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  • 4日目

    日本の身体 内田樹 (新潮社)

    日本の身体

    日本の身体

    合気道家 多田宏先生との対談に、特に興味を持ちました。多田先生の言葉が素晴らしい。

    『・・・日本武道の歴史というものが、植芝盛平という名人のところで、一つの結論を出したのです。・・・「対峙を超越し、相手を制する」・・・西洋のスポーツは、ルールの下での勝敗であり、上位にあるキリスト教が方向を修正してくれますから。・・・安らぎは教会や聖書によってのみ得ることができる。スポーツはそういう無言の条件の下で行われる、身体運動なんです。・・・』

    これは、スポーツのみならず、政治・経済・社会にも当てはまる事ではないでしょうか。

    日本人には、根っ子のところで馴染めない訳ですね。

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    「2014年秋季東京操体フォーラム」 開催決定

    今回は11月22日(土)23日(日)の二日間開催いたします。
    メインテーマは「操体進化論」です。

    特に、22日は場所の都合上、人数が限られておりますので
    ご参加希望の場合はお早めにお申し込み下さい。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?p=813

  • 3日目

    日本人に「宗教」は要らない
    ネルケ無方(ベスト新書)

    曹洞宗の開祖である道元禅師は、「坐禅だけでなく、日常生活も大事である」と説かれました。日々の一挙手一投足に「仏性」が宿るとされたのです。料理や掃除の作法からトイレの使い方まで、生きていく上での「実践」に重きを置いています。
    この日常生活の実践を、身をもって行っているのが日本人です。道元禅師が大切にされた日々の生活(仕事や家事)を黙々とこなし、人とのつながりを大切にし、自然と共生する生き方を無意識に実践しているのです。』

    これが日本人が書いたものであるとしたら、どこかで読んだことがある様なコピー感があるが、ドイツ生まれのキリスト教徒の方がちゃんと日本の禅を修行されて、安泰寺という実践の場で生活しながら出て来た言葉として書かれたという事に意義がある。

    やっぱりそうなんだ。安心しました。ありがとうございます。

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    「2014年秋季東京操体フォーラム」 開催決定

    今回は11月22日(土)23日(日)の二日間開催いたします。
    メインテーマは「操体進化論」です。

    特に、22日は場所の都合上、人数が限られておりますので
    ご参加希望の場合はお早めにお申し込み下さい。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?p=813

  • 2日目

    親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと
    山田 太一(PHP新書

    『なんであんなにみんな大目に見てくれていたのか、不思議な気もしますが、そのお蔭で、自分で自分のいたらなさに気づき、時間をかけてそれを正したりする余裕が持てたのだと思います。頭ごなしに叱られてばかりいたら、自分できり拓いて行くというような気持ちにならなかったろうと思う。ですから、ぼくは若い人に対してできるだけ大目に見なければいけない、と思っています。(中略)暗闇で育つ、という部分が人間にはあるのではないでしょうか。親の目の届かない暗闇をなくしてしまったら育たなくなる。』

    『ぼくを含めて親というものは、子供に対して過剰な心配と見当違いの心配をするようです。無駄な心配ということですか、そういう心配を随分たくさんして来たというふうに思います。でもその無駄な心配を親がしなかったら、きっと子供に伝わるものが違ってくるような気がします。子供は親が勘違いの心配をしたり、過剰な心配をしたりすることで安らいでいるんだろうな、と思う。ま、子供にとっては意識の上では迷惑なことでしょうけれど。』

    親や指導者になって、人を育ててみなければ、受けた御恩の深さと自分が継承したものの真の意味は、分からないのでしょうね。

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    速報「2014年秋季東京操体フォーラム」 開催日決定

    今回は11月22日(土)23日(日)の二日間開催いたします。
    メインテーマは「操体進化論」です。

    特に、22日は場所の都合上、人数が限られておりますので
    ご参加希望の場合はお早めにお申し込み下さい。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?p=813

  • 1日目

    最近の読書より

    「自分」の壁 養老 孟司(新潮新書

    「自分」の壁 (新潮新書)

    「自分」の壁 (新潮新書)

    『どうも居心地が悪い。世の中にはまっていない。そんな気持ちをずっと持っていました。世間というものはすでにある。でも、自分は世間というメンバー制クラブのメンバーシップを持っていない。(中略)すんなり馴染めないからこそ、私は世間を関心の対象としてきました。』

    養老先生は、幼稚園のころから今まで、この様な感覚で生きて来られたそうです。
    実は、私も同様な感覚なのです。

    『「個性を伸ばせ」「自己を確立せよ」といった教育は、若い人に無理を要求してきただけなのではないでしょうか。身の丈に合わないことを強いているのですから、結果が良くなるはずもありません。それよりは世間と折り合うことの大切さを教えたほうが、はるかにましではないでしょうか。』

    仰るとおりだと思います。

  • 「操体からのメッセージ」

    本当の当たり前(アタリマエ)とは一体何なのだろうか?

    よくよく考えてみて、自分が「当たり前」としていたことは「アタリマエ」ではないように思う。

    電車がある、それが時間通りに来る。家の近くにコンビ二がある。生活に必要なものが当然のように店頭には揃っている。

    このような暮らしの中の「当たり前」の水準が高ければ高いほど、なかった時の不便さ、ストレスは大きくなる。

    自分が置かれている環境によって暮らしの価値観は様々だと思うが、都会の真ん中で暮らしていると本来の自分の感覚を鈍らせてしまっているように感じる。

    こういった暮らしの中の「当たり前」は人間界の「当たり前」であって、地球やイノチのアタリマエではない。
    生物や自然界、地球という単位を一つの家で見ていくと、その同居人からすれば私達が普段行っていることは異常に見えるだろう。

    例えば同居人である動物達ははその日の食料を何時間、何十時間費やして取りにいく。次のイノチを作るのに性行為をする。それも一人のオスが何人ものメスを相手に行うケースもある。中には自分のイノチを次のイノチの肥やしにする。
    これを人間の社会で行うのは人間の価値観からすればこういったことが異常に見えてしまう。

    しかし地球で生きている同居人はアタリマエのようにこういったことを行っている。
    地球からみれば「同じ価値のイノチ」が行っていることが正常と異常に分かれてしまうことが不思議でならない。

    もちろん人間には人間の命の営みがあるが、人間は自分達が作ったルールに縛られすぎているように思う。

    その「縛り」が人間の暮らしにおける価値観をおかしくしてしまっているのではないだろうか?

    人の思考が人間の「当たり前」を勝手に作り、それを共通意識で「法」としてきた。

    もちろん、それが人間に必要なことであった為で、法がなければ人間の欲は暴走し、秩序はなくなり、地球はただの無法地帯となる。ただ、法の縛りは人間の思考を反発するように働かせようとしている。縛りがあればあるほど人の意識はその世界を縮小させていく。

    だが、そのベクトルを地球、自然界に向ければ人間の「当たり前」は当たり前でなくなり、自然界と調和した「アタリマエ」が産まれてくるのではないだろうか?

    つまり現在のように情報で溢れている今だからこそ発想の転換が必要なのだと言いたい。

    それは生きるということ、また臨床でも同じことである。

    今まで自分達が培ってきたことが「当たり前」でなくなる時代がきているように思う。

    一週間、自分の一人事にお付き合い頂きありがとうございました。来週からは半蔵さんです。お愉しみに。

  • 「カラダからのメッセージ」

    前回のブログでも「感覚」について書かせて頂いたが、これを原究していくと「発声」にも快・不快があるということがわかった。

    例えば人は誰かと喋りたい時、喋りたくない時があると思うのだが、それは心や気分だけではなく、カラダの要求感覚がそのような現象を引き起こしていることもある。

    七月に行われた「操体マンダラ」では「アイウエオ」を発声しながらカラダの構造(つくり)を操り、感覚を聞き分けるということを試みたのだが、それらを通じて人間の五感にはそれぞれ感覚が聞き分けられ、カラダとも深く相関しているということが理解出来た。

    やはり操体は「感覚」を重視している以上はカラダと相関している全てのものに目を向け活かしていかなければならない。特に目には見えないものを活かすことはとても大切でカラダの内、外に在るもの使い方が操体の学びにはある。それを快のベクトルに導いていくことが操体の臨生なのだと思う。

    こういった気づきの中で「表情とカラダの相関性」ということに着目し、その相関性を検証してみた。

    今までの『表情とカラダ』の捉え方からすればカラダの圧痛から表情がリアクションする捉え方であったが、ここで書いているのはその逆の捉え方になる。

    人間の感情には主に「喜ぶ・笑う・悲しむ・怒る・憎む・迷う・苦しむ」がある。
    こういった心の変化を忠実に表わしているのが顔、表情なのだが、以下はその感情がカラダのどの部位にヒビキとして影響しているのか、自身のカラダを通して体感した結果である。

    喜ぶ→手の小指
    笑う→足首の内果
    悲しむ→みぞおち
    怒る→手の親指、足首の外果
    憎む→おへそ
    迷う→肩甲骨
    苦しむ→頚椎7番
    (以上のことは私自身で体感した感覚的なことになります)

    という具合に人間の感情とカラダは綿密な関係性にあるものだと私は思っている。

    このようにヒビキのある部位は臨床で診ている箇所が多い。少なからず心のこういった動きは人体に何らかの影響を及ぼしているように思える。

    また最近は『舌』にも注目している。

    人体で最も感覚の聞き分けが優れている舌をどうにか生かすことが出来ないかと検証しているのだが、どうやら舌も目線ほど万能ではないが、カラダの構造を操ること、また感覚を聞き分けることにおいて何らかの相関性がある。
    その具体的なことはまた次のブログに書こうと思う。

  • 「両親からのメッセージ」

    振り返ると子供の頃に両親から操体を学ぶ上で必要な作法をすでに教わっていたような気がする。

    例えば『肘をついて食べるな』、『踵から踏み込むな』と口を酸っぱくして言われていたことを鮮明に覚えている。祖父にしても、父にしても幼い頃からとても厳しかったが「しつけ」に関しては超一流だったと思う。なぜならば1つ1つのコトバに説得力と愛情があったからだ。

    厳しさの中に温かさと強さがあり、何よりも私達の将来を考えていてくれたのだとこの歳になって、ようやくわかるようになった。

    それを100%自分の生活の中で遂行しきれているかはわからないが、いつも自分の細胞の中には両親のコトバは生きている。

    そういった親からのしつけを受けてきた中で育んできたことはいずれ「生きる作法」、そして操体の学びにおける大きな糧となった。

    その私から見て、最近の親のしつけは少し甘いように見える。そもそも「マナー」という点で親が子供の手本になれていないように思う。

    身近なことで例に挙げると飲食店等で彼らを見ていても、見本になるべき親が肘をついて食べていたり、喋りながら食べていたりする。またコーヒーショップでも自分が使った後のことを考えずに使う大人が多い。

    それは端から見ていても決して気持ちが良いものではない。

    生きる作法とは第3者から見ても、気持ちが良いものでなくてはならない。

    本当に些細な事なのだが、子供の時に受けてきたしつけがこういった何気ない日常生活の場にも大きく反映される。

    そういった点において私が親から教わってきたことは現在操体を学んでいるということにおいて、その基盤を作ってくれていた。
    操体で学んでいることは臨床の技術だけではなく、「生き方」そのものなのである。

    こういったことがわかってくると生き方というのは自分だけではなく、子供に対しての責任にもなってくる。

    いずれ私も人の親になると思うが、父のように強く、母のように優しい「しつけ」の出来る人間にならなければいけないと思う。

  • 「ブラックジャックからのメッセージ2」

    ・命の対価

    昨日の続きになるが、ブラックジャックのコトバで「人間の命を預かる医者が大金を貰って何が悪い」という有名な台詞がある。

    この台詞から手塚治は私達にやっていることの「プライド」と人間に対しての「イノチの価値」を問いかけているように感じる。

    これは医者だけでなく全ての人間に言えることで自分が取り組んできたこと、やっていること、そして自分のイノチに対して価値を付けることの重要性を言っている。

    例えば絵画一つ例に挙げてみても、作品の値段には書いた人間の費やした時間、お金、労力、情熱といった自分が作品に費やしたイノチの値、そして付加価値が含まれている。
    もし本当に自分が欲しい、必要だというヒビキが作品にあるのなら、付けられた値段に対し付加価値を理解して支払うことが作品を作った人への敬意になる。

    それは医療に関しても同様のことが言えて、ブラックジャックが世間的に高いといわれる値段を請求するのは患者に対し「自分の命の値段」と「生きる意志」を問いかけているのだと思う。

    このような捉え方をすると「治療」に対しての対価は決して高いと思わないことが治る最良の薬ということになる。それが自分で壊したカラダに対しての責任であり、自分のイノチの努めではないだろうか。

    手塚治の作品には人間はもっと自分の命の価値を認識するべきというメッセージがあり、自分も含めて己の命に対して自己責任を全うしていかなければならないと強く思う。

    それにはまず生活に追われないこと。そして自分で見ている価値観を生活ではなく、イノチというステージで価値観を構築していくことが大切なのだと思う。
    確かに「美味しいものを食べたい」「良い家に暮らしたい」という要求は誰にでもある。
    しかしそういった暮らしの価値観は現象的なものであり、絶対的なものではない。現象の価値は追求していけばいくほど、新しいものを求めてしまいきりがないのである。

    物で満ちた現在だからこそ本当の人間が持たなければならない本当の価値観を手塚治や橋本先生はメッセージに残されている。

    最後になるが、手塚治と自然法則との相関性という観点でこの本を読んでいった時に面白い台詞があった。
    それはブラックジャックの恩師である本間丈太郎が死ぬ間際に
    人間が生き物の生き死にを自由にしようなんておこがましいと思わんかね
    という台詞である。
    これを私なりに解釈すると人間が人間らしく自然の法則に乗っ取り生きていれば医者は必要に無いのだよ、ということで、「自然界と仲良くしなさい」という手塚治、または橋本先生からのメッセージのように聞こえる。

  • 「ブラックジャックからのメッセージ1」

    〜手塚治と橋本敬三という医師〜

    最近、手塚治の「ブラックジャック」を読み直している。

    当時、この漫画の印象は「高額な手術費を取る医者」というイメージだけが残っていたのだが、現在は自分も彼と同じ「人のカラダを診させて頂く」立場、また操体を学んでいる者として読み直していくと、とても共感出来ること、学ぶべきことがある。

    何度も読み返しているうちに、この手塚治の世界観はどこか橋本先生の哲学に似ているような気がしてならない。

    手塚治は医学博士だったこと、そして橋本先生と時代が重なっていることは決して偶然でない気がする。もしかするとこの2人は接点があったのではないかと思える位に共通の哲学に共通点がある。

    その一つに「因果応報」という共通したキーワードがある。
    特にブラックジャックという医者は人間の因果応報の世界を忠実に表現している。

    例えばブラックジャックが設けている「治療費」はお金がある人からはフンダンに取る、またお金が無い貧しい人達からはタダのような金額で治療をする。
    それは自らの行いで、その報いは皆同じなのだということ、また命の対価も皆平等なのだという手塚治のメッセージがそこにはある。
    橋本先生もまた「救いと報い」という表現で「この世は因果応報の世界」、つまりこの世に産まれてきている限りはもともと救われていて、報いを避けることは出来ないと説かれている。

    この2人が共通して言われていることはそれだけではない。カラダ、生命の捉え方も類似している。

    ブラックジャックを読んだことがある人なら見たことがあると思うが、彼が幼少時に本間丈太郎にオペをしてもらった時の話で手術中メスをブラックジャックのお腹の中に入れたままにしてしまうという話しがある。

    そのメスは七年後に再びオペをする時に取り出され、カルシウムによって包まれていたという信じられないような(漫画なので実際はどうなるか分からないが…)話しなのだが、ここで手塚治が言いたかったのは「人体の神秘」なのだと思う。

    人のカラダは時として私達が考えられないような奇跡(治癒力)を起こす。

    それは決して偶然の産物ではない。医学的にある程度の事は解明され、カラダのことは薬や時に手術という行為で病気や怪我は治せる時代になったが、時として知識や計算では治すことが出来ないこともある。カラダには人智を超えた、何か神架かった力が働き治しをつけることがあり、自らが傷ついた、傷つく可能性を未然に防ぐ防衛本能と人間が関与出来ない治癒力があるだと説いているように思える。

    橋本先生が「治すことまで関与するな」「治すことはカラダに任せればよい」と言われるのも人間のカラダに在る「神性」を悟られていたからであり、「カラダは神様からの借りものなのだから、医者が、施術者がそこまで頑張らんでもよい」と言っているように感じる。

    今日は長くなりそうのでこれ位で。また明日も引き続きブラックジャックのことを書いていきます。

    ブラック・ジャック (1) (少年チャンピオン・コミックス)

    ブラック・ジャック (1) (少年チャンピオン・コミックス)

  • 「橋本先生からのメッセージ」

    三浦先生・畠山先生・今先生の著書である「操体法 生かされし救いの生命観」での橋本先生のコトバの中にこういったメッセージがある。

    操体法 生かされし救いの生命観

    操体法 生かされし救いの生命観

    「高みとは東西南北の中心点 それは横たわる十字架である。
    空をきる手刀は線をえがき 一時の通過となる
    痛みに言葉を与えよ 繋げ連鎖させよ
    輪をえがき空を舞え
    己を捧げ捨てて 己の慈しみ それにより
    生まれたこころを真とする これを愛という」

    改めて現在の自分がこのコトバと向き合うと以前とは明らかに違うヒビキがある。

    それはこれまでの学びの中で感覚的に掴んでいたことを
    言語化しきれなかった私に橋本先生がコトバとして示して下さっているように感じる。

    痛みにイノチが宿すコトバとは「ヒビキ」であり、その命には波動が生まれる。それはやがて螺旋状の回転の渦が生じ、「快」へと変化し、カラダに悦なるヒビキを与える。

    名も無いイノチには悲しみが産まれるように名も無い「痛み」は「不快」にしかならない。
    痛みが快に変化する名こそが「ヒビキ」であり、そのヒビキはやがてカラダを介し、心と調和する。

    そこから産まれた心こそが自分自身への「愛」なのだと思う。

    橋本先生がここで書かれていたコトバの真意はまだ掴めない。

    しかし橋本先生は私達に無限の可能性、テーマを与えてくださった。

    現在の操体は一昔のものと比べてかなり進化してきているが、その進化も過程の一つに過ぎない。私達が自然法則を応用貢献していく限り、この進化は決して終わることはない。

    しかしそれはルールがあってこその進化になる。つまり好き勝手な進化の先には『真の真理』は存在しないということであり、やはり操体を学ぶ人間は橋本先生が示して下さった自然法則のルールの下で進化していかなければならない。

    こういった橋本が私達に示して下さったコトバにはヒトが生きるということの本当の「真理」があるように思う。また臨床家へのメッセージも隠されている。私たち操体の臨床家は橋本のメッセージ対し反応していかなければならない。それには自分が学びの中で掴んだこと、分かったことをそのままにしないことが重要である。

    「わかった先にあるわからないこと」に目を向けなければならないのである。