが生きていく上で、他人に代わってもらうことのできない営みが4つあります。
    それは、呼吸(息)、飲食(食)、身体運動(動)、精神活動(想)の4つです。

    これらのバランスがうまく取れていると健康でいられます。ただし、これらのうち
    どれか1つでも落第点を取ってしまうと、残りの3つもそれに引っ張られてしまいます。
    逆に、バランスを取り戻すときは、どれか1つでも及第点に達すれば、それが残りの3つを
    及第点へと引っ張り上げてくれます。これを同時相関相補連動性といいます。

    4つの営みが常に100点である必要はありません。これは大変です。
    間に合っていば(60点・及第点を取れていれば)いいのです。
    操体法では4つの営みのうち「動」の部分に関して、60点に届くようサポートします。
    しかし、それだけで十分かというと必ずしもそうではないのです。

    私は特に、想(精神活動)の部分が大きなウェイトを占めているように感じています。
    からだが変わってきても、本人の意識が変わらない限り、また同じ痛みをからだに作り出してしまいます。

    操体というと、操体法、いわゆる臨床の部分に目が行く方がほとんどだと思います。
    臨床で活かしたいと。私もそうでした。テクニックを身に付けて開業したいと。
    でも今では、それだけでは臨床において十分な結果を得られない気がしています。
    操体を学ぶことは、臨床を通せるテクニックを身に付けることではなく、
    臨床を通せる人間になること、からだと向き合ったときに「こいつになら委ねて
    みてもいいかな」と思ってもらえる人間になることなんだと今は感じています。

    明日からは、操体を学ぶようになり日常生活で意識するようになったことを
    「息・食・動・想」と絡めてお話ししていきたいと思います。

  • 操体は実技だけ習得すればいいのか?

    講習ではまず、操体の理論について勉強します。
    操体の世界観や発病までのプロセス、そして治癒までのプロセスなど。
    操体操体法のみで成り立っているわけではありません。
    操体法はあくまで操体の一部(臨床の部分)なのです。

    理論を学んだあとはいよいよ実技に入ります。

    実技といっても操体法は揉んだりほぐしたりはしません。8つしかないからだの動き
    (前屈・後屈・右捻転・左捻転・右側屈・左側屈・牽引・圧迫)、それを手および足という
    からだの末端部分から患者に動きを表現してもらい、快適感覚の有無をからだに
    聞き分け(診断)、聞き分けられたらそれを味わう(治療)というプロセスをたどります。
    快適感覚をからだに聞き分け味わうのは患者本人です。これが操体が自力自療たる所以です。
    操者はそれをサポートする役割を持ちます。からだの末端から動きを表現していくと、
    その動きが全身へと連動していきます。その連動を促すために必要な介助・補助、
    そして言葉の誘導があり、操者はそれらをマスターしていなければいけません。
    介助・補助、言葉の誘導の具合によって患者の快適感覚の聞き分けが違ってきてしまいます。
    ですから、しっかりとした介助・補助を身に付けるのが私の最大の関心事でした。
    段々と講習の回を重ねるごとに正しいからだの使い方(身体運動の法則)が身に付いてきて、
    形も様になってきます。傍から見てキレイな場合、上手くいっていることが多いんです。

    今でも、そういった臨床の部分への興味が強いことは確かですが、
    最近は臨床だけに留まらない操体の世界にも目が向くようになってきました。
    私は1年目の講習が終わる前に、2年目も引き続き受講することを決めました。
    操体法の実技も1回習ったからといってそれで十分というわけではなく、
    回を、月日を、重ねるごとに研ぎ澄まされていきますし、何より臨床の部分だけを見ていては
    操体を理解することはできません。また、時間を掛けて学んでいくということは、
    それだけのものを学んでいるということであり、よく目にする「○ヶ月で開業できる」
    などというのはどうやったら可能なのだろうと不思議に思います
    (「“からだ”を診る」ということをしないなら可能かもしれませんが)。

    明日は操体の臨床以外のどういった部分に目が向くようになってきたかをお話ししていきたいと思います。

  • 初の操体体験

    そして三浦先生の所へ伺う日がやってきました。三軒茶屋は初めてです。
    駅へ着き、電話をすると、迎えに来て下さるというので緊張しつつ待っていました。
    すると、声を掛けられたので、そちらを見ると、一人のスラっとした男性が立っていました。
    それが、三浦先生でした。「優しそうな人だな」というのが最初に抱いた印象でした。
    そして「カッコイイ」というのも。三浦先生が「橋本先生はジジくさくなかった」と仰っていましたが、
    三浦先生もやはりそうなんです。見た目がカッコイイというのは、重要な要素だと思います。

    そして治療所へ到着し、お茶をごちそうになりながらお話をさせていただきました。
    講習に参加される方はすでに(操体法ではなくても)臨床をされている方が多いと聞いていたので、
    その点についての不安(付いていけるのか)といったことから、
    操体操体法とはどういうものかといった基本的なことまで説明して下さいました。

    お話だけではピンとこないところもあったので、実際に治療を受けると、
    上半身の緊張が強く、呼吸が浅かったのが、深い呼吸ができるようになり、からだが軽くなりました。
    「これはすごい」と、私は静かに興奮していました。
    何より「患者本人が治療者の立場に立つという概念が面白い」と
    (正確には“患者”ではなく、“患者のからだ”が治しを付けてくるということですが)。

    この体験と三浦先生にお会いしてみた印象とで、私は操体を学ぶことを決めました。
    何を教わるかも重要ですが、誰に教わるかもそれと同じかそれ以上に重要なことだと思うのです。
    私はふだん塾の講師をしているのですが、自分自身が操体の講習に通うようになり
    (その数年前から通い始めた書道教室も然り)、つくづくそのことを実感しました。
    (広い意味での)教室に人が通う理由というのは、結局は、そこの先生に会いたいから、
    その場・空間の雰囲気を味わいたいから、ということに尽きるのではないでしょうか。
    私も生徒たちにそう思ってもらえるよう日々精進です。

    と、話がそれてしまいましたが、明日は講習を受けてから現在に至るまでをお話したいと思います。

  • 操体との偶然の出会い

    今回初めてブログを担当する、四番サード小島(おじま)です(長嶋じゃなくてごめんなさい)。
    今回のブログのテーマは「私にとって操体とは」です。ちょうどいいテーマなので、
    自己紹介をかねて、操体との出会いから現在までを綴っていこうと思います。
    1週間よろしくお付き合いください。

    私が操体に出会うよりも前に、まず、人のからだを診る仕事をしたいと思うようになったのは、
    家族がこころのバランスを崩してしまったことがきっかけでした。
    それにより私自身もストレスを受け、からだに変調を来たしてしまったのですが、
    私自身のことよりも、当人をどうにか楽にしてやれないか(せめて、からだだけでも)、
    という思いがありました。

    そんなわけで「何か手技を身に付けたい」と思ったのですが、何せ私はそういった世界とは
    無縁だったので、どこで何を習ったらいいのかさっぱり分かりません。インターネットで
    検索しても、学校がたくさんあリ過ぎて選べません。自分の中で選ぶ基準を持ち合わせて
    いなかったんですね。「じゃあ、何か有名な療法はないかな」と検索してみると、
    やはりいくつかあったのですが、その中でも野口整体、身体均整法、そして、操体法というのが
    有名らしいというのが分かりました。本当にこれぐらいのレベルだったのです。その中で
    日曜日に通えるところ(仕事の休みが日曜のみなので)として、たまたま選んだのが操体でした。
    自分自身のレベル(こういった世界の人間ではないこと)と講習内容について問い合わせる
    メールを送ると、まもなく返信が来て(これが畠山先生だったのですが)、
    「三浦先生が直接話を聞きに来たらどうですかと仰っています」とありました。
    「それでは、お願いします」とお時間を作っていただくことになりました。
    そして、いよいよ三浦先生とお会いすることになるのですが。

    続きはまた明日、お話したいと思います。

  • 『操体法を習うなら、”快”は外せない』

    βーエンドルフィンは脳内麻薬物質でもあり、強い鎮痛効果もあり、
    身体と心のバランスにも必要であり、かつ自然治癒力からも重要な働きをもっている。

    ドーパミン”も快感を感じる際のA−10神経につながっているので、即、興奮・覚醒作用をもっているのだが、
    より原始的なホルモンといえば、”エンドルフィン”であり、生物学的に考えても原始的動物からの繋がりはある。
    ドーパミンは覚醒効果をもたらす働きがある)

    気持ちがいいこと、愉しいことをする。
    好きだ、面白い、感謝というのは、”幸せな感覚”を発生させる。

    性欲、食欲を満たせばそれだけで”エンドルフィン”は放出されるが、モチロン限界はある。
    食事で言えば、満腹になってしまえば食欲はなくなる。
    食欲や性欲を満たせば、眠くなってしまうようなものである。

    脳の機構上、生理的・物理的欲求を満たす為の”エンドルフィン”には、
    それを抑える為の抑制物質も脳内で放出されるため、永遠に続かない仕組みとなっている。

    つまり、人間の五感を”自我欲”で満たすような要求とは、自然に制限されているのだ。

    しかし面白いことに、この”幸せ感覚=エンドルフィン”を放出し続ける方法もある。

    ”生き方の精神レベルの要求を満たし続けること”なのである。

    それほど難しいことではない。
    要するに、操体の「息・食・動・想」のなかにある”自己責任分担の意味を考えて実践”すること。
    実践しながら自己実現方法として、自然法則の有り難さを味わってさえいればいい。

    操体とは、このように”生きる意欲”に、直接関係し、つながってくる。

    それは、”自分の生き方を学ぶ”ことである。
    ”人生の目的を意識”し、かつ生かされているいのちに”前向きに取り組む”ことであり、
    ”与えられている環境”のなか、自分らしさを磨き”バランスとしての節度”を尊重していくことだろう。

    地球が出来て46億年の歴史があって、ヒトの起源は、200万年位前のアフリカとされている。
    しかし、なぜそこから一度も絶えることなく、イノチの連鎖はつながっているのだろうか?

    ”エンドルフィン”は”快楽物質・幸せホルモン”と言われており、
    もう一つの脳内で分泌される快感物質、”ドーパミン”は、素早い動きには必要。
    我が身に危険が迫ったとき、危機感を感じて重要な働きをしているのは、”ドーパミン”。
    この”ドーパミン”が足りなくなると必要とされる動きは鈍くなってしまう。

    大雑把に言えば、与えられた環境に合わせて、この二つのホルモンはお互いに中和されている。
    ノルアドレナリン系を抑えるのが、ドーパミンドーパミンを抑えるのがエンドルフィン。
    『快感』に関しての脳内ホルモンさえ、これだけの繋がりでなのである。
    (大切なセロトニンはこれらに関与し、”神経”に近い働きを通して関与する)

    『快』とはたった漢字一字であっても、本当に深い。
    考えて理解する喜び。肉体を生じながら五感で感じて『操体』で味わえるなんて、もう本当に素敵としか言いようがない。

    Gratitude Blessing Happiness. 
    (・・・感謝、祝福、喜びを・・・)

    今日もブログの独り言に、お付きあいありがとうございました。

    明日からは、四番サードを任せてみたい実行委員のニューフェイス!!
    小島さんの初登場です、それではよろしくお願いします。

  • 会えて、よかった。ありがとう。

    操体法を皆さんに知って頂きたいの』

    操体法を全く知らない人に私の名刺を渡す場合はね・・・貴方勉強不足ヨっていいたいんだけど、
    操体法って整体、それとも体操みたいなものなのかしら?って言われることもあるのよ。
    確かに字面だけでいえば、そんな印象を持ってしまうかもしれないわね。

    操体法を学んでいく魅力っていうのは、
    それはまず、橋本敬三先生の魅力とも言えるかもしれない。

    正解を言えばね。操体法の創始者、橋本敬三先生も実際のところ、
    「正体術」という治療法の手ほどきを受けてしばらく、操体法という名前すらない頃もあったの。
    その頃は、「逆モーション療法」とか「カックン療法」とか言われていたときもあるらしいわね。

    そのあと、橋本敬三先生がNHKに出演する際、紹介する名前をつけて欲しいと言われ、
    仕方なく?操体法と名前を付けたらしいというの。
    なんだかとっても、橋本先生らしいでしょう。このエピソードも私大好きなのよね。

    そうそう、初期の治療として応用していた正体術っていうのはね。
    簡単に言えば、身体の歪みを見てその歪んだことで発症している状況に合わせた楽の極限で、
    力を入れて息を吐いて、一気にスットンと重力に任せて矯正されるという治療法なのよ。

    でもねェスゴイのは・・・橋本敬三先生は、そこに橋本哲学を取り入れて未病医学に発展させているの。
    そして、TVやラジオで有名になった後、仙台の温古堂に患者で来る人、お客さんにね、

    「こんな簡単な原理になってんだから、ウソかホントかやってみなさいヨ」
    「あのね、身体はねェ、罰当てたくて当ているんじゃないのよ、親心(母心)なんですヨ」

    と始終本気で、般若身経(=身体のつかいかた)の解説をしているの。
    あら知らないの?もし知らなかったら参考に、DVD記録映像をご覧になって当時の雰囲気を感じるのもいいわね。

    そういえば本当に偉い人って、いくつになっても謙虚で子供に優しいでしょう。
    その記録映像にも、子供と操体法をお母さんと一緒に指導しているシーンがあるわね。
    本当に憎いくらい素敵なのよ。私、いつ見てもシビレちゃう。

    しかも、晩年に至って自らの著書の間違いさえ指摘しているのよ。

    「きもちのよさを聞きわければいいんだ」
    「回数も、たわめの間もすべて、気持ちの良さでいい」
    「気持ちよさで治るんだからな」
    自然治癒力っていうのは気持ちがいいってことなんだ」

    この事実って、親しいお弟子さんの前でたびたび発言していたんだから、
    知っている人は、知っているはず・・・なのよね。
    ただ、それを大切に受け継いだお弟子さんは、相当に苦労して学んでいるわよ。

    だからこそ、親しいお弟子さんには本気で励ましていたんだと思うの。

    「よくもマァ、こんなに難しいことに、おまえ達クビ突っ込んできたナ〜ありがとう、ありがとう」
    「でもネ、こんなに面白いことはないヨ、一生楽しめるんだから、コツコツ学びなさいヨ」
    「真理に適うことが自然法則なんだから、学べば学んだだけご褒美はもらえるんだヨ」

    橋本先生の語録って、一つ一つが本当に味わえる言葉なのよね。
    私みたいに自分が大好きで、励まされるのが大好きな人間にはたまらない人間賛歌なの。

    それも、シンプルに真理に適った生き方を教えてくれているんだから、橋本哲学は信仰になるのよ。
    ただし、信仰にすれば何でもいい訳じゃないわ。

    結局、自分の生き方にどれだけ自分が関わっているかなのよ。

    ホント真理って、比較することの性相を超えているの。

    あら!いまさら気付いちゃったけど、なんでオネエ言葉になっていたのかしら?
    まあいいわ、気持ちよかったからイイにして頂戴ネ。

    今日はこんなところで・・・ありがとうございました。

  • 『私にとって操体とは、巡る巡る空間と時間との螺旋』

    (偶然ではない操体との出会い)

    夢であっても記憶の一部なのだろうか。
    私の叔母は車椅子に座ったまま、六歳の私に言った。
    「大きくなったら、私のように自分で立てない人を、立てるようにしてあげる勉強をして、立派なお医者さんになってね」

    それから年は経過し、バブル景気の最中、ハウスメーカーに就職。
    法事があり親戚同士で集まった中、叔母は言った。
    「就職おめでとう、建築家になるのね。覚えていないでしょうけど、小さい頃、私の足を治せるお医者さんになるって言ったのよ」

    その言葉を記憶していた。
    記憶とは便利である。日々の生活に追われ忘れ去っていく。

    ある時、施工管理している建築現場にて事故は起きた。
    2×4工法の壁を支えた鉄柱ごとクレーンが傾き、その下にいた私は逃げ遅れ、数枚の壁ごと下敷きになる。
    それを見た職人は、私が死んだと思ったのだが、すぐに病院に運ばれて奇跡的に打撲で済んだ。
    とはいえ、打撲の疼くような痛みは、痛み止めと湿布ではなかなか消失しなかった。

    タイミングとは面白い。何かの必然性さえ感じる。

    母の管理する貸事務所は、数ヶ月前から接骨院になっていた。
    その怪我を診てもらったのだが、筋(スジ)を整え包帯を巻いてもらった。
    それを境に、急速に痛みは減弱した。
    感激した私は、柔道部に所属していた頃、怪我した先輩達は骨接ぎに通院、
    一時その職業に憧れたことを話すと、その先生は言った。

    「今からでも、遅くはないと思うよ」

    私のなかの“意識”に直接、何かをとおしてつながった。
    幼い頃の夢と叔母の言葉。柔道部時代の体験。就職してからの労災。
    そして、骨接ぎの先生の直向きな姿勢。そして内なる声。

    学生に戻った私は、その先生の薦めもあり、鍼灸按摩マッサージ指圧の専門学校へ入学、
    治療院を紹介して頂いて研修、ホテルや旅館での按摩でのアルバイトを通じ、
    学校の勉強と平行し”からだ”を学ぶことが出来た。

    研修も二年目になると“慰安行為”としての按摩に嫌気がさし、
    学校の図書室にある手技療法を片っ端から読んで、研修の合間に試していた。

    この時、いわさきちひろ氏の扉絵が印象的な、橋本敬三先生の著書と出会うことができた。
    そして、大きな一つの問題に気付く。

    いったい、医師ではない医療行為とは何か(註)
    自分の目指す医学って何の役割があるのだろう。症状疾患における臨床医学、器質変化のある病理学。
    そもそも人間は健康であればいい、病理学に臨床医学など自分の目指す医学に指針はない。

    そうか、予防医学なのか・・・。
    「未だ病まざるを治す」未病医学に繋がっているのか・・・。

    私の中ではもう一人の自分がつぶやく。
    「それでもおまえ自身、納得いかないんだろう?」

    そうなのだ。そこから先を知りたかったから・・・・自然法則の応用貢献を学ぶことになったのだ。

    私にとってあの現実は、本当の生き方に問いかけていたのだ。
    時間と空間の螺旋を紡いで目の前の現実になる、今ならわかる。
    私は有り難いことに、操体を学びながらをその大切さを理解しつつある。
    理解しつつあるというのは嬉しい困難でもあり、”普遍的な学びの道”となる。

    そして本気で操体を学ぶなら、「操体にイノチを捧げている」人間を知っておくことだ。

    橋本敬三先生の直弟子、三浦寛理事長からじっくり焦らず学んでみるといい。
    自然法則の応用貢献を実践し、橋本敬三先生の波動を感じさせる何かと繋がっている。
    私にとっては、未病医学と現代の医学をつなぐ架け橋になる”イノチについて”の学びそのもの。

    分類好きな鳥類学者を指し、ゲーテの語った言葉があるので最後に引用して締めくくろう。

    「彼らは特殊な鳥を見つけると、器用にさばいて得意がっている。
     しかし、自然は自由気ままに活動を続けており、
     人間のつくりあげた窮屈な分類など、気にすることもない」

    今日はこんなところで・・・ありがとうございます。

    (註):勘違いの多い『医業』と『医療』と『医療行為』と『医療類似行為』、
        医事法六法によれば、『医行為の一部的な解除』『広義の医療行為』として、
        国家資格により、鍼灸指圧師や柔道整復師を認定している。
        そのなかで『操体法』を法的に区分すれば『医療類似行為』に相当する。
        少々話を飛ばしてしまうが、この世では医師だった橋本敬三先生も、
        鍼や漢方を駆使した臨床時期があるらしい。
        しかし、同業者である医師には『操体法』を実践して欲しいと書いては推奨した。
        やがて反応が少ないので筆を断とうとした際、『医療人(=コメディカル)』や、
        『医療類似行為者(=整体師など)』や、『民間の要求』から有名になっている。
         私はこの流れでいえば、操体の広まり方とは実に理に適っていると感じている。
        

  • 『私にとって操体は〜先祖代々〜子々孫々〜』

    生まれてくるから、元々もっているもの。
    生まれてきてから、身につけていくもの。

    これは、勿論どちらも大切。
    ただ言えることは、人生とは迷っても当たり前。

    迷っているそのとき、目的を確めるコンパスがあること。
    地図を確かめて、方向を決めたなら楽しみも思う存分味わえる。

    この操体を学ぶたびに、不思議なことも、かみ砕いていけば理に適う。
    世の中の何故?どうしてそうなるのか・・・に答えていく学問こそ操体

    情報を鵜呑みにするのもいい、何回でも味わってみればいい。
    ただ、味わって気持ちいいのか、気持ち悪いのかそれは情報ではない。

    これを噛み砕きもしないまま、安直に選択してしまえばそれなりとなる。
    ここに、自然・不自然さを感じている意味を知る。

    元々生きていくために最も大事な、元々生まれつき備わっている生命力。
    それを感覚でいえば、原始感覚。

    これを錆びないように磨いていく。
    様々な素材を生かすため、根本的でまず”イロハのイ”となる素。
    それは、”操体”であり、生かすための臨床的応用こそ、”操体法”。

    ビフテキ(=ビーフステーキ)”の好きな人もビフテキだけでは生きていけない。
    スパイスも多くの種類を少しだけブレンドしてこそであり、単純な刺激では飽き飽きする。
    大いにある要求のうち、際限なくなるものには、執着しないこと。

    操体の本質はシンプル。
    でも言葉で説明できることのみで構成されていない。
    元々備わっている、”からだ”を通して、“感じること”で噛み砕いてみる。

    いくつであろうと、どこにいようと、
    あなたの代わりとなる、”からだ”は存在していない。
    あなたを応援している、”からだ”は寡黙であなたを裏切ることはない。
    そのために必要なことは、鵜呑みにしないこと。
    自分自身の原始感覚に静かに尋ね、聞きわけてみる。

    それは何かを感じること。

    自然の中に感動を味わい、小さなコトでも嬉しくなり、他愛ないことには悩まない。
    よく笑うことが出来なければ、笑顔を作る練習をすればよい。
    偽物でも、フリでもいい。
    本質的なものであれば、そのうち本物になるだろう。

    食事を栄養(カロリー分析)から捉えず、営養(礼儀・営み)として捉える。
    呼吸を吸うことが主と捉えず、吐くことを主として捉えて直す。
    動きなんて自分勝手で良いんだと捉えず、本来の無駄がない動かし方はあると捉える。
    考えること、思いを馳せること、言葉を発すること。
    ここにある美しさを感じて捉える。
    汚さに気が付いたらその時点で薄めていく努力は大きく変化を生じる。

    これを私は伝えて生きたい。

    美智子皇后陛下の言葉に、
    「幸せな子を育てるのではない。
     どんな境遇におかれても幸せになれる子を育てたい」とある。

    橋本敬三先生の語っていた、”母心”に通じる。
    親子を超えて何かを味わい、お互いの環境を愉しむ。
    そんな意識を感じて気持ちがいい。

    今日はこんなところで・・・ありがとうございます。

  • 『人間なんて寝ても一畳、立てば半畳・・・操体は無極無限!』

    お正月とは一月七日までという説もある。
    私は三ヶ日までと思っていたので、調べてみると「松の内」というのがあって、
    関東では大正月の七日まで、さらに関西では十五日まで小正月というらしい。

    それにしても、待ち望んでいた21世紀になり、はや十二年である。
    昨年のような自然の力に戸惑いながらも年を越せば、あと355日でお正月は来る。
    そう思えば、寒さに向かう自然の流れにも安堵できるかもしれない。
    私も含め、良き未来に進んでいることを確信しながら、日々感謝したいものである。

    一般的に言えば、「しあわせ」とは個人所有の感覚である。
    私の考えで言えば、個人的な感覚だけではない、森羅万象の大きな流れに伴う感覚にも感じている。

    ただし、操体を学んでいなければ、このような思考はしていないだろう。
    ”一般常識の枠には収まらない”学び。それが操体なのだから。

    だからこそ私にとって操体とは、ズバリ「イノチを学ぶこと」に繋がってしまう。
    もっと言えば、私たちを生かしているそのものに繋がってくるのだ。

    例えば、生まれた頃に意識を戻してみたい。
    そこには、親との出会いがある。

    いろいろなところへ連れて行ってもらったことを思い出す。
    初めての環境は新鮮であり、味わったことのない感覚をその都度経験している。

    初めての体験とは、「自分の中にあって一番遠くにある大切な記憶」に繋がっている。

    それは、自分だけの経験ではなく、産み育ててくれた根本の連なりでもあり、
    与えられた五感と同じように共有できる。自然法則を通じ味わえる私たちの財産となる。

    咲き誇る花は、散るときの未練や言い訳などしない。
    花は開く、咲いて散るから咲くのではなく、人に見てもらう為に咲くのでもない。
    本来は自然の造形物である人間も同じだ。

    生まれてくるまえは記憶がない。
    しかし、生まれてすぐあるものを大切にしていくことは、操体に繋がっていく。
     
    あの太閤秀吉も、
    「起きて半畳、寝て一畳、天下取っても二合半」と言葉を残しているのである。

    人間は、起きる寝る動作に半畳、就寝する時は一畳分の面積があれば十分に足りる。
    そして、一日二合半の飯があれば腹一杯になるのだから、それ以上を求めても、一人では消化不良を起こす、という意味がある。
    天下人となった秀吉は、黄金の茶室に客を招き豪華絢爛に過ごしていたと思うが、最後には上記の言葉を残しており、
    ここにも「足を知る」という意識を感じるだろう。

    意味のないことは人の設計にはない。
    例えばあなたの場合、寝ている時間をどのように捉えているのだろうか。
    私も寝ている時はほとんど記憶がなかった。(今は繋がってきた)
    寝ているときにもあるものを大切に学ぶことは、操体に繋がっているようだ。

    今日はこんなところで・・・ありがとうございます。