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  • 間に合っていればいい

    植物は縦に伸びる、欲が無い。
    動物は獲物を追って地を駆けずり回る。
    縦軸(聖)と横軸(俗)、人間には両方が必要だ。
    少なくとも、社会(娑婆)で生きて行くためには。
    縦と横のバランスが取れて球となる。
    これで丸く納まる。
    この球体の大きさが、人間の「器」ではないか?
    正格を知らずして、破格は無い。
    「間に合っていればいい」
    便利な言葉
    有難い言葉
    空間に響く言葉

    半蔵

  • マーラーの音楽

    操体は、橋本敬三先生が天才的な嗅覚で「野次馬根性」をもって集められたものを繋げた上で化学変化を起こしたものである。と捉えることが出来ると思う。
    マーラーの音楽を聴いていると、時々フッと操体を想う事がある。

    ―「小澤征爾さんと音楽について語る」小澤征爾×村上春樹―(新潮社)には、村上さんの興味深い言葉が散見する。

    247p. 村上:「マーラーは、ドイツ音楽の正統性みたいなところから、半ば意識的に、半ば潜在意識的に離れていった人ですよね。」

    219p. 村上:「(前略)マーラーの音楽に俗謡的なものが顔を見せたり、ユダヤ人の音楽が急に出て来たり、というのが納得できる様な気がするんです。シリアスな音楽性、耽美的な旋律の中に、そういうものが乱入者のように混じり込んで行く。そういう雑多性というのはマーラーの音楽の魅力の一つになっていますよね。(攻略)」

    250p. 村上:「(前略)マーラーの音楽にあっては、アンダーグラウンド的というか、地下の暗闇に潜っている意識の流れみたいなものが、積極的に取り上げられているように感じられます。そこには、矛盾するもの、対抗するもの、混じり合わないもの、峻別できないもの、そういういくつものモチーフが、まるで夢を見ている時のようにほとんど見境なく絡み合っている。(攻略)」

    お聴きになる機会があれば・・・・・私がどう感じとったか・・・・・イメージして頂けるだろうか・・・・・。

    マーラーは、「いずれ、私の時代がやって来る。」と語った。
    橋本敬三は、「俺のやっている事は60年先を行っている。いつか理解される時が来るだろう。」という言葉を遺した。

    それぞれ、ワン・アンド・オンリーの人である。

    半蔵

  • 「私にとっての操体〜その7〜」

    私は20歳と22歳の時にフランスのパリに行った事がある。
    その時はまだ日本国内ですらまともに行った事が無く、またフランス語も挨拶程度しか出来ない私にとっては一世一代のチャレンジであった。では何故パリなのかというと今でこそ笑い話になるが「ヨーロッパ建築案内」という本から「最初に見たいと思った建築物を見る」といった勢いに任せたのがきっかけであった。こんなきっかけではあったが下調べをしていくうちにフランスの歴史・文化の魅力に惹かれていき本の中の世界を生で見てみたい、知りたいといった気持ちが強くなった。そんな冒険者にも似た気持ちが私の不安や恐怖に打ち勝ち独りで行く事を決心させたのだが、当時の事を思い返してみるとこの時の気持ちは操体を学んでいる時の自分の心境にとても似ているのだ。
    「今日は何を学べるのか」
    「講義の後、自分がどう変わっているのか」
    「明日の自分はどう変わっているのか」
    といったワクワク、ドキドキする気持ちになり、何よりも操体を学んでいる自分に期待してしまうのである。操体は知れば知る程「知りたい」という思いがどんどん出てくるのだ。その思いは旅をしている時の気持ちとまるで一緒なのである。
    そういえば最近三浦先生と「生涯自分のやっている事を貫いた人達」について話を機会があった。私がそういった人達は「知りたい」という気持ちで自分のやっていることに対し取り組んでいるのではないだろうかと言った所、三浦先生は「それと好きだから出来るんだろうな」と言っていた。
    今年で操体を学び始め3、4年の月日が経過したのだがそういった気持ちは少しだがわかるようになった。そしてその中で生涯学び通す「覚悟」と「勇気」は出来た。今はまだ基盤を作っている段階なのでこれから学びを深めていく為にはもっと自分がやっていることに好きにならなければならないと思う。

    一週間ありがとうございました。

  • 「私にとっての操体〜その6〜」

    私にとって操体とは「10割打者を目指す学問」である。

    操体の臨床に限らず「マグレ当たり」というのは非常に怖いものである。
    運も時には必要だと思うのだが運頼みにしてしまう自分の意識は学びの中に身を置いている者にはあってはならないものである。
    私も心のどこかにそういった気持ちがあったのかもしれない。それは「結果オーライ」という気持ちである。しかし自分がやっている事に対してこのような気持ちが少しでもあるのは大変失礼である。「運も実力」と言われているが私は個人的にこの表現はあまり好きではない。物事には原因と結果があるように実力にはそれに見合った結果しか出ないものだと私は思う。もちろん「運」を全否定するわけではない。人は不可視なものと繋がっている以上そういった第三の力が働き「運」として結果に影響を及ぼすこともある。しかしそれに頼ってしまう人の「怠け心」が怖いのである。なので私は「運は自分の努力でたぐり寄せるもの」という姿勢でいる。

    そういえば洋服屋に勤めていた時に上司から言われた言葉がある
    「お客様が来るか、来ないかは運だと思うだろ?でも違うよ。運は自分で引き寄せるものではなく、掴むものなんだ。だからお店では待っているだけでは駄目だよ。自分達が出来る事を最大限、常にやっていなければいけないのだよ」
    当時を思い返してみると10万円買ってくれるお客様に当たるのも「運が良いから」で済ませていた自分がいた。今となってはその裏での努力があったからそういったお客様を接客出来るという捉え方になった。しかし私がまだ販売員でいたならこの考えで良かったのかもしれないが今は臨床家を目指しているので「運」という言葉は使いたくない。カラダを預かっている立場では「マグレ当たり」は許されるものではないのだ。もし医者が病気に対応出来る薬が分からなかったとして運に任せて渡した薬がたまたま効いた。こんな事は実際ないとは思うがそんな事があったら結果は良くてもその医者は罪である。運やたまたまが許される世界ではないからこそ操体の臨床では100発100的を目指す勉強をしているのだ。その為には膨大な時間と努力が必要であるが勉強しにきている人達はそれを惜しまない人達が集まって来ている。そういった「10割打者」を目指す人達と勉強していることは私にとってかけがえのない財産である。

  • 「私にとっての操体〜その5〜」

    私にとって操体とは「生涯楽しむ学び」である。

    つい先日、個人レッスンが終わり着替えて帰ろうとした時に三浦先生に呼び止められた。

    「さっきやっていた内旋の動きをもう一度やってみなさい」と言われたので
    私は先の個人レッスンで行っていた内旋の動きをそのまま表現したのだが三浦先生から待ったが掛かった。

    「肘が違う。肩甲骨をもっと上手く使いなさい」

    私からすればこの動きは今まで四年近くやってきた動きなので自信を持ってやっていたのだが三浦先生から見るとまだまだ改善する点があったようだ。
    それは度合いこそ違うが三浦先生が橋本敬三先生の下で学んでいた時に「患者には楽ではない。気持ちの良さだけを伝えなさい」と言われた時の気持ちに近いものであったと思う。
    私が今まで自分の体に何百、何千と覚えさせて来た動きに間違いはないと過信していたのは事実である。この言葉はそんな私に「体の動きはまだまだ奥が深い。過信せず、もっと勉強しなさい」というメッセージだったと思う。確かに体の動きというのは奥が深い。私が知らない動きであったり、使い方がまだまだ沢山ある。こういったQ&Aを繰り返すことが出来るのは学びの醍醐味である。人間の体は数学の方程式のように「こうすればああなる」という答えは導き出せない。常に現象であり形を変えていくものだから面白い。体の動きだけではなく、操体の哲学や理論も体型されてはいるが時代の流れや新しい気付きによってどんどん進化していく「生き物」である。だから生涯掛けて学ぶ価値は十分あるのだ。

  • 「私にとっての操体〜その4〜」

    私にとって操体とは「お天道様が見ている」という意識になるものである。
    これは「背筋を正す生き方」とも表現出来るのだが、最近私は毎日の生活の中で自分が行っている事が誰かに迷惑を掛けていないかを意識するようにしている。例えば仕事先に行く時に必ず出勤の五分前にお店に入るとかトイレを使うにしても次に使う人の事を考えて使うように心掛けている。特に遅刻というのは周りの人間を不快な気持ちにさせるだけでなく、人の時間をも奪ってしまうので注意するようにしている。こういった事は当たり前の事なのだが以外に意識していないと見落としてしまう事が多く、人に多大な迷惑を掛けてしまうことになる。一体、今どれだけの人がこういった「当たり前」を普通に出来ているかは分からないが、私自身も操体を学んでいなければこのような意識を持たずにただの「無法者」になっていたと思う。
    私がこういった事に目を向けれるようになったのも三浦先生やその周囲の人達の生きる姿勢を見る事が出来たからである。講習を行っている場は常に周りの人達に目配り・気配りがされた環境になっている。トイレは常にきれいな状態が保たれていて、黒板等も受講生が見やすいように雑巾掛けがされている。こういったことが当たり前の習慣として出来ているのも空から橋本先生が常に操体を学んでいる人達を温かな眼差しで見ているからだと思う。なので私生活に置いても見られているという意識で生活する事が出来、下手な事は出来ないのである。恐らく三浦先生の講義を受講された方達は操体を学ぶ前と後ではそういった意識が変わっているはずであり、このような人間性を育んでいけるのも操体の魅力の一つである。
    いつも「当たり前」のように一緒にいる家族や友人、職場にいる人達からこういった心遣いが出来るか私達は常に試されているのだと思う。それはいつか自分の通信簿となり返ってくるものなので、いつも「見られている」という意識で生活していかなければならないのである。

  • 「私にとっての操体〜その3〜」

    先日私である先輩の中谷さんと埼玉県入間市の健康福祉センターで操体を行ってきた。ここでは毎年人々の健康増進を目的としたお祭りを行うらしく、私達操体の臨床家だけでなく整体師や気功をしている方等、健康に携わる人達がボランティアで集まっていた。私自身こういった場は初めてだったのでこのようなイベントを行っている事自体知らなかったのだが、想像以上に人々の健康に対する関心度が高い事に驚いた。

    ここで操体を行う目的は「体がどのように変わるのか」「一人でも出来る体のメンテナンスの指導」であった。私は気持ちの良さを味わってもらうことで施術前と施術後に触診をした箇所がどのように変化したかを体験してもらうように心掛けた。また興味がある人には歩き方の指導も行うようにした。

    施術を行いながら横で行っていた中谷さんの施術を見ていたのだが自分との違いは明らかにあった。大抵の人は体の動きを知らないので正しい体の動きが出来ない。その分施術者の指導力が必要とされるのだが私の場合はなかなかイメージした通りの動診が通せない。それは操体で得たものを自分の物に出来ていないからである。しかし中谷さんの臨床は操体で得たものを自分の言葉を使い、どんな人にでも正しい体の動きに導けるシンプルで分かりやすい問いかけを行っている。これを見ているだけでも中谷さんが如何に操体と真摯に向かい合っているかが分かる。こういった姿勢は私のような若い臨床家は見習わなければならない。

    そういった事を勉強しながら私も自分なりに身につけてきたスキルで15〜20人位の体を診させて頂いた。100点の臨床とはいかないが患者の体の要求に応えられたと思う。そして終盤になり、またあるサプライズがあった。周りのお店の客足が遠のく中、私達の所に年配の方達中心に人の波が押し寄せたのだ。
    「ここは気持ちが良いと評判だったから来たの。今からでもうけられる?」
    周囲の口コミを聞いた人達がうけにきて下さったのだ。
    私達は周りの会場が撤収作業に入る中、それでも残ってくれている人達を最後まで診る事で笑顔にすることが出来たと思う。
    臨床家として患者の笑顔を見る事が最高の喜びである事も知る事が出来たのだ。

    操体は人を笑顔にする事が出来る。笑顔にするという事は心と体が喜んでいるという事である。そういった「操体の力」を改めて知る事が出来た一日であった。
    中谷さん、途中から手伝って下さった岡村さん本当にありがとうございました。

  • 「私にとっての操体〜その2〜

    今年になってから私の生活のサイクルが少し変わってきた。
    週に4回程、操体を学びに来ている方達のアシスタントとして三軒茶屋に通い、夜から朝まではアルバイトをするといったサイクルになり、空いた時間を使ってこのブログを書いたり本を読んだりする生活をしている。私にもいくつかの趣味があるが今はそれに目を向けないようにしている。それは後々いくらでも出来るので、今は操体を学び繋がっている時間に意識を向けている。週に2回は寝ない日があるので時にはどうしようもない睡魔に襲われる事もあるがこの時間こそが気の知れた友とお酒を飲むより、女の子とデートすることよりも自分が自分らしくいれる大切な時間なのである。

    私にとって操体とは「自分が自分らしく最高にカッコイイ自分」になれるものである。人間誰もが自分が輝くステージがあり、役者であれば舞台に上がった時、野球選手であればグラウンドに立った時等、それぞれのやっている事に対しスポットライトが当たる瞬間があると思う。わたしにとって操体がその瞬間なのである。ということは操体と出会った時から私にはスポットライトがずっと当たっているのだ(笑)
    そして私がカッコイイ自分である為に努力しているのは常に異性を意識しているのも事実である。特に振り向かせたい異性がいるのではなく、何年経っても女性にとって魅力のある男でいたいからだ。そういった意識がないと仕事や学びを続けるモチベーションは保てないし、やる事がなくなる時も増える。私は常に「やることがある」もしくは「やりたいことがある」という人生は最高に豊かでカッコイイ人生であると思うので操体を学ぶことで何時いかなるときも「自分にはやることがある」という意識で生活していく事が出来る。そしてこの学びを得ることで私が私らしく最高にカッコイイ自分になれるのを実感している。
    最後に昨日で東日本大震災から一年の時が経過した。各地で黙とうが捧げられ、TVや各報道機関は地震が残した爪跡を鮮明に伝えていた。私は普段はあまりTVや新聞を見ないのだが、この日は震災のある記事が気になったので朝日新聞を購入し目を通した。この気になる記事とは一面で掲載されている「忘れないために」という記事で、書かれていた被災者の「私たちのことを忘れないでくださいね」という文がどうしても気になったのだ。この文を目にしながら、あの出来事を少しでも「他人事にしていないか?」という自分への問いかけがあった。震災以降あの出来事を一度も忘れたことはないが過去の出来事として見ていた自分がいたのは認めなければならない。しかしこの記事を見た事で今一度自分のやっている事を見つめ直し、人との「絆」、そして自分との「絆」、操体との「絆」を深めていかなければならないという気持ちになれたのだ。そして被災地と被災者の事を忘れずに日々の学びを深めていこうと思う。

  • 「私にとっての操体〜その1〜

    今週から1週間担当する三浦寛幸です。宜しくお願いします。

    私にとっての操体とは
    「カラダを知り、心を知り、自然を知る。
     そこから自分を見いだし、己を知り、真理に触れる」
    こういった事を学べる学問である。

    カラダの使い方、心の在り方にしても学校の授業で教えてくれれば皆が健康でハッピーな人生を送れているはずなのだが、しかし学校にはそういった教育は無い。現在の学校とは社会を生き抜く為の一般常識や友達を作る場であり、自分を知る場ではないような気がする。カラダの使い方にしても心の在り方にしても若いうちから知っていれば自殺者増加等の現代社会が抱える問題は軽減出来たのだと思う。操体ではそのような学校では学ぶことが出来なかった体の使い方や心の在り方を学ぶ事が出来る。その点、20代の内に操体を学ぶ機会に恵まれた私はとても幸せである。
    私の意識は180°変わった。「当たり前」が「有難い」という意識に変われたのである。

    「呼吸が出来る、食する事が出来る、カラダを動かせる」

    こういった日常生活の中で「当たり前」に行っている生命活動を一体どれだけの人が正しく感謝しながら行っているのか?恐らく大抵はこういった事自体に目を向けずに生活しているだろう。私は操体と出会いによって「自分の命が生かされている」事に気付き、当たり前に出来ている事に感謝する事が出来るようになったのである。

    そういえば昔よく親から食事の時に「頂きます」「ごちそうさま」を言いなさいと何回も叱られたのを覚えている。命あるもの頂戴しているのでこういった感謝の言葉を口にしないのは罰あたりである。今ではこういった感謝の言葉を無意識に言えるようになったのだが、よく考えてみると私の命は幾つもの命の上で成り立っている。もしかすると昔食した牛肉一切れがなかったらこの命がなかったかもしれない。このように考えるとこの地球上に無駄な命など一つもないのである。私達は命あるものを頂戴しているので決して己の力だけでは生きている等と思ってはならない。人は自然に生かされているのである。
    こういった意識の変化によって私は自分の生き方を変える事が出来た。今までは自分勝手な生き方をしていたのが命を愛する生き方に変わったのである。そしてこれからは学んだ「愛」を他の命に還元していくことが私の使命だと思う。そのためにも日々「愛と調和」をテーマに学びを深めていきたい。

  • 自分ごとの人生は旅である

    この一日の、この時間と瞬間を新しいはじまりの自分と自分自身にかえていくと、それは人生の最後の一瞬であっても新しいはじまりにかえていく。つねにこの命は、自我や、この肉体とは無関係である。多くの人達は、この命を平気で自分の命と言うが、しかし、自分の命など、けして所有などしてはいないのだ。それは存在の自分しか知らない人間が言うことである。

    自分ごとの人生は旅である。この旅はすべてが魂旅である。空間の意識、自在と存在の空間にすぎない。自分自身とは、この世とあの世の世界が我が家である。つまり永遠という我が家である。
    人生について、哲学的になること、それは大いなる豊かさである。どんなに、ひどい状況になっても、自分がそうさせない限り、影響されない。

    「けして望まないものを手にしてはならない」という言葉がよぎった。望まないものを手にすると自分がみえなくなる。本当の自分がみえなくなる。本当の自身を失ってしまう。しかし、人間は望まないものを、好んで手にしていないだろうか。つまり、あの世にもって行けないものだ。